F.

 雅也には、始め、一体何の騒擾そうじょうが持ち上がっているのか判り兼ねたが、えず手持ても無沙汰ぶさたなのと好奇心から、男のたかぶりを刺戟しげきしないように、穏やかな声色で、

「どうかなさったのですか?」

 と問うて見た。すると男は、ボンレスハムの塊のように大きな手で、書類を一枚鷲摑わしづかみにしていたのだが、雅也の鼻先で振り回し、

「これは確かに、本物の学位証書の写しなのだが、幾ら言っても信じて貰えない。もう此処ここで三時間も粘っているのだが、さっぱりらちが明かない。パオへの再入国が認められなかったら、わたしの研究ばかりか、ここにいる学生たちも一絡ひとからげにして人生上の大問題になるぞ」

 雅也は一寸ちょっと興味をかれ、

「ちょっと、拝借はいしゃく

 と言ってその書類を受け取った。男は、今や大きな手で頭を抱えている。雅也が見ると、冒頭に、

「 CVRATORES・VNIVERSITATIS・COLVMBIAE」

 とあった。と、途端に雅也の脳裡のうりには、北大時代に単位を取った羅甸語らてんごの文法やら語彙ごいやらが浮かび上がって来た。

「……コロンビア大学……委員会? ――いや、理事会、だったかな?」

 すると男は、いきなり立ち上がると、血走った眼で雅也の両肩をった。

「あなた! ラテン語がお判りになるのですかっ!?」

 雅也はその気勢にすっかり気圧されて了って、

「ああ、ええ、まあ…」

 男は、

「じゃあ、この女性に、これがわたしの理学博士号の学位証書の写しであることを教えてやって下さいよ。どうかお願いしたのですが」

 いきおい、雅也は承諾するより他なく、写しを持って一番左のカウンターに着いた。

 女性事務員は、雅也の身形みなりを見て推断すいだんしたものらしく、

しかして、あなたも日本人?」

 と問うて来た。雅也は点頭てんとうし、この女性も日本人なら話が早いや、と考え、

「そうです。――それはそれとして、これはたしかにニューヨーク市にあるコロンビア大学の理学博士号学位証書に間違いありませんよ」

 と切り出した。女は書類にっと眼を落とし、

「…この…ヴニヴェル…何たらと、コルヴム…と云うのがそれかしら」

「そうです、そう、そう」雅也は男の気勢きせいを抑えようとして、力強く二、三度首を縦に振ってみせた。「ラテン語では、uとvの区別がなかったので、こういう書き方になってしまうのです。これは、ウーニヴェルスターティス、と読むのです。それならお判りになるでしょう?」

「――ああ、成る程ね。それで此方がコルムビアエ…」

「そう、そう。あと、その直ぐ下のNOVEBORACENSISと云うのが、ニューヨークのことを指します」

「えっ? ――何で?」

「NOV―は〝新しい〟という意味、EBORACENSISは、手っ取り早く云えばEboracum、エボラークムと云う街の名前の変化形で、今のイギリスのヨーク市のラテン語名に当たるんですよ」

「ああ、判ったわ。それでニューヨーク、と…」

「そうですそうです」

「じゃあ、理学云々は?」

「ここ、PHYSICAE DOCTORISと云う箇所です。英語がお判りなら、何となく…」

「そう、そうね、何となく判って来るわね、たしかに」

「納得ですか?」

「ええ。再入国を許可する條件はひと通り揃ったわ」

 雅也は背後うしろを振り返った。すると、男は憐れにも絶望してしまったらしく、今では蹲踞しゃがみ込んで頭を抱えている。そして、口ではぶつぶつ何事かを呟いていた。その男に向かってカウンターの女は、

「もしもし、リチャード・クレイジーマンさん?」

 と呼び掛けた。

 ――ええっ、何だって?

 雅也は吹き出しそうになる。が、クレイジーマンと呼ばれた男は立ち上がり、蹌踉そうろうとカウンターに向かった。そして、再入国が許可されたことを聞き知ると、矢庭やにわに椅子を蹴倒けたおして飛び上がり、顔を真っ赤に上気させ、雅也に抱き付いて来た。

「素晴らしい! 奇跡だ! 信じられない! これで問題なく研究助成金を貰えるし、あご干上ひあがる心配もなくて済む!! いやぁ、どうも有難ありがとう!!」

 そうおらぶと、熊のような大男のクレイジーマンは、細身の雅也をいきなりひしと抱き締めた。丸でベア・ハグ、雅也は呼吸器系が圧迫され、同時に上半身の骨と軟骨が悲鳴を上げるのを覚えた。が、クレイジーマンおよそ二〇秒も経った頃に解放してくれ、っと息ができるようになった。

「そうだ」とクレイジーマンは言った。「だご芳名ほうめいをお伺いしておりませんでしたな。失礼致しました」

「佐竹雅也と申します」

「じゃあ、マサヤと呼ばせて下さい。わたしのことも、リッチーで構わない」

「よろしくお願いします」

 と雅也は右手を差し出したが、クレイジーマンは軽く握り返しただけで、

「堅苦しい挨拶は抜き、抜き」と言い、「きみ、パオは何回目?」

「実は初めて」

「宿は決まってる? 夕食はもう済ませたの?」

孰方どちらも未だ」

 すると、クレイジーマンは、

「それなら、ぼくたちのパオに来てくれよ。東道とうどうしゅを務めさせてくれ、是非。去年新築したばかりの、二階建てのログハウスなんだ。居心地はすこぶるよろしい。何日いてくれても構わない。何せきみは、うちの福の神みたいなものなんだから」

 と言うと、雅也の腕を有無を云わせぬ力で引き、グランパオの外に出た。外は既にとっぷりと日が暮れ、咫尺しせきべんぜぬ闇である。雅也は巨漢のクレイジーマンにられるようにして行歩こうほする。

「わたしの名前を聞くと少々妙に聞こえるかも知れないが」クレイジーマンは問わず語りに云う。「名前の綴りはK-L-A-Z-E-E-M-A-N-Nでね。C-R-A-Z-Yではない。ドイツ系のアメリカ人だ。――そうだ、我が客人まろうどよ、きみの名前は何てったっけ?」

「佐…佐竹、雅也…」

「おお、そうだった、マサヤ。失敬」

 クレイジーマンは大股に歩くので、日頃運動不足気味の雅也は息が乱れる。

「わたしはイリノイ大学で研究職に就いている。今の所、トラマールとその周辺地域に生息する鯰の研究をしているんだ。――きみ、職業は?」

「小…説―家なんだ」

 雅也はイリノイと聞いて、不意にフランク・ザッパに〝イリノイの浣腸かんちょう強盗ごうとう〟という曲があったのを思い出し、笑わぬよう口内を噛み締めて必死で一シラブルごとに口から言葉を出す。

「小説家かい。そりゃあいいな。ぼくも若かった頃は、ザ・ビートルズの曲を聴いて、作家になりたいと思ってたことがあるがね。――そら、これがぼくの車だ」

 車は真っ赤なレンジ・ローヴァーだった。リッチー・クレイジーマンは運転席に乗り込み、雅也も助手台に座を占めた。

 リッチーは直ぐに車を発進させた。舗装されていたのは駐車場だけで、外に出ると凹凸おうとつの多い道に入った。

しかしまた、奈何どうしてこんな時季にパオへ? たしかにここは一年中温暖ではあるが、取材するなら夏場の方が良いだろうに。祭りもあることだし…」

「取材とは違うんだ」雅也は答えた。「一寸…ある人物を追い掛けていてね」

「ふうん。何処へ行ったとか、なにか当てはないの?」

「ないんだよ。ただ、どうやら玉青丹ぎょくせいたんと云うお香を探しに来ているらしいことだけは判っている」

「玉青丹? ぼくも初耳だな。――所で、きみは日本人なの?」

「うん。そうだけど」

「そうかあ。まさか日本人にラテン語を助けて貰えるとは思わなかった。有難ありがとう。大学は何処どこを出たの? 専攻は?」

「北海道大学理学部化学科だけど」

「ああ、知ってるよ。宇宙飛行士とか、ノーベル賞を受けた学者が出たろう? いい学校じゃないか。――一口に化学と云っても、物理化学とか熱力学とか色々あるだろう」

「生化学だった」

「ほう」リッチーの声のトーンが上がった。「じゃあ、我われの研究内容と極めて近いじゃないの。丁度良いや、し暇があったら、研究の手伝いでもしてくれると有難ありがたいな。――そうそう、〝ギヴ・アンド・テイク〟と云うのがパオのモットーだ。覚えておくとこの先うまく行くだろう」

「ああ、そう。覚えておくよ。けど、研究していたのはもう十数年も前のことだし、力になれるかどうかは判らないな。データ取りとか、初歩的な統計解析程度ならできると思うけど」

「うむ、できることをやってくれればいいのさ。――何なら、炊事係だって構わないんだし」

「了解」

 ヘッドライトが道を切り拓いて行く。車は林の中の坂道になった隘路あいろを力強く走って行く。揺れはひどいが、我慢できないほどではない。やがて坂を登り切ると道は平坦になり、林も途切れ、向こうの方にあかりが見えた。

「あそこだ」

 とリッチーは言った。

 闇の中に茫乎ぼうこと浮かび上がるログハウスの建築はたしかに素晴らしいもので、上階から一階まで盛大に灯火が点っている。雅也が電力源にいて訊ねようとした時、ログハウスの扉が開いて複数名の男女が走り寄って来た。

「ウチの子供たちさ」リッチーはパワー・スイッチでエンジンを切りながら言った。「多少茶目っ気はあるが、皆いい子たちばかりだ。信頼していい」

「全部で何人いるんです?」

「学生と、教員即ちわたしと、きみを合わせて全部で十三人だ」

 二人は車から降り立った。此所ここは客が多いと見え、ひと怖じする者は誰もおらず、雅也はたちまち十名ほどの若者たちの一団に取り囲まれた。

何処どこから来たの?」

奈何どうしてリッチーと知り合いに?」

「一体どうしてパオに来たの?」

「ビールは好き?」

 使い慣れない英語で雅也が必死に応対するのを面白そうに眺めていたクレイジーマンは、にやり、と笑みをうかべて、

「ま、mare’s nestにようこそ、ってとこだな」

 誰にともなくつぶやき、それから大声で、

此方こちらは日本からいらしたサタケ・マサヤ君だ。パオへは何か捜し物をしに来たそうで、来包は今回が初めてだそうだ。判らないことだらけだろうから、パオでの快適な過ごし方にいて、一から丁寧に教えてあげなさい。懇切こんせつにね。何しろ、このひとがグランパオにおられなかったら、わたしは再入国を拒否される所だったんだからな。変な扱いをする者がいたら、イリノイへの強制送還措置にすから、そのつもりで」

 と疾呼しっこした。

「グランパオで何かトラブったの?」

 前歯の大きい男子学生が二人の顔を見比べながら問うた。リチャードは忌々いまいましそうに渋面じゅうめんを作り、

「そう。受付の女が羅甸語ラテンごの学位証書を受け付けてくれなかったのだ」

 と、その隣にいた、大きく、深い湖のような色の瞳をした女子学生が、

「で、此方こちらの方が助けて下さった訳?」

「そうだ」クレイジーマンは力強く答えた。「マサヤが、見事に羅甸語の字句をいてくれた」

「へえ。ラテン語、判るんだ」

「この地球上にあんな複雑な言語があって、しかも大学の必修講義になっているだなんて、全く法律違反だと言いたいね」

「リッチー、ぽどツイてるよねぇ。ラテン語の判る日本人ってどの位いるのかしらねぇ?」

 しかしクレイジーマンはそこでぱちんと両掌りょうてを打ち合わせ、

「腹が減って眩暈めまいがしそうだ。夕食にしようじゃないか。――時に客人、鯰はお嫌いかな?」

「ナマズぅ?」雅也は妙な顔をしてリッチーの顔を見遣った。「――いや、実はこれまで食べたことがないんだけど」

「そうかそうか」リッチーは妙に嬉しそうな顔をしててのひらこすわせた。「それなら屹度きっといい経験になるぞ。トラマールシビレナマズは、初のナマズ体験にゃ実に持って来いなんだな、これが」

「どういうこと、それ?」

「まあまあ。食べて見りゃ判るさ。――おい、クウェンビー、今夜のメニューは?」

「ナマズ・フライのハンバーガー、それにフレンチ・フライとビール」

「そうか。――で、ニック、この客人の部屋は何処どこいていたかな?」

「二階のゲスト・ルームが空いてます」

「結構。荷物を持って、案内してやって」

「了解」

 雅也は立派な玄関ホールを抜け、二階へ続く階段を上った。歩きながら、ニックと呼ばれた青年に、

「きみの研究室は余程業績がいいんだね。こんな立派なログハウスを新築できるなんて、大したもんだ」

 と言ったが、ニックは恬然てんぜんとして、

「――まァ、その辺のことはここでの暮らしに慣れれば追々おいおい判るんじゃないかな。それはそうと、直ぐ夕食だから。…で、ここがあなたの部屋だよ」

 荷物を部屋の這入はいくちに置くと、ニックは去って行った。雅也の案内された部屋はやや広いシングル・ルームで、シャワーとトイレ以外、必要なものは一通り揃っていた。パオではこんな厚地のものは不要だったな、と思いながらコートを脱いでハンガーに掛け、手を洗って口をすすぐと雅也はぐに階下へ向かった。

 階下のホールでは既にセルフ・サーヴィス式の夕食が始まっていた。大テーブルの隅にバンズとフライが山積みになっていて、欲しいだけ取って食べる。ビールは冷蔵庫にぎっしり詰まっていた。銘柄も様々のものが揃っている。

「さあさ、マサヤ、たっぷりやってくれ。うかうかしてると、はぐれるぞ」

 クレイジーマンに促されて、雅也はえずバンズにナマズを一匹だけ挟み、ソースを掛け、ビール――コロナ・エキストラ――を一本取ってベンチに座った。すると、隣にブロンドの長い髪を頭の後ろで束ねた女子学生が来て座った。反対側にはクレイジーマンが座った。クレイジーマンは、

「そら、ガブリとやっていいんだよ。頭は取って、骨も抜いてあるから」

 と言って、手本を示す様に大きく口を開けてかぶり付いた。隣の女子学生は、

「ねぇ、あなた日本から来たんでしょ?」

「ああ、そうだけど」

「日本にはテッポウ、って魚がいるんでしょ? テッポウ、って日本語で銃のことらしいけど…」

「ああ、そりゃフグのことだよ」

 するとリッチーがティモシー・リアリーの〝フーグー・フィッシュ〟を歌い出した。

「そのフグが、何で銃なのよ?」

「毒――テトロドトキシンがあるからさ。喰って当たるか、当たらぬか」

 それを聞いた学生とリッチーは腹を抱えて笑い転げた。そしてリッチーは、

「それじゃあ、このナマズもめフーグーナマズ、ってとこだな」

奈何どうして?」

「このナマズは肝臓に発電器官を持っていてね。雌雄の別があるのか、雌の妊娠や雄の発情と関係があるのか、はたまた我われの調理の巧拙こうせつによるのか判然はっきりしておらんのだが、ごくたまに、食べていて感電する者がいる。――もっとも、落命らくめいする程ではないがね」

