I.

「では、マリャベッキ博士は…」

 赤坂は口辺にごく微かな笑みをうかべた。

「博士はお元気ですよ」

「――しかし、きみのくれた情報では、知能が二、三歳児なみに…」

「それは、戯作者の書いたものです。〝首〟と同様にね。尤も、物故なさった舩見ふなみさんの作品と比べると気品の点でも文学性の上でも遥かに劣る訳ですが、それは作者の力量の問題ですから」

「作り話だ、と云うのかい?」

「ええ、まあそうです」

 と言って、赤坂青年は復た妙な笑みをうかべて見せる。

「それはそうと、ぼくは一寸困ったことがあって包へ入国したのだが、きみが頼りになる、と聞いて来たのだがね」

「困りごと、ですか?」

「ああ。――きみは、ぼくの見た夢に拠ると、ヒトとPCの中間的存在、一口で云えば合いの子みたいなものだ、ということだが」

「ええ、そうです」

「性能を試したことはないのかい?」

 雅也は最前見せられたヴィジョンのお蔭か、何となく自分がローラー・コースターにでも乗っているか、或いはフランジャーの掛かったエレキ・ギターの音の壁に取り囲まれてでもいるかのような心地がした。

「つまり、ぼくの、…頭脳の、ですか?」

「ああ、そうだ」

「ありますよ。定番ですが、プロフェッショナルのチェス・プレイヤーやプロ棋士たちに挑戦したことが何度かあります。――結果は、ぼくの負けは一度だけ、しかもインドでの対戦で、その時ぼくは非道ひどい風邪を引いていたのです」

「ふむ」

「…それで、お悩みのことは? ぼくは悩み事相談でしたら無料で承りますよ。ギター演奏に就いては別途料金を頂戴ちょうだいしますがね」

 そう言って、赤坂は笑った。どうやらユーモアは解するらしい。

「それが…、ぼくは日本では小説家をやっていた…いや、いるんだが、ちょっと困ったことになってね。それでパオへ来たんだ」

「ほほう」

 赤坂がになったようなので、雅也は顛末てんまつを話して聞かせた。

 一通り話を聞くと、赤坂は、

「成る程」と言った。「その玉青丹ぎょくせいたんというお香に就いては、ぼくの胸部SSDにもデータが入っています。全く形を変えたい時に使うお香のようですね。自殺志願者が使うケースも多いとか。それ以外にも、精神的な変革を遂げたい、とか、後はうしぐらいひとが、前歴を消して全く新たな自分として生まれ変わりたい、という時とか…。要するに、竹生健さんは、自分が自分でいやになったのではないでしょうか」

「それは…、随分ずいぶんとオカルト的な効能がありますね」

「そう」赤坂は頷いた。「そうなんです。そこが特徴ですね。そもそも、玉青丹という名の由来は、玉青という名のある種の甲虫から来ているのです。その甲虫は〝パオのタマムシ〟と呼ばれているもので、その名のとおりはねの色が黄金色をしていて大変美しく、又滅多に見つからないこともあって、珍重されているのです。昔は装飾用に使われたようですが、今は絶滅危惧種として指定されているため、生きた虫を捕えることはできません。しかし、この甲虫は死ぬに際し、土中に潜る習性があるのですけど、その屍体からは特有の腐生ふせい植物しょくぶつが育つことがあり、この植物が火のように真っ赤なことから、この植物のことを玉青丹と呼んでいるのです。――が、何分にも所謂いわゆる〝レアもの〟によく見られることですが、最近は乱獲が進んで数が激減したこと、それから玉青丹とよく似た恰好をしたカエンタケという有毒キノコを誤って収穫する事例が見られましてね。このキノコは丸で陸のヒョウモンダコのように毒性が強く、触っただけでも健康が著しく損なわれるという性質があり、これを重く見たパオの執行部…グランパオのことですが、珍しくお触れを出して玉青丹の収穫を一時的に禁じてしまったのです。従って、目今もっこん流通している玉青丹は、どれも非常に高価であるという点で同じなのですが、中身は気を付けないといけません。カエンタケの場合もなきにしもあらず、ですから。本物の玉青丹ぎょくせいたんにお目に掛かれる確率は、わたしが今ざっとやった計算では、十五万分の一、程度です。ですから、竹生さんが手に入れられる確率は、非常に低いと云っていいでしょうね」

 それを聞いて雅也は安堵あんどした。が、赤坂は、

「併し」と右の人差し指を一本立てて注意を喚起した。「代替品が見つからないとも限りませんからね。早急に探索を行った方がいいでしょう。うかうかしていると、手遅れになることも考えられます。――ええと、あなたのペン・ネームの竹生さんは、どのくらいの所持金を持って出られたか判りますか?」

「あっ」雅也は慌てて東京から飛び出て来たことを後悔した。「しまった…。それを確認しておくのを忘れていた。妻に電話すれば或いは判るかも知れないが、ここからだと携帯電話も繋がらないだろうしなあ」

「しかし、日本の東京から稚内まで行く旅費、稚内から空路中国へ向かう費用、それからパオの中で必要な雑費があるでしょうし、ある程度覚悟を決めて行かれたのであれば、それなりの額のお金は持って来られている筈です。どうでしょう?」

「判らないな」雅也は溜め息を吐いた。「ぼくの主要な取引銀行は二つあって、片方から金を下して来たんだ…。もう一行の方は残高の確認すらしないで来てしまった」

「では、地道に探して行くしかありませんね」

 雅也はそこで、

「きみ、きみはここで結構顔なんだろう? だったら、竹生健はきみには接触していないのかい?」

 と問うた。

「いいえ、残念ながら」赤坂は首を振った。「わたしの所には来ていないです。図書館都市には立ち寄った可能性がありますね。これからは、立ち寄った可能性のある場所を重点的に…いえ、足を惜しまずしらみ潰しに回って、手掛かりを得るのが最善だと思います」

「きみはあれ程有名なのに、どうして来なかったのだろう?」

 赤坂はた笑った。

「わたしが有名だと云うのは、ごく一部の話です。あなたは誰から話を聞きましたか?」

 雅也は、オジー・オズボーンとトニー・アイオミからだ、と答えた。

 すると赤坂は、さもありなん、という表情をして、

「わたしの許へ来るひとの七割は、オジーから話を聞いて来た、と云っていますよ」

「ふうん」雅也は言った。「それで、きみは随分高性能らしいが、何か困ったこととかはないのかい?」

「そうですね」赤坂は考えて、「強いて云えば、恋愛ができなくなったことでしょうか。CPUを取り付ける際に、視床の一部を削られたんです。ですから、わたしも日本では、――いや、世界中どこでも、フリークスになるでしょうね。パオが一番向いているみたいです」

 と、さ、詰らない話は止めて図書館都市へ急ぎましょう、と雅也を急かした。

 図書館都市というのは、駅前にある段丘の上から下までを覆い尽した建造物群のことを指すらしかった。

「一体、図書館都市ってのは、どんなとこなんだい?」

 後に付いて歩きながら雅也は赤坂に問うた。

 が、赤坂は、

「今に、着けば判りますよ」

 と答えるだけだった。

 二人は直ぐに段丘の麓に辿り着いた。見上げると、その斜面に平屋もあれば二階、三階もあるものもあり、雑多な建物が混在していた。建物の外装は白いモルタルで統一されているらしい。そして、その建築物の合間を縫って細い通路が設けられている。

 二人は暫し佇立ちょりつしていたが、直ぐに赤坂が、

「さ、行きましょう」

 と促した。

「行く、って、どこへだい?」

 雅也が問うと、

「まあ、付いて来れば判りますから」

 そう言うが早いか歩き出した。

 雅也も慌てて後を追った。

 赤坂は、手近なところにあった、年季が入って曲がりくねった、古い金属製の手すりが付いた、切り出して来た石を積み上げたらしい階段に取り付くと、上りだした。

 雅也はその背を更に暫くぼんやりと見ていたが、直ぐに我を取り戻して後を追った。

 段丘は高さが凡そ百五十メートルほどもあり、階段は急だった。雅也は直ぐに息を切らしたが、赤坂は慣れているのか、それともHPC特有のエネルギーでも発揮しているのか、平気で階段から通路、通路から階段、踊り場を挟んでまた階段、とひょいひょいと飛び移って行く。

 その間に、雅也は幾つかの「図書館」を見た。いずれも、入り口の戸の上に表札のようなプレートが付いていて、それぞれ、「男のする料理と女の料理の違い」とか、「西暦一五〇〇年頃にヨーロッパとアジアで流行ったジョークの類似点並びに差異」とか、「英語文法で喋る中国語」「世界最速の自動車とその所有者の履歴など」と書かれていた。雅也にも幾つか関心のあるもの、つまり一家言あるテーマがあったのだが、赤坂は背中で、

「付いて来ないと知らないよ」

 とでも言っているような感じで、雅也に有無を云わせぬ速さで歩き続けた。

 軈て、赤坂は漸く足を止めた。

 雅也は汗みずくになってぜいぜい言いながら追いついた。

 二人が立っているのは、

「図書館中毒者、ならびに初心者のための手引き、更に調査案内」

 と表札のある戸の前だった。

ず、ここへ入るのがいいでしょう」赤坂は寸分も乱れのない口調で言った。「ここはインフォメーション・デスクも兼ねていますから、案内もして貰えます」

 そう言うと、赤坂は戸をした。

 雅也は赤坂の後に付いて、兢々きょうきょうとして戸口をくぐった。

 中は雑然としていた。壁には書架があり、あちこちにマガジン・ラックもあるのだが、本で溢れ返っている。書棚に収まり切れない本は床にはみ出し、床の上に書帙しょちつが積み上げられている。床の上だけではない、デスクの上にも、窓際にも、通路にも本が溢れている。

