第3話 チャラい狐の誘惑

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 キツネが発する甲高い少年のような声が引き金になった。のどからこみ上げるものが悲鳴になってあたりに響く。とたんに全身の硬直が解け、ありすは両手を振り回してその場から数メートル後ずさった。はずみでお賽銭箱にぶつかってこけたけど、痛みがどうとか問題じゃない。

 問題はこのキツネだ。空耳じゃなければこのキツネ、今まさに日本語をしゃべったのだ。

 咽頭のつくりが違うのだ、日本語が、いや人語がしゃべれるはずがない。それなのにこいつは。


「おーいおいおいおい、大丈夫かい? 怪我してない? そんな大声出して何かあった?」


 パニックを起こしかけているありすに、キツネはさらに追い討ちをかける。限界になったありすはさらに甲高い悲鳴を上げた。


「やっぱしゃべったああああああああああ!」

「えー? 落ち着けって。どうしたよ?」

「いやあああああああ! き、き、キツネしゃべってる! おばけいやあああ!」


 こけたついでに腰が抜けたのか、後ずさろうとしても足がじたばた動くだけでうまく立てない。それでも彼女は必死に、少しでもこの化けキツネから距離をとろうと両腕をめちゃくちゃに振り回した。

 オカルト番組は大の苦手だった。

 夏になるたびに学校やテレビで話題に上る、怖い話なんて大嫌いだ。大学生になって生物化学の分野に進んでから、やっと世の中の怖い話はなんかトリックがあって説明できると自分を納得させたというのに。

 ヒトの五感は神経の伝道によって知覚されるもので、幽霊やらお化けの類が見えたとか聞こえたとかなんて、すべて膜電位の変異で生じる電流のせい。神経伝道の際のアクシデントに過ぎないと結論付けたはずなのに。


「やだやだやだあああああああああ!」


 ぶんぶんと両腕を振り回しながら、なぜか頭の奥で小学校の頃にお昼の放送で流れた怪談が、給食のにおいと一緒に蘇る。耳なし芳一、四谷怪談、どこそこの墓地で人魂が飛んでた、などなど当時の朗読劇の声音まで思い出してしまった。

 じわりと両目から涙があふれ、それと同時にのどが震え始める。キツネ自体は彼女が振り回す腕の間合いからかなり離れたところにちょこんと座ったままだった。でもその紅い瞳は不気味に彼女を捕らえて離さなかった。


「や、やだあ……、お化けやだ……」

「ちょ、さっきからお化けって、ひょっとしてオレのこと? キミ結構失礼な子だなー」

「お化けキツネまたしゃべったあああああああああ!」

「ていうかオレお化けじゃないし!」

「妖怪いいいいいいい!」

「まあ、ちょっと落ち着けよなー」


 完全にパニくったありすをあざ笑うように、白いキツネは賽銭箱に腰を下ろして優雅に尾を振っていた。時折前足で尖った鼻先に生える長いひげを撫で付けては、首をかしげている。


「お化けでも妖怪でもねーし、つか、どっちかっていうとキミのがお化けに近いと思うけどなー」


 ねえ、とキツネが立ち上がった。そしてまったく重力を感じさせない動きでひょいとありすの頭の上に飛び乗ってきた。


「ひっ……!」


 思いがけない行動に、彼女ののどがきゅっと絞まってか細い音が漏れる。悲鳴をあげることもできないまま、ありすは再び硬直してしまったが、キツネはお構いなしにその豊かな尻尾で公園を指した。


「見てみなよ。子どもが来るぜ?」


 少年のような声音なのに、なぜか有無を言わせない迫力を感じ、恐る恐る尻尾が指す方向に視線を向けた。そこには確かに子どもが三人ほどいて、ちょうど走って公園へ入ってくるところだった。小学校の低学年の子だろうか、まだずいぶん小柄な子達だ。


「今日は缶けりやろーぜ!」

「おかあさんが、お稲荷さんの建物は入っちゃだめっていってたよー」

「はいらねーし! ほら、じゃんけん!」


 必要以上に大声でしゃべっているのは、それが男の子だからだろうか。ばたばたと騒ぎながらじゃんけんをして、鬼を決めて缶のセッティングをするのを、ありすはぼうっと眺める。


