G.
クウェンビーの言葉通り、クレイジーマンのハンドル
「診療所、って云うのは、何処にあるの?」
問うと、リッチーは
「場所は、そうだね、あのログハウスからは五マイル、ってとこだな」
五マイル=約八キロか、と雅也は暗算する。
「医者が、いるんだよね?」
すると、リッチーは
「まあねえ」と言う。雅也がそれを
「何だい、
と言うと、リッチー・クレイジーマンは遂に吹き出した。
「何だよ」
「
と相変わらずひとを喰ったような物言いをする。
車は荒れ地を揺れに揺れ
――一体、この男、ぼくを何処に連れて行く積もりなんだろう?
雅也が
「ここさ」リッチーは言った。「――まァ、連中ならうまいことしてくれるだろうな」
と
「いやァ、きみには世話になったなあ。こんな形でお別れしなきゃならないのは、実に残念だ。きみは、我われの為に一つブレイクスルーをやってくれたからなあ。いやあ、誠に残念だが仕方のないことだ。
車は停止し、クレイジーマンはエンジンを切って運転席から飛び降りた。雅也も、あちこち痛む身体を持て余しつつ地面に降りた。
リッチーは
戸を叩いてからたっぷり一分間も経った頃だろうか、ドアは中から細めに開いた。中にいる人物は顔が定かに見えないが、リッチーと何やら話し合う声から男性だとは見当が付いた。――だが、非常に奇妙なことなのだけれど、その声には
――ええっと、こう云うのは、〝既視感〟とは言わないのかな?
それは、ジョン・レノンだったのだ。
――ええっ!?
と雅也は驚き呆れて見直したのだが、何度見ても変わらない。けれども、雅也はどういう訳か、
――ああ、
と
雅也は眼を
間違いない。
――
雅也は叫び出したくなる思いを必死で
――
雅也の理性はそう訴えたが、本能はそれを否定するのだ。
と、「じょん・れのん」氏は近付いて来て、雅也に右手を差し出した。雅也は
「今日は。インターンですが、ジョン・レノンと申します」
「ははあ」雅也は頭の中が白くなり、喉がからからに
「もっちろん」ジョンは言った。「さ、中に
クレイジーマンは、雅也の背を強く二、三度叩き、
「マサヤ、幸運を祈るよ」
と大声で言い、
雅也はジョンの後に従って木造の小屋に
そこでもう一つ雅也は
「おおいポール、患者だぞ。新患だ」
と、その言葉が終わるか終わらぬかの内に、手前に置かれた診察用ベッドの向こうの白いカーテンを
「新患だって?
ジョンは
「そう。トラマールボアに
すると、ポールは
「何だよ。――もう、腕がむずむずするんだよね。何かこう、もっと
「こら、おれたちは
「あのう」
雅也は
「お二人、大学はどちらをご卒業なさったんですか?」
そう問われると、二人は顔を見合わせて黙って
雅也はそこで機転を利かせて、
「そうそう、オックスブリッジ、ってとこじゃないですか?」
すると二人は声を揃えて、
「それ、いいじゃん!」
ポールは、
「じゃ、早速新しい履歴書を書かないと」
雅也は続けて、
「リンゴさんはどちらに?」
ポールは
「リンゴは話し方教室に行ってる」
ジョンは、雅也の背を押し、
「さ、診察台に横になって。
と言いつつ、手袋をはめた。
ボアの
「どうも
ジョンとポールは顔を見合わせた。
「
雅也はたじろいだ。
「よ、要求? …例えば、どんな?」
「えーっとね」とポール。「色々あるけど、
そこで
「いるのは?」
雅也は
「いやぁ、大したことじゃあない。――
「そうなんだよ。それで大弱りしていたところへ、あんたが来てくれたんだ」
「そう、そう。構わないから、
「なっ、なっ、何に?」
ジョンとポールは口を揃えて、
「ウノの仲間に入って欲しいんだ」
「うの?」と雅也。「それって…、イタリアで生まれたカード・ゲームのこと?」
二人共声を揃えて、
「そうそう。それなんだ」
と言った。ジョンはぽつりと、
「あのゲームはさ、絶対三人以上いないとおもろないんだよね」
ポールも、
「そうそう。二人でやってると、必ず
「相手が女の子なら
「ああ、そう云うことかあ」雅也は云った。「じゃあ、早速」
「一寸、待って」とジョンが言った。「
と、ポールが、
「えっ、言っちゃうの?」
「うう、先に言っておいた方が、少なくともフェアだと思うんだよね」
「何の話?」
「あのう、実はさ、リンゴの奴、どういう
「う、うん」悪い予感がしたが、雅也は
「それがさ」とジョンが云った。「バーボンの瓶に、タバスコを一本丸々流し込んだやつがあるんだよ。そいつを、一気呑みする、ってんだけど」
「ええーッ」雅也は
ポールは、
「大丈夫。それなら特例として、コークで割ってもいいよ」
「やれやれ。リンゴは
「それがさ」ジョンは済まなさそうに、「今夜は泊まり込みコースだ、ってことだ」
「うひゃー…」
ポールは雅也の背中をポンと叩いた。
「大丈夫、大丈夫。
そう言って、雅也は有無も云わさず奥へ連れ込まれた。
白いカーテンの奥は医師の待機所になっているらしく、円形の卓子が置かれており、その上にカードが三人分配られていた。
「ええっと、ジョンはこの席だろ、ぼくは此処で…、マサヤはこの席だ」
ポールに指図される
「じゃあ、ゲーム開始」
ジョンが宣言して、ゲームは始まった。
所が、こりゃ一寸妙だな、と云う感はゲーム開始直後からあった。雅也は、自分の手の中に、四枚カードを引かねばならない「ドロー・フォー」や、同じく二枚の「ドロー・ツー」といったカードを何枚も見出していたのだが、隣のポールの方がカードの枚数は明らかに多い。
