H.

 雅也が眼を醒ますと、既に日は高かった。時計を見ると、午前八時半だった。やや宿酔いをしているようで、頭の芯が微かに痛む。

 先ず顔を洗いたいが…、と思って辺りを見廻すと、ベッド脇の卓子の上にベルが載っていた。

 試しにそれを取り上げて軽く振ってみると、思いの外透き通って軽い音が響いた。

 そして、間をかずに寝室のドアをノックする音がした。

「佐竹さま、お目覚めですか?」

 と小女の僅かに中国語訛りの混じったような声がしたので、雅也は、

「はい、今起きたところです」

「ご朝食をお運びしても構いませんか?」

「――ああ、はい、そうですね。頂きます」

 すると、五分ほど経て、もう一度ノックの音がし、続けてまだ二〇歳前かと思しき娘が二人入ってきた。一人は湯気の立ったブリキの洗面器とタオルを、もう一人は食器類の載った盆を携えていた。そして、それらを卓子の上に置くと、一揖いちゆうして退散した。

 雅也は先ずタオルを熱湯に浸して顔を拭った。

 それから食器を見ると、中華粥が入っているのが判った。茶器も揃っている。俄然がぜん食慾しょくよくの湧いた雅也は、一気にそれらを平らげてしまった。

 腹いっぱいになって一息つくと、今日の行程のことが気に懸かった。

 何しろ、パオへ来てからもう数日間も無駄に過ごしてしまったのだ。竹生健は今ごろ何をしているだろう? しかしたらすで玉青丹ぎょくせいたんを見つけてしまっているかも知れぬ。

 雅也は朝食を取っていたベッドから起き出し、鞄を開けて、昨日駅で貰ったパンフレットを取りだした。ほど、この〝漢方薬研究所〟駅の隣には、〝図書館都市〟なる駅があった。それがどんなものかはまだ判然はっきりしないが、すくなくとも何らかの情報が得られそうなにおいがあった。

 ――どんなものか判らんが、一寸行ってみるか。図書館と云うからには、何かあるだろう。

 雅也はそこを訪れることに決めた。

 古田島は、昨日の晩、ここを拠点にして動いても構わない、と云う趣旨のことを言っていた。

 先ず、古田島を探さねば。

 雅也はパンフレットを窓際の卓子の上に置くと、部屋を出た。その際腕時計を見ると、もう午前九時を回っている。

 朝の漢方薬研究所の廊下は、何処どこからか控え目な機械の運転音がのったりと響いてくる他は、実に静かだった。

 雅也は古田島を探そうとしたが、途中で思い直して止めた。もう診察時間が始まっているだろう、と推測できたからである。

 雅也は自宅から持ってきたデイパックをバックパックの中から取りだし、必要最小限のものだけ詰めた。そして、現金が入っているのを確認すると、階下へ降りた。一階の廊下で、最前さいぜんの小女に出会った。

「あ、佐竹さま、おてかけですか?」

「はい。一日外で過ごします」

「いてらっしゃいまし」

 雅也は漢方薬研究所を後にした。

 駅の時刻表を見ると、十分後に各駅停車の列車が来ることになっていた。フリー・パスがあるので、切符を買う必要はない。

 雅也は改札を通ると待合室には寄らずに下り線のプラットフォームに出た。鈍重そうな蒸気機関車に牽かれた列車は間もなくやって来た。鈍行列車では客車に等級の区別はない。皆二等車である。

 雅也は車室に入り、窓際のボックス席に座った。向かいには金髪の老人が座っていて、サングラスを掛けていたのだが、何処どこかで見覚えのある印象だった。だが、どこの誰とはしかとは云えぬ。

 だが、雅也は見た。その人物が長髪を搔き上げる際、左手指の第二関節の辺りに「OZZY」と指一本に一字ずつ刺青があったのだ。

 雅也は、

「あのう、しかして、オジー・オズボーンさんじゃありませんか?」

 と問いかけたが、その時、後ろの車室から鼻の下に髭を蓄えた、せて神経質そうな老人がやって来て、

「何だってここはこんな古臭いシステムを使ってるんだい!」

 とぶつぶつ文句を言いながらオジーの隣に腰掛けた。雅也がその人物の右手を見ると、指先が二本欠けていた。

 雅也は思い切って、

「…あのう、しかしてブラック・サバスの方じゃありませんか?」

 と問い掛けると、二人はうるさそうに、

「イエス・アンド・ノー。――あんたは日本人かい?」

「そ、そうです。だけど、一部の莫迦ばかなファンみたくれしくしませんから」

「あ、そ。…じゃ、いいか。そう、わたしはオジー・オズボーンで」

「わしはトニー・アイオミ」

パオは、何回目なんですか?」

 雅也が問うと、アイオミ氏は気難しげな顔をわずかに緩め、

「気に入った。大抵のファンは何も云う前から色紙を鼻先に突き付けてくるのが習慣なのに。そう、パオへはもう十回目くらいかな」

「ぼくは初めてなんです。次の〝図書館都市〟で降りる積りなんですが」

「図書館? 探し物かい」

 とオジー。

「ええ。――一寸ね、厄介な探し物がありまして」

「ふむ。――なあオジー、今日はあいつ、あの辺にいないかな?」

「そうだなあ。ことによると来ているかも知れないぞ」

「うん。いればいいがなあ」

「けど、聞くところによると最近は何だか厭世的えんせいてきになっているらしいぜ」

「判る判る。あれじゃあ仕方がないかも知れないなあ。――じゃあ、会えても徒労に終わる可能性もある訳だ」

「まあな。会えれば、まずラッキーだと考えた方がいいよな」

 雅也が、

「一体、何の話をしているのです?」

 と問うと、トニーが、

「いやさ、次の〝図書館都市〟駅の辺りで、赤いパーカを着て、エレキ・ギター…そう、ギブソン・メンフィスでセミ・ホロウの型だ…、かくそいつを抱えて何やら下手な歌を歌っているのがいたら、声を掛けてみるといい」

「はあ。何かヒントでも貰えるとか?」

「そう。しそいつのご機嫌が良ければね。た酒浸りになっていなければいいがね」

 と、オジーがやや眉をひそめて気遣わしげに言った。雅也は、何処どこかの雑誌(戯作げさくしゃ註:「炎」誌一九九六年五月号である)のインタヴューで、オジーが若かりし頃、「メスカリンを二錠、アシッドを四錠、大量のキノコ、コークを八グラム、それと瓶に虫の入ったテキーラを一本一緒に飲んだら、一週間もの間、わけがわからなくなってしまった。自分がどこの星にいるのかもわからなかったんだ」と語っていたのを読んだことがあるので、かたわいたかったが、なるべく謹厳きんげんそうな顔をして黙って聞いていた。

 と、列車は速度を落とし、「図書館都市」前駅に着いた。

 雅也はオジーとトニーに礼を言って立ち上がった。オジーは笑顔で手を振り、トニーは帽子を取って挨拶した。

 駅前に出ると、雅也は赤いパーカの男を探した。

 訳なく見つかった。

 何故なぜとなれば、男はトニーの云う通り赤いパーカを着て、テンガロン・ハットをかぶり、黒いギブソンを抱えて足元に小型のアンプを置き、〝ザ・サブヒューマン〟を歌っていたからである。足元にはギター用のハード・ケースを開いて置いていた。金を入れてくれ、ということらしい。が、雅也の見たところ、紙幣が一枚か二枚、あと小銭がぱらぱらと入っているだけだった。

 雅也は男の顔容かんばせを改めたが、思わずアッと声が漏れた。

 夢の中でみた人物だったからである。

 雅也は男につかつかと歩み寄り、

「もし」

 と声を掛けた。男は危なっかしい弾き方のギター・ソロを中断して、ゆっくりと雅也を見やった。雅也の確信はますます高まった。

「何でしょう?」

 男はハットを脱いで言った。

「あなた、赤坂さんですね?」

 男は首肯しゅこうした。

「いかにも。赤坂泰彦ですが」

「演奏中に済みませんね」

「いえ。何かご用ですか?」

「ええ、一寸。――その曲は、ブルー・オイスター・カルトですね?」

「そう。よくご存じですね」

「…それはそうと、実を申しますと、あなたはぼくの夢に出て来られたことがありましてね。それで――、あと、気に懸かっていることもありまして…、それで声を掛けさせて頂いた訳です」

 赤坂は眉を上げた。

「夢で? それは妙な。どういう夢ですか?」

 そこで、雅也は赤坂に一連の夢をつまんで話して聞かせた。赤坂は何も口を挟まず聞いていたが、雅也の話が終わると、驚嘆したように、

「ぼくの来し方のことをここまで詳しくご存知の方とは、これまでお目に掛かったことがありませんね。驚きです。――では、マリャベッキ博士のことも…」

「いいえ、博士のことは全く存じ上げません」

「そうですか。では、あなたの知識を補完ほかんするために、いいものをあげましょう」

 そう云うと、赤坂は足元のバッグからジンジャー・エールのボトルとプラスティックのカップを一つ出した。そして、ボトルからカップになみなみと液体を注いだ。それを雅也に差し出し、

「さあ、これをお飲みなさい」

 と言った。透明なカップの中の液体は少々青味がかって見える。

 雅也が躊躇ためらっていると、赤坂は、

「何も怪しいものではありませんよ」

 と言って、ボトルの蓋を開けて自分でごくりと飲んで見せた。

 雅也は心底しんそこまで信じ切れた訳ではないが、他でもない、自分の夢に出て来た人物の進めるものなので、一か八か、液体をグイッと一息で飲んだ。液体は炭酸水で、甘い味付けがしてあり、シトラスか何かの香りがした。

「今は何ともないでしょう」赤坂は言った。「もう一寸待ってご覧なさい」

「今は?」雅也は不意に激昂げっこうした。「やっぱり変なものを飲ませたんだな?」

「ああ、いやいや」赤坂は必死で打ち消した。「そういうことではないのです」

 雅也はそれに対して返辞をしようとした。――が、その時、雅也はおかしなヴィジョンに囚われてしまった。それは、次のような小説を読んだ時の気分に似ていた。


「 これより以下縷述する一連の異常な事件は、そもそも一老人が遭遇したものであった。し、かる老人がこの件を通報していたならば全国を瞠目どうもくさせ、耳目じもく聳動しょうどうする事件として露顕したであろうが、老人は後述する事由によりこれを怠った。その為、事件は内密なものとして闇から闇へ葬り去られたのである。

 その未明、工藤又蔵老人は、山梨県は韮崎市の南部を貫く、韮崎昇仙峡線という地方道を、自分の葡萄畑のある三ツ沢と呼ばれる地区から韮崎市街地へ向けて車を走らせていた。又蔵老人は三ツ沢に葡萄畑を十アールほど所有していたのだが、五月末という季節の午前三時に自家用車のタントを駆らねばならなかったのは、長く続いた五月雨に、作物のことが心配になった為である。

 さて、老人は県道二七号線を中央自動車道のインターチェンジの方角へ向けて車を運転していた。変事が出来しゅったいしたのは、馬手には権現沢川が流れ、弓手に和こうというレストランが見えて来たところである。時刻が時刻であるから、老人は一台の大型トラックとすれ違ったきりで、自分の前にも後にも車の影はなく、早く帰宅して就寝したかった老人は、時速六十キロほどでほぼ直線に近い県道をヘッドライトの光芒に導かれて只管ひたすらに車を飛ばしていた。

 と、一寸した茂林に差し掛かった時のことである。又蔵老人は左手の竹林の方に何とはなしに意識を向けていた。この辺は野良猫や時には狸が飛び出してくることが往々にしてあったためである。だから、右手の叢林そうりんからそれの姿が躍出やくしゅつして来た時には肝胆かんたんさむい思いを味わい、危うくブレーキとアクセルを踏み間違えるところだった。しアクセルを踏んでいたら、命を危めるところであったが、運転免許を取得して五十三年、未だ耄衰ぼうすいを知らぬ又蔵老人七十五歳の右足は確りとブレーキを踏み込んでいた。車は無事停まった。又蔵老人は笱安こうあんぬすんだ。

 老人がやれやれと思った時、運転席の窓ガラスをこつこつと叩く音がする。その音に振り返った又蔵老人は、復たきもひしぐ思いを味わった。

 窓を叩いた者は、固より妖獣怪禽ようじゅうかいきんの類ではなかった。人間である。若い男――しか凄然せいぜんたる美青年であった。だが、その取成とりなりが異様であった。上は丈足たけたらずで手首まで露わになった青いトレーナー一枚、下はジーンズを穿いている。それだけならば未だ異常だとは云えないが、豊頬ほうきょうならばさぞ美々びびしいものだろうと思われる顔容かんばせは、眼窩がんかくぼみ、頭髪はざんばら、皮膚は紙の如く白く、頬は骨立こつりつして、血走った眼には何かの変事が起こったことを訴えかける表情がありありと窺われた。

 その姿を一瞥いちべつした又蔵老人は瞬息しゅんそく鼻白はなじろんだが、ぐに自身を取り戻し、パワー・ウインドウを巻き下ろして、

「何だね? どうした?」

 とふるえのない太い声で問うた。すると、世籠よごもり媚嫵びぶたる青年は、耳語するような戦慄声わななきごえで、

「た…助けて下さい」

 と哀訴あいそする。老人はそこに至って初めて、自分が目の当たりにしているものは何か妖魅ようみの様なものではないか、と思い、再三胃が冷たくなる思いを味わったのだが、好運にもこの世に産まれてこの方、幽鬼ゆうきの類には遭遇した経験を持たない又蔵老人は、麗しい青年の怯えきった眼を真っ直ぐに見据え、

「一体どうしたのかね? こんな夜中に」

 問うたのだが、青年は悚懼しょうくの表情で後ろを振り返り、

かく乗せて貰えませんか? ――訳は後で話します」

 と繰り返すのみであった。又蔵老人は少時しょうじ首鼠しゅそしていたが、ややあってからドア・ロックを解除し、猿臂えんぴを伸ばして助手台側のドアを開けてやった。青年は蹌踉そうろうたる足取りで車の前を横断した。ヘッドライトに照らし出された青年の肢体には肉が殆ど付いていないことが判った。青年は半開きになったドアを開けて身体をタントの車内に滑り込ませ、助手席に四肢を預けたが、そこで体力を蕩尽とうじんしたものと見え、ドアを閉める所作すら著しく困難を極めたようだったので、又蔵老人は態々わざわざ一旦車を降り、助手席側のドアを閉めてやらねばならなかった。もっとも、狂言ということも考えられたので、老人は車のキィをポケットに収めてから運転台を離れたのである。併し、そのような心遣いは無用だった。青年は助手席の背に身体をもたけると、そのまま眼を閉じてしまったからである。小雨のそぼ降る中、運転席に戻った又蔵老人は、ハザード・ランプを点けて室内灯を点し、あえかに余喘よぜんを保つ美青年の姿を、改めて繁々しげしげと観察した。体力が衰耗すいもうしていることは一目で判った。しかし、こんな夜半の山中を彷徨さまようような仕儀しぎに至ったのは、一体どのような事情によるのだろうか? 又蔵老人は、既にこの美青年を恐れたり魂胆を疑うような気持ちにはならなかったものの、その代わり、怪訝かいがの念と、かすかではあるが、何か異体いたいの知れない猟奇りょうき趣味に通底つうていするような、後ろ暗くいかがわしい、人目が憚られるような傾向とを体臭として感じ取ったのである。

 ――何か、禁厭きんようの類でも行ったのではなかろうか。

 又蔵老人は、串戯かんぎのような稀男まれおとこの寝顔を見ながら考えた。そして、次に、自分の取るべき方途ほうといて思議した。が、思いは蜘蛛手くもでに乱れ、良策は浮かばなかった。――無論、本来ならば救急車を呼ぶか警察に通報すべき所なのだが、老人は踟蹰ちちゅしたのである。と云うのは、如上の通り老人にもこの美青年の発する雰囲気が伝わっていたのだが、どことなく乱倫、とまでは云い切れないまでも、そこはかとなく正気を外れた、或いは法に違背いはいした傾向を帯びた〝何か〟の存在が感じられたのである。そして、又蔵老人には鍛二と云う弟がいたのであるが、この弟は過去に痲薬まやくをやって長く獄舎に入っていた、刑余けいよの仁であった。又蔵老人は、恐らくかかる青年は何か魑魅ちみの類に精を吸われたのかも知れぬ、と云う臆断おくだんを下したのだが、濃密に漂う妖氛ようふんのため、後難こうなんが案じられ、無用の煩累はんるいがおよぶのを危懼きくして、遂に通報を断念したのである。

 さて、又蔵老人にとって、この椿事ちんじもこの青年も、態々わざわざ云うまでもなく荷厄介にやっかいなものでしかなかった。老人は暗い車中、拱手きょうしゅして善後策に思案を巡らせた。そして考えながら、前後不覚のていで助手席に身を預けている美青年の、右の二の腕を軽く叩き、

「おい、しっかりしろよ。一体お前さん、どんな眼に遭ったんだね?」

 と声を掛けた。すると青年は、半眼になったものの、何を見留めたのか、

「――最初に陶酔が来た。…それから甘美な覚醒が――…」

 と虫の息で呟くと、た眼を閉じてしまった。これではらちが明かない。だが、〝陶酔〟と〝覚醒〟という二語は又蔵老人の脳裡のうりしっかりと焼き付いた。すなわち、この情況下じょうきょうかにおけるかかる二語が又蔵老人に示唆したものはただ一つ――薬物犯罪であった。老人は愈々いよいよ警察当局に通報する気をくしてしまった。

 ――どうにかしないとな。しかも早く手を打たないと。

 又蔵老人は何とかこの災厄さいやくから逃れたいと思い、タントのエンジンを始動し、ハザード・ランプを消し、ブレーキを解除して走り出した。

 えず老人は自宅に戻った。老人が車庫に車を入れた時には、既に東雲しののめであった。雨は上がっていた。

 又蔵老人が隣席の招かれざる客の様子を見ようとしたとき、家の中から娘の涼子が飛び出してきた。老人のことを案じてまんじりともせず待っていたらしい。

「お父さん、どうもしなかった?」

 心配性の涼子の喚声かんせいに、又蔵はもだしたまま、助手台を指し示した。眠れる美青年を眼にした涼子は何か悟了ごりょうする所でもあったのか、怪訝けげんそうな表情をうかべて助手席側に回り込んだ。又蔵はドア・ロックを解いた。

 助手席側のドアを外から開けた涼子は、眉宇びうに不審の色を漂わせ、

「お父さん、どうしたの、この人?」と問うた。そして、青年に向かって、「もしもし、大丈夫ですか?」

 と話し掛けて青年の身体を揺すった。併し、青年は昏々こんこんとしており、意識はない。涼子は又蔵に向き直り、

「お父さん、この人どうしたの? ――しかして…いたの?」

 と怕々こわごわと訊ねた。又蔵は、その言辞は、

「まさか」と一笑に付した。「帰るさに…ったんだよ」

「でも、気を失ってるわよ」

 又蔵は眉をひそめた。

「そうなんだよ。途中で救けを求めて来たんだが…、その――」

「救急車は呼ばなかったの? 警察に連絡はしたの?」

 涼子の口調は打ち付けに譴責けんせきの気味を帯びていた。

「うむ、それも考えたが…、鍛二のことがあるからなァ。どうもこの人を見ていると、尋常ではない所が見受けられるような気がして…」

 涼子は、父親と不時の賓客ひんきゃくとを交々こもごもにみては沈思するていだったが、

「じゃあ、河原さんの所に持っていったらどう?」

 と発案した。

「ああ、栄さんの所かい。――しかし、あそこは精神科だぞ」

 涼子の云う河原栄とは、又蔵の亡妻であるひでの兄に当たり、韮崎市に隣接するけん甲府市で精神科病院を開業している人物であった。又蔵老人も、もっと早くこの人物の存在に思い当たっても良さそうな筈だったが、薬物絡みで三度囹圄れいぎょに入った鍛二も長期に亘る精神科での治療を必要とした、という経緯いきさつがあったため、無意識裡むいしきり撰択肢せんたくしから除外していたものらしい。いざ涼子の話を勘案かんあんしてみると、又蔵老人も義兄の栄にて貰うのが穏当おんとうであるように思えて来た。栄が経営している病院には病床数六〇某なにがしの入院設備もあり、うまくするとこの青年を収容して貰うことも可能かも知れなかった。これはいささか虫のいい話になるが、実際又蔵老人は、栄とは頃日狎昵こうじつしており、年賀状の取り遣りばかりでなく、中々頻繁に徂徠そらいもあったのだ。

