G.

 クウェンビーの言葉通り、クレイジーマンのハンドルさばきは堂に入ったものだった。最初の内、泥濘ぬかるみに入ったレンジ・ローヴァーは酷く揺れたが、クレイジーマンは鼻歌混じりでギアを時にオートマティック、時にマニュアルとたくみに入れ換え、アクセルとブレーキを操り、車は快速で駆けて行く。やれやれ、大したもんだ、と雅也は思った。

「診療所、って云うのは、何処にあるの?」

 問うと、リッチーは一寸片かた頬笑ほほえみして、

「場所は、そうだね、あのログハウスからは五マイル、ってとこだな」

 五マイル=約八キロか、と雅也は暗算する。

「医者が、いるんだよね?」

 すると、リッチーはた含み笑いをして、

「まあねえ」と言う。雅也がそれを見咎みとがめて、

「何だい、先刻さっきからニヤニヤして」

 と言うと、リッチー・クレイジーマンは遂に吹き出した。

「何だよ」

いや、済まん済まん。――いやぁ、一応医師みたいのはいるんだが…、ま着いて見りゃ判るよ」

 と相変わらずひとを喰ったような物言いをする。

 車は荒れ地を揺れに揺れながら走り、しばらく山道を進んだ後に左折して、右手に見えていたトラマール地帯は見えなくなった。その後、前方にはこんもりした森を載せた山地に行き当たり、車はた勾配に差し掛かった。馬手めて弓手ゆんでも深い常緑樹の森である。

 ――一体、この男、ぼくを何処に連れて行く積もりなんだろう?

 雅也が流石さすがに不安を覚えた所で、リッチーは漸っとアクセルをゆるめ、雅也もヘッドライトの先に一軒の小屋が建っているのが見えた。

「ここさ」リッチーは言った。「――まァ、連中ならうまいことしてくれるだろうな」

 とたぶつぶつつぶやく。それから何時いつもの声音こわねに戻り、

「いやァ、きみには世話になったなあ。こんな形でお別れしなきゃならないのは、実に残念だ。きみは、我われの為に一つブレイクスルーをやってくれたからなあ。いやあ、誠に残念だが仕方のないことだ。前途ぜんとの無事を心より祈るよ」

 車は停止し、クレイジーマンはエンジンを切って運転席から飛び降りた。雅也も、あちこち痛む身体を持て余しつつ地面に降りた。

 リッチーはず荷台から雅也の荷物を下ろしてくれた。それから、小石を敷き詰めた、小屋に通じる小道を歩き、小屋同様白く塗られた木のドアをこつこつ、とノックした。

 戸を叩いてからたっぷり一分間も経った頃だろうか、ドアは中から細めに開いた。中にいる人物は顔が定かに見えないが、リッチーと何やら話し合う声から男性だとは見当が付いた。――だが、非常に奇妙なことなのだけれど、その声には何処どことなく〝聞き覚え〟があった。

 ――ええっと、こう云うのは、〝既視感〟とは言わないのかな?

 僻耳ひがみみでないとすれば、しかすると昔の知り合いだったかも知れない、と思って、雅也が声の主を確かめに歩き出すのと同時に、ドアが開いてその人物は姿を現し、思わずのけぞった。

 それは、ジョン・レノンだったのだ。

 ――ええっ!?

 と雅也は驚き呆れて見直したのだが、何度見ても変わらない。けれども、雅也はどういう訳か、

 ――ああ、ほどね。

 とちる思いも得たのだった。それは、車中で見せたリッチー・クレイジーマンの態度に起因するものかも知れなかったのだが…。

 かく、雅也はいま、目の前にいる、丸縁の眼鏡を掛けた若い男を繁々しげしげと見直していた。

 雅也は眼をこすった。そして、もう一度白衣を着て聴診器をぶら下げた男の姿を眺めた。

 間違いない。しかし、

 ――奈何どうしてェ~ッ!?

 雅也は叫び出したくなる思いを必死でこらえた。

 ――いやいや違うよ、そんなはずはない。

 雅也の理性はそう訴えたが、本能はそれを否定するのだ。

 と、「じょん・れのん」氏は近付いて来て、雅也に右手を差し出した。雅也はふるえる手でそれを握り返した。男はにこやかに、

「今日は。インターンですが、ジョン・レノンと申します」

「ははあ」雅也は頭の中が白くなり、喉がからからにかわくのを覚えた。「…では、治療の方、お願いできますか?」

「もっちろん」ジョンは言った。「さ、中に這入はいって。ボアにまれただけなら、そんなに大事だいじにはいたらないと思うよ」

 クレイジーマンは、雅也の背を強く二、三度叩き、

「マサヤ、幸運を祈るよ」

 と大声で言い、大股おおまたに去って行った。

 雅也はジョンの後に従って木造の小屋に這入はいった。

 そこでもう一つ雅也は吃驚びっくりした。ジョンは奥に向かって、

「おおいポール、患者だぞ。新患だ」

 と、その言葉が終わるか終わらぬかの内に、手前に置かれた診察用ベッドの向こうの白いカーテンをまくって、ポール・マッカートニーそのひとが姿を見せたのである。ポールも矢張やはり白衣を着て、今白い手袋をはめる所だった。

「新患だって? 病状びょうじょうはどう?」そして雅也の方を見て、「此方こちらの方が患者さん?」

 ジョンは首肯しゅこうして、

「そう。トラマールボアにまれたので、消毒を頼まれた」

 すると、ポールは欠伸あくびでもころすような口調で、

「何だよ。――もう、腕がむずむずするんだよね。何かこう、もっとむつかしい患者はおらんものかね。日本脳炎とか、蚊が媒介する伝染病あたりは発生しないものかねえ」

「こら、おれたちはだインターンなんだぞ」

「あのう」

 雅也はずと呼び掛けた。二人は雅也を見た。

「お二人、大学はどちらをご卒業なさったんですか?」

 そう問われると、二人は顔を見合わせて黙ってしまった。

 雅也はそこで機転を利かせて、

「そうそう、オックスブリッジ、ってとこじゃないですか?」

 すると二人は声を揃えて、

「それ、いいじゃん!」

 ポールは、

「じゃ、早速新しい履歴書を書かないと」

 雅也は続けて、

「リンゴさんはどちらに?」

 ポールはかたすくめて、

「リンゴは話し方教室に行ってる」

 ジョンは、雅也の背を押し、

「さ、診察台に横になって。まれたのはどっち? 右? 左?」

 と言いつつ、手袋をはめた。

 ボアのきずは幸い深手ふかでではなかったようで、二人は手早く応対してくれ、処置は十五分も経てば済んだ。

「どうも有難ありがとう」雅也は言った。「助かったよ。――で、何ペカーリ払えば良いのかな?」

 ジョンとポールは顔を見合わせた。

此処ここではね、おカネは取らないんだよね」とジョンが眼鏡の玉をぬぐながら言った。「その代わり、一つだけぼくたちの要求を呑んで貰うことにしてる」

 雅也はたじろいだ。

「よ、要求? …例えば、どんな?」

「えーっとね」とポール。「色々あるけど、えず今の所一番差し迫っているのはさあ」

 そこで言辞げんじを切る。

「いるのは?」

 雅也はずと続きをうながす。と、ジョンが、

「いやぁ、大したことじゃあない。――先刻さっきまではリンゴがいたから支障ししょうなく進行できたのだが、二人になっちまってから出来なくなってさ」

「そうなんだよ。それで大弱りしていたところへ、あんたが来てくれたんだ」

「そう、そう。構わないから、一寸ちょっと入って欲しいんだよ」

「なっ、なっ、何に?」

 ジョンとポールは口を揃えて、

「ウノの仲間に入って欲しいんだ」

「うの?」と雅也。「それって…、イタリアで生まれたカード・ゲームのこと?」

 二人共声を揃えて、

「そうそう。それなんだ」

 と言った。ジョンはぽつりと、

「あのゲームはさ、絶対三人以上いないとおもろないんだよね」

 ポールも、

「そうそう。二人でやってると、必ずむなしくなって来るんだよね」

「相手が女の子ならだしも、ね」

「ああ、そう云うことかあ」雅也は云った。「じゃあ、早速」

「一寸、待って」とジョンが言った。「だ説明していなかったけど…」

 と、ポールが、

「えっ、言っちゃうの?」

「うう、先に言っておいた方が、少なくともフェアだと思うんだよね」

「何の話?」

「あのう、実はさ、リンゴの奴、どういう案配あんばいかウノが滅法めっぽう強くてさ、何時もぼくらの孰方どちらかが負けることになるんだ。それで、今日は一計を案じて、リンゴの奴めをひとつめちゃんこにやっつけてやろう、ってジョンと口裏を合わせていてさ。カードにちょい細工がしてあんの。んで、三人で、今日は〝罰ゲーム〟付きにしよう、ってことで合意して、その合意の上に立ってゲームをしよう、と云うことになってるの。そこまでは、OK?」

「う、うん」悪い予感がしたが、雅也は詮方せんかたなしにうなずいた。「それはいいけど、一体奈何どういう罰ゲーム?」

「それがさ」とジョンが云った。「バーボンの瓶に、タバスコを一本丸々流し込んだやつがあるんだよ。そいつを、一気呑みする、ってんだけど」

「ええーッ」雅也は驚愕きょうがくして両手もろてげた。「ぼく、ヘヴィ・リカーと辛いものは、一寸…」

 ポールは、

「大丈夫。それなら特例として、コークで割ってもいいよ」

「やれやれ。リンゴは一体何時なんじ頃帰って来る予定なの?」

「それがさ」ジョンは済まなさそうに、「今夜は泊まり込みコースだ、ってことだ」

「うひゃー…」

 ポールは雅也の背中をポンと叩いた。

「大丈夫、大丈夫。万一宿酔ふつかよいになったら、た治療してあげるからさ」

 そう言って、雅也は有無も云わさず奥へ連れ込まれた。

 白いカーテンの奥は医師の待機所になっているらしく、円形の卓子が置かれており、その上にカードが三人分配られていた。

「ええっと、ジョンはこの席だろ、ぼくは此処で…、マサヤはこの席だ」

 ポールに指図されるまま、雅也は唯々諾々いいだくだくと、もう生きた心地もせず席に着いた。

「じゃあ、ゲーム開始」

 ジョンが宣言して、ゲームは始まった。

 所が、こりゃ一寸妙だな、と云う感はゲーム開始直後からあった。雅也は、自分の手の中に、四枚カードを引かねばならない「ドロー・フォー」や、同じく二枚の「ドロー・ツー」といったカードを何枚も見出していたのだが、隣のポールの方がカードの枚数は明らかに多い。