雅也は、まさか、とは思ったが、その「まさか」が「まさか」だったのだ。
ゲームが進むに連れ、ポールの手にカードはどんどん蓄積して行き、逆にジョンと雅也のカードは見る見る減って行く。
「…ウノ」
雅也が先に宣言した。その雅也の顔をちらりと
ジョンが青の「2」を出し、ポールは
雅也は赤の「2」を出し、ゲームを
ジョンは赤の「ドロー・ツー」を出し、同時に「ウノ」を宣言した。
ポールはそこで、
「ちょい、待ち」と言った。「こりゃあ、おかしいよ。きみらの手からはカードがどんどんなくなって行くと云うのに、ぼくの方には溜まる一方だ。これは筋書きと違う」
ジョンは無関心そうな口振りで、
「ああ、そうらしいね」と言った。「でも、マサヤをその席に座らせたのはきみだぜ? リンゴが何処に座っていたか、
「そうかな」とポール。「だけど、ぼく、タバスコって奴、大っ嫌いなんだけどな。何とか…」
「そりゃあ問題じゃないな」とジョンはけんもほろろに云う。「罰ゲームだって、
「そ、そんなぁ」ポールはもうべそを
雅也は急にポールが気の毒になって来て、一つ申し出ることにした。
「よし、じゃあ、ぼくがその、タバスコ入りワイルド・ターキーとやらの代物を一緒に呑もう。半分ずつ呑めばいいだろう。それでどう?」
それを聞いたジョンは、
「これこれ」と言った。「これは飽く迄、
「だけど」と
と、ジョンはどん、と卓子を叩き、
「いる、いないは問題(To be or not to be that's not )じゃないんだ。(question) 一番の
雅也は、
「じゃあ、どうせやるなら三人で楽しく呑もうや。この案はどう? 中々名案だと思うんだけど」
するとジョンは鼻の穴を膨らませて、
「ようし」と言った。「リンゴを
「助かったぁ」
ポールは心底ほっとした顔で言い、立ち上がるとドアを開けて
「あれっ、タバスコは?」
「えぇーっ」ポールは異を唱える。「
「うん」ジョンは何と言うこともなしに
その後も幾らか
雅也が見ていると、ジョンはタバスコをよく振り、ぐいッと呑んでからワイルド・ターキーに手を出している。
雅也はコークで割ったバーボンを少しずつ呑み
「
二人とも、
「そうさ」
「無論」
と応じる。
「でも…、ぼくは患者だし…」
「経過を
「それに、
「ぼ、ぼくは看護師の資格すら持っていないよ」
「大丈夫。そら、よく云うだろ、〝枯れ木も山の
「それ、一寸ニュアンスが違うんじゃないかな?」
「まあ、それはそれとして、きみは今日、リンゴの代役をちゃんと務めてくれた。従って、それだけでもきみには今夜ここで一泊する権利がある」
「そうか」雅也は考えた。「でも、明日はどうなるんだろうな?」
「明日は明日、今日は今日。ま、明日はグランパオまで送るから、それからゆっくり考えな。
「そうかい。それは
「勿論さ。ミニ・クーパーだよ」
「紫色のね。マーク・ボランが
「レストアしたんだ」
「うえっ、ヤなこと言うなよ」
「
二人は、雅也は診療台の上で休むべきだ、と主張したので、反論すべき確固たる
赤坂はその夏の朝、
ストレスの
今赤坂は夏休みを貰って研究所は休んでいた。が、赤坂は自分でも薄々気付いてはいたが、少々精神面で変調を来していた――HPCモードに入った時も、視界の片隅で〝要注意〟を促す赤色の点滅が見えた。今この夏休み中、赤坂は夜眠れずに昼間休み、眠ると必ず
赤坂はマンションを出ると、幽霊のようにその辺を歩き回った。赤坂はマリャベッキ博士の好意で、JR川崎駅近辺の一等地に建つ3LDKのマンションを借りており、趣味の鉄道模型のレイアウトも一室に収めることができた。だが、
赤坂はクラブ・チッタのある界隈までふらりと歩き、ふと気が付くとその隣にジョナサンがあるのを見付け、ふらりと
ジョナサンで
川崎駅前に着くと、
奥の席に陣取ってゆったりした気分でハンバーガーやハッシュト・ポテト、コーラなどを腹に入れると、
赤坂はベッカーズを出ると駅へ戻り、HPCモードに入り、電子マネーで最低運賃を払って構内に入った。
「アクティー」は定刻にやって来た。赤坂は乗り込んで早速二階席に上がったが、通勤通学客が多く、通路側の席しか見付からなかった。
電車は間もなく出発した。そして、あっという間に終着駅の小田原に着いた。
――
と赤坂は迷ったが、丁度向かいの番線に熱海行きが停まっているのを見て、沼津まで行って見ることで気持ちが固まった。そうと決まると、視界の隅で点滅している、
「要注意」
を示す
沼津で復た空腹感を覚えた。駅構内の店舗には弁当が山積みされていて、
小田原からは復た「アクティー」に乗る積もりだったが、
が、そうは
車掌に乗車券の提示を求められると、赤坂は相変わらずぼんやりした頭で何の気もなしに川崎の隣駅まで買って置いた券を車掌に手渡した。
車掌は、
「川崎から」
と答えた。車掌は、手持ちの金を
「これを渡すから、次で降りて」
と云って、二宮駅までの切符を切ってくれた。
赤坂は二宮の改札を通り、駅前にミニストップがあるのを認めて、
――これで金が下ろせる。
とほっとした気分になった。銀行の口座には、数百万円の預金があったからだ。
気が
山を下りるとストアで金を下ろし、
川崎の自宅マンションに帰ると、マリャベッキ博士からの〝緊急メッセージ〟も入っていたが、
間もなく、夢もない