「精神科でも、入院設備だって整っているんだし、血液検査くらいできるでしょう」

「うむ、それもそうだが…」老人はた少し考え込んだが、良案は思い浮かばなかった。

「――仕方ないな。そうするか」

「じゃあ急いで連絡しないと。余り遅くなるとよ」

「そうだな。――ず、この男を何とかしないと…」

 又蔵老人は正体を失って助手席にもたかっている青年に眼を向けた。涼子は青年の左腿を強く叩き、

「大丈夫ですか? さあ、しっかりして」

 と大声を出した。又蔵老人も肩をった。すると青年は、したままの姿勢で、口中何かを呟いた。

「何!? 何だって!?」

 又蔵老人は青年の耳に言辞げんじを流し込もうとするがごと大声疾呼たいせいしっこした。青年は、それに応じる如く、

「…欲しい」

 とわずかに聞き取れる声で言った。

「何ッ!? 何だッ!?」

 老人は更に大声を張り上げた。その老人の腕を、涼子はそっと叩いて注意を喚起かんきし、人差し指を口に当てた。老人も直ぐにその意を諒解した。車庫は隣家との廂合ひあわいにあるのだ。

「…欲しい、欲しいよ。――くれよ」

 青年は繊弱せんじゃくな声で訴求そきゅうするように言う。未だ息のあることを確認できただけでも良しとするか、と老人は思い、娘に、おいと声を掛けた。

「取り敢えず、家ン中に運び込もう」

「そうね。でも、あたし達だけで大丈夫かしら? 正人さんも呼んでくる?」

 老人は前後不覚の青年の背中と尻の下に手を差し入れ、重さを量っていたが、ぐに、

「うむ」と言った。「おれたちだけで間に合いそうだ。――涼子、お前は足の方を持ってくれ」

 涼子は一旦引き返して縁側から日本間へ通じているガラス戸を一杯に開けてくると、車の助手席側に回り込み、又蔵老人の指図に従って美青年の膝の裏に腕を入れた。一方又蔵老人は左右の脇の下に手を入れて、

「行くぞ。せえの」

 と合図を掛けた。二人の予想よりも、青年ははるかに軽量だった。青年の腰はたおやかに下垂かすいした。が、臀部でんぶが地をこすることはなかった。二人は黙然もくねんとして、卒々そつそつとことを運んだ。ことは滞りなく済んだ。

「随分軽くて華奢きゃしゃなのね」

「全くだ。骨皮筋右衛門とはよく云ったものだ」

 日本間は客間を兼ねていたので、押し入れには布団の用意がある。老人と娘は分掌ぶんしょうして布団を敷き、青年はそこに寝かせた。こうして、未知の客人まろうどは工藤家に迎え入れられたのである。

 やがて、涼子の夫で会社勤めをしている正人や、又蔵の孫で高校生の夕子も起き出して来た。又蔵はまんで委曲いきょくを説明した。二人とも勿怪顔もっけがおをしていたが、人形喰にんぎょうくいの夕子は興をかれたらしく、客間に力なく横臥おうがする美青年の顔を見やって、

「可愛い。若しかして梨園りえんのひとかな」

 などとの軽々かるがるしい口吻こうふんをもらしたので、又蔵は、

「こら。常ならぬ身体のひとなんだぞ。早く飯を食って学校へ行け」

 と叱呵しっかしたのである。涼子は落ち着かぬ様子で、

「お父さん。早く連絡を」

 と督促とくそくした。又蔵はっとそのことに心付いて、電話台に飛び付いた。電話の上の掛け時計はだ七時前であるが、もう起き出しているだろうことは見当が付いているので、牢記ろうきしている番号を入力した。すると、ぐに相手が出た。幸いにも、家族ではなく河原栄本人だった。

「何だ、又さんか」何も知らぬ栄は晏如あんじょたる応答をした。「一体どうしたい? こんな朝っぱらに」

 又蔵老人は委細いさいを説明した。すると栄は、呼吸いきおいてから、

「なるほど、事情は判った。――して、だ息はあるのかい?」

 と問うた。又蔵老人はキッチンにいる娘に向かって、

「おい涼子、その人、だ息があるかどうか確かめてくれ」

 と大声で命じた。涼子にはもとより異存いぞんはなく、味見していた味噌汁の杓子しゃくしを鍋に戻すと二階に上がり、寝室から手鏡を取ると階下にとって返し、昏臥こんがしている青年の鼻先にその鏡を当てた。その始終を隔靴掻痒かっかそうよう苛立いらだって見ていた又蔵老人は、

「この莫迦ばか正直しょうじきが。脈に触れば直ぐ判るものを」

 と毒突どくづいたが、娘の、

「ああ良かった。お父さん、だ生きてるわ。息をしている」

 との返辞へんじを受けると、電話口に向かって、

「栄さん、だ息があるようだ」

 と告げた。すると栄は、

「そうか。じゃあ、これからぐに病院の車を向けるから、一寸ちょっと待っていてくれ。おれも行くから」

 と疾言しつげんで伝えた。又蔵はそれを聞いてほっと安堵あんどの胸を撫で下ろした。

「済まねえな。じゃあ待ってるから、よろしく頼むよ」

「なに、よくあることさ」

 こうして、慌ただしく臨時のモーニング・コールは済んだのである。


 河原栄は、言に違わず二〇分ほどしてやって来た。一人ではなく、部下が随伴ずいはんして目立たない中型セダンとワゴン車の二台に分乗した人員は総計五名、白衣こそたれも身に着けてはいなかったが、皆その方面で達識たっしきの持ち主であることは、そのてきぱきした作業の分担ぶりから、素人目しろうとめにもぐに看取かんしゅされた。

 又蔵は一行の到着を知ると、さまサンダルを突っかけて外に出て、

「栄さん、朝早くから済まね」

 と挨拶したが、老巧ろうこう上医じょういである栄は既に職業的な表情をしており、

「否。――で、何処どこかね、その…お客さんは?」

 と問うた。

此方こっちなんだ。上がってくれい」

 又蔵老人が見ていると、医師なのか看護師なのか判然はっきりせぬが、いずれもワイシャツにネクタイ、スラックス姿の随行者たちは、何かの機械類でも入っていそうな大きな鞄やら点滴セットやらを車から出し、素早く家の中に運び込んだ。そして、日本間で昏睡こんすいしている青年の枕許まくらもとへ向かい、何に使うのか老人には悉皆さっぱり見当も付かぬ電子機器を出したり、青年の身体に手捷てばやく端子を取り付けたりした。そして、

「ヴァイタル・サインはあります」

しかし、かなりひどく衰弱している様ですな」

「点滴を打った方が良いのでは?」

 などと栄に報告し、指示を仰いだ。

 河原栄はそういった部下たちからの報告に、「うむ」などと返辞をしながら自分でも青年の脈を取ったり、昏々こんこんとしている青年のがんけんを開いてペン・ライトを当てたりしていたが、やがて立ち上がり、部下には、

「エコーを見ると、心臓が弱ってるようだ。補水して、ジギタリスも投与してくれ」

 と命じておいて、又蔵老人を脇へ呼んだ。そして、劈頭へきとう

「又さん、ありゃあヤバいお客さんだぜ。血液検査をしてみないと確定的なことは云えないが、クスリをやってる――しかも、何年もクスリ漬けになるような生活を送って来ていた、と云うのがおれの推測だ」

 と言った。又蔵老人は、

「ほう」と厄介そうに声を上げた。「どうして判ったんだい?」

 栄は自分の眼を指差した。

「眼だよ、眼。オピエート――と云ってもあんたにゃ判らんだろうが、まァ平たく云えば阿片アヘンやヘロインの類だな。こういう、芥子ケシから抽出されたり、誘導された薬物は、脳幹のうかん――延髄えんずいの辺りなんだが、そこの視蓋しがい前核ぜんかくなどの組織に多在する、オピエート受容体と結合して、瞳孔を縮小させるんだ。これはすなわ縮瞳しゅくどう反応と呼ばれている。――しかし、この男、よく生きていたもんだよ。がりがりにせこけちまってるじゃないの。何か食物はあげたりしてみたかい?」

「いいや。車の中でもう朦朧もうろうとしていたし、うちに着いた時は既に意識がなかったから、ぐ寝かせた」

「そうかい。――もっとも、ここまで沈湎ちんめんしているとなると、何を喰わせても直ぐ吐き出しちまったろうがな。…しかし、一点解せない点があるんだよ」

「何だい?」

「うむ。多分違法薬物の過剰オーヴァー摂取ドーズとおれの踏んだ通りだと思うんだが、普通このテの痲薬中毒者ジャンキーは、i.v.を使うはずなんだよ」

「アイ・ヴィ?」

 あの鍛二のことを思い出した又蔵は、やや落ち着かなげに問うた。

「ああ、静脈注射さ。しかしね、この男の腕にはヘロイン・コーンって奴が一つもねえ。両腕ともまっさらだ。どういう形で摂取していたのか、それが判らないんだよ」

「ふうん」又蔵老人は溜め息のような声を発した。「で、奴さんはどうするつもりなのかい? 無論、ウチでは預かれないよ」

 すると、栄は、

「そりゃあ勿論そうだろう。幸い、うちの病棟には空きがある。たしか個室が一ついているはずだから、ずそこへ収容して容態ようだいを観察しよう。――この件は、通報しない方が良いのかな?」

 又蔵老人は、

「ああ」と答えた。「本来なら、するべきなんだろうが…」

 口籠くごもる又蔵老人を栄は手で制した。

「判ってる、あんたの言いたいことは。鍛二くんのことだろ?」

 そう直截ちょくせつに言って貰った方が、又蔵老人は気楽だった。こういう点も、老人がこの義兄に腹心ふくしんく理由の一つだった。

「…ああ、まあな」

「じゃ、後はおれに任せてくれ」

「――任せてくれ、って…、そりゃあ、栄さんに渡せられればおれの肩の荷は下りるが…、一体どうしようと云うのかね?」

 又蔵が問うと、河原栄は曖昧あいまいな微笑を口辺こうへんうかべて、

「ま、蛇の道はへび、だ。大船に乗った積もりでいてくれればいいさ」

 とのみ答えると、くるりと背を向けてた部下たちの方へ行ってしまった。そして、須臾しゅゆ点滴セットの塩梅あんばいを見たり、装置のディスプレイを見たりしていたが、やがて、

「よし」と云った。河岸を変えるぞ。担架を用意してくれ」

 国手の吩咐ふんぷを受けて、部下たちは一旦外に出てワゴン車の方へ向かったが、直ぐにキャスターの付いた簡易ベッドを運んで戻って来た。そして、四人がかりで人事不省の美青年を慎重にベッドへ移した。正人や夕子は息を呑み、その様子を興味津々の態で見守った。又蔵老人は河原栄国手こくしゅに、

「どうだい、容態は。恢復かいふくしそうかい」

 と問うたが、栄はむつかしい顔をして、

「正直、判らんな」と答えた。「こういう症例ケースは、本来なら包括的な対応の可能な綜合病院に収容するのが適当なんだ。うちは精神科専門だが、孰方どちらかと云えば長期療養型の病院なので、内科、外科、循環器科、とある程度の対応はできる。しかし、十全ではないよ。までだ」栄は自分の言辞げんじ圏点けんてんを付けた。「これから精検せいけんしてみないと判らないが、ありゃあ屹度きっと内臓をやられてるぞ。正直、うちで手を尽くしても、どうだか判らん」

「そうか」と又蔵老人は力ない声で言った。「し――万が一のことがあったら?」

「うむ。その時はその時で、打つ手はある」

「どんな――」老人は低声ていせいで、「闇、かい?」

 すると、国手こくしゅ河原栄は、あにはからんや、一寸笑ったのだった。

他聞たぶんの悪いことを言わんでくれ。合法的に片を付ける方法は幾らでもあるさ――最悪の場合はグレー・ゾーン扱いということになるが。かく、又さんにはるいの及ばんようにするから、安心してくれていい」

 そう醇々じゅんじゅんと言い含められて、又蔵老人もっと安堵あんどしたようだった。

「そうかい。じゃ、済まねえが一つ頼むよ」

「じゃ、おれらはもう行くから。――ことは一刻を争う問題だからな」

「ああ、そうだな」

 謎の美青年は既にしてワゴン車への搬入が済んでおり、残る部下たちは河原栄の指示を待っていた。栄医師は部下たちを前にしてぽんと一つ掌を打ち合わせると、

「さあ、出発だ」

 と励声れいせいした。部下たちは工藤の家の者には挨拶もせず、皆慌ただしく車に戻った。国手栄はセダンの後部座席に収まった。又蔵と涼子は家の前に出てそれを見送った。又蔵は栄に向かって軽く頷き掛け、涼子は深々とお辞儀した。栄はそれに対して二、三度点頭てんとうして答えた。二台の車は走り出した。

「いや、全く困った客だったが、これで一と安心できるかな?」

 又蔵は額に浮いた脂汗を拭いながらきびすを返して家内に戻った。

「そうね。――それにしても、あの人大丈夫かしら?」

 涼子はサンダルを脱ぎつつ述懐じゅっかいする。老人はそれを聞き咎めて、

「おい」と云った。「涼子、向後こうご彼奴あいつのことは他言無用だぜ」

「――あ」と涼子。「そうね。正人さんは云えば直ぐ判ると思うけど、夕子には学校に行く前に釘を刺しておかないと」

 涼子はそう言うと、二階の自室で着替えているらしい娘のもとへ向かった。


 河原国手たち一行が病院に着いたのは、午前九時前のことだった。幸いにも、この日は院長たる栄が診察に当たる予定がなかったので、国手こくしゅ按配あんばいで、〝急患〟と称して裏口から運び込まれた〝患者〟は、とどこおりなく河原メンタルホスピタル三階の開放病棟に収容された。折よく個室に空きがあったのだ。看護師らは手捷てばやく白衣を着た。昏冥こんめいのなかにある青年に対しては補水ほすいを続け、口腔内こうこうない崩壊ほうかいじょうによる栄養補給を行った。一応そこまでの処置が終わった段階で、栄に同道どうどうした雪村看護師長は、

「この後、どうします?」

 と上司に問うた。栄は拱手きょうしゅして、

「そうだな」と言った。「えず、うちでできるのはSPEまでだったな」

「はい。長野さんに頼めば手筈てはずが整うと思います」

「今日出てるかい?」

「ええ。車があるのを見ましたから、いますよ」

 栄と雪村師長とは寸時すんじ眼が合い、須臾しゅゆ二人とももだしていたが、やがて二人は申し合わせたかのようにくすくす笑った。カー・マニアとして知られる長野はこれまでバスで通勤していたのだが、最近は自家用車で病院に出ていた。その自家用車というのはリンカーンのタウン・カーで、長大なボディは職員用駐車場ではいやでも目立つのだった。

「じゃあ、長野さんに至急SPEを頼んでみましょうか」

 雪村は笑いの消えた顔で、白衣の胸ポケットからPHSを取り出しながら問うた。河原国手は首肯しゅこうして、

「うむ、そうしてくれ。――おれは、一寸電話をしなけりゃならんから」

 と言い、院長室へ向かって歩き出した。雪村は美青年の病室の中に戻り、PHSで臨床検査室を呼び出した。

 長野は直ぐに出た。

「済みません、喫緊きっきんの件なんですが、SPEお願いできますか?」

 SPEとはsolid phase extractionの略で固相抽出とも呼ばれ、分析化学で液体中に溶解した分子の検出に用いられる手法である。

「SPE? ――いや、わたしは今出勤して来たばかりだし、今朝はだ仕事がないので構わんが」長野は一寸笑った。「それにしても唐突だな。目的化合物は何だい?」

「――それが、だ不明確なんですが、院長によれば大麻やモルヒネなどにいてやって欲しい、といっていましたけど…」

 それを聞いた長野はた一寸笑った。

「朝から大麻に阿片か。いい一日になりそうだな」

「済みません」

 雪村は局促きょくそくした。が、これは決して皮肉なのではなく、長野流のジョークであることは雪村も承知していた。

「いいさ。どのみち、今朝は暇だから。――で、検体サンプルは尿? 血液?」

「あ、血液です。笹井くんに渡して、直ぐ送らせます」

「朝からドラッグか。ヘヴィな朝だな」

 長野は笑いながら電話を切った。雪村はナース・ステーションに向かって歩き出しながら装置をポケットに収めた。朝のナース・ステーションは、ほとんどの看護師が入院患者の体温・血圧測定のために出払っていたが、夜勤明けの笹井洋子は眠そうな顔で日誌に何やら書き込んでいた。雪村はその背後から、

「笹井さん」と低い声で呼び掛けた。「一寸お願いがあるんだが」

 河原栄は院長室に入ると、背広も脱がずに卓子に着き、受話器を取り上げた。石井憲吉の短縮番号は――しばらく使っていないのでうろ覚えだが――たしか三番だった。

 心事しんじたがわず、石井は数度の呼び出し音で出た。

「はい」

 如何いかにも眠たげな、半ば不機嫌そうな声色こわいろである。

「もしもし。朝早くから済まんな。おれだが」

 すると、声のトーンが変わって、

「ああ、何だ、河原か」と憲吉は言うた。「今度は何用だ、たアルコールか?」

「いや、今回はそんな一筋縄では行かん。どうやらクスリ絡みだな」

「クスリか」石井は一瞬沈黙した。「おやおや、大麻?」

 河原栄は以前薬物関係でも石井憲吉の手を借りたことがあった。

「いや、だ詳細は判らん」

「暴れてるのか?」

「いいや、昏睡こんすいしている。相当長期間クスリ漬けだったようだ」

「そうか。――栄養状態は?」

「最悪だ。ろくにものを食べていなかったようだ。衰耗すいもうが激しい」

「ふうむ。…で、ぐにうかがった方がいのかね?」

「いや、だ脈は確かだし、判然はっきりしない点も幾つかあるから、た連絡する。ただ、準備はしておいて欲しいのだ」

「判った」石井憲吉は二つ返事で承諾した。石井が然諾ぜんだくおもんずる男であることは栄も知っている。「用意して待っているから、必要になったら呼んでくれ」

「ああ、宜しく頼む」

 受話器を戻し、栄は立ち上がると灰色のロッカーを開け、ワイシャツ姿になると白衣を着た。と、それを待っていたかのように胸ポケットのPHSが鳴った。第二病棟のナース・ステーションだった。

「河原先生、山中正恵さんの件で…」

 認知症の患者だ。栄はぐに事情を察して、

「判った。ぐ行きます」

 と答えると、PHSをポケットにしまった。長い一日になりそうだった。


 地階にある臨床検査室ではSPEの作業が着々と進められていた。へやでは室長たる長野剛が単独で作業に従事していた。この病院の規模を考えると相応ということで平生から助手はいなかった。それはこの作業にも好都合だった。第三病棟の夜勤明けの看護師が携えて来た検体のラベルには、赤字で「㊙」と大書されていたからである。

 長野は違法薬物の検出にかけては決して他の検査士の人後に落ちなかった。いや、ある点においては傑出けっしゅつしていると云っても良かった。長野は北大薬学部に於いて修士まで学修したが、修士論文は「ナトリウム溶液中においてオピエート拮抗きっこうざいが示す薬物動態」と題するもので、大学院時代には既に一寸したエキスパートだったのである。

 長野は装置に血液の入ったカラムをセットし、〝スタート〟スイッチを押した。やがて、隣に設置されているPCのディスプレイに、標的物質の名称と濃度が表示され、ビープ音が鳴る。長野はディスプレイを見、手元のチェック・シートに、

「レチキュリン、プラス…、ベンゾイルエクゴニン、プラス…、M6G、プラス…」

 と独語しつつ記入して行った。書き込み終えると、手袋をはずし、旁らの電話から受話器を取り上げ、栄院長のPHSの番号をプッシュした。

 河原栄は五回ほどの呼び出し音で出た。

「結果、出たかね?」

 栄は性急な口調で問うた。長野は、

「出ました」

 とだけ、短簡たんかんに答える。栄は、

「で、どうでしたね?」

 重ねて問う。

「院長の予想の通りでした。コカインとモルヒネに際立って高い反応がありましたよ。これは相当の中毒者ジャンキーですな。それから血糖値と中性脂肪値が異様に低い」

「他には? 大麻や覚醒剤、有機溶剤などは?」

「他は全てネガティヴ。ただ、コカインとモルヒネだけに異常なほど強い反応がありました」

「それだけかね?」

「それだけです」

「ふうむ。――あい、判った。朝っぱらから妙なものを依頼して済まなかった。有難ありがとう」

 通話を終えた河原国手はふうっと溜め息を吐いた。死に瀕した認知症の老女に就いては既に家族へ連絡が取ってあった。あとは雪村師長が何とか対応するだろう。それはそれで良かった。

 問題は、正体の判らぬあの美青年だった。国手の診立みたて、と云うよりか職業上の勘では、どのように手を打とうとも、どうやらあの青年も長くは持ちそうになかった。ここ数時間が峠だろうな、と院長室の窓から甲府市郊外の街並みを俯瞰ふかんしながら考える。

 ――厄介だな。全く厄介なお荷物を抱え込んだものだ。

 最前、栄は院長室へ帰るさに、名も判らぬ〝眠れる森の美青年〟の病室を覗いた。今は三上という口の堅い中年の看護師にえずの世話を頼んであった。

「如何ですかね?」

 院長が低声で問うと、三上看護師は、

「状態に変化はありませんね」と答えた。「それから、こちらが全身の所見です」

 と言い、クリップでフォルダに留めた書類を手渡した。栄は受け取ると直ぐに瞥見べっけんした。

「身長一八五センチで、体重が六三キロか。衰弱もする筈だ。――外傷や注射針の痕に目立つものはなし、か…。なに、右足首に刺突しとつしょう? どれどれ」

 三上看護師は直ぐにジーンズのすそめくって見せた。骨と皮ばかりの臑が露わになった。栄が見ると、くるぶしぐ上にだ生々しい、赤黒い楕円形の傷口が開いていた。

「比較的最近の傷のようだな」栄はず所感を述べた。――いや、加之しかのみならず周囲の肉が盛り上がっている所を見ると、大分以前にできた傷なのだが、何らかの原因で治癒せず、そのままになったもののようだった。