「本当?」雅也は手の中のシビレナマズ・バーガーを繁々しげしげと眺めた。「怖いなァ」

「大丈夫よ、滅多にあることじゃないから」女子学生は勇気付ける。「そらッ、男なら食べちゃえっ!」

 その言葉に押されて、雅也はガブリとやった。咀嚼そしゃくし、嚥下えんげする。ついでビールを飲む。自棄やけ気味ぎみったので、味など感じる余裕はなかった。――と、腹の辺りにビリビリと痙攣けいれんが走った。

「き、来たーっ!」

 さま雅也はどっと卒倒そっとうして、昏絶こんぜつしてしまった。


 ――しまった。奈何どうしよう。

 眼を醒ました泰彦は思った。泰彦は確かに話を聞き、うべなった――それはHPCプロジェクトと云う名で、詳細を聞いたのだが、〝怪しい〟点が幾つもあった。それでも、赤坂は応諾おうだくしてしまった。しその話が本当ならば、そんなに良いことはない、と思ったのだ。

 バーガー・キングから河岸かしを変えて西新宿裏通りの、一階に税理士事務所の入った雑居ビル二階の喫茶店に這入はいり、そこで赤坂はアントニオ・マリャベッキ博士そのひとと対面した。

 マリャベッキ博士は中老ちゅうろうのひとで、禿頭とくとうの下の眼は眼光鋭く、尚且つ愛想が良く、日本語も流暢りゅうちょうだった。

「わたし共の提案を受けて頂き、こんな幸せはございません」

 と博士は言った。赤坂は、

「いや、それはぼくの言うことです。こんな良い話を聞かせて頂いて…」

「我われのデータでは、あなた様が一番の適任者だったのです」博士は珈琲コーヒーを飲みながら言った。「これからあなたは、恐らく食べて行くのに一生困ることはないでしょう」

「それで、手術は一体何時いつ、行われるのですか?」

「あなたのご都合の良い日で結構。何なら、明晩みょうばんでも構いませんよ」

「そうですか」泰彦は少し考えた。「じゃあ、明日の晩にお願いしましょう」

 マリャベッキ博士の眼がきらり、と輝いたような気がした。

「じゃあ、話は決まりましたね」

「ええ」

撤回てっかいなさることは、もう出来なくなりますが、構いませんね?」

 赤坂は少し考えた。これからも二、三社の会社説明会にエントリーしていたが、行けなくなった、と言えば問題なかろう。

「はい」泰彦は頷いた。「構いません」

「では、こちらの契約書に、サインして頂けますか?」

 赤坂は目の前に出された契約書を一瞥いちべつした。英文で書かれている。横文おうぶんに弱い赤坂は苦笑いして、

「ぼくの英語力じゃ、一寸判らないです」

 と言ったが、マリャベッキ博士はにこやかに、

「我われの手術を受けたら、どんな言語でも理解できるようになりますよ」

 と言う。

「はあ…」赤坂は戸惑とまどった声を出した。「それが信じられないのですけどね、だ」

「判ります」博士は言った。「最初は誰でもそうでしょう。そればかりか、あなたは我われのプロトタイプ、第一号機に過ぎない。だけど、今後、日本を中心に、あなたの様な存在はどんどん増えて行くでしょう。そうしたら、何もおくすることはない。あなたは第一号であり得たことを、天に感謝さえするようになるでしょう。それでは、サインをお願いできますかな?」

 赤坂は逡巡しゅんじゅんしつつも、書類の一番したに、「Yasuhiko Akasaka」とサインした。

「これで、宜しかったでしょうか?」

いや、大いに結構」

「だけど…、実はだ半信半疑なのですけどね」

「それは無理ないことですな。では、ずわたし共の研究室へ来て頂けますか? 百聞は一見にしかず、と云うでしょう」

 泰彦は首肯しゅこうした。すると、マリャベッキ博士はスマートフォンを取り出して、

ぐ来て下さい」

 とだけ言った。

 それから、泰彦に珈琲を飲むように勧め、

「これから、車が来ます。研究所は山の中にありますので、到着まで時間が掛かりますが、申し訳ないのですけど、場所も企業秘密になっています。従って、目隠しをさせて頂きます。宜しいですか?」

 と確かめた。

 赤坂は、黙って頷いた。

 それからマリャベッキ博士たち一行は、その「コージー」と云う喫茶店を出て、階段を下りた。

 店の前は薄暗い裏路地で、この時間では人通りもすっかり途絶えている。やけに明るいのは、この喫茶店だけだが、赤坂の見た限り、マリャベッキ博士一行の他には、客はいないようだった。

 通りに立ってすぐ、角を曲がって音もなく、ヘッドライトを消した車がするすると滑り込んで来て停まった。言われなくとも赤坂には判った。日産のプレジデントだった。

 石田が後部座席のドアを開け、マリャベッキ博士が、

「さ、どうぞお乗りなさい」

 と言うので、赤坂は乗り込んだ。すると、石田が手を伸ばして来て、マリャベッキ博士の言った通り、黒い色のアイマスクを泰彦に着けた。それからは気配でしか判らなかったが、マリャベッキ博士は赤坂の隣、石田は助手席に乗り込んだようだった。

 車は、三人が乗り込むと、直ぐに発車した。

 車は何処どこをどう走るものか、だ運転免許証を持たない泰彦には皆目見当が付かない。信号のためだろう、停車したり、右折したり左折したり、進んで行くのは判るが、目的地が何処どこなのかは悉皆さっぱり想像もできない。

 車の中はごく静かで、夜だから、と云うこともあるのだろう、外部からの音と云うものも全く聞こえなかった。

 暖房がよく効いて、シート・ヒーターも付いている。

 車内では静かにクラッシック音楽が掛かっているけれども、その手の音楽にはうとい泰彦には、それが何と云う作曲家が何年に拵えた何と云う曲で、誰が指揮や演奏をしているのか、と云う点に就いては矢張やはり何も判らない。

 車内ではマリャベッキ博士は沈黙を守り、それは少々不気味な印象を泰彦に与えた。

 しかし、助手台に乗っている石田は、時折前方から。

「赤坂様、窮屈ではありませんか?」

「ご気分は如何いかがですか?」

 等と小まめに気をつかってくれ、

「もし喉が渇くようでしたら、これをどうぞ」

 と言って冷たい飲み物の入ったグラスを手渡してくれた。

 赤坂は、丁度暖房が少々効き過ぎている様な気がして、口の中がからからに乾燥しているところだったので、有難ありがたくそれを口にした。

 飲んでみると、それはジン・トニックだった。旨かった。トニックの方はかく、ジンはビーフィーターだとぐに判った。赤坂は一息にそれを飲み干した。

 と、前からた手が伸びて来て、

「グラス、お渡し下さい」

 と石田が言った。赤坂が、

「ご馳走様」

 と言ってグラスを渡すと、続いて、

「お口直しに、これをどうぞ」

 とた冷たいグラスが手渡された。

 飲んでみると、今度はミネラル・ウォーターだった。

 口直しに丁度良い、と泰彦は此方こちらもごくごく飲んだ。

 そして、しばらくすると赤坂は眠気を覚えた。

 一服盛られていたのかも知れぬ、と考え付いたのは、後のことである。

 眠りに落ちた泰彦は、夢を見た。

 最初の夢は、蒙古もうこのハンになった夢だった。フビライハンか、チンギスハンか、何ハンなのかは判らないが、かく蒙古の王者になっていた。

 そして、自分は寝台の上に横になり、自分の廟堂びょうどうが建築される音をじっと聞いている。

 のこぎりで材木が切られる音、釘で材が打たれる音、棟梁とうりょうのかけ声…。

 それらを逐一ちくいち聞いていた。

 そして、寝たままで、ああ自分はもう少しで死ぬのだ、死んであそこにまつられるのだ、と云うのも自分がハンだからだ、と取り留めもないことを考えているのだった。

 二つ目の夢は、鳥のようになって空を飛び回る夢だった。

 しかし、地表に映った自分の影を見ると、鳥になったのでないことはぐに判る。

 赤坂は戦闘機になっていたのだ。

 しかも、無人操縦の最新鋭ステルス機である。

 赤坂は目標の指示を地上の基地から受け、それに従って爆撃を行う。それには赤坂の意志が反映されることはない。赤坂は全くのロボットだ。地上の基地にいる誰かが赤坂をラジオ・コントロールで操縦し、ボタンを押し、それに従って赤坂は爆弾を目標に向かって落とす。

 場所が朝鮮半島なのか、或いはシリアなのかも判らぬ。

 赤坂は自分に課せられた任務が終わるまで、飛行を続け、爆撃を行う。

 時には地表すれすれまで降下して爆撃を行い、その時には逃げ惑う兵士やら市民やらが眼に入るが、赤坂は気にすることなく機銃掃射を行う。

 赤坂はたしかに殺人を犯しているのだが、それが受動的な命令に従って行われるものなので、気にすることは全くない。いや、赤坂に人命を尊重するだけの良心があるのかすら不明だ。

 そんな夢を見て、赤坂は一旦眼を醒ました。少し汗をいていた。

 車は勾配こうばいを登っている。

 ――此処ここ何処どこだろう?

 が、た赤坂は眠りに落ちる。

 今度は赤坂は静岡の実家にいる。実家で、自分のレイアウトに向かい、模型列車を走らせている。これは関水金属とマイクロエースの製品で組んだ、急行の「安芸あき」号だ。

 ――こんな寝台急行に乗ってみたかったよな。

 と赤坂は思う。けれども、それは夢のまた夢だった。一等寝台、二等寝台を備え、尚且なおかつ食堂車まで連結した列車は、今はイヴェントとしての臨時列車でしか運行されない。

 赤坂はそう云う豪華列車はいやだった。

 三段式の寝台でも良いから、二等寝台、或いはB寝台に席を取り、東京から広島、九州辺りまでのったりとした旅がしたいのだ。食堂車だって、今時のフル・コースのディナーなんざより、普通に食べているカレーライスや蕎麦そばが食べたいのだ。

 しかし、それはもう列車模型の世界でしか実現できない。

 赤坂が、「安芸」号を自分のレイアウトでぞろりぞろりと運転していると――このような小型の鉄道模型はぐにモーターが過熱するので、特に長編成の場合は、余り速度を出してはならない――、母親の声がした。

「孝ぃ? 孝? 何処にいるんだろうね、まったく」

 そして母親は泰彦のもとに来る。

「泰彦、ひまそうだから一寸ちょっと頼むけど、孝がいないのよ。居回いまわりだけで構わないから、一寸見て来てくれないかい?」

 泰彦はたしかに暇だ。

 ――そうだ、就職活動をしないと不可いけないんだ。

 と思うが、母の頼みなので聞き入れない訳には行かない。

 赤坂は、自分よりも学業のできる孝を、決してうとましく思ったことはない。むしほこりに思っていた。

 ――そうだ、うちの跡取あととり息子の孝がいなくちゃ、たしかに困るな。

 赤坂はそう思い、腰を上げる。玄関で靴を履き、外に出る。もう夕間暮ゆうまぐれだ。

 ――こう云うのを、逢魔おうまとき、って云うんだよな。しかし、こんな時間に孝の奴、何処どこに行ったんだろう?

 泰彦は先ず自分の家の入口がある路地を出た。表通りは往還おうかんになっていて、だ車が多く通っている。泰彦は取り敢えず伊豆急線の踏切を渡って、線路の向こう側から探すことに決めた。

 しかし、踏切に近づくにつれ、泰彦のよく知っている伊東市の様相は溶暗ようあんするように溶け込み、その後から全く新しい、しかしそれにもかかわらず何処どことなく懐かしい風景が溶明ようめいして浮かび上がって来た。そんな季節ではないはずだったにもかかわらず、まつ囃子ばやしが鳴っている。通りの隅、仕舞しもの前の空き地では四人編成のロック・バンドが演奏している。今弾いているのは、〝ゲット・バック〟だ。

 ――あれれーっ?

 泰彦はその既視感デジャ・ヴュに驚いた。そして、間もなく踏切が鳴り出し、遮断機の竿が下りた。何が通るのか見ていると、最前まで運転していた「安芸」号だった。

 ――ああ、そうかあ。ぼくは、レイアウトの中にいるんだな。

 赤坂はAER線の時刻表まで作っている程だったので、次に来る列車は判っている。

 と、何時いつの間にか泰彦は踏切の中にいた。

 列車の大きな警笛が聞こえた。咄嗟とっさに振り向くと、「ゆふいんの森」号が此方こちらへ迫って来る。

 ――ああ、これで全部終わるんだな。

 泰彦はとても満ち足りた気分だったのである。

 赤坂は肩を揺すぶられて眼をました。そう、泰彦はだプレジデントの中にいた。

 石田が、

「お目覚めですか。研究所に到着しましたので」

 と言い、赤坂は自分の身の周りを見回した。四囲しいとも深い森のなかにあるらしく、文字通り森閑しんかんとしていた。

 そして、その中に、マリャベッキ博士が言っていたものらしい、研究所とおぼしき建築が四角く聳立しょうりつしていた。所々に電灯が点り、どうやら五階建て程もある、立派な建築らしかった。

「どうぞ。此方こちらへ」

 石田は莞爾かんじとして赤坂を導いた。歩くと、足の下で小砂利が鳴った。

 建物の裏口で、石田はボタン・コンソールを開け、何桁かの英数字を入力した。中に這入はいると、暖房が効いていて暖かかった。

 赤坂が案内されたのは四階だった。壁、天井、ベッドのカヴァー、床、と全て真っ白な部屋だった。石田は、

「今夜は、此方こちらにお泊まり下さい。手術は明午前中に始まります。明朝お召し上がりたいものがございましたら、何なりと」

赤坂は、思わず、

「三〇〇グラムのハンバーガー」

 と答えていた。石田はにっこりして承諾した。そして、よくお休みになれる様に、と言って、ハルシオン二錠と五百ミリリットルほどの水をグラスに注いで置いて行った。赤坂は二錠とも飲み、よく眠った。夢を見たが、孝が結婚式を挙げる夢だった。しかも泰彦抜きで挙行きょこうしていたのだ。泰彦は幽霊の様な存在としてその辺を彷徨うろつくのだが、泰彦に気付く者はたれもいないのだ。が、気になるのはそれだけで、盗汗ねあせかずに熟睡した。