「うひゃあ」雅也は思わず叫んだ。「大洪水だァ」

「ここが、この〝図書館都市〟の中枢、心臓部と云って良いでしょう」赤坂は冷静な声で言った。「ここで、何でも訊けますよ」

 そう言って、窓際のデスクにつかつかと歩み寄り、コンピュータに向かっていた女性に、

「こんにちは、ニッキー」

 と挨拶した。ニッキーと呼ばれた女性は端末から眼を上げると度の強そうな眼鏡を掛け、

「あら、アカサカくん。暫くぶりね」

「そう。暫く来ませんでしたね。少々忙しかったものですから」

「今日のご用は?」

「――実は、探し物なんだけど」

 すると、ニッキーはにわかに渋い顔をした。

「探し物? ここで応対できるかしら」

 と心細いことを言う。

「できる範囲で、構いませんから」

「あなただって探し物はできるじゃないの。データベースを拵えてる、って言ってたでしょう。何とか自分でできないの?」

「ぼくで手に負えないから来たんですよ、仕方なしにね」

「そう」一瞬下を向いて覚られぬように溜め息を吐き、「――で、ご用件は?」

 赤坂は雅也を振り返り、

「あの方なんですよ」

 と言った。

「あの方を探すのかしら?」

 ニッキーは眼鏡を直して言った。赤坂は焦れったそうに、

「あのひとはもうここで実体化しているじゃありませんか。ぼくらが探しているのは、あの方のコピーなんです」

「コピー?」

「そう。…もっと精確に云うなら、あの方のペン・ネームなんです」

 すると、ニッキーは更に驚いたように、

「ペン・ネーム」

 と言った。

「ペン・ネーム探しなんて、あたし、やったことないわ」

「いやいや、話は簡単ですから」

「どうしてよう?」

 赤坂は雅也を振り返り、

「ご本人がここにいますから」

 するとニッキーは、

「本人がいるなら、態々探しに行く必要なんてないじゃない。ご用があるならご本人に聞けば?」

「そういう訳には行かないんでね」

 赤坂は肩をすくめた。

「そも、ペン・ネームなるものは、著作者本人の生き写しである、と云うのが通例でしてね」

「ふうん。それで?」

「――つまりです、こちらにおられるのは作家の佐竹雅也さんな訳ですが、その分身のペン・ネームたる竹生健さんが逃げ出してしまったのです。そこでこちらの佐竹さんは、態々わざわざお住まいのある東京を飛び出て、パオまで追いかけて来られたのです。そして、パオでもう数日間お過ごしになられているのですが、手掛かりはさっぱり得られない。そこでわたしと行き会ったのです」

「ああ、そう。そう云う訳なの」ニッキーは稍同情するような視線を雅也に向けた。「あなた、整理番号はお持ち?」

 言われて雅也はジャケットのポケットを探った。と、

22960247

 と番号の記載があるプラスティックの小プレートが出て来た。

「こいつ…ですかね?」

「ああそう、それそれ。ちょっと貸して?」

 ニッキーは雅也からプレートを受け取ると、暫くっと見ていた。たっぷり五、六分も見ているので、一体何が見えるのだろう、と雅也が不思議になり掛けた時、ニッキーは顔を上げた。が、眼は中有を泳いでいる。

「22960247…、か。どれどれ…、ふんふん、ええと、なになに…」

 雅也は赤坂の脇を小突いて、

「一体このしと、何やってんです?」

 と問うた。赤坂は苦笑いして、

「まあ、見ててご覧なさい」

 と言うだけだった。やがてニッキーは、

「32」

 と大きな声で言った。赤坂は、

「さあ、始まったぞ。今日はどんなご託宣たくせんが聞けるのかな」

 とぼやいた。

 ニッキーは雅也にプレートを返すと、

「三十二、という数字はね、決して悪い数じゃありませんよ。そりゃ、靴下を裏返しに穿いたり、レクサスで袋小路に迷い込んだり、焼いたばかりのヤキトリを猫に食べられたり、大事な会議の席上で馬鹿笑いして白い眼で見られたり、そういう程度の悪いことは起きるかも知れません。はい。覚悟しててね。だけど、それ以上の悪いことって云ったら、特にないわねえ。――だけどね、ペン・ネームのことは、残念だけど諦めるモードにしておいた方がどうやら賢明みたいね。――ところで、その、タケフ・ケンさんは、どういう恰好の方?」

 赤坂が、

「先ほども申し上げた通り、こちらの佐竹さんの生き写しです」

 と言うと、ニッキーはコーラの瓶の底ほども厚みのある眼鏡の奥で眼をぱちくりさせて雅也をまじまじと見やり、

「あらぁ」と残念そうな声を上げた。「あら、そうなの、まぁ…」

 雅也が、

「一体何だってんですか?」

 と問うと、

「いいえ。何でもないわ。ただ、女性にはもてそうにないわねぇ、って言いたかっただけなの」

 と言った。

「はっきり言ってくれるよなぁ」

 雅也は赤坂に日本語で言った。

「まあ、そこがニッキーのニッキーたる所以ゆえんですから」

 赤坂は気の毒そうな笑みをうっすらとうかべて答えた。

「あなた、結婚はなさってる?」

 ニッキーは問うた。

「はい、しています」

「あらそう。それなら、まあ捨てたものじゃあないわね」

「どう云う意味です?」

 雅也はニッキーに直接訊ねた。

「うん、結婚できるくらいなら、中身はたしかだ、ってこと。…それで、あなたのペン・ネームだけど、しかしてあなたたち、――ええと、佐竹さんのペン・ネームの…竹生さんがここに来ているかも知れない、と思って今日いらしたのかしら?」

「いかにも、その通りです」

「わたしが憶えているかも知れない、と思って?」

 雅也は赤坂と声をそろえて、

「その通りです」

「それは残念。あたしは竹生さんに就いて記憶は全くないわねえ。ここは通過したんじゃないかしら。――ほら、ここに来ると、整理番号を確認するから、記録が残るでしょう。その記録をもとに、一体ここで何をどうやって調べたのか、それが判ったら、足が付く、って訳ね。だから、図書館都市には寄らなかった、と云うのがあたしの見解。序に云えば、佐竹さん、あなたは朝、もう一寸念入りに顔を洗ったほうがいいわね。きちんと髭も剃ること。毎日お風呂にも入ること。一日三度、歯を磨くこと。これを確り励行すれば、きっと運も向いて来るわね。何しろあなたは32なんですもの、一寸した努力を続けていれば、多分うまい方向に運ぶんじゃないかしら」

 雅也はちょっと眉をひそめ、

「それ、何です?」

 とニッキーに問うた。ニッキーは、

「数占いよ」

 としゃらりとして答える。雅也は一気に気が抜けた。

「まあ、いいや」雅也は言った。「ぼく、占いは余り関心がありませんでね。申し訳ありませんが」

 すると、ニッキーはた眼鏡を直して、

「佐竹さん、あなた、今よくない車にお乗りになられてるわね?」

「ええ、車、ですか?」

「そう。車。――ええっと、セルシオ、とか云う名前じゃないかしら」

「大当たり」

 雅也はる。

「ええっと…、クラスはC、ね。二〇〇四年製造。中古で買って、走行距離は購入した時点で八五〇〇〇キロだった」

「ええ? まあ、その通りですけど…、何で判るんです?」

 ニッキーは不敵な笑みを泛べて、

「あたしにゃ判らないことは何もないのよ。あたしに掛かったしにゃ、丸裸にされると覚悟なさい」

 と強がったようなことを言う。

 赤坂は、

「いや、本当は強がっているだけでね、相手のごく些細なことが判るだけなんですよ。今朝食べたものの献立だとか、今日の行程とか、ね…」

「ふうむ」雅也は少し考えて、「じゃあね、ニッキーさん、ぼくは今日どことどこに行くか、判りますか?」

「そうね」ニッキーはた眼鏡を直した。

パオ温泉。あと、UFO研究所。そんな所じゃないかしら」

 孰方どちらも初耳である。

「ぼくはもう少し、この図書館都市で過ごしたいのですが」

「ここは、探し物をするひとのための場所よ」

「ぼくは探し物をしていると言っているじゃありませんか」

「ここではお探しのものは見つからないわ。それだけは断言できます」

「それでも、少しくらい観光したって悪くないでしょう」

 ニッキーは肩をすくめて、

「まあ、ご随意に」

 赤坂は、雅也に、

「図書館都市と云うのは、このような小部屋セルが並んで集合体を形作っているところなのです。それぞれの小部屋には、〝魚類〟とか〝珍しい石〟とか、一つひとつテーマがあって、それに沿った書物が…、おびただしい数の書物が集められているのです。それでね、一つ大きな欠陥があって、この図書館都市を支援しているのは、NYの〝ランダムオフィス〟社なんですよ。ですから、一口で云うと、書物の洪水。どこもかしこも本で溢れ返っています。整理番号は〝NDC〟法に則って付けられているのですが、そんなもの無意味です。本の山ですよ、どの図書館も。地震が来ると危ないので、パオの本部からも通達が来ているはずなのですが、一向に改善される気配がない。そう、この部屋の情態をもう少し酷くした感じ、とでも云えば宜しいでしょうか」

