E.

 電話が鳴った。

 電話機の直ぐ傍にいた赤坂泰彦は手にしていた新聞を置くと、迷わず受話器に手を伸ばした。

「はい、グローバル・リサーチですが」

 電話を架けて来た相手は、

「わたくし、ビジネス・プレスの野崎と申しますが、城島様はお出でになりますでしょうか?」

「あ、城島ですね。はい、少々お待ち下さい」

 泰彦は電話機の「保留」ボタンを押すと、受話器を一旦置き、

「城島さん」

 と呼んだ。城島は奥でPCに向かっていたが、間もなく、

「はい。どうした?」

 とディスプレイを見乍なが返辞へんじをした。

「野崎さまからお電話です」

「あ。そう。有難ありがとう」

 城島は電話に出、赤坂はた新聞を取り上げて紙面に眼を落とした。

 赤坂が今いるのは、世界的な経済の動向を見る、一寸した達識たっしきの者でなければ判らないような位置にある会社である。手術を受けた後、赤坂はそこでしばらく、

「社会経験を積む様に」

 とマリャベッキ博士に云われて、わば特別待遇の半分正社員、半ばアルバイトの様な形でそこにいた。

 手術――。

 手術を受ける前は、もうぎりぎりの、惨憺さんたんたる生活だったからなぁ、と赤坂は述懐じゅっかいする。

 赤坂は明峰めいほうだいせきがある。しかし、もう卒業研究は終わって指導教授からの評価も受けていたので、もう行かなくて済む。

 最後に明峰大に足を運んだのは、確か十二月の中旬だった。

 そうそう、里山と逢ったんだったっけ。

 赤坂が明峰大七号館ピロティのベンチに所在なげに腰掛け、ユニマットのヴェンダーで買ったコーヒーを飲みながら、うつろな目付きで通り掛かる学生や教員達を眺めていると、ギターを背負った里山百合子がやって来たのだった。里山とは研究室が同じだ。

「ようよう、どうしたい赤坂くん」

 里山は、卓子の上にエフェクター・ボードを置くと、コカ・コーラを買い、無遠慮に赤坂の隣に腰を下ろした。

「どう、赤坂くん、就職戦線の方は如何いかがかね?」

 里山が問うと、赤坂は蒼白あおじろい顔を力なく横に振り、

「ダメッす」

 と一言だけ答えた。

「そうかい」里山の声には僅かなが憐憫れんびんの色があった。「もう会社説明会なんてやってないでしょ?」

「いや、辞退者が出たところは、だあるから。何とかウェブとか使って調べて、こまめに行くようにはしてるんだけど」

「してるんだけど?」

 そこで赤坂は身体からダーッと力が抜け、コーヒーを一口啜り、

「何かさぁ、ぼく、大学名を云った所でもう拒絶されている様な気になるんだよね」

「大学名を云っただけで? そんなことないよ。現にあたしだって、こうしてちゃんと就職を決めているんだし」

「いや、それは結構だけどさ。所詮しょせん、おれ達の大学なんて、地方三流私大、って云うのを絵に描いたような存在じゃん」

 すると里山は、右手で拳銃の形を作り、人差し指の銃身を赤坂のこめかみに突き付けた。

「何だねチミは、本学学生及教職員一万五千人を敵に回す積もりなのかね?」

 と云って、中指を引き金に掛けた。

「待った待った」赤坂は苦笑して、樹脂製のベンチの上で体勢を整えた。「冗談だってば」

 里山は、拳銃を突き付けるのは止め、氷の入っていないコーラを一口飲み、

「まあねぇ」と言った。「そう言いたくなる気は判るけどさ。偏差値は全学部学科で四〇に届くか届かないか、つうレヴェルだし、有名なのは箱根駅伝に毎年出る陸上競技部くらいなものだしね…」

