H.
雅也が眼を醒ますと、既に日は高かった。時計を見ると、午前八時半だった。やや宿酔いをしているようで、頭の芯が微かに痛む。
先ず顔を洗いたいが…、と思って辺りを見廻すと、ベッド脇の卓子の上にベルが載っていた。
試しにそれを取り上げて軽く振ってみると、思いの外透き通って軽い音が響いた。
そして、間を
「佐竹さま、お目覚めですか?」
と小女の僅かに中国語訛りの混じったような声がしたので、雅也は、
「はい、今起きたところです」
「ご朝食をお運びしても構いませんか?」
「――ああ、はい、そうですね。頂きます」
すると、五分ほど経て、もう一度ノックの音がし、続けてまだ二〇歳前かと思しき娘が二人入ってきた。一人は湯気の立ったブリキの洗面器とタオルを、もう一人は食器類の載った盆を携えていた。そして、それらを卓子の上に置くと、
雅也は先ずタオルを熱湯に浸して顔を拭った。
それから食器を見ると、中華粥が入っているのが判った。茶器も揃っている。
腹いっぱいになって一息つくと、今日の行程のことが気に懸かった。
何しろ、
雅也は朝食を取っていたベッドから起き出し、鞄を開けて、昨日駅で貰ったパンフレットを取りだした。
――どんなものか判らんが、一寸行ってみるか。図書館と云うからには、何かあるだろう。
雅也はそこを訪れることに決めた。
古田島は、昨日の晩、ここを拠点にして動いても構わない、と云う趣旨のことを言っていた。
先ず、古田島を探さねば。
雅也はパンフレットを窓際の卓子の上に置くと、部屋を出た。その際腕時計を見ると、もう午前九時を回っている。
朝の漢方薬研究所の廊下は、
雅也は古田島を探そうとしたが、途中で思い直して止めた。もう診察時間が始まっているだろう、と推測できたからである。
雅也は自宅から持ってきたデイパックをバックパックの中から取りだし、必要最小限のものだけ詰めた。そして、現金が入っているのを確認すると、階下へ降りた。一階の廊下で、
「あ、佐竹さま、おてかけですか?」
「はい。一日外で過ごします」
「いてらっしゃいまし」
雅也は漢方薬研究所を後にした。
駅の時刻表を見ると、十分後に各駅停車の列車が来ることになっていた。フリー・パスがあるので、切符を買う必要はない。
雅也は改札を通ると待合室には寄らずに下り線のプラットフォームに出た。鈍重そうな蒸気機関車に牽かれた列車は間もなくやって来た。鈍行列車では客車に等級の区別はない。皆二等車である。
雅也は車室に入り、窓際のボックス席に座った。向かいには金髪の老人が座っていて、サングラスを掛けていたのだが、
だが、雅也は見た。その人物が長髪を搔き上げる際、左手指の第二関節の辺りに「OZZY」と指一本に一字ずつ刺青があったのだ。
雅也は、
「あのう、
と問いかけたが、その時、後ろの車室から鼻の下に髭を蓄えた、
「何だってここはこんな古臭いシステムを使ってるんだい!」
とぶつぶつ文句を言いながらオジーの隣に腰掛けた。雅也がその人物の右手を見ると、指先が二本欠けていた。
雅也は思い切って、
「…あのう、
と問い掛けると、二人はうるさそうに、
「イエス・アンド・ノー。――あんたは日本人かい?」
「そ、そうです。だけど、一部の
「あ、そ。…じゃ、いいか。そう、わたしはオジー・オズボーンで」
「わしはトニー・アイオミ」
「
雅也が問うと、アイオミ氏は気難しげな顔をわずかに緩め、
「気に入った。大抵のファンは何も云う前から色紙を鼻先に突き付けてくるのが習慣なのに。そう、
「ぼくは初めてなんです。次の〝図書館都市〟で降りる積りなんですが」
「図書館? 探し物かい」
とオジー。
「ええ。――一寸ね、厄介な探し物がありまして」
「ふむ。――なあオジー、今日はあいつ、あの辺にいないかな?」
「そうだなあ。ことによると来ているかも知れないぞ」
「うん。いればいいがなあ」
「けど、聞くところによると最近は何だか
「判る判る。あれじゃあ仕方がないかも知れないなあ。――じゃあ、会えても徒労に終わる可能性もある訳だ」
「まあな。会えれば、まずラッキーだと考えた方がいいよな」
雅也が、
「一体、何の話をしているのです?」
と問うと、トニーが、
「いやさ、次の〝図書館都市〟駅の辺りで、赤いパーカを着て、エレキ・ギター…そう、ギブソン・メンフィスでセミ・ホロウの型だ…、
「はあ。何かヒントでも貰えるとか?」
「そう。
と、オジーが
と、列車は速度を落とし、「図書館都市」前駅に着いた。
雅也はオジーとトニーに礼を言って立ち上がった。オジーは笑顔で手を振り、トニーは帽子を取って挨拶した。
駅前に出ると、雅也は赤いパーカの男を探した。
訳なく見つかった。
雅也は男の
夢の中でみた人物だったからである。
雅也は男につかつかと歩み寄り、
「もし」
と声を掛けた。男は危なっかしい弾き方のギター・ソロを中断して、ゆっくりと雅也を見やった。雅也の確信はますます高まった。
「何でしょう?」
男はハットを脱いで言った。
「あなた、赤坂さんですね?」
男は
「いかにも。赤坂泰彦ですが」
「演奏中に済みませんね」
「いえ。何かご用ですか?」
「ええ、一寸。――その曲は、ブルー・オイスター・カルトですね?」
「そう。よくご存じですね」
「…それはそうと、実を申しますと、あなたはぼくの夢に出て来られたことがありましてね。それで――、あと、気に懸かっていることもありまして…、それで声を掛けさせて頂いた訳です」
赤坂は眉を上げた。
「夢で? それは妙な。どういう夢ですか?」
そこで、雅也は赤坂に一連の夢を
「ぼくの来し方のことをここまで詳しくご存知の方とは、これまでお目に掛かったことがありませんね。驚きです。――では、マリャベッキ博士のことも…」
「いいえ、博士のことは全く存じ上げません」
「そうですか。では、あなたの知識を
そう云うと、赤坂は足元のバッグからジンジャー・エールのボトルとプラスティックのカップを一つ出した。そして、ボトルからカップになみなみと液体を注いだ。それを雅也に差し出し、
「さあ、これをお飲みなさい」
と言った。透明なカップの中の液体は少々青味がかって見える。
雅也が
「何も怪しいものではありませんよ」
と言って、ボトルの蓋を開けて自分でごくりと飲んで見せた。
雅也は
「今は何ともないでしょう」赤坂は言った。「もう一寸待ってご覧なさい」
「今は?」雅也は不意に
「ああ、いやいや」赤坂は必死で打ち消した。「そういうことではないのです」
雅也はそれに対して返辞をしようとした。――が、その時、雅也はおかしなヴィジョンに囚われてしまった。それは、次のような小説を読んだ時の気分に似ていた。
「 これより以下縷述する一連の異常な事件は、
その未明、工藤又蔵老人は、山梨県は韮崎市の南部を貫く、韮崎昇仙峡線という地方道を、自分の葡萄畑のある三ツ沢と呼ばれる地区から韮崎市街地へ向けて車を走らせていた。又蔵老人は三ツ沢に葡萄畑を十アールほど所有していたのだが、五月末という季節の午前三時に自家用車のタントを駆らねばならなかったのは、長く続いた五月雨に、作物のことが心配になった為である。
と、一寸した茂林に差し掛かった時のことである。又蔵老人は左手の竹林の方に何とはなしに意識を向けていた。この辺は野良猫や時には狸が飛び出してくることが往々にしてあったためである。だから、右手の
老人がやれやれと思った時、運転席の窓ガラスをこつこつと叩く音がする。その音に振り返った又蔵老人は、復た
窓を叩いた者は、固より
その姿を
「何だね? どうした?」
と
「た…助けて下さい」
と
「一体どうしたのかね? こんな夜中に」
問うたのだが、青年は
「
と繰り返すのみであった。又蔵老人は
――何か、
又蔵老人は、
さて、又蔵老人にとって、この
「おい、
と声を掛けた。すると青年は、半眼になったものの、何を見留めたのか、
「――最初に陶酔が来た。…それから甘美な覚醒が――…」
と虫の息で呟くと、
――どうにかしないとな。
又蔵老人は何とかこの
又蔵老人が隣席の招かれざる客の様子を見ようとしたとき、家の中から娘の涼子が飛び出してきた。老人のことを案じてまんじりともせず待っていたらしい。
「お父さん、どうもしなかった?」
心配性の涼子の
助手席側のドアを外から開けた涼子は、
「お父さん、どうしたの、この人?」と問うた。そして、青年に向かって、「もしもし、大丈夫ですか?」
と話し掛けて青年の身体を揺すった。併し、青年は
「お父さん、この人どうしたの? ――
と
「まさか」と一笑に付した。「帰るさに…
「でも、気を失ってるわよ」
又蔵は眉を
「そうなんだよ。途中で救けを求めて来たんだが…、その――」
「救急車は呼ばなかったの? 警察に連絡はしたの?」
涼子の口調は打ち付けに
「うむ、それも考えたが…、鍛二のことがあるからなァ。どうもこの人を見ていると、尋常ではない所が見受けられるような気がして…」
涼子は、父親と不時の
「じゃあ、河原さんの所に持っていったらどう?」
と発案した。
「ああ、栄さんの所かい。――
涼子の云う河原栄とは、又蔵の亡妻である
「精神科でも、入院設備だって整っているんだし、血液検査くらいできるでしょう」
「うむ、それもそうだが…」老人は
「――仕方ないな。そうするか」
「じゃあ急いで連絡しないと。余り遅くなるとことよ」
「そうだな。――
又蔵老人は正体を失って助手席に
「大丈夫ですか? さあ、
と大声を出した。又蔵老人も肩を
「何!? 何だって!?」
又蔵老人は青年の耳に
「…欲しい」
と
「何ッ!? 何だッ!?」
老人は更に大声を張り上げた。その老人の腕を、涼子はそっと叩いて注意を
「…欲しい、欲しいよ。――くれよ」
青年は
「取り敢えず、家ン中に運び込もう」
「そうね。でも、あたし達だけで大丈夫かしら? 正人さんも呼んでくる?」
老人は前後不覚の青年の背中と尻の下に手を差し入れ、重さを量っていたが、
「うむ」と言った。「おれたちだけで間に合いそうだ。――涼子、お前は足の方を持ってくれ」
涼子は一旦引き返して縁側から日本間へ通じているガラス戸を一杯に開けてくると、車の助手席側に回り込み、又蔵老人の指図に従って美青年の膝の裏に腕を入れた。一方又蔵老人は左右の脇の下に手を入れて、
「行くぞ。せえの」
と合図を掛けた。二人の予想よりも、青年は
「随分軽くて
「全くだ。骨皮筋右衛門とはよく云ったものだ」
日本間は客間を兼ねていたので、押し入れには布団の用意がある。老人と娘は
「可愛い。若しかして
などとの
「こら。常ならぬ身体のひとなんだぞ。早く飯を食って学校へ行け」
と
「お父さん。早く連絡を」
と
「何だ、又さんか」何も知らぬ栄は
又蔵老人は
「なるほど、事情は判った。――して、
と問うた。又蔵老人はキッチンにいる娘に向かって、
「おい涼子、その人、
と大声で命じた。涼子には
「この
と
「ああ良かった。お父さん、
との
「栄さん、
と告げた。すると栄は、
「そうか。じゃあ、これから
と
「済まねえな。じゃあ待ってるから、よろしく頼むよ」
