F.
雅也には、始め、一体何の
「どうかなさったのですか?」
と問うて見た。すると男は、ボンレスハムの塊のように大きな手で、書類を
「これは確かに、本物の学位証書の写しなのだが、幾ら言っても信じて貰えない。もう
雅也は
「ちょっと、
と言ってその書類を受け取った。男は、今や大きな手で頭を抱えている。雅也が見ると、冒頭に、
「 CVRATORES・VNIVERSITATIS・COLVMBIAE」
とあった。と、途端に雅也の
「……コロンビア大学……委員会? ――
すると男は、いきなり立ち上がると、血走った眼で雅也の両肩を
「あなた! ラテン語がお判りになるのですかっ!?」
雅也はその気勢にすっかり気圧されて了って、
「ああ、ええ、まあ…」
男は、
「じゃあ、この女性に、これがわたしの理学博士号の学位証書の写しであることを教えてやって下さいよ。どうかお願いしたのですが」
女性事務員は、雅也の
「
と問うて来た。雅也は
「そうです。――それはそれとして、これは
と切り出した。女は書類に
「…この…ヴニヴェル…何たらと、コルヴム…と云うのがそれかしら」
「そうです、そう、そう」雅也は男の
「――ああ、成る程ね。それで此方がコルムビアエ…」
「そう、そう。あと、その直ぐ下のNOVEBORACENSISと云うのが、ニューヨークのことを指します」
「えっ? ――何で?」
「NOV―は〝新しい〟という意味、EBORACENSISは、手っ取り早く云えばEboracum、エボラークムと云う街の名前の変化形で、今のイギリスのヨーク市のラテン語名に当たるんですよ」
「ああ、判ったわ。それでニューヨーク、と…」
「そうですそうです」
「じゃあ、理学云々は?」
「ここ、PHYSICAE DOCTORISと云う箇所です。英語がお判りなら、何となく…」
「そう、そうね、何となく判って来るわね、
「納得ですか?」
「ええ。再入国を許可する條件はひと通り揃ったわ」
雅也は
「もしもし、リチャード・クレイジーマンさん?」
と呼び掛けた。
――ええっ、何だって?
雅也は吹き出しそうになる。が、クレイジーマンと呼ばれた男は立ち上がり、
「素晴らしい! 奇跡だ! 信じられない! これで問題なく研究助成金を貰えるし、
そう
「そうだ」とクレイジーマンは言った。「
「佐竹雅也と申します」
「じゃあ、マサヤと呼ばせて下さい。わたしのことも、リッチーで構わない」
「よろしくお願いします」
と雅也は右手を差し出したが、クレイジーマンは軽く握り返しただけで、
「堅苦しい挨拶は抜き、抜き」と言い、「きみ、
「実は初めて」
「宿は決まってる? 夕食はもう済ませたの?」
「
すると、クレイジーマンは、
「それなら、ぼくたちの
と言うと、雅也の腕を有無を云わせぬ力で引き、グランパオの外に出た。外は既にとっぷりと日が暮れ、
「わたしの名前を聞くと少々妙に聞こえるかも知れないが」クレイジーマンは問わず語りに云う。「名前の綴りはK-L-A-Z-E-E-M-A-N-Nでね。C-R-A-Z-Yではない。ドイツ系のアメリカ人だ。――そうだ、我が
「佐…佐竹、雅也…」
「おお、そうだった、マサヤ。失敬」
クレイジーマンは大股に歩くので、日頃運動不足気味の雅也は息が乱れる。
「わたしはイリノイ大学で研究職に就いている。今の所、トラマールとその周辺地域に生息する鯰の研究をしているんだ。――きみ、職業は?」
「小…説―家なんだ」
雅也はイリノイと聞いて、不意にフランク・ザッパに〝イリノイの
「小説家かい。そりゃあいいな。ぼくも若かった頃は、ザ・ビートルズの曲を聴いて、作家になりたいと思ってたことがあるがね。――そら、これがぼくの車だ」
車は真っ赤なレンジ・ローヴァーだった。リッチー・クレイジーマンは運転席に乗り込み、雅也も助手台に座を占めた。
リッチーは直ぐに車を発進させた。舗装されていたのは駐車場だけで、外に出ると
「
「取材とは違うんだ」雅也は答えた。「一寸…ある人物を追い掛けていてね」
「ふうん。何処へ行ったとか、なにか当てはないの?」
「ないんだよ。ただ、どうやら
「玉青丹? ぼくも初耳だな。――所で、きみは日本人なの?」
「うん。そうだけど」
「そうかあ。まさか日本人にラテン語を助けて貰えるとは思わなかった。
「北海道大学理学部化学科だけど」
「ああ、知ってるよ。宇宙飛行士とか、ノーベル賞を受けた学者が出たろう? いい学校じゃないか。――一口に化学と云っても、物理化学とか熱力学とか色々あるだろう」
「生化学だった」
「ほう」リッチーの声のトーンが上がった。「じゃあ、我われの研究内容と極めて近いじゃないの。
「ああ、そう。覚えておくよ。けど、研究していたのはもう十数年も前のことだし、力になれるかどうかは判らないな。データ取りとか、初歩的な統計解析程度ならできると思うけど」
「うむ、できることをやってくれればいいのさ。――何なら、炊事係だって構わないんだし」
「了解」
ヘッドライトが道を切り拓いて行く。車は林の中の坂道になった
「あそこだ」
とリッチーは言った。
闇の中に
「ウチの子供たちさ」リッチーはパワー・スイッチでエンジンを切り
「全部で何人いるんです?」
「学生と、教員即ちわたしと、きみを合わせて全部で十三人だ」
二人は車から降り立った。
「
「
「一体どうして
「ビールは好き?」
使い慣れない英語で雅也が必死に応対するのを面白そうに眺めていたクレイジーマンは、にやり、と笑みを
「ま、mare’s nestにようこそ、ってとこだな」
誰にともなく
「
と
「グランパオで何かトラブったの?」
前歯の大きい男子学生が二人の顔を見比べ
「そう。受付の女が
と、その隣にいた、大きく、深い湖のような色の瞳をした女子学生が、
「で、
「そうだ」クレイジーマンは力強く答えた。「マサヤが、見事に羅甸語の字句を
「へえ。ラテン語、判るんだ」
「この地球上にあんな複雑な言語があって、
「リッチー、
「腹が減って
「ナマズぅ?」雅也は妙な顔をしてリッチーの顔を見遣った。「――
「そうかそうか」リッチーは妙に嬉しそうな顔をして
「どういうこと、それ?」
「まあまあ。食べて見りゃ判るさ。――おい、クウェンビー、今夜のメニューは?」
「ナマズ・フライのハンバーガー、それにフレンチ・フライとビール」
「そうか。――で、ニック、この客人の部屋は
「二階のゲスト・ルームが空いてます」
「結構。荷物を持って、案内してやって」
「了解」
雅也は立派な玄関ホールを抜け、二階へ続く階段を上った。歩き
「きみの研究室は余程業績がいいんだね。こんな立派なログハウスを新築できるなんて、大したもんだ」
と言ったが、ニックは
「――まァ、その辺のことはここでの暮らしに慣れれば
荷物を部屋の
階下のホールでは既にセルフ・サーヴィス式の夕食が始まっていた。大テーブルの隅にバンズとフライが山積みになっていて、欲しいだけ取って食べる。ビールは冷蔵庫にぎっしり詰まっていた。銘柄も様々のものが揃っている。
「さあさ、マサヤ、たっぷりやってくれ。うかうかしてると、
