第4話 夕暮れのお稲荷さん

 人間世界において結婚とは契約の一種だ。とりあえずこの日本の法律では、結婚するためには役所に所定の用紙に本人二人と保証人のサインが入った婚姻届を提出しなければいけない。これがなければ結婚したとはみなされず、事実婚として扱われる。

 つまり、ありすはまだあのチャラけた白いキツネと結婚なぞしておらず、こちらに気持ちがなく住居もともにしていない以上事実婚としても成立しない。はずだ。と頭の中を整理するまで三十分。

 ここで留守番をして待っている義理もない、帰ろうと思い立ったのはすごく当然の流れだった。しかし余程動揺していたのか、そんな単純なことに気がつくまで二時間近くたってしまっている。

 風が冷えてきて、缶けりをしていた小学生達の姿もすでにない。ゲーム機を持っていたから、どこか友達の家なんかでぴこぴこやり始めるんだろう。わたしも今日は徹夜で疲れてる。これもきっと夢だ。早く帰って休もう、そうしよう。そしたら目が覚めるに違いない

 しかしそう思いながら鳥居の下を抜けようとしたときだ。ありすの右足の裏が地面に張り付いたまま動かなくなってしまったのだ。引っ張っても、ねじっても、押しても蹴ろうとしても、なにをしても離れない。反対に、くるりときびすをかえしてお社のほうを向くと難なく歩ける。勢いに任せて鳥居の下をくぐろうとすると、足はまた地面にぴったりと張り付いた。


「ったく……なんで出られないのよっ!」


 腹立ち紛れに蹴飛ばした小石は鳥居の下を転がり、公園の入り口のアスファルトに当たってかわいた音を立てる。

 あんな小さな石は通れるのに、とありすの肩ががっくり落ちた。ともかくどうやら自分はヒトには見えていなくて、その上ここから家にも帰れないらしい。

 あたりは少しずつ暗くなってきて、お社を囲む木立が風に吹かれてざわざわとゆれていた。不思議と風が冷たく感じないのは、やはり自分が生身でないからなのか。それでも野宿は勘弁願いたいところだった。

 仕方ない。とりあえず手入れがされてなくて気味は悪いけど、お稲荷さんのお社でちょっと休憩しようかと後ろを振り返った。さすがにいろいろ興奮しすぎて、身体も気持ちも落ち着けないとなにをするにもいい考えが浮かばない。


「……っうぁ!」


振り返ったとたん、ありすは息を呑んだ。いつからそこにいたのだろう。近所の中学校のジャージ姿で、少女が一人ベンチに座っていたのだ。ちょうどお社に背を向ける形で、膝を抱えて丸くなっている。


「……びっくりしたぁ」


 あまりの気配のなさにまさかヒトがいるとは思っていなかったありすは、胸に手を当てて息を吐いた。ばくばくと激しく動く心臓は、しゃがんでいるのが生身の少女らしいということに気がつくと少しずつ落ち着きを取り戻す。

 その間に少女は数回、大きなため息を吐いていた。あたりは薄暗くなってきたが彼女の顔周辺は明かりが当たっているところを見ると、どうやらケータイかスマホの画面を開いているらしい。時折ジャージにくるまれた指先を動かすそぶりが見えるので、何か操作を続けているのは分かるがそれにしても身体はほとんど動かない。

 これじゃ分からないわけだ。ありすはほっとしつつ、背後から少女に近づいた。

 普段ならそんなことはしない。けれどもう日も暮れた公園で、一人でぽつんとしゃがみこんでいる少女がなにをしているのか気になったし、このまま座り続けていたら暗くなって危ないんじゃないかと思ってもみたり。

 かといってなにができるわけでもないだろうが、自分がヒトに見えていないということで、彼女がスマホでなにをしているのか知りたいという、ちょっとした野次馬根性が沸いていたのも事実だった。

 そっと少女の背後に立ち、手元を覗き込む。両手で包むように持ったスマホのディスプレイに表示されているのは、どうやらメールの入力画面のようだ。女子中学生にしてはずいぶんと短く簡潔に、映画に誘う文面が打ち込まれている。