 雅也は、まさか、とは思ったが、その「まさか」が「まさか」だったのだ。

 ゲームが進むに連れ、ポールの手にカードはどんどん蓄積して行き、逆にジョンと雅也のカードは見る見る減って行く。

「…ウノ」

 雅也が先に宣言した。その雅也の顔をちらりとうかがうポールの顔は蒼白そうはくだった。

 ジョンが青の「2」を出し、ポールはふるえる手でカードの山から一枚取った。

 雅也は赤の「2」を出し、ゲームをず脱けた。

 ジョンは赤の「ドロー・ツー」を出し、同時に「ウノ」を宣言した。

 ポールはそこで、

「ちょい、待ち」と言った。「こりゃあ、おかしいよ。きみらの手からはカードがどんどんなくなって行くと云うのに、ぼくの方には溜まる一方だ。これは筋書きと違う」

 ジョンは無関心そうな口振りで、

「ああ、そうらしいね」と言った。「でも、マサヤをその席に座らせたのはきみだぜ? リンゴが何処に座っていたか、失念しつねんしたきみの方に責任があるんじゃないのかなあ?」

「そうかな」とポール。「だけど、ぼく、タバスコって奴、大っ嫌いなんだけどな。何とか…」

「そりゃあ問題じゃないな」とジョンはけんもほろろに云う。「罰ゲームだって、そもそもきみが言い出したことでないの。だったら、負けたら負けたなりに、男らしく責任を取らないと」

「そ、そんなぁ」ポールはもうべそをきそうだった。「ぼ、ぼくは…」

 雅也は急にポールが気の毒になって来て、一つ申し出ることにした。

「よし、じゃあ、ぼくがその、タバスコ入りワイルド・ターキーとやらの代物を一緒に呑もう。半分ずつ呑めばいいだろう。それでどう?」

 それを聞いたジョンは、

「これこれ」と言った。「これは飽く迄、天狗鼻てんぐばなのリンゴくんをらしめるために考え出したことなのだよ。二人で一と瓶だって? 甘いあまい。一人で一本呑むべきですよ、ここは」

「だけど」と最早汪然おうぜんとしているポールは、「大体、当のリンゴ本人は此処ここにいないでないの」

 と、ジョンはどん、と卓子を叩き、

「いる、いないは問題(To be or not to be that's not )じゃないんだ。(question) 一番の喫緊きっきんは、やるのか、やらないのか、と云うことだよ」

 雅也は、

「じゃあ、どうせやるなら三人で楽しく呑もうや。この案はどう? 中々名案だと思うんだけど」

 するとジョンは鼻の穴を膨らませて、しばうなっていたが、やがて、

「ようし」と言った。「リンゴをらしめるのはまたの機会に譲ろう。此処ここは三人で酒盛りをしようでないの」

「助かったぁ」

 ポールは心底ほっとした顔で言い、立ち上がるとドアを開けてへやを出て行ったが、ぐにバーボンの瓶を抱えて戻って来た。それを見たジョンは、

「あれっ、タバスコは?」

「えぇーっ」ポールは異を唱える。「りタバスコ、入れるの?」

「うん」ジョンは何と言うこともなしにうなずく。「勿論もちろん。ぼく、タバスコ入りのバーボン、好きなんだよね。――まあ、タバスコを〝えて〟呑むのも好きなんだけど」

 その後も幾らかめたが、結句けっく、タバスコはジョンが食べることになり、酒盛りが始まった。

 雅也が見ていると、ジョンはタバスコをよく振り、ぐいッと呑んでからワイルド・ターキーに手を出している。

 雅也はコークで割ったバーボンを少しずつ呑みながら、

ところで」と言った。「今夜は、ぼくはここに泊めて貰えるワケ?」

 二人とも、

「そうさ」

「無論」

 と応じる。

「でも…、ぼくは患者だし…」

「経過をるのも医師の仕事の内」

「それに、た急患が来た時、手伝って貰わないとね」

「ぼ、ぼくは看護師の資格すら持っていないよ」

「大丈夫。そら、よく云うだろ、〝枯れ木も山のにぎわい〟ってさ」

「それ、一寸ニュアンスが違うんじゃないかな?」

「まあ、それはそれとして、きみは今日、リンゴの代役をちゃんと務めてくれた。従って、それだけでもきみには今夜ここで一泊する権利がある」

「そうか」雅也は考えた。「でも、明日はどうなるんだろうな?」

「明日は明日、今日は今日。ま、明日はグランパオまで送るから、それからゆっくり考えな。彼処あすこに行けば、いろいろと教えて貰えるからさ」

「そうかい。それは有難ありがたい。――車はあるの?」

「勿論さ。ミニ・クーパーだよ」

「紫色のね。マーク・ボランが最期さいごに乗っていた車さ」

「レストアしたんだ」

「うえっ、ヤなこと言うなよ」

いや、冗談言って悪かった。型が同じだ、と云うだけさ。安心してくれていい。かくずグランパオへ行くことだね」

 二人は、雅也は診療台の上で休むべきだ、と主張したので、反論すべき確固たる論拠ろんきょを持たぬ雅也はそうなる仕儀しぎになった。ポールが柔らかめの枕と毛布を持って来てくれて、硬い診察用ベッドの上でも、雅也は何とか眠れるようになった。久し振りに重いアルコールを摂取したお蔭で、雅也はすっと眠りに落ちた。


 赤坂はその夏の朝、早暁そうぎょうに眼を醒ました。

 ストレスの所為せいか、ほとんど一睡もしていなかったのだが、不思議と眠気はなかった。時計は午前五時を回った所だった。Tシャツとジーンズという軽装に着替えると、ふらりとマンションを出た。

 今赤坂は夏休みを貰って研究所は休んでいた。が、赤坂は自分でも薄々気付いてはいたが、少々精神面で変調を来していた――HPCモードに入った時も、視界の片隅で〝要注意〟を促す赤色の点滅が見えた。今この夏休み中、赤坂は夜眠れずに昼間休み、眠ると必ず厭夢えんむをみる、と云う状態だった。

 赤坂はマンションを出ると、幽霊のようにその辺を歩き回った。赤坂はマリャベッキ博士の好意で、JR川崎駅近辺の一等地に建つ3LDKのマンションを借りており、趣味の鉄道模型のレイアウトも一室に収めることができた。だが、奈何どうした心変わりか、模型列車に対する関心は、博士の手術後、薄れてしまっていた。

 赤坂はクラブ・チッタのある界隈までふらりと歩き、ふと気が付くとその隣にジョナサンがあるのを見付け、ふらりと這入はいった。しかし、何も食べる気にはなれず、ドリンク・バーだけ註文ちゅうもんした。

 ジョナサンで珈琲コーヒーやフルーツ・ジュースを何杯か飲むと、っと動き出す気になり、えず金を払って店を出、何故かは判然はっきりしないが、JR川崎駅へ向かった。

 川崎駅前に着くと、にわかに空腹を覚え、駅前のベッカーズに這入はいり、モーニング・セットをあつらえた。そこへ至って所持金が如何いかほどだったか気になり、財布の中身を確かめると、モーニングの飲食代を抜いても千二百円ほど残っていた。

 奥の席に陣取ってゆったりした気分でハンバーガーやハッシュト・ポテト、コーラなどを腹に入れると、っと落ち着いた気分になった。自分に大きなストレスを与えている研究所の仕事のことが脳裡のうりぎったが、この朝はよく晴れている所為せいか、然程さほど気にならなかった。かく、今回夏休みは十日間下賜かしされているのだ。有効に使わないと。

 赤坂はベッカーズを出ると駅へ戻り、HPCモードに入り、電子マネーで最低運賃を払って構内に入った。しかし、改札口から中に入ると、東海道本線の快速「アクティー」が入線することが判り、気が変わった。鉄道マニアの赤坂は、「アクティー」は二階建て車輌で運行されていることを知っていたからだ。赤坂は迷わず東海道本線のフォームに降りた。

 「アクティー」は定刻にやって来た。赤坂は乗り込んで早速二階席に上がったが、通勤通学客が多く、通路側の席しか見付からなかった。

 電車は間もなく出発した。そして、あっという間に終着駅の小田原に着いた。

 ――此処ここから先はどうしよう?

 と赤坂は迷ったが、丁度向かいの番線に熱海行きが停まっているのを見て、沼津まで行って見ることで気持ちが固まった。そうと決まると、視界の隅で点滅している、

 「要注意」

 を示す真紅しんくのHPCメッセージなどてんから無視して、さま濃緑と蜜柑色の、ツートン・カラーの見るからに鈍重どんじゅうそうな電車に乗り込んだ。此処ここでは海側窓際のボックス席を占めることがかなった。

 やがてベルが鳴り、電車は間もなく出発した。この時も、赤坂の意識は薄ぼんやりとして日頃の明晰めいせきさは失われていた。脳髄のうずい一枚膜まくが掛かり、その内側から外を傍観ぼうかんしているような感じだった。電車は真鶴、湯河原、熱海、と停まる。乗り換えて、昼前に沼津に着いた。

 沼津で復た空腹感を覚えた。駅構内の店舗には弁当が山積みされていて、食慾しょくよくをそそった。赤坂は東華軒とうかけんの「鯛めし」とお茶を買い、折り返して小田原へ戻る電車内で食べた。

 小田原からは復た「アクティー」に乗る積もりだったが、生憎あいにくぐに来る訳ではないらしく、帰るには鈍行しかなかった。赤坂は詮方せんかたなしにそれに乗り換え、川崎へ向かおうとした。

 が、そうは問屋とんやおろさなかった。国府津こうづを過ぎた辺りで、後方の車輌から車掌が検札に回って来たのだ。赤坂は電子マネーはあったが車内ではそれは使えず、またICカード乗車券のようなものもなく、もとより払える金などほとんど持ち合わせていない。

 車掌に乗車券の提示を求められると、赤坂は相変わらずぼんやりした頭で何の気もなしに川崎の隣駅まで買って置いた券を車掌に手渡した。

 車掌は、何処どこから乗ったのか、と問うたので、赤坂は馬鹿正直ばかしょうじきに、

「川崎から」

 と答えた。車掌は、手持ちの金をすべて出すように、と言い、赤坂が手渡したそのなけなしの金を納め、

「これを渡すから、次で降りて」

 と云って、二宮駅までの切符を切ってくれた。

 赤坂は二宮の改札を通り、駅前にミニストップがあるのを認めて、

 ――これで金が下ろせる。

 とほっとした気分になった。銀行の口座には、数百万円の預金があったからだ。

 気がゆるむと、赤坂は二宮駅の近所をぶらぶらと歩き回った。駅の近くに吾妻山公園あづまやまこうえんという公園があるらしかったので、そこを目指して歩いた。潺湲せんかんと流れる泉もあり、山を登り切るとコスモスの花が咲き乱れていた。それを見ると、赤坂はっと地に足の着いた心地になった。