クレイジーマンに促されて、雅也は
「そら、ガブリとやっていいんだよ。頭は取って、骨も抜いてあるから」
と言って、手本を示す様に大きく口を開けてかぶり付いた。隣の女子学生は、
「ねぇ、あなた日本から来たんでしょ?」
「ああ、そうだけど」
「日本にはテッポウ、って魚がいるんでしょ? テッポウ、って日本語で銃のことらしいけど…」
「ああ、そりゃフグのことだよ」
するとリッチーがティモシー・リアリーの〝フーグー・フィッシュ〟を歌い出した。
「そのフグが、何で銃なのよ?」
「毒――テトロドトキシンがあるからさ。喰って当たるか、当たらぬか」
それを聞いた学生とリッチーは腹を抱えて笑い転げた。そしてリッチーは、
「それじゃあ、このナマズも
「
「このナマズは肝臓に発電器官を持っていてね。雌雄の別があるのか、雌の妊娠や雄の発情と関係があるのか、はたまた我われの調理の
「本当?」雅也は手の中のシビレナマズ・バーガーを
「大丈夫よ、滅多にあることじゃないから」女子学生は勇気付ける。「そらッ、男なら食べちゃえっ!」
その言葉に押されて、雅也はガブリとやった。
「き、来たーっ!」
――しまった。
眼を醒ました泰彦は思った。泰彦は確かに話を聞き、
バーガー・キングから
マリャベッキ博士は
「わたし共の提案を受けて頂き、こんな幸せはございません」
と博士は言った。赤坂は、
「いや、それはぼくの言うことです。こんな良い話を聞かせて頂いて…」
「我われのデータでは、あなた様が一番の適任者だったのです」博士は
「それで、手術は
「あなたのご都合の良い日で結構。何なら、
「そうですか」泰彦は少し考えた。「じゃあ、明日の晩にお願いしましょう」
マリャベッキ博士の眼がきらり、と輝いたような気がした。
「じゃあ、話は決まりましたね」
「ええ」
「
赤坂は少し考えた。これからも二、三社の会社説明会にエントリーしていたが、行けなくなった、と言えば問題なかろう。
「はい」泰彦は頷いた。「構いません」
「では、こちらの契約書に、サインして頂けますか?」
赤坂は目の前に出された契約書を
「ぼくの英語力じゃ、一寸判らないです」
と言ったが、マリャベッキ博士はにこやかに、
「我われの手術を受けたら、どんな言語でも理解できるようになりますよ」
と言う。
「はあ…」赤坂は
「判ります」博士は言った。「最初は誰でもそうでしょう。そればかりか、あなたは我われのプロトタイプ、第一号機に過ぎない。だけど、今後、日本を中心に、あなたの様な存在はどんどん増えて行くでしょう。そうしたら、何も
赤坂は
「これで、宜しかったでしょうか?」
「
「だけど…、実は
「それは無理ないことですな。では、
泰彦は
「
とだけ言った。
それから、泰彦に珈琲を飲むように勧め、
「これから、車が来ます。研究所は山の中にありますので、到着まで時間が掛かりますが、申し訳ないのですけど、場所も企業秘密になっています。従って、目隠しをさせて頂きます。宜しいですか?」
と確かめた。
赤坂は、黙って頷いた。
それからマリャベッキ博士たち一行は、その「コージー」と云う喫茶店を出て、階段を下りた。
店の前は薄暗い裏路地で、この時間では人通りもすっかり途絶えている。やけに明るいのは、この喫茶店だけだが、赤坂の見た限り、マリャベッキ博士一行の他には、客はいないようだった。
通りに立ってすぐ、角を曲がって音もなく、ヘッドライトを消した車がするすると滑り込んで来て停まった。言われなくとも赤坂には判った。日産のプレジデントだった。
石田が後部座席のドアを開け、マリャベッキ博士が、
「さ、どうぞお乗りなさい」
と言うので、赤坂は乗り込んだ。すると、石田が手を伸ばして来て、マリャベッキ博士の言った通り、黒い色のアイマスクを泰彦に着けた。それからは気配でしか判らなかったが、マリャベッキ博士は赤坂の隣、石田は助手席に乗り込んだようだった。
車は、三人が乗り込むと、直ぐに発車した。
車は
車の中はごく静かで、夜だから、と云うこともあるのだろう、外部からの音と云うものも全く聞こえなかった。
暖房がよく効いて、シート・ヒーターも付いている。
車内では静かにクラッシック音楽が掛かっているけれども、その手の音楽には
車内ではマリャベッキ博士は沈黙を守り、それは少々不気味な印象を泰彦に与えた。
「赤坂様、窮屈ではありませんか?」
「ご気分は
等と小まめに気を
「もし喉が渇くようでしたら、これをどうぞ」
と言って冷たい飲み物の入ったグラスを手渡してくれた。
赤坂は、丁度暖房が少々効き過ぎている様な気がして、口の中がからからに乾燥しているところだったので、
飲んでみると、それはジン・トニックだった。旨かった。トニックの方は
と、前から
「グラス、お渡し下さい」
と石田が言った。赤坂が、
「ご馳走様」
と言ってグラスを渡すと、続いて、
「お口直しに、これをどうぞ」
と
飲んでみると、今度はミネラル・ウォーターだった。
口直しに丁度良い、と泰彦は
そして、
一服盛られていたのかも知れぬ、と考え付いたのは、後のことである。
眠りに落ちた泰彦は、夢を見た。
最初の夢は、
そして、自分は寝台の上に横になり、自分の
それらを
そして、寝た
二つ目の夢は、鳥のようになって空を飛び回る夢だった。
赤坂は戦闘機になっていたのだ。
赤坂は目標の指示を地上の基地から受け、それに従って爆撃を行う。それには赤坂の意志が反映されることはない。赤坂は全くのロボットだ。地上の基地にいる誰かが赤坂をラジオ・コントロールで操縦し、ボタンを押し、それに従って赤坂は爆弾を目標に向かって落とす。
場所が朝鮮半島なのか、或いはシリアなのかも判らぬ。
赤坂は自分に課せられた任務が終わる
時には地表すれすれまで降下して爆撃を行い、その時には逃げ惑う兵士やら市民やらが眼に入るが、赤坂は気にすることなく機銃掃射を行う。
赤坂は
そんな夢を見て、赤坂は一旦眼を醒ました。少し汗を
車は
――
が、
今度は赤坂は静岡の実家にいる。実家で、自分のレイアウトに向かい、模型列車を走らせている。これは関水金属とマイクロエースの製品で組んだ、急行の「
――こんな寝台急行に乗ってみたかったよな。
と赤坂は思う。けれども、それは夢のまた夢だった。一等寝台、二等寝台を備え、
赤坂はそう云う豪華列車は
三段式の寝台でも良いから、二等寝台、或いはB寝台に席を取り、東京から広島、九州辺りまでのったりとした旅がしたいのだ。食堂車だって、今時のフル・コースのディナーなんざより、普通に食べているカレーライスや
赤坂が、「安芸」号を自分のレイアウトでぞろりぞろりと運転していると――このような小型の鉄道模型は
「孝ぃ? 孝? 何処にいるんだろうね、まったく」
そして母親は泰彦の
「泰彦、
泰彦は
――そうだ、就職活動をしないと
と思うが、母の頼みなので聞き入れない訳には行かない。
赤坂は、自分よりも学業のできる孝を、決して
――そうだ、うちの
赤坂はそう思い、腰を上げる。玄関で靴を履き、外に出る。もう
――こう云うのを、
泰彦は先ず自分の家の入口がある路地を出た。表通りは
――あれれーっ?