「でも、きみはちゃんと就職決めたじゃないか」

「うん」

「しかも、日本ウィアードなんて云ったら、一流の楽器メーカーだしさ」

「それはさ、あれよ。あたしのバンドでのキャリアがあってのことよ」

「そうかね」

「そうともさ。――所で、一つニュースをあげようか」

「ニュース? うん」

「――あでも、おいそれと聞かせるときみがた気落ちするかも知れないね」

「何だよ。何でも良いよ。言ってみな」

「あたしのバンド、どうやら春頃メジャーからデビューできそうなんだ」

「エッ!?」赤坂は吃驚びっくりして言った。低声ていせいで、「それ、マジ?」

「うん、ホント、ホント」

「凄いじゃないか。お目出度めでとう」

 里山は、この大学の軽音楽部の学生を中心にして組んだ、エレクトリック・キャラヴァンなる六人編成のバンドで主にリード・ギターとヴォーカルを担当していた。

「あんがと。ここまで来るの、しんどかったわぁ」

「その、バンド活動の話も、会社の面接担当者に話した訳?」

「もっちろん。もう持ち時間二〇分、ほぼ一人で独占して、立て板に水、って云うのかな、かく話しに話しましたよ」

「そうか」赤坂は自分と比較して、やや気落ちした。「ぼくの趣味なんか、話しても点数が上がる、なんてことはず、ないからなァ」

「そんなことないよ。どうしてトミーとか、応募しなかったのよ」

「鉄道模型のメーカーはコストの関係で少人数でやっている所が多いんだよ。PCパーツのメーカーだってそうだし…。ぼくは主に数理関係の教科書とかを発行している出版社に入りたかったんだけど、何処どこも敷居が高くてさ」

 赤坂の趣味は鉄道模型とDOS/VのPC組み立てである。現に、里山が使っているマシンも赤坂が昨年組んでやったものだった。鉄道模型の箱庭ジオラマはレイアウト、と呼ばれるのだが、赤坂は彼方此方あちこちアルバイトを掛け持ちして得た金で、レイアウトを置く為の、学生の身にはやや広過ぎるくらいのマンションを借りていた。就職活動が後手ごてに回ったのは、このアルバイトの所為せいでもあった。

 件のレイアウトは風光明媚ふうこうめいびな土地柄と云う設定で、緑豊かな山も白砂青松はくさせいしょうの海浜もあり、一寸した街並みもあった。其処を走る軌道は勿論「赤坂電気鉄道」と名付けられていて、二メートル×三メートルの面積の上に、8の字型のNゲージ線路、幅九ミリの軌道が走り、三つの駅があって、更に軽便鉄道の軌道も敷かれている。そして、それらを見下ろすようにして、新幹線向けの高架橋がぐるりと一周していた。

 泰彦はそのレイアウトを、正に手塩に掛けて造り上げた。完成には実に丸八年と云う時日じじつようしたのである。

 赤坂電気鉄道、略称AERには、現在以下のような車輌しゃりょうが在籍している。

 100系9000番台新幹線車輌十六輌編成が一本。旧国鉄52系電車「流電」四輌編成が一本。JR北海道785系電車特急「スーパーホワイトアロー」号五輌編成が一本。JR東海383系電車特急「しなの」号十輌編成が一本。JR北海道キハ283系気動車特急「スーパー北斗」号九輌編成が一本。同じくJR北海道キハ400系気動車・14系寝台客車急行「利尻」五輌編成が一本。JR東日本215系電車快速「湘南ライナー」号十輌編成が一本。JR北海道キハ59系気動車臨時特急「アルファ・コンチネンタル・エクスプレス」号四輌編成が一本。京成電鉄AE100形電車特急「スカイライナー」号八輌編成が一本。近畿日本鉄道10000系電車特急七輌編成「ビスタカー」が一本。小田急電鉄8000形電車六輌編成が一本。同じく小田急電鉄3000形電車特急「ロマンスカー」八輌編成が一本。伊豆急行100系電車六輌編成「スコールカー」(含食堂車)が一本。EF16―27形電気機関車、EF58―136形電気機関車と貨車二輌並びに10系・43系客車による急行「鳥海」十五輌編成が一本。DD51―1140形ディーゼル機関車と14系座席客車・寝台客車による急行「まりも」号七輌編成が一本(以上、マイクロエース製)。

 常磐線向けE231系通勤形電車十五輌編成が一本。JR東日本横須賀線向けE217系近郊形電車十五輌編成が一本。JR西日本223系2000番台電車「新快速」十二輌編成が一本。旧国鉄皇室用貴賓車157系電車五輌編成が一本。JR東日本185系電車特急「踊り子」号十五輌編成が一本。JR東日本253系電車特急「成田エクスプレス」号九輌編成が一本。JR九州787系電車特急「リレーつばめ」号七輌編成が一本。阪急電鉄6300系特急電車八輌編成が一本。旧国鉄C62―18形蒸気機関車と、食堂車マシ35形、並びに一等展望車マイテ39形を含む44系座席客車による特急列車「つばめ」号十四輌編成が一本。同じく旧国鉄EF65―535形直流電気機関車と、食堂車ナシ20形、個室式A寝台車ナロネ21形を含む20系客車による寝台特急「あさかぜ」号十六輌編成が一本。JR東日本EF81―89形交直流電気機関車と、二階建て寝台客車を含むE26系客車による寝台特急「カシオペア」号十三輌編成が一本(以上、関水金属製)。