 それを聞いた雅也は、他の図書館を廻ることは断念することにした。

「残念だなあ」

「まあまあ。ぼくが、パオの面白そうな所をご案内しますよ」

 ――と、唐突に雅也の足元がぐらついた。雅也はふらついて思わず隣の赤坂に縋り付き、おかしいな、ぼくはメニエル氏病ではなかったはずだが、と考えた。

 ところが、赤坂も又、雅也に抱き付いて来たのである。

「うひゃあ」

「これは…、地震ですね」

 赤坂は寸分も乱れぬ落ち着いた口調でコメントした。

「――じ、地震だって?」

「ええ。この辺りは時々ありますから」

「この位の地震?」

「そう。この手のやつですね」

「そうですか…」

 雅也がそう言った時、揺れは止んだ。赤坂は、

「これは震度4・5クラスですね」

 と言ったが、その言葉の末尾は雅也の耳に届くことはなかった。

 と云うのも、

「キャーッ!」

 と云う女の金切り声と共に、何か重たいものが落ちてくる、どさりどさり、がさりばさり、という音があちこちから聞こえて来たからである。

 赤坂はそれを耳に留めて、

「…ねえ、佐竹さん、一寸様子を見て来ましょうか」

 と言い、雅也の返辞は待たずに〝図書館都市〟の本部に足を向けた。

 雅也も追ったが、入り口まで来ると赤坂同様、はたと足を止めた。いや、足の方が止まったのだった。

 そこには、最早何もなかった。

 空間は確かに広闊こうかつとしていた。

 本の山がすべて崩れたお蔭で。

 そして、床の上には書帙しょちつの海ができていた。

「こりゃあ…」

 雅也は茫然と見ていたが、赤坂は、

「ニッキーを助けなくちゃ」

 と言って、本の海の中に足を踏み入れた。そして、幾度か崩れた本に足を取られて転びそうになりながら、何とか窓際のデスクの辺りに辿り着いた。

 が、その時、

「いやあ、痛ァい。痛いじゃないのよう」

 と云う声が赤坂の足元から聞こえて来た。赤坂は慌てて飛び退すさり、

「ニッキー、そこにいたのかい。ご免よ。いま楽にしてやるから」

 と言って、足元の書物を左右に搔き分けて道を作ろうとした。けれども、掘っても掘っても後から後から本が出てくる。

 デスクの辺りからは、

「息ができないのよう。早く助けてぇ」

 とニッキーが泣き声を上げている。

 赤坂は雅也を振り返り、

「済みませんが、お手をお借りしてもよろしいですか?」

 と言ったので、雅也もっと我に返り、

「あ、そうだね。…手伝うよ」

 と言って戦列に加わった。

 二人で半時間ほども闇雲に作業すると、漸くニッキーの足が出て来た。グレイのパンプスは雅也にも見覚えがあった。

 それに勢い付いて、ニッキーの足や胴体の方に向かって掘り進むと、十五分ほどでニッキーの顔が出て来た。血の気がなく真っ青だ。

「ニッキー」赤坂は呼びかけ、ピシャリピシャリと頬を叩いた。「ニッキー、ウェイク・アップ」

 すると、地の底からでも聞こえて来るような吐息の音がして、

「ウーム」

 と悶える声を上げ、遂にニッキーは覚醒した。

 床の上に座り直すと、

「ああ、怖かったァ」

 と述懐じゅっかいした。

「どう、気分は? ブランデーがあるけど、飲む?」

「ううん、今はコニャックの方が欲しいけど、贅沢ぜいたくは云えないわね。ブランデー、頂くわ」

 赤坂は上着のポケットから小瓶を取り出してニッキーに手渡した。ニッキーはそれをがぶがぶと一息に五、六口もあおった。

「ぷはぁ。ああ、やっと一息ついたわぁ」

「ニッキー、身体は何ともない? ぼくが一寸診てあげようか?」

「うう、多分大丈夫だと思うけど。骨は折れてないみたい」

 と、雅也はニッキーの額にそれを見て、その途端笑いがこみ上げて来た。一旦顔の筋肉を緩めさせた笑いはもう止まらず、雅也は爆笑した。

 そんな雅也を見て、赤坂とニッキーは、

「なに、何? 一体何がどうしたってのさ?」

 とぽかんとしていたが、雅也がニッキーの額を指すと、赤坂もにっこりした。独りニッキーだけが、

「何よう。どうしたのよう」

 と不審がっていたが、雅也も赤坂も、まさかニッキーの額の真ん中に「貸出手続き済み」の真っ赤な判子はんこが押されていることなど云えず、ただ笑うだけだった。

 軈て二人の笑いの発作は収まり、赤坂はポケットからハンカチを出して涙を拭った。それで大体笑いには決着がついた。

 ニッキーは一人でぽかんとしていたけれど、ブランデーの残りを呑むと落ち着いて来たのか、

「ああ、暖かくていい気持だわ。赤坂くん、軽く診察してくれる? 内臓をやられているとことだから。あたしは一寸休みたい気分」

 と言うと、手近の柔らかそうな本を枕にしてすやすやと寝入ってしまった。

「きみ、医者でもないのに診察なんかできるのか?」

 雅也が問うと、

「診断ソフトがインストールされているので、基礎的な診断なら可能です。エイズとかアルツハイマーとか、複雑な病状は検出できませんが…」

 と言うと、ニッキーの脈をとったり、腕や足の骨の具合を確かめたり、胸の辺りに手を当てて心臓の方を診察したり、十五分ほどニッキーの身体を弄り回していたが、

「うん。何もないでしょう。大丈夫だ」

 と言うと立ち上がった。

 雅也はその様子を見てすっかり感激してしまった。この間の診療所で会った医師の卵だという連中より百倍も有能そうだ。

「きみ、凄いじゃないの。何でもできるんだね?」

「ええ、インストールされているソフトによりけりですが、火中水中の栗を拾ったり、宇宙空間で作業をするような、そもそも人間には活動できない條件じょうけんでは動けませんが、陸上ですることには大体対処できます」

「あの、パオの診療所より百倍もできるんじゃないの?」

「ああ、あれですか? あそこは評判悪いんですよ。二人ともそっくりさんがやってる偽物ですし」

「あれえっ、ありゃ本物のポールとジョンじゃなかったのかい?」

「違います」赤坂は断言した。「誰かがふざけてイギリスから二人に似た人物を探して、芝居を仕込んで、それから診療所に送ったんです。二人ともジョンとポールにそっくりだという点を除いて、全く関係はありません。縁も所縁ゆかりもありません。また、医学の〝い〟の字も知らない二人です」

「なあるほどね」雅也は深々と溜め息を吐いた。「そういう訳だったのかい」

「そうです。パオには注意した方がいい場所が、いくつかあります。これからわたしがあなたをお連れしようと思っている〝パオ温泉〟もその一つなんですがね。――所で、佐竹さんは軽装ですが、どこかに荷物は置かれているのでしょうか?」

 雅也は、古田島漢方研に泊まっていることを話した。

「ああ、あそこなら信用できますよ。…古田島さんとは入魂じっこんになさっているのですか?」

「大学で同窓だったんだ」

「ああ、成る程」

 と言って赤坂は黙り込んだ。その沈黙には何か意味があるらしいことを感じ取った雅也は、

「きみ、今日の宿は決まってるの?」

 と試しに問うた。すると赤坂は、

「いえ、実は未だなんですよ。――まあ、最悪の時には〝パオ温泉〟に行ったり、それでもらちが明かなければ野宿とかもするんですけどね。でも、草の露は繊細なシステムには毒でしてね」

「そうか。それじゃあ、ぼくが古田島に話して、きみも一緒に泊まることにするかい?」

 雅也がそう言うと、赤坂は幸便こうびんとばかりに、

「そうして頂ければとても助かります。ぜひよろしくお願いします」

 と言った。雅也は、

「それはいいが、このパオの他の図書館は無事なのかね?」

「ええ。こういうことは度々起きますから。皆慣れたものですよ」

 とさらりと言う。

 じっさい、雅也が赤坂と歩きながら他の〝図書館〟を通りすがりに覗いてみると、どこも復旧へ向けた作業が進んでいるようだった。

「けど、ぼくらがいなかったら、ニッキー、命が危なかったんじゃない?」

「その時はその時。ケ・セラ・セラ」

 と赤坂は全く意に介しない。が、雅也も田中俊介に聞いたパオの流儀を思い起こしたので、それ以上は黙っておくことにした。雅也は、

「話は変わるけど、〝パオ温泉〟ってどんなとこだい?」

 と話頭わとうを転じて問うた。

「まあ、実際に行かれてみれば判りますよ。佐竹さんは温泉はお好きですか?」

「ああ。好きですよ。箱根や熱海に定宿がありましてね。うちは家内のほうが温泉にはうるさい方かな」

 すると赤坂は、

「それなら、あまり期待しない方がいいですよ。ちょっと危ないところですから…。それより、そろそろ昼ですから駅前で食事をとりませんか?」

「ああ、いいねえ。そう云われると一気に疲れが出るよ。腹も減った」

「佐竹さんは、何がお好みですか?」

「基本的に極端に辛いもの以外だったら、何でもいけますよ」

「じゃあ、ファストフードでも?」

「ええ。なに、〝マクドナルドパオ店〟とかあるの?」

「マクドナルドはないけど、モスバーガーならありますよ」

「そう。…ファミレスは?」

パオへは〝デニーズ〟と〝ガスト〟が出店していますが、残念ながらどちらもここの駅前にはありませんね」

「それじゃあモスバーガーだけ?」

「ええ、そうです」

「いいよ。メニューは日本と同じなのかな?」

「大体同じです」

「そうか」

 話しているうちに二人は段丘をすっかり降りてしまった。雅也が駅前を見渡すと、確かにモスバーガーの店舗がある。ほか、スターバックスやエクセルシオール・カフェもあったが、雅也はモスバーガーでいいと言った。

 店に入ると、そこそこ混んでいるが、席は確保できる。雅也はモスチーズバーガーとチキンバーガー、オニポテににんじんマリネサラダ、メロンソーダにコーンスープを註文した。雅也が見ていると、赤坂もとびきりハンバーグサンドなどを誂えている。