「なに、よくあることさ」
こうして、慌ただしく臨時のモーニング・コールは済んだのである。
河原栄は、言に違わず二〇分ほどしてやって来た。一人ではなく、部下が
又蔵は一行の到着を知ると、
「栄さん、朝早くから済まね」
と挨拶したが、
「否。――で、
と問うた。
「
又蔵老人が見ていると、医師なのか看護師なのか
「ヴァイタル・サインはあります」
「
「点滴を打った方が良いのでは?」
などと栄に報告し、指示を仰いだ。
河原栄はそういった部下たちからの報告に、「うむ」などと返辞をしながら自分でも青年の脈を取ったり、
「エコーを見ると、心臓が弱ってるようだ。補水して、ジギタリスも投与してくれ」
と命じておいて、又蔵老人を脇へ呼んだ。そして、
「又さん、ありゃあ
と言った。又蔵老人は、
「ほう」と厄介そうに声を上げた。「どうして判ったんだい?」
栄は自分の眼を指差した。
「眼だよ、眼。オピエート――と云ってもあんたにゃ判らんだろうが、まァ平たく云えば
「いいや。車の中でもう
「そうかい。――
「何だい?」
「うむ。多分違法薬物の
「アイ・ヴィ?」
あの鍛二のことを思い出した又蔵は、
「ああ、静脈注射さ。
「ふうん」又蔵老人は溜め息のような声を発した。「で、奴さんはどうするつもりなのかい? 無論、ウチでは預かれないよ」
すると、栄は、
「そりゃあ勿論そうだろう。幸い、うちの病棟には空きがある。
又蔵老人は、
「ああ」と答えた。「本来なら、するべきなんだろうが…」
「判ってる、あんたの言いたいことは。鍛二くんのことだろ?」
そう
「…ああ、まあな」
「じゃ、後はおれに任せてくれ」
「――任せてくれ、って…、そりゃあ、栄さんに渡せられればおれの肩の荷は下りるが…、一体どうしようと云うのかね?」
又蔵が問うと、河原栄は
「ま、蛇の道はへび、だ。大船に乗った積もりでいてくれればいいさ」
とのみ答えると、くるりと背を向けて
「よし」と云った。河岸を変えるぞ。担架を用意してくれ」
国手の
「どうだい、容態は。
と問うたが、栄は
「正直、判らんな」と答えた。「こういう
「そうか」と又蔵老人は力ない声で言った。「
「うむ。その時はその時で、打つ手はある」
「どんな――」老人は
すると、
「
そう
「そうかい。じゃ、済まねえが一つ頼むよ」
「じゃ、おれらはもう行くから。――ことは一刻を争う問題だからな」
「ああ、そうだな」
謎の美青年は既にしてワゴン車への搬入が済んでおり、残る部下たちは河原栄の指示を待っていた。栄医師は部下たちを前にしてぽんと一つ掌を打ち合わせると、
「さあ、出発だ」
と
「いや、全く困った客だったが、これで一と安心できるかな?」
又蔵は額に浮いた脂汗を拭いながら
「そうね。――それにしても、あの人大丈夫かしら?」
涼子はサンダルを脱ぎつつ
「おい」と云った。「涼子、
「――あ」と涼子。「そうね。正人さんは云えば直ぐ判ると思うけど、夕子には学校に行く前に釘を刺しておかないと」
涼子はそう言うと、二階の自室で着替えているらしい娘の
河原国手たち一行が病院に着いたのは、午前九時前のことだった。幸いにも、この日は院長たる栄が診察に当たる予定がなかったので、
「この後、どうします?」
と上司に問うた。栄は
「そうだな」と言った。「
「はい。長野さんに頼めば
「今日出てるかい?」
「ええ。車があるのを見ましたから、いますよ」
栄と雪村師長とは
「じゃあ、長野さんに至急SPEを頼んでみましょうか」
雪村は笑いの消えた顔で、白衣の胸ポケットからPHSを取り出しながら問うた。河原国手は
「うむ、そうしてくれ。――おれは、一寸電話をしなけりゃならんから」
と言い、院長室へ向かって歩き出した。雪村は美青年の病室の中に戻り、PHSで臨床検査室を呼び出した。
長野は直ぐに出た。
「済みません、
SPEとはsolid phase extractionの略で固相抽出とも呼ばれ、分析化学で液体中に溶解した分子の検出に用いられる手法である。
「SPE? ――いや、わたしは今出勤して来たばかりだし、今朝は
「――それが、
それを聞いた長野は
「朝から大麻に阿片か。いい一日になりそうだな」
「済みません」
雪村は
「いいさ。どのみち、今朝は暇だから。――で、
「あ、血液です。笹井くんに渡して、直ぐ送らせます」
「朝からドラッグか。ヘヴィな朝だな」
長野は笑いながら電話を切った。雪村はナース・ステーションに向かって歩き出しながら装置をポケットに収めた。朝のナース・ステーションは、
「笹井さん」と低い声で呼び掛けた。「一寸お願いがあるんだが」
河原栄は院長室に入ると、背広も脱がずに卓子に着き、受話器を取り上げた。石井憲吉の短縮番号は――
「はい」
「もしもし。朝早くから済まんな。おれだが」
すると、声のトーンが変わって、
「ああ、何だ、河原か」と憲吉は言うた。「今度は何用だ、
「いや、今回はそんな一筋縄では行かん。どうやらクスリ絡みだな」
「クスリか」石井は一瞬沈黙した。「おやおや、大麻?」
河原栄は以前薬物関係でも石井憲吉の手を借りたことがあった。
「いや、
「暴れてるのか?」
「いいや、
「そうか。――栄養状態は?」
「最悪だ。
「ふうむ。…で、
「いや、
「判った」石井憲吉は二つ返事で承諾した。石井が
「ああ、宜しく頼む」
受話器を戻し、栄は立ち上がると灰色のロッカーを開け、ワイシャツ姿になると白衣を着た。と、それを待っていたかのように胸ポケットのPHSが鳴った。第二病棟のナース・ステーションだった。
「河原先生、山中正恵さんの件で…」
認知症の患者だ。栄は
「判った。
と答えると、PHSをポケットにしまった。長い一日になりそうだった。
地階にある臨床検査室ではSPEの作業が着々と進められていた。
長野は違法薬物の検出にかけては決して他の検査士の人後に落ちなかった。
長野は装置に血液の入ったカラムをセットし、〝スタート〟スイッチを押した。
「レチキュリン、プラス…、ベンゾイルエクゴニン、プラス…、M6G、プラス…」
と独語しつつ記入して行った。書き込み終えると、手袋をはずし、旁らの電話から受話器を取り上げ、栄院長のPHSの番号をプッシュした。
河原栄は五回ほどの呼び出し音で出た。
「結果、出たかね?」
栄は性急な口調で問うた。長野は、
「出ました」
とだけ、
「で、どうでしたね?」
重ねて問う。
「院長の予想の通りでした。コカインとモルヒネに際立って高い反応がありましたよ。これは相当の
「他には? 大麻や覚醒剤、有機溶剤などは?」
「他は全てネガティヴ。
「それだけかね?」
「それだけです」
「ふうむ。――あい、判った。朝っぱらから妙なものを依頼して済まなかった。
通話を終えた河原国手はふうっと溜め息を吐いた。死に瀕した認知症の老女に就いては既に家族へ連絡が取ってあった。あとは雪村師長が何とか対応するだろう。それはそれで良かった。
問題は、正体の判らぬあの美青年だった。国手の
――厄介だな。全く厄介なお荷物を抱え込んだものだ。
最前、栄は院長室へ帰るさに、名も判らぬ〝眠れる森の美青年〟の病室を覗いた。今は三上という口の堅い中年の看護師に
「如何ですかね?」
院長が低声で問うと、三上看護師は、
「状態に変化はありませんね」と答えた。「それから、こちらが全身の所見です」
と言い、クリップでフォルダに留めた書類を手渡した。栄は受け取ると直ぐに
「身長一八五センチで、体重が六三キロか。衰弱もする筈だ。――外傷や注射針の痕に目立つものはなし、か…。なに、右足首に
三上看護師は直ぐにジーンズの
「比較的最近の傷のようだな」栄は
「これは――」
と河原栄が指摘すると、三上看護婦も、
「ええ、そうなんです」と同意した。「大分深い傷口ですわ。
「一体どうしてこんな傷になったんだろうな?」
その言葉に、三上はうっそりと微笑んだだけだった。
「見当も付きませんわ」
院長室で、河原栄は窓辺に立ち、下唇を
いや、思案を
栄国手は別段、石井の人品を疑っている訳ではなかった。必要事は
栄は
憲吉は起訴と共に大学は退学処分となった。大学は丁度、解剖学や生理学といった基礎医学を修了し、これからBST、即ちベッド・サイド・ティーチングに入ろうか、という時期を迎えていた。栄は
生を相手に、高時給を取って家庭教師のアルバイトをして生活費を作り、家事も受け持った。憲吉はその頃、
栄は無事大学を卒業すると、国家資格を携えて甲府に帰郷し、父の
そして、この
本音を吐けばこの度は栄は乗り地ではなかった。
国手栄を
と云うのも、石井憲吉は自己の身辺に関し、よくいえばオープン、平たくいえば余りにも無防備だったからである。石井も
が、石井憲吉はそれを知ってか知らずか、自身の学生時代の失敗談――即ち〝若気の至り〟を、公然と誰にでも
――そんな由なし言を胸裡で繰り言のように噛み締めていると、白衣の胸ポケットに入れてあるPHSがけたたましく鳴った。三上看護婦からだった。栄は直ぐ「通話」ボタンを押した。
「もしもし」
「313号室の三上ですが」
声は
「うむ。奈何(どう)ですか?」
「脈拍が弱くなっています」
「直ぐ、行く」
栄はPHSをしまうと、足早に院長室をあとにした。院長室の他、職員用の仮眠室や会議室のある病院四階を去り、階段を使って三階即ち第三病棟の313号室へ辿り着くまで、栄は十数名の医師や看護師と擦れ違った――この病院には現在栄国手を含めて六名の医師が常勤していたが、
栄は健康のため
そして、幸いなことに、313号室に取り立てて注意を向ける者は誰もいなかった。
河原栄は控え目に313号室のドアをノックした。
と、ドアの向こう側に、つ、と身を寄せる白い影が見え、
「どなたですか?」
と女声が低声で
「ああ、わたしだが」
と答えた。すると、ドアが内側から控え目に開けられ、栄国手はその隙間から身体を病室内へ滑り込ませた。
室内に
「
河原栄の指摘を受け、三上看護師は、
「先ほど、身悶えしたんです。――こう、
「ふむ」
栄は美青年の肉体に取り付けられた脳波計などといった機器類の呈するデータを見た。
「芳しくないな」
ぽつりとコメントを述べた。三上看護師は、
「これでも、手は尽くしたんですよ。――だけど、
「なに、
「最初は切れ切れでよく判らなかったんですけど、〝もう帰りたいです、
「ふうむ。
栄はそう云って、美青年の穿いたジーンズの裾を
――と、栄は、
「おや」と云って青年の皮膚を指で
栄の指摘を受けて、三上看護師は国手の
「何ですか?」
と眼を丸くしている。栄は313号室の灯りを点けた。蛍光灯の光の下で、河原国手は改めて、
「ほら、よく見てご覧」と言って、指先を三上看護師の鼻面に突き付けた。「何か、あるだろう」
「ああ」
だが、河原栄はそのコメントには満足しなかった。
「これは塩なんかじゃないね。もっと粗く、ざらざらしている」指先でその感触を確かめ、「
河原栄は云いさま胸のPHSを取り出し、長野の番号にかけた。長野は直ぐに出た。
「お呼びですか?