 JR東日本400系新幹線特急電車「つばさ」号七輌編成が一本。JR東海373系電車特急「ワイドビュー東海」号六輌編成が一本。JR西日本485系電車特急「雷鳥」号九輌編成が一本。旧国鉄583系寝台電車による、食堂車サシ581形を含む夜行電車特急「月光」号十二輌編成が一本。同じく旧国鉄165系急行形電車による、半室ビュッフェ車サハシ165形を含む電車急行「アルプス」号十二輌編成が一本。JR東日本211系近郊形電車による、二階建てグリーン車サロ212形を含む東海道本線向け十五輌編成普通電車が一本。JR東日本209系通勤型電車南武線向け六輌編成が一本。旧国鉄キハ181系特急形気動車による、グリーン車キロ180形、食堂車キサシ180形を含む特急「つばさ」号十一輌編成が一本。JR西日本キハ187系気動車特急「スーパーおき」号二輌編成が一本。旧国鉄キハ01形レールバスが一輌。JR九州キハ71系気動車特急「ゆふいんの森」号四輌編成が一本。JR北海道キハ84・83形気動車特急「フラノエクスプレス」号四輌編成が一本。近畿日本鉄道21000系電車特急「アーバンライナー」六輌編成が一本。東武鉄道100系電車特急「スペーシア」六輌編成が一本。小田急電鉄50000形VSE電車特急「ロマンスカー」十輌編成が一本。南部縦貫鉄道キハ10形レールバス二輌編成が一本。JR東海923形新幹線総合試験車「ドクターイエロー」七輌編成が一本(以上、トミーテック製)。

 そして京浜急行電鉄2100形八輌編成が一本(グリーンマックス製)。

 軽便鉄道線には、旧井笠鉄道気動車ホジ7形並びにホジ12形(以上、津川洋行製)。

 更に、マイクロエース製品と関水金属製品混成で組んだ、旧国鉄10系客車とEF58形電気機関車による、A寝台車オロネ10形と食堂車オシ17形を含む、夜行急行列車「安芸」号十一輌編成が一本。

 まあ、ざっとこんなものだ。

「趣味でNゲージ鉄道模型のレイアウトとPC製作をやっています、なんて言っても、何の薬にもならないしな」

「そうだねえ」里山も溜め息混じりに云った。「あと、卒研でレポートを書いた、渡邊さんも一寸酷かったね。ありゃあ、人撰じんせんを間違えた、と云うものよ」

いやえらぶも何も、何時いつの間にか決まっていたんだから」

「うん。渡邊さんはねえ」

「あの人、フィボナッチ数列に夢中みたいだけど、ありゃあもう病気の域だよ」

「そうね。何つうの、強迫神経症、とか云ったっけ?」

「さあ、よく知らないけどさ。全く、傍迷惑はためいわくな話だよ」

「全くねえ」

「その点、きみは高田さんの研究内容で卒研書いたんだろ? その上ウィアード・ジャパンかあ。良いよなあ」

「まあまあ、だ判らないわよ。詰まらない営業部なんかに回されるかも知れないし。でも、よくを言えばキリがないけどさ、出来ればジョン・ペトルーシのクラスのギタリストにエンドースでもしたいわよね」

「良いよなあ、夢は広がるばかりだね。バンドと会社員の両立は可能なの?」

「さあ、だ、契約が結べそうだ、って段階だから、ウィアードには未だ話してない。でも、二月までに決まるようだったら、早めに連絡しないとね」

「頑張れよ」

「うん。あんがと」

 腕時計を見て、あ、もうこんな時間だ、と言って里山は立ち上がった。

「じゃあ。もうリハーサル始まるんだ。朗報を祈ってるよ」

 手を振って里山は去って行った。後に残された泰彦の首を、冷たい夕方の風が撫でて行く。

 泰彦はその日、主任教授からっと卒研のOKが貰えたのだった。この大学の理工学部でも、卒業研究は大学院生の研究を手伝い、そしてそれにいてリポートをまとめる、と云う形で構わなかった。が、赤坂の場合は〝相手が悪かった〟としか云い様がなかった。