雅也は不意と眼を醒ました。時計を見ると、午前八時を回っていた。
と、カーテンが開いて、ポールが姿を見せた。
「おやぁ」とポールはにこやかに言葉を掛けて来た。「お客さん――、じゃなかった、患者さん、お目覚めかい。…傷の経過は悪くないみたいだね。――ぼくら、朝食にするところなんだ。良かったら一緒にどう?」
「喜んで頂くよ」雅也は答えた。「きみらが調理したの?」
「ムッチロン」ポールは答える。「全部、始めから終わりまで、ぼくらが面倒を見るよ。調理、給仕、後片付けまでね」
早くおいでよ、との言葉を残してポールは去った。
雅也は一旦診療所の外に出、水道の栓を開いて冷たい水で顔を洗い、
「おおっ、これこそぼくが求めていたもの。イングリッシュ・ブレックファストじゃないか」
と叫んだ。医師待機所にはキッチンの設備もあるらしく、何かが焼ける音と焦げる匂いがした。
給仕はジョンだった。白衣にコック帽を被っている。
「マーマレード付き――或いは蜂蜜でも良いけど、
雅也は、
「いえいえ、ぼくはハム・エッグで結構。――できたら、スクランブルド・エッグの方が嬉しいけど、
雅也はジョンの給仕でたっぷり朝食を取ることができた。
そればかりか、ジョンとポールは、食事中の雅也の眼前で、コサック・ダンスまで
文字通り
「どうかな、ぼくらのダンスは?」
ジョンは眼鏡を直し
その
「長期療養の患者さんが
雅也は、こみ上げて来る笑いを必死で
「うん、そうね。盲腸とか、開腹手術の
すると二人は、急にべそを
「それ、考えてなかったなァ」
とジョンは言った。が、ポールは何か思い付いたらしく、
「いや、待てよ。あのひとならどうだろうかね?」
「だっ、誰っ!?」
ジョンと雅也は同時に問うた。ポールは
「イ…イアン・アンダーソン」
ジョンが最初に言葉を発し、
「…ん、まぁ精神科なら
とコメントした。雅也は、腕組みして、
「それなら、もっと相応しいひとが日本にいる」
「へえ?」
とジョン。
「誰? どうやってコンタクトを取るのかな?」
とはポール。
「ギリヤーク尼ヶ崎、って云うひとなんだけど…。
「ギリヤーク?」とポール。「ひょっとしてロシア系?」
それを受けてジョンは、
「それなら知ってるよ。あれは…ゴ、ゴル…、そうだ、デューク東郷、っていたろう。それと関係あるんじゃないの?」
「いやいや、違うちがう」雅也は顔の前で手を振って否定した。「デューク東郷なんざを呼んだ
と、ポールが時計を見て、
「いかん。あと十分で診察時間が始まる。遅れたことがばれたら、ムルの親方に
「うん。もう準備万端抜かりはないよ」
「じゃ、これから送るよ」
雅也は
ポールは、ちょっと車を取りに行って来る、と云って裏手の方に廻り、
「ほ、本気なの?」
雅也が問うと、ポールは
「もう時間がないから、早く乗ってよ」
と
「ちょい、時間短縮したいから、
と
――獣道なんて云うけど、まるで道なんかないじゃないの。
雅也は
だが、ものの六、七分も走った頃だろうか、木立ちは
雅也は
「七分半か。ま、まずまずの記録だな」
ポールは平気な顔をして言う。
「い、何時もあんな運転をしているの?」
「いやぁ。お客さまを歓迎するために、時々ね。今日は時間の都合もあったし」
「ぼくは心臓が止まりそうになったよ」
「そうかい。――そら、
「ああ、そうか。いや、朝食までご
「いや、良いのさ。ぼくらも楽しかったし。
ポールは雅也の荷物を下ろすのを手伝ってくれ、それが済むと、
「じゃあ、またね」
と言い残し、紫のミニ・クーパーで去って行った。
独り残された雅也は、グランパオの円形の建物を見上げ
雅也が青いドアに近寄ると、
「包へ迷い込んだ方へ」
と云う、ひとを半分小馬鹿にしたような文句が各国語で書かれている。
が他に行く場所も行動の
中に
部屋の奥はガラス戸になっているが、クリーム色をした厚地のカーテンが下りていて、中を
雅也は
「
と問うた。青年は、
「さあ、ひとによりけりらしいがね。おいらは、
と答えた。
と、ガラス戸が開いて、奥から喜色満面と云った
「アグヌス・デイを
と礼を言って小部屋を出て行った。
雅也は、ドレッド・ヘアの青年に、
「遊び尽くしちゃった、って、
と言うと、青年は、
「いや、探そうと思えば遊び場は幾らでも見付かるさ。UFO研究所は大当たりだったなあ、実に」
と言い、
「ぼく、実はガイドブックとか何も用意しないで来ちゃったんだけどさ」
雅也が言うと、
「ああ、それならその方がずっと良いかも知れないな。困ったり
青年は意外なことを言って、雅也にウインクして見せたのだった。
間もなく青年の番になり、五分程で出て来ると、
「じゃあ、良い旅を祈るよ」
と言って雅也に
黒人青年の次は雅也しかいないので、恐る恐る相談室のドアを押した。
ドアの向こうで待っていたのは、日本人らしき中年の女性だった。応接室用のソファに深く腰を掛けて雅也を迎える。
「
雅也がびくびくして挨拶すると、
「いらっしゃい。
と優しげな声を掛けてくれた。
雅也が重い荷物を室の
「あなた、
と問うて来る。雅也が
「ええと、
「あ、申し遅れまして。佐竹雅也と申します」
すると、女性はそれ
「これは、必要としている方にしか使わないものなの」
と言った。そして、キーボードを操作し、何やらデータを打ち込んだ。それから、
「
「ど、どう云うことですか?」
「あなたは、此処で人捜しをしているでしょう?」
その問いが