「うむ。一寸気になるものがあるのだ。恐らくは何かの結晶だと思う」
「結晶ですか。臭いと味は?」
栄は先ず鼻で嗅ぎ、
「
「そうですか。判りました、
長野は言に違わず、五分後には313号室にやって来た。
「済まないな、忙しいところ」
栄が言うと、
「いや、今日はこれで時間のある方ですよ。定期尿検査と、あと血液検査が数件ですから」と笑い、「それで、ご用は?」
「ああ。この――患者の皮膚に付着しているのだが、どうやら全身に付いているようなのだ」
長野はプラスティックのサンプル・ケースと刷毛を取り出した。ケースは内部が四分割されている。
「じゃあ、これで採取しましょう。顔と胸、背中と足、それでいいですか?」
「ああ、構わん」
長野は手慣れた仕種で刷毛を使い、青年の身体を動かさぬよう細心の注意を払い、サンプル・ケースに粉末を収めていった。その作業が済むと、栄は長野に、
「ああ、きみにはそれが何か、見当は付くかね?」
と問うた。すると、長野は
「ええ、まあ大体はね」と答えた。「
「で、何かね?」
栄は
「組成式とか分子量なら
なることなら、推測が外れていることを祈りますよ、と不気味な
栄は三上看護師と共に、うっそりとした不安を感じながら長野の背中を見送ったのだった。
――その時、栄のPHSが鳴った。
「院長、宜しければ回診をお願いしたいのですけれども」
下の診察室で患者に応対する要はなかったものの、その代わり今日は各閉鎖病棟それぞれの入院患者の
「ああ、そうだった。諒解しました」
栄は三上の方を向いて、
「この…患者に何か変化があったら、わたしに
と言った。三上は、
「はい、判っております」
とだけ答えた。栄は三上に向かって頷き掛けると、電灯を消して313号室を後にした。
看護師を伴い、栄は全病棟の回診に一時間半を要した。その間、
河原国手は回診を終えると
「もしもし」
栄は
「結果が出ました。――いや、結果自体は一時間も前に出ていたんだが、院長が回診中だということを思い出しましてね。…それから、我が眼を疑った、ということもあったので、再度機械に掛けたんです。ところが、やはり一回目と同じ結果しか出ませんでね…。ところで院長、一つお訊きして宜しいですか?」
「うむ」
答える栄の声は
「あの患者、一体どういう
栄は
「それは、言えんな」と答えた。「申し訳ないが、我われもあの患者のことは、何も判らんのだ」
「そうですか」長野はすんなりと栄の言を受け入れた。「では、宜しいですか?」
「うむ」
「光学顕微鏡で一寸見ただけで大体目星は付きましたがね。あの患者の身体に付着していたのは、顔、胸、背中、右足とも、
「そうか。――モルヒネは…」
「モルヒネが検出されたのは体内のみです。体表からは一切検出されませんでした」
「そうか」
「はい」
二人の間に
「体内からも高濃度のコカイン代謝物質が検出され、そればかりか身体の表面にも付着している。これは、どう見ても
「いや、それはできないのだ」栄は
長野は五秒ほど沈黙を
「判りました」と答えた。「他言も無用、ということですね?」
「ああ。――理解して頂けて、助かりますよ」
「いやいや。こちらは院長の意の
「済まない。
そう言って、河原栄は通信を切った。
頭の中は
――ほぼ純物質の状態でコカインが全身の体表から? 一体誰が、何を目的として、どうしてあの青年をあの様な状態におくのだ?
栄は落ち着かず、
理解ができない。
その時、PHSが
「もしもし」
「三上です。あの、…患者さんの様子がおかしくなって来ました。
「判った。
栄は院長室を飛び出すと、階段を急いで降りて313号室に向かった。ノックもせずに暗い室内に
青年は
と、不意に青年の動作が
三上看護師は、職業的な冷静さで青年の周囲に所狭しと置かれた機器類のディスプレイを見て、
「心肺停止状態です」三上看護師は
「いや」と院長は考えながら言葉を口にした。「もう望みはあるまい。我われにできる手は尽くした、といっていいだろう。この
二人は眼を
「では、死亡診断書を…」
「要らん」栄は短く言った。「
「では…」
席を立って外へ出ようとする三上を栄は引き留めた。
「いや、きみにはここにいて貰わなくては困る。誰も来ないよう、見ていて欲しいのだ。――当院の全職員には、313号室への立ち入りを禁じる旨、触れを出すが、患者が迷い込むかも判らん。そういった
「判りました」
「それから、この件は無論だが他言無用だ」
「承知しております」
「
栄は313号室を後にして、院長室に戻った。
相談室にひとがいるような場合は大概留守番電話に切り替わるのだが、その日は好運なことに、憲吉は三度目の呼び出し音で出た。
「はい」
学生時代から変わらぬ、
「朝話した、急患のことなんだが」
「うむ。どうだ?」
「今さっき、旅立った」
「そうか…。まあ、
「いや、それが…」
栄は憲吉にことの次第を
「そいつぁ…
と呟くように言った。栄は、
「そうなんだよ」と言った。そこに至って、改めて栄は、自分の胸に暖かな血潮が流れ込むのを感じたのである。「他には誰にも話す訳には行かんのだ…。警察にも話せない、と云うのは、個人的な
憲吉は、
「まあ、落ち着けよ。――今日はおれも幸い暇だ。厄介ごとは持ち込まれていない。だから、風邪を引いて熱っぽい、とでも言って、午後…そうだな、二時か三時にはここを出よう。で、お宅をお伺いする。お客さんは、それまで安置しておいてくれないか」
「判った。済まない。そうして貰えると
「なに、お互い様だ」
そう言って、憲吉は笑った。
電話が切れた後も、栄は
けれども、入院許可の書類への署名や、障害者年金の受給申し込みに必要な診断書の作成など、院長としての事務仕事が待っていることを直ぐに思い出し、そういった
――さて、
栄は考えながら、胃の痛みを覚えていた。
その時、誰かが院長室のドアを控え目にノックした。ドアの
「はい」
と
「失礼します」と言って入って来たのは雪村師長だった。「院長――」
「うむ」
雪村は後ろ手にドアを閉めると、低声で、
「あの急患、なくなられたそうで」
「ああ」
「それで、この後は…」
言い差す雪村を、栄は手で制し、
「何とかする。心配は無用だ」
とだけ言った。
「そうですか、何か…」
「もう、いい」河原は幾らか大きな声で口を挟み、再び「心配は無用だ」
雪村は何か感ずる所があったらしく、
「判りました」
と言った。それから、開いた弁当箱の載った
「お昼は、もう召し上がりました?」
と問うた。栄は
「いや、
と言って
「院長、これから何があるか判りませんし、今のうち召し上がっておいた方が身の為ですよ」
と忠告した。院長は、
「うむ。
雪村は、
「判ります」少し笑って、「わたしも、昼食を取るのに
栄が、
「用はそれだけかね?」
問うと、
「――あ、浜田さんの障害者年金の件で…」
「ああ、それなら書類はもう出来ている」
栄は卓上から診断書を取り上げて手渡した。栄は、
「
と言い残して院長室から
――憲吉は一体どうするつもりなのだろう? 何か当てがあるのだろうか?