 ――ま、仕方ないや。

 泰彦はコーヒーのカップを空にすると、ゴミ箱に放り込み、大学を後にした。

 赤坂は東中野に住んでいる。大学からはドア・トゥー・ドアで三〇分そこそこの距離だった。大学生が一人で住むには贅沢過ぎる、と云って差し支えない程の、丸で箱入りの女子大生が住む様な、ワンルームながらオートロック付きのマンションに暮らしている。

 泰彦が帰宅すると、固定電話の留守番電話のボタンが点滅している。受話器を取って内容を聞くと、静岡県の伊東市で暮らしている母親からだった。何時いつもの通り、

「お元気ですかぁ」

 の挨拶から始まる内容は、果然泰彦の就職活動の進捗しんちょく状況を心配してのものだった。

 そして、最後に、

「あのね、悪いんだけど、孝がパソコンがどっかおかしい、って言ってるの。話を聞いてやってくれない? お願いします」

 で電話は切れた。今度高校三年生になる弟の孝は、沼津市にある全寮制の私立中高一貫校に通っており、勿論寮住まいだ。泰彦は時間を見計らって、もう授業時間外であることを確かめると、孝の携帯電話に架けた。

「ああ兄さん」

孝は泰彦を何時いつもこう呼ぶ。

「今、大丈夫か?」

 孝は英語部に入っていた。二年生の夏にはオーストラリアへ留学し、大学は上智大の外語科を目指すらしい。

「うん。それは良いんだけど、一寸PCが具合悪くって…」

 去年の誕生日に、泰彦が組んでやったマシンだった。

「どう、調子が悪いの?」

「あのね、スタート・ボタンを押して起動しようとしても、ピーピー音がするだけで、あとはウンともスンとも云わないんだ」

「ああ」泰彦は云った。「お前、最近そのPCを揺さぶるか何か、衝撃を与えたりしなかったか?」

「――うん、それなら、この間SDカードを間違ってコンパクト・フラッシュ・カードのスロットに入れちゃって、出て来ないから何十回か叩いたけど」

「それだ。恐らく、RAMが外れ掛かっているんだろ。一回筐体きょうたいの蓋を開けて、メモリを押し込んでみな。それで多分治ると思う」

「ああ判った、どうも有難ありがとう、忙しいのに」

 皮肉とも取れる文句だったが、他意がないことは泰彦にも良く判っている。

 電話を切ってから、ああそうだ、性能の良いコンパクト・フラッシュをえらんでくれる様、頼まれていたのだ。今日は夕方からもう暇だし、一寸西新宿へ行って来るか。

 赤坂はそう思って、スーツの上にたコートを羽織って、部屋のドアに鍵を掛けた。

 電話が鳴ったのは、その時だった。

 泰彦は穿きかけていた革靴を脱ぎ、電話台に向かった。恐らく孝からだろう、と当てを付けていた。

 だが、違った。電話を取ると、向こうにいたのは若い女だった。

「赤坂様、のお宅で間違いないでしょうか?」

 女の口調は事務的だった。

「あ、はい」

「わたくし、ドリームフィールド社の、高篠と申します。突然のお電話になりまして、誠に恐縮でございます。今、お時間の方は大丈夫でしょうか?」

「――ええ、大丈夫です」

有難ありがとうございます。――実は、赤坂様は、わたくし共の綿密な審査を通過なさり、プレミアム付きの待遇で我が社にご貢献を願いたく存じまして、お電話差し上げたのですけれども」

「はあ…」こう云うのを確か、…思い出せないが、マクロ商法とか云ったのではなかったか。「それは有難ありがたく存じますが、今は就職活動中でございまして」

「はい。ですから、あなた様をえらばせて頂いたのでございます」

 ――はあ? 話が全く読めない。

「どう云うことでしょう?」

たしか、赤坂様は明峰大学の四年生で、失礼乍ら就職活動に出遅れられて、未だ一社からも内定通知をお受けになっていらっしゃらない、と云うことだったと思うのですが、如何いかがでしょうか?」

「はい、全くその通りです」

 すると、高篠の声のトーンが上がり、

「だからこそ、わたくし共は赤坂様を撰ばせて頂いたのです」

 泰彦はやや勃然ぼつぜんとして、

「そうですか。それで、何のご用があるのでしょう」

「実は、あなた様には特別に、とある処置を受けて頂きます。そして、その後、当社指定の機関――勿論もちろん合法な機関で、世界経済の成り行きを見定める活動を行っている所なのですが、そちらで数ヶ月間、――そう、一ヶ月か二ヶ月、研修を受けて頂き、それから本格的にお仕事に入って頂きます」