「え、ええ…」
と云う
「大丈夫、あなたが
雅也は
その作業が済むと、
「あなた、来て早々、〝
と言った。
「えっ? 包疲れ、ですって?」
「そう。この
「ああ」雅也は何となく判るような気がして
「それ、違うわ」女性は静かな声で否定した。「
「――はあ」
雅也には返す言葉がない。
「
「――
「いいえ」女性は首を振った。「ここでは計画など立てても無駄に終わることくらい、あなたも判っている
「――じゃあ、どうすればいいんです?」
「あなた、
「田中…俊介? ええ、会いませんが」
「一回、会っておくといいわ。――
女は立ち上がると、雅也から見て左側にある電話台に向かった。短縮番号を押す。
「あ、一階の田辺です。――はい、はい、そういう方が一名、ここに来ておられまして。今夜は――、あ、そうですか。判りました。では、お伝えして置きますので、どうぞ
通話が終わると、女性は嬉しげに両手を
「良かったわね。田中先生、会って下さるんですって」
「田中…」雅也は記憶の
「このグランパオの三階で
「は、はあ」
「じゃ、そろそろ行かれたら? 先生も早くお会いしたいようなことを
雅也が荷物を
――どうも異例の長逗留だったようだ。
と雅也はドアを開けてそそくさと外へ出た。
――さあて、この
雅也が辺りを探すと、雅也の出たドアから三〇度ほど左手へ回り込んだところに屋根の付いた
階段室はグランパオの建物の周囲に沿って
雅也は重い荷物を抱えて
だが、中からドアが開いたのはその時だった。
ドアを開けたのは、中肉で
「佐竹さん、だね?」と言った。「ようこそ、お待ちしていました」
雅也は訳が判らぬ
「荷物はそちらへ
と言われ、雅也は明るい窓際へ荷物を持って行った。その時になって、雅也は初めて三階のこの部屋が階段室に
――何だか薄気味が悪いな。
と思ったが、その時になって、田中俊介と思われる人物は、
「ああ、済まない、ちょっと
と言って電源のノブを
「今、茶でも
手早く茶器を揃え、
「あなたが、田中俊介先生なんですか?」
と問うた。田中は、その時は、
「そう」
とだけ短く答え、湯を沸かしたりそれを注いだりしていたが、
「ぼくがこの
と言ってぺこりと頭を下げた。
それを聞いて、鈍い雅也にも
「ああ、判った。稚内空港で話に出て来たのは、あなただったのですか?」
「うん、そうです」
「この…一大共和国、みたいのを始められた方だとか」
「それは一寸違うな」田中は言った。「ここは共和国ではないし、
田中はそう言って笑った。
「じゃあ一体何が
田中俊介は一口茶を
「きみももう聞いていることだろうが、この地帯へ来ると、激しい
「でも、一応代表者ではおられる訳ですよね?」
「まあね」と
「あと、一つお訊きしたいのですが…」
「どうぞ。何なりと」
「今日ぼくをこうやって招いて下さったのは、何の為ですか?」
「一つは、
「
「そう。きみは、
「それが、悪いことなんでしょうか?」
「
「
田中は、人差し指を一本立てて、
「そこだ」と言った。「この
「では、主たる価値は
田中俊介は右手で胸を叩いて、
「気持ちだ」
と言った。
「これは、ぼくが定めたことではない。他の誰かが決めたことでもない。自然な成り行きとして決まって来たことだ。例えば隣のひとが腹を空かせているとする。そこで自分の
雅也はそれで何となくでの「過ごし方」が判ったような気になった。
「ぼくが背負っている重大な問題とは?」
「それは、きみ自身が一番よく判っている
「ええ。
「一階の相談室できみが話をした、あの田辺女史だが、あれは実はサイキックでね」
「サイキック?」
「そう。霊能者だ。簡単な
いきなり話が
「じゃあ、ぼくの問題は何なのか、
と問い掛けて見ると、
「大事なものを
雅也は
「そうです。ぼくがいなくては一人では生活などできない存在なんです。いや、生活、と云うのも
田中俊介は一寸顔を
「あなたなしでは存在すらできない? 一体どういうものなのです?」
そこで雅也は、自分のペン・ネームが自分を見捨てて行って
田中は要点で質問を挟み
「それはヘヴィだね」
とだけ、ぽつりと感想を漏らした。雅也は急に神経が
「ぼくはもう今日にも奥の方へ行った方が良かったのかも知れませんね。イリノイ大学や診療所の面々と付き合う必要はなかったかも知れない」
と言って
「まあ、お待ちなさい」
と雅也を引き留めた。
「
「どんな言葉ですか?」
「一つ目は、〝今日の宿は腹の虫が決める〟というもの、二つ目は、〝人間皆独り〟と云うものです。覚えておくと役に立つかも知れない。頭の片隅にでも置いておくと
「はあ」
俊介は立ち上がると、
「では、夕食の支度をしましょう」
と言った。
夕食は質素な和食で、雅也はそろそろ日本食が恋しくなっている頃だったから、
「ぼくは、精進料理と云う訳でもないが、普段はこういう一汁一菜のメニューが主でしてね。野菜があればこうやって簡単に調理するし、誰かが
「いやあ、ぼくも日本では
夕食が済むと、直ぐ睡眠時間になった。時刻は未だ午後八時前である。
「一寸、寝るには早すぎやしませんか?」
と雅也は問うたが、俊介は、
「ぼくは毎朝、
と言う。
「あなたも一度、参加なさってみたら
という誘いは
翌朝、
――お腹、減ったなあ。
窓際で
――何だって、
「人間皆一人」と云う言葉を雅也は思い出し、口の中で転がして復唱した。
ここでは金の代わりに気持ちを支払う、だと?