栄は食べながら考える。
――
考えながらではあったが、栄は何とか弁当を完食した。
昼食後、自席に座った
それから覚醒して時計を見ると、午後一時半を回っていることに心付き、慌てて立ち上がった。革製のデスク・チェアが背後の灰色をした事務用ラックにぶつかった。
――しまった。うっかり寝入ってしまったか。
栄は白衣に袖を通すと、院長室を後にした。
ノックをし、三上の
「何か、異常な点はなかったかね?」
栄が問うと、三上は、
「ええ、先ず、今朝方も指摘した、
「ふむ」院長栄は気難しい
三上看護師は
「いいえ。身元の特定に
「そうか…」
「先生、この
「うむ。早急に地下に移した方が得策だな。――が、もう少し待って欲しい。わたしの知り合いが来て、見てくれることになっている」
「そうですか。…あの、それから、あの足首の刺突傷のことなんですが」
「うむ。どうかしたかね?」
「はい。傷周辺部の組織をごく部分的に採取して、長野さんに顕微鏡で見て頂いたんですが」
「ほう。どうしてそんなことを?」
栄が問うと、三上看護師は
「あのう、余計なことかとも思ったのですが、余り気になったものですから、わたしが個人裁量でお願いいたしました」
と答えた。
「ふむ。――それで、
「それが…、ヒトの組織細胞に混じって、繊維状の植物細胞と思われるものが確認されたそうなんです」
栄国手は右眉を上げた。
「なに? 植物細胞だって? 確かかね?」
「ええ。細胞壁に、葉緑体、それから中心液胞も見られるので、恐らく間違いないだろう、と
「ふうむ」河原栄は思わず右手を
その時、
「どなたかな?」
と声を殺して問うた。すると、同様な
「お客さまです、院長」
と返って来た。栄はドアを開けた。
雪村師長の後から入って来た姿を見て、栄は幾分か救われた気がした。眼鏡を掛けた浅黒い顔はそろそろ還暦を迎える頃だったが、相変わらず
「よう」栄は昔の学生言葉にならぬ様気を付けて話した。「元気そうだな。よく来てくれた」
憲吉は微笑を
「おい、ここにいるひとたちは大丈夫なのかい?」
と問うた。栄は頷き返し、
「ああ、大丈夫だ。早速見てくれないか?」
憲吉は雪村と共に313号室に
「ちょっと、この
との言葉を受けて、看護師は手早く布を
憲吉は、青年の
それを聞いた憲吉は、
「なに、植物細胞だって?」と
「長野くんは、敏腕の薬剤師だ」栄は言った。「
憲吉は、
「そうだな。間違いがあると困るし、百見は何とやらと云うし、一寸行ってみるか。河原、案内を頼むよ」
長野は検査室の中で、退屈そうに新聞を読んでいた。二人が
「院長、何でしょう?」
栄は隣の憲吉を指し、
「
「ええ、その細胞でしたら、
と云って、二人を部屋の一隅へ連れて行った。憲吉は眼鏡をかけた儘レンズを覗いた。そして、
「…うむ、これは
「だろ?」
と栄。
「ああ。――併し、
「植物学者なんか呼んで、どうするんだ?」
栄が問うと、憲吉は、
「勿論、この植物細胞のDNA解析をして貰うのさ。遺伝情報さえ判れば、この
四階へ帰るエレヴェーターの中で、栄は、
「これ、単なる
「ああ。これには十中八九、犯罪が絡んでいるね。確実だと思う」
憲吉は即答した。栄は、
「ううむ。この
「
「うむ。それが
「判った」憲吉は間を
それを聞いた栄は「ええっ?」と言って片眉を上げた。
その時、エレヴェーターは四階に着き、二人は
「……何か、
栄が問うと、憲吉は、
「うむ、ないでもないさ」
「どんな? ――それも、闇、かね?」
「まぁ、半分は闇だな。それがバレなきゃ、堂々と表に出せる」
「具体的に、どんな話なのだ。もっと具体的に聞かせてくれんか?」
「ああ。実はな、おれの
「ほう。そんな
「いやぁ。平たく言ってみりゃ、
「ふうむ」
栄が
憲吉の話に
「ほう。それは
憲吉は美男子ではないが愛嬌があり、医師を目指していただけあって、本人も元々ひとが好きなのだろう、それがそんなことを言うとは栄には
「どうして、って…、形容するべき上手い表現が見当たらんが、
「へえ。じゃあひょっとしてこっちの…」
「いやいや。――まぁ、八九三も怖いには怖いが、そういう怖さとも違うな。言ってみれば、おれは見たことは一度もないが、亡霊に
「ふん。それでお前、
「いやぁ、元は喧嘩の
「そうか」
「うん。――ある時、おれは止まり木に座ってジントニックか何か
石井の話に
「おい
ともの凄い剣幕で喰って掛かった。石井はそこを、
「まぁ何だな、酒呑みの怒り上戸、ってやつだな」
と評する。
そこへ、憲吉は割って入り、何とか仲裁を試みた。憲吉は、
「ま、幽霊氏はいつも隅っこの席で大人しく
と
さて、憲吉は止まり木から降り立つと、田部井と共に
「これは連れ合いの不注意ですが、気付かなかったぼくも悪かった。どうぞ、田部井さんを殴ると仰有るなら、ぼくも一緒に殴って下さい」
と言った。そこで今埜は
「さ、よかったら
と
「
と
「ああ、済まね」
と言い置いて、後も振り返らず、
「
と
「いやいや。こう見えて、
と言って涼しい顔でショート・ホープに火を点けたものである。
そこまで聞いて。
「ふうむ」と河原栄は言った。「それが、馴れ初めかい」
「ああ、そうなんだ。それからは今埜くんも田部井さんもおれに頭が上がらないみたいでさ、おまけに二人とも仲良くなっちゃってさ」
「おいおい、幽霊だの何だの、
「うん。あの
「一体何をやって
「芸術家さ。地元では結構名の通った画家らしい」
「ふん。絵だけで喰って行けるのかい」
「そこさ。実家は土地持ちなんだね。
「そうか。…で、その今埜さんと田部井くんとは仲直りした、と云う訳か」
「ああ、こういうと何か作り話めいているけど、近頃は二人して近所のバーを飲み歩いてるよ」
「ははは」栄は
「ああ、そうなんだ。こういう関係だし、場合によってはちょいと
「ふうむ。
憲吉は
「
「口は
「うむ、それは
「そうか」栄は
「だが、この儘では
「ああ、そうだ」
石井は人差し指を一本立て、
「放置しておくのが
「判っている」
「特に怖いのはマスコミだよ。この病院で死んだことが
「ああ、そうだな」
「いっその事、警察に申し出たら
「――いや、それにはもう遅い。発生から時間が経ちすぎている。警察には話せない」
「じゃあ、やはり
「警察犬なんか連れて来て、一体何をする積もりだ?」
「無論、調べるのさ」
「調べる? おれは警察犬の扱い方なんざ知らんぜ」
「その辺は今埜に訊けばある程度判るだろう。基礎的なことさえ判れば、それで文句はないさ」
「…後でバレたら、問題になるぜ。そうなったら、その今埜さんも巻き添えにすることになる」
「大丈夫だ。
栄は腕組みをして
「うむ、じゃあそうするか」
と
「よし」憲吉はにやりと笑って言った。「じゃあ、早速呼んでみるか」
栄は戸惑って、
「おいおい、ここは
「無論さ。今夜、〝レッド・ダイヤモンド〟へ来るようにいうだけさ」
と言うと、憲吉は早速隠しからiPhoneを取り出し、電話を架けた。三十秒ほど待ったところで、相手が出た様子だった。
「やあ、石井ですが。今、構わない? ――ああ、そう。…それで、今夜折り入って
と口早に
「
「ああ、それは構わんが…、おいそれとバーでできる様な話じゃあない」
「判ってる。
と言って、また別の番号に架けた。
「ああ、〝砂場〟さん? 今日三名、座敷の個室で八時からお願いしたいんだけど…、あそうですか、じゃあ
と言って通話を終えた。余りにも話の展開が
「大丈夫かね、そんなに簡単に話を進めてしまって…」
と言ったが、憲吉は涼しい顔で、
「なに、ことは急を要するのだろう? だったら、手早く
「で、犬を借りて、あの仏さんの臭いを
「そうだ。その際、あの、…何つッたかね、あの第一遭遇者は?」
「又蔵だが」
「そうそう、その又蔵さんにもご
「うむ。伝えておく」
石井は腕時計を見た。
「おう、もうこんな時間か。――おれ、今日は退院の可否に関する三者会議に出なければならなくてさ。…じゃ、七時に〝レッド・ダイヤモンド〟に来てくれよ」
「判った」
石井はポケットから車のキィを取り出し、ちゃりちゃりと右手で
「おい、階段使わせて貰えねえかな。おれ、健康のために、
「そうか。…おれも階下へ降りるから、
院長室を出る際に、栄は階段室のキィを取った。
栄は職員用出入り口から石井憲吉を送りに出た。栄は一言、
「済まないな」
と言ったが、憲吉は
「済まないと云うなら、おれの方が沢山いうべきだろうな。何せ、ここでこうして
と言い、赤と黒の塗り分けという派手なミニ・クーパーに乗り込んだ。憲吉も相当な車好きで、このミニ・ジョン・クーパー・ペースマンは
栄は出入り口の
4WDのミニ・クーパーは、勢いよく発進し、坂道を上がって市道に出、見えなくなった。
栄はその足で臨床検査室に向かった。ドアをノックすると、
「はい。どちら様?」
というくぐもった声が聞こえた。
「わたしだ」
と栄が云うと、中でごそごそ音がして、ややあってから長野が顔を出した。
「院長、何か?」
と問う口調には明らかに不安が混じっていた。
「うむ。
「ああ、あれですか。一応プレパラートは固定して、保存はしてありますが…」
「その細胞のDNAを検査することは不可能かね?」
「ううむ」長野は鼻の下を
「
「ええ、何せサンプルが
「そうか」栄は無念そうに首を振った。「あの植物は一体何だろうね。きみには見当は付かんかね?」
長野は微かな笑みを
「いいえ。わたしの専門外ですから、何もいえませんね」
「この病院で、一番詳しそうなのは?」
「
「わたしはそれ
「ええ、そうです」
「コカインとヘロインに、未知の植物細胞か…」
栄は考える眼つきになって、ふらりと臨床検査室を後にした。
栄にも、これらの三者が〝別のもの〟であることは判っていた。併し、栄の中のどこかが、
――この、おれの中で今渦巻いている思いは一体何なのか。
栄は
――これは、やはり憲吉がもたらしたものだろうな。だが、おれには
栄は自分の席に着いた。年季の入った革張りのデスク・チェアが、栄の体重を受けてぎゅっ、と不平の声を上げた。栄はこめかみをゆっくりと揉みしだいた。訳の判らぬ予感は去ることがなく、反対に
栄は
――そうだ。家に電話しておかねばなるまい。
栄は受話器を取った。自宅に架けると、好都合なことに、電話口にはお手伝いの女性や娘ではなく、妻の富子が出た。
「もしもし。おれだが」
「あら、栄さん? こんな時間に珍しいわね」
栄はこの時ほど富子の勘の良さに感謝したことはなかった。
「ああ、実はそうなんだ。今は話せないが、一寸面倒なことになってな」
「じゃあ――」
「うむ。憲吉の手を借りた。今日は遅くなるから、夕食は要らない」
「あら…。お夕食も外で?」
栄が自宅で夕食を取らないのは、症例研究会や地域の医師会の定例会のある時程度で、年に十回ほどが精々である。
「そう。かなり厄介なことでな」
「そうですか…。判りました」
「お前たちは先に寝ていて構わん」
「はい」
と
「じゃあ、また」
栄が電話を切り、改めて
「はい。どうぞ」
カップを
「あの、院長…」
雪村看護師長だった。栄は、
「ああ、きみかね。――
とカップとソーサーをもう
「あの、院長…、午後の回診をお願いしたいのですが…」
「なに?」栄が言われて顔を上げると、もう間もなく午後四時になるところだった。これはしたり。「おや、もうこんな時間か…」
「ええ。そろそろ夕方の薬の時間ですし、それから夕食になります」
「そうだった、そうだった」栄はブランデー入りの
「山野さんが、
「山野さん?