泰彦はその
――ああ、そうかあ。ぼくは、レイアウトの中にいるんだな。
赤坂はAER線の時刻表まで作っている程だったので、次に来る列車は判っている。
と、
列車の大きな警笛が聞こえた。
――ああ、これで全部終わるんだな。
泰彦は
赤坂は肩を揺すぶられて眼を
石田が、
「お目覚めですか。研究所に到着しましたので」
と言い、赤坂は自分の身の周りを見回した。
そして、その中に、マリャベッキ博士が言っていたものらしい、研究所と
「どうぞ。
石田は
建物の裏口で、石田はボタン・コンソールを開け、何桁かの英数字を入力した。中に
赤坂が案内されたのは四階だった。壁、天井、ベッドのカヴァー、床、と全て真っ白な部屋だった。石田は、
「今夜は、
赤坂は、思わず、
「三〇〇グラムのハンバーガー」
と答えていた。石田はにっこりして承諾した。そして、よくお休みになれる様に、と言って、ハルシオン二錠と五百ミリリットルほどの水をグラスに注いで置いて行った。赤坂は二錠とも飲み、よく眠った。夢を見たが、孝が結婚式を挙げる夢だった。
が、翌朝、赤坂は悪い予感を感じた。
――こりゃあ、断っておいた方が良かったんじゃないのかねぇ。
心の中でアラームが鳴っている。
――これ、絶対ヤバいって。あんなうまい話、そうそうあるもんじゃないだろうに。
だが、目覚めて直ぐ、監視カメラでもあるのか、ノックの音がした。石田の声で、
「お目覚めでしょうか」
――ぼく、
それが、赤坂が最後に考えたことだった。
森山静男は小学五年生、
その静男はいま、駅前のマクドナルドの
眼の前のトレイには、てりやきチーズバーガーの食べ殻と、チキンナゲットの空き箱、それから
今日は水曜日だった。そして、平生なら静男は、水曜日には進学塾に行かなくてはならなかった。
その静男がいま、独りで秘かに熱中しているのは、「少年探偵ごっこ」と云う遊びだった。読書家の静男は、江戸川乱歩の〝明智小五郎探偵と少年探偵団〟ものは、以前母が中高生時代に読んだと思しき、
対象は、〝
この遊びのことは、静男はたれにも他言したことはなかった。塾がなく、誰とも遊ぶ約束がなく、
そしてこの夕刻、静男は迷っていた。塾の講義には
静男が腕時計を確かめると、午後五時を回っていた。もう一時間もぼんやりとして無為に座り込んでいたのだ。静男は取り敢えずマクドナルドの店は出ることにして、ずしりと最前よりも持ち重りのする鞄を手に取った。夕間暮れのひんやりする風が首筋から入って来る。
店を出たところで、行く当ては特にない。夕刻の
静男は仕方がないので裏通りのゲーム・センターへ歩を向けた。学校の松尾先生からは、
「中学生や高校生の利用が多く、小学生が金品を巻き上げられる事例も報告されているので、ゲーム・アーケードには行かないように」
とのお達しが出ていたので、静男は内心びくびくしていたのだが、店内を覗くと余り客はいないようだった。静男は店の戸口に
――と、その時、〝それ〟が眼に入った。
それは老爺だった。地味な茶色の上着を着て、ループ・タイを身に着け、グレーのスラックスを穿いている。靴はネオンの
その老人を眼にした途端、静男の
「馬鹿野郎。おいこら、渡る時にゃよく周りを見てからにしろよ。お
と
老人は
電車庫を過ぎると、左手は
静男は
この公園は、朝夕は犬の散歩やジョッグをしに来るひとが多いことは知っている。又、園内を
老人は大樹の下の蔭になった所を
それから十五分、或いは半時間も歩いた頃だったろうか。森林公園は不意に途切れ、静男は森の外に出ていた。辺りは
老人は、と周囲を見廻すと、公園を出て右手に曲がって闇の中を歩いて行く後ろ姿が見えた。
静男は、この辺りは自分にとっては
老人は数ブロックゆったりした歩みで屋敷街を歩いたところで不意に左手に折れた。この辺は街灯の一本きりもないから、見失わないように静男は小走りになって角を曲がったのだった。
そして、そこで
道は静男の先二〇メートルほどのところで行き止まりになっており、そこで
静男はもう一歩も動けなかった。
「坊や、駅前からずっと来てくれたね」
老人は、含み笑いでもしているかの
静男には返す言葉がない。只、
「いいんだよ、怖がらなくたって」老人はひっ、ひっ、と笑った。「実際、わたしは坊やみたいな子が来てくれるのをずっと待っていたんだから」
老人はそこで言葉を区切り、杖で以て自分の背後を指して見せた。そこで初めて静男は認めた――老人の背後に、何やら廃墟のような空間が拡がっていることを。
静男はそれを見ていると、
「
老人は優しげな口調で問うた。ここで初めて静男は老人とコミュニケートした――
すると老人は、
「坊や、ここはね、遊園地なんだよ」
と言った。
静男は何故か
「ゆうえんち…」
と
「
「おりこうさんのためのゆうえんち…」
老人は二、三度頷き、
「そうともさ。さあ坊や、付いておいで」
と言い、背後の高さ一メートル程の高い柵を押した。すると、柵と見えたのは扉だったらしく、それはぎぃっ、と云う腐った金属特有の音を立てて
老人は、「おいで」と云う風に
「さ、こっちだよ。付いていらっしゃい」
それから
気が付くと、静男はフルーツ・パーラーのような所にいた。辺りがやけに眩しいほど明るいのは、それ
「坊や、
老人はにこにこして隣にいた。静男を
すると、フルーツ・パーラーかと思われた場所は、実は駅だったと
と、その中に
静男は我知らず、
「あ、285系だぁ!」
と叫んでいた。父が、郷里である香川県へ静男と共に帰省する際に使った寝台列車が、この「サンライズ瀬戸」号であった。
そして、B寝台二人用個室で旅したその一夜こそ、仕事で多忙な父と静男が過ごした最良の思い出なのだった。
老人は、
「どうだね。これからこれに乗って、お父さんに会いに行きたくはないかね?」
と問うた。
静男は、
「行きたい。けど、お父さん、
が、老人は人差し指を一本立て、
「本当に会えるかどうか、なんて考えちゃあ
静男は、
「ほんとう?」
と問うた。老人は真顔で、
「本当だとも」
と
「さあ、これがチケットだ。遅れずにお乗りよ」
静男はチケットを見た。それは、父親と乗った、二人用のB寝台個室だった。
腕時計は午後九時五十分、定刻の発車時刻は
「さあ、あと十分だよ。早くしないと乗り遅れるよ」
――そうだ、乗り遅れちゃまずいや。お父さんに会えなくなっちゃう。
静男は気を取り直してチケットを握り締め、プラットフォームへ走った。目指す車輌のドア・ステップに足を掛けた時、発車ベルが鳴った。
――お父さん。
ドアが閉まり、ホイッスルが鳴って、列車は動き出した。
「いやぁ、まさかあんなに
雅也はオートミールの
「降参だ」
「それにしても、きみの
リチャード・クレイジーマンは二つ目のナマズ・バーガーに
「それに、
「そんなに寝言を言ってた? ぼくは
「言っていたよ。日本語だったから、内容は判らなかったがね」
「でも、ナマズで
と、
「電圧の強弱によって違いがあるのかも」
「…と云っても、あれは発電器官でしょ? フライにされてある、と云うことは、
「それがね」と女子学生が言った。「
「蓄電器官?」雅也は眼を
「うん、我われもそれを考えているんだ」とリッチー。「だがね、わがイリノイ大学の電気生理学の専門家は、あれこれ手一杯抱え込んでいてね、
「
ポニーテールの女子学生がそう言って笑った。
「じゃあ実際、今は何もせずただブラブラしてるの?」