「これは――」

 と河原栄が指摘すると、三上看護婦も、

「ええ、そうなんです」と同意した。「大分深い傷口ですわ。しかも、上皮の辺りは壊疽えそに近い状態になってます」

「一体どうしてこんな傷になったんだろうな?」

 その言葉に、三上はうっそりと微笑んだだけだった。

「見当も付きませんわ」


 院長室で、河原栄は窓辺に立ち、下唇をめつつ、只管ひたすら思案に暮れていた。

 いや、思案を態々わざわざ待つまでもなく、今回も石井憲吉の手を借りねばならないことは明々白々だった。

 しかし、石井に対し何をどの様に話せばいいのか。一体何処どこまで話していいのか。ことは少々微妙だった。

 栄国手は別段、石井の人品を疑っている訳ではなかった。必要事は知悉ちしつしており、仕事は確かだし、機密事項の扱いも慎重だ。が、くまで石井は外部の人間だった。河原栄はこれまでにも十数回、石井憲吉の手を借りてきた。が、、これまでの症例は、いずれも症状が明確で、身元も明らかなものばかりだった。しかるに今回の症例は、診断が下せず、加之しかのみならず身元すら判らないのだ。そのような患者を他者にゆだねる段になると、流石の河原国手も二の足を踏んでしまうのである。

 そもそも、河原栄と石井憲吉とは、東大の医学部の同窓生だった。河原栄は甲府の生え抜きだったが、石井憲吉は都内の名門、日比谷高校の出身であった。二人は同い年で、学年も同じ一九六六年入学組だった。入学後じきに狎昵こうじつする仲になった二人の命運を分けたものは、時勢じせいしからしむる所であったろう。東大紛争、羽田沖事件、佐世保エンタープライズ闘争、と大学を中心にして、日本という国を一陣の嵐が吹き荒れた時代だったのである。

 栄ははしこ時局じきょくを読んでいた――即ち革命などありえない、と醒めたものの見方をしていたので、半ばノンセクト・ラディカル、半ばノンポリ学生、という、コチコチの全共闘学生からは、日和見的だ、と糾弾きゅうだんされて然るべき態度を取っていたのに対し、石井憲吉は運動にのめり込み、初手しょてに踏み込んでいた全共闘組織に手緩手ぬるさを感じて早めに足を洗うと、黒ヘル組、即ち無政府主義活動に身を入れるようになっていた。そして、ある日街頭で〝デモって〟いた所、公務執行妨害ならびに兇器きょうき準備集合罪のかどで逮捕されてしまったのである。憲吉は起訴され、執行猶予が付いて釈放されることになった。が、父親からはうに勘当かんどうされていたため、度々接見に訪れるなど昵懇じっこんの仲にあった河原栄が勢い当座の身元引受人となった。

 憲吉は起訴と共に大学は退学処分となった。大学は丁度、解剖学や生理学といった基礎医学を修了し、これからBST、即ちベッド・サイド・ティーチングに入ろうか、という時期を迎えていた。栄は多い風呂付きのアパートメントに引っ越し、憲吉をそこに住まわせて大学病院へ通った。憲吉の方は、金はあるが出来の悪い、国家試験に何度も落ちるような私立医大


生を相手に、高時給を取って家庭教師のアルバイトをして生活費を作り、家事も受け持った。憲吉はその頃、轗軻かんか不遇ふぐうの身の上を嘆じてか、ひどく無口になっていたが、栄にだけはたまさか笑顔を見せた――もっともそれは、「彼奴あいつ、心の臓には心房と心室が二つずつある、ってこと、知らねえでやんの」とか、「此奴こいつは今度落ちたら三回目の六年生だぜ」などといった嗤笑ししょう混じりのコメントと共に酒の席で語られる、皮肉なものであったが。

 栄は無事大学を卒業すると、国家資格を携えて甲府に帰郷し、父のおこした病院を継いだ。そして持ち前の経営手腕を生かして、りすぐりの医師に声をかけて病院の規模を大きくし、病床数も二・五倍に増やした。わば栄はこの病院の中興ちゅうこうであった。

 加之しかのみならず、栄は石井憲吉の身の振り方にも気を配ってやった。憲吉が今、県立の長期療養型施設で相談員という職にいていられるのは、ひとえに河原栄の奔走ほんそうたまものである。

 そして、このかどあるさいに、栄はた石井憲吉の手を借りねばならなかった。

 本音を吐けばこの度は栄は乗り地ではなかった。


 国手栄を踟蹰ちちゅ因循いんじゅんさせていたものは、青春時代への甘な感傷などといったものではなく、先ず憲吉の保身のことであった。

 と云うのも、石井憲吉は自己の身辺に関し、よくいえばオープン、平たくいえば余りにも無防備だったからである。石井もわば刑余けいよじんとして見做みなして良かったが、その点当の本人は余りにも気楽で気軽で、今様にいえば天然ボケ、とでもいうのであろうか、かく脳天気でルーズだった。栄も、憲吉の身辺にはだ公安関係の眼があることは判っていた。不即不離ふそくふりの距離を取りながら、憲吉の行動にごくゆる掣肘せいちゅうを加えていた。

 が、石井憲吉はそれを知ってか知らずか、自身の学生時代の失敗談――即ち〝若気の至り〟を、公然と誰にでもけに話すのである。――めしい、蛇に怖じず、とは云うが、と河原栄は思う。少なくとも石井が愚昧ぐまいな人間ではないことは皓然こうぜんたる事実だ。では、何が石井を駆り立てるのだろう? その点が栄には不可解なのだった。栄はその点に関し、幾度か憲吉に忠言していたのだが、憲吉は口先で「判った、わかった」と云うだけで、はらの底は読めなかった。だが、その点を除けば、石井は自分の職掌しょくしょうに関し有能で、しか孜々ししとして働く方だったため、今回のように栄にとっての〝不測の事態〟が生じた時にも、欠かせない股肱ここうとなっていた。そのため、石井は、尠なくとも表向きは周囲から信頼されていたのだった。当人も、現在の境涯に至極満足しているようだった。

 ――そんな由なし言を胸裡で繰り言のように噛み締めていると、白衣の胸ポケットに入れてあるPHSがけたたましく鳴った。三上看護婦からだった。栄は直ぐ「通話」ボタンを押した。

「もしもし」

「313号室の三上ですが」

 声は幾分上擦うわずっていた。

「うむ。奈何(どう)ですか?」

「脈拍が弱くなっています」

「直ぐ、行く」

 栄はPHSをしまうと、足早に院長室をあとにした。院長室の他、職員用の仮眠室や会議室のある病院四階を去り、階段を使って三階即ち第三病棟の313号室へ辿り着くまで、栄は十数名の医師や看護師と擦れ違った――この病院には現在栄国手を含めて六名の医師が常勤していたが、いずれも駿台甲府人脈を手蔓てづるに栄自身が引っ張ってきた者ばかりで、皆「鉄門てつもん倶楽部くらぶ」の名簿に名が載っている――即ち、皆東大医学部の出身者ばかりである。どの医師も有能で、しか卒々そつそつ恪勤かっきんする者ばかりだった。皆栄の助言を素直に聞き入れた。河原栄が院長である限り、河原メンタルホスピタルは安泰あんたいだった。

 すくなくとも、表面上は。

 栄は健康のためたけエレヴェーターを敬遠していたので、如上じょじょうの通り階段で三階に降りた。病棟は大別して東ウイングと西ウイングに別たれていて、その中央にナース・ステーションと患者用食堂があり、313号室は西棟の奥にあった。病棟内はクリップ・ボードを手にしてせわしく歩をきざむ看護師や、回復期の患者のリハビリテーションに取り組むケア・ワーカー、煙草を手に喫煙所へ向かう患者や、同じく喫煙所で一服やって小憩をとろうとする看護師などで満ちていた。

 そして、幸いなことに、313号室に取り立てて注意を向ける者は誰もいなかった。

 河原栄は控え目に313号室のドアをノックした。へやの窓は暗く、どうやら照明を落としているらしい。

 と、ドアの向こう側に、つ、と身を寄せる白い影が見え、

「どなたですか?」

 と女声が低声で誰何すいかした。栄医師は、咳一咳がいいちがいして、

「ああ、わたしだが」

 と答えた。すると、ドアが内側から控え目に開けられ、栄国手はその隙間から身体を病室内へ滑り込ませた。

 室内に這入はいり、患者の様態ようだいを一瞥しただけで、老巧ろうこうの栄医師は、長年の経験にちょうして、青年の死期が迫っていることを直覚ちょっかくした。

先刻さっきここに搬入して寝かせた時とは体位が違っているようだが。動かしたのかね?」

 河原栄の指摘を受け、三上看護師は、

「先ほど、身悶えしたんです。――こう、痙攣けいれんするように、ぶるぶるッ、と」

「ふむ」

 栄は美青年の肉体に取り付けられた脳波計などといった機器類の呈するデータを見た。

「芳しくないな」

 ぽつりとコメントを述べた。三上看護師は、

「これでも、手は尽くしたんですよ。――だけど、先刻さっき譫語せんごを漏らしたりしまして…」

「なに、譫語せんごを? ――どんなことを口走っていた?」

「最初は切れ切れでよく判らなかったんですけど、〝もう帰りたいです、先生ドクター〟とか、〝ぼくが悪かった、堪忍して下さい〟とか、〝お腹が減った、このままでは死んでしまう〟とか、そういった…、悲痛な叫び、とでも云うような内容で…」

「ふうむ。矢張やはり、只の薬物中毒とは違うケースらしいな」

 栄はそう云って、美青年の穿いたジーンズの裾をまくり、件の傷痕きずあとを確かめた。

 ――と、栄は、

「おや」と云って青年の皮膚を指でこすった。「これは何だろう?」

 栄の指摘を受けて、三上看護師は国手のみぎ食指しょくしの先端を見た。が、何も眼に映らなかったらしく、

「何ですか?」

 と眼を丸くしている。栄は313号室の灯りを点けた。蛍光灯の光の下で、河原国手は改めて、

「ほら、よく見てご覧」と言って、指先を三上看護師の鼻面に突き付けた。「何か、あるだろう」

「ああ」っと、三上看護師にも見えたらしい。やや橫目になって、「何かのえんかしら。結構走ったみたいだし、汗かも知れませんね」

 だが、河原栄はそのコメントには満足しなかった。

「これは塩なんかじゃないね。もっと粗く、ざらざらしている」指先でその感触を確かめ、「此奴こいつは、屹度きっと何かの結晶体だ」

 河原栄は云いさま胸のPHSを取り出し、長野の番号にかけた。長野は直ぐに出た。

「お呼びですか? た何か問題でも?」

「うむ。一寸気になるものがあるのだ。恐らくは何かの結晶だと思う」

「結晶ですか。臭いと味は?」

 栄は先ず鼻で嗅ぎ、ついで舌で舐めた。

孰方どちらもないな。――強いていえば微かにしょっぱいが、これは多分汗だと思う」

「そうですか。判りました、ぐ参上します」

 長野は言に違わず、五分後には313号室にやって来た。

「済まないな、忙しいところ」

 栄が言うと、

「いや、今日はこれで時間のある方ですよ。定期尿検査と、あと血液検査が数件ですから」と笑い、「それで、ご用は?」

「ああ。この――患者の皮膚に付着しているのだが、どうやら全身に付いているようなのだ」

 長野はプラスティックのサンプル・ケースと刷毛を取り出した。ケースは内部が四分割されている。

「じゃあ、これで採取しましょう。顔と胸、背中と足、それでいいですか?」

「ああ、構わん」

 長野は手慣れた仕種で刷毛を使い、青年の身体を動かさぬよう細心の注意を払い、サンプル・ケースに粉末を収めていった。その作業が済むと、栄は長野に、

「ああ、きみにはそれが何か、見当は付くかね?」

 と問うた。すると、長野は口辺こうへんに薄く笑みをうかべて、

「ええ、まあ大体はね」と答えた。「もっとも、だ推測の域を出ませんがね」

「で、何かね?」

 栄はたたけた。が、長野はそれには答えず、ケースの蓋をパチンと閉めると、

「組成式とか分子量ならぐ判るので、先ずそれだけ調べます。それさえ判れば、具体的にお答えできます」と言った。「――けどねえ、しわたしの推測が当たっていた、とすると…、やっこさんはかなり異常な環境におかれていた、ということになりますがね」

 なることなら、推測が外れていることを祈りますよ、と不気味な言辞げんじを言い残して、長野は去って行った。

 栄は三上看護師と共に、うっそりとした不安を感じながら長野の背中を見送ったのだった。

 ――その時、栄のPHSが鳴った。

「院長、宜しければ回診をお願いしたいのですけれども」

 下の診察室で患者に応対する要はなかったものの、その代わり今日は各閉鎖病棟それぞれの入院患者のもとを回って簡単に問診する予定があった。

「ああ、そうだった。諒解しました」

 栄は三上の方を向いて、

「この…患者に何か変化があったら、わたしに逐一ちくいち知らせて欲しい」

 と言った。三上は、

「はい、判っております」

 とだけ答えた。栄は三上に向かって頷き掛けると、電灯を消して313号室を後にした。

 看護師を伴い、栄は全病棟の回診に一時間半を要した。その間、有難ありがたいことに313号室の〝お客〟のことは脳裡のうりうかばなかった。

 河原国手は回診を終えるとやや疲労を覚え、それと共に朝から忙しかったことも思い出し、えず院長室に戻った。そろそろ昼食の時間だな、と思った時、胸のPHSが鳴った。長野だった。

「もしもし」

 栄はいやな予感を覚えていた。長野はせかせかした口振りで、

「結果が出ました。――いや、結果自体は一時間も前に出ていたんだが、院長が回診中だということを思い出しましてね。…それから、我が眼を疑った、ということもあったので、再度機械に掛けたんです。ところが、やはり一回目と同じ結果しか出ませんでね…。ところで院長、一つお訊きして宜しいですか?」

「うむ」

 答える栄の声はかすれていた。

「あの患者、一体どういう情況じょうきょうで…、その、言葉は悪いが、拾われたんです?」

 栄は言下ごんかに、

「それは、言えんな」と答えた。「申し訳ないが、我われもあの患者のことは、何も判らんのだ」

「そうですか」長野はすんなりと栄の言を受け入れた。「では、宜しいですか?」

「うむ」

「光学顕微鏡で一寸見ただけで大体目星は付きましたがね。あの患者の身体に付着していたのは、顔、胸、背中、右足とも、いずれも同じ物質でした。――混合物はほとんどなし。組成式はC17H2NO4、分子量303・35、純度99・9%以上のコカインです」

「そうか。――モルヒネは…」

「モルヒネが検出されたのは体内のみです。体表からは一切検出されませんでした」

「そうか」

「はい」

 二人の間にしばし沈黙が流れた。それを破ったのは長野の方だった。

「体内からも高濃度のコカイン代謝物質が検出され、そればかりか身体の表面にも付着している。これは、どう見ても常態じょうたいではありませんぜ、院長。早めに警察に届けた方が――」

「いや、それはできないのだ」栄はた又蔵のことを考えていた。「今回の件は、残念ながら奈何どうしてもできん。忘れてくれ」

 長野は五秒ほど沈黙をいて、

「判りました」と答えた。「他言も無用、ということですね?」

「ああ。――理解して頂けて、助かりますよ」

「いやいや。こちらは院長の意のままにさせて頂くだけですから」

「済まない。よろしく頼む」

 そう言って、河原栄は通信を切った。

 頭の中は錯雑さくざつしていた。これまで栄は、あの青年はコカインやモルヒネを乱用するパーティ――要するにマリファナ・パーティのようなものに長期間に亘って参加していたのではないか、と考えていたのだった。しかし、その国手の予想はものの見事に裏切られた。

 ――ほぼ純物質の状態でコカインが全身の体表から? 一体誰が、何を目的として、どうしてあの青年をあの様な状態におくのだ?

 栄は落ち着かず、拱手きょうしゅして院長室の床の上を歩き回った。

 理解ができない。奈何どうしても理解不能だ。

 その時、PHSがた鳴った。三上看護師だった。

「もしもし」

「三上です。あの、…患者さんの様子がおかしくなって来ました。脈拍みゃくはくが弱くなっています。呼吸も浅くなって…」

「判った。ぐ行きます」

 栄は院長室を飛び出すと、階段を急いで降りて313号室に向かった。ノックもせずに暗い室内に這入はいる。

 青年はいていた。右手、左手、右足、左足、全身全てを使って、まるで空中でロック・クライミングを試みている者のようにうごめいていた。マラソン撰手せんしゅのようなせわしない呼吸音が聞こえた。

 と、不意に青年の動作がんだ。宙に突き出されていた四肢ししからはぐたりと力が抜けて、ベッドの上にくずおれた。

 三上看護師は、職業的な冷静さで青年の周囲に所狭しと置かれた機器類のディスプレイを見て、ついでに右手首の脈を取った。

「心肺停止状態です」三上看護師は冷徹れいてつに宣言した。「応急蘇生措置を取りますか?」

「いや」と院長は考えながら言葉を口にした。「もう望みはあるまい。我われにできる手は尽くした、といっていいだろう。このままにしておこう」

 二人は眼をつむり、それから弛緩しかんしてベッドに横たわる青年の身体を見下ろした。放っておくと硬直が来るな、と栄は思った。だが、この青年の出自しゅつじさえ判らぬ以上、これ以上手を触れるには及ばなかった。

「では、死亡診断書を…」

「要らん」栄は短く言った。「情実じょうじつは脇へ措いて、今回は不要だ」

「では…」

 席を立って外へ出ようとする三上を栄は引き留めた。

「いや、きみにはここにいて貰わなくては困る。誰も来ないよう、見ていて欲しいのだ。――当院の全職員には、313号室への立ち入りを禁じる旨、触れを出すが、患者が迷い込むかも判らん。そういった椿事ちんじの起こらないよう、きみには此所ここにいて貰いたい」

「判りました」

「それから、この件は無論だが他言無用だ」

「承知しております」

よろしい。――では、宜しく頼みますよ。所用が済み次第、ぐ戻ります」

 栄は313号室を後にして、院長室に戻った。

 へやに入ると念の為ドアに施錠し、それから直ぐに電話に向かい、石井憲吉の携帯電話を呼び出した。何もなければ、憲吉は県立療養所の相談室にいるはずだった。

 相談室にひとがいるような場合は大概留守番電話に切り替わるのだが、その日は好運なことに、憲吉は三度目の呼び出し音で出た。

「はい」

 学生時代から変わらぬ、ぶっきらぼうな応対だった。我ながら妙だと思ったのだが、その声音こわねに、栄は憲吉のタフさを感じ取り、奇妙な安心感を得、偸安とうあんした。

「朝話した、急患のことなんだが」

「うむ。どうだ?」

「今さっき、旅立った」

「そうか…。まあ、先刻さっき聞いた通りの痲薬中毒者ジャンキーなら、八方手を尽くしてもそういう結果になるのは仕方がなかろう。――で、ご遺族には話したんだろうな?」

「いや、それが…」

 栄は憲吉にことの次第をまんで説明した。話を聞き終えると、憲吉は惘然ぼうぜんとしたようだったが、一呼吸措いてから、

「そいつぁ…ヤバいお客さんじゃねえか」

 と呟くように言った。栄は、っとまともに話のできる相手が見つかった、と半ば安堵あんどする思いで、

「そうなんだよ」と言った。そこに至って、改めて栄は、自分の胸に暖かな血潮が流れ込むのを感じたのである。「他には誰にも話す訳には行かんのだ…。警察にも話せない、と云うのは、個人的なしがらみという側面もあるのだが…、しかし、こんな症例ケースは、医者になってから、いや、学生の頃も含めて、初めてうよ。一体奈何どうすればいいのか、悉皆さっぱり見当が付かないのだ」

 憲吉は、

「まあ、落ち着けよ。――今日はおれも幸い暇だ。厄介ごとは持ち込まれていない。だから、風邪を引いて熱っぽい、とでも言って、午後…そうだな、二時か三時にはここを出よう。で、お宅をお伺いする。お客さんは、それまで安置しておいてくれないか」

「判った。済まない。そうして貰えると大変有難ありがたい」

「なに、お互い様だ」

 そう言って、憲吉は笑った。

 電話が切れた後も、栄はしばらく受話器を耳に当てた儘呆然としていた。

 けれども、入院許可の書類への署名や、障害者年金の受給申し込みに必要な診断書の作成など、院長としての事務仕事が待っていることを直ぐに思い出し、そういった繁縟はんじょくな作業に身を任せれば小半時でもうっそくから逃れられるか、と思い、仕事を処理して行った。石井憲吉が来るのは午後半ばになる筈だったから、それまでに済ませればよかった。

 やがて国手栄は昼食の時間が来ていることを思い出し休憩を取って妻富子手作りの弁当の包みを開こうか、とも考えたのだが、今日は食慾しょくよくが湧かなかった。

 ――さて、一体奈何どうするのが上策だろうかな。

 栄は考えながら、胃の痛みを覚えていた。の様なお客を拾ったのは、単なる運命か、はたまた悪運のすところか…。考えても仕方のないこととは知りながら、栄は考えずにはいられなかった。

 その時、誰かが院長室のドアを控え目にノックした。ドアの硝子ガラスには、白い姿がぼんやりと浮かび出ている。栄は、

「はい」

 とかすれ気味の声で返辞へんじをし、立ち上がって解錠した。

「失礼します」と言って入って来たのは雪村師長だった。「院長――」

「うむ」

 雪村は後ろ手にドアを閉めると、低声で、

「あの急患、なくなられたそうで」

「ああ」

「それで、この後は…」

 言い差す雪村を、栄は手で制し、

「何とかする。心配は無用だ」

 とだけ言った。

「そうですか、何か…」

「もう、いい」河原は幾らか大きな声で口を挟み、再び「心配は無用だ」

 雪村は何か感ずる所があったらしく、最前さいぜんよりは落ち着いた態度で頷いて、

「判りました」

 と言った。それから、開いた弁当箱の載ったままの栄院長の卓子を見て、

「お昼は、もう召し上がりました?」

 と問うた。栄は吐息といきを漏らして、

「いや、だなのだ。どうしても食慾しょくよくが湧かない」

 と言って渋面じゅうめんを作った。雪村は、

「院長、これから何があるか判りませんし、今のうち召し上がっておいた方が身の為ですよ」

 と忠告した。院長は、

「うむ。しかし、一寸胃が痛んでね」

 雪村は、

「判ります」少し笑って、「わたしも、昼食を取るのに平生へいぜいの倍も時間がかかりましたから」

 栄が、

「用はそれだけかね?」

 問うと、

「――あ、浜田さんの障害者年金の件で…」

「ああ、それなら書類はもう出来ている」

 栄は卓上から診断書を取り上げて手渡した。栄は、たけひとりにして欲しかったのだが、察しのよい雪村にも判ったらしく、

有難ありがとうございます。――では、わたくしは失礼致します。お邪魔しました」

 と言い残して院長室からまかり出て行った。

 っと独りになれた栄は、えず立ち上がって電子ポットから急須きゅうすに熱湯を注ぎ、茶をれた。湯呑みに一杯、ゆっくり茶を呑むと、っと胃の中が落ち着いてきた様で、栄は弁当箱の包みを解く気になった。さいはと見ると、鶏肉の幽庵ゆうあん焼きに茄子の天麩羅、それから南瓜かぼちゃのサラダだった。幽庵ゆうあん焼きは栄の好物だった。

 ――憲吉は一体どうするつもりなのだろう? 何か当てがあるのだろうか?