「それから、鈴本さんですが、その、ご家族の方が見えて、引き取りたいと
症状の進んだ認知症の患者だった。
「ああ…、そうだな、その方が良いかも知れないな」
その時になって、栄は
この病院の患者たちの食事は朝、昼、夕食とも病棟中央のホールで供される。ここは療養型の施設であり、食事も自前で用意されることもあって、味覚にうるさい者でも不平不満を口にする患者は
その日、栄は普段より遅く回診を終えたので、病棟を去る時には、既に夕食のトレイを載せた台車がエレヴェーターから降ろされて、各患者の所定の席に配られるところだった。
栄は解錠して
栄は
今日は一日のうちに色々なことが起こり過ぎた。
「よし」
栄は口に出してそう言うと、掌で机上を一回叩き、気持ちを改めた。
時刻を確かめると、午後六時二〇分だった。間違いがなければ、六時半頃には憲吉はここへ来る。もう出ていないとまずい。
白衣を脱ぎ、背広の上着を着て栄が
「院長、お疲れ様です」
「うむ。――これから、例の件でひとと会ってくる」
「313号室のお客さんは――」
「
「判りました。身元は未だ――」
「そう、判らん。それを探す
「回診などは小倉先生にお任せしても――」
「うむ、仕方がないな」栄は溜め息を吐いた。「小倉くんは未だここへ来て日が浅いし、
栄はそう言い置くと、階段を下って一階に降りた。
石井憲吉の赤いミニ・クーパーは、時間の十分も前にやって来た。そして、栄が乗り込むと、くだくだしい挨拶など抜きに
憲吉はミニを丸で自分の手足ででもあるかの
肝心の店は、
時間が早いこともあって、〝レッド・ダイヤモンド〟には先客はおらず、憲吉は迷わず一番奥のボックス席を占めた。バーのマスターは、カウンターの奥から身を乗り出すようにして、そこは四人様用の席なんですが…、と怖ず怖ずと言ったが、憲吉は、
「なに、これからまた客が来るのさ。ちょっと大事な話がしたくてね」
と涼しい顔で軽くいなしてしまった。
今埜が姿を見せたのは、時刻の十五分ほど後のことだった。今埜の姿を認めると、それまでグリッシーニとチーズでオン・ザ・ロックを
灰色の上下とループタイ、という芸術家らしくなく冴えない出で立ちの今埜は、栄の存在が気に懸かるらしく、レッド・アイを註文してからちらちら栄の方に視線を送っていたが、それと見た憲吉が、
「こちら、精神科医の河原栄先生」
と紹介すると、改めて頭を下げて、神妙な
「初めまして。
と言った。
憲吉は、そこから急に声のトーンを落として、
「で、話なんだが」
と切り出した。
「それ、どんな話です?」今埜は恐る恐る問う。「ヤバい話ですか?」
「いやいや」と憲吉は今埜を
「どんな話です?」
「じゃあ、河岸を変えよう。〝砂場〟に席を取ってあるんだ。参りましょう」
と言うと立ち上がり、三人分の会計を済ませると、
「こいつは一体、
と問うた。栄は、
「なに、そう面倒な話ではないんだよ。ちょっと手を貸して欲しいことがある。それだけです」
と、優しく今埜の背を押した。
今埜が〝レッド・ダイヤモンド〟までどういう足で来たのかは
憲吉は仲居に、密談があるので、と断り、誂えた酒や料理が
「今持ち上がっている
栄と憲吉が
「そうだな、一週間程度なら、お貸しできないことはないと思う」と言った。「警察に対しては特に報告することもなかろう。だが、扱いには気を付けて下さいよ。話に
憲吉は
「そうか、協力して頂けますか。それは
と云って、どこから取り出したものやら、紙包みを今埜に手渡した。今埜は恐縮した表情で、両手で押し頂くようにそれを受け取り、
「犬を渡すのは、いつが都合いいかね?」
憲吉は栄を見やり、
「明日は…どうだ? 夜の都合は」
「いきなりだな。…まあ、
「いちばん変なのは、あの青年をあのような状態で死に至らしめた奴だよ。そうとは思わんか?」
「ああ、そうだな」
「一体どんな奴らなのか判らんが、相当用心して掛かった方が良さそうだぜ」
「うむ、そうだな…あ、おれは…」
言い
「おれは…済まんが…もう…」
栄の様子を
「帰るか」言うが早いか立ち上がった。「じゃ、お宅まで送ろう。今埜くんも乗っていくかね?」
ミニ・クーパーの助手席に潜り込みながら栄は、
――この年で大層元気なものだなあ、憲吉は。
とつくづく思い入った次第。
栄の住まいの前に車を横付けすると、憲吉は、
「おい、明日は仕事、休めよ」
と言った。
「仕事を?
「当たり前だろう。本業より大事な仕事が、明日の夜控えているんだぜ。それまで
「
「そんな言葉を言うのは未だ早いぜ」憲吉は
「うむ。又蔵にも声はかけておく」
「そうしてくれ。明日は晩の七時に
まあそれは先のことだが、と言い残し、憲吉のミニ・クーパーは去って行った。
栄が見ると、普段は消してある
「今夜はこんなに遅くなって、一体どうしたんです? 患者さんにでも、…何か、あったんですか?」
栄は富子には背中を見せて座り、下を向いて靴を脱ぎながら、
「――まあ、そんな所だ。云っても
「そうですか。お夕食は?」
「外で済ませた」
「じゃあ、お風呂に入ります?」
ちょっと考えて、
「ああ――、今日はかなり疲れているから」
「どうやらそのようね」
「明日の朝、シャワーを浴びて出る」
「じゃあ、もうお休みに?」
「うむ。…その前に、電話を架けなければならん」
栄は先ず自分の寝室へ行って、ネクタイを解いて着替えをした。首を回すと、溜まった疲労のためにぼきぼきと音がする。
着替えを済ませると、書斎の電話台へ向かった。番号を押すと、夕子が出た。相手が栄と判ると何やらもの問いたげだったが、栄は直ぐに又蔵を頼んだ。
「もしもし」
「ああ。又さん、わたしだが」
又蔵は
「あ、栄さんか。――あの後、一体どうしたい?」
「うん。一応処置はした。…所で、明日の晩は空いているかな? 晩の七時過ぎなんだけれど」
「――ああ、空いていることは空いているが…。何用だい?」
「いや、今回の案件は
「――――警察関係かい?」
「いやいや、違う。その辺は安心してくれていい」
「じゃ、興信所かね?」
「いや、ま、云ってみれば〝私設警察〟とでも云うべきものかな」
「白黒のは、出て来ないんだな?」
「ああ。その辺は堅く約束する。大船に乗ったつもりでいてくれていい」
「そうか」
栄には、安堵のあまり床に倒れそうになっている又蔵の姿が眼に
又蔵は、
「判った。七時過ぎだな。必ず在宅しているから」
「うむ。そうしてくれると
「判った。
栄は受話器を置いた。これで事前の準備が全て済んだ訳だ。栄は憲吉のスマートフォンに架電して、首尾を報告した。憲吉も満足そうに電話を切った。
そして翌朝、平生なら午前六時には
「栄さん、もう起きる時を
「ああ」栄は
「ずきずきするんですか?」
「うむ。疼痛がする」
と、富子はほら見なさい、と言わぬばかりに、
「いつも言ってるじゃありませんか。規則正しい生活をしなければ、それこそ〝医者の不養生〟もいいところですよ、って。それに昨日はお酒を呑んで来たのでしょう。呑めないのに無理して付き合うからこういう眼に遭うんです。――今日、急を要する患者さんはいるんですか?」
「いや、いないこともないが、藤堂くんが代わりにやってくれるだろうから」
「じゃあ、病院にはあたしが電話しておきますから、大人しくしておいでなさい」
「済まないな。――実は、晩にちょっと
「どんな用です?」
「酒は出ないが、医師会の集まりでちょっと…」
「そうですか。それはまあ、体調次第で決めましょう。今日はベッドでゆっくりすることね」
富子はやれやれ、と云いながら出て行った。
朝食と昼食は富子が部屋まで運んでくれた。朝は梅干しの粥に、実のない味噌汁。昼は焙じ茶と何も塗っていないトースト二枚。栄は一日ベッドにいて、近年の精神病に関する
そして夕刻になった。
――やれやれ、
栄はベッドの上でう~むと
そこではたと手が止まった。
――一体、今夜はどの服が
今日は屋外へ出ての作業もあるだろうから、本当なら作業着でも着て行くところだ。実際、栄のロッカーの中には、休日の庭掃除の折に使う、グレーの作業着上下が揃っていた。併し、今夜はそんなものを着て出れば、妻の富子ばかりでなく、娘のアリサや孫の祥吾にまで奇異な印象を与えてしまうことだろう。それというのも、
どれがいいか
すると、丁度夕食を終えたらしい富子が、お手伝いの女の子と一緒に食器をダイニングからキッチンへ運んでいるところだった。富子は栄の出で立ちをみて、
「あら」と言った。「何だか見慣れない恰好をしますのね。そんな安っぽい背広でいいんですか?」
「ああ、今日は気の置けないひとばかりだから、構わないよ」
「車で出ます?」
「いや、迎えに来てくれる手筈になっているんだが」時計を見て、「あと十分もしたら来るよ。――帰りは、少し遅くなるかも知れない」
栄がそういうと、富子は少し顔を曇らせて見せた。
「今日はお粥とトーストしか召し上がっていないじゃないの。夕食は取らないで平気なんですか? それから、何よりお身体は本当なんですか?」
「ああ、心配ない。空腹なら何か腹に入れるさ。――じゃあ、そろそろ時間だから外に出るとするか」
栄は一番よれよれの靴を
この近辺は静かな住宅街で、夜も七時を過ぎると車の往来もぐっと少なくなる地区だった。
門の前でまっていると、右手からヘッドライトが接近するのが見えた。石井のミニだろう。
助手席側の窓を巻き下ろし、憲吉は栄の方に首を伸ばすと、
「まあ、乗ってくれや。今埜さんはもう乗ってる。後は韮崎の…、工藤さん、と云ったかな? それだけだ。この車は定員が四人だから丁度良かった。――今日は仕事、きちんと休んだのだろうな?」
「ああ」乗り込みながら栄は言った。「おかげで女房に病人扱いされて大変だった。空腹で
「そんなことだと思って、菓子パンを買ってきておいた」と云って、助手席の
栄が見ると、ランチパックやコッペパン、黒糖パンなどが入っている。ご
車が発進する際、栄は早速茹で卵のランチパックを開けてぱくついていたのだが、ちらりと見ると、復た門灯も玄関灯も共に点っていた。
――今夜も富子はおれの帰りを寝ずに待つつもりなのだろうか。
栄は
しかしそんな栄の思いをよそに、憲吉は車を出した。
「おい、河原」憲吉は云った。「あの…工藤さんの家、ってのは、どう行けばいいんだい?」
栄は口をもぐもぐさせながら、
「ああ、それなら近道がある。二〇分くらいで着くよ」
と答えた。
憲吉は栄の指示通りにミニ・ジョン・クーパー・ワークス・ペースマンを駆った。
二〇分もせずに憲吉は工藤家の門前に車を乗り付けた。
又蔵は既に家の前で待っていた。
憲吉は一度車から降り立ち、
「お初にお目にかかります。河原くんの友人の、石井と申します」
と
「あ、はあ、
と挨拶した。憲吉はきびきびした動作で運転席の背を倒し、又蔵に後部座席を「どうぞ」と勧めた。
又蔵は逆らわずに乗り込んだが、間髪を容れず、
「うひゃあッ!」
と叫び声をあげた。
栄が振り向くと、椅子が二脚独立して据え付けられた恰好になっている後部座席の、栄の後ろには今埜が大人しく座っていたのだけれど、両方の座席の中間に割と大型の犬が一頭いて、それが新来の
今埜はそれと見て、
「ああ、これは警察犬の〝レジェ〟号ですよ。今夜必要だそうなので、県警には無届けで連れてきました。――怪しいものに出会さないかぎりはごく静かにしていますから、ご安心なさい」
と言って又蔵に挨拶した。
又蔵は怖々とミニ・クーパー・ペースマンに乗り込み、又蔵の道案内で現場へ向かった。県道二七号線を昇仙峡方面へ向かい、中央道のインターチェンジを過ぎ、人気のないレストランを過ぎた辺りで、又蔵老人は、
「ここだ、ここです」
と叫んだ。
憲吉はハザード・ランプを点け、路肩に車を寄せて停め、四人と一匹、皆を外に出した。
と、早速〝レジェ〟号が、
――ワウン、ワン、ワン!
