第4話 こんなの聞いてないっ!!
ふかふかのベッド、身体を優しく包み込む肌触りの良い布団、寝返りを打てば、枕から漂う優しい花の香りがスフィアの鼻腔をくすぐる。
カーテンが開かれる音と共に瞼が眩しくなる。
「朝だよ、マイ・リトル・スウィーティ――――」
少し低目の品のある声が耳元にかかると一緒に、スフィアのこめかみ辺りに唇が落ちた。
まだ覚醒しきれないスフィアは、「んぅ……」と寝ぼけて宙に手を伸ばす。
そして伸ばした手が何かに当たったと思った瞬間、彼女は一気に覚醒する事となった。
「まだ夢の中かい? スウィーティ」
突然、伸ばしていた腕を引っ張られた。そして抱きかかえられる様にしてベッドから強引に引き起こされる。
スフィアはただでさえ大きい瞳を、これ以上ない位に見開いた。
「はは! そんなに開けてちゃ、君の両目のエメラルドが
「…………お、はようございます……ジークハルト兄様」
まだも目をぱちくりとさせているスフィアに、ジークハルトはとても綺麗な笑顔で「はい、おはよう」と返した。
◆
「兄様……以前も言いましたけど、あの様な起こし方はちょっと……少し控えて欲しいんですが……」
朝食のトマトをフォークでつつきながら、スフィアが照れたように頬を赤くし憤慨する。しかし、それに対してジークハルトは、あははと楽しそうに笑うだけだ。
「優しい兄が、お寝坊さんな妹を起こす事の何がいけないんだい?」
ジークハルトは分厚いベーコンに丁寧にナイフを入れ、綺麗に口の中に収める。その仕草一つとっても彼の振る舞いはとても優雅でスフィアは思わず見とれてしまう。
父に似た銀の髪と、自分と同じエメラルドの瞳。均整の取れた顔と、引き締まった細身の体躯。まさに、貴族になる為に生まれてきたと言っても過言ではない。
口に運ぶ途中だった卵がベチャッと皿の上に落ちた醜い音で、スフィアは慌てて我に返る。
「お、起こして下さるのはありがとうございます! ただ、起こし方に問題があると言っているんです! 私ももうそんな歳じゃありませんから……」
「そんな歳って……ははっ! 君はまだ六歳じゃないか!」
ジークハルトは腹を抱え、眉を下げておかしそうに笑う。
――いいえ、お兄様。残念ながら貴方の妹の中身は成人済みです。いい歳してます。ご愁傷様です。
「大人ぶるには一桁足りないよ、スウィーティ。……全く可愛いなあ」
そう言ってジークハルトは向かいから手を伸ばし、スフィアの口元に付いた卵を指で拭うと、ごく自然な流れでその指を自身の口へと運んだ。
あまりの事にスフィアの動きも止まる。
するとスフィアの視線に気付いたジークハルトは、彼女に極上の微笑を返した。
「これは、美味しいスクランブルエッグだね」
「――ッ!? は、早くしないと学院に遅れますよっ!」
スフィアは頭を押さえ、疲れたように溜め息をついた。
ジークハルトは壁際の大時計に目を向ける。時計はあと数分で家を出る時間になるところだった。
ジークハルトは慌てて残りを口の中に入れると、自室へと駆けて行った。もちろん、スフィアに「行ってくるね、スウィーティ」と声を掛ける事を忘れずに。
「……デロ甘過ぎじゃない?」
スフィアは止まっていた手を再び動かし、残りの朝食を静かに味わった。
◆
十も歳の離れた兄、ジークハルト。
歳の離れた妹は余程可愛いのか、赤ん坊の頃からよく面倒を見てくれていた。
侯爵家であるレイランド家は、領地領民の視察や管理が仕事となる。その為、父のローレイは家に居る事が多くはない。母のレミシーもよく他の貴族のお茶会に呼ばれていたりする。貴族ならではの付き合いというやつらしい。
その為、専ら遊びの相手というのが、メイドか執事か兄のジークハルトだった。
最初は彼のこの愛情表現が庇護欲から来るものだと思っていたが、最近は分からなくなってきた。
歳を重ねるにつれ――と言ってもまだ六歳だが――ジークハルトのスフィアへの可愛がりようは、年々頭を抱えたくなる程熱烈になってきている。
初めは挨拶代わりの頬へのキスくらいだったのが、今では今朝のように寝室に押しかけ、キスを落として抱き起こすという、眠り姫も真っ青な強行策を実行してくる。
「愛が重すぎるわ……」
スフィアは絵本を捲りながら、頭を抱えた。
彼女は今テラスにいた。
木々に囲まれた屋敷裏のテラスは静かに過ごすには格好の場所だ。
木陰の落ちるテーブルの上には、美味しそうな苺ジャムのクッキーが花柄の皿に並べてある。スフィアはクッキーを一つ手に取り口に放り込む。
「スフィア様、紅茶のおかわりはいかがですか?」
老執事のセバストがポットを手に、身を屈めスフィアに声を掛ける。
「ありがとうございます、セバストさん。いただきます」
セバストは空になったカップに静かに紅茶を注いでゆく。
紅茶の赤い
スフィアは注ぎたてでまだ湯気の立つ紅茶に、そっと口を付ける。そして一息つく。
「――ねぇ、セバストさん。ジークハルト兄様って、誰にでもあんな感じなんですか?」
「あんな感じ……と言われますと?」
セバストの白い頭が傾ぎ、眼鏡から下がる銀のチェーンが涼やかな音を奏でる。
「無闇にキスしたり、ハグしたり、愛称で呼んだり……兄様って博愛主義者でした?」
読んでいた絵本をテーブルに伏せ、スフィアは口をへの字に曲げて大きく嘆息した。
――ゲームではこんな甘いシナリオはなかったのよね。……まあ、彼は攻略キャラではないのだから当たり前だけど。それにしても、こんな甘々な描写もなかったのに……。