「コンピュータなら、喰うのは電気じゃないかと思ってたけど」

 雅也が冷やかすと、赤坂は、

「ええ。この食物をエネルギーにして、肝臓で電気にコンヴァートするんです。ぼくはそれで駆動します」

 と言って、ペプシにモスシェイク、ココアとソフト・ドリンクを三種類も頼んでいる。

「甘党なの?」

「いいえ、酒も呑みますよ。エネルギーに変換しやすいのは糖分が一番手っ取り早いですから」

「ああ、成る程、そう云う訳ね」

 雅也は感心した。

「でも、身体を維持していく上ではたんぱく質も欠かせませんし、ヴィタミン類も取っておかねばなりませんから、積極的に補給しています」

「ふうん」

 雅也はハンバーガーにかぶり付きながら言った。

「佐竹さんも、変わった方ですね」

 赤坂は苦笑しながら言った。

「? どうして?」

 雅也が問うと、

「佐竹さんはご自分の血を分けた分身に逃げられた訳でしょう。それなのにこんなに悠長にしていられるなんて、ちょっとぼくには考えられませんね」

「いやあ」雅也も笑った。「最初、出発した当初はぼくも、鵜の目鷹の目で探すつもりだったよ。妻もそうしろと云う顔で見送ってくれたしね。…だけど、着いて早々、出くわしたのがイリノイ大学の連中でさ。鯰の研究を手伝う羽目になってね。それで毒気どっきを抜かれた、と云っていいかな。あと、グランパオで田中さんにも会ったんだけど、のんびりやるようにさとされて、それで愈々いよいよ考えが変わった。それで、大学でドンパだった…失敬、同輩だった古田島と出会って、部屋を提供してもらって、そして列車の中で、オジー・オズボーンとトニー・アイオミに出会って、きみのことを教えてもらって、今に至る訳だ」

「ああ、あの連中にぼくのことを聞いたのですか。――ですが、ぼくはいつでも図書館都市にいる訳ではありませんから、まあ一期一会とでも云ったところでしょうか」

「あの、ぼくが会ったのは、〝本物〟のトニー・アイオミなのかな?」

 雅也が問うと赤坂はうっすらと笑みをうかべ、

「さあ、それはご想像にお任せします」

 と言っただけだった。

 二人は食事を終えて立ち上がった。

「さあ、行きましょう。急がないと。――しかすると、竹生健さんも、〝パオ温泉〟に来ているかも知れない」

「それ、どんな温泉なの?」

「んー、ただの温泉と云えば普通の温泉ですよ。だけど、一寸変わった点がありましてね…。まその辺は、ご自分の眼で確認なさるといいでしょう」

「ここからだとどの位離れているの?」

「快速列車で十五分です」

「あ、結構距離あるんだ」

「だから急がないと。次の快速が発車するのは五分後です」

「え? どうして判るの?」

「お忘れですか? わたしはコンピュータですよ」

「ああ、そう云えばそうだったな」

 二人は駅へ急いだ。何とか快速列車には乗れて、無論二人とも一等に席を占めた。

「三等が無蓋貨車だなんて、非道ひどい話だよな」

「ああ、でも、スリルを求める若いひとには人気がありますよ」

「ふうん、若向きというわけか」

「そう。帽子を飛ばされたり、スカートがめくがったり、そんなのを楽しむ連中が乗る車輛ですよ」

 雅也は辺りを見回した。

「今度はロック・スターは乗っていないようだね」

「これまで、誰に会いました?」

「あとはジョナサン・リッチマンくらいだけどね」

「そうですか。いい旅じゃありませんか」

「そう。こんな牧歌的なところでひとの後を追わなきゃならないなんて、本当は気が進まないんだがね」

「さ、そろそろ着きますよ」

 赤坂の言葉通り、快速列車は間もなく〝パオ温泉〟駅に停車した。

 改札口を出ると、雅也の眼の前には鬱蒼うっそうと茂る林が見えた。それだけである。

「あれ? 温泉なんてないじゃないか」

「少し歩くとありますよ。――その前に、娯楽センターもありますが。そちらに先に寄って見ましょうか」

「娯楽センター?」

「そうです。娯楽センター」

 赤坂はせかせかした足取りで林の中に入って行った。猫柳や木蓮などが植わっている。雅也も慌てて後を追った。

 雅也は不思議に思ったのだが、駅前から林の中に入っても、ひとには出くわさないのだった。温泉と云うからには観光地である筈だ。それなのに誰にも会わないというのは少し妙ではないか。

 が、速足の赤坂に付いて、ものの七、八分も歩くと〝娯楽センター〟らしき建築が見えてきた。年季が入って表面がくすんだコンクリート造りの、三階建ての建造物である。

 赤坂は一階の戸をして入った。雅也も兢々きょうきょうとしながら中に入った。

 と、中では人声がする。

 赤坂は手近の階段を上って二階へ向かった。

 二階にあがると、そこはだだっ広い広間になっていて、畳の上にマットが敷いてあり、二十数名もいたろうか、確かにひとがいた。が、どことなく様子がおかしい。皆無気力にマットの上に横臥おうがし、時折ぼりぼりと身体のどこかをむしるばかりで、隣の人間と会話を交わす以外はぐったりしている。

「どうしたんだろう、みんな?」

 雅也が思わず声を立てると、一部の者がこちらを振り向いた。すると中の一人ふたりがよろけながら立ち上がり、

「やあ、赤坂さんでねえの。また新しいお客さんかい?」

 と言った。赤坂は首を振り、

「残念ながら違います。今日連れて来たのは見学者です。…あなた、あなたは確か右腕と右の太腿だったでしょう。このひとに患部を見せてあげてくれますか?」

 赤坂が問うと、男は笑ってうなずき、

「いいともさ。それ」

 と言って、右の袖を捲り上げた。

 雅也の眼には、最初、荒れ果てた荒蕪地こうぶちのような右腕の皮が見えるだけだった。――だが、眼が暗がりに慣れると、段々見えて来たのは、無数の暗い穴だった。あるものは潰れた長方形、あるものはひしゃげた楕円形、またあるものは不定形…。と、直径が五ミリから十ミリほどの細かな穴が皮膚の上に無数に並んでいるのだ。

「これは…」

「これは、実を申しますと、わたしが造り出したものなのです」赤坂はやや忸怩じくじたる口調で告白した。「一種のかびです。元はアカパンカビなのですが、これに改変モディファイを加えることで、全く違った黴になってしまいました…。わたしは失敗作だと思ったのですが、この黴の胞子を入れたドリンク剤を、故意にか誤ってか、誰かが飲んでしまったのです。それで、この黴の胞子が拡がる切っ掛けになった訳なのです。空気では感染しません。この〝パオ温泉〟の出湯に浸かったひとだけが感染します。この黴に感染すると、このように皮膚の一部が硬くなり、無数の穴が開きます。これは、全て黴が皮膚を侵し、繊維質を作ってできた結果なのです。そればかりではありません。この穴からは、四六時中、黴がヒトの細胞を代謝した産物と思われますが、糖蜜のように甘い液体が分泌されまして、夜になるとカブトムシやハエは云うに及ばず、ゴキブリやガも蜜を吸いに来ます。黴に感染したひとは一体に無気力になり、ここと温泉とを往復するだけの生活を送り、やがて死を迎えます。温泉は摂氏五十℃と熱めなのですが、アトピー性皮膚炎の患者のように、熱い湯が沁みると一種の快感がもたらされるようで、誰もここから離れようとしないのです」

 と語った。

「え? きみが作ったの? この黴を?」

「ええ…。マリャベッキ博士の云う通りに作った結果です。わたしの罪過だと思っています」

 赤坂は悄然しょうぜんとして言った。

「一体何のために?」

 赤坂は肩をすくめた。

「判りません。あの博士は神出鬼没で時折訳の判らないことをしでかしますので、一種のジョークのつもりでやったのかも知れません」

「――で、その肝心の博士は今どこに?」

「わたしには判りません。わたしは大概の主要な人物――勿論わたしにとって重要、と云う意味ですが、そう云うひとたちの場所は大体把握しています。これからは佐竹さんもその一人に加わるでしょうね。併し、あの博士は、レーダー除けの特殊な加工を施したものを身に着けているらしくて、今も居所は悉皆さっぱり判らないのです」

「ふむ。で、その黴はどこで拵えたの?」

「どうも博士はわたしが休息を取っている時間に勝手にわたしをHPCモードに入れて、わたしの演算機能を使用した様なのです」

「そりゃ問題じゃないか。抗議はしたの?」

「いやあ」赤坂は頭を搔いた。「あの博士は、わたしの恩人みたいなものですから、逆らえないのですよ」

「それで、きみ、ずっとこのパオにいるつもりなの?」

「そうですね。日本に戻っても余りいいことはなさそうですし…」

「だけど、それだけの機能を持っているなら、どこの一流企業に行っても重宝されるだろう」

「慥かに、最初はね。初めのうちは大事にされます。だけど、少しずつ慣れて来るに従って、部内の誰もかれもがぼくを頼り出すのです。わたしを万能の装置として扱い、ありとあらゆる面でわたしに依存するようになるのです。わたしはくたくたに疲憊ひはいして、疲れを翌日翌週まで持ち越すことになり、結果的に動作不良を起こして働けなくなり、そうなると掌を反すようにお払い箱にされるのです」

「そうかあ」

 二人は話しながら温泉の方角へ向かって歩いていた。

 少しすると、温泉施設らしき建物が見えて来た。入り口は一つしかない。

「混浴なのかい、ここは?」

「そうです。――と云っても、女性は一人もいませんよ。あの黴が蔓延しだしてからは、女性客は一人たりとも来なくなりましてね。男だけです」

「そうか。じゃあ、公然と入れる訳だな」

「それより、露天風呂が外から覗けますから、見てみますか」

「――いいけど。覗きは余り趣味に合わないが」

「どうせ男ばかりですから。気軽に覗けます。わたしもいつもここに来るたびに覗くのです。会話をすることもあるし、しないこともある」

 赤坂は、雅也を温泉施設の裏手に連れて行った。

 赤坂の言う通り、躑躅つつじの植え込みの向こうに露天風呂があった。

 雅也の見たところ、男性客が十人ばかり湯に浸かっていた。

 皆、眼を閉じて陶然とした表情を浮かべている。

「ふうん。皆寝ているのかな?」

「いや、湯中りするまでここに浸かって、ふらふらになったら娯楽センターに戻る。そうやって往復して、連中は日を過ごしています」

「連中、って云っても色んなひとがいるだろう。どんなひとがメインなの?」

「――まあ、元々は日本やアメリカで真っ当な職に就いていたんだけど、パオに何度も来ているうちに入り浸りになって、…まあパオ中毒、とでも申せましょうか、それでそのまま居着いてしまって、そのうちに黴菌に感染して、この温泉に辿り着き、ここで生涯の残りを過ごそう、と考えている、と云ったくちが多いですね」