と鳴いて路上を嗅ぎ回り出した。
憲吉は
「〝レジェ〟くんには、何を嗅ぎ出すように仕付けてあるの?」
と問うた。今埜は淡々と、
「指定された
すると憲吉は、
「結構、結構」と言ったが、すぐ、「――じゃあ、どれに反応しているかは、判らない訳だ」
今埜は、ちょっと言葉に詰まったが、
「――ええ、まあね。ただ、ここで現にこうして探り出している、何かを嗅ぎ出している、ということは、やはりこの辺に何か御法度な…禁制品がある、ということですので、こうやって調査を続ける意義は十分にあると思いますがね」
「そうだな。――じゃ、続けようか」
憲吉は、又蔵に向かって、
「あの青年と遭遇なさったのは、ここなんですね?」
と念を押すように問うた。又蔵は、
「はい、
と、今埜が、
「ん、
と言う。
〝レジェ〟号は、竹林と熊笹の茂みの間にあるちょっとした窪地へと今埜を引っ張って行った。この近辺には街路灯もなく、
〝レジェ〟号は
「うん? ああ、ここか。よしよし、よくやってくれた」
今埜はそう言うと、ウェスト・ポーチからビーフ・ジャーキーか何かを取り出し、〝レジェ〟号に食べさせた。
今埜は、地面の一点をどん、と踏み締め、憲吉に、
「石井さん、ここだそうですよ。――少なくとも奴さんはそう云ってます」
と言った。
「そこ? 何もないじゃないか」
憲吉は言った。栄も同じ思いだった。今埜が踏んだのは、ただの草地で、他には何もないのだ。
「
四人は
一番最初に、沈黙を破って行動を起こしたのは憲吉だった。栄は、大学時代から憲吉が一番最初に動く人間だったことを思い起こした。
憲吉は、懐中電灯を点し、光の強さを最大(MAX)にして、〝レジェ〟号が止まった辺りで、しゃがみ込み、草の露でズボンが濡れるのも構わずに、夢中で詳しく調べていた。――と、ものの二、三分も調べ回っていた頃だろうか、
「おおっと、こりゃ…」と声を上げた。「ちょっと、これを見て」
三人と一頭は憲吉の周りに集まった。憲吉は、
「そら、これを見て」
と言って、イヌノフグリの群生する地面の一点を指した。そこへ憲吉が懐中電灯を差し付けると、金属性の銀色が光った。憲吉が懐中電灯でそれを辿っていくと、三人にもそれが円形を成していることが、火を見るより明らかに判った。
憲吉は、珍しく
「こいつは、地下に通じる、何かの入り口じゃないかな」
と言った。
今埜は〝レジェ〟号の世話をしている。又蔵は、もう関わりたくない・これ
「憲吉よ、こいつは何かな?」
憲吉が左手で下草を抑え、右手の灯火で強い光を浴びせると、それは鍵穴と六桁の暗証番号を備えた錠前だった。
憲吉と栄は思わず顔を見合わせた。
「こいつは…」
「ああ、明らかに人工物だ…。
「ああ。この中では…黒ミサでも行われているのかね」
こうして、いつでも何かしらジョークを口にするのも憲吉の
「マリファナ・パーティ、という訳ではなさそうだな」
憲吉は栄にちらりと眼をやった。
「ああ。――
「うむ…」憲吉の
「そうだ。――だが、おれは
栄は苦笑した。
「あれから四〇ウン年経っても、お前の性分は変わらないなあ」
「ああ。三つ子百まで、ってやつさ。――それより、お前は一体どうする?
「いや、〝義を見てせざるは勇なきなり〟だ。お前に付いていくさ」
「本気だな?」
「ああ。――この
「そうか。よし」
「ところで、具体的にこれからどういう行動を起こすのか、当てはあるのか?」
「うむ。取り敢えずそちらの方に目立たぬよう気を遣って監視カメラでも設置しようか、と思っている」
「大丈夫か? 気付かれたらどうしようもないぞ」
「ああ、その点は
「――いや、判らん」
「ここに出入りしている奴――或いは連中は、一体どういう交通手段を使ってここに来ていると思う?」
栄ははたと膝を打った。そして、精一杯真顔を作って、
「――観光バスとか」
栄がそう言うと、憲吉はクックッ、と笑いだし、
「全く、いい勘してるぜ、栄はさ」憲吉は笑いと共に滲んだ涙を拭って言った。「さて、車で来ている、というのはさ、おれもその通りだ、と思うね。だが、問題は、お前さんからの注意の通り、相手は何人いて、何を目的として、一体どのくらいの規模の車輌で来ているのか、ということだな」と、時計を見て、「お、いかん、もうこんな時間か。今夜はもうそろそろ引き揚げた方がよさそうな
そう言うが早いか、憲吉は、少し離れて様子を
「
と叫んだ。四人と一頭が車に乗り込むと、憲吉は早速車を発進させた。
「今夜は、お手数お掛けしまして申し訳ないです」と口ごもった挨拶をした。そして、
と一番の
憲吉は、
「ご心配なく。もうご厄介をお掛けすることはありませんよ。――
と言って、無遠慮に笑った。
又蔵は車が見えなくなるまで自宅の前で見送っているのが、栄にもバックミラーで見てとれた。
「
「ああ、結構飛ばしたからな。――それに、この車も四輪駆動だから、山道には強いんだよ」
憲吉は次に栄を自宅前で降ろした。
「これから、どうするつもりだ?」
「うん、
「うむ」栄は考えつつ答えた。「〝密葬〟にすることになるだろうな」
河原メンタルホスピタルの敷地の一番北西の
「そうだな」憲吉は
「じゃあ、今夜はお疲れさま、だったな。まったく」
憲吉は
「ああ、まったく、お疲れさまだよ」そして後部座席の
栄は苦笑して、
「ここの所ネズミ捕りが多いから、気を付けて行けよ」
と言い、発進するミニ・クーパーを見送った。
事態はその
その間、誰よりも辛い日々を送ったのは、河原栄であった。と云うのも、件の調査行の後、石井憲吉からは一切連絡が入らなかったからである。
それでも栄は、毎朝普段通りに起床し、アウディで出勤し、外来の診察と病棟の回診を
栄が待ち望んでいたのは、確たる情報だった。
例の青年は
栄が何となく上の空でいることは、当然ながら妻の富子も気付いていた。が、富子は長年連れ添った夫がこのような
「車の運転、気を付けて下さいよ。いいですか?」
と必ず言い含めた。栄はそれに対して、うむ、とも、ああ、とも付かぬ
その栄の懸念が破られたのは、調査に出てから十数日目の金曜日のことだった。
その時、身体が空いていた栄は、
――と、栄の胸ポケットのPHSがけたたましい音で鳴った。
栄はその着信音を聞いた瞬間、心臓が喉元まで
が
その時、栄の
けれども、いつまでも電話機を見つめていても
すると、耳に飛び込んできたのは、あの昔馴染みの石井憲吉の、明るくはあるがどことなく皮肉っぽくひねくれた声だった。栄が
「栄か」と憲吉の声は問うた。「河原栄、だな?」
「ああ」栄は掠れた声で答えた。「石井だな?」
「報せがあるんだ。誰かいるなら、
「今、院長室で独りなんだ。盗聴器でも取り付けられていない限りは、ひとの耳は全くないがね」
その
「盗聴器か」石井は
栄は憲吉の快活な笑い声を聞いて少し我を取り戻した。
「――それで、今日は何用だ?」
「無論、例の件に
「一体どんな報せだ?」
「当ててみろ」
「てんで判らんよ」
「実はな、あの件の詳細が、少しずつだが分かって来たんだ」
「そうか。――とすると、調査は
「うむ。…実を云えば、もう相手の人数と名前まで判っている。後はタイミングの問題だな」
「なに、そりゃあ大したものじゃないか。一体どこの誰だ、相手は何人だ?」
栄は思わず
「それが相手は一人なんだ。単独犯なんだよ。日本国籍を取得しているが、生国はアメリカ合衆国だ」
「――で、名前は?」
「アントニオ・マリャベッキ、という。どうやらイタリア系らしいな」
「ふむ。イタリア系アメリカ人のアントニオ・何たらか」
「マリャベッキ、だ」
「どうして調べた? ――ひょっとして、マフィアの…」
「違うちがう」憲吉は笑って、「簡単さ。――おれはあの翌日、昼間、車で現場に戻ったんだ。そうして、地面をよく見たのだ。すると、雑草の間の土の上に、車のタイヤの
「どこの車だ? 型式は?」
「テスラモーターズだよ。テスラ・モデルZX、というのが正式名称らしい」
長野に訊けば詳細なスペックが判るかも知れないな――、と栄はにやにや独り笑いを
「ふうむ。余り聞かないな」
「そりゃあ、そうだ。アメリカの電気自動車メーカーで、ラインナップはどれも一台何千万とするからな。
「そこまでは判ったが、一体どうやって購入者を特定したんだ?」
「そこは訊かないでくれないか。おれには何とも言えない」
憲吉には栄の知らぬ知人が――〝ウラの知人〟が複数いることは、栄が以前より憲吉との会話の端々から
「判った。続けてくれ」
「それで、おれはあの近辺に小型の監視カメラを取り付けて、マリャベッキが一体いつあそこに
「そうか。すると、明日の夜、ということになるな」
「そうなるな、実験上の話では。おれの存在は、未だ勘付かれていないようだし、話は早いほうがいい。だが、おれたちご老体お二人さまで行っても頼りないな。もっと若手で、この一件に就いて知っている、そういう男はいないか?」
栄は直ぐと思い付いた。
「いる。雪村くんだ」
「何をしている男だ?」
「お前も会っている
「ああ。いないようだ。――
「よし。じゃあ、早速雪村くんに話をするとして、明日の夜、
「諒解だ。復た車でお迎えに上がろう。土曜は午後十時頃来るのだが、火、木曜はいつも午後六時半頃来て、午後十時前には引き揚げるのがマリャベッキの通常の行動パターンらしい」
「それじゃあ、こちらへは午後九時過ぎに来て貰えればいいわけだ」
「そうだな。――午後九時十五分にそちらへ伺おう」
「
「勿論だ」
電話は切れた。栄は、その儘PHSで幸村を呼んだ。
翌午後八時半過ぎ、栄は雪村を伴って病院の職員用玄関に立ち、石井の赤いミニ・クーパーを待っていた。