 栄は食べながら考える。もっとも、当人に件の屍体したいを見せるまでは何とも云えない。

 ――し何も手立てがない、となると、結局表沙汰にせざるを得なくなる。

 しかし、それは避けたかった。話の筋立て、配役、情況じょうきょう、どれを取っても汁気たっぷりのスキャンダルの種になるおそれがあった。話がどういう方面に飛び火するか判ったものではない。しかも、通報者が第一当事者の又蔵だと云うのなら未だしも、事件の発生から半日以上おいて栄が通報する、というのは不自然で、明らかに上策ではない。

 考えながらではあったが、栄は何とか弁当を完食した。

 昼食後、自席に座ったままの姿勢でいた栄は、満腹感と神経の疲労からゆくりなくも微睡まどろみに落ち、半時間ほどうとうとした。

 それから覚醒して時計を見ると、午後一時半を回っていることに心付き、慌てて立ち上がった。革製のデスク・チェアが背後の灰色をした事務用ラックにぶつかった。

 ――しまった。うっかり寝入ってしまったか。

 栄は白衣に袖を通すと、院長室を後にした。

 ノックをし、三上の返辞へんじを確かめてから313号室に入ると、青年は全裸にかれており、着ていたものは各病室備え付けの床頭しょうとうだいの上にたたんでおかれ、青年の身体には白いおいが掛けてある。

「何か、異常な点はなかったかね?」

 栄が問うと、三上は、

「ええ、先ず、今朝方も指摘した、刺突しとつしょうですね。――それから、着物をぐ時に確認したのですが、下着は上下とも着けておりませんでした。後、これもその時に認められたのですが、肛門の周囲が大分糞便で汚れていました」

「ふむ」院長栄は気難しい返辞へんじをした。「その他。何かなかったかね? パンツのポケットに何か入っていたとか…」

 三上看護師はかぶりを振った。

「いいえ。身元の特定につながるような物品はおろか、お金も一円さえ所持していませんでした」

「そうか…」

「先生、このままおいておきますと、やがて…」

「うむ。早急に地下に移した方が得策だな。――が、もう少し待って欲しい。わたしの知り合いが来て、見てくれることになっている」

「そうですか。…あの、それから、あの足首の刺突傷のことなんですが」

「うむ。どうかしたかね?」

「はい。傷周辺部の組織をごく部分的に採取して、長野さんに顕微鏡で見て頂いたんですが」

「ほう。どうしてそんなことを?」

 栄が問うと、三上看護師は多少赧然たんぜんとなって、

「あのう、余計なことかとも思ったのですが、余り気になったものですから、わたしが個人裁量でお願いいたしました」

 と答えた。

「ふむ。――それで、奈何どうだったのかね、結果は?」

「それが…、ヒトの組織細胞に混じって、繊維状の植物細胞と思われるものが確認されたそうなんです」

 栄国手は右眉を上げた。

「なに? 植物細胞だって? 確かかね?」

「ええ。細胞壁に、葉緑体、それから中心液胞も見られるので、恐らく間違いないだろう、と仰有おっしゃっています」

「ふうむ」河原栄は思わず右手をあご下に当て、考える姿勢を取った。

 その時、へやのドアをノックする音が聞こえた。栄はず室の電灯を消してから、ドアにすっと近寄り、

「どなたかな?」

 と声を殺して問うた。すると、同様なささやきが、雪村師長の声で、

「お客さまです、院長」

 と返って来た。栄はドアを開けた。

 雪村師長の後から入って来た姿を見て、栄は幾分か救われた気がした。眼鏡を掛けた浅黒い顔はそろそろ還暦を迎える頃だったが、相変わらず精悍せいかんで、背は高く、がたで、口辺こうへんには微笑をうかべている。石井憲吉だった。

「よう」栄は昔の学生言葉にならぬ様気を付けて話した。「元気そうだな。よく来てくれた」

 憲吉は微笑をうかべたまま点頭てんとうし、低声ていせいで、

「おい、ここにいるひとたちは大丈夫なのかい?」

 と問うた。栄は頷き返し、

「ああ、大丈夫だ。早速見てくれないか?」

 憲吉は雪村と共に313号室に這入はいった。三上看護師が電灯を点した。その直後、憲吉の、

「ちょっと、この掩布おいふ、取って貰って構わないかな?」

 との言葉を受けて、看護師は手早く布をがした。五月の湿っぽい天候という季節柄、青年の身体からはもはや屍臭ししゅうが漂ってくる。

 憲吉は、青年の屍体したいを、時間をかけて詳しく瞥見べっけんした。看護師は、遺体に関する具体的な情報や、その他要点にいて簡潔に報告した。

 それを聞いた憲吉は、

「なに、植物細胞だって?」ととがめた。「勘違いじゃないんだろうね?」

「長野くんは、敏腕の薬剤師だ」栄は言った。「疑義ぎぎがあるのなら、下の臨床検査室を訪れて、顕微鏡を覗かせて貰ったらいい」

 憲吉は、

「そうだな。間違いがあると困るし、百見は何とやらと云うし、一寸行ってみるか。河原、案内を頼むよ」

 くして、石井憲吉と河原栄は、二人して鍵の付いたエレヴェーターに乗り込み、一階へ降りたのだった。

 長野は検査室の中で、退屈そうに新聞を読んでいた。二人がへやに入ると、ややかしこまった表情をうかべ、新聞のがらかたわらにおいて、立ち上がった。

「院長、何でしょう?」

 栄は隣の憲吉を指し、

此方こちらは、市内の病院で相談員をしている、石井くんという。――信頼してくれて構わない。唐突にここへ来たので多少驚かせたかも判らんが、先刻さっききみが気付いたという、例の植物細胞を見せて貰おうと思うのだ。今、大丈夫かな?」

「ええ、その細胞でしたら、だプレパラートが顕微に載っています。さ、こちらへ」

 と云って、二人を部屋の一隅へ連れて行った。憲吉は眼鏡をかけた儘レンズを覗いた。そして、

「…うむ、これはたしかに葉緑体、それにこれは中心液胞、こいつはゴルジ体だな。――うむ、たしかに植物細胞だ」

「だろ?」

 と栄。

「ああ。――併し、此奴こいつ奈何どうして傷口の中にあったんだろうな? まあ、ここまで来ると、植物学者ボタニストが必要になってくる訳だが」

「植物学者なんか呼んで、どうするんだ?」

 栄が問うと、憲吉は、

「勿論、この植物細胞のDNA解析をして貰うのさ。遺伝情報さえ判れば、この草本そうほんだか木本もくほんだかの正体も分かるからな。――もっとも、サンプルの細胞がこれっぱかりじゃあ、不足があるかもな」

 四階へ帰るエレヴェーターの中で、栄は、

「これ、単なる痲薬まやく乱用以上の犯罪の臭いがするんだがね。お前はどう思う?」

「ああ。これには十中八九、犯罪が絡んでいるね。確実だと思う」

 憲吉は即答した。栄は、

「ううむ。このまま無縁仏むえんぶつとして闇の中にほうむってしまう、と云うこともできなくはないが…。仏さんには申し訳ないことになるな」

奈何どうしても、表沙汰には――、って云うのは警察沙汰という意味だが、しちゃならんのかい?」

「うむ。それが一番至当しとうな手続きだとは判っているさ。百も承知だよ。だけど、実はおれの類縁るいえんに、昔クスリ関係で捕まって懲役上がりの男がいてね、もちろん今は真っ当に暮らして恒産こうさんもあるんだが、その周辺の人間が神経質ナーヴァスになっていて、捜査の手が及ぶのをいやがっているんだ。――だから、今はその線は考えないで欲しいのさ」

「判った」憲吉は間をかずに返答した。「すると、一体奈何どうするね? あのまま葬ってしまうのも寝醒ねざめが悪い、実に後味あとあじよろしくない話だしなぁ…。――じゃあ、どこまでできるか判らんが、おれたちだけで調べられるか、一寸ちょっとやってみるか」

 それを聞いた栄は「ええっ?」と言って片眉を上げた。

 その時、エレヴェーターは四階に着き、二人はかごから出た。院長室まで二人は無言で歩いた。室に入ってから、

「……何か、伝手つてでもあるのかい?」

 栄が問うと、憲吉は、

「うむ、ないでもないさ」

「どんな? ――それも、闇、かね?」

「まぁ、半分は闇だな。それがバレなきゃ、堂々と表に出せる」

「具体的に、どんな話なのだ。もっと具体的に聞かせてくれんか?」

「ああ。実はな、おれの一寸ちょっとした知り合いに、警察犬訓練所の管理をしている、――つまりその地所じしょの所有者なんだが、かくそういう男がいてね」

「ほう。そんな知己ちきがいたとは、初耳だな。どこでどうして知り合ったんだね?」

「いやぁ。平たく言ってみりゃ、ただの酒飲み仲間さ」

「ふうむ」

 栄がすこしく怪訝かいがの色をうかべているので、石井憲吉は説明のろうらねばならなかった。

 憲吉の話にると、その男は今埜こんのという名で、甲府市内の康衢こうくからは少し離れたところにある雑居ビル三階に店を構えるショット・バーの常連の一人であり、週に三日か四日、ことにると毎晩でも来ており、カクテルやボトル・キープしたバランタインをオン・ザ・ロックでり、帰る足許が覚束なくなるほど呑むことも屡々しばしば、という為体ていたらくなのだそうだった。憲吉も自体左党で、酒には眼がない方だったが、その今埜こんのという男ほどではない。従って、マスターの作るカナッペやカルパッチョを肴に、ジンやコニャックをゆっくり味わいつつ、他の常連との会話を楽しんで過ごす、という程度で、店に顔を出すのも大抵は多くて週に三回か四回程度だったのだけれど、最初今埜を見た時には、余り近くには寄りたくなかったのだ、という。

「ほう。それは一体奈何どうして?」

 憲吉は美男子ではないが愛嬌があり、医師を目指していただけあって、本人も元々ひとが好きなのだろう、それがそんなことを言うとは栄にはにわかに信じかねた。

「どうして、って…、形容するべき上手い表現が見当たらんが、随分剣呑けんのんな表情だったからね」

「へえ。じゃあひょっとしてこっちの…」

「いやいや。――まぁ、八九三も怖いには怖いが、そういう怖さとも違うな。言ってみれば、おれは見たことは一度もないが、亡霊に遭遇そうぐうした時はああいう怖さなのかな、と思ったが」

「ふん。それでお前、一体奈何どうやってそんなのと近づきになったのさ?」

「いやぁ、元は喧嘩の仲裁ちゅうさいさ」

「そうか」

「うん。――ある時、おれは止まり木に座ってジントニックか何かめていたんだ。左方に田部井さんという仁がいて、何かの話題で盛り上がっていたんだ。――そうそう、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの、あの後楽園球場の来日公演に行ったとか行かないとか、そんな話だったかな。まあ、何でもいいや。かく、おれがそうやって呑んでいる所へ、奥から今埜くんが蹌踉そうろうとやって来たんだ」

 石井の話にると、今埜こんのは田部井が足許あしもとに置いていた鞄に蹴躓けつまずいて顚倒てんとうし、床でしたたかに頭を打った。そして蹌踉よろめきながら立ち上がると、亡霊じみた平生の様相なぞどこへやら、田部井に向かって、

「おい手前てめえ、何てとこにものを置いてやがる」

 ともの凄い剣幕で喰って掛かった。石井はそこを、

「まぁ何だな、酒呑みの怒り上戸、ってやつだな」

 と評する。

 温順おんじゅんな性質の田部井は只管ひたすら謝ったのだが、今埜こんのの方は怒り心頭、奈何どうにもゆるせぬ、と怒髪どはつ天をく、という表情で、今しも殴り掛からん、と鼻息を荒げている。

 そこへ、憲吉は割って入り、何とか仲裁を試みた。憲吉は、

「ま、幽霊氏はいつも隅っこの席で大人しくんでいたから、しかしたら如何いかにも楽しそうにってるおれらをやっかむ気持ちもどこかにあったのかも知れんねえ」

 と後顧こうこする。

 さて、憲吉は止まり木から降り立つと、田部井と共に雁首がんくびそろえて頭を下げ、

「これは連れ合いの不注意ですが、気付かなかったぼくも悪かった。どうぞ、田部井さんを殴ると仰有るなら、ぼくも一緒に殴って下さい」

 と言った。そこで今埜はっと怒りが幾分かやわらいだようで、拳を解いた。憲吉は自分の右手の席に今埜こんのを座らせ、

「さ、よかったら一献いっこん参りませんか?」

 とさそった。憲吉が、ビールでも、とすすめると、案外あんがい固辞こじせずに、

一番搾いちばんしぼり、いいね」

 とかすれた声で言った。そして、さま出されたジョッキを取り上げて、憲吉の持ち上げたそれと素直にかちりと合わせ、そのまま口許くちもとへ運んで半ばまでけると、気分も落ち着いたようで、最前さいぜん自分がさらした醜態しゅうたいじてまりでも悪くなったものか、

「ああ、済まね」

 と言い置いて、後も振り返らず、孤影こえい悄然しょうぜんと店のドアをはいし出て行った。店内にはしばし沈黙が居座った。独り田部井は弱り切った様子で、

いやだなあ。おれ、石井さんに借りができちゃったよ」

 と掻頭そうとうすることしきりだったが、石井は、

「いやいや。こう見えて、ごと紛擾ふんじょうを収めるのは、昔から得意なんだ」

 と言って涼しい顔でショート・ホープに火を点けたものである。

 そこまで聞いて。

「ふうむ」と河原栄は言った。「それが、馴れ初めかい」

 今埜こんのはそれから数週間ほどしてた姿を見せるようになったのだと云う。

「ああ、そうなんだ。それからは今埜くんも田部井さんもおれに頭が上がらないみたいでさ、おまけに二人とも仲良くなっちゃってさ」

「おいおい、幽霊だの何だの、非道ひどくさしていたじゃないか」

「うん。あのじんは、元々孤独癖こどくへきが強いんだね。職業を聞いてハハァ、と思ったよ」

「一体何をやって生業なりわいにしてるのさ」

「芸術家さ。地元では結構名の通った画家らしい」

「ふん。絵だけで喰って行けるのかい」

「そこさ。実家は土地持ちなんだね。地代じだいが入るから、好きなことをして活計かっけいが立ち行くらしい」

「そうか。…で、その今埜さんと田部井くんとは仲直りした、と云う訳か」

「ああ、こういうと何か作り話めいているけど、近頃は二人して近所のバーを飲み歩いてるよ」

「ははは」栄は一寸ちょっと笑った。ほおの筋肉をゆるめるのは久し振りのことであるような気がした。「そういう訳か。で、その今埜さんという方が、その警察犬訓練所の地主だ、ということだな」

「ああ、そうなんだ。こういう関係だし、場合によってはちょいと金轡かなぐつわでもかければ、一頭くらい融通ゆうずうはして貰えるのではないか…、と思うんだが」

「ふうむ。成竹せいちくはあるのかい?」

 憲吉はかすかに眉宇びうひそめ、

たしかに、とは言えん。しかし、一寸ちょっと持ち掛けて見ても良いのではないかな」

「口はかたいのかい?」

「うむ、それはうよ」

「そうか」栄は拱手きょうしゅして思案に暮れた。「こうやって、話をしっている人間が増えると、必ずどこかでれるからな。最小限に留めたいのだが…」

「だが、この儘では二進にっち三進さっちも行かないのだろう?」

「ああ、そうだ」

 石井は人差し指を一本立て、

「放置しておくのが一番拙まずい。後々のちのち、話が露呈ろていすると、あらぬ方面で問題になるかも知れん」

「判っている」

「特に怖いのはマスコミだよ。この病院で死んだことが露顕ろけんすると、〝死んだ〟が〝殺された〟に変わるかも知れないぞ」

「ああ、そうだな」

「いっその事、警察に申し出たら奈何どうなんだい?」

「――いや、それにはもう遅い。発生から時間が経ちすぎている。警察には話せない」

「じゃあ、やはり今埜こんのに頼るしかないだろうが」

「警察犬なんか連れて来て、一体何をする積もりだ?」

「無論、調べるのさ」

「調べる? おれは警察犬の扱い方なんざ知らんぜ」

「その辺は今埜に訊けばある程度判るだろう。基礎的なことさえ判れば、それで文句はないさ」

「…後でバレたら、問題になるぜ。そうなったら、その今埜さんも巻き添えにすることになる」

「大丈夫だ。ばん、恐らく一、二時間借りるだけで事足りるだろう」

 栄は腕組みをして暫時黙もだして沈思ちんししていたが、やがて、

「うむ、じゃあそうするか」

 と吐息といき混じりに答えた。

「よし」憲吉はにやりと笑って言った。「じゃあ、早速呼んでみるか」

 栄は戸惑って、

「おいおい、ここは不味まずいよ」

「無論さ。今夜、〝レッド・ダイヤモンド〟へ来るようにいうだけさ」

 と言うと、憲吉は早速隠しからiPhoneを取り出し、電話を架けた。三十秒ほど待ったところで、相手が出た様子だった。

「やあ、石井ですが。今、構わない? ――ああ、そう。…それで、今夜折り入って一寸ちょっと話したいことがあるんだが、今日は来られる? あ、そう。じゃあ、午後七時でどう? OKね。はい判った。諒解」

 と口早に送話口そうわこうに向かって言葉を吹き込むと、電話を切り、

やっこさん、来る、って言ってるよ。今夜の呑み代は、お前持ちだな」

「ああ、それは構わんが…、おいそれとバーでできる様な話じゃあない」

「判ってる。一寸ちょっとだけ小出しに持ち掛けて、相手がなら、二軒目に連れていく心算しんざんさ」

 と言って、また別の番号に架けた。

「ああ、〝砂場〟さん? 今日三名、座敷の個室で八時からお願いしたいんだけど…、あそうですか、じゃあよろしく。――はい、石井です。じゃあ」

 と言って通話を終えた。余りにも話の展開が急劇きゅうげきなので、栄はやや不安を覚え、

「大丈夫かね、そんなに簡単に話を進めてしまって…」

 と言ったが、憲吉は涼しい顔で、

「なに、ことは急を要するのだろう? だったら、手早く彼是かれこれ手を配って置いた方がいいのさ。――今埜こんのからは、シェパードでも一頭借りられたら上出来だと思っているんだけどね」