 が、翌朝、赤坂は悪い予感を感じた。

 ――こりゃあ、断っておいた方が良かったんじゃないのかねぇ。

 心の中でアラームが鳴っている。

 ――これ、絶対ヤバいって。あんなうまい話、そうそうあるもんじゃないだろうに。

 だが、目覚めて直ぐ、監視カメラでもあるのか、ノックの音がした。石田の声で、

「お目覚めでしょうか」

――ぼく、だ童貞なんだぜ。童貞で死ぬのはいやだなあ。

それが、赤坂が最後に考えたことだった。


 森山静男は小学五年生、もとより童貞であった。

 その静男はいま、駅前のマクドナルドの僻隅へきぐうに、浮かぬ顔をして座っていた。

 眼の前のトレイには、てりやきチーズバーガーの食べ殻と、チキンナゲットの空き箱、それからしのコカ・コーラのカップが置かれていた。いずれも静男が最前、ぼんやりした頭で店に入り、ぼんやりしたままあつらえたものであった。

 今日は水曜日だった。そして、平生なら静男は、水曜日には進学塾に行かなくてはならなかった。

 しかし、今日の静男は何故なぜか足がぐ塾へ向かなかった。塾へは、この駅から三駅程電車に乗る必要があったが、それが気ぶっせいだった為ではない。又、〝アカデミー予備校〟での成績が芳しくなかった、と云う訳でも決してない。――いや、実のところ静男は、穎脱えいだつ麒麟児きりんじと云うほど図抜ずぬけた成績ではなかったものの、成績は堅調けんちょうに伸ばしており、塾では〝上級〟クラスに属していたのだ。塾がいやだった訳でもない。そもそも、中学からは公立ではなく、私学に行かせてくれ、とせがんだのは静男自身なのである。年齢の割に少々早熟そうじゅくな所のあった静男は、公立中に進んで自分の個性が潰されるのを恐れ、大らかな校風で知られる名門の欧洋おうよう学園がくえんを目標としていた。模擬試験では、目下該がい中学への合格率は65%、と云うのが最新の数値だった。静男が欧洋中学を目指したもう一点の訳合わけあいは、この中高一貫校は、英国のパブリック・スクールのような全寮制であることだった。静男は母と兄との暮らしを決してうとんじていた訳ではない。併しながら、心の何処かで父性的なものを渇仰かつごうする気持ちがあった。両親の離婚が何故生じたのか、静男は聞かされていなかった。が、両親の離婚は、静男の中では丸で鋭いナイフで細く深く付けた傷のようになっていた。静男は先ず独りになり、それからゆっくりと将来のことを考えたかった。静男は小説家になりたい気持ちもあったし、或いは母と離縁して去って行った父から少しずつ手解てほどきを受けていたギターを元にして音楽で身を立てるのでも良かった。かく、静男には、何処どことなく〝他人と違った道を進みたがる〟と云う、此処ここ日本では最も剣呑けんのんな性向が備わっていたのである。

 その静男がいま、独りで秘かに熱中しているのは、「少年探偵ごっこ」と云う遊びだった。読書家の静男は、江戸川乱歩の〝明智小五郎探偵と少年探偵団〟ものは、以前母が中高生時代に読んだと思しき、紙魚しみだらけのポプラ社版で粗方あらかた読み尽くしていた。そして、そのシリーズで静男があこがれたのは、〝尾行〟という行為だった。

 対象は、〝何処どことなく怪しげ〟であれば誰でも良かった。あの女子高生は、実はコンヴィニエンス・ストアでの万引きの常習犯かも知れない――とか、あのサラリーマン風は、車上狙いかも知れない――などと疑い出すと、いや、期待し出すと、もう胸がわくわくし、あの主婦は――、あの土木作業員は――、あの警官は――、と想像は無限に膨らんで行くのだ。

 この遊びのことは、静男はたれにも他言したことはなかった。塾がなく、誰とも遊ぶ約束がなく、尚且なおかつ晴天の暖かい午後は、静男の〝狩り〟の好日だった。

 そしてこの夕刻、静男は迷っていた。塾の講義にはうに遅れている。今から行くと、社会科の菊地先生の時間になるが、〝菊パン〟(塾の生徒は皆こう呼んでいた)は時間の点では滅法めっぽう厳格で、遅刻者を虐遇ぎゃくぐうするので悪名を馳せていた。その次はブレーク・タイムで軽食を取る時間があり、その後水曜の最後の授業となる算数で締め括る。静男の脇にある鞄には、母が朝仕事へ出る前に忙中時間を割いて手早く拵えて置いてくれた、ロールパンの簡単なサンドウィッチが入っていた。中身は確かめずとも判っている。一方はハムとチーズにレタス、他方は砕いた茹で卵だ。静男はそれを思うと泣きたくなった。静男は算数が得意だったから、最後の講義だけ聴いて、何もなかったような顔をして帰宅しても良かった。が、忙しい中何くれと世話を焼いてくれる母親には嘘を吐きたくなかった。

 静男が腕時計を確かめると、午後五時を回っていた。もう一時間もぼんやりとして無為に座り込んでいたのだ。静男は取り敢えずマクドナルドの店は出ることにして、ずしりと最前よりも持ち重りのする鞄を手に取った。夕間暮れのひんやりする風が首筋から入って来る。

 店を出たところで、行く当ては特にない。夕刻の熱鬧ねつどうは、デパートのショウ・ウィンドウやネオン・サインが厭に眩しく、人びとは無情なほど足早に歩を運び、覚束ぬ足取りで逡巡する子供に注意を払う者はいない。静男はやや項垂うなだれて、とぼとぼと歩を運んだ。

 静男は仕方がないので裏通りのゲーム・センターへ歩を向けた。学校の松尾先生からは、

「中学生や高校生の利用が多く、小学生が金品を巻き上げられる事例も報告されているので、ゲーム・アーケードには行かないように」

 とのお達しが出ていたので、静男は内心びくびくしていたのだが、店内を覗くと余り客はいないようだった。静男は店の戸口にたたずんで辺りを見廻した。

 ――と、その時、〝それ〟が眼に入った。

 それは老爺だった。地味な茶色の上着を着て、ループ・タイを身に着け、グレーのスラックスを穿いている。靴はネオンの光芒こうぼうを弾く黒革で、杖を突いて緩徐かんじょに歩んでいる。

 その老人を眼にした途端、静男の標的ターゲットは決まった。静男は何気ない風を装ってゲーセンのガラス戸に寄り掛かり、老人が遠ざかるのを待った。ある程度距離ができると、身体の魁偉かいいな高校生が何名か連れ立って来たのを機に河岸を変え、電信柱の後ろに身を寄せた。老人は一ブロックか二ブロックほど歩いたところで左に折れて姿が見えなくなったので、静男は前後の見境みさかいなく走り出した。と、静男が道を横切ろうとしたところで、唐突にヘッドライトに釘付けにされて、同時に凄まじいクラクションの音が響いた。急ブレーキを掛けて静男の手前で停まったのは、白いワン・ボックス車だった。運転席から作業着を着た男が身を乗り出し、

「馬鹿野郎。おいこら、渡る時にゃよく周りを見てからにしろよ。おめえかれて死んだって、此方こっちの責任になるんだからな」

 と叱咤しったし、た車を走らせて去って行った。男の気勢に呑まれた静男は暫し路上に尻餅しりもちをついて転がっていたが、直ぐに、老人の行き先を見失ってはならない、と気を取り直し、走って角を曲がった。

 老人は鏡町かがみちょうの方へ向かってとぼとぼと歩いていた。この近辺には鉄道の車庫があり、静男も先年、〝ロケハン〟をすると云う兄に連れられて来たことがある。だが、今日の日はとっぷりと暮れ、路上には所々街路灯が静かに水溜まりを作っていた。けれども、此処まで来てしまったのだから、後は付いて行くしかない。水溜まりに入ると、始めは影法師かげぼうしが老人を追い、少し歩むと老人の真下になり、更に進むと影法師が老人を追い越す。この辺は、右手は折しもともし頃の閑静な住宅街で、左手は真っ暗な電車区になっているが、もう廃車寸前の車輌のプールで、光はない。

 電車庫を過ぎると、左手は鬱蒼うっそうと樹木が繁茂した森林公園になっている。静男が追って行くと、老人は左に曲がって公園に入ってしまった。

 静男は此処ここ佇立ちょりつし、思案した。

 この公園は、朝夕は犬の散歩やジョッグをしに来るひとが多いことは知っている。又、園内を仁太郎川にたろうがわと云う小川が流れていて、去年は学校の自然観察クラブの行事で蛍狩りに来たこともある。併し、静男は一番重要なこと、まりこの公園は一体どれくらいの広さがあるのか、と云う点に就いて知識が全くなかったのだった。だが、今日の静男は少しく昂奮していた。と云うのも、こんなに謎めいた標的ターゲットを見出したのは初めてのことだったのだ。始め静男は困惑したが、それよりも魅惑の方が大きかった。森林公園内も街路灯がところどころに立っている。静男は男の後を追うことに決めた。

 老人は大樹の下の蔭になった所を態々わざわざえらんで歩くようで、静男は苦心して後を追った。老人は真っ暗な森林公園の中を、行き先が判っているのかそれとも只の気紛きまぐれなのか判然はっきりしない足取りで奥へ奥へと進んで行く。杖は突いているが、そんなものは丸で不要だと云わんばかりの矍鑠かくしゃくとした足取りである。

 やがて静男は林を抜け出し、噴水の前に出た。此処ここ奈何どうやら森林公園内でも中核を成す場所らしく、夜にもかかわらず盛大に噴き上がる噴水プールの周囲を取り囲むように、やけに明るい水銀灯が何本か立っており、その下にはベンチが数脚置かれているのだが、いずれも無人であった。静男が左を見ると、公園の管理事務所と思しき四角い平屋の建て物があったが、窓には厚いカーテンが掛かり、人気ひとけはなかった。

 さてくだんの老人は、不変の確かな足取りで噴水を回り込み、ベンチなどは一顧いっこだにせず、向こうに拡がる闇の中へた入って行こうとしている。静男は此処ここに至って、っと恐怖感を覚えた。だが、何故だか帰りたい、と云う考えは浮かばなかった。もう母も兄も奈何どうでもよかった。静男は老人を追って再び森の中へ這入はいった。

 それから十五分、或いは半時間も歩いた頃だったろうか。森林公園は不意に途切れ、静男は森の外に出ていた。辺りは静寂寂せいじゃくじゃくたる屋敷街――丁度静男が、〝少年探偵団〟シリーズで読み慣れたような洋館が建ち並ぶ街だった。けれども、どの屋敷の窓辺にも灯火はなく、鎧戸よろいどの下りた窓もあり、どの煙突にも人煙じんえんはなかった。ただ宏壮こうそうな建築群が不気味さを漂わせて聳立しょうりつするばかりだった。

 老人は、と周囲を見廻すと、公園を出て右手に曲がって闇の中を歩いて行く後ろ姿が見えた。

 静男は、この辺りは自分にとっては異郷いきょうだということを重々理解していたが、引き返す意志はなかった。不分明ふぶんめいながら、何かしら魅惑的、いや蠱惑的こわくてきなものがこの先にあるような気がしていたのだ。

 老人は数ブロックゆったりした歩みで屋敷街を歩いたところで不意に左手に折れた。この辺は街灯の一本きりもないから、見失わないように静男は小走りになって角を曲がったのだった。

 そして、そこではたと足を止めた。

 道は静男の先二〇メートルほどのところで行き止まりになっており、そこで老爺ろうや此方こちらを向いて立っていたのである。杖を地に突き、それに幾らか体重を預けて立っている。

 静男はもう一歩も動けなかった。

「坊や、駅前からずっと来てくれたね」

 老人は、含み笑いでもしているかのごと口振くちぶりで言った。声は明瞭で、ごくおだやかな口調だった。

 静男には返す言葉がない。只、空唾からつばを呑んだばかりである。

「いいんだよ、怖がらなくたって」老人はひっ、ひっ、と笑った。「実際、わたしは坊やみたいな子が来てくれるのをずっと待っていたんだから」

 老人はそこで言葉を区切り、杖で以て自分の背後を指して見せた。そこで初めて静男は認めた――老人の背後に、何やら廃墟のような空間が拡がっていることを。

 静男はそれを見ていると、何故なぜかしら、離婚して家を去る前の父に連れて行って貰った、上野の科学博物館に展示されていた、タルボサウルスやイグアノドンの化石した骨格を聯想れんそうした。

此処ここが何か判るかい、坊や?」

 老人は優しげな口調で問うた。ここで初めて静男は老人とコミュニケートした――まり首を横に振ったのだ。

 すると老人は、

「坊や、ここはね、遊園地なんだよ」

 と言った。

 静男は何故か魅入みいられたような夢見心地ゆめみごこちになり、

「ゆうえんち…」

 と復唱ふくしょうした。

しかただの遊園地じゃあない。坊やみたいな、お利口さんのための遊園地だ」

「おりこうさんのためのゆうえんち…」

 老人は二、三度頷き、

「そうともさ。さあ坊や、付いておいで」

 と言い、背後の高さ一メートル程の高い柵を押した。すると、柵と見えたのは扉だったらしく、それはぎぃっ、と云う腐った金属特有の音を立ててきしみ、開いた。

 老人は、「おいで」と云う風に手真似てまねをして、柵の内側に這入はいった。今や意識の一部をすっかり老人に握られてしまったかの如く、静男も続いて中へ這入はいった。老人はた扉をきしませて閉じ、がちゃりと鍵を掛けた。

「さ、こっちだよ。付いていらっしゃい」

 それからしばらく、静男の意識はホワイト・アウトして薄れる。

 気が付くと、静男はフルーツ・パーラーのような所にいた。辺りがやけに眩しいほど明るいのは、それまで暗がりにいた為だろう。

「坊や、此方こっちだよ」

 老人はにこにこして隣にいた。静男をうながして立たせると、先に立って歩いて行く。静男もまる夢遊病者むゆうびょうしゃのように立ち上がった。

 すると、フルーツ・パーラーかと思われた場所は、実は駅だったとわかった。島式のプラットフォームが並び、そこには静男も兄の模型列車で見憶えのある色とりどりの列車が発車を待っている。

 と、その中にきわなつかしい特急電車があった。

 静男は我知らず、

「あ、285系だぁ!」

 と叫んでいた。父が、郷里である香川県へ静男と共に帰省する際に使った寝台列車が、この「サンライズ瀬戸」号であった。

 そして、B寝台二人用個室で旅したその一夜こそ、仕事で多忙な父と静男が過ごした最良の思い出なのだった。

 老人は、かたわらから、

「どうだね。これからこれに乗って、お父さんに会いに行きたくはないかね?」

 と問うた。

 静男は、

「行きたい。けど、お父さん、今何処どこにいるのかさっぱりわからないし…」

 が、老人は人差し指を一本立て、

「本当に会えるかどうか、なんて考えちゃあ不可いけないよ。いちばん大事なのは、会いたい、という気持ちの強さだ。強く念じなさい。お父さんに会いたい、と。そうすれば屹度きっとた会える。一緒に暮らすこともできるだろうしね」