――竹生健は今頃、何やってるんだろうなあ。
早く捜し出してやらないと、石原はるゑ先生の言ったように、「賞味期限」が切れてなにもかもわやになって
「やあ、済まないね、遅くなって。腹減ったろう。今から支度するから、そこへ座って。気持ちが落ち着かないのはよく判るが、
「子供?」雅也は
「そうさ。いるよ。――それがどうかしたかい?」
「学校は、教育は――」
「ああ、そういうことか」
俊介は味噌汁の味加減を見て、電子ジャーから炊き立ての飯を装い
「子供の為の教育機関もあるよ。
「
「そうだ」俊介は頷いた。「
「ふうん。シュタイナー学校だと、高等学校まででしょう?」
「そう。それ以上の高等教育を受けたければ、
食事の支度が整ったので、雅也も俊介の向かいに座った。
食べ
「きみは今、その竹生健と云う人物――或いは人格化したペン・ネームのことを追っている訳だろ?」
雅也はそうだ、と答えた。すると俊介は、
「これは、一見その目的と矛盾したやり方であるのは百も承知で言うんだが…、きみは、一旦、その目的のこと、忘れなさい」
「ええっ!?」雅也は
すると俊介は、
「
「――けど、ぼくの感情が…納得しないと思うのですが」
「
雅也は一口茶を啜ってから、
「ああ、まあね。
と
「そう。私情は禁物、だと思うんだ」
「
「――で、
雅也は
「い、
「成り行き次第、は結構だけど、
全く手の掛かる御仁だ、とでも言いたげな仕草で立ち上がると、田中俊介は部屋の隅に据えてある卓子に歩み寄り、
「これは、この
「判りました。こんなのを貰ったのは初めてです。どうも
「そりゃね。こいつは今の所は未公認の印刷物だからね。
「ふうん。――それで、このグランパオから軽便鉄道へはどうすれば行けるの?」
「そうだ、それを言いそびれていた。このグランパオの前から、軽便鉄道の起点となっている〝豚骨〟駅、随分妙なネーミングだが、元々は中国語の
そう云って田中は雅也を
「あの、お礼は…」
と
「そんなものは良いから。きみのお蔭で、ぼくも良い
と言い、せかせかと雅也の荷物を玄関まで運び、送り出すと云うよりは追い出すと云った案配で雅也を押し出したので、一宿一飯の礼を言うことすら雅也には叶わなかった。
苦労して荷物と共にグランパオの一階に下りた時、
「豚骨行きロババス、出発しますぅ」
と云う
「乗る! 乗ります!」
と叫ぶと、車の最後部にあるドアが開き、ステップが降りて来た。
雅也は荒い息を吐き
――しまった、田中さんに、豚骨駅までの所要時間を聞いていなかったぞ。
雅也は
「すいません、御者さん?」
呼び掛けると、三頭の小振りなロバを操りつつ、
「何だねェ?」
と返辞をする。
「豚骨駅までは、何分掛かりますか?」
「そうじゃのう。先ず、半時間までは掛からんよ。平均して大体二十五分位だがね」
「そうですか」一つ気付いて、雅也は言った。「それ、随分小さいロバなんですね」
「うん? あんだって?」
初老の御者は、パイプを
「小さいロバですね」
「これ、
とパイプで眼の前の灰色の動物たちを指す。
「ええ」
「
「でも、ロバと見分けが付かないじゃありませんか」
「そうさね。――一寸ね、あたしも素人なもんで、詳しいところは知らんのだがね、交配した結果生まれた品種らしいのよ」
かたこと揺れる道を進み
「交配?」
「そ。何でも、ロバの種類にも色々あるらしいんだけどさ、アジアノロバ、って云ったかな、
「はああ、そうですか。面白いですねぇ」
「もう一寸で豚骨駅に着くから、そうしたらよく見てみるがええさ」
それまでロバ車、
――成る程、こんな道では
雅也はそう考えて独り頷くのであった。
「ハイヨウ」
と云う
「お乗りの皆さま、お疲れさまでした。無事、豚骨駅に到着致しました。どうぞお降りになって下さい」
と宣言し、乗客たちは客車最後部のステップを降りて外に出て行く。逆に、荷受人たちは客車内に入って来て、発送を依頼したものらしき貨物を下ろして行く。雅也は、大荷物を抱えているので、勢い下車は最後になった。
降りてから、前部に廻り、ドバ達の様子を見ると、三頭ともコーラのボトルを
「へえ、コーラが好きなロバなんて、初めて見た」
「ええ、
と
「
「ええどうぞ、
雅也はコーラを飲み終えたばかりの真ん中の一頭に近付き、遠くから恐る恐る頭を撫でた。
と、ドバはこういう扱いには慣れているらしく、
ブヒン、ブヒン
啼いて尻尾を振り、雅也に擦り寄って来た。
「お、お、可愛いなあ」
雅也はその左右のドバの頭も撫でたのだが、今度はドバは懐いて来ず、
ブヒーッ、ブヒーッ
と啼いて雅也を
ブヒュン、ブヒュン
と
「あれれ、嫌われちゃったのかなあ?」
その言葉に、ドバの親方は、
「いいえさ。決してそう云う訳ではないでがしょう。見た所、ドバ共はお
と、パイプの吸い口で豚骨駅の方を指して見せた。
「ははあ、列車が出発するんですね?」
御者は時計に眼をやり、
「今、各駅停車が出たとこでさ。十五分後に快速急行が出まさぁ」
そこで、雅也は腰を上げて豚骨駅に向かった。
豚骨駅には自動券売機のような気の利いたものはなかった。