雅也が問うと、
「いや、
「ふうん。…で、皆ナマズを召し上がっているのに、
「
「うん。スープで下味が付いているし、卵が落としてあるのも良いね。気に入ったよ。――
クレイジーマンは隣の学生と顔を見合わせて、
「…そりゃ、きみ自身が決めることだよ」と言った。「きみは我われを救ってくれた大恩人だから、基本的にいついつまで、と云うことは言わない。
雅也は
「ああ、そうだった。ぼくは竹生健を追わなきゃいけなかったんだ」
教授と学生一同は声を揃えて、
「タケフケン? それ、誰?」
雅也は、
「小説家なんだよ。そして、
と、学生の一人が、
「聞いたことないなあ。どんな作品を書いているの?」
佐竹雅也は肩を
「そう云えば、マサヤ、この間きみも小説家だと言っていたろう。同業者の後を追っているのか?」
「
一同再び声を揃えて、
「それって、どう云う意味?」
雅也は、額に浮いた脂汗を拭い、それから別段汗など
「つまり、――ぼくの本名が竹生…違う、佐竹雅也なんだが、竹生健と云うのは、ペン・ネームなんだよ」
一瞬、沈黙が訪れた。
クレイジーマンはナマズ・バーガーを
「
雅也は
「うん、そう。ぼくのペン・ネームは、ぼくの書いたものが気に入らなかったかどうかしたらしく、機嫌を損ねて
一同復た沈黙。と、クレイジーマンが静かな声で、
「また別の手立ては考えられなかったの? 例えば、別のペン・ネームを付けるとかさ、そう云った…」
「ううん、あの竹生健は、ぼくの大学時代の指導教官に付けて貰ったものなんだ。…もう
「そうか」リッチーは気の毒そうに首を振った。「じゃあ、追わなきゃな。――
「いやあ、ぼくは竹生健の性格は
「そう。…おおっと、もうこんな時間か。明日の仕事がある。休もうじゃないか」
リッチー・クレイジーマンがお開きを宣言し、奇妙な
雅也はシャワーを浴びるとゲスト・ルームに引き揚げて
ライヴが終わると、客電が灯り、客は三々五々、会場を後にした。里山はステージから顔を
「
「いやぁ」赤坂は時計を
「そう」里山は赤坂の顔を無遠慮にじろじろ眺めた。「今日の演奏はどうだった? ――それより、
「今日のライヴは見事だった」赤坂は
「ご、ご名答」里山百合子は
「そう?」
「うん。鋭くなった、って感じかな。何かあったの? ひょっとして、失恋でもしたとか?」
「
「一寸、何なのさ?」里山は赤坂の隣の椅子に腰掛け、
「うーん、まぁ一寸したアルバイトだよ」
「アルバイトだぁ? こんな時期にぃ?」
「ああ。ちょっと、
「就職活動は?
「
「じゃあ、どっかに決まったんだ。おめでとう」
「いやぁ、具体的に
「うーん」里山は不満げな声を上げた。「何か怪しいなァ」
「じゃ、今度ぼくにできる範囲で説明するよ。ハンバーグでも食べ
「
「そう。ぼく、ZZトップの大ファンでさ。〝バーガー・マン〟って云う曲があるんだけどね」
「あたしは、〝ラーメン大好き小池さんの唄〟の方が好きだけど…、まあ
「うん。じゃあご馳走しよう。HAMAでどう?」
「HAMA? あんな
「そんなことより、時間はどう? 明日の午後零時半に店で待ってるよ」
「いいけど。予約は?」
「いま、済ませたところ」
「えっ!? 何ですって!?」
里山は
「あ、もうこんな時間だ。じゃあ、明日乃木坂で」
翌日、
此処は個室があり、十並んだグリルの前が十に区切られた個室席となっている。調理人は各個室の前で、グリルでハンバーグを焼き、客に供すると個室の前を離れる。だから、客は焼き立てのハンバーグを
二五〇グラムのハンバーグが二人分焼き上がると、コックは二人の前を離れた。飲み物やデザートは既に運ばれている。
「じゃあ、早速お話をお伺いすることにしましょうか」
里山が言った。
「――うん。だが、実はね、
「判った」
里山はお喋りだが、
「単刀直入に言うと、ぼくは先日手術を受けて、人間コンピュータ、
里山は
「HPC? 何、それ?」
赤坂は上着を脱ぎ、シャツのカフスを外すと、両腕の上膊部を見せた。そこには、シリアル・ポート、パラレル・ポート、IEEE1394ポート、USBポート、SDカードに始まる各種メディア用の接続ポート、ディスプレイ用VGA、DVI、HDMIポートなどなどがずらりと設けられていた。
「ひゃー」
流石の里山も
「これだけじゃない」泰彦は言った。「大脳の視床下部を一部切除して十二コア、二十四スレッドで三テラ・ヘルツの処理速度のある超高性能CPUがバイオ・インストレーションと云う方式で取り付けられている。HDDは十テラ・バイトのものが胸郭に内蔵されている――勿論超小型のもので、大脳にあるぼくの元々持っている記憶とも完全にリンクしている。又、強化肝臓のお陰で、エネルギー補給も万全」
「信じられない」
「ぼくだって、最初話を聞かされた時は
「で? ディスプレイは?」
「眼が代わりを果たしてくれる。HPCモードに入ると、眼でブラウザやメーラ、その他のアプリケーション、そうそれに加えてスマートフォンも搭載されているんだが、それらを視認できるようになり、それぞれの機能をフルに活かせる、と云う訳」
「へー」里山はハンバーグ・ステーキを切る手を休めて、泰彦に向き直った。「で、それさ、幾らしたの?」
「それが、ぼくは、このプロジェクトの第一号でね。プロトタイプだと云うので、全部無料だった」
「じゃあ、今は一体何をなさっておいででいらっしゃるの?」
「今は、恵比寿にある会社でパート・タイム勤務をしていて、世界中の経済動静を見る仕事をしている。けど、春からは別の会社に入れて貰えるらしい。何しろ、ぼくの手術をした博士は、何でも色んなことを知っていてね…、精通している、と云うのか」
「ふうん…。手術される時、怖くはなかった?」
「怖いも何も。手術前に、色々と仕込まれた実験動物を見せられてさ。ラットにマウスにチンパンジー。百匹以上いた。チンパンジーにはヘッドセットが付けられてさ、そこから延びたケーブルがPCの端末に取り付けたインターフェースに
「うひゃあ。グローい…」
「ああ、ご免ごめん。だけど、手術は
「それじゃあさ、例えば…、そうだね、ここに
「勿論。軽いものさ」
「スゴーい。じゃあ、せかせか働くのも
「ううん、ぼくは働くのは好きだからね。――
「ふうぅん」里山はハンバーグの最後の一切れを口に運び、
「そうだね。
「
里山が求めて来たので、泰彦は握手をした。
「じゃあねッ! 元気でやるんだよ。ハンバーグ、ご
と言い置いて、里山は去って行った。
雅也は翌朝、早くに眼が
雅也は腕時計を見たが、
――朝食には、
と思ったが、大抵のホテルでは七時からモーニング・サーヴィスを行っている。雅也はワイシャツとジーンズを身に着け、室の外に出た。と、このログハウスで暮らしている他の学生たちが眠い眼を
「アイオワ、マサヤ」
と話し掛けて来るのはクレイジーマン教授である。挨拶を聞いたマサヤは思わずぷっと吹き出した。
前夜、クレイジーマンに、
「マサヤ、日本語で〝お早う〟とはどう言うんだ?」
と訊かれて、
「オハヨウ、だよ」
と教えると、何度か、
「…オハヨウ、オハヨウ…」
と不器用に繰り返しているので、見かねて、
「まあ、オハイオ、と云えば発音は近いだろう」
助け船を出したのだが、
まあ良いか、と思いつつ、雅也は此のログハウスで味わう初めての朝食のテーブルに着いた。
クレイジーマンは、
「マサヤ、朝食もセルフ・サーヴィスなんだぜ」