前日夕刻、栄が雪村に一切合切を話して助力を
「判りました。お手伝いします」
と
二人は病棟でその日の昼食として供された品を二人分冷蔵庫に取り置きしてもらい、午後七時過ぎに温め直して院長室に運ばせた。メニューは肉うどんで、特別に餅も入れさせた。二人はそれとブランデー抜きの珈琲を飲みながら食事を平らげた。世には〝病院ミシュラン〟という冗談のような
雪村は、今夜の任務の詳細を知ってはいたけれども、
――恐らく雪村にも色々疑問などあるのだろうが、詳細を聞くと士気が
と師長の様子を見ながら考えていた。
約束の時間の五分前に石井憲吉のミニは来た。
雪村は、石井の顔を見るなり、
「ああ、あなたでしたか」
と言った。憲吉は、
「石井です。元医師の卵、今は某病院の相談員をしています」
と
「じゃあ、そろそろ」
栄は言い、車は発進した。憲吉は
〝現場〟に到着したのは午後九時半過ぎのことである。
栄が、
「おい、このお前さんの車はどうするんだい?」
と問うと、
「なに、もう少し上流に行ったところに、また別の
と石井は言う。栄と雪村が外に出ると、六月上旬のことで
それは栄の読んだ通りで、戻って来た憲吉は、
「さ、そこの竹林のなかで待とう。藪蚊がいるのはうるさいんだが、それを除けば案外過ごしやすいぜ」
三人は、林の中で息を凝らして待った。
そして、午後十時を数分過ぎた頃、果たして銀色の、この辺では滅多にお目に掛かる機会のない、いかにも
――ああ、そういえばこれは電気自動車なんだっけ。
と栄が暢気なことを考えて悠長に構えていると、
「今だ」
と叫ぶが早いか憲吉は年齢に不相応な
「そこまでだ、ドクター・マリャベッキ」
と宣告し、同時につかつかと歩み寄って
マリャベッキなる人物は、三人を眼にして最初驚愕と
「アイ・アム・ソーリー、バット、アイ・キャント・スピーク・ジャパニーズ。アイ・フィール・ヴェリー…」
そこで憲吉は、言葉を英語に切り替えた上で、
「わたしたちにはそのようなおとぼけは一切通用しない。現にわたしたちの許には、ここから解放されたか、あるいは必死で脱走した青年が来ている。青年は衰弱著しい情態だった。あなたには、この一件に就いての説明責任があると思うのだが、如何か? 若し十分な説明がなされないのなら、われわれはあなたの身柄を所轄警察署へ
とマリャベッキを
アントニオ・マリャベッキは、雪村のスタン・ガンを見ると、途端に戦意を喪失したものらしく、肩を大袈裟に
「下に、行きましょう。その方が話は早いです」
と日本語で言って、先日栄が見出した錠前に鍵を差し、暗証番号を入力しながら、マリャベッキ氏は、
「あの時脱走者が出たからロックを新たに取り付けたのだが…、遅かったようだわい」
とぶつぶつ言う。
暗証番号を入力し終えると、金属で縁取られた円形の蓋が持ち上がり、マリャベッキ氏はそれをずらした。中には勾配の急なコンクリートの
「ここ、アメニティ…、居住性は余りよくありません」
と言った。石井が列の最後尾から、叫ぶような声で、
「
と言った。
――憲吉のやつ、昂奮しているな。
と栄は思った。滅多にみられないことだった。
マリャベッキは、弱々しい声で、
「頼む、お願いですからわたしのこと、ポリスには言わないで欲しいのです。わたしはただの研究者です。一研究者にすぎません…。とても弱い存在です。ここでわたしが何をやっているか、お見せしますが、他言はしないで欲しいです。――いいですか、わたしは、人類の未来のための研究をしているのです」
「他言するなだと? そうは行くか。あなたは他人を自分の好き勝手にしようとしたではないか。その代償は払って貰わないとな」
と雪村が罵声を浴びせた。雪村も、鍛二の件があるために、通報できないことはよく知っているのだが、
軈て一行は階段を降りきった。
そこは、暗く、冷え冷えとした、何も見えるもののない空間だった。
マリャベッキは初め、
それを見た瞬間、栄は、若しかすると自分は発狂してしまうのではないか、とくらくらする頭で思った。
そこには、植物と複数の人間があった。が、その配置が異様だった。通常では考えられぬ状態だった。
植物は、高さが一・五メートルほどあり、二枚だけある巨大な葉はほぼ楕円形の形を取っており、縁には鋸歯状、即ちぎざぎざの巨大な
「こりゃ…」石井憲吉が乾いた声で言った。「こいつぁ、
その後を引き取るように、マリャベッキ博士は、
「さよう」と云った。「ハエトリグサ、とも呼ばれておりますがな。学名はDionaea muscipula、北米原産の食虫植物です。――
アントニオ・マリャベッキは立て板に水の如く、
栄はそれを聞きながら、ずっと以前、
――そう、そしてコカインは同時に昂奮薬でもあり、そのために南米のインディオは休息も碌に取らず、何十時間もスペイン人のために銀山で働き続けることができたのだったな。
栄はそう思い、アントニオ・マリャベッキ博士に、
「何も必要がないひとに
と問うた。
栄の問いに、マリャベッキは一つ
「さよう、少々奇異に見えることは承知しております。――だが諸君、こちらへどうぞおいでなさい」
と、博士は一行をその奇ッ怪な〝実験室〟に案内した。
その
「おい、見ろよ、なぜ美男美女ばかりなんだい?」
憲吉は軽く
「ああ、この男は、モデル事務所を装ってひと集めをしていたのさ。東京モデルオフィス――略してTMO。これほどダミー、ダミーした名前もないだろ?」
と吐き捨てる如く言った。
「さて、ここをご覧なさい」
アントニオ・マリャベッキ博士は、
アントニオ・マリャベッキは得々として説明を続ける。
「これ、この棘から、被験体の体内へはモルヒネが投与されるようになっています。コカインは、ご承知の通り、〝疲れ知らず〟の薬物です。モルヒネには陶酔作用があります。従って、この若者たち、わたしの審美眼に
栄は巨大ハエジゴクの
「栄養は…栄養はどうしているんだッ!?」
我慢しきれなくなったらしい雪村が怒声を浴びせた。アントニオ・マリャベッキ博士は、各犠牲者の口に差し込まれたチューブを指した。
「あれで、
「それは、どうかな」とは憲吉。「皆、ガリガリに
マリャベッキ博士は、そう問われると
「わたしは、母国アメリカ合衆国で、医学博士号、工学博士号、理学博士号を取得しました。無論ディプロマ・ミルなどではない、アイヴィ・リーグの大学で学んだのです。そして、わたしはひとつの夢を抱きました。それは、当時普及しかけていたパーソナル・コンピュータ、PCですな、その機能を人間の身体に移植し、一種のバイオ・コンピュータというものを創ることも可能なのではないか、ということでした。わたしは、それを試験するために何百匹ものマウスやチンパンジーを使い、論文を読み、更に多くの論文を書き、十数年に亘る構想を経て、最終的な研究を行うためにここ日本に居を移しました。
一同が見ると、犠牲者の頭部には電極が差し込まれ、そこから伸びるケーブルは最終的に一本に収束しているのだった。
「人間PC、即ちヒューマンPC。わたしはHPCという略称を用いていますが、これこそ次世代のパーソナル・コンピュータと呼ぶに相応しいものです。そして、それを創り出すためには、柔軟な思考活動の可能な人間の脳髄こそ最適なのです」
アントニオ・マリャベッキ博士は――
「その…犠牲者が皆美々たる容貌をしているのは、なぜだ?」
アントニオ・マリャベッキは肩を
「わたくしの、審美眼に適した容貌の人物を集めたのです」
と答える。
「じゃあ、知能指数などは、関係ないんだな?」
「はい。これは逆説的なことですが…、高い知能指数を示した人物よりも、
すると、憲吉が、
「――その、あんたのいう、人間パーソナル・コンピュータという代物だが、
と問う。マリャベッキ博士は、再び
「ヒューマン・パーソナル・コンピュータ、略してHPCは、人体にPCの機能をその儘詰め込んだもの、と考えて下さって、全く差し障りありません。脳には処理速度が実に十五ギガヘルツの、人体に適合した特殊なCPUを、バイオ・インストレーションという特別な方法で取り付け、これにより並の人体の通常の機能を遙かに
「つまり、頭脳が二つになる訳だな?」
とは憲吉。話の腰を折られたマリャベッキは、
「いいえ。――このCPUは十七のコアを持っています。
と答えた。コンピュータには詳しくない憲吉は目を白黒させる――余計に混乱したのだ。が、それを尻目に、アントニオ・マリャベッキは
「――また、胸部にはまたバイオ・インストレーション法を用いて、容量一テラバイトのハード・ディスク・ドライヴ即ちHDD、或いはシリコン製の記憶装置を設置します。ここに、OSはじめ必要な情報やアプリケーション・ソフトウェアの全てを
「…それから右腕の
「――そればかりではありません。ヒューマン・パーソナル・コンピュータでは、人体の眼のレンズ体に特殊な加工を施して、眼そのものがディスプレイとなるようにしてあります。つまりですね、皆さんの視界に、インターネットのウェブ・サイトを表示して情報を検索したり、書類の作業を行うことも可能なのですよ。そして、それらの情報を他人と共有したいな、と思った時には、腕のディスプレイ・ポートに機器を接続して、他人に示すこともできるのです」
アントニオ・マリャベッキ博士は
「――まあ、一応判ったが、要するに、それについて必要な計算の全てを、ここで、このひとたちを集めて、意識が
と確かめた。マリャベッキ博士は、嬉々とした様子で、
「はい。全く仰せの通りです」
と答えた。