すると、セバストは困ったように小さく笑った。
「ジークハルト様はとても冷厳な方ですよ。少なくとも私ども家人や御学友様の前では。次期レイランド家当主となられる方ですから、立ち居振る舞いなどには常に気をつけてらっしゃいます。なのでその様なキスやハグといった事は誰にでもはなさらないかと……。皆に優しいという点で博愛主義とも言えなくはありませんが、スフィア様へのは博愛とは違うかと存じますよ」
「冷……厳……」
「あ、失礼致しました。言葉が難しかったですね。冷厳とは、冷静で落ち着いている方と言う意味ですよ」
「信じられない!」と思わず口から漏れ出ただけなのだが、どうやらセバストはそれを意味が分からず聞き返したと取ったようだ。
スフィアは綺麗な笑みを作り、愛らしい声で礼を述べた。
「ほほ、スフィア様と話してますと、つい子供だという事を忘れてしまいます。まだ六歳だというのに……きっと将来は博識なレディになられるでしょうね」
「あ、あははは! べ、勉強が好きなのよ」
スフィアは下手な笑いを収めると、皿の上のクッキーに手を伸ばした。
これ以上話してボロが出ては困る。そうなる前に口にクッキーでも詰めて、会話を遮断しておこうとした。
しかし、クッキーがもう少しで口に入るという瞬間、背後から伸びてきた腕にスフィアの手は掴まれた。
目の前で止まったクッキーに何事かと驚いていると、横からジークハルトの口が彼女の手からクッキーを強奪していった。
「にっ、兄様!?」
ジークハルトの頬の内側から、サクサクと小気味の良い音が聞こえる。彼の喉がごくんと鳴ればようやくスフィアの手が解放される。
「ん、美味いなコレ。……やあ、ただいまスウィーティ! 良い子にしてたかい?」
「――ッ兄様!! ちょっと! そこに! お座り! 下さいっ!!」
スフィアが堪り兼ねたように、テーブルをその小さな手で叩く。
しかし、ジークハルトは怯える様子も驚く様子もなく、嬉々としてスフィアの向かいに腰を下ろした。
「嬉しいな。お茶に誘ってくれるのかい?」
「ちょっと暫く黙っていて頂けませんか?」
スフィア目を据わらせて、彼をまんべんなく観察する。
ゲームでも確かにジークハルトは登場する。
だが決してこの様なニヤけたキャラではない。どちらかというとセバストが言った感じに近い。時折、攻略キャラについて遠回しにディスってくるくらいで、スフィアに対し直接的な愛情表現はなく、密かに妹として大切に思っているというキャラだった――はずだ。
しかし蓋を開けてみれば、このざま。
愛の主張が激しすぎる。まるで秘されていない。
「……兄様。兄様はもう少し、恥じらいを持った方が良いと思います」
スフィアの言葉にジークハルトは目線を明後日の方に向け悩む素振りを見せる。
「うーん……スフィアの言う恥じらいってのが、僕の君への愛情表現の事を言っているのなら、僕は恥知らずで良いよ」
「いえ、知って下さいよ」
自分はアルティナの為に人生を全うするつもりなのだ。いくら兄といえど、男に時間を割く暇はない。
本来の設定であれば、影ながら見守ってくれる立ち位置のはずだが、何をどうしたか、とても積極的だ。下手な攻略キャラより対処し辛い。
兄というポジション故、幼馴染みのアデルにやった様に遠ざける事も不可能。というか、こんなに愛されるのに、非攻略キャラだという事が不思議でならない。
スフィアが頭を抱え、地面に届かない足をバタつかせ苦悶の表情で唸れば、ジークハルトはそれさえも可愛いと言わんばかりに、スフィアの頭を優しく撫でた。
「すまないね、スフィア。歳の離れた妹が可愛くてね。つい可愛がりたくなってしまうんだ。けど……そうだね。それでスフィアが嫌な思いをするのなら……もう…………」
突如、先程までの笑みが嘘だったかのように、ジークハルトの表情に影が落ちる。
伏せられた瞳は物悲しそうに揺らめき、口元は笑っているが自嘲にしか見えなかった。
そうだ、彼は六歳の妹を可愛がっているだけなんだ。普通に考えたら六歳の妹など可愛い盛りだ。
きっと幼少時の今だけのものだから、ゲームでは描写されなかったんだろう。
ならば、もう少し位彼に付き合ってやってもいいのでは――そうスフィアは思いなおす。
「あ……っ、兄様……別にそんな、私は嫌な思いは……。ただ、少し恥ずかしいと言うか――」
「あ、本当? 良かった! それじゃあ今までと変わらず、明日も起こしに行くからね! マイ・リトル・スウィーティ」
――んあぁあぁぁあぁああ騙されたあああああ!!
スフィアは発狂しないように両手で顔を覆った。
「ふふ、照れる顔も素敵だよ」
「……自重なさって下さい、兄様」
可愛がるという範疇を超えつつある兄に対して、スフィアは一つ確信した事がある。
前世では兄弟もおらず一人っ子だった為が、気付くのが遅れたが。
つまり彼は俗に言う――
「シスコンだわ」
しかも重度の。
スフィアは腹の底から、盛大な溜め息を吐いた。
「スウィーティの溜め息は花の香りを運ぶ春風のようだね。君の一挙一動全てが愛しいよ」
――本当、今だけのもの、よね――?
「……歯が浮きそう」
「お、はえ替わりか? どれ、僕が丁重に預かっておこう」
「兄様、自重ッ!!」
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