第2話 ありすの憂鬱
近所の公園に建っている、うっすらと色づいた楓の葉に埋もれている赤い鳥居が妙に目に付いた。それは偶然だったのか、それともちょっとココロが弱っていたのか。
おそらくは後者。
ありすは黒縁めがねの奥の、どんぐりのような大きな瞳に鳥居を映して立っていた。
昨夜の実験は徹夜に近く、そのくせすっかり失敗してしまってデータひとつ取れなかった。
原因は単純なもので、レシピどおりに作ったはずの寒天培地に薬剤をひとつ入れ忘れたというもの。おかげで二十四時間かけた基礎培養に雑菌が混じってえらいことになった。予想外の毒々しい色をしたコロニーに覆われたシャーレの、ふたを開けたときのあの悪臭は思い出すのもいやだ。
卒論のデータ収集も大詰めになってきた今頃にそんなミスをやらかすなんて、本当についていない。指導教官でもあり、おそらく共同論文の著者として名前を借りるであろうありすのゼミの教授は、厳しくケチで学内でも有名だ。もったいないという問題とやる気の問題をこっぴどくしかられるだろう。
で、その教授にばれる前にそれらの証拠隠滅を図ってから、明け方に自宅へ帰って昼過ぎまで寝てたはず。
寝てたはずなんだけど、郵便屋さんのバイクの音で目を覚まして一通の封筒を受け取った。
中身はとある企業からの合否通知。
手ごたえはどうかと聞かれたら困る。というか、その封筒に書かれた企業名を見てもどんな面接だったか思い出せない。という状態では結果は案の定というかなんというか、もちろん不採用。
「五百川ありす様の今後のご活躍をお祈り申し上げます」という、祈るだけじゃなくてチャンスをくれよと言いたくなる紙切れ一枚がさらっと入っていておしまいだった。
今年の春から何通も何通も受け取っていて、他の言い回しはないのかと突っ込みたくなる不採用通知を見慣れているというのも悲しいが、これが四大卒業間近のリケジョの現実だ。
まあ、理系学卒見込みで成績は下のほう、しかもなんかこう履歴書に書けるような特技もない。春には研究職や開発職を希望していたけど、もう秋になってしまって受ける職種も手当たり次第のシューカツなんて、志望動機の希薄さから向こう様にもばれてるんだろう。
もう慣れてる、いまさらショックなんて、と自分では思っていたはずだった。
でも実験もうまくいかずシューカツ連敗記録が着々と更新されている状態に、やはりかなり揺らいでいたんだろう。このままでは新卒でひっかからないで、ハケン労働のワープア一直線という道すら見えてきて、さすがにありすの頭からも楽観的な考えが消えた。
近頃テレビでは大きな神社の跡取りと雅な女の人との結婚が盛んに取り上げられているが、こちとらそんな相手もいない。
重たい気分で受け取った不採用通知をどこかに放り投げ、だらけた部屋着のままサンダルつっかけて近所のお稲荷さんにいる自分に気がついたのはついさっきだった。
めがね越しに見るお稲荷さんの鳥居が、おいでおいでと手招きしているように見えるのもココロが弱っている証拠なんだろうなぁと自分で可笑しくなってくる。
もともとがさつで化粧っ気はないもの、グレーのスウェット、シューカツ用に黒く染めた髪を頭の後ろでひとつに束ね、すっぴんの上に自宅用の黒縁ダサめがね。こんな姿で外に出たという自分も信じられないけれど、まあこの際だし神頼みでもしてみようかという気分になってくる。
……ご利益ありそうなお稲荷さんでもないけど。
頭の中でさまざま言い訳をしながら、ありすは真っ赤な鳥居をくぐった。
鳥居から視線をおろした先にあるお社は、彼女が子どもの頃から改築もされていないようだ。もちろん手入れはされているのだろうが、かなり適当なのだろう。格子戸にはめられたガラスのすすけ具合が、なんともいえないボロさをかもし出している。すぐ隣の公園は遊具が新しくなっているから、なおさらそのお稲荷さんがみすぼらしく見えた。
そういえば幼稚園とか小学校の頃とか、よくこの公園で缶蹴りやら鬼ごっこやらやったものだった。しみじみとありすは幼い頃を思い出す。
お稲荷さんのお社の陰にも隠れたり、お賽銭箱に小石投げたり、鳥居によじ登ろうとしてみたり、石灯籠に乗って転げ落ちたり。
「……ごめんなさいしとこうかな、今頃そのバチ当てられても困るし」
いささか「無邪気」では済まされないことも思い出し、お賽銭箱の前で軽く頭をかいてありすは二回大きく両手を叩いた。
「子どもの頃はどうもすいませんでした! その頃のことはここにお詫び申しあげます!」
早口で言い切って、一度大きく息を吸う。
「でももーシューカツ疲れました! どこでもいいからどっか就職させてください! お給料はまあまあでもいいし、この際夜勤や残業があるような職場でもいいんで、倒産の危険がなくて福利厚生がばっちりでイケメンがいて婚活ができそうな会社がいいです! あ、もういっそ永久就職先の確保が先でもいいです。食いっぱぐれのない堅い仕事のダンナ様が見つかればそれでもいいです! どーかカミサマホトケサマオイナリ様お願いします!」
一気に言い切ったお願い事は、なんとも人に聞かれたらかなり恥ずかしいものだった。お賽銭もいれずに願うには、ややずうずうしい内容かもしれない。
でもどうせ萎びたお稲荷さんだし、昼間の公園なんて誰もいないし。と、頭の中でさらに言い訳を続けもう一回手を打つ。
とりあえず頭も下げといたほうがいいんだろうか。神社のお参りの仕方なんて良く分からない。しないよりしたほうがいいかな、と頭を下げたそのときだった。
鼻先にふわりと何かが触れた。
虫? やぶ蚊か蜂か? と考えるより先に手が動いた。ぱぱっと顔の前を両手で払うと、その手の甲にやわらかいものがあたる。虫の感触ではないそれに、ありすは反射的に手を引っ込めて目を開けた。
「……え?」
薄目を開けてすぐに見えたのは、一匹のキツネだった。
毛が真っ白で、尾がふさふさで、黒い鼻がつんととがってて、紅い目がきゅっと引き締まってて。
一瞬、石造りの像かと思ったが違う。像なら堅い石だから動かないし質感も違う。けどこのキツネはふさふさだし、なんか動いている。
珍しい、野生でアルビノのキツネなんてこの辺に棲んでたんだ。すごくきれいな毛並みで、優雅だなぁ。
なんて悠長なことを考えかけていたありすの思考が音を立てて急停止した。そしてある事柄をゆっくりと確認し始める。
近い。
何が近いって、顔が近い。
わたし、立ってる。身長、百六十センチ。
なんで、目の前に、キツネの顔があるの?
大体野生のキツネが、こんなにもヒトに近づいてくる? しかも顔の高さまで。
目の前で彼女を捉えて離さない、真っ赤なルビーみたいな瞳の奥でありすの表情が引きつっていく。でもじっと見つめられていると、身体は指の先まで硬直したかのように動かせなかった。腹の底から何かぐにゃりとしたものがこみ上げてくるのに、生唾も飲み込めない。ひんやりしたモノが背筋を伝わり落ちる。
キツネの引き締まった口元が、にやりと持ち上がった。
「キミ女子大生? ダサカワイイねぇ。あんな熱烈なお願いごとされちゃ、オレだって断れないぜ」
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