「てっかさー、アキト、ゲームもってこいって言ったんじゃん。やんねーのかよ」

 鬼になった少年が不服そうに口を尖らせる。それを受けて、やんちゃそうな丸顔の少年が缶を勢いよく蹴っ飛ばした。

「だって今日はまだ公園に誰もいねーし! 俺たちだけで使えるんだからいいじゃん!」


 わあっと少年たちが走り出した。鬼の子はその場にしゃがみこんで数を数え始め、他の子たちは思い思いの遊具や木の陰に隠れるため、公園中を駆け回り始めた。アキトと言われた少年が、ありすとキツネがいる方向へ走ってくるのが見える。


「ほら、来るぜ?」


 ありすが何かいう暇もなかった。

 キツネの言うとおり少年が走りよってくると、あっという間にありすの身体をすりぬけお賽銭箱の陰にしゃがみこんだのだ。


「な、なに……? 今の……」

「言ったろ? キミのがお化けに近いって」


 起こった現象の意味が理解できずに少年を振り返ったありすへ、含み笑いをしたようなキツネの声が突き刺さる。少年は彼女達に見向きもせずに、というか、ふたりのことなんて見えていないかのように、身を隠したお賽銭箱の端っこから公園の中央を伺っていた。

 違う。見えていないかのように、じゃない。本当に見えていないのだ。

 はっとしたありすは立ち上がって自分の手足を見る。しかし、そこは普通の、見慣れた手や足がはっきりと見えるだけだ。腕や足に触れてみる。もちろん触れた感覚が、手のひらにも触れた腕や足のほうにもある。

 自分には普通に見える。けど、あの子ども達には見えてない。そして、おそらくこの白いキツネの姿も。


「どういう、こと……?」


 かろうじて声を絞り出すと、お賽銭箱、鳥居の上、少年の頭など、ひょいひょいと跳ね回っていたキツネが笑いをもらした。


「ほんっとーにわかんないの?」

「あの子、わたし達のこと見えてない……ていうか、なんなの? キツネがしゃべって、浮いて、あの子達に見えてないのにわたしは見えてて、でもわたしもあの子たちから見えてなくて……」


 まさかという思いがよぎる。こういうパターンは、よくあるアレではないのか。その単語を思い浮かべることを懸命にこらえ、ありすは別の可能性を探る。しかし、まあまあ、と暢気な声とともにキツネがありすの足元に腰を下ろした。


「あの子達は現世の子。キミは黄泉の子」


 つまり、とキツネは続ける。


「霊体になってるから見えるわけがないんだよ」


 なんで、というつぶやきは子ども達の歓声にかき消された。頭のてっぺんから氷入りの冷水をあびせられたかのように、血の気と体温が引いていくのが分かる。きいんという耳鳴りが、ありすの頭蓋骨を内側からゆさぶった。

 いや、頭蓋骨なんてものが今の自分にあるんだろうか。そもそも引いたと感じた血の気も体温すらも。

 さっき自分の身体を子どもがすり抜けていった瞬間を思い出し、ありすはぞくりとしたものを感じた。自分が霊体になっている、というにわかに信じがたいことも、それが事実だとあの現象が物語っているのではないか。

 身体が小刻みに震え始め、ありすの顔色はみるみるうちに真っ青になっていった。


「どうして……。わたし、死んじゃ……たの?」


 からからに渇いたのどから搾り出した声は掠れていた。ソレが聞こえているのかいないのか、口角を上げてありすを見上げていた白い獣は涼しい顔で毛づくろいをし始めた。


「ねえ! どういうこと? これってわたし、死んじゃってるってことなの?」

「さあね? たぶんそんなとこなんじゃない?」

「……そんな、なんで……」


 しれっと言い放つキツネの言葉に、ありすは呆然として膝をついた。

 自分が死ぬ理由なんて、何も思いつかなかった。でもそれなら何故この公園にいるのか、自宅からここまでの記憶がはっきりしないのも説明がつく。

 やりかけで机に残してきた実験ノートのこと、今日また培地を作ろうと思って用意してきた道具のこと、先週受けてまだ結果がでてきていない就職面接のこと、母親をはじめとする家族の顔など、次々と脳裏を駆け巡る。