「あのひとたち、何も食べていないようだったけど?」

「そう。あの黴に感染すると、食慾が著しく減退します。その上でああして身体から糖蜜を分泌する訳ですから、命が長く続く訳はありません。みな、死の転帰をとります」

「恐ろしい話だなあ…。葬式は誰が挙げるの?」

「そんな七面倒くさいことはここではやりません。みな野垂れ死にするのがご定法です。歩いているうちによく見ていると、道端に骨と皮だけになった屍体が転がっているのを眼にすることがありますよ。まだ身体からは微かに糖蜜の匂いがするので、野良犬が舐めたりしますがね。――さあ、行きましょう」

「それはいいが…、あなたはどうしてぼくをこんな所に連れ込んだの?」

パオについて、様々な角度からご覧になって頂くためです。あなたはこれまで、パオの健全な面しか見て来なかった。謂わば〝裏のパオ〟もお見せするのがわたしの仕事かと思いますので」

「ふうん。ま、そりゃいいけど、気の毒なひとたちだね」

「いいや、同情には値しません。皆自業自得なのですから。――まあ、パオの恐ろしさをいちばんよく知っているひとたち、とでも云えますか」

「本当に、空気感染はしないのだろうね?」

「はい、しません。佐竹さんは感染していませんよ。…尤も、向後包パオに〝ハマって〟、何度も来ているうちにあそこで末路をたどるような仕儀になるかも判りませんがね」

 赤坂はそう言ってたうっすらと笑みを浮かべた。

「ふうん…。パオの良い面に就いても、未だ教えて貰えるのでしょうね?」

「そうですね。まだいろいろありますからね。わたしに従って行動していれば、これ以上危ない目には遭いませんよ」

「危ない目、って…、ああそうだ、あの偽ポールたちが、〝ムルの親方〟がどうの、と云うのを耳にしたんだが、そんなのかな?」

「ええ、その通りです。あなたは耳ざとい方ですね。普通の観光客はそんなものと関係は持ちません。持たない方が宜しい。〝ムルの親方〟と云うのは、一種の大人たいじんなのですけど、このパオで闇の権力を持つ三勢力の内の一つを仕切っている存在です。傘下に入ればそれなりに役得もありますが、パオが初めての方は余り近づかない方が宜しい」

「三勢力? 後の二つはなに?」

「あと二つはベルトラムと呼ばれている集団です。これはパオの中の物資流通を牛耳っていて、暴力的なところもある粗暴な組織です。最後の一つは、目今まだよく判っていない存在です。人間ではない、と云う説もありますし、――まあ、謎めかしているだけなのかも知れません、幽霊の正体見たり、みたいになるのかも知れませんが、えずいまの所は一番危険な存在だ、と断言して問題はないでしょう」

パオは、最初、平和的な共同体として始まった訳だろ? どうしてそんなみょうちきりんな連中が入り込む隙ができたのかね?」

「平和的な共同体だったから、ですよ」

 赤坂がそう言って笑った。無気力な笑いは雅也にも伝染した。

「なるほどね」雅也はた笑った。「田中俊介さんにも、解決できない問題が裏の方にある、という訳か」

「そう。――田中さんも気付いているのかも知れないが、今は様子を静観しているところなのでしょうね」

「先ず、一番賢明なやり方、と云える訳だ」

「そうです。安全ですね。――さあ駅に着いた。次は〝UFO研究所〟へ行きますよ」

 二人は次の各停に乗り、四つほど先の〝UFO研究所前〟という小駅に降り立った。

 ここは日中もほとんどひとの乗り降りがないらしく、駅員はおらず、二人はプラットフォームの上で車掌にパスを見せて駅を出た。

 駅前も閑散としている。他のパオには必ずあった、土産物や土地の産物を販売するような出店は一つもない。

 ただ、駅の前に三階建てで鉄筋コンクリート造りの建物が建っているだけだ。

「これが、〝UFO研究所〟なの?」

「そうです。ここは中々面白いところなのですがね、残念ながら不評が立って余り訪れるひとがいないのです。――その代わり、我われは存分に遊べますけどね」

「危ないことはないの?」

 赤坂は手を振った。

「ないですないです。あったらお連れしませんから。何もありませんよ。それに、わたしはここの所長と昵懇じっこんにしていますので、気楽に過ごせますよ」

 赤坂は歩きながらそう話した。

 間もなく二人は研究所の表玄関に立った。雅也が上を見ると、防犯カメラが取り付けられているのが判った。ダミーかな、とも思ったが、

「ここは、パオにしちゃ非開放的なところのようだね」

 と言うと、赤坂は頷き、

「そう。残念ながら、ここの所長さんはパオに来て苦労のし通しだったようでしてね、中々ひとに心を開くことがないのです。わたしも、信用と信頼を勝ち取るまでには三十回ほども来参しなければなりませんでした」

 赤坂は戸口の脇のボタンを押した。と、インターフォンから、気難し気な声で、

「はい。孰方どちらさまかな?」

 と云う誰何すいかの声があった。

「あ、いつもお世話さまです、赤坂です。今日はお客さまをひとり、お連れしました」

 と、暫く間があった。どうやら、所長なる男は防犯カメラで画像を確認しているらしかった。

 そして、稍時間をおいてから、

「ウム。入り給え」

 という声が聞こえ、遠隔操作だろう、ドアの錠ががちゃりと解錠される音がした。

「さ、入りましょう」

 赤坂は言って、先に立ってドアを開けた。

 ドアの向こうには、たれもいなかった。ただ、薄暗い廊下がまっすぐに走っているだけだ。二人が中に入ったとみるや、雅也の後ろで復たがちゃっとドアが施錠される音がした。

 ――これで、逃げられなくなった訳だ。

 雅也は瞬息ぞっとしたが、赤坂は平気の平左で、

「さあ、行きましょう」

 と言って歩き出した。

 長く小暗い廊下を二十五、六メートルも歩いただろうか、右手にパッと明かりが射している。部屋が設えてあるのだ。

「ここですここです」

 赤坂は言い、ガラスのはまった部屋の戸を優しくトントン、とノックした。

 と、背が低く、禿頭の、年のころ七十は越しているかとおぼしき老人が現れ、やはり気難しそうな表情を顔に貼り付かせたまま、内からドアを開けた。

「よく来たの。入りんさい」

 と言って老人はドアを広く開け、二人を通した。

 赤坂は、物慣れた様子で、

「あれから、あちらの調査はどうなりました?」

 とか、

「追加の目撃情報がありましたか。そうですか」

 などと気軽に会話をしている。

 雅也はちょっと入り込めなくて、離れたところから二人の様子を窺う、という態度でいたが、やがて若々しく美々しい女性が紅茶を運んで来てくれたのを機に、気持ちがほぐれた。

 赤坂と老人の間の会話の隙を縫って、

「今のお綺麗な方は奥さまですか?」

 と問うと老人は、

「いや、娘じゃ。――申し遅れたが、わたしは成瀬茂と云う。ここでもう大分長い間、UFO研究に打ち込んでおる。最初の内はそこそこ観光客も来て、そこの駅にも快速列車が停車するほどだったのだが、あの事件――口にのぼすのも厭なP-五五五〇事件があってからと云うもの、来る者は冷やかしばかりになってしまって、客数も次第に減り、いまのあり様になった訳だ。だが、著作は海外で多少売れておって、そのお蔭でここで何とか食い繫いでいる次第じゃ」

「ご研究って、どんなことをなさっているのですか?」

「うむ。まず、UFO飛来説の証明じゃな。これは、古文献にちょうして明らかなことなのだが、UFOは確実に数百年前の世界に降り立っている。そういう記述のある古文書が、日本はもとより、スペインはアンダルシア、それにアイルランド、ドイツ、ヴェトナム、中国などで見つかっておる。立証は可能なのじゃ。――ただ、政治的な問題で――ハンガー18の話はご存知かと思うが、アメリカも日本も、躍起になって隠そうと、もみ消そうとしているのだ。わたしの所にまで、アメリカのCIAのエージェントが来たことがある。尤も、パオの中に入って来たので、攻撃的な態度や威圧的・高圧的な態度は取れなかったようだがの。パオを研究の場に撰んだわしの眼も、案外節穴ではなかった訳だ」

 老人は笑った。

「――はあ。古文書に記録がありますか」

「ある」老人は断乎として言った。「だが、どの文書なのか、という点は、知らない方が身のためじゃろ。お主、仕事は何をなさっておいでかな?」

 雅也は一寸迷ったが、

「一応、小説を書いてやっています」

 と答えた。老人は深々と頷き、

「そうか。それなら尚更のことだ。聞かない方がいい。ジャーナリズムに入ると、結局わたしの様な存在は玩具のように弄繰り回されてぽいっと捨てられるのが関の山だからな。わたしのことは、書くには及ばんよ」

「判りました」

 雅也は襟を正して答えた。老人は復た頷き、

「それから、二つ目の研究内容は、UFOの試作だ」

 と言ったが、その口調は、嗤いたいなら嗤うがいい、というような投げ遣りなものだった。雅也は眼を丸くして

「作る。UFOを?」

 老人は頷いた。

「そうじゃ」

「どうやって、ですか?」

 だが、老人はその言葉には直截な返辞はせず、

「わしの知り合いに、唯野仁という男がおる。東京の、早治大学という学校の文学部で教授をやっている男なのだが、この男の近所にいる、天皇陛下のご友人だという人物は、千五百円でUFOが作れる、と言っているそうだ」

「ははあ」

「わたしも、UFOを幾つか試作してみた。千五百円という訳にはいかなかったが、それでもそれなりに成果はあった。つまり、飛翔体として充分な、いや、十二分の性能を備えていた訳じゃ。――まあ、あんたはここへ来て未だ日が浅いのだろう。ゆっくりこの辺を廻って、それでまた関心が湧いたらここへ来るがいい。研究中のUFOも、その時お目に掛けよう」