 静男は、ややぼんやりした頭で、

「ほんとう?」

 と問うた。老人は真顔で、

「本当だとも」

 とった。そして、静男にピンク色の券を渡し、耳語じごした。

「さあ、これがチケットだ。遅れずにお乗りよ」

 静男はチケットを見た。それは、父親と乗った、二人用のB寝台個室だった。

 腕時計は午後九時五十分、定刻の発車時刻は午後十時丁度ちょうどだ。

「さあ、あと十分だよ。早くしないと乗り遅れるよ」

 ――そうだ、乗り遅れちゃまずいや。お父さんに会えなくなっちゃう。

 静男は気を取り直してチケットを握り締め、プラットフォームへ走った。目指す車輌のドア・ステップに足を掛けた時、発車ベルが鳴った。

 ――お父さん。

 ドアが閉まり、ホイッスルが鳴って、列車は動き出した。


「いやぁ、まさかあんなにしびれるものだとは思わなかったよ」

 雅也はオートミールのさじを右手に持ったまま、両手を高々と挙げた。

「降参だ」

「それにしても、きみのねむりっりにも驚いた。三日と半日寝ていたんだからなぁ」

 リチャード・クレイジーマンは二つ目のナマズ・バーガーにかぶながら言った。

「それに、夢遊病者スリープウォーカーならぬ夢弁病者スリープトーカーとはね」

「そんなに寝言を言ってた? ぼくは悉皆さっぱり憶えがないんだがな」

「言っていたよ。日本語だったから、内容は判らなかったがね」

「でも、ナマズでしびれて寝言を言ったのはぼくだけなんだろ? これまでのところ」

 と、かたわらの男子学生が、

「電圧の強弱によって違いがあるのかも」

「…と云っても、あれは発電器官でしょ? フライにされてある、と云うことは、すでに死んでいる、ということを意味するし…。どう、その辺は?」

「それがね」と女子学生が言った。「奈何どうやら、このトラマール産のシビレナマズには、蓄電器官もあるみたいなの」

「蓄電器官?」雅也は眼をいた。「それじゃあ、うまく使えば、天然のバッテリーになるじゃないか」

「うん、我われもそれを考えているんだ」とリッチー。「だがね、わがイリノイ大学の電気生理学の専門家は、あれこれ手一杯抱え込んでいてね、中々此処ここへ来ることができないんだよ。それにしても、ここのナマズは結構旨いだろう? 今は此奴こいつの調理法を試行錯誤しこうさくごしている所さ。バーベキューも試したし、テリヤキもやったよ。どれも中々旨うまかった」

差詰さしづめ、イリノイ大学家政学部、って所だわね」

 ポニーテールの女子学生がそう言って笑った。

「じゃあ実際、今は何もせずただブラブラしてるの?」

 雅也が問うと、

「いや、いま出来できかぎりのことは手をくしている。例えば、シビレナマズの個体一匹ずつに発信器を取り付けて、ここら一帯での動きを見るとかね。――もっとも、だ数がすくないので、まとまったデータが取れているワケではないがね。それから、解剖かいぼうの方もちょいちょいやっている。ナマズの発電器官にいては解剖をやった成果せいかだ。去年、それをテーマにして博士論文を書いた学生もいる」

「ふうん。…で、皆ナマズを召し上がっているのに、一体奈何どうしてこのぼくだけ特別食のオートミール?」

此処ここでは、朝はオートミールを食べることになっている。で、ナマズの電気ショックから恢復かいふくしたばかりの者も、体調を調整する上でこれを食べるのが一番良いらしい、と云うことがわかったのでね。きみは、我われが予期しないほどの大きな電気ショックを受けたらしい。今は夕食だから、おあつらきに明日の朝もオートミールだ。文句はないだろ?」

「うん。スープで下味が付いているし、卵が落としてあるのも良いね。気に入ったよ。――ところで、此処ここには、何時いつまでいていいんだい?」

 クレイジーマンは隣の学生と顔を見合わせて、

「…そりゃ、きみ自身が決めることだよ」と言った。「きみは我われを救ってくれた大恩人だから、基本的にいついつまで、と云うことは言わない。いや、言えない。だが、きみには何か目的があって此処ここに来たんだろ?」

 雅也ははたひざを叩いた。

「ああ、そうだった。ぼくは竹生健を追わなきゃいけなかったんだ」

 教授と学生一同は声を揃えて、

「タケフケン? それ、誰?」

 雅也は、

「小説家なんだよ。そして、今回包パオへは、玉青丹ぎょくせいたんと云うお香を探し求めて来ているはずなんだ」

 と、学生の一人が、

「聞いたことないなあ。どんな作品を書いているの?」

 佐竹雅也は肩をすくめた。と、クレイジーマンが、

「そう云えば、マサヤ、この間きみも小説家だと言っていたろう。同業者の後を追っているのか?」

いや違う」返答にきゅうした雅也はハイネケンをあおってから、「ぼくが竹生健であり、竹生健はまたぼくでもあるんだ」

 一同再び声を揃えて、

「それって、どう云う意味?」

 雅也は、額に浮いた脂汗を拭い、それから別段汗などかずとも済む話であったことに気が付いて、

「つまり、――ぼくの本名が竹生…違う、佐竹雅也なんだが、竹生健と云うのは、ペン・ネームなんだよ」

 一瞬、沈黙が訪れた。

 クレイジーマンはナマズ・バーガーを一口囓かじり、その後稍やや憫然びんぜんとした口調で、

まり、こう云うことか。きみは自分のペン・ネームを失った、と云うことなのか。或いは逃げられた、とか」

 雅也は咳一咳がいいちがいして、

「うん、そう。ぼくのペン・ネームは、ぼくの書いたものが気に入らなかったかどうかしたらしく、機嫌を損ねてしまって、ある日、突然、玉青丹ぎょくせいたんを求めにパオへ向かう、と書き置きを残して、出て行ってしまったんだ。それでぼくは、ペン・ネームがないと仕事ができない、生活にも支障が出る、それで篇輯者へんしゅうしゃに断りを出して、此方こちらへ追って来た、と云う訳なんだ」

 一同復た沈黙。と、クレイジーマンが静かな声で、

「また別の手立ては考えられなかったの? 例えば、別のペン・ネームを付けるとかさ、そう云った…」

「ううん、あの竹生健は、ぼくの大学時代の指導教官に付けて貰ったものなんだ。…もう物故ぶっこされている先生だし、他の名親なおやと云うのは考え付かなくてね。それに、不定期連載だったから良いものの、雑誌に連載中の作品も書き掛けていてさ。どうしても名義が竹生健じゃないと、ちょい不味まずいんだよね、じっさい」

「そうか」リッチーは気の毒そうに首を振った。「じゃあ、追わなきゃな。――此処ここに長居しても、無用じゃないか?」

「いやあ、ぼくは竹生健の性格は大体摑つかんでいるからね。そんなに深刻には考えてくれなくて良いよ」

「そう。…おおっと、もうこんな時間か。明日の仕事がある。休もうじゃないか」

 リッチー・クレイジーマンがお開きを宣言し、奇妙な晩餐ばんさん会は終わった。

 雅也はシャワーを浴びるとゲスト・ルームに引き揚げていた。


 ライヴが終わると、客電が灯り、客は三々五々、会場を後にした。里山はステージから顔をのぞかせ、だ泰彦が椅子に座り込んでいるのを見て、客席に降りてやって来た。

だそんな所でぼんやりしてるの? だからあんたは、〝てる/めてる〟の赤坂くん、って云われるんだよ」

「いやぁ」赤坂は時計を見乍ながら答えた。「他の客が出て行くのを待って、後から出ようと思ってさ」

「そう」里山は赤坂の顔を無遠慮にじろじろ眺めた。「今日の演奏はどうだった? ――それより、ちまたの噂じゃ、この所あんた、変わった、って皆言ってるよ。何かあったの? 就職活動中らしいのに、学校にも来ないし、就活自体していないらしい、って云うひともいるし」

「今日のライヴは見事だった」赤坂はずそう言った。「今まで聴いていた内で、演奏は一番安定していたね。但し、ミスが何カ所かあった。ヴォーカルの音外しが二箇所、ギターが三箇所、ベースが二箇所、ドラムスが一番多くて四箇所」

「ご、ご名答」里山百合子は度肝どぎもを抜かれたように言った。「ああ、あんた、変わったわ、たしかに」

「そう?」

「うん。鋭くなった、って感じかな。何かあったの? ひょっとして、失恋でもしたとか?」

いやいや」泰彦は苦笑した。「そんなことはないよ。…只、一寸ちょっとね」

「一寸、何なのさ?」里山は赤坂の隣の椅子に腰掛け、っと赤坂の顔を見遣みやった。「ねえ、教えてよ。何があったの? 就職活動もしないで、何やってるの?」

「うーん、まぁ一寸したアルバイトだよ」

「アルバイトだぁ? こんな時期にぃ?」

「ああ。ちょっと、伝手つてがあってさ」

「就職活動は? あきらめたの?」

いや、そうじゃないさ。――もうしなくとも済むようになったんでね」

「じゃあ、どっかに決まったんだ。おめでとう」

「いやぁ、具体的に何処其処どこそこの会社に行く、とはだ決まっていないんだけどね」

「うーん」里山は不満げな声を上げた。「何か怪しいなァ」

「じゃ、今度ぼくにできる範囲で説明するよ。ハンバーグでも食べながら」

たハンバーグ? 好きだねぇ」

「そう。ぼく、ZZトップの大ファンでさ。〝バーガー・マン〟って云う曲があるんだけどね」

「あたしは、〝ラーメン大好き小池さんの唄〟の方が好きだけど…、まあおごってくれるなら、ハンバーグでも良いよ」

「うん。じゃあご馳走しよう。HAMAでどう?」

「HAMA? あんな高直たかい所? あたしはた、バーガー・キング辺りにするのかと思ったら。りあんた、何か訳アリなんだね?」

「そんなことより、時間はどう? 明日の午後零時半に店で待ってるよ」

「いいけど。予約は?」

「いま、済ませたところ」

「えっ!? 何ですって!?」

 里山は驚愕きょうがくしたが、赤坂は時計を見た。

「あ、もうこんな時間だ。じゃあ、明日乃木坂で」

 翌日、やくたがえずに里山はハンバーグ・レストランに現れた。

 此処は個室があり、十並んだグリルの前が十に区切られた個室席となっている。調理人は各個室の前で、グリルでハンバーグを焼き、客に供すると個室の前を離れる。だから、客は焼き立てのハンバーグを頬張ほおばなが密談みつだんができる、と云う訳だった。並の学生風情ふぜいが気軽に入れるような値段ではない。

 二五〇グラムのハンバーグが二人分焼き上がると、コックは二人の前を離れた。飲み物やデザートは既に運ばれている。

「じゃあ、早速お話をお伺いすることにしましょうか」

 里山が言った。

「――うん。だが、実はね、だ内密にお願いしたいんだけど」

「判った」

 里山はお喋りだが、緊要きんような点では口がかたいことは泰彦も知っている。

「単刀直入に言うと、ぼくは先日手術を受けて、人間コンピュータ、まりHuman Personal Computer、略してHPCと云うものになったんだ」

 里山は怪訝かいがの色をうかべた。

「HPC? 何、それ?」

 赤坂は上着を脱ぎ、シャツのカフスを外すと、両腕の上膊部を見せた。そこには、シリアル・ポート、パラレル・ポート、IEEE1394ポート、USBポート、SDカードに始まる各種メディア用の接続ポート、ディスプレイ用VGA、DVI、HDMIポートなどなどがずらりと設けられていた。

「ひゃー」

 流石の里山も口許くちもとを押さえて小さく悲鳴を上げ、眼をらせた。

「これだけじゃない」泰彦は言った。「大脳の視床下部を一部切除して十二コア、二十四スレッドで三テラ・ヘルツの処理速度のある超高性能CPUがバイオ・インストレーションと云う方式で取り付けられている。HDDは十テラ・バイトのものが胸郭に内蔵されている――勿論超小型のもので、大脳にあるぼくの元々持っている記憶とも完全にリンクしている。又、強化肝臓のお陰で、エネルギー補給も万全」

「信じられない」

「ぼくだって、最初話を聞かされた時は吃驚びっくりした。ドイツ語の諺に、〝素人しろうとは驚き、玄人くろうとは怪しむ〟と云うのがあるんだが、正にそれだね」

「で? ディスプレイは?」

「眼が代わりを果たしてくれる。HPCモードに入ると、眼でブラウザやメーラ、その他のアプリケーション、そうそれに加えてスマートフォンも搭載されているんだが、それらを視認できるようになり、それぞれの機能をフルに活かせる、と云う訳」

「へー」里山はハンバーグ・ステーキを切る手を休めて、泰彦に向き直った。「で、それさ、幾らしたの?」

「それが、ぼくは、このプロジェクトの第一号でね。プロトタイプだと云うので、全部無料だった」

「じゃあ、今は一体何をなさっておいででいらっしゃるの?」

「今は、恵比寿にある会社でパート・タイム勤務をしていて、世界中の経済動静を見る仕事をしている。けど、春からは別の会社に入れて貰えるらしい。何しろ、ぼくの手術をした博士は、何でも色んなことを知っていてね…、精通している、と云うのか」

「ふうん…。手術される時、怖くはなかった?」

「怖いも何も。手術前に、色々と仕込まれた実験動物を見せられてさ。ラットにマウスにチンパンジー。百匹以上いた。チンパンジーにはヘッドセットが付けられてさ、そこから延びたケーブルがPCの端末に取り付けたインターフェースにつながってるんだ。あれを見た時は、自分も此処ここで終わるんだな、と思ったね」

「うひゃあ。グローい…」

「ああ、ご免ごめん。だけど、手術は成功裡せいこうりに終わって、ぼくは今こうして此処ここにピンピンしてる訳」

「それじゃあさ、例えば…、そうだね、ここに居乍いながらにして、国際線の航空券と旅先のホテルを予約して…、なんてことも可能な訳?」

「勿論。軽いものさ」

「スゴーい。じゃあ、せかせか働くのも莫迦ばからしくなるでしょ?」

「ううん、ぼくは働くのは好きだからね。――もっとも、それは今取り掛かっている仕事についてのことで、春から配属される、と云う会社に関してはだ何とも云われていないから、判らないけどね」

「ふうぅん」里山はハンバーグの最後の一切れを口に運び、珈琲コーヒーを飲み、デザートのミルフィーユをも平らげて、「あ、あたしこれから、たバンドのリハがあるんだ。――あたし達のバンドのことは、どうご覧になりますか、赤坂先生?」

「そうだね。時好じこうとうじて今より売れよう、と云うよくは捨てた方がうまく行くと思う。今のままの多少ブルーズっぽいハード・ロック、それにてっした方がいいと思うな」

有難ありがとう」

 里山が求めて来たので、泰彦は握手をした。

「じゃあねッ! 元気でやるんだよ。ハンバーグ、ご馳走様ちそうさん!」

 と言い置いて、里山は去って行った。


 雅也は翌朝、早くに眼がめた。た何か夢を見たようだったが、記憶にはほとんど残っていない。カーテンを開けると、トラマール湿原帯が早朝の清々すがすがしい陽光を浴びている。顔を洗い、ひげを当たると、少し散歩でもして来るか、と思って部屋を出掛けたのだが、その時、階下から、ジャラン、ジャラン、と云うかねの音が響いた。

 雅也は腕時計を見たが、だ午前七時である。

 ――朝食には、一寸ちょっと早過ぎはしないか?