「あなた、
「そ、…行き先、って、
「あら、目的がないのは悪いことだわ」小母さんは
雅也は少したじたじとなったが、気を取り直して、
「――あのう、その、フリー・パスって、どんなのでしょう?」
「これはね、七日間、この軽便鉄道に乗り放題なの。少し
「ええ、それにしましょう。それと、快速急行券」
「快速急行は一等車から三等車まであるけど、どうします?」
「どう違うんですか?」
「一等は快速急行券の他に五ペカーリの座席指定券。二等は三ペカーリで自由席、三等は屋根を後から付けた
幸い、ペカーリは沢山持っているのだ。雅也は迷わず一等に乗ることに決めた。
「あなた、お金持ちね」小母さんは
小母さんは
「土偶研行き快速急行、間もなく発車いたします」
と云うアナウンスがあったので、マザー・メアリーの「智慧の
雅也が改札口に向かうと、他にもこの列車に乗りたい人びとが
列車は先頭でアナクロニズムの蒸気機関車が煙を吐いていて、次に三等車らしきものが三輛、二等車の表記のあるもの二輛、一等車は人気がないのか一輛きりだった。
雅也は迷わず一等車のデッキに足を掛けた。車室に
「八番 通路側」
だった。座席はクッションが柔らかく、乗り心地は良さそうだった。
雅也は何処で下車するか決めていなかったので、田中俊介に貰ったパンフレットを拡げた。すると、この「豚骨」駅から三駅離れた所に、「漢方薬研究所」と云う駅があった。お香のことも何か教えて貰えるのでは、と思い、雅也は同じボックス席にいた、黒髪の青年に、
「あのう、この列車は、〝漢方薬研究所〟駅には停まるのでしょうか?」
と問うた。青年は、
「ジョナサン・リッチマンは、新来の客に対して、快速急行列車も、〝漢方薬研究所〟には停まります、と答えました」
と言った。
「そうですか。どうも
と言うと、
「ジョナサン・リッチマンは、礼を述べた乗客に、どういたしまして、と答えました」
と言う。
間もなく発車ベルが鳴り、機関車は汽笛を鳴らした。客車のドアは駅員が閉めた。
そして、汽車は走り出した。何か身に覚えのある、変わった
列車は文字通り快速で走り、軽便鉄道とは思えない素早さで二た駅を通過した。
――こりゃあ、丸で鉄道版ミニ・クーパーと云ってもおかしくない程のゴーカート・フィーリングだな。日本に帰ったら、スピード狂の由美子に是非とも話してやらなきゃあ。
と雅也が思った時、列車は緩やかに速度を落とし始めた。
「間もなく、〝漢方薬研究所〟です」
と数カ国語でアナウンスがあり、列車は
客車のデッキに出ていた雅也は、駅員の手によって再びドアが開けられると、荷物を抱えてプラットフォームに降りた。幾分風が出て来たようで、何だか雲行きも怪しい。
駅前には、
「吉田島漢方研究所」
と云う看板を冠していた。
それを眼にした時、雅也は一種の既視感の様なものを覚えていたのだが、それは余りにも
すると、どうやら
雅也はどうしようか、と思ったのだが、この患者たちの用が済むまで待つしかないな、と判断し、自分も腰掛け椅子の客のうちに加わった。
そして、
「あのう、お宅も矢張り患者さんなんですか?」
と問うと、
「そうですけど」
「失礼ですが、ここは…、どんな、――と云ったら失礼ですが、どう云ったご病気の方が来られるんでしょう?」
すると、途端に老女はきっとした表情になり、
「それ、最高に失礼なご質問ですわ」
と言うなりそっぽを向いて
雅也は、何とか女の気を引いて、自分が決して悪意で問い掛けたのではないことを説き聞かせようとしたが、無駄な努力に終わった。と云うのも、その時奥の方で戸ががらりと開く音がして、白衣を着た中年の男が薬袋を持って現れたからである。男は、
「ええ、
と手元の控えと待合室の客の顔とを引き比べていたが、直ぐに雅也の隣に腰掛けている件の婦人を見付け、
「薬袋さん、お薬出ました。今日も二週間分で宜しかったですね。どうかお大事になさって下さい」
と言って、女も薬袋を受け取るとそそくさと漢方薬研究所を後にしたのだが、雅也は女のことはもうすっかり忘れて
――これは…、
雅也は男を見上げながら呟いた。
と、男も雅也の存在に気付き、雅也と視線が合ったのだが、お互い、
「あッ!!」
と言ったのは同時だった。
「佐竹…だよな?」
「吉田島だな?」
五分後、雅也は吉田島のオフィスで、秘書と称する女性が煎れてくれた中国茶を飲んでいた。吉田島は未だ応対の済んでいない患者がいるとかで、
――それにしても、吉田島と
雅也は茶を啜りながら遠い眼をして、もう二〇年以上も前のことになる大学時代を思い出していた。ここで逢ったが百年目、とは云ったもので、流石の雅也も、大学の同窓生とこんな所で再会するとはゆめ思わなかったのである。
茶を二杯ほど飲んだ所で、吉田島が戻って来た。頭髪はもう半白で、押し出しの良い大柄の身体にも確りと肉が付き、この地で
「いやあ、あれからもう何十年振りになるかなぁ」
吉田島は感慨深げな面持ちで言う。
「ぼくは