 と、二人はUFO研に入ってから五十分ほど過ごしただけで、体よく追い払われてしまった。

「何だか、警戒心の強そうなひとだったな」

「ええ。初対面の相手には、特にその傾向が強いです。でも、あなたは未だ信頼された方ですよ。他にも、作家とかジャーナリストとか肩書の付いたひとを連れて行ったことがあるのですが、その時は十分しか滞在が許されなかった」

「へええ」

「いいひとなんですけどね。さて、未だ日は高いし、今日はもう一か所廻りましょう。それから、――わたしの今夜の宿のことなんですが」

「うん」

「確実に、わたしは泊めて貰えますか?」

「ああ、請け合うよ。古田島とは気心が知れているし、ひとり客が増えてもどうということはない筈だ」

「そうですか」

 赤坂は安堵したようだった。

 列車に乗ると、赤坂はガイド・マップを取り出して、UFO研から三つほど離れた〝豚空とんくう〟と云う駅を指した。そして、

「ここは、お香を売っている店が多く集まっています。しかしたら、竹生健さんの足跡も残っているかも知れませんよ」

 と密やかだが実感のこもった声で言った。

 ――そうだ、ぼくは竹生健を追っているのだった。

 雅也は急にもどかしくなって来て、赤坂に、

「ぼくは、時間を浪費したのではないかね?」

 と問うた。

「浪費? いえ、そんなことはありませんよ。ここで過ごす時間には、無駄はありません。却って無駄と思われることを続けている方が、正確な答えには近いのです」

 赤坂は断言するのだった。

 鈍行列車は、途中で快速列車に追い抜かれたりして、〝豚空〟駅まで二十五分も掛かって着いた。

 〝豚空〟は駅も大きく、駅前も賑やかだった。ひとや車、馬に自転車、と列が絡繹らくえきと続いている。

 赤坂の云う通り、駅前にも「香」「お香あります」などとうたった招牌しょうはいが出ている。

 雅也は、

「ちょっと、その辺の店を見ても構わないかな?」

 と言ったが、赤坂は首を横に振った。

「こんな所では見つからないでしょう。仮令たとい見つかったとしても、贋物である可能性が高いです。――それに、我われに取っては、お香を探すよりも、竹生健さんを探すことの方がずっと重要な訳ですから、放っておきましょう」

 と言ってずんずん奥の方へ歩いて行った。

 雅也は、

「じゃあ、きみは一体、何を目当てにしているんだい?」

 と問うたが、赤坂は、

「――…ちょっと待って下さい。今、必要な情報を集めているところですから」

 と言った切り、妙に寡黙になって歩くばかりだった。

 雅也は赤坂と並んで歩きながら、多分〝バイオ・インストレーション〟されたCPUで演算処理を行っているのだろうな、と思った。

 併し、それで何が判ると云うのだろう?

 雅也が黙って付いていくと、赤坂は次第に速足になり、角を曲がり、裏路地に入り、階段を上がり、た真っ直ぐ歩き、どんどん駅から離れて行くので、雅也はだんだん心配になって来た。だが、赤坂はまるで獲物の臭いを嗅ぎつけた猟犬のように、半ば走るようになってまっしぐらに進んでいく。

 雅也は、

「ねえ、赤坂くん、何か判ったのかな?」

 と問うたが、赤坂は、

「黙って」

 とつれない返辞をする。

 やがて、三十分も歩いただろうか、あるパオの前で、赤坂ははたと立ち止まった。

 それは、見たところ別に異状のない、普通のパオに見えた。「香」と大書した暖簾のれんが下がり、店の前にも、

「お香、各種あります」

 と日本語、中国語、英語で書かれた招牌が置いてある。

 赤坂は、

「ここですね」

 と言い、暖簾を潜った。雅也も慌てて後に従った。

 店の中は薄暗く、あまり繁盛しているようには見えない。

 赤坂は、椅子に腰かけて店番をしていた中老の女に向かって、

「玉青丹、ありますか」

 と単刀直入に問うた。女は落ち着いた態度で、膝の上に乗った猫の背を撫でながら、

「玉青丹? ああ、最近見ないわねえ」

 と答えた。すると赤坂は、

「マルボロのメンソール・ライト、三カートン」

 と訳の判らないことを言う。

 すると、女は様子を変え、中国語で何か言い返した。赤坂も早口の中国語で何か言う。

 二人の中国語会話の応酬に取り残された格好となった雅也は、詮方なしに店の中を見回し、店内に陳列してある品々を眺めていた。やはりお香の類が多いようで、サンダルウッドには、

「当店ナンバー1の売れ行きです」

 とプレートが貼ってある。

 …と、雅也は後ろから襟首を掴まれて、無理やり向きを変えさせられた。

 赤坂は、雅也の首根っこを掴んだまま、女に向かってその顔を突き出すようにし、

「……………!」

 と中国語で何か言った。女は、雅也の顔をまじまじと見て、矢張り中国語で、

「……、………………」

 と言う。

 赤坂と女は尚もしばらくやり取りを続けていたが、最後には女の方が根負けしたらしく、肩をすくめて、

「モウ、マイリマスネ、アナタニハ」

 とたどたどしい日本語で言うと、よっこらせ、っと立ち上がり、店の奥へと入って行った。

 赤坂は、雅也に、

「やはり、わたしの読んだ通りでした。竹生さんは、数日前に確かにこの店を訪れています」

 と言った。

「では、ここで玉青丹を買ったのですね?」

 雅也が訊ねると、

「いいえ。買ったのは別の包だ、と云うことです。ここは取次店みたいな役割を果たしているようですな。しかし、使ったのはこの店でのことらしいです」

「使った? じゃあ、竹生健はすでに…」

 赤坂は首を振った。

「未だ、判りません。救える状態にあるかも判りません。兎に角あの女を待ちましょう」

 二人が待っていると、奥の方でごとごとと何かを動かすような音と、男女の中国語の早口の会話が聞こえて来た。

 女が現れたのはそれから十分も経った頃のことだった。

「コチラニ、ナリマス」

 と言って女が差し出したのは、大きめの三角フラスコだった。口にはコルクの栓がしてある。フラスコの中には、藻や泥でどんよりと濁った水が入っていて、大きなオタマジャクシが一匹泳いでいた。

「これが――」

 雅也と赤坂は思わず顔を見合わせた。赤坂にもかなり驚きだったらしい。

「コチラデ、ヨロシカッタデショウカ?」

 女はそう訊ね、値段は四万ペカーリだ、と言った。赤坂は血相を変えた。

「この女、さっきは無料で差し上げるとか言っておいて…、ううむ、一筋縄では行きませんね。ぼくは四万も持ち合わせがないですよ」

 と、女を相手に値切り出したが、埒が明かなかったらしく、溜め息を吐いてその場にしゃがみ込んだ。

 が、雅也は落ち着いて、赤坂に、

「赤坂くん、ぼくはその位なら充分持っている。大丈夫、ぼくが支払いますよ」

 と言って、デイパックから財布を出し、女の言い値に更に一万上乗せした、合計大枚の五万ペカーリを差し出した。

 すると、それまで無愛想だった女はすっかり相好を崩し、オタマジャクシ入り三角フラスコを丁寧に箱に入れて手渡した。

 二人は毒気を抜かれて外に出た。

 赤坂は、

「これは確かに竹生さんだと思います。特にこのオタマジャクシが肝心なのでしょう。何とかこれを再生させないと…」

 とぶつぶつ言った。

「きみには、何も案は浮かばないのかい?」

 雅也が問うと、

「ええ。そろそろエネルギーが切れ掛かっていることもあるのですが、今は何も思い浮かびません」

「併し、一体どうして竹生健はこんなオタマジャクシに姿を変えたんだろう?」

「うん、色々事情があったのでしょうね。本人にしか判らない事情が」

「玉青丹を使うと、皆こうなるのかな?」

「さあ、わたしは生憎お香には疎いもので、確たることは言えません」

「そうかあ。――そう言えば腹が減ったなあ。そろそろ、古田島の研究所に戻るとしようか」

 赤坂はほっとしたように、

「ええ、そう願えれば幸いです。よろしくお願いします」

 と言った。雅也は、

「オタマジャクシねえ」と復たぼやいた。「何だってよりによってオタマジャクシになんかなったのかねえ」

 夕間暮れの道を歩きながら、雅也の怪訝の念は尽きない。

「オタマジャクシで未だ良かったのでは?」と赤坂。「カエルにまで変成メタモルフォシスが進んでいたら、それこそ二進も三進も行かないことだったのでは? 屹度、ひとが見たらカエルになれ、とでも云うような気分だったのではないでしょうか」

「――で、これ、これからどうする訳?」

 雅也は赤坂に問うた。

「そうですね。…一つだけ、当てがない訳でもないです。ですから、未だ絶望するには早いですよ」

「してないしてない」雅也は笑った。「ただ、こいつを上手く元の姿に戻せるのかどうか、それが気に懸かっただけでね」

 赤坂は、

「残念ながら、全く元の姿に、と云うのは無理でしょうな」

「ふん。じゃあ、どう云う身体になる訳?」

「それは、行ってみないと判らないです」

 駅に着いたので、二人はパスを見せてプラットフォームに出た。この時季だと未だ宵の口は少し肌寒い。駅も列車も、煌々と灯りを点している。

 軈て来た快速列車に二人は乗り込んだ。一等車は暖房が効いているが、この時間になっても三等車に乗る者がいるのを見て雅也は驚いた。

「何だあいつらは。平気なのかな?」

「まあ、ああいうのは蛮勇の内ですから」

「若者の特権か」

「ええ、そんな所です」

「そうかそうか。それは良かったじゃないか」

 雅也の話を聞いた古田島は快闊そうに笑った。

「済みませんが、わたしを、一晩泊めて頂けませんか?」

 赤坂が遠慮がちに切り出すと、

「構わんよ。何ならこれからずっとここで過ごしてもいい」

 と、赤坂の境遇を察したようなことを言ったので、訊いた本人は見るからにほっとしたような表情を浮かべた。

「しかし、玉青丹、なんて、実在したんだなあ」古田島は首を傾げて言った。「おれは、単なる都市伝説の類かと思っていたのだが」

「玉青丹は実在しますよ」赤坂は言った。「わたしのメイン・メモリにも入っていますから」

「メイン・メモリ? あんた――」

 そこで、雅也は古田島に対し、赤坂に就いて説明の労を取らねばならなかった。

 古田島はふむ、とか、ほほう、と云った声を発していたが、聞き終ると、

「そりゃあ、益々ここに欲しい人材だな」と言った。「おれの所の演算機は性能に限界があって、精度の高いデータ生成が出来んのだ。そのため、新たな漢方薬の開発もむつかしくなってしまっている。そんなに高い演算機能を持っているのなら、一日三千ペカーリくらい払っても釣り合うというものだ」