「あのう」泰彦はいささ苛々いらいらして言った。「ぼくには、ちっとも話が見えて来ないのですけれども」

 すると、高篠と名乗る女は、

「そうでしたね。大変申し訳ございません。――これは、直接弊社の企業機密に触れることですので、電話口でのお話やご説明は控えさせて頂くことになっているのです。――きましては、し赤坂様の方でご都合さえ宜しければ、今夜にでも一度面接をさせて頂き、その席で改めて赤坂様の適性を確かめさせて頂き、又赤坂様にも当方のプロジェクトに就いて直截ちょくせつ詳細に亘ってご説明させて頂き、その上でプロジェクトの開始とさせて頂きたいのですが…」

「だから、そのプロジェクト、って、何ですか、一体?」

「それは、面接を行ったその席でお話し申し上げること、と云う通達が出てございまして、電話ではご説明しかねるのですが」

「ううん」赤坂は唸った。「どう云う感じのものなのか、と云うことも知らせて頂けないのですか?」

「感じ…。と申しますと、弊社の技術のすいを集めたプロジェクトでございますので、向後こうごの赤坂様の運命には非常に大きな変化が――而も良い意味での変化が現れることを確信しております」

「それは、――無料なのですか?」

「はい、勿論でございます。無料で処置を行わせて頂きます」

「只より高いものはない、と云いますが」

 すると、高篠と云う女は電話口で笑った。

「判りますわ。赤坂様がご不安に感じられていること、よく存じ上げております。何かにのめり込み易く、しかも慎重な行動を取られる。これが赤坂様の性格の特徴であること、良く存じ上げております。だからこそ、わたくし共は赤坂様を特にえらばせて頂いたのです」

何故なぜ、無料なのですか?」

「それは、赤坂様は弊社該がいプロジェクトの、プロトタイプとなる方だからです」

「プロトタイプ?」

「はい。今後、赤坂様のような方が、日本を手始めに、恐らく世界中で無数に増えることになるかと思います。それ程の大規模なプロジェクトの、プロトタイプ。それが赤坂様なのです」

「…、はあ…。で、ぼくが断った場合には?」

「その場合は、誠に残念ですが、赤坂様の次にえらぶべき候補が挙がっておりますので、そちらの方に打診することにしております」

 そう言われると、何となく好奇心がうずいて来る。

「――そうですか。話を聞いた上でお断りすることは、出来ますか?」

「その場合には、一旦弊社私設へご来社頂いて、記憶洗浄と云う措置そちを受けて頂きます。今夜から数時間分の記憶を、大変申し訳ありませんが、他の記憶と差し替えさせて頂きます」

「記憶洗浄? そんなことが、可能なのですか?」

「ええ。弊社をひきいるアントニオ・マリャベッキは、大脳生理学を始めとして、七分野での博士号を持っています。生体工学のエキスパート、と云って過言ではありません。――未だ何か、ご不明な点などございますか?」