「で、犬を借りて、あの仏さんの臭いを辿たどらせるワケだな?」

「そうだ。その際、あの、…何つッたかね、あの第一遭遇者は?」

「又蔵だが」

「そうそう、その又蔵さんにもご同道どうどう願わなくてはなるまいね。一体どの辺でったものか知るために」

「うむ。伝えておく」

 石井は腕時計を見た。

「おう、もうこんな時間か。――おれ、今日は退院の可否に関する三者会議に出なければならなくてさ。…じゃ、七時に〝レッド・ダイヤモンド〟に来てくれよ」

「判った」

 石井はポケットから車のキィを取り出し、ちゃりちゃりと右手でもてあそびながら院長室を出た。栄も後を追った。憲吉は、

「おい、階段使わせて貰えねえかな。おれ、健康のために、たけ歩くようにしてるんだ」

「そうか。…おれも階下へ降りるから、ついでに送ろう」

 院長室を出る際に、栄は階段室のキィを取った。


 栄は職員用出入り口から石井憲吉を送りに出た。栄は一言、

「済まないな」

 と言ったが、憲吉は一寸ちょっと笑って、

「済まないと云うなら、おれの方が沢山いうべきだろうな。何せ、ここでこうして恒産こうさんがある、というのは、何よりお前さんのおかげだからな」

 と言い、赤と黒の塗り分けという派手なミニ・クーパーに乗り込んだ。憲吉も相当な車好きで、このミニ・ジョン・クーパー・ペースマンは散々さんざんうるさくカスタマイズした結果、五百万以上かかったのだと云う。栄はある時、そんなに沢山稼ぎがあるのか、と半ば揶揄やゆ気味に述べたことがあったが、憲吉は答えて、なに、おれもお前さんみたいに結婚して子供でもいたらまず無理だったろうよ、といって笑ったのだった。

 栄は出入り口のひさしの下に立って、旧友の車が出て行くのを見送った。

 4WDのミニ・クーパーは、勢いよく発進し、坂道を上がって市道に出、見えなくなった。

 栄はその足で臨床検査室に向かった。ドアをノックすると、

「はい。どちら様?」

 というくぐもった声が聞こえた。

「わたしだ」

 と栄が云うと、中でごそごそ音がして、ややあってから長野が顔を出した。

「院長、何か?」

 と問う口調には明らかに不安が混じっていた。

「うむ。先刻さっきの植物細胞にいてだがな」

「ああ、あれですか。一応プレパラートは固定して、保存はしてありますが…」

「その細胞のDNAを検査することは不可能かね?」

「ううむ」長野は鼻の下をこすった。「むつかしいですな」

遠心えんしん分離ぶんりでも無理かね?」

「ええ、何せサンプルがごく微量びりょうでしたし…。三上さんからも、あれの他には検体はない、と伺っています。何でも、〝遺体の傷口を耳搔きでこそげとった〟とかいう話でしたしね」

「そうか」栄は無念そうに首を振った。「あの植物は一体何だろうね。きみには見当は付かんかね?」

 長野は微かな笑みを口辺こうへんうかべて、

「いいえ。わたしの専門外ですから、何もいえませんね」

「この病院で、一番詳しそうなのは?」

鶴木つるきさんが、趣味で植物採集をなさっておいでだとは耳にしたことがありますが、細胞も光学顕微でみただけで、これは何だ、と断言できるのは仙人の御技みわざだ、と仰有おっしゃっておいででしたっけ」

「わたしはそれ程痲薬まやく類に詳しいとは云えんのだが、コカインはコカノキに、モルヒネやヘロインはケシに由来する薬物だったね?」

「ええ、そうです」

「コカインとヘロインに、未知の植物細胞か…」

 栄は考える眼つきになって、ふらりと臨床検査室を後にした。

 栄にも、これらの三者が〝別のもの〟であることは判っていた。併し、栄の中のどこかが、しきりと栄を別の方向へ引っ張って行くのだ。だが、それは推測の域に留まっており、それだけに栄の頭蓋骨を内側からくのである。栄には、無論論理だった推理は不可能だった。材料がまだすくぎるということもあるし、栄には植物学の知識も殆どない。けれども、栄の中の何かが必死に〝非常ひじょうボタン〟を押し続けているのだ。栄は院長室に戻ると、いつも考え込む時の癖で顎に手を当てて、園舎えんしゃの中の熊のようにぐるぐると歩き続けた。

 ――この、おれの中で今渦巻いている思いは一体何なのか。

 栄は少許すこしばかり戸惑いを覚えつつ考える。

 ――これは、やはり憲吉がもたらしたものだろうな。だが、おれには予覚よかくがあるだけで、判然ハッキリと先を見ることはできん。

 栄は自分の席に着いた。年季の入った革張りのデスク・チェアが、栄の体重を受けてぎゅっ、と不平の声を上げた。栄はこめかみをゆっくりと揉みしだいた。訳の判らぬ予感は去ることがなく、反対にまで降りてきた。

 栄は珈琲コーヒーれようと思って立ち上がったのだが、その時になってっと、腕組みをしたり我れ知らず頭をむしった所為せいで、自分の白衣がたになっていることに心付いた。

 ――そうだ。家に電話しておかねばなるまい。

 栄は受話器を取った。自宅に架けると、好都合なことに、電話口にはお手伝いの女性や娘ではなく、妻の富子が出た。

「もしもし。おれだが」

「あら、栄さん? こんな時間に珍しいわね」やや声をひそめて、「――ひょっとして、何かありましたの?」

 栄はこの時ほど富子の勘の良さに感謝したことはなかった。

「ああ、実はそうなんだ。今は話せないが、一寸面倒なことになってな」

「じゃあ――」

「うむ。憲吉の手を借りた。今日は遅くなるから、夕食は要らない」

「あら…。お夕食も外で?」

 栄が自宅で夕食を取らないのは、症例研究会や地域の医師会の定例会のある時程度で、年に十回ほどが精々である。

「そう。かなり厄介なことでな」

「そうですか…。判りました」

「お前たちは先に寝ていて構わん」

「はい」

 と返辞へんじはするが、富子は夜の眼もねむらずに待っているであろうことは、栄にも判っている。

「じゃあ、また」

 栄が電話を切り、改めて珈琲コーヒーを淹れようと――少しブランデーも入れるつもりで――カウンターの方へ向かった時、院長室のドアにノックがあった。

「はい。どうぞ」

 カップを珈琲コーヒーで満たしながらそう返辞へんじをすると、控え目にドアが開き、

「あの、院長…」

 雪村看護師長だった。栄は、

「ああ、きみかね。――珈琲コーヒーだが、きみもやるかね?」

 とカップとソーサーをもうくみ棚から出しかけたが、師長は、

「あの、院長…、午後の回診をお願いしたいのですが…」

「なに?」栄が言われて顔を上げると、もう間もなく午後四時になるところだった。これはしたり。「おや、もうこんな時間か…」

「ええ。そろそろ夕方の薬の時間ですし、それから夕食になります」

「そうだった、そうだった」栄はブランデー入りの珈琲コーヒーいきあおった。「いや、知らせてくれて有難ありがたい。今日は一日、朝からばたばたし通しだったからな…。で、容態ようだいの変わったひとはいるかね?」

「山野さんが、抑鬱よくうつがひどいので抗鬱剤こううつざいを増量してくれ、と云っています」

「山野さん? たしかデプロメール四錠だったね。薬事の方で通れば五錠出せるが…」

「それから、鈴本さんですが、その、ご家族の方が見えて、引き取りたいと仰有おっしゃってます」

 症状の進んだ認知症の患者だった。

「ああ…、そうだな、その方が良いかも知れないな」

 その時になって、栄はっと、自分が〝レッド・ダイヤモンド〟なるバーの場所を知らないことに心付いた。栄は雪村と共に歩きながら、ポケットから私用のiPhoneを取り出した。


 この病院の患者たちの食事は朝、昼、夕食とも病棟中央のホールで供される。ここは療養型の施設であり、食事も自前で用意されることもあって、味覚にうるさい者でも不平不満を口にする患者はほとんどいなかった。朝食は午前七時、昼食は正午、夕食は午後六時が定時である。ここは多目的ホールも兼ね、午後十一時までならTVもここで見ることができるし、自動販売機もあり、電子ポットもあるので深夜空腹にねたひとはカップ・ヌードルを作ることもできる。ほか、認知症患者向けに体操をしたり歌を唄ったりするリクリエーションの集いもここで定期的に――毎週木曜の午後に――開催された。外のヴェランダを除けば、病棟内でいちばん明るいのは、このホールだった。

 その日、栄は普段より遅く回診を終えたので、病棟を去る時には、既に夕食のトレイを載せた台車がエレヴェーターから降ろされて、各患者の所定の席に配られるところだった。

 栄は解錠して階段室かいだんしつに入り、院長室に向かった。最前さいぜんの電話で、憲吉には午後六時半過ぎに病院まで迎えに来てもらうことで話が付いている。栄も今日は自家用車のアウディではなく病院のワゴン車で出勤したので、帰宅の足がなく、その点は救いだった。もっちとも、憲吉には飲酒運転をさせることになってしまうが、そこは眼をつぶるほかない。今夜は飲酒運転の検問が行われていないことを祈るだけだった。

 栄はたカップに珈琲コーヒーとブランデーを注ぐと、自席に着き、机上に肘を突いて、両手を組んでその上に顎を乗せ、眼を閉じた。

 今日は一日のうちに色々なことが起こり過ぎた。しかもその大部分は不可解なことだらけと来る。そしてその最終的な責任は自分が取らなくてはならない。栄は今日一日で自分の頭髪は悉皆すっかり白髪になってしまったのではないか、と思えるほどだった。栄をいちばんさいなんだのは、これが「終わり」ではなく、普通なら闇に葬っておくべき、何やら異様なことの「始まり」に過ぎないらしい、ということだった。

 しかし、自分が正気をたもてる間は、自分が陣頭指揮を執らねばならない、ということもまた、栄にはよく判っていた。だからこそ、胃の痛みを感じるにもかかわらず、こうして胃に悪い珈琲コーヒーなどを飲むのだ。

「よし」

 栄は口に出してそう言うと、掌で机上を一回叩き、気持ちを改めた。

 時刻を確かめると、午後六時二〇分だった。間違いがなければ、六時半頃には憲吉はここへ来る。もう出ていないとまずい。

 白衣を脱ぎ、背広の上着を着て栄がへやを出ると、雪村師長が立っていた。奈何どうやら今来たばかりで鉢合わせしたものらしい。

「院長、お疲れ様です」

「うむ。――これから、例の件でひとと会ってくる」

「313号室のお客さんは――」

えず、ドアに鍵をかけておいてくれ。屍臭ししゅうが強い様なら、地下室に移しても構わんから。かく人目にだけは触れないように最大限気を配って欲しいのだ」

「判りました。身元は未だ――」

「そう、判らん。それを探す端緒たんちょを探る、その入り口に立ったばかりなのだよ」

「回診などは小倉先生にお任せしても――」

「うむ、仕方がないな」栄は溜め息を吐いた。「小倉くんは未だここへ来て日が浅いし、一寸ちょっとした変化であっても気付く患者は勘付くだろう。そういうものだ。が、この際詮方せんかたないことだろうな」栄は腕時計を見た。「済まないが、もう時間がない。まだ何かあるなら、明日ゆっくり話を聞こう。じゃ」

 栄はそう言い置くと、階段を下って一階に降りた。

 石井憲吉の赤いミニ・クーパーは、時間の十分も前にやって来た。そして、栄が乗り込むと、くだくだしい挨拶など抜きにぐ発進した。

 憲吉はミニを丸で自分の手足ででもあるかのごとくに操った。そして、甲府市でも裏通りにある〝レッド・ダイヤモンド〟には、時間の十五分前には着いた。丁度近くにコイン・パーキングがあったので、車はそこに停めておいた。

 肝心の店は、あらかじめ憲吉から聞いていた通り、割と最近の建築らしい、コンクリート打ちっ放しの雑居ビル、三階だった。エレヴェーターの箱に入ると、煙草の脂の臭気の他に、別階にあるクラブのホステスのものらしい香水が微かに匂った。

 時間が早いこともあって、〝レッド・ダイヤモンド〟には先客はおらず、憲吉は迷わず一番奥のボックス席を占めた。バーのマスターは、カウンターの奥から身を乗り出すようにして、そこは四人様用の席なんですが…、と怖ず怖ずと言ったが、憲吉は、

「なに、これからまた客が来るのさ。ちょっと大事な話がしたくてね」

 と涼しい顔で軽くいなしてしまった。

 今埜が姿を見せたのは、時刻の十五分ほど後のことだった。今埜の姿を認めると、それまでグリッシーニとチーズでオン・ザ・ロックをめていた憲吉は右手を挙げて合図してみせた。

 灰色の上下とループタイ、という芸術家らしくなく冴えない出で立ちの今埜は、栄の存在が気に懸かるらしく、レッド・アイを註文してからちらちら栄の方に視線を送っていたが、それと見た憲吉が、

「こちら、精神科医の河原栄先生」

 と紹介すると、改めて頭を下げて、神妙な声色こわいろで、

「初めまして。今埜こんのと申します。宜しくお願いいたします」

 と言った。

 憲吉は、そこから急に声のトーンを落として、

「で、話なんだが」

 と切り出した。

「それ、どんな話です?」今埜は恐る恐る問う。「ヤバい話ですか?」

「いやいや」と憲吉は今埜をなだめた。「きみに迷惑は掛からんようにやるから。話はごく簡単なんだ。乗ってくれたら大変助かる、有難ありがたいんだよな。――無論、幾らかお礼は差し上げますよ」

「どんな話です?」

 今埜こんのは段々好奇心をそそられて来たものらしかった。憲吉は、

「じゃあ、河岸を変えよう。〝砂場〟に席を取ってあるんだ。参りましょう」

 と言うと立ち上がり、三人分の会計を済ませると、しっかりした足取りで先に店を後にした。今埜は半信半疑のていで、栄に、

「こいつは一体、奈何どういう話なんですかねえ?」

 と問うた。栄は、

「なに、そう面倒な話ではないんだよ。ちょっと手を貸して欲しいことがある。それだけです」

 と、優しく今埜の背を押した。

 今埜が〝レッド・ダイヤモンド〟までどういう足で来たのかは判然はっきりしなかったが、憲吉の後に付いてミニ・クーパーに乗り込んだ。三人が揃うと、憲吉は車を発進させた。料亭〝砂場〟は、市内の少し郊外へ入った閑静な場所にある。

 憲吉は仲居に、密談があるので、と断り、誂えた酒や料理が調ととのうと、ず今埜の盃に酒を注いだ。今埜は瞬息しゅんそく躊躇ちゅうちょしたが、結句盃を乾し、今度は憲吉に返盃へんぱいする。こうして、差しつ差されつ、三人とも酒盃しゅはい応酬おうしゅうが済むと、憲吉は、

「今持ち上がっている事案じあんは、簡単と云えばごく簡単なことなんだ」と今埜に向かって切り出した。「ぼくらは、ある人物の行方――否、精確せいかくにはかたを知りたい、と思っている。現れた場所は、大方おおかた目星めぼしが付いている、と云っていい。だが、第一発見者が、被害者と思われる男性と遭遇した場所も、時間も、情況じょうきょうも、ぼくらの理解を超えているのだ。それに、被害者――衰弱死を遂げたのだが――は、ろくに栄養も与えられないような環境で、長期間に亘り痲薬まやく漬けになっていたものらしく、体内からは特定の薬物の代謝物質に対してその反応が特に強く出ている。どうも異常なことがこの近郷きんごうで起こっている様なのだが、それをす一歩として、警察犬を短期間でいいから一頭貸して欲しいのだ。特に鼻の利くものがいい。それが済めば、犬は無論返却する。それから、些少さしょうながらお礼もお渡しする。何とか、承諾して貰えないものだろうか?」

 栄と憲吉が固唾かたずを呑んで見守っていると、上座かみざに着いた今埜は手酌てじゃくでぐい、と一杯呷あおり、少し考えてから、

「そうだな、一週間程度なら、お貸しできないことはないと思う」と言った。「警察に対しては特に報告することもなかろう。だが、扱いには気を付けて下さいよ。話にいては、諒解しました」

 憲吉はほおゆるめ、

「そうか、協力して頂けますか。それは有難ありがたい。――では早速だが、少しなのだけれども手付けを」

 と云って、どこから取り出したものやら、紙包みを今埜に手渡した。今埜は恐縮した表情で、両手で押し頂くようにそれを受け取り、

「犬を渡すのは、いつが都合いいかね?」

 憲吉は栄を見やり、

「明日は…どうだ? 夜の都合は」

「いきなりだな。…まあ、さわりは何もないがね。ただ、富子はかんくから、何か変に思われるかも知れないが、まず懸念すべきはこの程度だな」

「いちばん変なのは、あの青年をあのような状態で死に至らしめた奴だよ。そうとは思わんか?」

「ああ、そうだな」

「一体どんな奴らなのか判らんが、相当用心して掛かった方が良さそうだぜ」

「うむ、そうだな…あ、おれは…」

 言いつのる憲吉は大分発憤はっぷん興起こうきしているようだが、酔いを発した栄は受け答えもしどろもどろで、つ疲労の所為せいで眠気をも催していた。

「おれは…済まんが…もう…」

 栄の様子を看取かんしゅした憲吉は、

「帰るか」言うが早いか立ち上がった。「じゃ、お宅まで送ろう。今埜くんも乗っていくかね?」

 ミニ・クーパーの助手席に潜り込みながら栄は、

 ――この年で大層元気なものだなあ、憲吉は。

 とつくづく思い入った次第。

 栄の住まいの前に車を横付けすると、憲吉は、

「おい、明日は仕事、休めよ」

 と言った。

「仕事を? 是非ぜひにか?」

「当たり前だろう。本業より大事な仕事が、明日の夜控えているんだぜ。それまでたけ体力を使わぬように、風邪を引いた、とでも云って、病院は休め」

ほど、話は判った。今はかく疲れて眠い。――しかしまあ、今回の件はきみのお蔭だな。かたじけない」

「そんな言葉を言うのは未だ早いぜ」憲吉はしろい歯を出して笑みながら答えた。「かくずは明日だな」

「うむ。又蔵にも声はかけておく」

「そうしてくれ。明日は晩の七時に此方こちらへ伺おう。今埜くんは、訓練所で待っていてくれたまえよ。――おれの推測だと、ことは明夜のうちにも明るみに出ると思うんだがな。それじゃ」

 まあそれは先のことだが、と言い残し、憲吉のミニ・クーパーは去って行った。

 栄が見ると、普段は消してあるはずの門灯に玄関灯まで点っている。やれやれ、やっぱりか、と重い気持ちを抑えて玄関のドアを開けると、案の定富子は起きて待っていた。栄の顔を見るなり、

「今夜はこんなに遅くなって、一体どうしたんです? 患者さんにでも、…何か、あったんですか?」

 栄は富子には背中を見せて座り、下を向いて靴を脱ぎながら、

「――まあ、そんな所だ。云っても野暮やぼな話だから、聞かない方がいい」

「そうですか。お夕食は?」

「外で済ませた」

「じゃあ、お風呂に入ります?」

 ちょっと考えて、

「ああ――、今日はかなり疲れているから」

「どうやらそのようね」

「明日の朝、シャワーを浴びて出る」

「じゃあ、もうお休みに?」

「うむ。…その前に、電話を架けなければならん」

 栄は先ず自分の寝室へ行って、ネクタイを解いて着替えをした。首を回すと、溜まった疲労のためにぼきぼきと音がする。

 着替えを済ませると、書斎の電話台へ向かった。番号を押すと、夕子が出た。相手が栄と判ると何やらもの問いたげだったが、栄は直ぐに又蔵を頼んだ。

「もしもし」

「ああ。又さん、わたしだが」

 又蔵はやや声をひそめて、

「あ、栄さんか。――あの後、一体どうしたい?」

「うん。一応処置はした。…所で、明日の晩は空いているかな? 晩の七時過ぎなんだけれど」

「――ああ、空いていることは空いているが…。何用だい?」

「いや、今回の案件は奈何どうしてもこのままにはして置けんので、ちょっと調べようと云うのさ。あんたがあの男と行き遭ったのは具体的にどの辺なのか知りたい、と云うか知る必要性を感じてね」

「――――警察関係かい?」

「いやいや、違う。その辺は安心してくれていい」

「じゃ、興信所かね?」

「いや、ま、云ってみれば〝私設警察〟とでも云うべきものかな」

「白黒のは、出て来ないんだな?」

「ああ。その辺は堅く約束する。大船に乗ったつもりでいてくれていい」

「そうか」

 栄には、安堵のあまり床に倒れそうになっている又蔵の姿が眼にうかぶようだった。

 又蔵は、

「判った。七時過ぎだな。必ず在宅しているから」

「うむ。そうしてくれると有難ありがたい。夜中まで掛かることはないと思うが」

「判った。委細いさい承知した」

 栄は受話器を置いた。これで事前の準備が全て済んだ訳だ。栄は憲吉のスマートフォンに架電して、首尾を報告した。憲吉も満足そうに電話を切った。

 そして翌朝、平生なら午前六時にはうに起きているところを、愚図愚図ぐずぐずと午前七時過ぎまで床にいた。と、果たせるかな跫音あしおと高く富子がやって来た。

「栄さん、もう起きる時をうに過ぎていますけれど。どうかされたんですか?」

「ああ」栄はわざしゃがれ声を出した。「…ちょっと、身体の方がおかしい。頭の芯が痛むのだ」

「ずきずきするんですか?」

「うむ。疼痛がする」

 と、富子はほら見なさい、と言わぬばかりに、

「いつも言ってるじゃありませんか。規則正しい生活をしなければ、それこそ〝医者の不養生〟もいいところですよ、って。それに昨日はお酒を呑んで来たのでしょう。呑めないのに無理して付き合うからこういう眼に遭うんです。――今日、急を要する患者さんはいるんですか?」

「いや、いないこともないが、藤堂くんが代わりにやってくれるだろうから」

「じゃあ、病院にはあたしが電話しておきますから、大人しくしておいでなさい」

「済まないな。――実は、晩にちょっと野暮用やぼようがあるんだが」

「どんな用です?」

「酒は出ないが、医師会の集まりでちょっと…」

「そうですか。それはまあ、体調次第で決めましょう。今日はベッドでゆっくりすることね」

 富子はやれやれ、と云いながら出て行った。えず病人の芝居がうまくいったので、栄はふう、と吐息を漏らし、布団の中に身をうずめた。

 朝食と昼食は富子が部屋まで運んでくれた。朝は梅干しの粥に、実のない味噌汁。昼は焙じ茶と何も塗っていないトースト二枚。栄は一日ベッドにいて、近年の精神病に関する横文おうぶんと和文の文献に眼を通して午前と午後を過ごした。

 そして夕刻になった。

 ――やれやれ、っとおれの出番か。

 栄はベッドの上でう~むと一回伸びをすると、床に降り立ち、ワードローブから服をえらそうとした。

 そこではたと手が止まった。

 ――一体、今夜はどの服が相応ふさわしいものかね?