 赤坂は慌てて眼の前で手を振って、

「そんなに要りません。わたしは三度の食事と寝床を提供してくれさえすれば、後は一日演算していても構いません。――尤も、〝図書館都市〟や〝UFO研究所〟には時々お伺いしたいと考えていますが」

 と言った。古田島は呆れたように、

「何だ、それだけでいいのかい。慾のないひとだな」

 と怪訝そうに言ったので、雅也はフォローするために、

「赤坂くんは、俗情が薄いのさ」

 と付け加えた。

「成る程そうか。――所で赤坂くん、きみは酒は呑むかね?」

「はい。少しでしたら、お付き合いできます」

「あれっ」雅也は言った。「きみ、肝臓は大丈夫なの?」

「はい」赤坂は言った。「わたしのは強化肝臓ですから、多少のアルコールが入っても支障ありません」

「そうなのか。ふうん」

 軈て晩餐の時間になった。古田島は雅也のペン・ネームを見たいと言ったので、雅也は筐を取り出した。封を切ると、三角フラスコがその中に鎮座ましましている。

 古田島は、最初、雅也の取り出したものをジョークの一種と受け止めたらしく、可笑しそうに笑っていた。

 だが、雅也が真面目に、これが竹生健の成れの果てだ、と説くと、難しそうな顔をして、

「これをた人間の姿に戻すとなると、かなりな労苦が要るぞ、屹度」

 と宣告した。赤坂はそこで、

「あ、そこは抜かりなく。もう見当は付いていますから」

 と言ったが、今度は、

「どんな見当だい?」

 と質問の矛先は赤坂に向かった。赤坂は軽く咳一咳して、

「いや、それは明日、佐竹さんと一緒に参るまで伏せておきましょう。当てはある、と申しましたが、ぴったり合うものが見つかるとは思いませんので」

 と静かに答えただけだった。

 雅也は、

「併し、どんな所でどこにあるのか、位は教えてくれたって良さそうなものだろうよ」

 と言った。すると赤坂は、思慮深げに、

「そうですね」と言い、「明日行く場所は、軽便鉄道の駅の終着駅になります。そこから徒歩で数分のところです。行こうとしているのは、美術館です」

 雅也と古田島は、吃驚して、

「美術館?」

 と声を上げた。赤坂は落ち着き払って、

「そうです。美術館です」

 と答えた。古田島は、怪訝の念を強めたらしく、

「美術館、って、あの絵とかオブジェとか置いてある…、あの美術館だよね?」

 と問うた。

「そうです」

 と赤坂。

「そこへ行って、一体何をどうしたい、と云うんだい?」

 雅也が問うと、

「――んまあ、明日行けば判ります」

 途端に寡黙になる。

 古田島は、ベルを鳴らして、

「まあ、信頼するしかなさそうだな、このコンピュータ人間くんを。――そろそろ飯にしよう」

 と詮方なさそうに云った。

 夕食ではビールのほかに紹興酒も出た。雅也が見ていると、赤坂は粗目を入れた紹興酒を、平気の平左で何杯も呑んでいる。

「きみ、平気なの?」

 雅也は問うたが、赤坂は、

「これくらいなら全く問題ありませんよ」

 と平気な顔をして盃を乾している。そこへ古田島が復た酒を注ぎ足す。赤坂はそれを乾す。

 そうこうするうちに赤坂は酔いを発したらしく、俄かに立ち上がると、

「折角の機会ですから、ちょっと芸を披露します」

 と云った。雅也も古田島も、

「芸?」

 と思わず訊き返した。赤坂は、

「そう、芸です」

 と云うと上着を脱ぎ、歌を歌い始め、踊り出した。

 心事違うことに、赤坂の芸は中々面白く、雅也も古田島も興に惹かれて手拍子を入れた。

 赤坂は、

「伊豆の山々、月あわくぅー

 灯りにむせぶ、湯のけむりぃー」

 とか、

「籠で行くのは、吉原かよーい」

 などと踊りを付けながら歌い、雅也も古田島も飽きさせることがなかった。

 珍芸綺芸の類を披露した赤坂は、息を切らせて席に戻った。

「いやあ、大したもんでないの」

「きみは何でもできるんだね」

 赤坂も古田島も褒めそやしたが、赤坂は恬として、

「まあ、ああ云う類のものもわたしの機能の中に盛り込まれているものでして」

 と答えた。

 古田島は酔いと昂奮で顔をてらてらと赤くしていたが、時計を見て、

「お、もうこんな時間か。――二人とも、シャワーを浴びて寝るがいい。寝室はそちらに二た部屋用意してあるので、使ってくれ。――赤坂くんの今後の処遇に就いてはまた相談しよう。何かあったら、机上のベルを鳴らしてくれ。直ぐにお手伝いが行くと思うから」

 そう言った。無論赤坂にも雅也にも異存がある筈はなく、二人とも宛がわれた部屋で休んだ。

 翌朝、雅也が眼を醒ますと、午前八時を回っていた。ベルを鳴らすと、昨日のように小女が熱いタオルと洗面器を持って現れ、暫くしてから朝食の粥を運んで来た。昨夜強酒して荒れ気味の雅也の胃の腑には、中国茶が優しく沁みた。

 雅也がデイパックを持って廊下に出ると、赤坂が窓際に立って外を見ていた。

「お早う。赤坂くん」

 雅也が挨拶すると、

「お早うございます。ご気分は如何ですか?」

「まあまあ、だね。昨日は過ごしたようだが、体調は悪くないよ」

「そうですか。それは良かった」

「きみは?」

「ええ、幸いどこも支障ないです。今日はいい日になるといいですね」

「今日は、連れて行ってくれるんだろう?」

「はい。早めに出ましょうか」

「…美術館、と云ったね?」

「そうです」

「本当に、そこで、このオタマジャクシちゃんを人間の身体に戻せるんだろうね?」

「絶対に、とは云い切れません。併し、その可能性があるのは、パオでは、いや、全世界でも、そこだけです」

「いろいろあるんでないの?」

「ええ」赤坂は心配そうに頷いた。「わたしも、それを一番心配しているのです。うまくものが見付からなくては、お手上げです。その場合は、わたしにもその先どうすればいいか、全く判りません」

 頼りなげに言った。

「そろそろ、出るかい?」

「はい、そうしましょう」

 と云う訳で、雅也と赤坂は研究所を出て駅へ向かった。古田島はもう診療を開始しているようだったので、今日も雅也は声を掛けずに出た。

 快速列車は二十分ほど待たなければ来なかった。

 雅也と赤坂は言葉尠なに列車を待った。

 漸っと来た列車の一等車に乗ると、車内は閑散としていて、直ぐに席が見付かった。

 赤坂は雅也の向かいに座り、ポケットからパンフレットを出した。

「ここです、わたしたちが行こうとしているのは」

 赤坂はそう言って雅也に駅を示した。

 昨夜赤坂が云った通り、この鉄道の終着駅で、その名も〝美術館前〟となっていた。

「成る程、この名前の通りだね?」

「いえ、この駅の周辺には、美術館が数か所あります。その内の一つに行こうとしているのです」

「どんな美術館?」

 雅也が問うと、赤坂は一寸黙してから、

「彫刻を扱う美術館です。木彫品専門の」

 と秘密を打ち明けるかのように云った。

「へえ」雅也は意外な気がして声を上げた。「木彫品専門のね。ふううん。それで、何か見込みがあるのかい?」

「ええ。あります。そこしかないのです。ここで上手く見つかればいいが…」

「何だ、最前からえらく弱気じゃないか、いつものきみらしくないぞ。一体どういう訳なんだい?」

「いや、それは、着いてからお判りになると思います」

「きみ、高性能の演算装置を持っているんだろ? その結果はどうはじき出しているんだい?」

「わたしに組み込まれたHPCシステムは、フィフティ・フィフティだと云っています」

「そうか。五分五分、ということか」

「そうなります」

「――それで、仮に見付からなかった場合は、ぼくはどうなるんだろう?」

 赤坂は、雅也の気持ちを忖度してか、おずおずと、

「――先ず、小説家は廃業なさるしかないでしょう。それからも波瀾があると思います。悪くすると死の転帰をとるかも判りません」

「死? ぼくは死ぬのかい?」

「ええ。――と云うのは、佐竹さんのペン・ネームと云うのは、佐竹さんの全てな訳です。いまの所。云って見れば、奥さま以上のベター・ハーフだと申しましても過言ではありません。そのペン・ネームを失ってしまえば、おそらく想像を絶する虚脱感と無力感、絶望感に襲われると思うのです。その苦難を乗り越えられればOKなのですが、併しこれまで佐竹さんとペン・ネームの竹生健さんとは表裏一体、二人三脚でやって来られたのでしょうし、立ち直れるかどうかは佐竹さんに掛かっています」