 と思ったが、大抵のホテルでは七時からモーニング・サーヴィスを行っている。雅也はワイシャツとジーンズを身に着け、室の外に出た。と、このログハウスで暮らしている他の学生たちが眠い眼をこすながら各部屋から出て来る所だった。

「アイオワ、マサヤ」

 と話し掛けて来るのはクレイジーマン教授である。挨拶を聞いたマサヤは思わずぷっと吹き出した。

 前夜、クレイジーマンに、

「マサヤ、日本語で〝お早う〟とはどう言うんだ?」

 と訊かれて、

「オハヨウ、だよ」

 と教えると、何度か、

「…オハヨウ、オハヨウ…」

 と不器用に繰り返しているので、見かねて、

「まあ、オハイオ、と云えば発音は近いだろう」

 助け船を出したのだが、何処どこかで混同したらしい。

 まあ良いか、と思いつつ、雅也は此のログハウスで味わう初めての朝食のテーブルに着いた。

 クレイジーマンは、

「マサヤ、朝食もセルフ・サーヴィスなんだぜ」

 と言った。雅也もリッチーや他の学生たちにならって皿やボウルやグラスなどをトレイに載せ、オートミールやトースト、珈琲コーヒー、ミルク、オレンジ・ジュースなどを取った。オートミールは卵を落としてあるものとないものがあり、夫々それぞれの好みに応じて取るようになっている。

 雅也は、オートミールを食べながら、隣に座ったクレイジーマンに、

此処ここの料理人は一体誰だい? 実にい腕前じゃないか」

 と言った。

此処ここでは皆料理人さ」とリッチー。「此処ここに来る学生がず教わるのは、家事一般。で、交代制で面倒を見る。目下もっか、それですべ上手うまく回っている」

「ふうん。研究よりも先に、家事をおぼえるのか」

「そうさ。ず生活の基盤をしっかりさせないといけないからね。――時に、今日はきみも、トラマールへ一緒に来て、我われの仕事を見るかい?」

「トラマールへ? 一緒に行って構わないの?」

「良いも悪いもないさ。きみは大事な賓客ひんきゃくだ。大切にてなす積もりだよ。何か不満や希望があれば、遠慮なく言ってもらって構わない。…日中もこのハウスに残っていたい、と云うのならそれも構わない。が、屹度きっと退屈するだろうね。何せTVの電波もこの辺には届かないし、し見えたとしても中国の放送局の番組だから、何を言っているのか悉皆さっぱり理解できないだろうよ。それでも残っていたい、と云うなら構わんが」

 雅也は、

「うん、行くよ。此処ここ居残いのこっても退屈だと云うなら。――トラマール、って云うのは、あの湿地帯のことかい?」

「ああ、そうだ。ただし、トラマールの中核を成す一帯は、世界自然遺産に登録されているので、自由な研究活動が認められている、と云う訳ではないんだ。今我われが主として研究活動を行っているのは、遺産指定区域から外れている、トラマールの東のへりだ。そこなら、環境の面から見てもトラマールと変わらず、しかも自由な研究活動が行えるからね。来るかね?」

勿論もちろん。面白そうだしね」

「あの…、これはきみのプライヴァシーに関することだが…、ケン・タケフを追わなくても良いのかな? きみのペン・ネームのことを?」

「――そうだねえ。本来ならそうするべきなんだろうけど、何と云うか、奈何どうでも良くなって来てね」

 リッチーは、如何いかにもアメリカ人的な鷹揚おうようさを見せて、

「まあ、いさ。その辺はきみ次第だから。じゃあ、朝食が済んで、三十分位したら此処ここに来てくれたまえ」

「了解」

 雅也はストロベリー・ジャムとピーナッツ・バターとオレンジ・マーマレードをごってり塗ったトーストを鱈腹たらふく食べ、オートミールも二回程お代わりをして食べた。

 そして、自室へ引き取って歯を磨き、言われた刻限こくげんに階下へ降りた。

 すると、たも網や釣り竿を手にした学生たちが集まっていた。リッチー・クレイジーマンもいる。

「ようし、皆揃ったか。今日はジェイムズには網を渡すなよ」

 笑声が起こる。

「では行こうではないか」

 クレイジーマンの号令に従い、一同はぞろぞろと扉から外に出た。

「どの位歩くの?」

 雅也がかたわらの女子学生に問うと、

「歩くなんてもんじゃないわ。五分もすれば〝猟場りょうば〟に着くわよ」

 その言葉は嘘ではなかった。三分も歩くと地面が軟らかくなった。

「これじゃあ、歩けないよ」

 雅也が言うと、

「大丈夫だ。此処ここはまあ、湿地帯のへりみたいなものさ」

「よくこんな土地にあんな大きな建物を建てる気になったもんだ」

「それにいても、ちゃんと地質学の専門家にお墨付すみつきを貰っているから、心配は無用だよ」

「ふうん。――で、ぼくたちは何をしようとしているんだい?」

「トラマールシビレナマズを採集して、発信器を尻尾に取り付ける。もう何千匹にも同じことをしているのだが、何分トラマール地帯は広闊こうかつでね。中々、まとまった数のナマズに発信器を取り付けることが出来ないのさ。人手が足りない、と云うこともあるが、こんなに限られた予算ではね」

「ああそうか、ナマズは何千匹もんでいる訳か。それで食料にもなるんだね? ほどね」

 と、攩網たもあみを持った、前歯が大きく、トミーと呼ばれている学生が、

「千のオーダーじゃないね。何十万と棲息しているよ。だから、ぼくらが食べたくらいじゃあ、絶滅はしないだろうね」

「ふむ。で、ナマズは一体何を食べている訳?」

 リッチー・クレイジーマンが、

「そりゃあいい質問だ。此処のナマズは雑食性でね、動物性・植物性両方のプランクトン、ベントス、それから他の小魚も食べているらしい。らしい、と云うのは、生態の面では未だ推測の域を出ない部分がかなりあってね。何分、我われがトラマールに来てだ日が浅いし…」

此処ここに来たのは、何時頃の話になるんだい?」

「一年半前、秋のことだ。それまでは米合衆国内のナマズに就いて調査をしていたんだが、ある時学会でこのナマズのことを知って関心を抱いてね。それからこの地方を旅行で訪れたと云う学生の話も聞けて、それで本格的に此方こっちに居を移す決意を固めた、と云うのが顛末てんまつなんだ」

ついでに離婚もしてね」

 頰に雀斑そばかすの浮いた学生が、網を振り乍ら茶化ちゃかすように言った。

 リッチー・クレイジーマンは、やや面色を変えて、

「離婚だなんてとんでもない。ワイフのビリーも研究職なんだが、畑違いなんだよ。わたしは動物生態学、妻は神経言語学が専攻だからね」と言い、「マサヤ、きみも指輪をしている所を見ると結婚しているようだが、別居に就いてきみの見解を伺いたい。一体奈何どう思うね?」

 雅也は、

「ううん」と一寸ちょっと考えた。「ぼくもたしかに妻を置いて此方こっちに来ている訳だが、由美子と別れてだ一週間にもならないからなあ」

「奥さんと話したくならないかね? わたしはとても話がしたい」

「うん、付き合いが長いからねえ。それに、仮に今、衛星携帯電話で電話をけたとしても、恐らく向こうが話したがらないと思うけどね」

「そりゃ一体何故なぜ? きみは喧嘩でもして出て来たのか?」

「いや、違うけど、〝竹生健を連れ帰るまでは、話したくない〟と云う雰囲気だったんだよねえ」

ほど女丈夫じょじょうふなんだな」

「んまあ、そうも云えるね。ビリーって云うのかい、きみの奥さんは。ビリーは何て言うと思う?」

いや、わたしがきみと出逢った時、わたしは合衆国から帰る途中だったんだ。ビリーとは数日間一緒に過ごせた。だけどわたしはもうビリーが恋しい」

 そう言うと、クレイジーマンはメランコリックな表情で青天井あおてんじょうあおいだ。

 それを見たパットと云う女子学生が、聞こえよがしに、

たァ、リッチーったらぐおセンチになるんだから」

 と冷やかした。リッチーは、

「皆ああやって小馬鹿にするが、わたしは本気でビリーを愛している。きみは奈何どうだ、マサヤ。きみは本気でユミコさんを愛しているのか?」

「そうだね」雅也は鼻の下をこすった。「もう結婚して十一年になるからね。そうだな。うん、妻女さいじょに持つとしたら、あれ以上の女はいないね。もっとも、ぼくの文筆生活が軌道に乗るまでしばらく時間が掛かった所為せいで、子供はいないが」

「わたしには娘がいるよ」リッチーは眼を細めて笑みをうかべた。「ジェニーと云うんだが、ピアノとヴァイオリン、それに最近奈何どう云うワケかヴェルヴェット・リヴォルヴァーに夢中になって、エレクトリック・ギターも習いだした」

「ワーオ」雅也は仰天ぎょうてんした。「そりゃ大したもんだ」

「そうだろ? それで、この前のクリスマスには。サンプラーをプレゼントしたんだ。学生に見立てて貰ってね。テクノやEDMにも眼を向けさせようと思ってさ」

「ふうん。だけど、学校のほうは大丈夫なの?」

「学校は飛び級が認められて、今五年生のクラスにいる。絶対音感があって、チャーミングで、茶目っ気もあって…」リッチーはポケットを探ると、iPhoneを取り出した。「これがワイフと娘だ」

 ビリーと云うクレイジーマンの奥さんは栗色の髪をして、眼は瞳が素敵だった。娘だと云う少女は確かに賢そうで、子供用のストラトキャスター・タイプのギターを抱えて笑顔を見せていた。

「ほらほら」と後ろから声が掛かる。「たリッチーは惚気話のろけばなしに花を咲かせるんだから。ちゃんと身を入れて研究しないと、イリノイに戻しちゃうわよ」

「そうだったそうだった」リッチーは写真を仕舞しまい、「どうもね、今の所研究が単調極まりないものだから、お客が来ると何時いつもこうなんだ」

 と苦笑する。

 雅也も網を貸して貰って、沼の中をさらった。が、あのシビレナマズには中々出会えなかった。

「結構大変だろ?」

 黒人の学生が問うた。

「うん。藻や他の小魚しか入らないね」

「もっと深い所へ網を入れないとダメだ。そら、貸してみな」

 学生は、雅也の手から攩網たもあみを受け取ると、柄の先五センチほどを残して、丸で網を沼地に突き立てるかの様な具合で差し入れると、ぐっと網をすくった。黒人学生の上膊じょうはくには力瘤ちからこぶができている。沼地に落ち込まぬ様細心の注意を払いながら、ぐいッ、と網を沼から出すと、他の藻類や小魚に混じって、見事にシビレナマズが十匹程入っている。

「それから…」

 学生はつぶやくように言うと、膝上で切ったジーンズの腰に提げたプラスティック製のかごから赤い小さな器具を取り出し、ピチピチ跳ねるナマズを捕まえて、その器具のクリップ状になった端の部分で尻尾を挟んだ。

「この強力なクリップは、外そうとして人為的に力を加えない限り、自然な環境ではまず外れないから大丈夫」

 学生は残りのナマズにも手早くクリップ型発信器を取り付け、そして網を復た水中に浸して、ナマズを戻した。ナマズたちは先を争うように母なる水の中へ帰って行く。

「これで良し、と」学生は雅也に網を渡した。「きみもやって見る?」

「いやあ」雅也は掻頭そうとうして言った。「何かさ、ぼくは力仕事は余り得手じゃないみたいなんだ」

 黒人学生は雅也の頭の天辺てっぺんから足のつま先までじろじろと眺め回し、

「そうかい。ぼくはハイ・スクールではアメリカン・フットボールのチームでキャプテンをやってたからさ。――それで此処ここに入る奨学金も取れた」

「ふうん。ぼくも大学時代は水泳部だったんだけどね」

「まあ、歳を重ねりゃ、体力も落ちるもんだから」

ところで」雅也は言った。「此処ここでは毎晩ナマズなの? 他に野菜とかミネラル類とかる必要はないの?」

「ああ、あのナマズを大学に持って帰って、栄養学研究室で調べて貰ったら、ヴィタミンの上にミネラルも豊富にれることがわかってさ。で、栄養分は特に肝臓に多いことも判ったんだ――皮肉なことにね」学生は一寸笑った。「だから、〝我われは、麺麭パンナマズのみにて生くるものなり〟、なんて不謹慎ふきんしんな冗談まで出てね」

「ふうん。面白いね。そうすると、あのナマズは、此処ここら一帯の食物連鎖の頂点近くにいるんじゃないの?」

「鋭いね」学生は言った。「ぼくらもそう睨んでいるんだが…、この辺はだ解決していない問題も多いんだ」と肩をすくめ、「ま、後から追々おいおいわかって来ることも色々いろいろあると思うし、今の所はそれ位しか言えないよ。まあ、数の点では圧倒的多数を占めているから、ぼくらが食べてもさして問題にはならないんだが、食物連鎖云々しょくもつれんざうんぬんいてはだ未解決のことが多いよ」

「ナマズは夜行性なんだね?」

「そう、基本的にはね。積極的に動き回るのは夜が中心。だから、当直が二人残って、データ取りをしているよ。――まあ、この辺でやっているのはその程度。きみみたいなお客が来るのは大歓迎だよ。単調な毎日だからね。何時いつかは本国の電気生理学者とか専門家を連れて来て、本格的に研究を開始したいんだけど、そのためにはイリノイ大学や政府から助成金を貰わなくてはならないしね。その為にぼくらは毎日せっせとデータ取りに励んでいる、と云う訳」