 今日は屋外へ出ての作業もあるだろうから、本当なら作業着でも着て行くところだ。実際、栄のロッカーの中には、休日の庭掃除の折に使う、グレーの作業着上下が揃っていた。併し、今夜はそんなものを着て出れば、妻の富子ばかりでなく、娘のアリサや孫の祥吾にまで奇異な印象を与えてしまうことだろう。それというのも、くまでも今夜の外出は、〝医師会の関係のちょっとした集まり〟で話があるのだ、と富子には伝えてしまっていたからである。

 どれがいいか散々心こころろうしたあげく、栄は、余りに地味すぎて最も着る機会のすくない、ぶら下がりを買った安物の背広上下を着ていくことに決めた。ネクタイは締めず、午後六時五〇分前に栄は二階の自室を後にし、階下へ降りた。

 すると、丁度夕食を終えたらしい富子が、お手伝いの女の子と一緒に食器をダイニングからキッチンへ運んでいるところだった。富子は栄の出で立ちをみて、

「あら」と言った。「何だか見慣れない恰好をしますのね。そんな安っぽい背広でいいんですか?」

「ああ、今日は気の置けないひとばかりだから、構わないよ」

「車で出ます?」

「いや、迎えに来てくれる手筈になっているんだが」時計を見て、「あと十分もしたら来るよ。――帰りは、少し遅くなるかも知れない」

 栄がそういうと、富子は少し顔を曇らせて見せた。

「今日はお粥とトーストしか召し上がっていないじゃないの。夕食は取らないで平気なんですか? それから、何よりお身体は本当なんですか?」

「ああ、心配ない。空腹なら何か腹に入れるさ。――じゃあ、そろそろ時間だから外に出るとするか」

 栄は一番よれよれの靴をえらんでき、外に出て、飛び石伝いに中庭を抜け、門扉の施錠を解除して敷地を後にした。

 この近辺は静かな住宅街で、夜も七時を過ぎると車の往来もぐっと少なくなる地区だった。

 門の前でまっていると、右手からヘッドライトが接近するのが見えた。石井のミニだろう。

 果然かぜん、車は河原邸の前に横付けされ、憲吉が助手席へ、と招いている。

 助手席側の窓を巻き下ろし、憲吉は栄の方に首を伸ばすと、

「まあ、乗ってくれや。今埜さんはもう乗ってる。後は韮崎の…、工藤さん、と云ったかな? それだけだ。この車は定員が四人だから丁度良かった。――今日は仕事、きちんと休んだのだろうな?」

「ああ」乗り込みながら栄は言った。「おかげで女房に病人扱いされて大変だった。空腹でたまらないんだ。何か、食うものはないかね?」

「そんなことだと思って、菓子パンを買ってきておいた」と云って、助手席の足許あしもとにおいてあった袋をがさがさいわせて、その中から憲吉は幾つか無造作にえらし、栄に押し付けた。「まあ、食えや」

 栄が見ると、ランチパックやコッペパン、黒糖パンなどが入っている。ご丁寧ていねいに、紙パックのコーヒーまで買ってくれていた。

 車が発進する際、栄は早速茹で卵のランチパックを開けてぱくついていたのだが、ちらりと見ると、復た門灯も玄関灯も共に点っていた。

 ――今夜も富子はおれの帰りを寝ずに待つつもりなのだろうか。

 栄は少々憂鬱ゆううつな思いにとらわれるのであった。

 しかしそんな栄の思いをよそに、憲吉は車を出した。

「おい、河原」憲吉は云った。「あの…工藤さんの家、ってのは、どう行けばいいんだい?」

 栄は口をもぐもぐさせながら、

「ああ、それなら近道がある。二〇分くらいで着くよ」

 と答えた。

 憲吉は栄の指示通りにミニ・ジョン・クーパー・ワークス・ペースマンを駆った。

 二〇分もせずに憲吉は工藤家の門前に車を乗り付けた。

 又蔵は既に家の前で待っていた。

 憲吉は一度車から降り立ち、

「お初にお目にかかります。河原くんの友人の、石井と申します」

 と一揖いちゆうした。又蔵はへどもどして、

「あ、はあ、此方こちらこそこの度はお世話になりまして…」

 と挨拶した。憲吉はきびきびした動作で運転席の背を倒し、又蔵に後部座席を「どうぞ」と勧めた。

 又蔵は逆らわずに乗り込んだが、間髪を容れず、

「うひゃあッ!」

 と叫び声をあげた。

 栄が振り向くと、椅子が二脚独立して据え付けられた恰好になっている後部座席の、栄の後ろには今埜が大人しく座っていたのだけれど、両方の座席の中間に割と大型の犬が一頭いて、それが新来の客人まろうどたる又蔵を繁々しげしげと見上げていたのである。

 今埜はそれと見て、

「ああ、これは警察犬の〝レジェ〟号ですよ。今夜必要だそうなので、県警には無届けで連れてきました。――怪しいものに出会さないかぎりはごく静かにしていますから、ご安心なさい」

 と言って又蔵に挨拶した。

 又蔵は怖々とミニ・クーパー・ペースマンに乗り込み、又蔵の道案内で現場へ向かった。県道二七号線を昇仙峡方面へ向かい、中央道のインターチェンジを過ぎ、人気のないレストランを過ぎた辺りで、又蔵老人は、

「ここだ、ここです」

 と叫んだ。

 憲吉はハザード・ランプを点け、路肩に車を寄せて停め、四人と一匹、皆を外に出した。

 と、早速〝レジェ〟号が、

 ――ワウン、ワン、ワン!

 と鳴いて路上を嗅ぎ回り出した。

 憲吉は今埜こんのに、

「〝レジェ〟くんには、何を嗅ぎ出すように仕付けてあるの?」

 と問うた。今埜は淡々と、

「指定された痲薬まやくのうち、臭いの強いもの。それから、昨夜頂いたジーンズの切れ端。それだけです」

 すると憲吉は、

「結構、結構」と言ったが、すぐ、「――じゃあ、どれに反応しているかは、判らない訳だ」

 今埜は、ちょっと言葉に詰まったが、判然はっきりした口調で、

「――ええ、まあね。ただ、ここで現にこうして探り出している、何かを嗅ぎ出している、ということは、やはりこの辺に何か御法度な…禁制品がある、ということですので、こうやって調査を続ける意義は十分にあると思いますがね」

「そうだな。――じゃ、続けようか」

 憲吉は、又蔵に向かって、

「あの青年と遭遇なさったのは、ここなんですね?」

 と念を押すように問うた。又蔵は、

「はい、たしかにこの辺、たしやぶのなかから飛び出してきたような…」

 と、今埜が、

「ん、やっこさん、藪の方へ行きますぜ」

 と言う。

 〝レジェ〟号は、竹林と熊笹の茂みの間にあるちょっとした窪地へと今埜を引っ張って行った。この近辺には街路灯もなく、咫尺しせきべんぜぬ夜闇のことで、憲吉はポケットから懐中電灯を取り出した。その光のなかで見ると、窪地は幅約三メートル、奥行きは十メートルほどであることが判った。

 〝レジェ〟号はあるじの今埜を右に左に引っ張ってくんくん嗅いでいたが、最終的にある一点で停止し、ぱたぱた尻尾を振ってもの云いたげに今埜を見上げた。

「うん? ああ、ここか。よしよし、よくやってくれた」

 今埜はそう言うと、ウェスト・ポーチからビーフ・ジャーキーか何かを取り出し、〝レジェ〟号に食べさせた。

 今埜は、地面の一点をどん、と踏み締め、憲吉に、

「石井さん、ここだそうですよ。――少なくとも奴さんはそう云ってます」

 と言った。

「そこ? 何もないじゃないか」

 憲吉は言った。栄も同じ思いだった。今埜が踏んだのは、ただの草地で、他には何もないのだ。

しかし、ここから先には、何もありませんしね」

 四人はしばし腕組みをし、無益な思案に耽った。

 一番最初に、沈黙を破って行動を起こしたのは憲吉だった。栄は、大学時代から憲吉が一番最初に動く人間だったことを思い起こした。

 憲吉は、懐中電灯を点し、光の強さを最大(MAX)にして、〝レジェ〟号が止まった辺りで、しゃがみ込み、草の露でズボンが濡れるのも構わずに、夢中で詳しく調べていた。――と、ものの二、三分も調べ回っていた頃だろうか、

「おおっと、こりゃ…」と声を上げた。「ちょっと、これを見て」

 三人と一頭は憲吉の周りに集まった。憲吉は、

「そら、これを見て」

 と言って、イヌノフグリの群生する地面の一点を指した。そこへ憲吉が懐中電灯を差し付けると、金属性の銀色が光った。憲吉が懐中電灯でそれを辿っていくと、三人にもそれが円形を成していることが、火を見るより明らかに判った。

 憲吉は、珍しく亢奮こうふんしたのか、かすれた声音で、

「こいつは、地下に通じる、何かの入り口じゃないかな」

 と言った。

 今埜は〝レジェ〟号の世話をしている。又蔵は、もう関わりたくない・これ以上係かかずらいになるのは真っ平だ、という表情をあらわにしている。栄が、その輪の中を、下生えに手を突っ込んで探ってみると、た何か金属製の冷やっとするものが手に触れた。

「憲吉よ、こいつは何かな?」

 憲吉が左手で下草を抑え、右手の灯火で強い光を浴びせると、それは鍵穴と六桁の暗証番号を備えた錠前だった。

 憲吉と栄は思わず顔を見合わせた。

「こいつは…」

「ああ、明らかに人工物だ…。しかも、何かよこしまなものを感じるのだがね」

「ああ。この中では…黒ミサでも行われているのかね」

 こうして、いつでも何かしらジョークを口にするのも憲吉のへきだった。

「マリファナ・パーティ、という訳ではなさそうだな」

 憲吉は栄にちらりと眼をやった。

「ああ。――しかし河原よ、ここは退くべき時なのか、はたまた大胆に進んでいい時なのか、一体孰方どちらだと思う?」

「うむ…」憲吉の逡巡しゅんじゅんする思いは栄にもよく判った。「相手としてくみするには危険すぎる連中かも知れないな」

「そうだ。――だが、おれは退いていられないんだよ、栄。おれの身体を巡る血潮がそう言ってる」

 栄は苦笑した。

「あれから四〇ウン年経っても、お前の性分は変わらないなあ」

「ああ。三つ子百まで、ってやつさ。――それより、お前は一体どうする? 退くなら退いてもいのだぞ」

「いや、〝義を見てせざるは勇なきなり〟だ。お前に付いていくさ」

「本気だな?」

「ああ。――このままにしておくと、あの青年の魂も浮かばれないだろう、と思えてならないのさ」

「そうか。よし」

「ところで、具体的にこれからどういう行動を起こすのか、当てはあるのか?」

「うむ。取り敢えずそちらの方に目立たぬよう気を遣って監視カメラでも設置しようか、と思っている」

「大丈夫か? 気付かれたらどうしようもないぞ」

「ああ、その点は心魂しんこんてっしているさ。心配は無用だ。――それより、考えていることはもう一つあるんだ。おれの考えていることが判るか?」

「――いや、判らん」

「ここに出入りしている奴――或いは連中は、一体どういう交通手段を使ってここに来ていると思う?」

 栄ははたと膝を打った。そして、精一杯真顔を作って、

「――観光バスとか」

 栄がそう言うと、憲吉はクックッ、と笑いだし、やが大笑おおわらいになった。栄も笑った。

「全く、いい勘してるぜ、栄はさ」憲吉は笑いと共に滲んだ涙を拭って言った。「さて、車で来ている、というのはさ、おれもその通りだ、と思うね。だが、問題は、お前さんからの注意の通り、相手は何人いて、何を目的として、一体どのくらいの規模の車輌で来ているのか、ということだな」と、時計を見て、「お、いかん、もうこんな時間か。今夜はもうそろそろ引き揚げた方がよさそうな塩梅あんばいだな」

 そう言うが早いか、憲吉は、少し離れて様子をうかがっていた今埜と工藤又蔵に向かって手を振り、

撤収てっしゅう、今夜はご苦労さん。もう引き上げにするから」

 と叫んだ。四人と一頭が車に乗り込むと、憲吉は早速車を発進させた。奈何どうやら雨気を含んだ雲が垂れ込めているらしく、時折ヘッドライトの投げ掛ける光の中を雨滴が過ぎる。憲吉はその中を、実に恐るべき記憶力を発揮して、最前の又蔵の指示通りに道をたどり、ものの十五分で車は工藤家に到着した。又蔵は、

「今夜は、お手数お掛けしまして申し訳ないです」と口ごもった挨拶をした。そして、にくそうに、「あのう、わたしがまた必要になるようなことは…ありますか?」

 と一番の気懸きがかりらしいことを問うた。

 憲吉は、

「ご心配なく。もうご厄介をお掛けすることはありませんよ。――もっとも、あの人間ゾンビに出会でくわすようなことがあれば、是非ご一報頂きたいものですけどね」

 と言って、無遠慮に笑った。

 又蔵は車が見えなくなるまで自宅の前で見送っているのが、栄にもバックミラーで見てとれた。

しかし、随分この車は速いじゃないか」栄はきょときょとと辺りを見廻しながら言った。「先刻さっきは半時間弱かかったところだが」

「ああ、結構飛ばしたからな。――それに、この車も四輪駆動だから、山道には強いんだよ」

 憲吉は次に栄を自宅前で降ろした。

「これから、どうするつもりだ?」

「うん、腹案ふくあんはあるが、詳細は未だ検討中なんだ。――いずれにせよ、当面お前の病院には行かないよ。…それより、あの仏さん、どうするつもりだ?」

「うむ」栄は考えつつ答えた。「〝密葬〟にすることになるだろうな」

 河原メンタルホスピタルの敷地の一番北西の一郭いっかくには、これまでほんの数度しか使われたことはなかったが、無縁仏を〝密葬〟するための焼き場があった。

「そうだな」憲吉はうなずいた。「それがよろしかろう」

「じゃあ、今夜はお疲れさま、だったな。まったく」

 憲吉はこられなくなったと見えて爆笑した。

「ああ、まったく、お疲れさまだよ」そして後部座席の今埜こんのを振り返り、「じゃあ今埜くん、これから一献いっこん参りますか」

 栄は苦笑して、

「ここの所ネズミ捕りが多いから、気を付けて行けよ」

 と言い、発進するミニ・クーパーを見送った。


 事態はその後旬日じゅんじつのうちに急展開することとなった。

 その間、誰よりも辛い日々を送ったのは、河原栄であった。と云うのも、件の調査行の後、石井憲吉からは一切連絡が入らなかったからである。

 それでも栄は、毎朝普段通りに起床し、アウディで出勤し、外来の診察と病棟の回診をつつがなくこなした。注意深い患者の眼には、栄の挙措きょそが平生より少々機械的・事務的であるように映じたかも知れないが、これは栄のとがではない。ただ、栄は院長室で独り過ごす時間が普段より長くなり、出て来ると、微醺びくんを帯びたように少しアルコールの匂いを漂わせていることを、師長の雪村は気付いていた。もっとも、ことの発端を知る雪村は、栄が院長室でVSOPのブランデーを混ぜた珈琲コーヒーを飲んでいることを、表だって指摘することはなく、ちがっても雪村が見えているのかどうかも判らぬ様子で、雪村の会釈にも応えず、ただブランデーの香りだけを残して歩み去る栄のうしかげを、気遣きづかわしげに見送るだけだった。

 栄が待ち望んでいたのは、確たる情報だった。

 例の青年は屍臭ししゅうを放つようになり、鼻にくので詮方せんかたなしに〝密葬〟の措置そちを取り、遺骨は他の行路病者ゆきだおれなどと共に仮埋葬かりまいそうの処置が執られた。

 栄が何となく上の空でいることは、当然ながら妻の富子も気付いていた。が、富子は長年連れ添った夫がこのような情態じょうたいを示すのを見るのは初めてではなかったし、えず静観していた。ただ、朝、栄が出勤する時には、

「車の運転、気を付けて下さいよ。いいですか?」

 と必ず言い含めた。栄はそれに対して、うむ、とも、ああ、とも付かぬ返辞へんじをするだけだったが。

 その栄の懸念が破られたのは、調査に出てから十数日目の金曜日のことだった。

 その時、身体が空いていた栄は、た院長室でブランデー六割、珈琲コーヒー四割ほどの飲み物を前にして、虚しい時を送っていた。このところ、病棟では容態が急変する患者が出ず、又幸いにして救急搬送されるような急患も出なかった。

 ――と、栄の胸ポケットのPHSがけたたましい音で鳴った。

 栄はその着信音を聞いた瞬間、心臓が喉元までがるような気分を味わった。

 がにもかくにもPHSを白衣のポケットから出し、ディスプレイを見ると、石井憲吉からだと判った。

 その時、栄の脳裡のうりでは好悪こうお二つの感情が入り乱れた。つまり、これは一体よい知らせなのか、それとも悪い知らせなのか、ということだ。

 けれども、いつまでも電話機を見つめていてもらちかないので、栄は〝通話〟ボタンを押した。

 すると、耳に飛び込んできたのは、あの昔馴染みの石井憲吉の、明るくはあるがどことなく皮肉っぽくひねくれた声だった。栄がもだしていると、

「栄か」と憲吉の声は問うた。「河原栄、だな?」

「ああ」栄は掠れた声で答えた。「石井だな?」

「報せがあるんだ。誰かいるなら、人払ひとばらいしてくれないか?」

「今、院長室で独りなんだ。盗聴器でも取り付けられていない限りは、ひとの耳は全くないがね」

 その言辞げんじが気に入ったらしく、

「盗聴器か」石井は哄笑こうしょうした。「そりゃあ、気を付けないと」

 栄は憲吉の快活な笑い声を聞いて少し我を取り戻した。

「――それで、今日は何用だ?」

「無論、例の件にいてのおしらせさ」

「一体どんな報せだ?」

「当ててみろ」

「てんで判らんよ」

「実はな、あの件の詳細が、少しずつだが分かって来たんだ」

「そうか。――とすると、調査は進捗しんちょくしたんだな?」

「うむ。…実を云えば、もう相手の人数と名前まで判っている。後はタイミングの問題だな」

「なに、そりゃあ大したものじゃないか。一体どこの誰だ、相手は何人だ?」

 栄は思わずつのった。

「それが相手は一人なんだ。単独犯なんだよ。日本国籍を取得しているが、生国はアメリカ合衆国だ」

「――で、名前は?」

「アントニオ・マリャベッキ、という。どうやらイタリア系らしいな」

「ふむ。イタリア系アメリカ人のアントニオ・何たらか」

「マリャベッキ、だ」

「どうして調べた? ――ひょっとして、マフィアの…」

「違うちがう」憲吉は笑って、「簡単さ。――おれはあの翌日、昼間、車で現場に戻ったんだ。そうして、地面をよく見たのだ。すると、雑草の間の土の上に、車のタイヤのあとが残っていることに気付いたんだよ。そこで、更に念を入れて調べてみるとだな、車は一台だけで、しかもかなり大型のものだ、と推測できた。最初はワン・ボックス車を想定したんだが、違った。というのも、おれの知人でそういう筋に近いのがいてね、大学時代からの知人なんだが、そいつに写真を送って、調べて貰ったんだよ。そうしたら、意に反して、車はでかいスポーツ・タイプの輸入車、ときた」