と言った。雅也もリッチーや他の学生たちに
雅也は、オートミールを食べ
「
と言った。
「
「ふうん。研究よりも先に、家事を
「そうさ。
「トラマールへ? 一緒に行って構わないの?」
「良いも悪いもないさ。きみは大事な
雅也は、
「うん、行くよ。
「ああ、そうだ。
「
「あの…、これはきみのプライヴァシーに関することだが…、ケン・タケフを追わなくても良いのかな? きみのペン・ネームのことを?」
「――そうだねえ。本来ならそうするべきなんだろうけど、何と云うか、
リッチーは、
「まあ、
「了解」
雅也はストロベリー・ジャムとピーナッツ・バターとオレンジ・マーマレードをごってり塗ったトーストを
そして、自室へ引き取って歯を磨き、言われた
すると、
「ようし、皆揃ったか。今日はジェイムズには網を渡すなよ」
笑声が起こる。
「では行こうではないか」
クレイジーマンの号令に従い、一同はぞろぞろと扉から外に出た。
「どの位歩くの?」
雅也が
「歩くなんてもんじゃないわ。五分もすれば〝
その言葉は嘘ではなかった。三分も歩くと地面が軟らかくなった。
「これじゃあ、歩けないよ」
雅也が言うと、
「大丈夫だ。
「よくこんな土地にあんな大きな建物を建てる気になったもんだ」
「それに
「ふうん。――で、ぼくたちは何をしようとしているんだい?」
「トラマールシビレナマズを採集して、発信器を尻尾に取り付ける。もう何千匹にも同じことをしているのだが、何分トラマール地帯は
「ああそうか、ナマズは何千匹も
と、
「千のオーダーじゃないね。何十万と棲息しているよ。だから、ぼくらが食べたくらいじゃあ、絶滅はしないだろうね」
「ふむ。で、ナマズは一体何を食べている訳?」
リッチー・クレイジーマンが、
「そりゃあいい質問だ。此処のナマズは雑食性でね、動物性・植物性両方のプランクトン、ベントス、それから他の小魚も食べているらしい。らしい、と云うのは、生態の面では未だ推測の域を出ない部分がかなりあってね。何分、我われがトラマールに来て
「
「一年半前、秋のことだ。それ
「
頰に
リッチー・クレイジーマンは、
「離婚だなんてとんでもない。ワイフのビリーも研究職なんだが、畑違いなんだよ。わたしは動物生態学、妻は神経言語学が専攻だからね」と言い、「マサヤ、きみも指輪をしている所を見ると結婚している
雅也は、
「ううん」と
「奥さんと話したくならないかね? わたしは
「うん、付き合いが長いからねえ。それに、仮に今、衛星携帯電話で電話を
「そりゃ
「いや、違うけど、〝竹生健を連れ帰る
「
「んまあ、そうも云えるね。ビリーって云うのかい、きみの奥さんは。ビリーは何て言うと思う?」
「
そう言うと、クレイジーマンはメランコリックな表情で
それを見たパットと云う女子学生が、聞こえよがしに、
「
と冷やかした。リッチーは、
「皆ああやって小馬鹿にするが、わたしは本気でビリーを愛している。きみは
「そうだね」雅也は鼻の下を
「わたしには娘がいるよ」リッチーは眼を細めて笑みを
「ワーオ」雅也は
「そうだろ? それで、この前のクリスマスには。サンプラーをプレゼントしたんだ。学生に見立てて貰ってね。テクノやEDMにも眼を向けさせようと思ってさ」
「ふうん。だけど、学校のほうは大丈夫なの?」
「学校は飛び級が認められて、今五年生のクラスにいる。絶対音感があって、チャーミングで、茶目っ気もあって…」リッチーはポケットを探ると、iPhoneを取り出した。「これがワイフと娘だ」
ビリーと云うクレイジーマンの奥さんは栗色の髪をして、眼は瞳が素敵だった。娘だと云う少女は確かに賢そうで、子供用のストラトキャスター・タイプのギターを抱えて笑顔を見せていた。
「ほらほら」と後ろから声が掛かる。「
「そうだったそうだった」リッチーは写真を
と苦笑する。
雅也も網を貸して貰って、沼の中を
「結構大変だろ?」
黒人の学生が問うた。
「うん。藻や他の小魚しか入らないね」
「もっと深い所へ網を入れないとダメだ。そら、貸してみな」
学生は、雅也の手から
「それから…」
学生は
「この強力なクリップは、外そうとして人為的に力を加えない限り、自然な環境ではまず外れないから大丈夫」
学生は残りのナマズにも手早くクリップ型発信器を取り付け、そして網を復た水中に浸して、ナマズを戻した。ナマズたちは先を争うように母なる水の中へ帰って行く。
「これで良し、と」学生は雅也に網を渡した。「きみもやって見る?」
「いやあ」雅也は
黒人学生は雅也の頭の
「そうかい。ぼくはハイ・スクールではアメリカン・フットボールのチームでキャプテンをやってたからさ。――それで
「ふうん。ぼくも大学時代は水泳部だったんだけどね」
「まあ、歳を重ねりゃ、体力も落ちるもんだから」
「
「ああ、あのナマズを大学に持って帰って、栄養学研究室で調べて貰ったら、ヴィタミンの上にミネラルも豊富に
「ふうん。面白いね。そうすると、あのナマズは、
「鋭いね」学生は言った。「ぼくらもそう睨んでいるんだが…、この辺は
「ナマズは夜行性なんだね?」
「そう、基本的にはね。積極的に動き回るのは夜が中心。だから、当直が二人残って、データ取りをしているよ。――まあ、この辺でやっているのはその程度。きみみたいなお客が来るのは大歓迎だよ。単調な毎日だからね。
「
「そう。肝臓が肝心なんだよ」
「皆、毎日何匹くらいのナマズを食べているの?」
青年は
「そうだなあ、男子学生なら五匹、女子なら三匹、って所だろうね」
「
「うん。あれはある程度慣れも必要だからね。慣れればあの
じゃ、
昼食はコロッケ・バーガーとコークが供された。
「
誰にともなく雅也が問うと、
「いえいえ、色んな食材があるわよ。只、本国の栄養士にナマズを持って行って確かめたら、
と言った。
「午後もナマズを採るの?」
「午後は陽射しが結構強くなるから、二手に別れて、片方はナマズ採り、もう一方はデータ解析をすることになってる」
雅也はデータ解析の手伝いなら出来そうだ、と思い、午後はログハウスで過ごすことにした。
中央電算機室――とは云うものの、実情はデスクトップPC三台が中心になって動いていると云うだけだが、
と、PCのソフトウェアを
「そら見ろ、ここのナマズ達、
と言うと、リッチー・クレイジーマンは頭を
「電磁波ですって?」
女子学生が問うた。
「そうだ、これを見るがいい」
クレイジーマンはディスプレイの暗い面を指した。所々でピンク色の輝点が灯り、移動して行くのがわかる。
「これが電磁波?」
「そうだ。――と云ってもわたしは学生時代、電磁気学は
「リッチー」と別の女子学生が言った。「このナマズが電磁気学的に見て重要な意味を持つものであることは、既に昨年、論文になっています」
「だっ、誰だだれだ、そんなこと書いたのは!?」
「ジョン・メイヤーさんよ」
「ええっ、何だ、そうかあ」リッチーは机に肘を突き、毛深い両腕で
「どうなんでしょうねえ」学生の一人がぼやいた。「イリノイ
「
リッチーはPCのディスプレイに改めて向き直り、言った。
学生一同声を揃えて、
「どういうこと?」
「うむ、どうもこのお魚さんたちは、ある一定の方角へ向かって泳いでいるように見えるのだ」
再び声を揃えて、
「一定の方角?」
「そうだ。トラマールにも
学生一同、
「ふうん。それで?」
「