 自分が死んでしまったなどと、今すぐ受け入れるなんて到底できることではなかった。


「まあまあ、とりあえず甘いもんでも舐めて落ち着きなよ。これ、やるからさ」


 隣に座ったままいつの間にとりだしたのか、キツネの白い口元には色鮮やかな赤い小さな巾着袋がくわえられていた。思考回路がオーバーフロー状態になったありすは、ほとんど機械的にそれを受け取る。そしてよく確かめることもないままに、中の丸いものを口へ放り込んだ。

 ぎらりとキツネの紅い瞳が怪しく光る。


「あま……い……」


 口の中に広がるとろけるような甘さが、少しだけ彼女を落ち着かせた。そういえば煮詰まったとき、キャラメル食べると少し落ち着いたんだっけ、と実験室に常備してある黄色い小箱を思い出す程度には。


「だろ? 昔から人間の女は甘いもんが好きらしいしな」


 無意識に近い状態で、ありすの頭はこくりと頷く。耳元でささやかれる「名前は?」というキツネの問いに、就職面接で培われていたのか条件反射的に「五百川ありすです」とこたえた。

 それじゃ、とキツネが笑った。


「キミ、合格。ここに永久就職決定ね?」

「……は?」

「シューカツ大変だってさっき言ってたじゃん? なかったら永久就職でもいいって。現世のシューカツって大変そうじゃん? ケッコンってやつもキミ、今相手いなかったんだろ? だったらこのオレが! ここで! このお社で、オレのツマとして、キミを永久就職させてあげようって言ってんのよ」


 どんなもんだい、と目を細めて胸を張るキツネに、ありすは言葉を失う。何気に彼氏がいないのがバレているのが痛いところだが、今そこは流しておくことにするにしても、幽霊になって永久就職したいなんてお願いはしていない。

 そう訴えたいのに、なぜかキツネの自信満々な態度に声が出せなかった。


「ちょーどオレ、アシスタント探してたのよ。そこへキミがふらっと来てさ。これだ! って思ったね。キミ結構かわいいし、保護者の許可がいる年でもないだろ? シューショクだけじゃなくてこのままケッコンでオッケーオッケー。キミは食う寝るところに困らない! こっちはケッコンなら雇用契約書もいらないし、稼ぎは一緒の家計だから給料発生させなくてもいいじゃん? これで万事解決解決」


 きーまりっとキツネの身体が大きく飛び跳ねた。そのまま空中にふわりと浮かぶと、尾でバランスを取っているような姿でありすを振り返る。そのいたずらっぽい表情に、ありすの本能が警告を発した。


「いや、ちょっと、なに言って……」

「じゃ、そゆことで。まずはじめのお仕事は、この社の留守番頼むよ。オレ売れっ子だからさ、他のお社もたくさんあって見回りタイヘンなんだよねー」

「ちょっと、今の状況がどうなのか良く分かってないのに、なにがそゆことでなの!? 待って!」

「ありす!」


 キツネが高らかに彼女の名前を叫ぶ。その一瞬、ありすの動きが止まった。 


「しばらくこの場で留守番よろしく!」


 しまった、とありすは空中のキツネに手を伸ばした。飛び上がろうと地面を蹴るが、自分が霊体だなんて信じられないほどに身体が重い。ぴょんと地面を蹴ってみても地上から数十センチ飛び上がって落下するだけ。生身の頃とまったく代わり映えしない跳躍力だ。

 その間にキツネは宙を蹴ってするりと身を翻すと、あっという間にその姿を消してしまった。

 あわてて周りを見渡してみても、すでにどこにもキツネの姿は見えない。


「ああ、ちょっと待ってよ! ねえ! ちょっとあの、キツネさんってかお稲荷さーーーーーーん!」


 叫んでみても姿の見えないキツネになど届かない。虚空に向かって叫ぶありすの声が宙に溶けていくなか、彼女の足元で小学生達は何事もなかったかのように缶けりに興じていた。

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