ほどね。それでナマズ・バーガーには肝臓が残っている訳が判ったよ」

「そう。肝臓が肝心なんだよ」

「皆、毎日何匹くらいのナマズを食べているの?」

 青年はあごに手を当てて、

「そうだなあ、男子学生なら五匹、女子なら三匹、って所だろうね」

しびれない?」

「うん。あれはある程度慣れも必要だからね。慣れればあの刺戟しげきも結構気持ちの良いもんさ。きみは全く慣れていない所に、キツい奴をらったものだから、余計に効いたんだと思うよ」

 じゃ、た発信器を付けなきゃ、と言うので、青年に攩網たもあみを渡し、雅也は所在なげにその辺を歩き回った。

 昼食はコロッケ・バーガーとコークが供された。

パオでは皆、馬鈴薯じゃがいもを食べるのかい?」

 誰にともなく雅也が問うと、ぐ隣の女子学生が、

「いえいえ、色んな食材があるわよ。只、本国の栄養士にナマズを持って行って確かめたら、これならあと芋類をるのが良いだろう、それでヴィタミンEをおぎなえば一日分の栄養はまかなえる、と云う話だったから、馬鈴薯が多いけど、後気分転換で南瓜カボチャ甘藷さつまいものコロッケを食べることもあるの」

 と言った。

「午後もナマズを採るの?」

「午後は陽射しが結構強くなるから、二手に別れて、片方はナマズ採り、もう一方はデータ解析をすることになってる」

 雅也はデータ解析の手伝いなら出来そうだ、と思い、午後はログハウスで過ごすことにした。

 中央電算機室――とは云うものの、実情はデスクトップPC三台が中心になって動いていると云うだけだが、かく雅也やリッチー他学生数名はそこにめて作業に取り掛かった。

 と、PCのソフトウェアをいじっていたリッチーが大きな声を上げた。

「そら見ろ、ここのナマズ達、矢張やはり電磁波を出している。此方こっちのセンサーにビンビン引っ掛かって来るじゃないか。ああ、その可能性は前から感じていたのだが、一体奈何どうしてこれまでこの点を精査しなかったのだろう。われながら情けない」

 と言うと、リッチー・クレイジーマンは頭をむしった。学生たちは皆自席を立ってリッチーのPCの前に集まった。

「電磁波ですって?」

 女子学生が問うた。

「そうだ、これを見るがいい」

 クレイジーマンはディスプレイの暗い面を指した。所々でピンク色の輝点が灯り、移動して行くのがわかる。

「これが電磁波?」

「そうだ。――と云ってもわたしは学生時代、電磁気学はっとCを貰った切りでね。物理学とも縁がなかったなァ」

「リッチー」と別の女子学生が言った。「このナマズが電磁気学的に見て重要な意味を持つものであることは、既に昨年、論文になっています」

「だっ、誰だだれだ、そんなこと書いたのは!?」

「ジョン・メイヤーさんよ」

「ええっ、何だ、そうかあ」リッチーは机に肘を突き、毛深い両腕でた頭をむしった。「わたしの新発見ではなかったか。――だが、あのナマズら、腹の中にコイルを持っていることになるが、そんなものを抱えて一体何の得があるんだろうなあ。これはわたしの専門じゃないから良く理解出来ないのだが、早く其方そっち専門の人材を見付けて来なけりゃあ。いたずらにナマズを捕まえるばかりで、まるで進展がない。これは困る」

「どうなんでしょうねえ」学生の一人がぼやいた。「イリノイ大学包パオキャンパス、と云えば聞こえは良いけど、大学当局からは〝存在しないことにされてる〟感もあるしな…」

しかし、わたしにも一つ気付いたことがあるのだ」

 リッチーはPCのディスプレイに改めて向き直り、言った。

 学生一同声を揃えて、

「どういうこと?」

「うむ、どうもこのお魚さんたちは、ある一定の方角へ向かって泳いでいるように見えるのだ」

 再び声を揃えて、

「一定の方角?」

「そうだ。トラマールにもゆるやかな流れはあるが、それに逆らうように泳いでいるかの如く見えることがある」

 学生一同、

「ふうん。それで?」

まり、ナマズたちは何かを避けるが如く――あるいは何かから逃げるがごとく動いているように見えるのだ」

 クレイジーマンはマウスを操作して時間を巻き戻し、早送りでナマズたちの行動を表示させた。

「そら、こうだ。此処ではトラマールの流れは北から南に向かっている。それなのに、ナマズはそれを突っ切るように、東から西へ泳いで行く」

「あ、ほんとだ」

「本当だわ」

「どういうことなんでしょうね?」

り、これ、ナマズの発情と関係あるのと違いますかね?」

「わからん」クレイジーマンは言った。「それとも、何かを避けているみたいにも見えるが…」

「うん、そうも見える」

「どう云うことでしょうね?」

「これはだ、何とも言えないな」とリッチー。「もっと発信器の数を増やして、それからの話になるな」

 と、その時コンピュータ室のドアをノックする音が聞こえた。

「夕食の時間だよ」

 雅也はリッチーの横に陣取り、たコロナ・エキストラを片手に、ナマズ・バーガーをかじっていた。

「今度は感電しないでくれよな」

 とリッチー・クレイジーマン。

「さあ、判らないけど、あのビリビリ、って来る感覚、結構刺戟しげき的だったよな。――それにしても、ナマズの研究も中々奥深いものだね」

「そうだろう。きみも学士号を持っているのだから、何かコメントしてくれても良いんだよ」

「そうか。じゃあ、何か気付いたら言わせて貰うよ」

「そうしてくれたまえ」

 その晩は、雅也はナマズバーガーを、感電もせず(一、二度ピリピリしたが)美味おいしく食べた。淡泊で執拗しつこくなく、食感も味わいも丸でニジマスを思わせるような口当たりだった。

 食事が終わると、皆ホールに居残って「ブレインストーミング」をする時間が設けられているが、客分待遇の雅也は出なくとも良かったので、一足先にシャワーを浴び、自室に引き取った。ベッドに横臥おうがすると、間もなく眠りに落ちた。


 赤坂泰彦は、その日も午後一時に「東京カウンセリング・センター」に出勤した。

 アントニオ・マリャベッキ博士からは、

「人間、IQも問題だが、矢張やはり先ずEQだな。えず当面の間は、わたしが知っているカウンセリング施設で、研修を積んで欲しい。担当者には、たけ軽症の患者を担当させるように言っておくから、きみのIQで何処どこまで対応できるか試験する意味もあるのだが、まあやって見てくれたまえ」

 との言葉を受けていた。

 さて、今日赤坂は、次に挙げるようなクライアントを対応することになっていた。

「女性 年齢二十四歳 不眠、軽い抑鬱よくうつ 発症の契機は八年前…」

 赤坂は、センターに入ると禅寺のように寂然せきぜんとした通路を通り、二〇三号室に入った。

 クライアントの境康子と云う女性患者は、午後一時半を五分程回った頃に姿を見せた。

 赤坂は立ち上がって迎えた。

「どうも初めまして。担当させて頂くカウンセラーの赤坂です」

此方こちらこそ初めまして。境と申します。宜しくお願い致します」

 赤坂は、康子の挙措きょそを見て、大分癇癖かんぺきの強そうな女だな、と考えた。双眸そうぼうは鈴を張ったようにぱっちりしているのだが、眠れぬ為かいささ血走ちばしっている。

「大分お悩みのようですね」赤坂は穏やかな口調で誘導する。「お話し下さいませんか、よろしければ…?」

「…はい」境は呼吸こきゅういてから、意を決したように話し出した。「わたし、殺したい男性が二人いるんです」

「殺したい? それは穏やかじゃありませんね。一体奈何どういう経緯いきさつで?」

「一人は、小川直也さんと云うひとで、この方のことをわたしは深く愛しております。いま一人は、青木仁という男で、わたしはこのひとを深く憎んでいます。

 ――先ず、わたしが小川さんと知り合ったのは中学三年の時で、わたしの一目惚れでした」

「どういう方ですか?」

 以後、赤坂の相の手は省いて要点を縷述るじゅつする。

「優しい、かく優しい性格の方でした。わたしのままもよく聞いてくれましたし、わたしが今度の日曜はどこへ行きたい、と言っても必ず付き合って下さいました。あの青木が現れる前は…。

 高校は、わたしは県立高校に進み、小川さんは私学の男子校に進みました。高校は別になったのですが、付き合いは変わらず、駅前のドトールなどでよく喋りました。

 ところが、高校一年の冬、ドトールに青木が入って来て、図々ずうずうしくもわたしと直也さんの席に割り込んで来たのです。

 そうして、直也さんが何か言った時に、青木は冗談粧じょうだんめかして、

『コラコラ小川、そんなことじゃ、何時いつになっても彼女ができないぞォ』

 と言ったのです。そうしてわたしが、

『あの、あたしたち、一応付き合ってるんですけど…』

 と言うと、ガハハハと笑って、

『そうだったの? そりゃまた失礼しましたー。何せ、全然そう見えなかったんでねぇ。じゃ、お邪魔しましたーっ』

 と笑って出て行きました。

 そして、わたしが小川さんと逢えなくなったのも、この日からのことです。

 その夜、小川さんから電話が架かって来まして、

『第三者の青木の眼から見てもカップルに見えなかった、ってことは、りおれたちは似合っていなかったんだよ。ああして会うのはもう止めようぜ』

 と言うのです。

 わたしはその後も、何度も電話をしたり、受験勉強で図書館で会ったりする度毎たびごとに、直也さんと話しました。一緒に話す分には時間を割いて下さったのですが、た付き合ってくれ、と言うと、

『その話は、もう決まったことだろ』

 と言って、全く相手にして下さらないのです。

 わたしたちが折角いいムードでいたと云うのに、莫迦ばかな青木の所為せいですっかり空気が変わっちゃったんです。

 その後、直也さんは地元の私大に入り、わたしは短大に進みました。

 一番ショックだったのは、直也さんに新しい『彼女』ができていたことです。

 その夏はもう悔しくて憎らしくて恋しくて…、夜も眠れなくて、お恥ずかしいことですが、深夜二時過ぎに青木の家に無言電話を架けたこともあります。

 それで、その後わたしは一応就職したんですけど、この所一寸ちょっと鬱気味で辛くて…」

 規定きていの一時間が経った。赤坂は、帰り支度をしている康子に、

「境さん」と呼び掛けた。「これまで、そのお話をこんなにまとまった形で他人に話したことはおありですか?」

 赤坂の問いに、康子は、

「いいえ、ございません」

「そうですか。では、お大事になさって下さい。来週もこの時間にお待ちしています」

「はい。よろしくお願い致します」

 面談は終わった。赤坂はこれも規定の料金六千円を仕舞った。心理カウンセラーとしての手腕や知識は胸郭きょうかくに収められている、広範な分野にわたって厖大ぼうだいな知識を蓄積しているHDDと、赤坂の第二の頭脳と云えるCPUが提供してくれる。後は赤坂が地体じたい持っている、自然な感情のままに受け答えすれば良いのだった。泰彦自身に取っては、赤子の手をひねるより簡単なことだった。

 ――今回のケースは、割と簡単に済むだろうな。

 との赤坂の診立みたては的中した。

 境康子は翌週、幾分気楽そうな表情で現れた。

 赤坂が、

如何いかがですか?」

 と問うと、康子は、

「一つ、夢を見ました」

 と言って、話し出した。

「夢に、直也さんが現れたんです。そして、

『悪かった、俺が悪かった。俺が優柔不断だったからこんな事になってしまった。済まない。青木のことはゆるしてやってくれ』

 と、こう言うんです」

 泰彦はそれを受けて、

「それで、あなたはどう思います?」

 と問うた。

「わたしは…結局小川さんは、わたしのことを本当に好きではなかったんだろうと思います。わたし一人、熱を上げて突っ走って…、付き合っていた、と云うより、わたしが付き合わせていたんだろう、と思います。そう言えば、わたしは時々、〝キツい性格だ〟と言われることがありますし…」

「では、気分的には落ち着かれた、と…」

「はい。抑鬱よくうつも改善して来まして、医師せんせいも、これなら緩解かんかいも近いだろう、と仰有おっしゃっています」

「そうですか。それなら、良かった」

 〝宿命の破局〟から数えて実に八年後に、っと安寧あんねいが康子を訪れたのであった。


 赤木一平は、テストの点の件で叱られることもなかったので、安らかな気分だった。

 遊びに行きたい、と母に言うと、

「いいわよ。お夕食までには帰ってね」

 との許諾きょだくも得られた。

 亀井敏和、森山静男の二人とは、約束の通り三叉路さんさろで落ち合った。

 三人は、川ッ縁の農道を上流へ向かって自転車を漕ぎ進めた。

「おい、どの辺だよ?」

 静男が問うた。一平は、

「まだまだ、もっと上流だよ」

 ふとじしの敏和は音を上げて、

「ここから上り、きつくなるぜ。自転車降りて、押して行こうよ」

 と言い出し、三人はそうすることにした。

「本当に魚、いるんだろうな?」

 静男が問うと、一平は、

「本当だってば。おれ、お父さんと来た時に見たんだから」

 と答えた。敏和は、

「こんなことじゃ、森山っちの家の模型電車でた遊びたかったな」

 と言ったが、静男は、

「駄目。今日はお兄ちゃん、いないんだ。だからダメ」

 と答えた。一平は、

「そう云えば、あれ、電車じゃないのもあるよね?」

「うん。気動車とか、SLとかもあるし」

「〝きどうしゃ〟って、何?」

「気動車はディーゼル・カー。車みたくエンジンで動くの。SLは蒸気機関車。石炭を燃してその蒸気で走る機関車」

「あ、もう一寸ちょっとだよ」一平が言った。「彼処あすこの、桑の木の木陰の辺り」

 二人は自転車を停め、倒れぬようスタンドで立てた。

 一平の案内でくだんの場所まで来ると、三人は思わず顔を見合わせた。

「――お前が言ってたのって、ここ?」

「ああ、そうだよ」

すごく深いじゃん」

「そう言ったろ」

「魚、見えないけど」

「うん。でもえず釣り糸を下ろしてみようぜ」

「餌は何が良いかな?」

蚯蚓みみずで良いと思うよ」

 三人はかく魚釣りの恰好かっこうだけは整えた。三人ともわくわくして見ていたのだが、引きは中々来なかった。

此処ここ、小魚もいねえのかな」

「どうだろ。ここより川下だと、追河オイカワだとかいるんだよな」

「なら、この辺にだって、ナマズくらいいたって当然じゃねえの?」

「しっ、余り大きな声出すなよ。魚が逃げちゃうだろ」

 一平がそう言った時、不意に静男が、

「ああっ」

 と言った。

「何?」

「何、なに?」

「いたよ」

「いた?」

「ああ、もの凄くでけえ」

何処どこに?」

「あの辺」静男は対岸の樹々の真下の辺りを指した。「彼処あすこに、今出て来た」

「どの位?」

 静男は腕を一杯に拡げた。

「こぉんな」

「鰻みたいの?」

「ううん、あんな細長くない。もっとぶっとかった」

「な、言ったろ?」一平は言った。「此処ここにはいるんだ、って」

 その時、不意に空がくもり、ごろごろ…、と鳴った。灰色の雲の合間から、陽光がほのかに射している。三人は無言でそれを見守った。

 と、敏和が、

「帰ろうぜ」

 と叫ぶように言って手早く網や釣り竿を片付けると、自転車にまたがった。静男と一平もそれにならった。

 三人は自転車で、ブレーキも掛けず坂道を下り出した。最早誰も口を利くものはいなかった。


 雅也は眼をますと、ううん、と一杯に伸びをした。窓からは陽光が入って来ている。腕時計は午前六時半だった。顔を洗い、小用を足すと、っと意識の底まで覚醒した。

 ホールに降りると、学生の半分ほどが席に座り、この辺の地図をひろげて何だかだと話し合っていた。オートミールの煮える香ばしい香りも漂っている。雅也は珈琲コーヒーをマグに一杯注ぎ、リッチー・クレイジーマンの隣に席を取った。