「詰まり、今から死ぬ覚悟をしておけ、と云うことか」

 雅也は一寸笑った。

「いや、そこまでは申しませんが」

「だって、そういうことじゃないか」

「ええ、まあ…。済みません、わたしの云い方が悪かったようです」

「なに、気にすることはないさ」

 軈て、列車は速度を落とし、〝美術館前〟駅に滑り込んだ。

 二人は改札でパスを見せて外に出た。

 駅前は、成る程、この辺に美術館がある為だろう、金属製の彫刻作品が何点か飾ってあった。それらの内の幾つかは電気仕掛けで回転するようになっている。

「ああ、広々と開けていて、いい場所じゃないか」雅也は言った。「駅の中にも絵画が何点か展示されていたし、正に〝美術館前〟じゃないか」

「さあ、行きましょう」赤坂は雅也を急かして歩き出した。駅前広場を出ると、周りには赤坂の云った通り何軒か美術館があったようだが、赤坂はそれらには眼もくれず、まっしぐらにポプラ並木の緩やかな勾配を上り出した。

「どの位で着くの?」

「もう、直ぐそこです。――そら、見えて来た」

 赤坂が云う美術館は、ログハウスのような木造の建物だった。

 赤坂は、その美術館の前に来ると、扉の脇のプレートを見ていたが、直ぐに向き直って扉を排し、中に入った。

 中は薄暗く、雅也は眼が慣れるまでに少し時間が掛かった。

 すると、奥からひとが出て来る気配があって、

「ああ、赤坂さんですか。――併しおひとりではありませんね。困りますよ、ここは部外者は入ってはならない規則になっているのですから」

 とその人物はぶつぶつ言った。

 雅也が見ると、エプロンを掛けた若い男が立っていた。

 赤坂は、

「ですが、今日はのっぴきならぬ事態があるのでここへ来たのです。…申し遅れました、此方は作家の佐竹雅也さんです」

 赤坂が言うと、若い男は、

「わたしは〝イド〟と云います。この美術館の、雇われ管理人です」

 と答えた。雅也は手を出し、〝イド〟と握手した。

「よろしくお願いします」

[わたしとしては、余り歓迎したくないのですがね]

「そりゃ、またどうしてです? ここは美術館ではありませんか」

「そう、普通の美術館なら、客を歓迎するでしょうね。ですが、ここは普通の美術館とは違うのですよ」

「どうして?」

「ここの美術館で、ぼくを雇っている館主はとても厳しくて、自分の他に客は入れるな、と言うのです」

「そりゃ、おかしいや。どうしてです?」

 雅也が問うと、管理人〝イド〟氏は肩を竦めて、

「さあね。そこまでは判りません。――ただ、お願いですから、さっさと用件を済ませてお引き取り下さい。お願いします」

 雅也は赤坂と顔を見合わせたが、赤坂は、

「実は――」

 と事情の大体を説明した。雅也は赤坂の指示に従って、デイパックからオタマジャクシの入った三角フラスコを出した。

 〝イド〟は暫しそれを眺めていたが、

「…んで、それをどう使うのです?」

 と問うた。赤坂は、

「これを、彫刻の中に入れたいのです。ひとの形を取った彫刻で、口を開けているもの、ありませんか?」

 それを聞いた〝イド〟は、

「ふうむ」

 と難しい顔をして黙り込んだ。が、三分も拱手していたが、

「一寸、お待ち下さいね」

 と言って、管理人室らしき小部屋に入って行った。

 そして、中で暫くごとごととやっていたが、軈て分厚い台帳を一冊抱えて戻って来た。そして、

「これが、この美術館に収蔵されている作品の全てです」と言った。「展示室にないものは、倉庫にはいっています。この台帳には、美術作品の形状の説明と、モノクロームですが写真も付いていますので、お探しになれると思います。総作品数は、三百点から五百点ほどです。どうぞご覧になって下さい」

 と言ったが、

「併し、成る丈早く済ませて下さいよ。何かあったら、わたしの身が危ないのですから」

 と付け加えるのを忘れなかった。

 雅也は赤坂に、

「あのひと、一体何を怖がっているんだろ?」

 とそっと問うと、赤坂は首を竦め、

「ムルの親方が来て、大魚に喰わせてしまわれる、と云ってびくびくしているんですよ」とわらった。「ま、そっとしておきましょう。で、早く済ませましょう」

 と言って、台帳を繰った。

 赤坂と雅也の眼に適う彫刻は、中々見つからなかった。あるものは口はあったが身体は魚で、また人間の形をしたものもあったがそれは口がなかった。

 一時間ほど台帳をめくる作業を続けたうえで、っと二人に何とか納得できる彫刻が見つかった。

 それは併し、女の彫像で、口は開いていて眼は閉じていたが、額には三番目の眼がぱっちりと開いていた。タイトルは、〝サード・アイ・オープン〟となっていた。

「身長は百六十センチ、重さは二十八キロ、か」赤坂は言った。「佐竹さん、こんなのはどうでしょう?」

「ううん」雅也は腕組みした。「女、か」

「女です。でも、ヒト型をしていますよ」

「妥協するか。滅多に他人に見せるものでもなし」

「そうそう、その通りです。――それに、三番目の眼が開いている、なんて素敵じゃありませんか」

「えっ、そう?」

「そうですよ。深い洞察力と達識の印です。ぜひこれになさいよ。こんなペン・ネーム、他にありませんよ」

「そりゃそうだ」

「ねっ、悪いこと言わない、これになさいまし」

「そりゃあいいけどな」雅也はぼやいた。「妻に何と云われるか」

「奥さまには屹度見えませんよ」

「そうかなあ」

「そうですよ。だって、これまでだって奥さまの眼には留まらなかったのでしょう?」

「それはそうだが…。もう少し探してみても…」

「いや、これはわたしにインストールされているソフトウェアが言うのですが、これ以上のものはもう見つかりますまいね」

「――本気で?」

 赤坂は真顔で、

「本気です」

 と答えた。

「――そうか、じゃあ、これにするか。ええと、どうすればいいんだ?」

 そこで赤坂は管理人室の〝イド〟を呼び、該当の彫刻の場所を訊ねた。

「ああ、それなら、今は倉庫に入っています。出しましょう」

 そう言って〝イド〟は倉庫から彫刻を台車に載せて運び出してきた。

 彫刻の形状は、台帳にある通りだった。額に眼が開き、双眸は閉じ、口は開いている。

「よし」赤坂は言うと、雅也に向かって、「あの、オタマジャクシを」

 と言った。雅也が三角フラスコを渡すと、赤坂は栓を取り、中身を彫刻の口に浴びせた。彫刻の口からは夥しい水が流れ落ちたが、オタマジャクシは口の中に入ったようだった。

 それを見た〝イド〟は蒼くなって、

「い、一体あなたは何を…」

 と言った。赤坂は落ち着いて、

「大丈夫、あなたの雇い主には何も判りません。保証します」

 と言ったので、えず黙り込んだ。

 雅也は、彫刻の様子を見て、赤坂の袖を引いた。

「ちょっと、ちょっと、これを見て」

 見ていると、木造の彫刻は、段々肌に赤みが差してきて、色も茶色から肌色へと変じ、軈て額の下の双眸を開いた。と同時に額の第三の眼は閉じた。

「きみ――」

 雅也が言うと、

「ああっ、やっぱりあんただったのねっ!?」

 と竹生健は詰るように言った。

「ずっと、追い掛けて来たんだよ。――その、済まないと思ってさ…」

「済まない、なんてものじゃないよ」竹生は中々懐柔されなさそうだった。「あんたはあたしを侮辱したんだ。あたしの名を使って、あんな、誰だって洟も引っ掛けないようなものを書いて、それで原稿料取るんだもの。あれであたしゃ恥を搔いたんだ。許し難いわよ」

「併し、玉青丹まで使うことはないだろうに」

「使いたくだって、なるわよ」

「じゃあ、ぼくがこうして元に戻したのは…」

「間違いだ、までは言わないけどさ。元に戻してとまでは言わないけど、今度あんな変なの書いたら、本気で家出します」

「判った。これからは真面目にものを書くから、一緒に日本に戻ってよ。…ぼくだって、ここまできみを追って来るのは、大変だったんだぜ」

「それだけの苦労のし甲斐はあったでしょうよ」

「まあ、そう皮肉を言うなよ」

「今度だけよ」

「判った。――それから、一つ気になっているんだけど」

「何よ?」

「その女言葉、止めてくれないかな?」

「構わないでしょ。だって女だもの」

「ええっ、でもきみの名前は…、ペン・ネームは、――竹生健といって…」

「名前をどう変えようが、ペン・ネームの勝手でしょ」

「ええっ、じゃあきみは今、何と名乗っているの?」

「竹生岬」

「岬?」

「そうよ。悪くないでしょ。いつも岬に立っている存在。いつだって先端にいる存在。そういうペン・ネームに相応しい作家になって頂戴よ」

「判りました…」

 雅也は悄然として言った。

「判ったわ。じゃあ、あたしはこれから、あんたのペン・ネームとして働くことにします」

「よろしくお願いします…」

 赤坂は、

「これで丸く収まった」

 と笑みをうかべた。

 その時だった。

「うわあっ、止めてくれえっ!」

 と云う悲鳴が管理人室から聞こえて来た。三人が慌てて室に入ると、〝イド〟がシンクに上半身を突っ込んでいた。段々シンクの中に引き込まれていくようだ。

「大変だ」赤坂は云った。「巨魚に喰われ掛けているんだ。助けなくちゃ」

 三人は〝イド〟の下半身を掴んで精一杯引っ張ったが、無駄だった。

 〝イド〟はシンクに呑み込まれてしまった。

 雅也が恐る恐る覗くと、シンクの奥には真っ暗なブラックホールのような空間が拡がっていた。

 雅也はぶるぶるっ、と身体を震わせ、管理人室から出た。

 さて、斯くして雅也は復た小説家として生活できるようになった。赤坂は古田島の漢方薬研究所に職を得て、水を得た魚のような生活に入った(これは、後日赤坂から雅也にEメールが届いたのである)。

 雅也は心機一転して中篇小説の試作品をものした。それは、「鏡子」との題で、「文楽界」誌六月号に掲載された。

 爾後、竹生岬は雅也の許にいる。

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