 ――ございますか、と云ったってね、不明な点ばかりだ。

「今夜は空いていますが、何処どこでお目に掛かることになりますか?」

「新宿のバーガー・キングでは、如何でしょう?」

「ああ、判ります。新宿アイランドタワー、ですね?」

「左様でございます。今夜七時では、如何でしょう?」

 赤坂は時計を見た。今、午後五時を少し回った所だ。赤坂は溜め息を吐いた。

「――判りました。良いでしょう」

 高篠は声のトーンを上げて、

「誠に有難う存じます」

 と言った。

 ――たしかに、場所柄は良いな。

 赤坂は思った。彼処あそこのバーガー・キングは時々行く店だが、晩は何時いつもひとが少ない。

 電話を切ると、赤坂は直ぐに靴を履いて外に出た。孝にCFカードを見繕みつくろってやらなくてはならない。

 電車で新宿に行くと、先ず西口方面へ向かい、西新宿のPCパーツ・ショップ街でコンパクト・フラッシュ・カードを探し求めて、よく吟味し、購入した。

 それから、明るい街区を出て、青梅街道沿いにある新宿アイランドタワーを目指した。

 ハンバーガーやハンバーグの好きな泰彦は、タワー内のバーガー・キングにも何回か来たことがある。余り客の入らない店舗で、独りになりたい時に使うのだった。

 ――さて、相手の服装を聞きそびれてしまったが…。

 取り敢えず泰彦は、フロアの真ん中にある噴水に近い席に腰を下ろした。約は七時だが、泰彦が席を取ったのは午後六時四十五分過ぎだった。

 …と、いきなり背後から、

「赤坂様、お待たせ致しました」

 と云う声が聞こえ、赤坂が振り向くと、最前の電話の声とは違う、若い女が立っていた。

 鶯色うぐいすいろの毛織りのコートを着て、下は黒いスラックスを穿いている。中肉、中背。年の頃は二十代後半だろうか。女は泰彦に向かって一揖いちゆうし、

「今回は、ご協力下さるとのこと、誠に有難う存じます。わたくし、ドリームフィールドの石田と申します」

 と落ち着いた声で言った。

 泰彦は、

「まあ、えずお話はうかがいます」

 と答えた。

 石田は椅子に資料類が入っているらしいトート・バッグを置くと、店のカウンターへ向かい、ダブルワッパーチーズとオニオンフライ、それにハイネケンを買って来た。

 ――どうしてぼくの好物が判ったんだろう。

 泰彦は怪訝けげんに思った。石田は、

此方こちらをどうぞ。では、お話ししますね」

 と言い、資料を出し、話し出した。


「あのう、お客さま」

 雅也は肩を揺すられて起こされた。眼をますと、睡眠中に見ていた風景や感じていた感情が、引き潮のように一気に遠ざかり、リアリティが重みを以てかって来る様な気がした。心なしか、空港内レストランの中は寒風が吹き抜けているかの如く思われ、雅也は思わずぶる、っと身をふるわせた。

「お客さま」

 もう一度呼び掛けられて、雅也は自分に語り掛けて来るウェイトレスにっと気付いた。そして、どろりとした眼差まなざしで卓上に並んだ食器類を見廻した。それからウェイトレスに視線を戻した。

「お客さま、南寧なんねい行きの便にご搭乗なさるのですよね?」

 雅也はだ夢見心地のまま、小さく頷いて見せた。

「そろそろ、一階国際線ロビーで、パオへ向かわれる方へのお話がありますので、宜しければご出席下さい」

「ああ、そう」口から出た言葉は妙にかすれていた。多分ビールの所為せいだろうな、と雅也は推測した。「それはどうも有難ありがとう」

 ウェイトレスは莞爾かんじとして、

「本日の特別料理は、ご堪能たんのう頂けましたでしょうか?」

 雅也は、

「うん、美味しかった。帰りにもた食べたいね」

 と答えたのだが、実の所、肝心の鵞鳥の味の方は、肉もソースもてんで味わった覚えがなかったのである。

 雅也は金を払って――二五〇〇円だった――、レストランを出、階下に向かった。

 すると、一階出国ロビーの一隅に講壇こうだんが設けられており、マイクの微かなハム音も聞こえた。周囲には人垣が出来かけている。雅也はその後ろに立ち、背伸びするような加減で壇上を見た。だたれも立っていない。雅也は、腕をこまぬいて隣に立っているバックパッカーの脇を突付つつき、

「あのう、これから誰が話をするんでしょうか?」

 と問うた。すると、男は真っ直ぐ前を見たまま

チョンさんの話さ。きみ、知らないの? あのひとの話を聞かなければ、パオではず上手くやれないんだ」

 と答えたので、雅也はその鄭さんとやらの登壇とうだんを待つことにした。

 やがて、年恰好は六十絡みと思われる、小柄な女性が壇上に上がり、雅也の周囲からはヒューッと云う指笛や、まばらな拍手の音が湧き起こった。

「どうも皆さん今日は」と女は稍訛りのある日本語で喋った。「わたくし、包日本支部長の鄭と申します。鄭に水、雲と書いてチョン・スウウンと云います。とぞよろしくお願いします」

 鄭女史が一揖すると、今度は盛んな拍手が湧き起こった。鄭女史は話を続ける。

「習字、ありますてすね。あれてチョッと水を付けまして、スーと書いてウン、で止めるます。これでチョン・スーウン。わかりやすいてすね?」

 ロビーの彼方此方あちこちから笑い声と口笛、指笛が起こった。鄭女史は、

「とぞよろしく、とぞよろしく」

 とにこやかに挨拶してから、場内が静まるのを待って言を継いだ。

「わたくし、パオの関係て日本来てもうにじ年になりますが、そのあいたにパオはどんどんはてんして、日本のみならず全世界からひとは来るようになりました。そのあいたにパオもとんとん変わりました。良い方向に変わたこともありますが、悪くなた点も多い。わたし、パオのしょらいを心より憂慮ゆうりょするひとつであります。