 山を下りるとストアで金を下ろし、ついでに買い物も済ませて、今度は正規の運賃を払って上り列車に乗った。

 川崎の自宅マンションに帰ると、マリャベッキ博士からの〝緊急メッセージ〟も入っていたが、草臥くたびれていたので無視し、ベッドに横臥おうがした。

 間もなく、夢もないくろい眠りが赤坂を訪れた。


 雅也は不意と眼を醒ました。時計を見ると、午前八時を回っていた。宿酔ふつかよいはしていないようだった。雅也は診察台から降りると、靴を履いた。

 と、カーテンが開いて、ポールが姿を見せた。

「おやぁ」とポールはにこやかに言葉を掛けて来た。「お客さん――、じゃなかった、患者さん、お目覚めかい。…傷の経過は悪くないみたいだね。――ぼくら、朝食にするところなんだ。良かったら一緒にどう?」

「喜んで頂くよ」雅也は答えた。「きみらが調理したの?」

「ムッチロン」ポールは答える。「全部、始めから終わりまで、ぼくらが面倒を見るよ。調理、給仕、後片付けまでね」

 早くおいでよ、との言葉を残してポールは去った。

 雅也は一旦診療所の外に出、水道の栓を開いて冷たい水で顔を洗い、欠伸あくびをしながら中に戻り、カーテンをめくった。こうばしい珈琲コーヒーの匂いを嗅いだ雅也は、思わず、

「おおっ、これこそぼくが求めていたもの。イングリッシュ・ブレックファストじゃないか」

 と叫んだ。医師待機所にはキッチンの設備もあるらしく、何かが焼ける音と焦げる匂いがした。

 給仕はジョンだった。白衣にコック帽を被っている。

「マーマレード付き――或いは蜂蜜でも良いけど、かくトーストに、ハム・エッグ。――それとも、しお好みならスパムもあるけど」

 雅也は、何時いつぞや見た〝モンティ・パイソン〟のヴィデオを思い出しつつ、あわてて首を振った。

「いえいえ、ぼくはハム・エッグで結構。――できたら、スクランブルド・エッグの方が嬉しいけど、えずスパムは遠慮しときます」

 雅也はジョンの給仕でたっぷり朝食を取ることができた。

 そればかりか、ジョンとポールは、食事中の雅也の眼前で、コサック・ダンスまで披露ひろうしてくれたのだった。

 文字通り腹皮はらかわじる思いで、何とか吹き出さずに卵を食べている雅也に向かって、

「どうかな、ぼくらのダンスは?」

 ジョンは眼鏡を直しながら生真面目な顔で問うのだった。

 そのかたわらで、ポールも、

「長期療養の患者さんが目出度めでたく退院する時に、祝意しゅくいを表するために踊って差し上げようと思っているんだけど、どうかな?」

 雅也は、こみ上げて来る笑いを必死でこらながら、

「うん、そうね。盲腸とか、開腹手術の症例ケース以外ならいいんじゃない?」と答える。と、一つ思い当たって、「し、死の転帰てんきを取ることになったら、どうするの?」

 すると二人は、急にべそをきそうな顔をしてその顔を見交みかわし、

「それ、考えてなかったなァ」

 とジョンは言った。が、ポールは何か思い付いたらしく、

「いや、待てよ。あのひとならどうだろうかね?」

「だっ、誰っ!?」

 ジョンと雅也は同時に問うた。ポールは気圧けおされたごとくおどおどした口調で、

「イ…イアン・アンダーソン」

 暫時ざんじ三人の間には沈黙が流れた。

 ジョンが最初に言葉を発し、

「…ん、まぁ精神科ならかく…」

 とコメントした。雅也は、腕組みして、

「それなら、もっと相応しいひとが日本にいる」

「へえ?」

 とジョン。

「誰? どうやってコンタクトを取るのかな?」

 とはポール。

「ギリヤーク尼ヶ崎、って云うひとなんだけど…。パオに来て貰えるかどうか、までは判んないな」

「ギリヤーク?」とポール。「ひょっとしてロシア系?」

 それを受けてジョンは、

「それなら知ってるよ。あれは…ゴ、ゴル…、そうだ、デューク東郷、っていたろう。それと関係あるんじゃないの?」

「いやいや、違うちがう」雅也は顔の前で手を振って否定した。「デューク東郷なんざを呼んだにゃ、屍体したいの山ができる。止めた方がいい」

 と、ポールが時計を見て、

「いかん。あと十分で診察時間が始まる。遅れたことがばれたら、ムルの親方にむごい仕打ちを受けるんだ。――きみ、グランパオまで送って行くけど、支度はできてる?」

「うん。もう準備万端抜かりはないよ」

「じゃ、これから送るよ」

 雅也は有難ありがたく申し出を受けることにして、荷物をまとめた。

 ポールは、ちょっと車を取りに行って来る、と云って裏手の方に廻り、やがて本当に紫色のモーリス・ミニ・クーパーに乗って来たので、雅也は思わずった。

「ほ、本気なの?」

 雅也が問うと、ポールはしきりに手招きをして、

「もう時間がないから、早く乗ってよ」

 とかした。雅也が助手席に身を収め、シートベルトを掛けるか掛けないかの内に、ポールは車を発進させた。

「ちょい、時間短縮したいから、獣道けものみちを行くね」

 とさま、ハンドルを左に切って森の中に入った。木々の枝先が窓ガラスに触れ、がさりがさりと神経にさわる音を立てる。前方も樹木しか眼に付かない。そこをポールは、果敢かかんにと云うか蛮勇ばんゆうとでも云えば良いのか、速度を上げて突っ走った。時折大樹たいじゅの根でも踏み越えるのか、サスペンションの上で雅也の身体はぽんぽん弾む。時には湧き水の溢れる泉に踏み込んだり、落ち葉の溜まった微かにの入る広場を突っ切ったりした。

 ――獣道なんて云うけど、まるで道なんかないじゃないの。

 雅也はすべもなくポールの運転を眺めるだけだった。そのポールは、「ドライヴ・マイ・カー」を口ずさんでいる。

 だが、ものの六、七分も走った頃だろうか、木立ちは唐突とうとつ途切とぎれた。

 雅也は暢気のんきにも、実に広々とした場所へ出たものだ、と思ったが、気が付いてみるとそこはグランパオの駐車場なのだった。

「七分半か。ま、まずまずの記録だな」

 ポールは平気な顔をして言う。

「い、何時もあんな運転をしているの?」

「いやぁ。お客さまを歓迎するために、時々ね。今日は時間の都合もあったし」

「ぼくは心臓が止まりそうになったよ」

「そうかい。――そら、此処ここがグランパオだよ。きみの目的地だ」

「ああ、そうか。いや、朝食までご馳走ちそうになっちゃって、有難ありがとう」

「いや、良いのさ。ぼくらも楽しかったし。た何か体調の異変でもあれば、遠慮なく来てくれたまえ」

 ポールは雅也の荷物を下ろすのを手伝ってくれ、それが済むと、

「じゃあ、またね」

 と言い残し、紫のミニ・クーパーで去って行った。


 独り残された雅也は、グランパオの円形の建物を見上げながら、此処ここへ来て一体何がどうなるんだい、と考えた。一階には、せんだって見た通り、右に青いドア、左に赤いドアがある。左のドアは入国手続所になっている。じゃあ、青いドアは何だい。

 雅也が青いドアに近寄ると、


「包へ迷い込んだ方へ」


 と云う、ひとを半分小馬鹿にしたような文句が各国語で書かれている。

 が他に行く場所も行動のあてもない身の雅也は、此処こここそぼく向きの場所だ、と考えざるを得なかった。

 やや戸惑いながら、雅也はドアを押した。

 中に這入はいってみると、そこは小部屋になっており、椅子が数脚並べられて、そこに様々なひとが座っていた。赤毛の少女、束髪の女性、ドレッド・ヘアの黒人青年などなど。

 部屋の奥はガラス戸になっているが、クリーム色をした厚地のカーテンが下りていて、中をうかがることはできない。雅也は、無軌道むきどうものだった学生時代に何回かお世話になった「学生相談室」を思い出していた。

 雅也はえずドレッド・ヘアの青年の横に腰を下ろし、

此処ここに来ると、行き先が判るのかな?」

 と問うた。青年は、わずかに首をかしげ、

「さあ、ひとによりけりらしいがね。おいらは、一応此処ここでは遊び尽くしちゃったんだけど、帰りの飛行機までだ後数日残ってるんで、何処どこか面白い遊び場はないか、訊きに来たんだがね」

 と答えた。

 と、ガラス戸が開いて、奥から喜色満面と云ったていのブロンドの少年が姿を見せた。少年は、ドレッド・ヘアの青年に、

「アグヌス・デイをすすめられたよ。先刻さっきはどうも有難ありがとう!」

 と礼を言って小部屋を出て行った。

 雅也は、ドレッド・ヘアの青年に、

「遊び尽くしちゃった、って、此処ここはアミューズメント・パークでもないのに?」

 と言うと、青年は、

「いや、探そうと思えば遊び場は幾らでも見付かるさ。UFO研究所は大当たりだったなあ、実に」

 と言い、反芻動物はんすうどうぶつのようにアハハハと笑った。

「ぼく、実はガイドブックとか何も用意しないで来ちゃったんだけどさ」

 雅也が言うと、

「ああ、それならその方がずっと良いかも知れないな。困ったりまったりしたらここへ来る、と云うことさえ知っていれば、パオを遊び倒すことができる、ってもんさ。――市販しはんのガイドブックに出ているパオなんざ、こう休みの季節ともなると、人混みで凄いからな。この案内所は市販の本には載っていないのさ。だから、通人つうじんしか来ないよ」

 青年は意外なことを言って、雅也にウインクして見せたのだった。

 間もなく青年の番になり、五分程で出て来ると、

「じゃあ、良い旅を祈るよ」

 と言って雅也にたウインクして見せ、出て行った。

 黒人青年の次は雅也しかいないので、恐る恐る相談室のドアを押した。

 ドアの向こうで待っていたのは、日本人らしき中年の女性だった。応接室用のソファに深く腰を掛けて雅也を迎える。

よろしくお願いします」

 雅也がびくびくして挨拶すると、

「いらっしゃい。パオへようこそ。――どうぞ、そこへお掛けなさい」

 と優しげな声を掛けてくれた。

 雅也が重い荷物を室の僻隅へきぐうに置いて応接セットに腰を下ろすと、

「あなた、パオは初めてなの?」

 と問うて来る。雅也がうなずくと、

「ええと、ずお名前をお聞きしましょうか?」

「あ、申し遅れまして。佐竹雅也と申します」

 すると、女性はそれまで応接テーブルの天板と思われていた箇所に指で触れた。と、微かなモーターのうなごえと共に、機械的で慎重な動作でゆっくりと画面が立ち上がり、たちまち机上にラップトップ型のPCが現れた。