「どこの車だ? 型式は?」

「テスラモーターズだよ。テスラ・モデルZX、というのが正式名称らしい」

 長野に訊けば詳細なスペックが判るかも知れないな――、と栄はにやにや独り笑いをうかべながら思った。

「ふうむ。余り聞かないな」

「そりゃあ、そうだ。アメリカの電気自動車メーカーで、ラインナップはどれも一台何千万とするからな。しかし、正にそのお蔭で、敵の名前が判ったのさ」

「そこまでは判ったが、一体どうやって購入者を特定したんだ?」

「そこは訊かないでくれないか。おれには何とも言えない」

 憲吉には栄の知らぬ知人が――〝ウラの知人〟が複数いることは、栄が以前より憲吉との会話の端々から勘付かんづいていることだったので、栄は触れないことにしていた。

「判った。続けてくれ」

「それで、おれはあの近辺に小型の監視カメラを取り付けて、マリャベッキが一体いつあそこに出張でばるのか、調べたんだ。お前に連絡するのが意想外いそうがいに遅くなってしまったのも、その所為せいだ。――見ていると、マリャベッキは、奈何どうやら火曜、木曜、土曜の夜十時頃にあそこへ来るらしいことが明らかになった」

「そうか。すると、明日の夜、ということになるな」

「そうなるな、実験上の話では。おれの存在は、未だ勘付かれていないようだし、話は早いほうがいい。だが、おれたちご老体お二人さまで行っても頼りないな。もっと若手で、この一件に就いて知っている、そういう男はいないか?」

 栄は直ぐと思い付いた。

「いる。雪村くんだ」

「何をしている男だ?」

「お前も会っているはずだ。病棟付きの看護師長だよ。それ以外には、適材、って思い付かないね。これ、と云えるのは雪村くんをいては思い付かない。――いま一度念を押しておくが、雪村くんはあの青年の看護に当たり、この件をよく知っている。口も堅いし、膂力りょりょくもあるから頼りにしていい。――もう一度確かめるが、相手はそのマリャベッキとかいう男一人なんだな? 他にボディ・ガードなどはいないんだな?」

「ああ。いないようだ。――すくなくとも今の所は、ということだが」

「よし。じゃあ、早速雪村くんに話をするとして、明日の夜、此方こちらに来てくれるか。雪村くんの都合次第だが、今の所、わたしには幸いこれといって障碍しょうがいは何もない」

「諒解だ。復た車でお迎えに上がろう。土曜は午後十時頃来るのだが、火、木曜はいつも午後六時半頃来て、午後十時前には引き揚げるのがマリャベッキの通常の行動パターンらしい」

「それじゃあ、こちらへは午後九時過ぎに来て貰えればいいわけだ」

「そうだな。――午後九時十五分にそちらへ伺おう」

よろしく頼む。雪村くんには一切を話して構わないな?」

「勿論だ」

 電話は切れた。栄は、その儘PHSで幸村を呼んだ。


 翌午後八時半過ぎ、栄は雪村を伴って病院の職員用玄関に立ち、石井の赤いミニ・クーパーを待っていた。

 前日夕刻、栄が雪村に一切合切を話して助力を懇願こんがんすると、雪村看護師長は任務の重責性に就いて承引しょういんしたらしく、やや蒼ざめた面色めんしょくだったが、しかしっかりした口調で、

「判りました。お手伝いします」

 とやくした。栄はそこでほっとした余り、思わず卒倒しそうになった。栄は、雪村師長からは断られるに相違ない、とてっきり思い込んでいたからだ。

 二人は病棟でその日の昼食として供された品を二人分冷蔵庫に取り置きしてもらい、午後七時過ぎに温め直して院長室に運ばせた。メニューは肉うどんで、特別に餅も入れさせた。二人はそれとブランデー抜きの珈琲を飲みながら食事を平らげた。世には〝病院ミシュラン〟という冗談のような書帙しょちつがあり、この河原メンタルホスピタルに対しては〝★★★〟即ち最高のランキングが付与されていたのだが、残念ながら二人はそれを玩味がんみするだけの気分的な余裕はなかった。

 雪村は、今夜の任務の詳細を知ってはいたけれども、えてそれ以上質問することはなかった。栄は、

 ――恐らく雪村にも色々疑問などあるのだろうが、詳細を聞くと士気ががれる、とでも考えているのだろうな。

 と師長の様子を見ながら考えていた。

 約束の時間の五分前に石井憲吉のミニは来た。

 雪村は、石井の顔を見るなり、

「ああ、あなたでしたか」

 と言った。憲吉は、

「石井です。元医師の卵、今は某病院の相談員をしています」

 とたけ場の空気を和らげようとするかの如く、丸で場数を踏んだバス・ガイドのように自己紹介した。

「じゃあ、そろそろ」

 栄は言い、車は発進した。憲吉は奈何どうやらあれから近道を発見していたものらしく、栄には見覚えのない風景の中を、快速力で車は走った。

 〝現場〟に到着したのは午後九時半過ぎのことである。

 栄が、

「おい、このお前さんの車はどうするんだい?」

 と問うと、

「なに、もう少し上流に行ったところに、また別の窪地くぼちがあるのを見付けてあるんだ。ミニはそこに隠してくるから、お前さんたちは降りてくれていい」

 と石井は言う。栄と雪村が外に出ると、六月上旬のことでやや梅雨つゆざむの気があったけれども、上手く笹か竹藪のなかに身を潜めていられるのではないか、と栄は思った。

 それは栄の読んだ通りで、戻って来た憲吉は、

「さ、そこの竹林のなかで待とう。藪蚊がいるのはうるさいんだが、それを除けば案外過ごしやすいぜ」

 三人は、林の中で息を凝らして待った。

 そして、午後十時を数分過ぎた頃、果たして銀色の、この辺では滅多にお目に掛かる機会のない、いかにもこうじきそうな、外国車と思しき左ハンドルのスポーツ・クーペがやって来た。車は、先だって今埜こんのたちと共に調査を行った窪地に入って行く。エンジン音はないが、その代わり磁励音じれいおんとでも云うのか、一種電磁的な音がする。

 ――ああ、そういえばこれは電気自動車なんだっけ。

 と栄が暢気なことを考えて悠長に構えていると、

「今だ」

 と叫ぶが早いか憲吉は年齢に不相応な俊敏しゅんびんさで竹を搔き分けて竹藪から飛び出て、今はクーペから降り立ち、車のドアは開け放った儘、地面に蹲踞しゃがみこんで何かやっている男の背に向かい、

「そこまでだ、ドクター・マリャベッキ」

 と宣告し、同時につかつかと歩み寄って襟首えりくびを摑んだ。栄と雪村も遅れじと続き、雪村はスタン・ガンをアントニオ・マリャベッキの腹に押し当てた。

 マリャベッキなる人物は、三人を眼にして最初驚愕と畏怖いふの表情を浮かべたが、すくなくとも表面上は直ぐに平静を取り戻して、返辞をした。

「アイ・アム・ソーリー、バット、アイ・キャント・スピーク・ジャパニーズ。アイ・フィール・ヴェリー…」

 そこで憲吉は、言葉を英語に切り替えた上で、

「わたしたちにはそのようなおとぼけは一切通用しない。現にわたしたちの許には、ここから解放されたか、あるいは必死で脱走した青年が来ている。青年は衰弱著しい情態だった。あなたには、この一件に就いての説明責任があると思うのだが、如何か? 若し十分な説明がなされないのなら、われわれはあなたの身柄を所轄警察署へ引致いんちする用意があるのだが」

 とマリャベッキを難詰なんきつした。そして身振りで雪村師長の持つスタン・ガンを指し示し、これでどうだ、と勝ち誇った表情をうかべて見せた。

 アントニオ・マリャベッキは、雪村のスタン・ガンを見ると、途端に戦意を喪失したものらしく、肩を大袈裟にすくめてあきらめの意志を示すと、

「下に、行きましょう。その方が話は早いです」

 と日本語で言って、先日栄が見出した錠前に鍵を差し、暗証番号を入力しながら、マリャベッキ氏は、

「あの時脱走者が出たからロックを新たに取り付けたのだが…、遅かったようだわい」

 とぶつぶつ言う。

 暗証番号を入力し終えると、金属で縁取られた円形の蓋が持ち上がり、マリャベッキ氏はそれをずらした。中には勾配の急なコンクリートのほのじろく見える階段があった。一行は、マリャベッキを先頭に、未だスタン・ガンを博士の背に突き付けている雪村、栄、そして殿しんがりは石井、という列を作って地下に降りた。マリャベッキは、どうしてなかなか流暢な日本語で、

「ここ、アメニティ…、居住性は余りよくありません」

 と言った。石井が列の最後尾から、叫ぶような声で、

かく、ここで一体何をやっているのか、何が進行中なのか、我われはそれをゆっくり見せて貰う」

 と言った。

 ――憲吉のやつ、昂奮しているな。

 と栄は思った。滅多にみられないことだった。

 マリャベッキは、弱々しい声で、

「頼む、お願いですからわたしのこと、ポリスには言わないで欲しいのです。わたしはただの研究者です。一研究者にすぎません…。とても弱い存在です。ここでわたしが何をやっているか、お見せしますが、他言はしないで欲しいです。――いいですか、わたしは、人類の未来のための研究をしているのです」

「他言するなだと? そうは行くか。あなたは他人を自分の好き勝手にしようとしたではないか。その代償は払って貰わないとな」

 と雪村が罵声を浴びせた。雪村も、鍛二の件があるために、通報できないことはよく知っているのだが、えて口には出さなかったのだ。

 軈て一行は階段を降りきった。

 そこは、暗く、冷え冷えとした、何も見えるもののない空間だった。

 マリャベッキは初め、やや躊躇ためらう素振りを見せたが、闇にもの慣れた様子で壁をまさぐり、スイッチを押した。と、地下室の全体が浮かび上がった。

 それを見た瞬間、栄は、若しかすると自分は発狂してしまうのではないか、とくらくらする頭で思った。

 そこには、植物と複数の人間があった。が、その配置が異様だった。通常では考えられぬ状態だった。

 植物は、高さが一・五メートルほどあり、二枚だけある巨大な葉はほぼ楕円形の形を取っており、縁には鋸歯状、即ちぎざぎざの巨大なとげが生えていた。そして、その二枚の葉に一人ずつ抱かれるようにして、素裸の男女が挟み込まれていた。

「こりゃ…」石井憲吉が乾いた声で言った。「こいつぁ、なりは直立しているが、ハエジゴクじゃねえか。併し、此奴こいつは並の大きさじゃねえな」

 その後を引き取るように、マリャベッキ博士は、

「さよう」と云った。「ハエトリグサ、とも呼ばれておりますがな。学名はDionaea muscipula、北米原産の食虫植物です。――もっとも、わたしはこの草本の遺伝子にはかなり手を加えておりまして、元の数百倍の大きさにまで巨大化させ、根毛の位置を変えて、ご覧の通り直立させたばかりではなく、葉からは消化液の代わりに、高濃度のコカインの溶液が分泌されています」

 アントニオ・マリャベッキは立て板に水の如く、得々とくとくとした口調で自身の研究成果を披瀝ひれきした。

 栄はそれを聞きながら、ずっと以前、だ学生だった時分に、薬理学の講義で、コカインの溶液には痲酔ますい作用がある、と習ったことを朧気おぼろげに思い出していた。

 ――そう、そしてコカインは同時に昂奮薬でもあり、そのために南米のインディオは休息も碌に取らず、何十時間もスペイン人のために銀山で働き続けることができたのだったな。

 栄はそう思い、アントニオ・マリャベッキ博士に、

「何も必要がないひとに痲酔ますいをかけて、一体何をしようというんだ?」

 と問うた。

 栄の問いに、マリャベッキは一つうなずいて見せ、

「さよう、少々奇異に見えることは承知しております。――だが諸君、こちらへどうぞおいでなさい」

 と、博士は一行をその奇ッ怪な〝実験室〟に案内した。

 そのへやで巨大ハエジゴクの葉に包まれている男女は十数名だった。栄が見ると、揃いも揃って皆若く、また見目みめうるわしい容貌をしている。栄は憲吉の脇を突付いた。

「おい、見ろよ、なぜ美男美女ばかりなんだい?」

 憲吉は軽く首肯しゅこうし、

「ああ、この男は、モデル事務所を装ってひと集めをしていたのさ。東京モデルオフィス――略してTMO。これほどダミー、ダミーした名前もないだろ?」

 と吐き捨てる如く言った。

「さて、ここをご覧なさい」

 アントニオ・マリャベッキ博士は、とりこになっている一人の足首を指した。そこには、巨大ハエジゴクから伸びた棘が刺さっていた。栄は、最初に遭遇した犠牲者の足首にも傷が付いていたことを直ぐ思い返し、こういうことだったのか、と心中で呟いた。

 アントニオ・マリャベッキは得々として説明を続ける。

「これ、この棘から、被験体の体内へはモルヒネが投与されるようになっています。コカインは、ご承知の通り、〝疲れ知らず〟の薬物です。モルヒネには陶酔作用があります。従って、この若者たち、わたしの審美眼にかなったとても麗しい若者たちは、疲れを知らず、陶酔の世界に遊んで、同時に計算しているのです。…ハエジゴクは、遺伝子を組み替えたり置き換えたりしたので、ご覧のような水耕栽培が可能となりました」

 栄は巨大ハエジゴクのにえとなっている青年の、水に浸かった素足をみた。ハエジゴクはそこに根を伸ばしている。

「栄養は…栄養はどうしているんだッ!?」

 我慢しきれなくなったらしい雪村が怒声を浴びせた。アントニオ・マリャベッキ博士は、各犠牲者の口に差し込まれたチューブを指した。

「あれで、経口的けいこうてきに、カロリーがきちんと行き届き、栄養バランスも取れた流動食を与えています」

「それは、どうかな」とは憲吉。「皆、ガリガリにせこけているじゃないか。カロリーは必要最小限度しか与えられていないんじゃないか? 我われが最初に接触した青年も、蹌踉そうろうとして歩いていた、と云うしね。――まあ、大体の仕組みは判ったが、一体これを使って何をしようとしていたんだ、ドクター・マリャベッキ?」

 マリャベッキ博士は、そう問われると如何いかにもアメリカ人らしく、胸を張り、倨傲きょごうとも尊大とも取れる態度で、

「わたしは、母国アメリカ合衆国で、医学博士号、工学博士号、理学博士号を取得しました。無論ディプロマ・ミルなどではない、アイヴィ・リーグの大学で学んだのです。そして、わたしはひとつの夢を抱きました。それは、当時普及しかけていたパーソナル・コンピュータ、PCですな、その機能を人間の身体に移植し、一種のバイオ・コンピュータというものを創ることも可能なのではないか、ということでした。わたしは、それを試験するために何百匹ものマウスやチンパンジーを使い、論文を読み、更に多くの論文を書き、十数年に亘る構想を経て、最終的な研究を行うためにここ日本に居を移しました。態々わざわざ日本に本拠を移転したのは、この国は四季が判然はっきりしているために自然から受ける影響を予測しやすいためと、良質なチップや細かなパーツがアキハバラの近辺で容易に入手可能なためです。――そら、ご覧なさい。わたしの研究活動は、これらのヴォランティアがやってくれているのです」

 一同が見ると、犠牲者の頭部には電極が差し込まれ、そこから伸びるケーブルは最終的に一本に収束しているのだった。

「人間PC、即ちヒューマンPC。わたしはHPCという略称を用いていますが、これこそ次世代のパーソナル・コンピュータと呼ぶに相応しいものです。そして、それを創り出すためには、柔軟な思考活動の可能な人間の脳髄こそ最適なのです」

 アントニオ・マリャベッキ博士は――いささか小児じみた仕種ではあったが――胸を張って見せた。

「その…犠牲者が皆美々たる容貌をしているのは、なぜだ?」

 アントニオ・マリャベッキは肩をすくめてみせて、

「わたくしの、審美眼に適した容貌の人物を集めたのです」

 と答える。

「じゃあ、知能指数などは、関係ないんだな?」

「はい。これは逆説的なことですが…、高い知能指数を示した人物よりも、むしろ知能指数一〇〇前後の、いってみれば凡庸ぼんような個体の方が適していることが、実験的に明らかになったのです」

 すると、憲吉が、

「――その、あんたのいう、人間パーソナル・コンピュータという代物だが、悉皆さっぱりおれには見当が付かない。お願いだが、どうか、素人にも判るように、ひとつ詳しく説明してみてくれないか?」

 と問う。マリャベッキ博士は、再び嬉々ききとした様子で、

「ヒューマン・パーソナル・コンピュータ、略してHPCは、人体にPCの機能をその儘詰め込んだもの、と考えて下さって、全く差し障りありません。脳には処理速度が実に十五ギガヘルツの、人体に適合した特殊なCPUを、バイオ・インストレーションという特別な方法で取り付け、これにより並の人体の通常の機能を遙かに凌駕りょうがする情報処理速度が得られます」

「つまり、頭脳が二つになる訳だな?」

 とは憲吉。話の腰を折られたマリャベッキは、

「いいえ。――このCPUは十七のコアを持っています。すなわち人間の脳髄を加えると、十八のコアを持つことになります」

 と答えた。コンピュータには詳しくない憲吉は目を白黒させる――余計に混乱したのだ。が、それを尻目に、アントニオ・マリャベッキは咳一咳がいいちがいして、

「――また、胸部にはまたバイオ・インストレーション法を用いて、容量一テラバイトのハード・ディスク・ドライヴ即ちHDD、或いはシリコン製の記憶装置を設置します。ここに、OSはじめ必要な情報やアプリケーション・ソフトウェアの全てをあらかじめインストールしておくのです。ワード・プロセッサ・ソフトウェアからブラウザに至るまでの全てをね。

「…それから右腕の上膊部じょうはくぶには、シリアル・ポートからUSBポート、IEEE1394ポート、SDカード他の記憶媒体向けポート、フロッピー・ディスク・ドライヴ、そしてディスプレイ・ポートはアナログ、DVIデジタル、HDMIに至るまで、全て搭載致します。そして無論、ブルートゥースや無線インターネット・コネクタも。

「――そればかりではありません。ヒューマン・パーソナル・コンピュータでは、人体の眼のレンズ体に特殊な加工を施して、眼そのものがディスプレイとなるようにしてあります。つまりですね、皆さんの視界に、インターネットのウェブ・サイトを表示して情報を検索したり、書類の作業を行うことも可能なのですよ。そして、それらの情報を他人と共有したいな、と思った時には、腕のディスプレイ・ポートに機器を接続して、他人に示すこともできるのです」

 アントニオ・マリャベッキ博士は滔々とうとうと語った。石井憲吉は、やや毒気どっきを抜かれた、といったていで、

「――まあ、一応判ったが、要するに、それについて必要な計算の全てを、ここで、このひとたちを集めて、意識が朦朧もうろうとした状態にして、脳に電極を取り付けた上で、その目的に必要不可欠な演算を不眠不休でさせていた、という訳だな?」

 と確かめた。マリャベッキ博士は、嬉々とした様子で、

「はい。全く仰せの通りです」

 と答えた。

 雪村は、怒りを抑えきれない、といった口調で、

「いいですか、あんたは何の罪もない、しかも前途ある若者たちを、どういった手段でかは知らないが、かどかわしてこの場所へ連れ込み、そして非道な実験の被害者としたのだぞ。それに関し、自分の責任については、一体どう思っているんだ?」

 するとアントニオ・マリャベッキは、自信満々に、

「わたしは、ここで使っている――雇用している人びとは、犠牲だなどとんでもない、きちんと書面にサインも貰って、その上でここへ連れて来たのだ」

 と言った。雪村は、苛々いらいらする気持ちをこらね、はっ、とわらって、

「サイン? へえ、どうせ酒でもカッ喰らわせて人事不省の状態にして、その上で署名させたのではないかね? ――あんたにだって、ここにいるひとたちにも、親やきょうだいのいることくらい、想像がつくだろうに。それを薬物中毒者にして…。あんたは犯罪者なのだぞ!!」

 憲吉は、

「ドクター・アントニオ・マリャベッキ、あなたは非常に米国的なひとだ。つまり、いい意味でも悪い意味でも自信に満ち、そして多分に自己愛的だ。――しかし、あなたにも、し自分がこんな形でこんな穴蔵のような場所に、自分の意志に反して連れ込まれたら一体どんな気分を味わうか、それが判らぬほどの心の持ち主でもないだろう。――あなたはそのヒューマン・パーソナル・コンピュータなる複雑な電子機械装置を考案し、設計するだけの高い知能があるのだから…。もっとも、おれに言わせれば、あんたは単なる科学者というよりは、いわゆるマッド・サイエンティストを絵に描いたような存在…、そう、怪物的存在なのだけどね」