「アイダホ、マサヤ」

 雅也はた吹き出しそうになった。地理的にも昨日より遠くなってしまっている。

「お早う、リッチー」

「マサヤ、きみの意見を聞かせて貰いたいんだが」クレイジーマンは言った。「昨日見せたあのトラマール一帯でのナマズたちの動きは、きみに取って奈何どう映った? いや、科学的な裏付けのあるコメントでなくとも構わない。ごくごくフランクなところでいい、聞きたいんだ」

「うん」雅也は言った。「そうだね、ぼくに言えるのは」

 雅也は思いもしない言葉がするすると口から出て来るのを感じた――

「大魚がいるんじゃないかな、と云うことだね」

 リチャード・クレイジーマンはその言葉に眼をいた。

「たいぎょ? 大きな魚?」

「そう。もの凄く大きな、それで何でも喰ってしまう、そんな存在」

 すると、その場にい合わせた教官と学生は声を揃えて、

「それ、スゴいアイディアじゃん!」

 と叫んだ。雅也は照れて、

「そうかな」

 とだけ言った。が、リッチーはテーブルの上で、毛深い手で雅也の手を、力を込めてぐっと握り、

「これまでこんなアイディアを出して来た者はいなかったよ。いや、実に素晴らしき考えだ。そう考えれば、ナマズらの集団移動の疑問はたちまちにして氷解ひょうかいする。一体何をヒントにそんなことを考え出したのかね?」

 雅也はリッチーの握力にアイタタ、とやや顔をゆがめ、

何処どこって…、よく判らないけど、多分ぼくの見た夢からじゃないかな」

 するとリッチーはもろ手を挙げて万歳の恰好ををすると、

「ホントに素晴らしい。まるで、ベンゼン環を発見したケクレのようではないか。夢が天啓を与えてくれたのだ」

 と怒鳴った。

「ナマズと巨大魚」

「巨大魚とナマズ」

 ホールの彼方あち此方こちで声が湧き起こった。リッチーは、

「きみは全く、天からの御使いではないか。最初は羅甸ラテン語を読み解いてくれ、次には巨魚の存在を示唆しさしてくれた。我われは、全く以てきみをもっと大事にもてなさなくてはならん。何なら何時いつまでだっていてくれても構わない。そうすればその内に、此処ここいらの不思議のあれこれを悉皆すっかり解明してくれる様になるだろう」

 雅也はこそばゆい思いを感じて朝食を済ませると、二階に上がり、外出する支度を始めた。

 パットと呼ばれる女子学生が、

「あら、マサヤ、今日もトラマールに来る予定?」

 と問うた。

「うん、行くよ」

 パットは言いにくそうに、

「あたしのかんだと、今日はあなた、来ない方がいいみたい」

「ふむ。女の勘、って奴か」

「何、それ?」

「日本での慣用句さ。日本では男より女の方がかんが良い、ってことになってるんだ。――もっとも、異性関係、要するに浮気とかそんなのに就いてのことだけどね」

「ふうん、面白いこと。――ねえ、所でマサヤ、パオに来て、誰か女の子を好きになったりした?」

いや、そう言えば特にないな。――もっとも、ぼくは日本でも、結婚してから浮気したことはないがね」

「あら、そう。でも、誰でも、ここへ来ると、人間は性慾せいよく減退げんたいするみたいなの」

「ああ、そう云やそんな話、日本を出る時に妻から聞かされたな」

「でしょ? どうしてかしらね?」

「後、闘争とかごとを起こしたり、過度かど物慾ぶつよくを抱いたり、そんなこともなくなるらしいね」

「だから、一部のひとは、ここを地上の天国、って呼んでいるわ」

「うん。でも、此処ここでの暮らしに余りにも慣れてしまうと、元いた国に帰ったとき、余りの殺伐さつばつさに厭気いやけが差して、不適応になるケースも出て来るだろう」

「そうね」

「結局、程度の問題だ、と思うよ。此処ここびたりになるのも問題だ、と云うワケ。ぼくはそう考えているけど」

「日本には帰りたくならない?」

いや、そんなことはないよ。――そうは言っても、すくなくとも現在の日本も治安が良い方だから、孰方どちらにいても余り変わりはない、って感じもするな」

「――所で、本気で今日もトラマールに来る訳?」

「うん」

 パットはかたすくめて、

「それじゃ、まあご随意ずいいに」

 と言った。

 歩きながら話し、二人は水辺へ来ていた。

「さあ、今日はぼくもナマズ捕りを手伝うぞ。昨日は一匹も捕まえられなかったけど、今日こそは捕まえてやる」

 雅也が言うと、パットは笑って、

し本気でやる積もりなら、此方こっちの大きい攩網たもあみを持って」

 と言い、直径が優に一メートル半はありそうな大きな網を雅也に手渡した。

「沼地の底からさらうんだよね?」

 確かめると、パットは首肯しゅこうした。そして、Tシャツの袖をまくげると、力瘤ちからこぶを作って見せ、

「あたしは此方こっちに来てからこんな仕事ばかりしているから、すっかり筋肉質になっちゃった。んま、美容には悪くないから、良いけどね」

「防犯用にもなるし」

 パットはた笑った。

「そうそう。アメリカに帰ったら役に立つかも」

 雅也は昨日トミーと云う黒人学生がやって見せてくれた様に、網を先ず沼底に突き立てるようにしてから、足は地を踏み締め、上半身を一杯に使い、丸で野球撰手やきゅうせんしゅのホームランの場面をスロー・モーションで再現するかの如く、力を入れて網を引き揚げた。

 攩網たもあみは上がったが、弾みで雅也は尻餅しりもちを突いてしまった。

「ふひーっ」

 パットが莞爾かんじとして網の中の獲物えもの検分けんぶんする。

「十、十一、十二…、全部で十三だわ。こりゃ大漁だ。グッ・ジョブよ、マサヤ」

 しかし、雅也はぐと返辞へんじをすることがあたわなかった。普段は余り使わぬ筋肉も総動員してすくった所為せいか、腰の筋をおかしくしてしまったのだ。

「あいたたたたた、あいたた」

 雅也は沼地の下生したばえの上で転げ回った。

 ――情けねえなあ。こんな無様ぶざま恰好かっこうはひとに見せられるもんじゃねぇ。

「大丈夫、マサヤ?」

 パットは手捷てばやくナマズの尻尾に発信器を取り付けながら言った。

「ううん、一寸ちょっとヤバいみたいっす」

一体奈何どうしたのさ?」

「腰の筋を違えたらしい。痛みがひどくてたまらない」

 パットは呆れた様に、

「ほうらほら。あたしの言った通りだったでしょ? 来ない方が良い、って」

「全くだ、きみのご託宣たくせんの通りだ。キャビンでブラブラしていれば良かった」

「どう? 立てそう?」

 パットが雅也に手を貸そうとした時、今度は右足のすねに激痛が走った。

「あーッ」

 とパットが大声を上げ、雅也の手を放し、走り出した。

 雅也が何とか半身を起こして見ると、朱と黒のだんだら模様の太い蛇が逃げて行く所だった。

 パットがそれを追って行くのを見乍ながら、雅也は復た意識が遠のくのを感じた。


 赤坂泰彦の次の仕事先は、坂を下りた所にある、六本木のカウンセリング・センターだった。

 赤坂はこれ迄、五名のクライアントを、夫々それぞれ別々の五箇所の施設でカウンセリングして来た。

 何故なぜ一つの施設に固定されないのか、赤坂はやや不思疑に思っていたが、かくこれまでのところ、赤坂にインストールされた「HPC」システムはすこぶる良好に作動していた。

 赤坂は元来、見かけにらず気が優しく、繊細なひとの心の機微きびを見ることにけていたが、その上に更に、カウンセラーとして必須の知識や豊かな経験などが体内のHDDに格納されているのである。これまで赤坂が応対したどのクライアントも、だ病歴が浅いことも手伝って、数回のカウンセリングで無事、完治していた。

 しかし、赤坂はこの所よく眠れないと云う問題を抱えていた。夜間の妙な時刻にHPCモードに入ってしまったり、朝覚醒かくせいしても、一体自分は何をすれば良いのか判らず、覚醒後一時間もパジャマのままでいたり、ぼんやりすることが多くなった。

 けれども、赤坂はこれらの異状いじょうをマリャベッキ博士には報告していなかった。

 博士からは、

「基本的に、喫緊きっきん要件ようけんがある場合を除いて、わたしには直接の連絡は取らないように」

 と下命かめいされていたからである。

 赤坂は、実際には心身共に疲憊ひはいしていたのだが、本人はそれに全く気付いていなかったのだ。

 赤坂は時折ミスを犯すことがあった。カウンセリング施設へは、基本的にラフな恰好かっこうで行って構わなかったのだが、それを忘れて如何にも堅苦かたくるしいスーツ姿で行ってしまったり、背広を着てもネクタイを締めるのを忘れていたり、或いは地下鉄銀座線に乗るべきところを南北線に乗ってしまったり、と云った比較的細かいミスだったため、赤坂本人は余り気にしていなかった。

 さて、その日のクライアントは、例によってマリャベッキ博士の秘書から送られたメールにると、

「男性 二十八歳 重症の統合失調症患者 完治不能の見込み 具体的な症状は、幻覚、幻聴、被害妄想など」

 と極簡単ごくかんたんに知らされているだけだった。

 赤坂は、午後二時に「六本木クリニック」に入った。

 受付で来意らいいを告げると、かずぐに応接室に招き入れられて珈琲コーヒーを供され、所長であるところの、田中と云う五十代半ばの精神科医が顔を見せた。

「あなたが赤坂先生ですか」

 田中医師はだ若いカウンセラー――そう、何と云っても肉体としての赤坂泰彦は少壮しょうそう二十二歳なのだ――の姿を見て、すくなからず拍子ひょうしけしたような声を上げた。

「はい。今日はどうもお世話になります。宜しくお願いします」

「え、ええ…。しかし、あなたはこれまで、一体どの様な学殖がくしょくを積まれたのですか?」

「実は、臨床心理士養成コースとは少々ずれています。わたしは本来理科系学生で…、その、大学でも一般教養で心理学の講義を取ったばかりでして…」

「だが、マリャベッキ博士は大分あなたを買っていましたが」

「そうでしょう。それにいては、色々ご説明すべき点があるのですが、生憎あいにく企業秘密がからんでおりまして…」

ほどね。それはまあ、そうでしょうとも」田中医師は言った。「そうでなけりゃ、街中のねこ杓子しゃくしもカウンセラーになれたっておかしくないワケだ」

「ですが、わたしの中には、すくなくとも三十年以上にわたるカウンセリング経験に匹敵ひってきする、厖大ぼうだいな量のデータが収められているのですけどね」

「そうですか。ま、わたしには想像も付きませんが」

「――して、今日の患者さんは?」

 田中医師は表情を引き締めた。

「ご担当いただく患者ペイシェントは、三上さんと云うのですが、難物なんぶつですよ。あなたでも相当手こずり、苦心するはずです」

「そうですか…。まあ、ずお目に掛かって見ましょう」

 と云う訳で、赤坂は午後三時前にはカウンセリング・ルームに入って、三上氏の到着を待機たいきした。

 クライアントは定刻に姿を見せた。

 せて背が高く、度の強い眼鏡を掛けた姿は神経質そうな印象を与えた。

 しかし、三上氏はへやに入るなり、奇矯ききょうな行動をていした。

 氏は、眼前に立っている赤坂に向かって初対面の挨拶をする前に、先ず部屋を取り囲む壁に関心を示し、其方そち此方こちの壁を撫でたりさすったり、或いは耳を当てるなどした。

 その行動にたっぷり三分間も費やしてから、っと落ち着いたのか、赤坂に向かって、

「どうも」

 と一言挨拶して、椅子に座った。

 赤坂も、

「初めまして。どうぞ、よろしくお願い致します」

 と型通かたどおりの挨拶をした。

「あなたは…」と三上クライアントは言った。「先週の月田つきださんでは、ない」

「はい」赤坂はたけ相手を刺戟しげきしないよう気を付けて、「臨時で担当いたします。赤坂と申します」

 クライアントは、眼球が眼窩がんかから転げ落ちそうな程に瞠目どうもくして、

「ははあ」と言った。「よろしくお願い申し上げます」

ず」と赤坂は言った。「あなたは今、どのようなことにお悩みですか? たけ具体的にお願いします」

 三上氏は相変わらず赤坂を値踏みするようにじろじろ眺めながら、

「ええ。わたしは翻訳の仕事をしているのですが…」

 そこで言い淀む。赤坂は、

「今も? なさっておられるのですか?」

 穏やかに促す。

「はい。――以前と比べて、仕事量はがくりと落ちたのですが、細々とやっております」

「今の翻訳のお仕事を始められてから、何年くらいになります?」

 氏は指折り数えて、

「…四年ほどです」

「――それで、ご病気のほうは…」

 すると氏は途端に一方ひとかたならぬ苦悶くもんの表情をうかべ、

「ああ…」と呻いた。「わたしが悪かったのです。余計なよくを出したものだから…。わたしが悪いのです」

 以下には、この回を含めて計三回の面談で赤坂が三上氏から聞き得た限りの情報を縷述るじゅつする。尚、本件が臨床心理士としての赤坂にとり最後の仕事となったことをここに付け加えておく。

 又、三上氏の病状には、結句、改善する兆しが見られなかったことにも触れておく。

「わたしは、そもそも産まれたのは北海道の利尻りしりです。そう、日本の一番北にある、礼文島れぶんとうと並んだ小さな島です。そこで、父は中学校の校長をしていたのですが、わたしもその中学校に通いました。