クレイジーマンはマウスを操作して時間を巻き戻し、早送りでナマズたちの行動を表示させた。
「そら、こうだ。此処ではトラマールの流れは北から南に向かっている。それなのに、ナマズはそれを突っ切るように、東から西へ泳いで行く」
「あ、ほんとだ」
「本当だわ」
「どういうことなんでしょうね?」
「
「わからん」クレイジーマンは言った。「それとも、何かを避けているみたいにも見えるが…」
「うん、そうも見える」
「どう云うことでしょうね?」
「これは
と、その時コンピュータ室のドアをノックする音が聞こえた。
「夕食の時間だよ」
雅也はリッチーの横に陣取り、
「今度は感電しないでくれよな」
とリッチー・クレイジーマン。
「さあ、判らないけど、あのビリビリ、って来る感覚、
「そうだろう。きみも学士号を持っているのだから、何かコメントしてくれても良いんだよ」
「そうか。じゃあ、何か気付いたら言わせて貰うよ」
「そうしてくれ
その晩は、雅也はナマズバーガーを、感電もせず(一、二度ピリピリしたが)
食事が終わると、皆ホールに居残って「ブレインストーミング」をする時間が設けられているが、客分待遇の雅也は出なくとも良かったので、一足先にシャワーを浴び、自室に引き取った。ベッドに
赤坂泰彦は、その日も午後一時に「東京カウンセリング・センター」に出勤した。
アントニオ・マリャベッキ博士からは、
「人間、IQも問題だが、
との言葉を受けていた。
「女性 年齢二十四歳 不眠、軽い
赤坂は、センターに入ると禅寺のように
クライアントの境康子と云う女性患者は、午後一時半を五分程回った頃に姿を見せた。
赤坂は立ち上がって迎えた。
「どうも初めまして。担当させて頂くカウンセラーの赤坂です」
「
赤坂は、康子の
「大分お悩みのようですね」赤坂は穏やかな口調で誘導する。「お話し下さいませんか、
「…はい」境は
「殺したい? それは穏やかじゃありませんね。
「一人は、小川直也さんと云うひとで、この方のことをわたしは深く愛しております。いま一人は、青木仁という男で、わたしはこのひとを深く憎んでいます。
――先ず、わたしが小川さんと知り合ったのは中学三年の時で、わたしの一目惚れでした」
「どういう方ですか?」
以後、赤坂の相の手は省いて要点を
「優しい、
高校は、わたしは県立高校に進み、小川さんは私学の男子校に進みました。高校は別になったのですが、付き合いは変わらず、駅前のドトールなどでよく喋りました。
ところが、高校一年の冬、ドトールに青木が入って来て、
そうして、直也さんが何か言った時に、青木は
『コラコラ小川、そんなことじゃ、
と言ったのです。そうしてわたしが、
『あの、あたしたち、一応付き合ってるんですけど…』
と言うと、ガハハハと笑って、
『そうだったの? そりゃまた失礼しましたー。何せ、全然そう見えなかったんでねぇ。じゃ、お邪魔しましたーっ』
と笑って出て行きました。
そして、わたしが小川さんと逢えなくなったのも、この日からのことです。
その夜、小川さんから電話が架かって来まして、
『第三者の青木の眼から見てもカップルに見えなかった、ってことは、
と言うのです。
わたしはその後も、何度も電話をしたり、受験勉強で図書館で会ったりする
『その話は、もう決まったことだろ』
と言って、全く相手にして下さらないのです。
わたしたちが折角いいムードでいたと云うのに、
その後、直也さんは地元の私大に入り、わたしは短大に進みました。
一番ショックだったのは、直也さんに新しい『彼女』ができていたことです。
その夏はもう悔しくて憎らしくて恋しくて…、夜も眠れなくて、お恥ずかしいことですが、深夜二時過ぎに青木の家に無言電話を架けたこともあります。
それで、その後わたしは一応就職したんですけど、この
「境さん」と呼び掛けた。「これ
赤坂の問いに、康子は、
「いいえ、ございません」
「そうですか。では、お大事になさって下さい。来週もこの時間にお待ちしています」
「はい。
面談は終わった。赤坂はこれも規定の料金六千円を仕舞った。心理カウンセラーとしての手腕や知識は
――今回のケースは、割と簡単に済むだろうな。
との赤坂の
境康子は翌週、幾分気楽そうな表情で現れた。
赤坂が、
「
と問うと、康子は、
「一つ、夢を見ました」
と言って、話し出した。
「夢に、直也さんが現れたんです。そして、
『悪かった、俺が悪かった。俺が優柔不断だったからこんな事になって
と、こう言うんです」
泰彦はそれを受けて、
「それで、あなたはどう思います?」
と問うた。
「わたしは…結局小川さんは、わたしのことを本当に好きではなかったんだろうと思います。わたし一人、熱を上げて突っ走って…、付き合っていた、と云うより、わたしが付き合わせていたんだろう、と思います。そう言えば、わたしは時々、〝キツい性格だ〟と言われることがありますし…」
「では、気分的には落ち着かれた、と…」
「はい。
「そうですか。それなら、良かった」
〝宿命の破局〟から数えて実に八年後に、
赤木一平は、テストの点の件で叱られることもなかったので、安らかな気分だった。
遊びに行きたい、と母に言うと、
「いいわよ。お夕食までには帰ってね」
との
亀井敏和、森山静男の二人とは、約束の通り
三人は、川ッ縁の農道を上流へ向かって自転車を漕ぎ進めた。
「おい、どの辺だよ?」
静男が問うた。一平は、
「まだまだ、もっと上流だよ」
「ここから上り、きつくなるぜ。自転車降りて、押して行こうよ」
と言い出し、三人はそうすることにした。
「本当に魚、いるんだろうな?」
静男が問うと、一平は、
「本当だってば。おれ、お父さんと来た時に見たんだから」
と答えた。敏和は、
「こんなことじゃ、森山っちの家の模型電車で
と言ったが、静男は、
「駄目。今日はお兄ちゃん、いないんだ。だからダメ」
と答えた。一平は、
「そう云えば、あれ、電車じゃないのもあるよね?」
「うん。気動車とか、SLとかもあるし」
「〝きどうしゃ〟って、何?」
「気動車はディーゼル・カー。車みたくエンジンで動くの。SLは蒸気機関車。石炭を燃してその蒸気で走る機関車」
「あ、もう
二人は自転車を停め、倒れぬようスタンドで立てた。
一平の案内で
「――お前が言ってたのって、ここ?」
「ああ、そうだよ」
「
「そう言ったろ」
「魚、見えないけど」
「うん。でも
「餌は何が良いかな?」
「
三人は
「
「どうだろ。ここより川下だと、
「なら、この辺にだって、
「しっ、余り大きな声出すなよ。魚が逃げちゃうだろ」
一平がそう言った時、不意に静男が、
「ああっ」
と言った。
「何?」
「何、なに?」
「いたよ」
「いた?」
「ああ、もの凄くでけえ」
「
「あの辺」静男は対岸の樹々の真下の辺りを指した。「
「どの位?」
静男は腕を一杯に拡げた。
「こぉんな」
「鰻みたいの?」
「ううん、あんな細長くない。もっと
「な、言ったろ?」一平は言った。「
その時、不意に空が
と、敏和が、
「帰ろうぜ」
と叫ぶように言って手早く網や釣り竿を片付けると、自転車に
三人は自転車で、ブレーキも掛けず坂道を下り出した。最早誰も口を利くものはいなかった。
雅也は眼を
ホールに降りると、学生の半分ほどが席に座り、この辺の地図を
「アイダホ、マサヤ」
雅也は
「お早う、リッチー」