ず、みなさまにお判りいたたきたいことの一つめは、パオは決しててんこくでもないし、ヒッピーの求めた最後の楽園、ちかいます。パオは今その存在意義が問われて久しいのですが、パオのとくちょの一つには、その開放性かあけられます。つまり、パオは来たる者こばまず、の精神の体現たいげんしている。パオはけして外からくるひとを敵視しない。むしろ、喜んて迎える傾向強い。しかし、中には少し考えまちがているひともいて、パオに良くないクスリを求めに来ているひといる。それ、ちかいます。パオはけしてけして、じゃんきーの天国違う。パオ痲薬まやく類の所持がはめいすると、そのひとさそく南寧に送還される。そしてちゅこく当局の厳しい厳しい検査、捜査をうけます。痲薬に就いてのちゅこくの法律、日本のよりずと厳しい。死刑になるひともよくいます。先ず、この点をよく肝に銘じておく、よろし。心魂しんこんに徹しておくてすね。

「それ以外の健全なひとに対しては、パオは慣用てす。もとへ、寛容です。そもそパオというものは、今から約三十年前に、田中俊介という人物が開きました。はじめはテント一つ切りだたのてすが、とんとん拡大して、今ではちゅこくとべとなむの国境地帯に伸びています。――プロジェクタのスライドをお願いします。はい。ご覧くなさい。これが今のパオの姿なのです。最近になて判てきたことですが、研究の成果として、パオでは、せかいの他では見ることのできない、珍しい動植物多数見られます。植物の中には、精神作用を持つものもあって、とやらこれが世界の痲薬ちゅとくしゃの誤解を招く見た者に、もとへ、源になたようなのですけれとも、パオでは痲薬類はみつかておりません。繰り返しますか、パオに来るひと、痲薬まやく、期待しない、よろしい。しあなたがパオで痲薬を得たいと思ているなら、即刻旅は中止してうちにかえるよろしい。いいですか、身の為を思て言うことてす。いいですね?

パオの経済は独特です。お金を求めに来るしとも、パオに来ない、よろし。パオではペカーリと云う通貨単位が通用していますが、これと共に気持ちも一緒にやり取りする、というのが決まりてす。お金の多い少ない――多寡たかで評価する、ないない。気持ちも一緒にやり取りします。たから、ぱおに来るひと、お金持ちになるひといない代わりに、すってんてんになるしともいない。ぱおにもりぱな建物、ええ、豊屋峻宇ほうおくしゅんうは見られる。けれど、これらに何万ペカーリも使われている、ないない。どれも数百から数千ペカーリで造られているばかりです。その代わり、パオのひと連帯感強い。お金にかれてぐに心変わりするようなしと、パオにはいない。又、そう云ふひとがパオに来て、決して幸福になるない。このことも判て欲しいことの一つれす。

「以上、パオでの暮らしにいて、概要をざっとお話ししました。判るしと、パオへ来るよろしい。判らないひと、迷うひとはわたくしなり渡航相談室のカウンセラーなりに相談する、よろしい。ご謹聴きんちょうありがとう存ぢます。終わります」

 チョン女史じょし降壇こうだんすると、復た拍手が湧いた。雅也はかたわらにいた、アングロ・サクソン系と思われる青年に、片言の英語で、

しかして、二十五万ペカーリも持って行くのは、多すぎたかな?」

 と問うた。青年は雅也を見て、呆れたように肩を竦め、

「あんた、ひょっとしてパオへ行くの初めてかい? おれは今回で五回目になるけど、五日間の滞在には八百もあれば充分だぜ。――まあ、よっぽどのレア品を求めるなら別だけどね」

 雅也は、

「おたく、若しかして玉青丹ぎょくせいたん、って知らないかい?」

 と訊いたが、青年は首を振った。

「お香の一種かい? なら、おれに訊いても無駄だよ。門外漢だからな」

 もうそろそろ出発ゲートが開くぞ、と言い残して、男はバックパックを背負い、行ってしまった。

 その言葉通り、

南寧なんねい行きエアー・トーヨー101便、間もなく搭乗手続きを開始いたします」

 と云うアナウンスがあって、頭上の電光掲示板に表示が出た。

 人びとはゲートの方に集まり始めた。雅也も荷物を抱えて搭乗口へ向かった。

 手続きは滞りなく済んだ。パスポートもヴィザも要らない旅行だが、痲薬まやく探知犬たんちけんと金属探知機が設置されているのは他の海外旅行と変わらない。何も問題のないことが判ると、雅也は飛行機に案内された。