 中学校を出ると、わたしは島を離れ、札幌市に所在する、寮のある私立高校に進学しました。利尻にも高校はありましたが、とてもではないが進学率は低いものでして、わたしも父も大学――北海道で主要な大学と云うと北大と云うことになるのですが、かく進学を望んでいましたので、こうすることになったのです。経済的に比較的恵まれており、教育熱心な家庭の子女はこうするのが普通です。もっとも、道内の地方にも、進学校は点在していることはしているのですが、わたしの産まれた道北地方にはほとんどありません。

 高校を三年で卒業した後、わたしは北海道大学の工学部に進学しました。本当は、共通テストであと三十点ほど余分に取れていれば医学部を受験することもできたのですが、その時には父が既に退職しておりまして、浪人はさせられない、と言われ、むなく工学部の情報系の学科を受験し、無事合格し、入学しました。

 そこを四年で卒業しまして、わたしは内地で就職し、都内にある大手情報機器メーカーに入りました。当時は景気がよく、待遇もごくいものでした。

 わたしは、父が英語科の教諭だったことも大いに寄与していると思うのですが、偶々たまたま英語に馴染む機会が多く、ペーパーバックなど気軽に読む方でしたので、その会社では、専攻の数理関係よりも、海外の取引先や子会社の社員とメールでやり取りをしたり、或いは来日した場合には同時通訳などを任されることが多くなりました。

 そして、その内に、海外の大手企業との合弁事業が始まることになり、わたしは技術文書や契約書を始め、大量の文書類の翻訳を任されたのですが、その折上司から、お前はそんなに英語ができ、IT関係の技術にも精通しているのだから、独立して翻訳の仕事をした方が今の会社でコツコツやるよりずっと金になる、是非そうした方がいい、そう言われたのを契機に、あらかじめ翻訳業界に就いて自分なりによく下調べをした上で、独立して翻訳者となりました。

 その時わたしは既に結婚しておりまして、妻との間には二つになるかならないかの娘もおりました。

 仕事は好調なスタートでした。元いた会社からも引きも切らず案件の発注があり、また、トライアルと云うのですが、翻訳会社で実施する翻訳テストがあるのですけど、それにも挑戦した結果、五、六社ほどの翻訳会社と契約ができまして、納期はきちんと守るし仕事も精確せいかく、と云う評価もして頂けまして、多い月には収入が三桁の額になることもありました。

 そして、独立して二年後、詰まり今から二年前ですが、ウェブで知り合った同業者から、税金対策などを考えたらそうした方が良い、と勧められたこともあり、思い切って法人化し、翻訳事務所として再出発を図りました。これもおおむね成功したと云って良く、この頃が一番順風満帆じゅんぷうまんぱん、と言って良かったのでしょう。

 ところが、そこで色々問題も出て来るようになりました。

 ず、妻がマンション暮らしをいやがり、マイホームを望んだことです。

 それから、わたしはワーカホリックと云って差し支えない程仕事漬けの二年間だったのですが、娘がわたしと遊べない、と文句を言うようになりました。――実際、今度TDLなどへ連れて行ってやる、などと約束しておきながら、結局空手形にしてしまったことも再三あるのです。七五三すら祝ってやれませんでした。

 わたしは弱りました。如何にして、収入を増やしつつ、子供の為の時間も作り出せるのか。

 相当心こころろうしたのですが、ある時決定的な解決策を見出したのです。

 しかし、それはわなでした。恐ろしい運命が大口を開けてわたしを待ち受けていたのです。

 どう云うことか、具体的にお話ししましょうか。

 ある時、わたしは夕刻に、取引先の翻訳会社を訪問した後、泉岳寺駅前の通りをぶらぶら歩いていました。仕事が非常にスムーズに終わったものですから、立呑みの店でもあったら入ってウヰスキーかカクテルでも一杯やりたいな、と云う心境だったのです。

 駅頭にはそれらしき店はありませんでしたので、わたしは少し裏通りの方へ入りました。人通りなども余りない、うらさびしげな通りでした。

 と、見ると、そこでは行商人が後片付けをしている所でした。

 何の屋台なのだろう。

 わたしは興味をかれました。

 すると、店仕舞いをしていた親父がわたしの顔を見ました。親父の顔は夕照ゆうしょうと店の明かりを受けて、不気味な程に黄色く見えるのです。

 思えば、そこで引き返せば良かったのです。

 しかし、わたしは迂闊うかつにも、親父に、一体何をあきなうのか、と訊ねてしまったのです。

 親父はわたしの問いに、不気味な笑顔で答えました。煙草の脂でしょうか、顔同様にきたなばんだ乱杭歯らんぐいばがちらりとのぞきました。そして、何を扱う、って、何、腕時計でさ、と言います。

 腕時計? とわたしが訊き返しますと、そうさ、今ここでしか買えない、特別製の時計さ、興味があるなら見て行くかい、旦那ならやすくしときまさぁ、とこう来るのです。

 わたしは、親父ご自慢の時計とやらを見せて貰いました。

 そうです。すこぶる妙な時計でした。

 どこが妙だったか、って? 一番妙ちきりんなのは文字盤です。文字盤には、零から十三まで数字があるのです。それでいて、何とも不思疑なことに、0から13までの数字は歪みも凹みもせぬ三六〇度の真円しんえん内に、等間隔とうかんかく綺麗きれいそろっているのです。

 こりゃあ妙な時計だね、とわたしは親父に言いました。

 親父は、最初はそう思うかも知れんが、やがてはこの時計を持って良かった、と重宝ちょうほうするようになるだろうて、とた不気味な薄笑いをうかべて言います。

 一体奈何どんな時計なんだい、とわたしは問いました。

 すると親父は、秘密めかすように声をひそめて、一日を二十六時間で過ごせる時計でさ、旦那みたいに忙しいひとにゃあ持って来いですぜ、と言います。

 一日を二十六時間で過ごせるのかい、と吃驚びっくりしたわたしが訊き返しますと、親父は、そうでさあ、便利な世の中になったもんでしょう、と胸を張ります。

 わたしは俄然、購入意欲をそそられました。が、相当高直こうじきなものだろうな、と思って値段を問うと、親父の言う通り、案外にも廉価れんかでしたので、わたしはその場で一つ買って帰りました。

 ところが、ここでた一つ妙なことが起こりました。と云うのも、わたしは時計を買い、包んで貰って持ち帰り、自宅で包装を解いて、たしかに仕事机の一番上の抽斗ひきだし仕舞しまっておいたはずなのですが、その後一切、どこをどうさがしても、時計が見えないのです。

 時計は消えてしまったのです。

 しかし、たしかにわたしは一日を二十六時間で過ごせるようになりました。

 お蔭で、最初のうちは便利に過ごせました。仕事量も格段に増えました。それは、数社のコーディネイターさんから、三上さんは以前から凄いと思っていたけれど、こんなに仕事が出来るとは驚きだ、と言われるほどのものでした。仕事量が増え、レート…まり翻訳料も上がりましたし、娘と遊んでやれる時間も作れるようになりまして、家の内外でわたしは点数が上がった気がしました。それはもっと至極しごくな話です。他の皆は一日二十四時間で生活しているところ、わたしだけ二時間余分に増えて、しかもそのことを他の誰も知らないのですから。二十六時間で過ごすようになっても、格別草臥くたびれる、などという差し障りもなく、周りとはそれまでどおり馴染んでいたように暮らしていたのです。

 ですが、それは最初の内だけでした。

 其奴そいつらがわたしの周りに出没し始めたのは、時計を買ってから数週間後のことです。

 最初は、自分の眼を疑いました。しかし、奴らはたしかにそこにいるのです!

 吸血蛭きゅうけつひるのように吸い付いて来るものや、壁から滲出しんしゅつして来るものや、外に出れば風船のように浮かんで追い迫って来るものもいます。わたしにはよく判りますが、連中は、わたしの精を吸い取るのが目的なのです。そうなれば、わたしは恐らく異次元の中に取り込まれてしまうでしょう。助けて欲しいのです。お願いです、助けて下さい。

 ホラッ、そこにも。ああ、わたしは…、わたしはもう…」


「何だ? あの蛇は?」

 雅也は昏睡こんすいからめてから、誰にともなく問うた。雅也が身体を動かそうとすると、腰に未だ痛みがあった。室内には女子学生のクウェンビーがいて、シンクでタオルを絞っているところだった。

「あ、起きたの?」

「ああ。今度は何日昏睡していた?」

 窓から入る陽射しが眩しい。お前は悪魔か、と雅也は自分に向かってツッコミを入れる。

「まる一日よ」

「おやおや。たお手数をお掛けしてしまって…」

「いいのよ。時々あることだから」

「あの、朱と黒のだんだら模様の蛇は、何だい? 毒蛇?」

「ううん、毒腺は持ってないの。只、眼の前に動物や人間が急に現れたりすると、吃驚びっくりしてくことがあるの。あの蛇――トラマールボア、って云うんだけど、悪食なうえにかなり不精な性質たちで、余り歯磨きしないのよ。それで、牙に雑菌が付着していることがあって、その為に感染症になったりすることがあるから、それだけが注意すべき点ね」

「そうか。ぼくはどんな感じ?」

「うん、血沈けっちんだとか、簡単に検査して貰ったけど、大過たいかないみたい」

「そう、そりゃ良かった。早く良くなって、たリッチーがやってる研究の手伝いができればいいな」

 すると、クウェンビーは微妙な表情をうかべた。

「残念なことだけど、それは無理ね」

「えっ!?」

「あなたには、恢復かいふくしたらもう此処ここから出て行ってもらうしかないのよ」

「ど、どう云うこと?」

「どう云うことって、そういうことなの。すんなりと理解して貰えるかどうか自信ないんだけど、花言葉、って云うか、蛇言葉があるのよ」

「へ、蛇言葉? 何だい、そりゃあ?」

「この蛇に咬まれし者は、それまでいたパオを出るべし、ってね」

「へえ、何かの教訓?」

「と云うか、云い慣わし、みたいなものかしらね」

「――そうか。じゃあ、ぼくは此処ここを出て行くしかないんだな」

「ええ、あなたには気の毒なんだけど、そういうことね」

「行く先のあて何処どこかないかな?」

「その前に、取り敢えず傷の消毒をして貰わないといけないから、今夜診療所まで送るわね」

「そこでお別れ?」

「ええ。残念だけど」

「全く残念だな。リッチーにはすっかり世話になってしまって…」

「良いのよ。此処では皆助け合ってやって行ってるようなものだから」

 雅也は、そこで以前から気にかっていたことをふと思い出し、問い掛けた。

「あのさ、前々から気になっていたんだけど、このログハウスの建設費用は、奈何どうやって捻出したの?」

 クウェンビーはいたって生真面目きまじめな顔付きをして、

「これはね、フライド・ナマズの屋台を出して得られたお金で建てたの」

「ナマズの行商? そんな小商いでこんな大金を?」

 するとクウェンビーは、

「ううん、あなたは初めてらしいから未だ判ってないらしいけど、此処ここでは余程のものでない限りは、大した金額は掛からないものなのよ」

「ふうん。どうしてかな?」

此処ここでやって行く上で良い言葉を二つ教えてあげるわ。一つは、〝今夜の宿は腹の虫が決める〟、もう一つは、〝人間皆独り〟」

「それとお金の間に、一体何の関係があるのかな?」

此処ここではね、物品の売買をする時に、ものと一緒に心もやり取りするのよ」

「心? 気持ち、ってこと?」

「ええ、そう。例えば、あなたがここで歓待されているのは、あなたがグランパオで、リッチーの学位証書の写しを見事に解き明かしてくれたからなのよ。そう云うあなたの親切心があったからこそ、リッチー一人だけでなく、あたしたちみんなも此処で復た研究生活を続けて行けるようになったのだしね」

「ああ、成る程、そう云うことか」

「そう。このログハウスの建設資金は、ほら、トミーっているでしょ、あの子が私塾を開いて、英語は判らないけど学びたい意欲があるひとたちに、丁寧に英語とドイツ語を教えた対価と、後はナマズを美味しく調理して、文字通り行商して得たお金、そうね、一千ペカーリくらいだったかしら、そのお金で建てたのよ」

「そして、きみたちはその建設業者にも何か…」

「そう。高性能だけど、不要なPCがあったから、差し上げたわ」

「ふうん。で、そのひとたちはそれで満足したの?」

「ええ。これで建築にCADが導入できる、って喜んでた」

「そうかあ。――でも、実利だけを目的に此処ここへ来るひともいるんじゃないの?」

「うん。いない訳じゃないけど、多かれ少なかれ、早めに淘汰とうたされるわね。それか馴化じゅんかするか」

 その時、ドアをノックする音がした。クウェンビーが、

「どうぞ」

 と言うと、リッチー・クレイジーマンが入って来た。雅也の様子を見ると、

「ああ、マサヤ、眼を醒ましたか! 心配したぞぉ」

 と両手を開いてベッドにって来た。雅也はたあのベア・ハグをされてはたまらない、と一瞬慄然りつぜんとしたが、リッチーは代わりに雅也の手をつかんだだけだった。

「リッチー、残念だけどお別れしなきゃいけないみたいだね」

「ああ、マサヤ、きみがいてくれたお陰で研究上進展したことが幾つかあるんだ。学位証書のことでも世話になったし…。残念で仕方がない。――併し、きみは確か、誰かを追っていたのではなかったのかね? それなら、長逗留は無用と云うものだろう」

「ああ、そうだった」雅也は漸っと竹生健の名前を思い出した。「うん、ぼくはもう行かなきゃならないみたいだね」

「食事を運んで来るわ」

 クウェンビーが言い、間もなく特大のナマズ・バーガー二つと、ハッシュト・ポテト、それにコロナ・エキストラ三本を運んで来た。雅也は全身の関節がめりめり云うのを感じながらベッドの上で起き直った。

 クウェンビーはビール瓶の蓋を三本とも開け、リッチーと雅也に一本ずつ配った。

「じゃあ、良い旅立ちを願って、乾杯だ」

 クレイジーマンが云い、三人はボトルをかちりと合わせた。

「診療所まではわたしが送ろう」クレイジーマンが言った。「早めに行った方が良いだろう。まあ、今の所たちの悪い感染症は流行していないようだから、混雑はしていないと思うが」

 雅也が、

「ビールなんか呑んで運転して、大丈夫なの?」

 と問うと、脇からクウェンビーが、

「大丈夫」と笑った。「何時だったか、バランタインの17年を一人で一本丸々空けた上に、虫の入ったメキシコかどこかの酒も呑んで、それで平気な顔をしてグランパオまで学生を迎えに行ったひとだから」

 大きなナマズ・バーガーを食べると、雅也は自分の荷物をまとめに掛かった。

 そして、午後三時過ぎ、ログハウスにいた学生たちに見送られて、雅也はクレイジーマンのレンジ・ローヴァーに乗り込んだ。

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