「マサヤ、きみの意見を聞かせて貰いたいんだが」クレイジーマンは言った。「昨日見せたあのトラマール一帯でのナマズたちの動きは、きみに取って
「うん」雅也は言った。「そうだね、ぼくに言えるのは」
雅也は思いもしない言葉がするすると口から出て来るのを感じた――
「大魚がいるんじゃないかな、と云うことだね」
リチャード・クレイジーマンはその言葉に眼を
「たいぎょ? 大きな魚?」
「そう。もの凄く大きな、それで何でも喰って
すると、その場にい合わせた教官と学生は声を揃えて、
「それ、スゴいアイディアじゃん!」
と叫んだ。雅也は照れて、
「そうかな」
とだけ言った。が、リッチーはテーブルの上で、毛深い手で雅也の手を、力を込めてぐっと握り、
「これ
雅也はリッチーの握力にアイタタ、と
「
するとリッチーはもろ手を挙げて万歳の恰好ををすると、
「ホントに素晴らしい。
と怒鳴った。
「ナマズと巨大魚」
「巨大魚とナマズ」
ホールの
「きみは全く、天からの御使いではないか。最初は
雅也はこそばゆい思いを感じて朝食を済ませると、二階に上がり、外出する支度を始めた。
パットと呼ばれる女子学生が、
「あら、マサヤ、今日もトラマールに来る予定?」
と問うた。
「うん、行くよ」
パットは言い
「あたしの
「ふむ。女の勘、って奴か」
「何、それ?」
「日本での慣用句さ。日本では男より女の方が
「ふうん、面白いこと。――ねえ、所でマサヤ、
「
「あら、そう。でも、誰でも、ここへ来ると、人間は
「ああ、そう云やそんな話、日本を出る時に妻から聞かされたな」
「でしょ? どうしてかしらね?」
「後、闘争とか
「だから、一部のひとは、ここを地上の天国、って呼んでいるわ」
「うん。でも、
「そうね」
「結局、程度の問題だ、と思うよ。
「日本には帰りたくならない?」
「
「――所で、本気で今日もトラマールに来る訳?」
「うん」
パットは
「それじゃ、まあご
と言った。
歩き
「さあ、今日はぼくもナマズ捕りを手伝うぞ。昨日は一匹も捕まえられなかったけど、今日こそは捕まえてやる」
雅也が言うと、パットは笑って、
「
と言い、直径が優に一メートル半はありそうな大きな網を雅也に手渡した。
「沼地の底から
確かめると、パットは
「あたしは
「防犯用にもなるし」
パットは
「そうそう。アメリカに帰ったら役に立つかも」
雅也は昨日トミーと云う黒人学生がやって見せてくれた様に、網を先ず沼底に突き立てるようにしてから、足は地を踏み締め、上半身を一杯に使い、丸で
「ふひーっ」
パットが
「十、十一、十二…、全部で十三だわ。こりゃ大漁だ。グッ・ジョブよ、マサヤ」
「あいたたたたた、あいたた」
雅也は沼地の
――情けねえなあ。こんな
「大丈夫、マサヤ?」
パットは
「ううん、
「
「腰の筋を違えたらしい。痛みが
パットは呆れた様に、
「ほうらほら。あたしの言った通りだったでしょ? 来ない方が良い、って」
「全くだ、きみのご
「どう? 立てそう?」
パットが雅也に手を貸そうとした時、今度は右足の
「あーッ」
とパットが大声を上げ、雅也の手を放し、走り出した。
雅也が何とか半身を起こして見ると、朱と黒のだんだら模様の太い蛇が逃げて行く所だった。
パットがそれを追って行くのを
赤坂泰彦の次の仕事先は、坂を下りた所にある、六本木のカウンセリング・センターだった。
赤坂はこれ迄、五名のクライアントを、
赤坂は元来、見かけに
けれども、赤坂はこれらの
博士からは、
「基本的に、
と
赤坂は、実際には心身共に
赤坂は時折ミスを犯すことがあった。カウンセリング施設へは、基本的にラフな
「男性 二十八歳 重症の統合失調症患者 完治不能の見込み 具体的な症状は、幻覚、幻聴、被害妄想など」
と
赤坂は、午後二時に「六本木クリニック」に入った。
受付で
「あなたが赤坂先生ですか」
田中医師は
「はい。今日はどうもお世話になります。宜しくお願いします」
「え、ええ…。
「実は、臨床心理士養成コースとは少々ずれています。わたしは本来理科系学生で…、その、大学でも一般教養で心理学の講義を取ったばかりでして…」
「だが、マリャベッキ博士は大分あなたを買っていましたが」
「そうでしょう。それに
「
「ですが、わたしの中には、
「そうですか。ま、わたしには想像も付きませんが」
「――して、今日の患者さんは?」
田中医師は表情を引き締めた。
「ご担当いただく
「そうですか…。まあ、
と云う訳で、赤坂は午後三時前にはカウンセリング・ルームに入って、三上氏の到着を
クライアントは定刻に姿を見せた。
氏は、眼前に立っている赤坂に向かって初対面の挨拶をする前に、先ず部屋を取り囲む壁に関心を示し、
その行動にたっぷり三分間も費やしてから、
「どうも」
と一言挨拶して、椅子に座った。
赤坂も、
「初めまして。どうぞ、
と
「あなたは…」と三上クライアントは言った。「先週の
「はい」赤坂は
クライアントは、眼球が
「ははあ」と言った。「
「
三上氏は相変わらず赤坂を値踏みするようにじろじろ眺め
「ええ。わたしは翻訳の仕事をしているのですが…」
そこで言い淀む。赤坂は、
「今も? なさっておられるのですか?」
穏やかに促す。
「はい。――以前と比べて、仕事量はがくりと落ちたのですが、細々とやっております」
「今の翻訳のお仕事を始められてから、何年くらいになります?」
氏は指折り数えて、
「…四年ほどです」
「――それで、ご病気のほうは…」
すると氏は途端に
「ああ…」と呻いた。「わたしが悪かったのです。余計な
以下には、この回を含めて計三回の面談で赤坂が三上氏から聞き得た限りの情報を
又、三上氏の病状には、結句、改善する兆しが見られなかったことにも触れておく。
「わたしは、
中学校を出ると、わたしは島を離れ、札幌市に所在する、寮のある私立高校に進学しました。利尻にも高校はありましたが、
高校を三年で卒業した後、わたしは北海道大学の工学部に進学しました。本当は、共通テストであと三十点ほど余分に取れていれば医学部を受験することもできたのですが、その時には父が既に退職しておりまして、浪人はさせられない、と言われ、
そこを四年で卒業しまして、わたしは内地で就職し、都内にある大手情報機器メーカーに入りました。当時は景気がよく、待遇も
わたしは、父が英語科の教諭だったことも大いに寄与していると思うのですが、
そして、その内に、海外の大手企業との合弁事業が始まることになり、わたしは技術文書や契約書を始め、大量の文書類の翻訳を任されたのですが、その折上司から、お前はそんなに英語ができ、IT関係の技術にも精通しているのだから、独立して翻訳の仕事をした方が今の会社でコツコツやるよりずっと金になる、是非そうした方がいい、そう言われたのを契機に、
その時わたしは既に結婚しておりまして、妻との間には二つになるかならないかの娘もおりました。
仕事は好調なスタートでした。元いた会社からも引きも切らず案件の発注があり、また、トライアルと云うのですが、翻訳会社で実施する翻訳テストがあるのですけど、それにも挑戦した結果、五、六社ほどの翻訳会社と契約ができまして、納期はきちんと守るし仕事も
そして、独立して二年後、詰まり今から二年前ですが、ウェブで知り合った同業者から、税金対策などを考えたらそうした方が良い、と勧められたこともあり、思い切って法人化し、翻訳事務所として再出発を図りました。これも