 栄は、そこで気に懸かっていたことを訊きたいと思い、

「それで、ドクター・アントニオ・マリャベッキ、件のヒューマン・パーソナル・コンピュータは、どの辺まで完成した――」

 と問い掛けたのだが、憲吉がそれを制し、小声で、

「アントニオ・マリャベッキには、研究のことにいてはもう訊くな。ヤツをた得意にするだけのことで、おれたちには一利もない。今はマリャベッキの奴に、自分の責任を痛感させるべき時だ」

 とささやいてから、改めてマリャベッキ博士の方に向き直り、

「ドクター・アントニオ・マリャベッキ、今夜ここに揃っている我われは、別に〝法の番人〟を気取るわけではないのだが、それでも倫理的・道義的な観点からみた時、矢張やはりあんたの取った方法・やり口は非人間的なものである、というしかない。先刻さっきも雪村さんが指摘した通り、あんたが口車に乗せて、上手くだまくらかしておびき寄せたひとたちにも、どこかに家族がいるのに違いない。それを、こんな所で痲薬まやく漬けにして…、これを前にして、あんたは何の痛痒つうようも感じないと言うのか?」

 と問うた。マリャベッキ博士は、それを聞いてやや意気消沈したと見え、下を向き、小声で、

たしかに、申し訳ない」

 と言った。

「被害者には、一体奈何どうやって罪を償うつもりだ?」

 雪村が問うた。アントニオ・マリャベッキ博士は、

「わたしに、できるだけの手は尽くさせて貰うつもりです」

 と小さな声でいう。それに対して雪村師長は、

「そんな、蚊の鳴くような声じゃ、何も聞こえないぞ!」

 と怒号を浴びせた。マリャベッキはすくみ上がって、

「わたしに、できることは、させて貰いたいと思う」

 と稍判然はっきりした、大きな声で言った。そこで栄は、

「では、具体的にどういうことをなさるつもりなのか、その辺が聞きたい。成る丈具体的に願いますよ」

 と問うた。それに対してマリャベッキ博士は、

「――先ず、わたしの雇用した社員をハエジゴクから解放して…」

 と言い掛けたが、そこをすかさず雪村師長が、

「解放したって、痲薬中毒の身じゃないか。そこはどうするんだ?」

 と問うた。マリャベッキ博士は、額に滲んだ汗をハンカチで拭い、二、三度深呼吸してから、

「薬物中毒者向け治療プログラムの整った病院などの施設が、日本にもあると思いますが、ずそちらに入れたい。それから、社会復帰に向けた訓練をさせる。そういう段取りになると思う」

 と答えた。雪村師長は、たたけるかのごとく、

「――それで、あんたの事業は? ヒューマン・パーソナル・コンピュータを創るとかいうプロジェクトは、一体どうするんだ? 続けるのか?」

 と問う。マリャベッキ氏は、荒い息を吐きながら、

詮方せんかたないので、HPCプロジェクトは…放棄しても構わない」

「あんたは先刻さっき、被害者は病院に入れる、と言ったが、今あんたの自由になる資産は、一体どの位あるのかね?」

「合衆国の銀行に…一〇〇万ドルほどの預金がある。それを使える」

 そこで栄は、

「ちょっと待った」と容喙ようかいした。「仮令たとい、ここにいる被害者たちを解放しても――医師としての見地から言わせて貰うのだが――、幾ら金を掛けて治療したとしても、だな、とてもじゃないが、元の健康体に復することは不可能じゃないか、とわたしは思うのだが…。つまりこれは、例の青年をた時にも感じたことなのだけれど、内臓がそうじてかなり弱っているようだ。それに、この実験のために重篤な精神病を発症することも考えられなくはない。要するに、ここから出したとしても、このひとたちは幸福になるとは思えないのだよ」

 栄の言葉に、雪村師長は、

「じゃあ、どうするのが一番だというのですか?」

 と問うた。栄は、マリャベッキ博士に向かって、

「ドクター・マリャベッキ、一つお訊きするが、ここの動力の源としては、一体何を使っているのかね?」

 アントニオ・マリャベッキは、しばし眼をパチパチさせていたが、やがて、

「無停電電源方式を採っておるのだが…、それが何か?」

 と答えた。栄は、それを聞くと、やっぱりな、とに落ちるところがあり、

「それなら、ここの患者たちは、このままにしておくのが、一番良いのではないか。最初に逃げ出した青年は、恐らく何かのはずみで棘が抜けてモルヒネの供給が止まったがために脱走が可能だったのだろう。その辺を注意しておけば、案外この件は隠密おんみつに済ませることもできると思うのだが」

「闇から闇へ――、という訳ですか、院長?」

 雪村がやや不服そうなコメントを発した。――と、それまでもだしていた石井憲吉が口を開いて、

「河原の言葉にも一理あるな」と言う。「今ここにいる患者たちは、恐らく自分たちの置かれている情況も知らずに、幸福な夢の世界に遊んでいるのだろう。それなら、寿命が尽きるまでこのままにしておくのが、いちばんヒューマニスティックな方法だとは思えないかな?」

 と言った。それを聞いたマリャベッキはパッと顔を輝かせて、

「それじゃあ、わたしのプロジェクトも…」

 と言い差したが、憲吉は、

いな」と答えた。「考え違いをするな。それとこれとは話が違う。我われは、あんたのために、不必要にひどく心を労さなければならなかった。――ご承知の通り、日本は法治国家なのだが、申し訳ないけれども今回はあんたを私刑しけいしょすることにする。――本来なら所轄しょかつの警察署に突き出すべきところだが、こちらにもちょいと事情があってね。悪く思わないでくれ」

 それを耳にして、河原と雪村は驚いて憲吉を見た。

「一体、何をするつもりなんだ?」

 河原栄は問うたが、憲吉は雪村に、

「スタン・ガンを出して、マリャベッキも連れてきてくれ。えず外に出よう」

 と言って、憲吉が先頭に立って歩き出した。栄と雪村、それにマリャベッキも続いて外に出た。雨は降っておらず、代わりに気持ちの悪い黄褐色の月が出ていた。

 憲吉は、マリャベッキに命じて自分のテスラに乗せた。その際、憲吉はマリャベッキから車のキィを取り上げて、マリャベッキが運転席に着くと、そちら側の窓を巻き下ろさせて、雪村に命じてスタン・ガンを当て、車の全てのロックを掛けた。

 一体何をするつもりなのか判らず、当惑している栄と雪村に向かって、憲吉は、

「ちょっと、おれのミニに戻ってくる。取ってくるものがあるからさ。いいかい、マリャベッキには注意していてくれよ」

 と言い、小走りに立ち去った。

 憲吉は、ものの三、四分で戻って来た。両手に抱えられたものを見て、栄は眼をいた。それは練炭と七輪だったからである。

「まさか、殺すのかっ!?」

 栄は問うたが、憲吉は悪戯児わるさごのように歯をして笑っただけだった。

 そして、テスラのキィを使って一旦ドア・ロックを解除すると、助手席側の床に七輪を置き、練炭を入れて火を点けた。それを見たマリャベッキは、

「おお、わたし、まだ死にたくない。何でもしますからそれだけは勘弁して下さい。殺されるのはいやです」

 などと恐慌きょうこうきたして英語混じりに訴えたが、憲吉は、

「なに、殺しやしないさ」

 と言って、助手席側のドアを閉め、ロックし、時計を眺めた。

 栄は憲吉に、

一体奈何どうするつもりなんだ?」

 と問い掛けたが、憲吉はにやりと笑いをうかべ、

「この男を無能にしてしまうのさ」

 とだけ答えた。

 車の中には、次第に不完全燃焼した練炭の煙が充満してくる。マリャベッキは暫時ざんじ車内でのたうち回っていたが、やがて動かなくなった。

 そして、十五分ほど経ったところで、憲吉は、

「そろそろ、よろしかろう。燻製のいっちょあがりだ」

 と言ってテスラのドア・ロックを解除した。けれども、マリャベッキは外に出てくる気配すら見せず、ただつくねんと運転席に座っているだけだ。

「どういうことなんだ?」

「どういうことなんです?」

 同時に問う栄と雪村に向かって、憲吉は、

「なに、ある空間内で一酸化炭素がある濃度を超えると、その空間内にいる人間は、中毒症状を起こして、二、三歳児なみの知能になるのさ。無論この儘放っておけば中毒死するのだが、流石にそこまで酷なことはできないからね。ま、おれ流の制裁を加えたわけだ」

 と涼しい顔である。栄は、

「――じゃあ、この後マリャベッキ博士は…」

「面倒だから、この際韮崎駅前にでもほっぽって置こうじゃないか」


 その後、この一件から三月ほど経って、栄は件の穴蔵を見に行った。丁度、中秋の名月の候である。

 すると、ここに囚われている犠牲者たちは、驚くべき変異を遂げていた。

 皆、頭から自分のそれと形状・大きさ共に同等の〝果実〟をみのらせていたのだ。どの果実も本物の頭とそっくりである。

 ――こりゃあ、丸で人間植物ではないか。

 栄は気味が悪くなって、その夜はそのまま蒼惶そうこうとその場から立ち去ったのだが、それから更に三ヶ月ほどした頃再度見に行ってみると、〝果実〟は全て誰かが収穫したものらしく、後には元の頭しか残っていなかった。皆、モルヒネのもたらす陶酔に浸り、口に差し込まれた栄養チューブからエネルギーを受けていることは、頭部の電極が外されたこと以外、半年前と同様であった。

 マリャベッキ博士の行方にいては、栄は何も知らぬし、又興味もない。

 こうして、すくなくとも河原栄の中では、この一件は落着をみたのである。


 尚、この収穫された〝果実〟に関しては、既に鬼簿きぼに入られた方であるが、舩見廣厨子ふなみひろずしという作家の著作物、「首」に詳しいのでここでは割愛する。(了)


               ○

「首」

 ――――「首」(文藝出版社刊)所収――――


 わたしがと遭遇ったのは、大学構内、銀杏並木の下の道を歩いている時だった――、わたしはその日、勤務する大学の研究センターで日がな一日実験動物を相手にして過した後のことで、くたくたに疲れ切っており、だから道端に植わっている丈の高い銀杏の樹も見上げれば綺麗に陽光を透して見えたと思うのだが、気持ちの上ではそんな余裕などまるでなく、ただただ疲憊ひはいしてとぼとぼと歩を運ぶだけであった。

 北海道の秋は足早にやって来て直ぐに去ってしまう。わたしは散り敷いた銀杏の葉を踏みしだきつつ歩き、その頭の中では、明日以降これからヌード・マウスに對し行うべく準備の進められているところの実験プロジェクトに関しその段取りや細かな手順、データ集計と統計解析、文献・論文としての纏め上げ、それからその文献を英訳して科学雑誌に投稿し発表する……、と云ったことばかりをでも噛むように何度も何度も反芻していた――、要するにわたしは疲れ果てていたのである。

 ――と、わたしが大学の所謂メイン・ストリートを抜けて出て行こうとした時、弓手ゆんでから微かな物音――、或いはこえがすることに気が付いた。わたしは瞬息、ほとんど直覚的に自分は呼ばれている、と感じた。これはその場に現前していた者でなくては判然はっきりと分らない、感得も理解もあたわぬことだと思うのだが、あの聲は間違いなく絶対にわたしのことを呼んでいたのだろうと思う。もう一歩踏み込めば、わたしの来るのを待ち構えていたのだろうとすら思うのだが、その辺りまではわたしもあまり自信をもって言い切るだけの勇気はない、けれども恐らくわたしのような位置にいる人間のことを待っていたのではないか、とは思う次第だ。

 扠、わたしはその物音、或いは聲を聴いて、そちらの方に初めて意識を向けた。そしてをみた、眼にした、眼に入れた、どう表現すればよいだろうか、ともかくわたしはを視覚的に認識した――、その時間と空間のなかにたしかに視認し、それを記憶中ストレージに収めたのだ。そして、わたしの脳髄はそれを嘉納かのうした。

 それは一個の首であった、そう生首だった。けれども不思疑なことにその周囲には血痕や血糊と云ったものは一切みられず、恐らくはどこか別の場所で切断されて〝血抜き〟も施された情態でここへ運び込まれたものであるらしい。わたしは好奇の心に駆られて落ち葉の山に足を踏み入れ、その〝生首〟に接近せんとした。そろそろ夕闇の迫る刻限のことだったが、その首は薄暮のなかで微かに燐光を放つかにみえた。近寄ってみて分ったのは、どうやらその〝首〟は生きているらしい、とのことだった――、否、この眼で判然はっきり確かめてみなくてはその辺はどうとも言えないことだったのだけれども、これもわたしの得た直感による一種の啓示であった。

 そして、わたしが近づくと、自分の得た印象は精確だったことを知った……、首は生きていた、一体どういう態様で、と云う仔細の事項に就いては不分明だったが、かく生きていた。と云うのは時おり眼をしばたたくから分ったことであって、それを知ったわたしはこの〝首〟に對しそこはかとなくおそれを抱いたが、首はそんなものはお構いなし、と云った風情で黙りこくっているばかりなのだった。

 わたしは銀杏の樹の根元にしゃがんで首の傍らに腰を落とし、首級しゅきゅうを検分する心持ちで手を伸し、あらためた――、そして分ったことなのだが、〝首〟は男性で、しかもえも言われぬ美青年、まだうら若い男の顔をしていた。蒼白い顔色をし、口唇こうしんは薄く、わざと乱したような髪型の頭髪に染めた形跡は認められなかった。そして、もう一点わたしの註意ちゅういくところがあった――、つまりそれは首の〝切り口〟であって、わたしは当初、首の切り口はさぞかし血で汚れていることだろう、血塗ちまみれになっているものだろう、と想像していたのだが、心事合違しんじあいたがい、非常に綺麗なものだったのであり、それをみたわたしは、自分の豫想していた猟奇的な色合いが払拭ふっしょくされて意外なような、ほっとするような思いであった。よく見ると、〝首〟の〝切り口〟はその他の部位と同様、普通に蒼白い皮膚が覆っており、何かで故意に切断されたとかいう痕跡はまったくなかった。つまり、この首はこの首なりにどこかから得た栄養物を代謝たいしゃして自律的に生きているのだ、と云うことになる。わたしは暫し逡巡しゅんじゅんしたが、結句けっくこんな妙ちきりんな首ごときに拘泥こうでいするのはばかばかしい、と思い、その夕はそれ切りにして家路いえじいた。

 わたしの住いは大学から歩いて十分ほどのところに在する単身者用のワンルームマンションだ。部屋にはほぼ何もない情態じょうたい――、あるのは自分の研究内容に即したおびただしい数の書帙しょちつであって、その殆どはわたしの研究対象たる薬理学に関する論文集や科学雑誌と云った専門書の類だ。

 わたしはその晩、スパゲティを茹でて塩と胡椒で簡単に味を付けるとビールと一緒に食べ、明日からの実験プロジェクトに関しコンピュータで豫定よていを確認し直し、シャワーを浴びて早めに寝に就いた。例の〝首〟のことなどもう一顧いっこだにしなかった――、わたしはあれを一種の幻覚だと看做みなすことにしたのだった。

 わたしは曩者のうしゃ、〝ニコチン性アセチルコリン受容体じゅようたいとドパミンの再取り込み阻害〟というテーマで研究に取組んでいた。博士論文を書くつもりで毎日データ集計と解析に追われていたのだ。あの首は……、何かの見間違いだろう、とわたしは思うことにした。

 が、そう易々やすやすとは事は運ばなかった。

 わたしはその夜、夢をみた。

 夢の中で、わたしはあの〝首〟と対峙たいじしていた。首は水を張った平たい容器に鎮座ちんざましましていて、夕方に初めて遭遇であった時はほとん瞑想的めいそうてき半眼はんがんに開いていた眼はぱっちりと見開かれ、二重瞼ふたえまぶちの瞳でわたしのことを直視しているので、わたしはどぎまぎしてしまった。と、〝首〟はわたしに向って、舩見ふなみよ、と名を呼んだので、わたしは内心で一層とり乱して了った……、なぜこれは、この〝首〟はわたしの名をっているのだろう? けれども、そんな疑問を持て余しているわたしには構わず、首は言った。曰く、自分はこれまでコカインとモルヒネの類を主たる栄養源として生きてきたものなのであるが、なんじに依頼すればこうした薬物も入手可能だろう、と思い汝の前に顕現けんげんした次第であって、委細構いさいかまわぬようであれば是非ともわたしの依頼を聞き入れて欲しい、なに、ことはむつかしくはない、大きめのシャーレがあれば蓋をせずにこの二種の薬剤を飽和濃度、つまり溶解度の限度いっぱいで溶かした溶液に自分を浸して欲しいのだ、あなたならば恐らくできることだろう、それをやって頂けなくてはわたしは早晩そうばん死を迎える運命にある、そうなればわたしは汝をうらむことだろう、しかしやって頂けると云うのであれば、わたしはあなたに感謝するし、微力びりょくながら研究のお手伝いもさせて頂きたいと思うのだが、如何いかがなものだろうか。わたしは盗汗ねあせをかいて早暁そうぎょうに眼をさました――、気分は決してよくなかった。頭は痛かったし、口の中もべたべたして気分が悪かった。冷蔵庫からポカリスエットを出して、ボトルの口から直接ごくごく飲んだが、それでも不快感はぬぐれず、一瞬わたしは吐いて了うのではないか、と思って流しのふちに両手を突いて身構えたほどなのであり、相変わらず嘔気おうきは胃の中でむかむかとわだかまっていたけれども、結局食道をせり上がってくるものは何もなく、わたしは何とか正気を保った。

 やがて朝が来て、わたしは普段通り朝食をとると、上着に袖を通して支度をし、大きめのトート・バッグを手にしていつもより十五分ほど早めに部屋を後にした――、深更しんこうにみた夢が脳髄の裏側にへばり付いて離れなかったのだ。わたしはを矢張り幻覚だったのではないか、とか、あんな端正な容姿の青年は現実的にはあり得ない、夢でもみたのだろう、などととつおいつしきりと思案したのだが、記憶は鮮やかなものだったし、結局一種の好奇心に駆られてバッグを取り上げたという次第だった。

 ひんやりと引き締まった外気、微かに朝靄あさもやの立ちこめる中を歩いてゆくと、次第に何もかも等閑とうかんに付せるような気がしてきて、わたしはさすがにばかばかしくなって来た……、あんなものはこの世の常識ではちょっと考えられない存在だ、と思う次第だったのであり、もうあんなものとかかずらいになるのは止めにしよう、と思ったのだ。――すくなくとも、昨日のあの場所に着くまでは。

 〝首〟はそこにいた。相変わらずエース・フレーリーのように半眼にした眼を時おりまたたきさせ、殆ど女性的といってもよいくらいに繊細に作り込まれた鼻梁や唇といった顔の造作ぞうさく朝涼ちょうりょうの空気にさらして、わたしのことを待っていた……、のかどうかまではしかと分らぬが、どのみち女性的で受動的な存在であることだから、たれかを待ち構えていただろうことに疑いはない。

 わたしはそれを両手でそっと摑むと、バッグに入れ、慮外りょがいに持ち重りのするそれを――、今やわたしにとっては核爆弾以上に険吞けんのんなものとなったそれを携えて研究室へ向った。

 それからわたしは〝首〟の所望しょもうする通りにあしらった……、つまり大きなペトリ皿にそのほっそりした首許くびもとで立たせてやり、水を張った。

 こいつが自分の〝滋養分じようぶん〟だと称していた薬物に就いては、どうにかこうにか手配・調達ができ、ほかの大学院生や教官たちからは奇異きいの眼で見られながらも手を尽くして世話を続けたというのは、わたしもどうやらこの首のもつどことなくやましい・後ろ暗い魅力のとりこになって了ったということらしく、わたしはその内自分の本来の研究テーマも忘れて世話に明け暮れるようになった……、と云うのはこの首に〝子ども〟ができたから、と云うのが主たる契機になったことであり、ある日首の口の中がふくれていることに気が付き、その膨張は数週間に亘って引き続いて、その末ある朝口からこの青年とうり二つだが、二回りも小さく可愛らしい新たな〝首〟が誕生したのである。美しいこの首は、爾来じらい数世代に亘り継代けいだいしている。

 もうその頃になると、わたしの同僚も指導教授もわたしの〝趣味〟に就いては何も言わず、ただわたしが退学願を提出するのを待っている、と云った顔をしていた――、わたしは本当ならマックス・プランク脳研究所に留学する豫定よていだったのだけれど、その好機もふいにしてしまったようなものだ。

 が、わたしは決してへこたれている訳ではない。いつか近い日に、この〝首〟を培養して増やし、もっと合法な薬剤で栽培する方法を編み出してもうけしてやろう、とはらのなかで企んでいる次第である。


               ○

                                      


 ヴィジョンを見たあとの雅也は、非道く戸惑いを覚えた。

「これは――」

「そうです」赤坂は点頭した。「わたしが産まれる以前の記録です」


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