 唖然あぜんとして見ている雅也に対し、女性は莞爾かんじと微笑み、

「これは、必要としている方にしか使わないものなの」

 と言った。そして、キーボードを操作し、何やらデータを打ち込んだ。それから、

ほどね」と言った。「あなたはみちここへ来ることになっただろう、って。早めに来て良かったわね」

「ど、どう云うことですか?」

「あなたは、此処で人捜しをしているでしょう?」

 その問いが正鵠せいこくていることに仰天ぎょうてんした雅也は、

「え、ええ…」

 と云う吃音きつおんしか声が出なかった。

「大丈夫、あなたが此処ここへ来ていることも、謝意しゃいを抱いていることも、その方はご承知よ。後は時間と場所の問題ね。パオのひとたちは皆基本的に親切だから、屹度きっと手伝いをして貰えると思うわ。だけど、あなたはこれまでいたパオで、どんな思いをしたのかしら? 教えて貰える?」

 雅也は訥々とつとつと、クレイジーマン教授とナマズ、それにトラマールボアの話、常軌じょうきいっした「診療所におけるタバスコ・バーボンの一夜」に就いて語った。女性は、時折ときおり質問を挟みながら、雅也の言葉を逐一ちくいち端末に打ち込んで行った。

 その作業が済むと、口許くちもとに微かな笑みをうかべ、

「あなた、来て早々、〝パオづかれ〟がしているでしょう? 違うかしら?」

 と言った。

「えっ? 包疲れ、ですって?」

「そう。このままだと、目的の人物をさがてる前に、パオから逃げ出したくなるだろう、ってことだけど。違う?」

「ああ」雅也は何となく判るような気がして点頭てんとうした。「そう云えば…、来て早々、診療所に担ぎ込まれたりしたからでしょうか。一つ間違えると命を失いかねない…」

「それ、違うわ」女性は静かな声で否定した。「パオに来て、そう簡単に命を落とすひとはいないわ。――言って見れば、此処ここは不毛であると同時にそれ故に豊穣ほうじょうな土地なのよ」

「――はあ」

 雅也には返す言葉がない。

ず」と女性は言う。「一つ体勢たいせいを立て直して、一からやり直すことね」

「――まり、計画的に行動する、ってことですか?」

「いいえ」女性は首を振った。「ここでは計画など立てても無駄に終わることくらい、あなたも判っているはずだわ」

「――じゃあ、どうすればいいんです?」

「あなた、田中たなか俊介しゅんすけには会わないでしょう?」

「田中…俊介? ええ、会いませんが」

「一回、会っておくといいわ。――一寸ちょっと待って、いま電話をしてみるから」

 女は立ち上がると、雅也から見て左側にある電話台に向かった。短縮番号を押す。

「あ、一階の田辺です。――はい、はい、そういう方が一名、ここに来ておられまして。今夜は――、あ、そうですか。判りました。では、お伝えして置きますので、どうぞよろしく」

 通話が終わると、女性は嬉しげに両手をこすわせながら戻って来た。

「良かったわね。田中先生、会って下さるんですって」

「田中…」雅也は記憶の何処どこかに引っ掛かりを覚えたが、容易にこれと特定することはあたわなかった。「会って下さる、って一体何処どこで?」

「このグランパオの三階で起居ききょなさってるの。今夜一ばん泊めて貰って、もっと快適にパオで過ごせるように教授を受けることね」

「は、はあ」

「じゃ、そろそろ行かれたら? 先生も早くお会いしたいようなことを仰有おっしゃっていたことだし」

 雅也が荷物をまとめて相談室を出ると、待合所はひとで一杯になっていた。誰もが軽装で、旅慣れた様子の者ばかりだった。

 ――どうも異例の長逗留だったようだ。

 と雅也はドアを開けてそそくさと外へ出た。

 ――さあて、このパオの三階だ、と言っていたが。

 雅也が辺りを探すと、雅也の出たドアから三〇度ほど左手へ回り込んだところに屋根の付いた階段室かいだんしつが上へ向かっていた。雅也は所々に弱い照明のともる階段室に這入はいり、上を目指した。

 階段室はグランパオの建物の周囲に沿って螺旋らせん状に上に上がって行く。二階にもドアがあったが、のぞき窓から見ると中は真っ暗だった。三階まで来ると、通廊つうろうにはドアがふさがる形で終わっていた。

 雅也は重い荷物を抱えて一心いっしんに階段を上って来たので、息はぜいぜいとあえいでいる。全身も汗にまみれている。雅也は一瞬、矢張やは此処ここは引き返そうか、うんそうした方がいいかも知れない、と思い、きびすを返し掛けた。

 だが、中からドアが開いたのはその時だった。

 ドアを開けたのは、中肉で小柄乍ながら筋肉の存在を匂わせるせ方をした、中老ちゅうろうの男だった。するどい眼光で雅也の全身を改めると、

「佐竹さん、だね?」と言った。「ようこそ、お待ちしていました」

 雅也は訳が判らぬままうなずき、促されるがままに中に入った。入り口は日本風の玄関になっており、靴は脱ぐようになっている。

「荷物はそちらへまとめて」

 と言われ、雅也は明るい窓際へ荷物を持って行った。その時になって、雅也は初めて三階のこの部屋が階段室におとらず薄暗いことに気が付いた。

 ――何だか薄気味が悪いな。

 と思ったが、その時になって、田中俊介と思われる人物は、

「ああ、済まない、ちょっと瞑想めいそうをしていたものでね。暗くて悪かった。今灯あかりをけるから」

 と言って電源のノブをひねった。そして、

「今、茶でもれよう。きみ、そこの座布団に座りたまえ。楽にして構わない」

 手早く茶器を揃え、せわしく立ち働く男の背に向かって、雅也は、

「あなたが、田中俊介先生なんですか?」

 と問うた。田中は、その時は、

「そう」

 とだけ短く答え、湯を沸かしたりそれを注いだりしていたが、やがて雅也の向かいに座り、茶を勧め、

「ぼくがこのパオ首魁しゅかいと云うのか、最高責任者とでも云うのか、或いは頭目とかオリジネイターとでも云うのか、かく一応代表を務めさせて頂いている、田中俊介です」

 と言ってぺこりと頭を下げた。

 それを聞いて、鈍い雅也にもっと得心とくしんが行った。

「ああ、判った。稚内空港で話に出て来たのは、あなただったのですか?」

「うん、そうです」

「この…一大共和国、みたいのを始められた方だとか」

「それは一寸違うな」田中は言った。「ここは共和国ではないし、してや君主国でもない。国家ではないのだ。ぼくは出身国の日本に居辛いづらさを覚えたので、試しにここいらの土地のひとがやっているように、パオと云うテント生活を始めて見たのが、総ての契機だ。――澆季ぎょうきの世、とは云うが、世界中からこれ程までの反響が来るとは予期だにしなかった。始め、ぼくは自分だけのささやかな幸福が得られれば、それで良い、と考えていた。併し、そんなぼくのテントを訪れる旅行者――まりバックパッカーが主だが、そう云った人びとが段々増えて来て、それだけにとどまらず、ぼくのテントの隣に自分のパオを持つひとまで現れるようになって、爾後じご現在に至る、と云う訳さ。だから、ここには何の政治思想もない――ぼく本人は、それでいいと思っている。政治思想は考えようによっては、危険なものだからね。まぁ、それはそれとして、世間の標準から一寸ズレたひとが多いのは認めるがね」

 田中はそう言って笑った。

「じゃあ一体何がパオを維持しているんです? ぼくは此処ここへ来てもう数日になりますが、ほんの数ペカーリしか使っていない。一体、何です?」

 田中俊介は一口茶をすすり、

「きみももう聞いていることだろうが、この地帯へ来ると、激しい情慾じょうよく金銭慾きんせんよくが抑制される。これは未だ解明されていないのだが、ある種の植物の種子か花粉が関係しているらしい、と云う実に大雑把おおざっぱな研究成果が出たばかりだ。この微細な種子だか胞子だかは、高等動物の中枢神経にしか作用しないらしい。その証拠に、この辺には猿のような高等哺乳類は存在しない。試しに猿をこの地帯に連れて来るがいい。三日と経たず逃げ出すよ。〝種の保存〟の本能と相反するものを感じるからだろうな。それから、余り攻撃的な生物もいない。だから、この一帯は〝地上の天国〟と呼ばれ、何故なぜかぼくがあがたてまつられるようになってしまったんだがね…、ぼくは只、この地帯に気紛きまぐれに棲み着いただけの流れ者さ」

「でも、一応代表者ではおられる訳ですよね?」

「まあね」とかたすくめる。「ぼくが始めたものなんだから、最終的な責任は自分が負うべきだとは思っている。――まあ、今の所、大きな課題や問題点は無いし、極端きょくたんなコマーシャリズムが入り込む余地もないようだから、その点では安心して見ているがね」

「あと、一つお訊きしたいのですが…」

「どうぞ。何なりと」

「今日ぼくをこうやって招いて下さったのは、何の為ですか?」

「一つは、階下したの田辺女史と話をして、きみがどうやらこのパオでの過ごし方に就いて勘違いをしているようだ、ということ。二つ目は、詳細は判らぬが、きみがここへ何らか退きならぬ重大問題を抱えて来ているらしい、ということが伝わったからだ」

パオでのぼくの過ごし方?」

「そう。きみは、まで金銭が主として強い権利を持つ世界にいた訳だ。そこから、急にもっと別のものが主権を握る土地に来た。――まり、ガイドブックも何も見ずに飛び込んで来た、ということだ」

「それが、悪いことなんでしょうか?」

いやいや、決してそう決め付けている訳ではないがね。ただ、最初は戸惑うことが多いはずだ。違うかな?」

たしかに。ぼくは、資本主義の国で生まれ育って、これまで暮らして来ましたから」

 田中は、人差し指を一本立てて、

「そこだ」と言った。「このパオと云う地域では、金銭はそんなに価値を持たない。精確に言えば、二次的な価値しか持たない」

「では、主たる価値は何処どこに?」

 田中俊介は右手で胸を叩いて、

「気持ちだ」

 と言った。

「これは、ぼくが定めたことではない。他の誰かが決めたことでもない。自然な成り行きとして決まって来たことだ。例えば隣のひとが腹を空かせているとする。そこで自分の麺麭パンを分けて与える。そして、次の日は雨が降って、雨漏りがして困る。すると、その昨日麺麭パンを分けた相手が雨漏りを無料で直してくれる。その無限の繰り返しで、このパオと云う地域は成り立っている。――たしかに、中には詮方せんかたなしに高額の値段を付けて売られているものも、ないではないがね。むをず、ということだ」

 雅也はそれで何となくでの「過ごし方」が判ったような気になった。

 しかし、訊きたいことはだある。

「ぼくが背負っている重大な問題とは?」

「それは、きみ自身が一番よく判っているはずだ」

「ええ。しかし、奈何どうしてそれがお判りになったのです?」

「一階の相談室できみが話をした、あの田辺女史だが、あれは実はサイキックでね」

「サイキック?」

「そう。霊能者だ。簡単な霊視れいしができる」

 いきなり話が胡散臭うさんくさくなって来たな、と雅也は思ったが、こころみに、

「じゃあ、ぼくの問題は何なのか、仰有おっしゃって頂けますか?」

 と問い掛けて見ると、

「大事なものをくしたのだろう。けだし、ベター・ハーフのような存在を」

 雅也は首肯しゅこうした。

「そうです。ぼくがいなくては一人では生活などできない存在なんです。いや、生活、と云うのも語弊ごへいがあるかも知れません。存在そのものが覚束おぼつかない、そんな存在なんですよ、実のところ」