「いや、ぼくもね、ここでこうやって開業するのは、宿意には反したことなんだ。――ぼくは、理学部では有機化学の研究室に入った。で、卒業後は薬学部の三年生に編入して、大学院では薬力学を専攻したんだが、中国へ留学したい、と思ったのはその時なんだ。当時はぼくの実家は、薬屋から発展して、規模こそ小さいがドラッグストア・チェーンを経営していた。景気も中々良かったのだが、ぼくが中国にいる間に、親父が
「へえ。経済の方はどうなの? ――その、ここでは何でも
「ああ、そう云うこと。
「でも、ここに骨を埋めて
「いやあ、もうそんな気持ちは更々ないね。真喜子には中国と札幌とで手紙のやり取りをしてきちんと片を付けたし、
雅也は大雑把な身の上話をした。吉田島は煙草を吸いつつ聞いていたが、
「なんと、お前小説家になっていたのかぁ。そりゃ、大したもんだ。――とすると、今回の来包も取材の為か?」
「いやぁ、それが違うんだな。こんな話をすると
「ペン・ネームが? 何があったんだ、一体?」
雅也は吉田島にことの顛末を話した。そして、
「そうか、そんなことがあったのか…。小説家と云うのも大変な稼業だな。おれの所では、お香の類いは扱わない。何か知りたければ、この先の〝図書館都市〟に行ってみたらどうだい?」
云われて雅也は田中俊介に貰ったパンフレットを取り出した。見ると、吉田島の言う通りに、ここから二た駅先に当該の駅はあった。次はここを訪れてみることにする。
「所でさ」雅也は最前から気懸かりだったことを問うた。「
すると吉田島は
「あああ」吉田島は、笑いの発作が一段落付くと、一と口茶を啜って気を鎮めた。
「悪いわるい」吉田島は謝った。「いやね、ご本人の背後で第三者にこういう話をするのも良くないのだが、答えは単純明快。
「おいど?」
「判らんか。痔疾だよ」
それを聞いた雅也もあははは、と笑った。吉田島も雅也と共に笑い方のお
「
と問うた。
雅也は少しばかり考えて、
「それは、ひとによって違うと思うな」と答えた。「ひとによっては、多数のペン・ネームを使い分け、それらを使いこなすひともいるし…。まあ、ぼくの場合は、第二人格である、と云って構わないと思う」
吉田島は意外そうに、
「ふうん。そうすると、確固たる別個の人格なのかい?」
「――うん、まあそうだな。だから、ぼくは
すると吉田島は、
「ええッ!?」と言った。「ぼくは、ペン・ネームと云うものは、作家が
と問う。
「そうだなあ…」雅也は
「じゃあ、きみは
「ああ、違うね」雅也は言下に言った。「ペン・ネームは、ぼくに〝書かせてくれる〟ものなんだよ。本当はぼくが主体的になって書いては
吉田島は、ゆっくり考えながら、
「そうすると…、きみのペン・ネームが逃げ出した、と云うことは…、きみのペン・ネームが気に入らないことを…、きみが書いた、と云うことなのかな?」
「その通り。どうやらそうらしいんだよ。――ぼくの方にも身に覚えがない訳じゃないんだ。ぼくのペン・ネームはぼくが〝頭で拵えた〟話を書くのを酷く嫌っていたんだが、ちょっと前にぼくが〝トラ〟の仕事をした時にさ」
「何の仕事だって?」
「ああ、――別の作家が雑誌に寄稿する
「
「竹生健、と云うんだ」
「たけふ、けん、かあ。日本のものだから余計だが、ぼくは小説は読まないから、判らないなあ」
「そうだろうな」
と、吉田島は
「そうだ、妙案がある。別のペン・ネームを付けたらいい」
「それなんだがねえ」雅也は溜め息を吐いた。「できたらそうしたいんだ。が、できそうだが、無理なんだよねえ」
「どうしてさ?」
「ひとに付けて貰ったペン・ネームだからね。
「誰だい、それは? 差し障りがなきゃ教えて貰いたいんだが」
「高田先生なんだよ」
「あーっ、生化学の。そうか、もう過去帳に入っておいでなのか」
「もう三年になるんだがね」
「そうかそうか。じゃあ、別のひとに頼んで、新しくペン・ネームを付けて貰ったらどうなんだ?」
「それも一案だが、今のペン・ネームで連載している原稿もあるんだ。それに、万が一竹生健に絶交されたら、元も子もない」
「そうだなあ」吉田島は腕組みをした。「おれには、それ以外にいい案は浮かばんなあ、済まないが」
頭を掻く吉田島に、
「いやあ。こうして持てなして貰っているだけでも幸せさ。後は自分の責任だから」
「そう、それで思い出したが、夕食食べて、今夜は泊まって行けよ。それとも、先を急ぐのか?」
「
「そうか。…で、夕食は何が食べたい? 大抵のものなら用意できるが」
「そう? そうだなあ、じゃあお言葉に甘えて、鰻なんかどうだろう?」
「ああ、それなら冷蔵庫に蒲焼きを仕入れたばかりだったと思う。じゃあ、鰻重を肴に一杯行くか」
「了解だ」
「きみ、家族はいるのかい?」
吉田島が問う。
「ああ、妻がいる。子供はまだない」
「そうか…」吉田島は遠い眼をした。「おれも経済的なことさえなければ、日本へ帰って結婚して子供も欲しいところだが。機を逸したな」
「今からだって遅くないじゃないか。インターネットだってあるんだし、この代でこんな立派な店を潰してしまう、なんて惜しいじゃないか」