雪村は、怒りを抑えきれない、といった口調で、
「いいですか、あんたは何の罪もない、
するとアントニオ・マリャベッキは、自信満々に、
「わたしは、ここで使っている――雇用している人びとは、犠牲だなどとんでもない、きちんと書面にサインも貰って、その上でここへ連れて来たのだ」
と言った。雪村は、
「サイン? へえ、どうせ酒でもカッ喰らわせて人事不省の状態にして、その上で署名させたのではないかね? ――あんたにだって、ここにいるひとたちにも、親やきょうだいのいることくらい、想像がつくだろうに。それを薬物中毒者にして…。あんたは犯罪者なのだぞ!!」
憲吉は、
「ドクター・アントニオ・マリャベッキ、あなたは非常に米国的なひとだ。つまり、いい意味でも悪い意味でも自信に満ち、そして多分に自己愛的だ。――
栄は、そこで気に懸かっていたことを訊きたいと思い、
「それで、ドクター・アントニオ・マリャベッキ、件のヒューマン・パーソナル・コンピュータは、どの辺まで完成した――」
と問い掛けたのだが、憲吉がそれを制し、小声で、
「アントニオ・マリャベッキには、研究のことに
と
「ドクター・アントニオ・マリャベッキ、今夜ここに揃っている我われは、別に〝法の番人〟を気取るわけではないのだが、それでも倫理的・道義的な観点からみた時、
と問うた。マリャベッキ博士は、それを聞いて
「
と言った。
「被害者には、
雪村が問うた。アントニオ・マリャベッキ博士は、
「わたしに、できるだけの手は尽くさせて貰うつもりです」
と小さな声でいう。それに対して雪村師長は、
「そんな、蚊の鳴くような声じゃ、何も聞こえないぞ!」
と怒号を浴びせた。マリャベッキはすくみ上がって、
「わたしに、できることは、させて貰いたいと思う」
と
「では、具体的にどういうことをなさるつもりなのか、その辺が聞きたい。成る丈具体的に願いますよ」
と問うた。それに対してマリャベッキ博士は、
「――先ず、わたしの雇用した社員をハエジゴクから解放して…」
と言い掛けたが、そこをすかさず雪村師長が、
「解放したって、痲薬中毒の身じゃないか。そこはどうするんだ?」
と問うた。マリャベッキ博士は、額に滲んだ汗をハンカチで拭い、二、三度深呼吸してから、
「薬物中毒者向け治療プログラムの整った病院などの施設が、日本にもあると思いますが、
と答えた。雪村師長は、
「――それで、あんたの事業は? ヒューマン・パーソナル・コンピュータを創るとかいうプロジェクトは、一体どうするんだ? 続けるのか?」
と問う。マリャベッキ氏は、荒い息を吐きながら、
「
「あんたは
「合衆国の銀行に…一〇〇万ドルほどの預金がある。それを使える」
そこで栄は、
「ちょっと待った」と
栄の言葉に、雪村師長は、
「じゃあ、どうするのが一番だというのですか?」
と問うた。栄は、マリャベッキ博士に向かって、
「ドクター・マリャベッキ、一つお訊きするが、ここの動力の源としては、一体何を使っているのかね?」
アントニオ・マリャベッキは、
「無停電電源方式を採っておるのだが…、それが何か?」
と答えた。栄は、それを聞くと、やっぱりな、と
「それなら、ここの患者たちは、この
「闇から闇へ――、という訳ですか、院長?」
雪村が
「河原の言葉にも一理あるな」と言う。「今ここにいる患者たちは、恐らく自分たちの置かれている情況も知らずに、幸福な夢の世界に遊んでいるのだろう。それなら、寿命が尽きるまでこの
と言った。それを聞いたマリャベッキはパッと顔を輝かせて、
「それじゃあ、わたしのプロジェクトも…」
と言い差したが、憲吉は、
「
それを耳にして、河原と雪村は驚いて憲吉を見た。
「一体、何をするつもりなんだ?」
河原栄は問うたが、憲吉は雪村に、
「スタン・ガンを出して、マリャベッキも連れてきてくれ。
と言って、憲吉が先頭に立って歩き出した。栄と雪村、それにマリャベッキも続いて外に出た。雨は降っておらず、代わりに気持ちの悪い黄褐色の月が出ていた。
憲吉は、マリャベッキに命じて自分のテスラに乗せた。その際、憲吉はマリャベッキから車のキィを取り上げて、マリャベッキが運転席に着くと、そちら側の窓を巻き下ろさせて、雪村に命じてスタン・ガンを当て、車の全てのロックを掛けた。
一体何をするつもりなのか判らず、当惑している栄と雪村に向かって、憲吉は、
「ちょっと、おれのミニに戻ってくる。取ってくるものがあるからさ。いいかい、マリャベッキには注意していてくれよ」
と言い、小走りに立ち去った。
憲吉は、ものの三、四分で戻って来た。両手に抱えられたものを見て、栄は眼を
「まさか、殺すのかっ!?」
栄は問うたが、憲吉は
そして、テスラのキィを使って一旦ドア・ロックを解除すると、助手席側の床に七輪を置き、練炭を入れて火を点けた。それを見たマリャベッキは、
「おお、わたし、まだ死にたくない。何でもしますからそれだけは勘弁して下さい。殺されるのは
などと
「なに、殺しやしないさ」
と言って、助手席側のドアを閉め、ロックし、時計を眺めた。
栄は憲吉に、
「
と問い掛けたが、憲吉はにやりと笑いを
「この男を無能にしてしまうのさ」
とだけ答えた。
車の中には、次第に不完全燃焼した練炭の煙が充満してくる。マリャベッキは
そして、十五分ほど経ったところで、憲吉は、
「そろそろ、
と言ってテスラのドア・ロックを解除した。けれども、マリャベッキは外に出てくる気配すら見せず、ただつくねんと運転席に座っているだけだ。
「どういうことなんだ?」
「どういうことなんです?」
同時に問う栄と雪村に向かって、憲吉は、
「なに、ある空間内で一酸化炭素がある濃度を超えると、その空間内にいる人間は、中毒症状を起こして、二、三歳児なみの知能になるのさ。無論この儘放っておけば中毒死するのだが、流石にそこまで酷なことはできないからね。ま、おれ流の制裁を加えたわけだ」
と涼しい顔である。栄は、
「――じゃあ、この後マリャベッキ博士は…」
「面倒だから、この際韮崎駅前にでもほっぽって置こうじゃないか」
その後、この一件から三月ほど経って、栄は件の穴蔵を見に行った。丁度、中秋の名月の候である。
すると、ここに囚われている犠牲者たちは、驚くべき変異を遂げていた。
皆、頭から自分のそれと形状・大きさ共に同等の〝果実〟を
――こりゃあ、丸で人間植物ではないか。
栄は気味が悪くなって、その夜はその
マリャベッキ博士の行方に
こうして、
尚、この収穫された〝果実〟に関しては、既に
○
「首」
――――「首」(文藝出版社刊)所収――――
わたしがそれと遭遇ったのは、大学構内、銀杏並木の下の道を歩いている時だった――、わたしはその日、勤務する大学の研究センターで日がな一日実験動物を相手にして過した後のことで、くたくたに疲れ切っており、だから道端に植わっている丈の高い銀杏の樹も見上げれば綺麗に陽光を透して見えたと思うのだが、気持ちの上ではそんな余裕などまるでなく、ただただ
北海道の秋は足早にやって来て直ぐに去って
――と、わたしが大学の所謂メイン・ストリートを抜けて出て行こうとした時、
扠、わたしはその物音、或いは聲を聴いて、そちらの方に初めて意識を向けた。そしてそれをみた、眼にした、眼に入れた、どう表現すればよいだろうか、ともかくわたしはそれを視覚的に認識した――、その時間と空間のなかに
それは一個の首であった、そう生首だった。けれども不思疑なことにその周囲には血痕や血糊と云ったものは一切みられず、恐らくはどこか別の場所で切断されて〝血抜き〟も施された情態でここへ運び込まれたものであるらしい。わたしは好奇の心に駆られて落ち葉の山に足を踏み入れ、その〝生首〟に接近せんとした。そろそろ夕闇の迫る刻限のことだったが、その首は薄暮のなかで微かに燐光を放つかにみえた。近寄ってみて分ったのは、どうやらその〝首〟は生きているらしい、とのことだった――、否、この眼で
そして、わたしが近づくと、自分の得た印象は精確だったことを知った……、首は生きていた、一体どういう態様で、と云う仔細の事項に就いては不分明だったが、
わたしは銀杏の樹の根元にしゃがんで首の傍らに腰を落とし、
わたしの住いは大学から歩いて十分ほどのところに在する単身者用のワンルームマンションだ。部屋にはほぼ何もない
わたしはその晩、スパゲティを茹でて塩と胡椒で簡単に味を付けるとビールと一緒に食べ、明日からの実験プロジェクトに関しコンピュータで
わたしは
が、そう
わたしはその夜、夢をみた。
夢の中で、わたしはあの〝首〟と
ひんやりと引き締まった外気、微かに
〝首〟はそこにいた。相変わらずエース・フレーリーのように半眼にした眼を時おりまたたきさせ、殆ど女性的といってもよいくらいに繊細に作り込まれた鼻梁や唇といった顔の
わたしはそれを両手でそっと摑むと、バッグに入れ、
それからわたしは〝首〟の
こいつが自分の〝
もうその頃になると、わたしの同僚も指導教授もわたしの〝趣味〟に就いては何も言わず、ただわたしが退学願を提出するのを待っている、と云った顔をしていた――、わたしは本当ならマックス・プランク脳研究所に留学する
が、わたしは決してへこたれている訳ではない。いつか近い日に、この〝首〟を培養して増やし、もっと合法な薬剤で栽培する方法を編み出して
○
ヴィジョンを見たあとの雅也は、非道く戸惑いを覚えた。
「これは――」
「そうです」赤坂は点頭した。「わたしが産まれる以前の記録です」
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