 田中俊介は一寸顔をしかめ、

「あなたなしでは存在すらできない? 一体どういうものなのです?」

 そこで雅也は、自分のペン・ネームが自分を見捨てて行ってしまったことから、玉青丹ぎょくせいたんと呼ばれる香を探しに来ている、と云うことに至る迄、に入りさい穿うがつまびらかに説明して聞かせた。

 田中は要点で質問を挟みながら話を聞いていたが、雅也の話が済むと、拱手きょうしゅして眼を閉じ、しば黙考もっこうした後、

「それはヘヴィだね」

 とだけ、ぽつりと感想を漏らした。雅也は急に神経がれて来て、

「ぼくはもう今日にも奥の方へ行った方が良かったのかも知れませんね。イリノイ大学や診療所の面々と付き合う必要はなかったかも知れない」

 と言ってにわかに立ち上がり、部屋の中をぐるぐる歩き回ったが、俊介は、

「まあ、お待ちなさい」

 と雅也を引き留めた。

ず夕食を取って、きちんと睡眠を取り、それからゆっくり考えなさい。あなたにはパオの知識が丸でないようだから、少し教えて差し上げないと。それからね、パオでは二つの言葉が大切にされています」

「どんな言葉ですか?」

「一つ目は、〝今日の宿は腹の虫が決める〟というもの、二つ目は、〝人間皆独り〟と云うものです。覚えておくと役に立つかも知れない。頭の片隅にでも置いておくとよろしいでしょう」

「はあ」

 俊介は立ち上がると、

「では、夕食の支度をしましょう」

 と言った。

 夕食は質素な和食で、雅也はそろそろ日本食が恋しくなっている頃だったから、蔬菜そさいのお浸しに豆腐と大根の味噌汁、米飯という簡素なメニューでも有難ありがたく腹に収めた。

「ぼくは、精進料理と云う訳でもないが、普段はこういう一汁一菜のメニューが主でしてね。野菜があればこうやって簡単に調理するし、誰かがナマズでもくれたら焼き魚にする。――余りお客を迎えるのに相応ふさわしいという食事ではないが、我慢して下さい」

「いやあ、ぼくも日本では粗食そしょくな方で…」雅也は適当なことを言った。「和食は久しぶりなので、美味しいですよ」

 夕食が済むと、直ぐ睡眠時間になった。時刻は未だ午後八時前である。

「一寸、寝るには早すぎやしませんか?」

 と雅也は問うたが、俊介は、

「ぼくは毎朝、此処ここから少し北へ行ったところにあるパオで空手を教えていましてね。朝練は午前六時からなんですよ」

 と言う。

「あなたも一度、参加なさってみたら如何いかがですか?」

 という誘いは有難ありがたくお断りし、雅也は部屋の奥にある押入れから田中俊介が出してくれ、板敷きの間に敷いた布団に包まった。間もなく雅也は深い眠りに落ちた。今夜は夢もみなかった。


 翌朝、眼醒めざめると雅也は独りだった。腕時計は午前七時前なので、田中俊介は空手の練習指導に出てしまったらしい。

 ――お腹、減ったなあ。

 窓際で頬杖ほおづえを突いて外の様子を見ていると、未だ午前八時にもならないと云うのに、人びとは鞅掌おうしょうの様を呈している。

 ――何だって、みんなこんなよく訳の判らぬ土地で暮らしているんだろう?

 「人間皆一人」と云う言葉を雅也は思い出し、口の中で転がして復唱した。

 ここでは金の代わりに気持ちを支払う、だと? たしかに雅也にもそれは理解できた。

 しかし、それを実践できるか、となると話は別だ。れまで過ごした二箇所のパオでは、「ほんの親切」の積もりでやったことが結果的に大きな成果になったのだった。けれども、今後はどうなるか見通しは付かない。

 ――竹生健は今頃、何やってるんだろうなあ。

 早く捜し出してやらないと、石原はるゑ先生の言ったように、「賞味期限」が切れてなにもかもになってしまい兼ねない。

 苛苛いらいらする気持ちを抱えて部屋の中をぐるぐるめぐっていると、やがて部屋のドアが開き、田中俊介が帰って来た。

「やあ、済まないね、遅くなって。腹減ったろう。今から支度するから、そこへ座って。気持ちが落ち着かないのはよく判るが、此処ここからは一番肝心な時だろう。――見てくれ、今朝は鶏卵を分けて貰ったぞ。空手を教えている子供の親御さんに頂いたんだ。これをメシの上にぶっかけて食べよう。――ああ、おれも腹減っちゃったよ」

「子供?」雅也はとがめて問うた。「そういえば、ここには子供も暮らしているんですよね?」

「そうさ。いるよ。――それがどうかしたかい?」

「学校は、教育は――」

「ああ、そういうことか」

 俊介は味噌汁の味加減を見て、電子ジャーから炊き立ての飯を装いながら、別に何でもないことのように答える。

「子供の為の教育機関もあるよ。もっとも、ここは国境地帯であることや、種々の人種と宗教の人びとが混在しているので、公立学校は入る余地がなかった。そこで、此処ここではシュタイナー学校が運営されている。最初は奈何どうかと思ったんだが、案外しっくり来ていてね、矢張やはり、特定の宗教色・政治色を帯びていない、ということが大きな意味を持つみたいだね。――パオは一つのコミューンみたいなものだよ、佐竹くん。ニューヨークを指して、よく〝人種の坩堝るつぼ〟と呼ばれるが、彼処あすこにだって小さなコミューンが一杯ある。併し、パオはそれを超越している。此処ここへ来ると、ひとはっと、自分がそれまで後生大事ごしょうだいじに崇めていた〝神〟なるものの卑小ひしょうさに気付くらしい。だから、此処ここでは異宗教間のカップルも沢山いるんだよ」

一寸ちょっと、待って」雅也は言った。「ここでは強い性慾せいよくは発動しないのではなかった?」

「そうだ」俊介は頷いた。「パオで一寸知り合いになって、その後包を離れたのだが、外世界の何処どこかで、申し合わせるなり偶然なり、再会して意気投合し、一緒になり、居を求めにパオへ戻って来る――、そうして出来合できあったカップルが多いのさ」

「ふうん。シュタイナー学校だと、高等学校まででしょう?」

「そう。それ以上の高等教育を受けたければ、パオの外へ出るほかないんだけどね。今のところ、それで上手くまわっているよ」

 食事の支度が整ったので、雅也も俊介の向かいに座った。

 食べながら俊介は、一つ言いたいことがあるんだが、と言った。雅也は汁椀をいて聞く体勢を取った。

「きみは今、その竹生健と云う人物――或いは人格化したペン・ネームのことを追っている訳だろ?」

 雅也はそうだ、と答えた。すると俊介は、

「これは、一見その目的と矛盾したやり方であるのは百も承知で言うんだが…、きみは、一旦、その目的のこと、忘れなさい」

「ええっ!?」雅也は仰天ぎょうてんして田中を繁々しげしげと見た。「忘れる、って…」

 すると俊介は、

吃驚びっくりさせてご免よ。これは此方こっちの言い方が悪かったのかも知れない。でも、そのペン・ネームを追い掛けたい、と云う目的は一旦忘れて行動した方が、捷径しょうけいだと思うんだ」

「――けど、ぼくの感情が…納得しないと思うのですが」

もっともだが、ここは感情が口を出すべき問題ではない。もっと…、ビジネスライクな問題として考えたらどうかな」

 雅也は一口茶を啜ってから、

「ああ、まあね。ほど、ぼくは一種のビジネスをしにパオへ来た訳だ」

 と首肯しゅこうした。

「そう。私情は禁物、だと思うんだ」

ほど

「――で、何処どこから見てまわるか、もう決めたの?」

 雅也は一寸ちょっと面喰めんくらって、

「い、いやだだけど。このパオのどこにどんなものがあるのかも知らないし…。成り行き次第の旅になると思うよ」

「成り行き次第、は結構だけど、パオの地図くらいないと困るだろうに」

 全く手の掛かる御仁だ、とでも言いたげな仕草で立ち上がると、田中俊介は部屋の隅に据えてある卓子に歩み寄り、抽斗ひきだしからパンフレットのようなものを一葉取り出すと、戻って来て雅也に手渡した。

「これは、このパオと呼ばれる地帯全体の大雑把な鳥瞰図ちょうかんず。きみがいたイリノイ大学や診療所はこの辺りに位置する。まあ、言ってみればパオの中でも辺境にある、と言って良い。それに対して、このパオの謂わばメイン・ストリートは此処ここだ。見ろ、軽便鉄道が走っているだろう。その線路に沿って主要なパオが並んでいる。この辺から手を着けたらどうかな、と思うんだが」

「判りました。こんなのを貰ったのは初めてです。どうも有難ありがとう。階下したでもくれなかったしなあ」

「そりゃね。こいつは今の所は未公認の印刷物だからね。向後こうご事務方と執行部とで協議を行って、公認して良い、と云う結論が出れば、大々的に、大っぴらに配布されることになるだろうよ」

「ふうん。――それで、このグランパオから軽便鉄道へはどうすれば行けるの?」

「そうだ、それを言いそびれていた。このグランパオの前から、軽便鉄道の起点となっている〝豚骨〟駅、随分妙なネーミングだが、元々は中国語の俗語スラングらしいんだ。かくそこまでは、ロバ車が通じている。ま、ロバの体調にもるのだが、大体朝八時半から九時頃に出発する。荷馬車を兼ねた車なので、ぽど混んでいる日でない限り、頼めば乗せて貰えるだろう。運賃も掛からない。軽便鉄道に関しては、此処ここのダイヤグラムを見て貰えれば判る通り、各駅停車便が約十分に一本、快速急行は大体二十~三十分に一本の割合で出ている。料金が違うから注意したまえ。後は…、自分で体験して、実感して成果を得ることだな。先刻も言った通り、頭は使わない方がいい。自分の意志とは反対に行く、そんな心構えでいればいいさ。頭より先に身体が働くような感じなら問題なかろう。――さあ、ぐずぐずしているとロバ車に乗り遅れる。支度したまえ」

 そう云って田中は雅也をてた。雅也が、

「あの、お礼は…」

 と口籠くちごもると、苛々いらいらした口調で、

「そんなものは良いから。きみのお蔭で、ぼくも良い気散きさんじができた、というものだ。鬱塞うっそくしていた気分も少しはましになったとも。さあ。行きたまえ。時間がない、時間が」