「うん、まあそれはそうだが…。知ってるか、〝
「いや…、初耳だ」
「今のおれがまさにそれだ。
「そんなの、
「いやおれには判るよ実感として」
「…ふうん。そうかあ」
「そうなんだ」そこで吉田島は自分が座の雰囲気を暗くしてしまったことに気付いたらしく、語気を改めて、「所でさ、折角だし景気づけに寮歌でも歌わないか? 記憶の底に、
吉田島の提案に、雅也はすぐさま、
「了解だ!」と応じた。「何から歌う?」
「矢張り、〝
「
「〝永遠の幸〟! アイン、ツヴァイ、ドライ!」
ここで二人は声を揃えて歌い出した。
「永遠の幸 朽ちざる誉 つねに我等がうへにあれ
よるひる育て あけくれ教え 人となしし我庭に
イザイザイザ うちつれて 進むは今ぞ
豊平の川 尽せぬながれ 友たれ永く友たれ
北斗をつかん たかき
山は裂くとも 海はあすとも 真理正義おつべしや
不朽を求め 意気相ゆるす
二人は拍手をして歌を締め括った。
「これで終わりとは云うまいぞ」雅也は
「了!」
「〝
「瓔珞みがく石狩の 源遠く訪ひくれば
原始の森は
今円山の桜花 歴史は
吾が学び
その
健児が
醜雲消えて人の世に 陽光はうららかに輝けど
風の名残のつきやらで 狂瀾さわぐ今し今
潮に暮るる西の空 月も凍らむシベリアの
吾が皇軍を思ひては 猛けき心の踊らずや
白銀狂ふ埋れ路も 踏みて拓かむわが前途
はろけき牧場に嘯けば 雲影はやし草の波
想を秘めし若人が 唇かたくほほゑみつ
仰げば高く聳え立つ 羊蹄山に雪潔し」
唄い終えると、二人は復た拍手した。
「まだ行くか?」
「行くともさ。〝都ぞ弥生〟と行こうではないか」
と云うと吉田島は立ち上がり、徐に、〝
「
「了!」
「
「了!」
「
「了!」
「明治四十五年度寮歌、横山芳介君作歌、赤木顕次君作曲、〝都ぞ弥生〟! アイン、ツヴァイ、ドライ!」
「都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂う
尽きせぬ
夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて
星影冴かに光れる北を
人の世の 清き国ぞとあこがれぬ
豊かに稔れる石狩の野に
羊群声なく牧舎に帰り 手稲の嶺いただき
雄々しく
さやめく
おごそかに 北極星を仰ぐ
野もせに乱るる清白の雪
ああその
ああその
樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ
雲ゆく
今こそ溢れぬ
うつくしからずや咲く水芭蕉
春の日の この北の国幸多し
朝雲流れて金色に照り 平原果てなき
連なる
自然の
栄え行く 我らが寮を誇らずや」
そうして、騎虎の勢いで〝ストームの歌〟なる代物まで二人はがなり立てるのであった。
「 ――醒めよ迷ひの夢さめよ
醒めよ迷ひの夢さめよ――
札幌農学校は
エルムの
コチャエ コチャエ
札幌農学校は蝦夷ヶ島 手稲山
夕焼け小焼けのするところコチャ
牧草片敷き詩集読む コチャエ コチャエ
札幌農学校は蝦夷ヶ島 クラーク氏
ビーアンビシャスボーイズとコチャ
学府の基を残し行く コチャエ コチャエ」
歌い終わると、吉田島には稍疲れの色が見えたが、雅也は、
「もう一曲」と云った。「もう一曲、最後に」
「どの曲だ?」
吉田島は声が嗄れている。
「水泳部の部歌なんだが」
「おれはその歌は知らん。掛け声は掛けるから、後は一人で歌ってくれ。おれは兎に角もう声が出ないよ。考えてみれば、
そんな訳で、雅也は独唱することになった。
「昭和十一年度、水泳部部歌! 築城武義君作歌、柳沢三郎君作曲!」
「了!」
「アイン、ツヴァイ、ドライ!」
「春猶浅し
石狩川の
見よ清澄の北斗の蒼空 永劫の群星きらめいて
荘厳の気は充つるなり 意気と熱情に培はれ
吾等が承けし伝統の 歴史は経りて十五年
楡の樹木に陽は射して
しぶきの虹も消ゆる頃 営み終えて波静か
朋友が友情の熱ければ 血戻の日の夢悲し
あゝアカシアの花咲きて 石狩の野に風渡る
大地に立ちて吾呼べば 若き生命の胸に充つ
いでや制覇の剛剣を把り 津軽の海峡を超え行かん」
醺々然としていた雅也も次第に酔いが醒め、水泳部の部歌を唄い終える頃には完全に素面だった。
「きみも長旅の途中で疲れたろう」吉田島は云った。「そろそろ休むか」
「ああ、そうさせて貰おうかな」雅也は欠伸をした。「明日もあるし」
「そうだ。きみ、明日以降宿は決まっているのか?」
「いやあ。風の向くまま、さ」
「それじゃあ、どうせならここを拠点にしたらどうだ? 宿賃は只だし、交通の便もいい」
「いや、それは悪いよ」
「悪遠慮するなって。同じ寮歌を歌った仲だろう」
「…そうかい。じゃあ、折角だからそうさせて貰うかな。どうもありがとう。恩に着るよ。でも、
「いいって。
「そうか」
ということで、雅也は当面吉田島の研究所を〝根城〟にして行動することに決まってしまった。
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