第7話 チャラい狐とお稲荷さん

 そして一瞬の静寂が訪れた後、聞き覚えのある音が空のかなたから聞こえてきた。散歩したり、走ったりした犬が、口で荒い呼吸をするあの音だ。

はじめは遠くで聞こえていたその音が、どんどん近づいてくる。やがて音だけでなく、雲の切れ目から白い何かが飛んでくるのが見えた。

 ありすがそれがあの白いキツネだと気づいた頃には、すでに隣の少女のこぶしは固く握られていた。


「ひ、姫さまああああ! お早いお帰りでえええ!」


 大慌てで戻ってきたキツネが着地するやいなや、少女のこぶしがクリーンヒットする。ごふっと呻いて、キツネは鳥居まで吹っ飛ばされた。


「ひ、姫……」

「やかましい、黙れこのクソエロキツネ!」

「姫待って!待ってくださいいい!」

「黙れ!」

「ごめん、ごめんって姫様! ちょっと待って! これはちょっとした誤解ぐはっ」


 有無を言わさず、少女が今度はキツネを蹴り飛ばす。大して広くない境内を、キツネがごろごろと転がった。それでも少女の怒りは収まらない。また力いっぱいキツネを蹴ると土ぼこりが舞い、キツネの白い身体はどんどんと茶色くすすけていく。

 まるで子どもがサッカーボールを蹴っているようだった。しかし少女の顔は怒りに満ちていて、ありすはその剣幕に黙ってみているほかなかった。


「このクソキツネが! 我の社の主を騙るばかりかヒトの子に干渉するなど、どういう了見じゃ! 貴様が黙って留守居をしておらんから社はこの有様で、結界がさらに緩んだではないか!」

「……この有様って、うわあ、なにこれ」


 少女に首根っこを捕まえられ、お社の惨状を目の当たりにしたキツネがありすを振り返った。キツネのくせに眉をよせ、あきれたような表情を作っている。


「困るよ、ありすー。ちゃんと留守番頼むって言ったじゃげふっ」

「黙らんか!」


 少女に首を絞められむせたところに、ありすがその頭に拳骨を食らわせた。


「何が困るよーだよ。あんたのせいでわたし、帰れないじゃない!」

「なにがオレのせいなのさ? オレ、ちょっと留守番頼んだひゃけひゃん」

「いいから黙らんか、このクソキツネ。貴様がこの女を此方にとどめるために何か食わせたことは分かっておるのだぞ」


 口元を少女にひねり上げられ、キツネはようやく静かになる。じっとありすが見つめると、その目は宙をふらふら泳いでいた。


「この女になにを食わせたのか、はっきり申してみよ。場合によっては二度と帰れぬことになると分かってのことか?」

「ひ、ひひゃあ、ひゃまひひゅめのふぁんふゃくへ」

「なにを言っておるのか分からん! はっきり申せ!」

「ミタマさん? あの、口つねってたらしゃべれないと思うんだけど……?」


 ちっと舌打ちをして少女はキツネの口から手を離す。それでも逃げられないように、しっかりと首根っこを捕まえておくことは忘れない。少女に拘束されたまま、キツネはぺろりと舌を出した。


「姫、相変わらず乱暴だよ……ほら、ありすがびっくりしてるじゃないですか」

「やかましい。すべて貴様のせいではないか。で、なにを食わせたのだ? これは生霊じゃ。はよう返さねば本当に死霊になってしまうぞ」


 死霊、という言葉にありすは身体を震わせる。このまま本当に死んでしまうなんてとんでもない。

「タマシズメの丸薬だよ、姫。彼女、現世で相当疲れてそうだったからさ、ちょっと休ませてあげようと思っただけなんだよ」

「タマシズメ? 貴様、それは本当か?」

「本当ですって。さすがにオレだって生霊の子をそんな本当に死なせようとか思ってないよ」


 それに、とキツネは言葉をつなぐ。


「姫様が神無月で出雲に行かれる、ほんの何日の間にちょっと遊んでみたかったってだけだしー」

「じゃあわたし、戻れる?」

「戻れるよ。ただしそれ神薬だから効力切れるまでこっちにとどめちゃうことになるけど。その間、本体の身体は深く眠ってるような感じで待ってるはずだしなー」


 悪びれる様子のないキツネに、ごつんと再び少女が拳骨を落とす。


「社の異変に気づいてはるばる出雲から飛んで帰ってきてみれば、貴様の粗相の尻拭いか」

「社が燃えちゃったのはオレのせいじゃないよ、姫様。ありすがちゃんと留守番してなかったからで」

「無責任なこといわないでよ。わたし、留守番引き受けるなんて言ってないじゃん」


 えー、と不服そうなキツネの頭をぐいぐいと地面にこすりつけ、少女はありすに向き直った。自身も深々と頭を下げ、赤い着物の懐からなにか取り出した。


「我が眷属が本当に申し訳ないことをした。こやつが申したタマシズメの丸薬とは我ら天津神が作る神薬でな。荒ぶる御霊を鎮めて留めるためのもの。食うたのがそれだけならば大丈夫だ」

 取り出した丸薬はころんと丸く、ほのかに甘い香りがする。

「しかし鎮めの効力は七日ほどあってな。その間はこちらにとどまってもらわねばならぬ」

「そんなあ……」


 九月末に一週間。今日までの三日を除いてあと四日もこのままとは、ありすは頭を抱えたくなった。

 戻れると分かって欲が出てきたのもある。残っている実験、受ける予定だった就職試験。今後のことを考えても、一週間身動きが取れないのは超絶厳しい。

 ありすの脳裏に、就職課に貼り出してある残り少ない求人票がよぎる。


「ていうか、きょとんとしてたから死霊か生霊か良く分からなかったんだよねー。本当の生霊ちゃんならタマシズメの丸薬使わなくても良かったのかもな」

「ちょっと、人の一週間無駄にしといてそういうこと言う? あんたのせいで就職できなかったらどうしてくれんの」

「だからオレのとこに永久就職でいいじゃんいいじゃん」

「きーさーまー、主が頭を下げてるというのにその言いぐさ! やはり貴様は掻っ捌いて毛皮にしてやるわ!」


 少女が懐に手を伸ばすと、キツネは慌てたように地面へひれ伏した。


「すいません、すいません姫様! 毛皮はだめっす!」


 キツネの真っ白い毛皮が土ぼこりにまみれ、すっかり茶色くすすけたところで少女はようやく懐剣をおさめた。同時にやっと自由になったキツネは、締められた首をこきこきと鳴らして大きく伸びをする。いつのまにか、すっかり日は昇っていた。

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