 と言い、せかせかと雅也の荷物を玄関まで運び、送り出すと云うよりは追い出すと云った案配で雅也を押し出したので、一宿一飯の礼を言うことすら雅也には叶わなかった。

 しかし、田中俊介の言ったことは誤りではなかった。

 苦労して荷物と共にグランパオの一階に下りた時、丁度鉦かねが鳴り、

「豚骨行きロババス、出発しますぅ」

 と云う銅鑼声どらごえが聞こえた。急いで声のした方へ行くと、田中の言った通り、客車を繋いだロバ車が出発しようとしていた。

「乗る! 乗ります!」

 と叫ぶと、車の最後部にあるドアが開き、ステップが降りて来た。

 雅也は荒い息を吐きながら荷物を抱えてステップを上がった。田中俊介の言った通り、客車の後部には荷物が積まれ、書籍雑誌類、楽器ケース様のもの、それに青菜などの野菜から、果ては生きた鶏から子豚に至るまで種々の貨物が詰め込まれていた。前方は客室になっていて、既に旅客がぎっしり並んで座っており、雅也の座る余地はなかったので、吊革に摑まって立つより他なかった。ロバ車は早速走り出す。

 ――しまった、田中さんに、豚骨駅までの所要時間を聞いていなかったぞ。

 雅也はえず荷物を最前部にまとめて置くと、そこに設けられている窓から御者台をうかがったが、直ぐにそれは窓ではなくドアも兼ねていることに気付き、掛け金を回して解除し、ドアを押した。朝の気持ちの良い外気が入って来る。

「すいません、御者さん?」

 呼び掛けると、三頭の小振りなロバを操りつつ、

「何だねェ?」

 と返辞をする。

「豚骨駅までは、何分掛かりますか?」

「そうじゃのう。先ず、半時間までは掛からんよ。平均して大体二十五分位だがね」

「そうですか」一つ気付いて、雅也は言った。「それ、随分小さいロバなんですね」

「うん? あんだって?」

 初老の御者は、パイプをくわえたまま、首だけ曲げて雅也を見た。

「小さいロバですね」

 やや大きな声で雅也が言うと、男は、

「これ、此奴こいつらのこっかい」

 とパイプで眼の前の灰色の動物たちを指す。

「ええ」

此奴こいつらはねえ、ロバとは違うのよ。一応判りやすくする為に〝ロバ車〟とは称しておるがね」

「でも、ロバと見分けが付かないじゃありませんか」

「そうさね。――一寸ね、あたしも素人なもんで、詳しいところは知らんのだがね、交配した結果生まれた品種らしいのよ」

 かたこと揺れる道を進みながら、親方は人懐こく話してくれるのであった。

「交配?」

「そ。何でも、ロバの種類にも色々あるらしいんだけどさ、アジアノロバ、って云ったかな、其奴そいつに、幾つかの血筋を掛け合わせたら、こう云う大きさの動物に仕上がった、っちゅう話だけどね。――あたしらは、〝ロバ〟とちごうて〝ドバ〟と呼んでおるがね。そら、よく見てみいや。足が短くて、胴長で、胴も頭も矩形でさ、耳は大抵のロバよか三倍も長げェでやんの。んだけど、頭は決して鈍かねえし、そうそう、人間が何喋っているのか理解している様な節もあってさ、好物のチョコレートくれてやって、頭撫でてやると、ブヒンブヒン啼いて結構可愛げがあるしさ、働き者だし、それなりに馬力はあるし、おれたちゃあ気に入ってるけどね」

「はああ、そうですか。面白いですねぇ」

「もう一寸で豚骨駅に着くから、そうしたらよく見てみるがええさ」

 それまでロバ車、いやドバ車が通って来たのは、丘の麓の見通しの利かぬ野道で、パオのテントも僅々きんきん数えるばかりだったが、やがて終着点「豚骨駅」に近くなると、にわかに賑わいを増して、行き交う人びとも数を増し、そうした人びとの邪魔とならぬ様、車は屡々しばしば一時停止しなければならなかった。が、一旦街中に入ってしまえば、車道と歩道の区別が判然はっきりしているので、一度歩き淀んだドバ車もた調子を取り戻して走り出した。

 ――成る程、こんな道では愚昧ぐまい禽獣きんじゅうには任せられないだろうな。こんな細かい所に行き届く知性を持っているのか、ほどねぇ、ふうむ。

 雅也はそう考えて独り頷くのであった。

 さて、グランパオから貨客を載せて走って来たドバ車は、御者の、

「ハイヨウ」

 と云うこえで停止した。御者は胴間声を響かせて、

「お乗りの皆さま、お疲れさまでした。無事、豚骨駅に到着致しました。どうぞお降りになって下さい」

 と宣言し、乗客たちは客車最後部のステップを降りて外に出て行く。逆に、荷受人たちは客車内に入って来て、発送を依頼したものらしき貨物を下ろして行く。雅也は、大荷物を抱えているので、勢い下車は最後になった。

 降りてから、前部に廻り、ドバ達の様子を見ると、三頭ともコーラのボトルをくわえている。

「へえ、コーラが好きなロバなんて、初めて見た」

 仕事しごと終えた、と云う風情でパイプを吹かしている御者の親方は、

「ええ、其奴そいつらは贅沢ぜいたくなことに、仕事の後はコーラを飲むんでさ。――もっとも、それ以外の餌の時間は水ですがね。屹度きっと暑いし、重労働の後なのでコーラが好きなんでさ」

 と暢気のんきな口調で言った。

一寸ちょっと、触って見ても構いませんか?」

「ええどうぞ、いたりはしませんから、ご随意に」

 雅也はコーラを飲み終えたばかりの真ん中の一頭に近付き、遠くから恐る恐る頭を撫でた。

 と、ドバはこういう扱いには慣れているらしく、

 ブヒン、ブヒン

 啼いて尻尾を振り、雅也に擦り寄って来た。

「お、お、可愛いなあ」

 雅也はその左右のドバの頭も撫でたのだが、今度はドバは懐いて来ず、

 ブヒーッ、ブヒーッ

 と啼いて雅也をてる様子。真ん中の一頭も、続けて、

 ブヒュン、ブヒュン

 といて鼻面で雅也をった。

「あれれ、嫌われちゃったのかなあ?」

 その言葉に、ドバの親方は、

「いいえさ。決してそう云う訳ではないでがしょう。見た所、ドバ共はおめぇさんを駅の方へ行かせたいみたいですがね」

 と、パイプの吸い口で豚骨駅の方を指して見せた。

「ははあ、列車が出発するんですね?」

 御者は時計に眼をやり、

「今、各駅停車が出たとこでさ。十五分後に快速急行が出まさぁ」

 そこで、雅也は腰を上げて豚骨駅に向かった。

 豚骨駅には自動券売機のような気の利いたものはなかった。いわんや自動改札機をや。従って、乗車希望者は発券窓口で券を購入することになる。雅也が窓口に立つと、五十前の小母さんが応対していた。小母さんは、

「あなた、何処どこまで行くの? 終点の土偶研究所までなら七ペカーリ、フリー・パスなら二十五ペカーリよ」

「そ、…行き先、って、だ決めてないんですけど」

「あら、目的がないのは悪いことだわ」小母さんはにわかに身を乗り出して来た。「あなたみたいのに必要なのは、目的意識ね。あなた、成人式の時何か言われなかった? あなたみたいのこそ、それこそ痲薬まやくに溺れたり、それから…」

 雅也は少したじたじとなったが、気を取り直して、

「――あのう、その、フリー・パスって、どんなのでしょう?」

「これはね、七日間、この軽便鉄道に乗り放題なの。少し高直たかいけど便利よ。快速急行に乗るには、別途快速急行券が必要だけどね。これにする?」

「ええ、それにしましょう。それと、快速急行券」

「快速急行は一等車から三等車まであるけど、どうします?」

「どう違うんですか?」

「一等は快速急行券の他に五ペカーリの座席指定券。二等は三ペカーリで自由席、三等は屋根を後から付けた無蓋むがい貨車」

 幸い、ペカーリは沢山持っているのだ。雅也は迷わず一等に乗ることに決めた。

「あなた、お金持ちね」小母さんはた身を乗り出して云った。「精々せいぜい気を付けることね。このパオにも、最近ごく一部だけどぼったくりみたいなところもあるから。…それから三等も野趣やしゅがあっていいものよ。それから、ほら…」

 小母さんはだ何か言いたげだったが、その時がらんがらん、と鐘が鳴って、

「土偶研行き快速急行、間もなく発車いたします」

 と云うアナウンスがあったので、マザー・メアリーの「智慧の御言葉みことば」は聞かれぬまま終わった。

 雅也が改札口に向かうと、他にもこの列車に乗りたい人びとが陸続りくぞくと集まって来ていた。改札口には列ができていて、雅也が切符にはさみを入れて貰ったのは、六番目か七番目だった。

 列車は先頭でアナクロニズムの蒸気機関車が煙を吐いていて、次に三等車らしきものが三輛、二等車の表記のあるもの二輛、一等車は人気がないのか一輛きりだった。

 雅也は迷わず一等車のデッキに足を掛けた。車室に這入はいると、意に反して少々混み合っていたが、雅也は何とか席を見付けることができた。指定された席は、

「八番 通路側」

 だった。座席はクッションが柔らかく、乗り心地は良さそうだった。

 雅也は何処で下車するか決めていなかったので、田中俊介に貰ったパンフレットを拡げた。すると、この「豚骨」駅から三駅離れた所に、「漢方薬研究所」と云う駅があった。お香のことも何か教えて貰えるのでは、と思い、雅也は同じボックス席にいた、黒髪の青年に、

「あのう、この列車は、〝漢方薬研究所〟駅には停まるのでしょうか?」

 と問うた。青年は、

「ジョナサン・リッチマンは、新来の客に対して、快速急行列車も、〝漢方薬研究所〟には停まります、と答えました」

 と言った。

「そうですか。どうも有難ありがとう」

 と言うと、

「ジョナサン・リッチマンは、礼を述べた乗客に、どういたしまして、と答えました」

 と言う。

 間もなく発車ベルが鳴り、機関車は汽笛を鳴らした。客車のドアは駅員が閉めた。

 そして、汽車は走り出した。何か身に覚えのある、変わった顫動しんどうだな、と雅也が汽車に意識を向けると、列車はペロタンのオルガヌム、第二モドゥスのリズムで走っているのだった。