「ああ、もう!」


 スマホを見つめてしゃがみこんでいた少女が身体を起こして伸びをした。不意をつかれて少女の後頭部がありすの頭とぶつかる――ことはなかった。ぞわりという例の感覚とともに、少女の頭がすり抜けていっただけだった。

 やっぱり自分は幽霊なのか。がっかりしながらもありすは少女の様子を眺め続けた。だぶついた学校ジャージは、ありすが中学校に通っていた頃とはデザインが違う。自分が中学生の頃は学校中の女子が袖のリブ編みの一部を解いて親指穴を作ってたっけ、と懐かしくなりながら少女の隣に腰を下ろした。

 縮こまっていた身体を伸ばした少女は、隣にありすがいるなんて気がつきもしないでまたベンチに腰を下ろしてスマホを見つめ始めた。ディスプレイにちょっと指を滑らせては戻す、ちょっと文字を入れてみては消す、を繰り返し、どうしても送信ボタンのタップができないようだった。何度も抱え込んだ膝に顔をうずめては、またスマホに視線を戻してうなる。

 男の子でも誘うのだろうか、もう送っちゃえばいいのに。帰る気配もなく悩みまくっている少女の様子に、ありすがややいらいらしながらディスプレイを良く見るとメール文の一部で目が引っかかった。ん? と読み返すと違和感の元に気がつく。


「ああ、試写会の字、予測変換でミスってるんだ」


 聞こえないだろうと思った突っ込みだった。


「え?」


 少女がありすを振り返る。一瞬、目が合った。


「え? あれ? わたし、見えてる? あ、あの、ごめん、メール見ちゃって!」


 でもここっ、と慌ててありすがディスプレイを指差すとぴりっとその指先に痛みが走る。するといきなり画面の色が変わった。ありすの指が指したところは、思ったよりずれて送信ボタンだったのだ。


「あれ? あれ? うわあ、ごめんっ」


 迷っていただろうに、なんで今日は、いや自分は、やることなすことうまくいかないんだろう。自分が他人のスマホを操作して、送信ボタンをタップしてしまったことに動揺したありすが立ち上がると、少女はきょとんとしてあたりを見渡し始めた。しかしわずかに首をかしげてディスプレイに視線を戻す。すると――


「えええええ! やだ、ちょっと、うそっ!」


 きゃあきゃあと一人で騒ぐ少女に、今度はありすがきょとんとする。

一瞬目が合ったと思ったのは気のせいだったのだろうか。少女は彼女の存在をまったく無視して騒ぎ続けている。

 そしてありすは自分の指先に注目した。なぜ自分の指差したスマホが反応したのだろう。缶けりしていた子どもはありすの身体をすり抜けたというのに。しかしディスプレイを指差したとき、ありすの指は平らな画面に「触れた」感覚があったと思う。ぴりっと電流が走るような、へんな痛みがあったからだ。

 顔を真っ赤にしながら膝を抱えて丸くなった少女を見下ろしながら、ありすはまた首をひねった。この様子だと、確実に彼女の姿は見えていないのだろう。

 どのくらい経っただろう。ほんの数秒な気もするし、五分以上経ったような気もする。静かになった公園に、スマホのメール着信音が響き渡った。初期設定そのままの味気ない電子音だったが、はじかれたように顔を上げた少女がスマホを起動させる。


「……うそ、やったぁ」


 はにかんだ声が漏れた。顔を見なくても、少女の表情が想像できるほどにうれしそうな声だった。傍らに落としていたバッグをぱっと拾い上げると、少女は一目散に走り出した。


「さっきのユーレイ? やっぱカミサマ? メール送ってくれたの? ありがとっ!」

「ああっ、ちょっと待って! わたしユーレイじゃなくって、そのっ!」


 勝手に操作してごめんね、と言いたいのに言葉が出てこない。早口で言い捨て、軽やかな足取りで去っていく彼女をただ呆然と眺めるしかできない。


「……ユーレイか、カミサマかって。どっちでもないもん……」


 ていうか、お礼よりなによりここから家へ帰らせてもらったほうがどんなにありがたいか。ありすの言葉にならない願いは、小さくなっていく少女の背中には届くはずもない。

 頭上では冷えた風がありすの髪と、薄く色づいた楓の葉を揺らしていた。

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