ところが、そこで色々問題も出て来るようになりました。
それから、わたしはワーカホリックと云って差し支えない程仕事漬けの二年間だったのですが、娘がわたしと遊べない、と文句を言うようになりました。――実際、今度TDLなどへ連れて行ってやる、などと約束しておきながら、結局空手形にしてしまったことも再三あるのです。七五三すら祝ってやれませんでした。
わたしは弱りました。如何にして、収入を増やしつつ、子供の為の時間も作り出せるのか。
どう云うことか、具体的にお話ししましょうか。
ある時、わたしは夕刻に、取引先の翻訳会社を訪問した後、泉岳寺駅前の通りをぶらぶら歩いていました。仕事が非常にスムーズに終わったものですから、立呑みの店でもあったら入ってウヰスキーかカクテルでも一杯やりたいな、と云う心境だったのです。
駅頭にはそれらしき店はありませんでしたので、わたしは少し裏通りの方へ入りました。人通りなども余りない、
と、見ると、そこでは行商人が後片付けをしている所でした。
何の屋台なのだろう。
わたしは興味を
すると、店仕舞いをしていた親父がわたしの顔を見ました。親父の顔は
思えば、そこで引き返せば良かったのです。
親父はわたしの問いに、不気味な笑顔で答えました。煙草の脂でしょうか、顔同様に
腕時計? とわたしが訊き返しますと、そうさ、今ここでしか買えない、特別製の時計さ、興味があるなら見て行くかい、旦那なら
わたしは、親父ご自慢の時計とやらを見せて貰いました。
そうです。
どこが妙だったか、って? 一番妙ちきりんなのは文字盤です。文字盤には、零から十三まで数字があるのです。それでいて、何とも不思疑なことに、0から13までの数字は歪みも凹みもせぬ三六〇度の
こりゃあ妙な時計だね、とわたしは親父に言いました。
親父は、最初はそう思うかも知れんが、
すると親父は、秘密めかすように声を
一日を二十六時間で過ごせるのかい、と
わたしは俄然、購入意欲をそそられました。が、
時計は消えて
お蔭で、最初のうちは便利に過ごせました。仕事量も格段に増えました。それは、数社のコーディネイターさんから、三上さんは以前から凄いと思っていたけれど、こんなに仕事が出来るとは驚きだ、と言われるほどのものでした。仕事量が増え、レート…
ですが、それは最初の内だけでした。
最初は、自分の眼を疑いました。
ホラッ、そこにも。ああ、わたしは…、わたしはもう…」
「何だ? あの蛇は?」
雅也は
「あ、起きたの?」
「ああ。今度は何日昏睡していた?」
窓から入る陽射しが眩しい。お前は悪魔か、と雅也は自分に向かってツッコミを入れる。
「まる一日よ」
「おやおや。
「いいのよ。時々あることだから」
「あの、朱と黒のだんだら模様の蛇は、何だい? 毒蛇?」
「ううん、毒腺は持ってないの。只、眼の前に動物や人間が急に現れたりすると、
「そうか。ぼくはどんな感じ?」
「うん、
「そう、そりゃ良かった。早く良くなって、
すると、クウェンビーは微妙な表情を
「残念なことだけど、それは無理ね」
「えっ!?」
「あなたには、
「ど、どう云うこと?」
「どう云うことって、そういうことなの。すんなりと理解して貰えるかどうか自信ないんだけど、花言葉、って云うか、蛇言葉があるのよ」
「へ、蛇言葉? 何だい、そりゃあ?」
「この蛇に咬まれし者は、それ
「へえ、何かの教訓?」
「と云うか、云い慣わし、みたいなものかしらね」
「――そうか。じゃあ、ぼくは
「ええ、あなたには気の毒なんだけど、そういうことね」
「行く先の
「その前に、取り敢えず傷の消毒をして貰わないといけないから、今夜診療所まで送るわね」
「そこでお別れ?」
「ええ。残念だけど」
「全く残念だな。リッチーにはすっかり世話になって
「良いのよ。此処では皆助け合ってやって行ってるようなものだから」
雅也は、そこで以前から気に
「あのさ、前々から気になっていたんだけど、このログハウスの建設費用は、
クウェンビーは
「これはね、フライド・ナマズの屋台を出して得られたお金で建てたの」
「ナマズの行商? そんな小商いでこんな大金を?」
するとクウェンビーは、
「ううん、あなたは初めてらしいから未だ判ってないらしいけど、
「ふうん。どうしてかな?」
「
「それとお金の間に、一体何の関係があるのかな?」
「
「心? 気持ち、ってこと?」
「ええ、そう。例えば、あなたがここで歓待されているのは、あなたがグランパオで、リッチーの学位証書の写しを見事に解き明かしてくれたからなのよ。そう云うあなたの親切心があったからこそ、リッチー一人だけでなく、あたしたち
「ああ、成る程、そう云うことか」
「そう。このログハウスの建設資金は、ほら、トミーっているでしょ、あの子が私塾を開いて、英語は判らないけど学びたい意欲があるひとたちに、丁寧に英語とドイツ語を教えた対価と、後はナマズを美味しく調理して、文字通り行商して得たお金、そうね、一千ペカーリくらいだったかしら、そのお金で建てたのよ」
「そして、きみたちはその建設業者にも何か…」
「そう。高性能だけど、不要なPCがあったから、差し上げたわ」
「ふうん。で、そのひとたちはそれで満足したの?」
「ええ。これで建築にCADが導入できる、って喜んでた」
「そうかあ。――でも、実利だけを目的に
「うん。いない訳じゃないけど、多かれ少なかれ、早めに
その時、ドアをノックする音がした。クウェンビーが、
「どうぞ」
と言うと、リッチー・クレイジーマンが入って来た。雅也の様子を見ると、
「ああ、マサヤ、眼を醒ましたか! 心配したぞぉ」
と両手を開いてベッドに
「リッチー、残念だけどお別れしなきゃいけないみたいだね」
「ああ、マサヤ、きみがいてくれたお陰で研究上進展したことが幾つかあるんだ。学位証書のことでも世話になったし…。残念で仕方がない。――併し、きみは確か、誰かを追っていたのではなかったのかね? それなら、長逗留は無用と云うものだろう」
「ああ、そうだった」雅也は漸っと竹生健の名前を思い出した。「うん、ぼくはもう行かなきゃならないみたいだね」
「食事を運んで来るわ」
クウェンビーが言い、間もなく特大のナマズ・バーガー二つと、ハッシュト・ポテト、それにコロナ・エキストラ三本を運んで来た。雅也は全身の関節がめりめり云うのを感じ
クウェンビーはビール瓶の蓋を三本とも開け、リッチーと雅也に一本ずつ配った。
「じゃあ、良い旅立ちを願って、乾杯だ」
クレイジーマンが云い、三人はボトルをかちりと合わせた。
「診療所まではわたしが送ろう」クレイジーマンが言った。「早めに行った方が良いだろう。まあ、今の所たちの悪い感染症は流行していないようだから、混雑はしていないと思うが」
雅也が、
「ビールなんか呑んで運転して、大丈夫なの?」
と問うと、脇からクウェンビーが、
「大丈夫」と笑った。「何時だったか、バランタインの17年を一人で一本丸々空けた上に、虫の入ったメキシコかどこかの酒も呑んで、それで平気な顔をしてグランパオまで学生を迎えに行ったひとだから」
大きなナマズ・バーガーを食べると、雅也は自分の荷物を
そして、午後三時過ぎ、ログハウスにいた学生たちに見送られて、雅也はクレイジーマンのレンジ・ローヴァーに乗り込んだ。
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