 列車は文字通り快速で走り、軽便鉄道とは思えない素早さで二た駅を通過した。孰方どちらも駅名票が読み取れない程の速度である。

 ――こりゃあ、丸で鉄道版ミニ・クーパーと云ってもおかしくない程のゴーカート・フィーリングだな。日本に帰ったら、スピード狂の由美子に是非とも話してやらなきゃあ。

 と雅也が思った時、列車は緩やかに速度を落とし始めた。

「間もなく、〝漢方薬研究所〟です」

 と数カ国語でアナウンスがあり、列車はきわジェントルに速度をゆるめ、やがて無事にプラットフォームに滑り込んだ。

 客車のデッキに出ていた雅也は、駅員の手によって再びドアが開けられると、荷物を抱えてプラットフォームに降りた。幾分風が出て来たようで、何だか雲行きも怪しい。

 あめ来るかな、と思いながら、この駅で降りた五、六名の客に混じり、改札口で快速急行券を渡して駅前に出た雅也は、思わずその場で棒立ちになった。

 駅前には、宏壮こうそうな二層の建物があり、それは、

「吉田島漢方研究所」

 と云う看板を冠していた。

 それを眼にした時、雅也は一種の既視感の様なものを覚えていたのだが、それは余りにも不慥ふたしかなものだったので、ぐにそれを振り捨て、えず案内を請う為に扉を押した。

 すると、どうやら這入はいってぐのところは待合室になっているらしく、上等の緋毛氈が敷かれ、腰掛け椅子が数脚並び、四、五名の患者と思しき人びとが待っていた。

 雅也はどうしようか、と思ったのだが、この患者たちの用が済むまで待つしかないな、と判断し、自分も腰掛け椅子の客のうちに加わった。

 そして、馬手めてに腰掛けている、着物を着た品のよい老女の袖を引き、小声で、

「あのう、お宅も矢張り患者さんなんですか?」

 と問うと、

「そうですけど」

「失礼ですが、ここは…、どんな、――と云ったら失礼ですが、どう云ったご病気の方が来られるんでしょう?」

 すると、途端に老女はきっとした表情になり、

「それ、最高に失礼なご質問ですわ」

 と言うなりそっぽを向いてしまった。

 雅也は、何とか女の気を引いて、自分が決して悪意で問い掛けたのではないことを説き聞かせようとしたが、無駄な努力に終わった。と云うのも、その時奥の方で戸ががらりと開く音がして、白衣を着た中年の男が薬袋を持って現れたからである。男は、

「ええ、薬袋みないさん、薬袋みないさん」

 と手元の控えと待合室の客の顔とを引き比べていたが、直ぐに雅也の隣に腰掛けている件の婦人を見付け、

「薬袋さん、お薬出ました。今日も二週間分で宜しかったですね。どうかお大事になさって下さい」

 と言って、女も薬袋を受け取るとそそくさと漢方薬研究所を後にしたのだが、雅也は女のことはもうすっかり忘れてしまって、男の顔ばかりをじろじろ眺めていた。

 ――これは…、屹度きっと何かある。

 雅也は男を見上げながら呟いた。

 と、男も雅也の存在に気付き、雅也と視線が合ったのだが、お互い、

「あッ!!」

 と言ったのは同時だった。

「佐竹…だよな?」

「吉田島だな?」

 五分後、雅也は吉田島のオフィスで、秘書と称する女性が煎れてくれた中国茶を飲んでいた。吉田島は未だ応対の済んでいない患者がいるとかで、た診察室へ戻って行ってしまった。

 ――それにしても、吉田島と此処ここで会うとはなぁ。

 雅也は茶を啜りながら遠い眼をして、もう二〇年以上も前のことになる大学時代を思い出していた。ここで逢ったが百年目、とは云ったもので、流石の雅也も、大学の同窓生とこんな所で再会するとはゆめ思わなかったのである。

 茶を二杯ほど飲んだ所で、吉田島が戻って来た。頭髪はもう半白で、押し出しの良い大柄の身体にも確りと肉が付き、この地で活計かっけいを立てていることはよく判る。

「いやあ、あれからもう何十年振りになるかなぁ」

 吉田島は感慨深げな面持ちで言う。

「ぼくはパオへ来るのは今回が初めてなんだが…。まさか同窓生と会うことになるとは思わなかった」

「いや、ぼくもね、ここでこうやって開業するのは、宿意には反したことなんだ。――ぼくは、理学部では有機化学の研究室に入った。で、卒業後は薬学部の三年生に編入して、大学院では薬力学を専攻したんだが、中国へ留学したい、と思ったのはその時なんだ。当時はぼくの実家は、薬屋から発展して、規模こそ小さいがドラッグストア・チェーンを経営していた。景気も中々良かったのだが、ぼくが中国にいる間に、親父が頓死とんししてね。家の方は、幸い姉も薬剤師の免許など取得していたから問題は特になかったのだが、ぼくを遊学させておく余裕はない、と云われてね。そんな時に、これこれこんな地域がある、とひとに聞かされて、試しに一遍、と思って来てみたら文字通りハマってしまってね。早速自分のパオを持って、こうして段々規模を大きくして、現在に至る、と云う訳なんだ」

「へえ。経済の方はどうなの? ――その、ここでは何でもやすく取引するだろ?」

「ああ、そう云うこと。其方そっちも抜かりはないよ。パオの現住者とは此方こっちの相場で取引して、日本から漢方を求めに来る製薬業者とは円単位で取引するんだ。お蔭で、相当な資産ができた」

「でも、ここに骨を埋めてしまって良いのかね? きみ、北海道にいた頃、付き合ってた女の子がいたろう?」

「いやあ、もうそんな気持ちは更々ないね。真喜子には中国と札幌とで手紙のやり取りをしてきちんと片を付けたし、後腐あとぐされはないよ。――そんなことより、きみはどうして今時こんな所に来たんだ? きみは…、たしか、学部進学の時はおれと同じ理学部化学科でも、生化学の教室に入った筈だよな」

 雅也は大雑把な身の上話をした。吉田島は煙草を吸いつつ聞いていたが、

「なんと、お前小説家になっていたのかぁ。そりゃ、大したもんだ。――とすると、今回の来包も取材の為か?」

「いやぁ、それが違うんだな。こんな話をすると莫迦ばかみたいに思われるかも知れないが、実はそのペン・ネームが逃げ出してしまったのさ」

「ペン・ネームが? 何があったんだ、一体?」

 雅也は吉田島にことの顛末を話した。そして、ついでに玉青丹ぎょくせいたんと云う香のことを知らないかと問うてみた。

「そうか、そんなことがあったのか…。小説家と云うのも大変な稼業だな。おれの所では、お香の類いは扱わない。何か知りたければ、この先の〝図書館都市〟に行ってみたらどうだい?」

 云われて雅也は田中俊介に貰ったパンフレットを取り出した。見ると、吉田島の言う通りに、ここから二た駅先に当該の駅はあった。次はここを訪れてみることにする。

「所でさ」雅也は最前から気懸かりだったことを問うた。「先刻さっきぼくの前にいたお婆さん、ぼくが、何気なくどこが悪いか、と訊くと、えらい勢いで怒り出して無礼千万、手打ちに致す、と言い兼ねまじきご様子だったんだけど、実際どこが悪いんだい?」

 すると吉田島はにわかに笑い出し、腹を抱えて笑い転げ、仕舞には椅子から転げ落ちるのではないか、と案じられる程だった。

「あああ」吉田島は、笑いの発作が一段落付くと、一と口茶を啜って気を鎮めた。しかし、発作は断続的に起こるらしく、まともに口が利けるようになったのは十分も経ってからのことだった。

「悪いわるい」吉田島は謝った。「いやね、ご本人の背後で第三者にこういう話をするのも良くないのだが、答えは単純明快。まり、と水虫さ」

「おいど?」

「判らんか。痔疾だよ」

 それを聞いた雅也もあははは、と笑った。吉田島も雅也と共に笑い方のおいでもするように笑ったが、やがて真面目な表情に戻り、

しかしだな、ペン・ネームが逃げ出すだなんて、そんな三文小説的なことが現実に起こるとはね。ペン・ネームと云うのは、作家にとっては実際奈何どういう意味合いを持つものなのかね?」

 と問うた。

 雅也は少しばかり考えて、

「それは、ひとによって違うと思うな」と答えた。「ひとによっては、多数のペン・ネームを使い分け、それらを使いこなすひともいるし…。まあ、ぼくの場合は、第二人格である、と云って構わないと思う」

 吉田島は意外そうに、

「ふうん。そうすると、確固たる別個の人格なのかい?」

「――うん、まあそうだな。だから、ぼくはたけペン・ネームには気を遣って来たつもりなんだがね。なるべくペン・ネームが気を悪くしそうにないものを書いて来たつもりなんだが…」

 すると吉田島は、

「ええッ!?」と言った。「ぼくは、ペン・ネームと云うものは、作家が使嗾しそうして小説なり詩なりを書くものだとばかり思っていた。それは違うのかい?」

 と問う。

「そうだなあ…」雅也はしばし考え込む。「…、うん、ペン・ネームと云うものは、ぼくに、大袈裟にいえば、芸術的直感、つまりインスピレーションを与えてくれるものであって…、それをタネにしてぼくは作品を書かせて貰う。――とまあ、そんな感じかな」

「じゃあ、きみはストーリーを考えるのではないのか?」

「ああ、違うね」雅也は言下に言った。「ペン・ネームは、ぼくに〝書かせてくれる〟ものなんだよ。本当はぼくが主体的になって書いては不可いけないんだ。飽く迄も二人三脚でなくては」

 吉田島は、ゆっくり考えながら、

「そうすると…、きみのペン・ネームが逃げ出した、と云うことは…、きみのペン・ネームが気に入らないことを…、きみが書いた、と云うことなのかな?」

「その通り。どうやらそうらしいんだよ。――ぼくの方にも身に覚えがない訳じゃないんだ。ぼくのペン・ネームはぼくが〝頭で拵えた〟話を書くのを酷く嫌っていたんだが、ちょっと前にぼくが〝トラ〟の仕事をした時にさ」

「何の仕事だって?」

「ああ、――別の作家が雑誌に寄稿するはずのところ、タネ切れとか病気とかで空白のページができそうな時に、代筆する仕事。臨時の仕事、〝ピンチ・打者ヒッター〟さ。それを二、三度する機会があったんだが、その時、ペン・ネームに相談しないで、自前で知恵を絞って、ストーリーをこさえてしまったんだ。――んで、ぼくのペン・ネームはそれが気に入らなくて、ぼくの許から逃げ出した、と云う訳。で、書き置きを手掛かりにして、ぼくはここに来たのさ」

ちなみに、ペン・ネームは何と云うんだ?」

「竹生健、と云うんだ」

「たけふ、けん、かあ。日本のものだから余計だが、ぼくは小説は読まないから、判らないなあ」

「そうだろうな」

 と、吉田島はにわかに顔を輝かせ、

「そうだ、妙案がある。別のペン・ネームを付けたらいい」

「それなんだがねえ」雅也は溜め息を吐いた。「できたらそうしたいんだ。が、できそうだが、無理なんだよねえ」

「どうしてさ?」

「ひとに付けて貰ったペン・ネームだからね。しかも、もうお亡くなりになっている方なんでね」

「誰だい、それは? 差し障りがなきゃ教えて貰いたいんだが」

「高田先生なんだよ」

「あーっ、生化学の。そうか、もう過去帳に入っておいでなのか」

「もう三年になるんだがね」

「そうかそうか。じゃあ、別のひとに頼んで、新しくペン・ネームを付けて貰ったらどうなんだ?」

「それも一案だが、今のペン・ネームで連載している原稿もあるんだ。それに、万が一竹生健に絶交されたら、元も子もない」

「そうだなあ」吉田島は腕組みをした。「おれには、それ以外にいい案は浮かばんなあ、済まないが」

 頭を掻く吉田島に、

「いやあ。こうして持てなして貰っているだけでも幸せさ。後は自分の責任だから」

「そう、それで思い出したが、夕食食べて、今夜は泊まって行けよ。それとも、先を急ぐのか?」

いや、本当は急いだ方が良いのだろうが、昨日グランパオで田中さんに泊めて貰った時、何だか〝自分の意志の逆を行け〟というようなことを言われているし、今夜はありがたく泊めて頂くよ。図書館都市へは明日寄ってみる」

「そうか。…で、夕食は何が食べたい? 大抵のものなら用意できるが」

「そう? そうだなあ、じゃあお言葉に甘えて、鰻なんかどうだろう?」

「ああ、それなら冷蔵庫に蒲焼きを仕入れたばかりだったと思う。じゃあ、鰻重を肴に一杯行くか」

「了解だ」

 やがて、人種は定かではないが下働きの者の手で料理の準備が調い、二人は生ビールで乾杯した。

「きみ、家族はいるのかい?」

 吉田島が問う。

「ああ、妻がいる。子供はまだない」

「そうか…」吉田島は遠い眼をした。「おれも経済的なことさえなければ、日本へ帰って結婚して子供も欲しいところだが。機を逸したな」

「今からだって遅くないじゃないか。インターネットだってあるんだし、この代でこんな立派な店を潰してしまう、なんて惜しいじゃないか」

「うん、まあそれはそうだが…。知ってるか、〝パオに一旦入った者は二度と出られない〟という謂いを」

「いや…、初耳だ」

「今のおれがまさにそれだ。仮令たといおれがパオから出た、いや出られたとしても、屹度きっと破綻するだろうね」

「そんなの、だ判らないじゃないか」

「いやおれには判るよ実感として」

「…ふうん。そうかあ」

「そうなんだ」そこで吉田島は自分が座の雰囲気を暗くしてしまったことに気付いたらしく、語気を改めて、「所でさ、折角だし景気づけに寮歌でも歌わないか? 記憶の底に、だ残ってるはずだ」

 吉田島の提案に、雅也はすぐさま、

「了解だ!」と応じた。「何から歌う?」

「矢張り、〝永遠とこしえの幸〟からだろうな」と言うと、酔いの回った銅鑼声を張り上げ、「札幌農学校校歌! 大和田建樹氏校閲、有島武郎君作歌、納所弁次郎氏撰曲、〝永遠の幸〟!」

りょう!」

「〝永遠の幸〟! アイン、ツヴァイ、ドライ!」

 ここで二人は声を揃えて歌い出した。


「永遠の幸 朽ちざる誉 つねに我等がうへにあれ

 よるひる育て あけくれ教え 人となしし我庭に

  イザイザイザ うちつれて 進むは今ぞ

  豊平の川 尽せぬながれ 友たれ永く友たれ


 北斗をつかん たかき希望のぞみは 時を照す光なり

 深雪みゆきを凌ぐ 潔き節操みさおは 国を守る力なり


 山は裂くとも 海はあすとも 真理正義おつべしや

 不朽を求め 意気相ゆるす 我等丈夫ますらお此にあり」


 二人は拍手をして歌を締め括った。

「これで終わりとは云うまいぞ」雅也は騎虎きこの勢いで言った。「大正九年、桜星会歌!」

「了!」

「〝瓔珞ようらくみがく〟! アイン、ツヴァイ、ドライ!」

 た二人は歌い出す。


「瓔珞みがく石狩の 源遠く訪ひくれば

 原始の森はくらくして 雪解ゆきげの泉玉と湧く


 はま茄子なすあか磯辺いそべにも 鈴蘭すずらんかおる谷間にも

 愛奴アイヌの姿薄れゆく 蝦夷えぞの昔をおもふかな


 今円山の桜花 歴史はりて四十年

 吾が学びの先人が 建てしいさをはいや栄ゆ


 その絢爛けんらんはながすみ 憧憬あこがれ集う四百の

 健児が希望のぞみ深ければ 北斗に強き黙示あり


 醜雲消えて人の世に 陽光はうららかに輝けど

 風の名残のつきやらで 狂瀾さわぐ今し今


 潮に暮るる西の空 月も凍らむシベリアの

 吾が皇軍を思ひては 猛けき心の踊らずや


 白銀狂ふ埋れ路も 踏みて拓かむわが前途

 はろけき牧場に嘯けば 雲影はやし草の波


 想を秘めし若人が 唇かたくほほゑみつ

 仰げば高く聳え立つ 羊蹄山に雪潔し」


 唄い終えると、二人は復た拍手した。

「まだ行くか?」

「行くともさ。〝都ぞ弥生〟と行こうではないか」

 と云うと吉田島は立ち上がり、徐に、〝楡陵謳春賦ゆりょうおうしゅんふ〟を唱えだした。

吾等われら三年みとせちぎる絢爛のその饗宴うたげはげに過ぎ易し」

「了!」

しかれども見ずやきゅうほくまたた星斗せいと永遠とわに曇りなく、雲とまがふ万朶ばんだ桜花おうか久遠くおんに萎えざるを」

「了!」

ともどもいたずらに明日の運命さだめなげかんよりはりんかかりを焚たきて、去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌うたはん」

「了!」

「明治四十五年度寮歌、横山芳介君作歌、赤木顕次君作曲、〝都ぞ弥生〟! アイン、ツヴァイ、ドライ!」


「都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂う宴遊うたげむしろ

 尽きせぬおごりに濃き紅や その春暮れては移らふ色の

 夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて

   星影冴かに光れる北を

   人の世の 清き国ぞとあこがれぬ


 豊かに稔れる石狩の野に かりがね遙々はるばる沈みてゆけば

 羊群声なく牧舎に帰り 手稲の嶺いただき黄昏たそがれこめぬ

 雄々しくそびゆるエルムの梢 打振る野分のわき破壊はゑの葉音の

   さやめくいらか久遠くおんの光り

   おごそかに 北極星を仰ぐかな


 寒月懸かかれる針葉樹林 そりの音凍りて物皆寒く

 野もせに乱るる清白の雪 沈黙しじま暁霏々ひひとしてして舞う

 ああその朔風さくふう飆々ひょうひょうとして すさぶる吹雪の逆巻くを見よ

   ああその蒼空そうくう梢聯つらねて

   樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ


 牧場まきば若草陽炎かげろふ燃えて 森には桂の新緑萌きざ

 雲ゆく雲雀ひばり延齢えんれいそうの 真白ましろの花影さゆらぎて立つ

 今こそ溢れぬ清和せいわ陽光ひかり 小河のほとりをさまよひゆけば

   うつくしからずや咲く水芭蕉

   春の日の この北の国幸多し


 朝雲流れて金色に照り 平原果てなきひんがしの空

 連なる山脈玲瓏れいろうとして 今しも輝く紫紺しこんの雪に

 自然の藝術たくみなつかしみつつ 高鳴る血潮のほとばしりもて

   とうとき野心のをしへ培ひ

   栄え行く 我らが寮を誇らずや」


 そうして、騎虎の勢いで〝ストームの歌〟なる代物まで二人はがなり立てるのであった。


「 ――醒めよ迷ひの夢さめよ

      醒めよ迷ひの夢さめよ――


 札幌農学校は蝦夷ヶ島えぞがしま 熊が

  荒野あれのに建てたる大校舎コチャ

 エルムのかげで真理解く

  コチャエ コチャエ


 札幌農学校は蝦夷ヶ島 手稲山

  夕焼け小焼けのするところコチャ

 牧草片敷き詩集読む コチャエ コチャエ


 札幌農学校は蝦夷ヶ島 クラーク氏

  ビーアンビシャスボーイズとコチャ

 学府の基を残し行く コチャエ コチャエ」


 歌い終わると、吉田島には稍疲れの色が見えたが、雅也は、

「もう一曲」と云った。「もう一曲、最後に」

「どの曲だ?」

 吉田島は声が嗄れている。加之しかのみならず、眼が血走って赤くなり、額には脂汗が浮いている。

「水泳部の部歌なんだが」

「おれはその歌は知らん。掛け声は掛けるから、後は一人で歌ってくれ。おれは兎に角もう声が出ないよ。考えてみれば、パオにはカラオケ装置みたいな気の利いたものにはお目に掛からないからな。歌うこと自体、おれには十数年ぶりのことだよ」

 そんな訳で、雅也は独唱することになった。


「昭和十一年度、水泳部部歌! 築城武義君作歌、柳沢三郎君作曲!」

「了!」

「アイン、ツヴァイ、ドライ!」


「春猶浅し北溟きたくに 雪解のましみず併せ来る

 石狩川の清流ながれにも 吾等が力譬たとうべし

 たけき心の丈夫ますらおは にくたんかこつかな



 見よ清澄の北斗の蒼空 永劫の群星きらめいて

 荘厳の気は充つるなり 意気と熱情に培はれ

 吾等が承けし伝統の 歴史は経りて十五年



 楡の樹木に陽は射して 郭公かっこう啼声ていせい哀れなり

 しぶきの虹も消ゆる頃 営み終えて波静か

 朋友が友情の熱ければ 血戻の日の夢悲し



 あゝアカシアの花咲きて 石狩の野に風渡る

 大地に立ちて吾呼べば 若き生命の胸に充つ

  いでや制覇の剛剣を把り 津軽の海峡を超え行かん」


 醺々然としていた雅也も次第に酔いが醒め、水泳部の部歌を唄い終える頃には完全に素面だった。

「きみも長旅の途中で疲れたろう」吉田島は云った。「そろそろ休むか」

「ああ、そうさせて貰おうかな」雅也は欠伸をした。「明日もあるし」

「そうだ。きみ、明日以降宿は決まっているのか?」

「いやあ。風の向くまま、さ」

「それじゃあ、どうせならここを拠点にしたらどうだ? 宿賃は只だし、交通の便もいい」

「いや、それは悪いよ」

「悪遠慮するなって。同じ寮歌を歌った仲だろう」

「…そうかい。じゃあ、折角だからそうさせて貰うかな。どうもありがとう。恩に着るよ。でも、ただって訳には行かないな」

「いいって。パオでは金銭のやり取りは最低限しか行われないことになっているんだ。気にしなくていい」

「そうか」

 ということで、雅也は当面吉田島の研究所を〝根城〟にして行動することに決まってしまった。えず明日は隣の〝図書館都市〟に向かうことにして、雅也は宛がわれた寝室に引き取った。

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