 雅也の席は窓際だった。翼が見える。双発のプロペラ機――まさか、と思ったが、丁度近くをアテンダントの女性が通り掛かったのを呼び止め、

「済みません、付かぬことをうかがいますが、この飛行機、何と云う型ですか?」

 と問うと、アテンダントはにっこりして、果然かぜん

「YS11になります」

 との答えを返して来た。そして、雅也が呆然とする間もなく、エンジンが回転を始め、機内はその騒音に満たされた。

 ――本当に飛ぶの、これ?

 と雅也はいぶかしんだが、飛行機は滑走路を走り出し、やがて離陸した。

 が、ふと足許あしもとを見た雅也は血も凍る思いを味わった。何と、機体の継ぎ目から外が見えるのだ!!

 せめて空中分解だけはしないでくれよな、と雅也は只管ひたすら願った。

 機内サーヴィスも始まっていたが、最前さいぜん呑んだシュナップスが効いたと見えて、雅也は再び華胥かしょに遊んだ。


「先生のおはなしがおわったので、帰ろう、とぼくはいいましたが、お母さんは、まだお話があるのよ、といいました」

 松尾先生は日記の最後のページを閉じた。

 矢張やはり誘惑に負けてしまった。松尾先生は何とも云えない気分で日記帳を重ねた。

 ――奈何どうしてこんなことが止められないのだろう?

 松尾先生は恨めしそうな目つきで日記の山を見遣った。心の中ではめよう止めようとは思っているのだが、そのくせ眼ではだ読み終わらずにある五、六冊残った日記を見てしまうのだ。

 ――ぼくはひょっとして、野副のぞえ先生に気でもあるんだろうか?

 いやいや、それはべからざることだった。断じてあってはならないことだった。何しろ、松尾先生はもう妻帯しており、しかも子供までいるのだ。子供はもう中学二年になる女の子だ。絶対に違う、と松尾先生は必死で自分に言い聞かせた。ぼくはこれまで、浮気などしたことは一度もない。野副先生のことだって、普段はちっとも気にならない程なのだ。だからぼくが野副先生に好意を寄せている、などというのは、絶対にあってはならないことなのだ。いや、あり得ないのだ。いやいやいや、断じてない。

 ――そうだ。ぼくは、たか子を裏切ったりしたことはないのだ。だから……、だから、もっと自信を持って胸を張っていなくてはならない。

 松尾先生はそう考えた通りに自分を取り戻し、胸を張った。そのついでに職員室内を見廻してみたが、松尾先生の行動に注意を払う者は誰もいなかった。

 ほっとして松尾先生は気を取り直した。

 ――そうだそうだ、片付けてしまわなくてはならないことがあったのだ。

 松尾先生はこれから国語科の授業で使う予定の副読本をえらばなくてはならなかった。最終的な決定は職員会議にかけてから行うのだが、その前に各教員で適当と思われるものを撰んでおくことになっていた。〝さくら教材社〟からも、早く決定して欲しい旨の要望が来ていた。

 松尾先生は、その候補として〝さくら教材社〟から送られて来た副読本を一冊取り上げた。

 その時、松尾先生は不意に眩暈めまいを感じた。最初は地震かと思ったのだが、揺れているのは視界だけで身体はどうということもない。眩暈は凡そ三十秒間ほど続き、その間松尾先生は、丸で船酔いのような、地に足の着かない、まことに落ち着かない気分を味わったのである。

 松尾先生は何故なぜか息苦しくなって来た。

 そして奈何どういう訳かかすかに耳鳴り迄して来た。耳鳴りはきんきんと鼓膜こまくを打っている。

 呼吸は松尾先生の耳許みみもとでぜいぜいと音を立てている。

 それに釣られてのことか、動悸どうきまでして来たではないか。

 松尾先生はだんだん気分が悪くなって来た。教材は机に置いて、試みに眼の上を揉んでみた。指先は脂汗でじっとりとして来た。

 ――な、何だろう、この気分の悪さは?

 松尾先生は咳一咳がいいちがいしてみた。一と口茶を飲んでみた。一向に改善しない。背中を冷や汗が流れ、耳が火照ほてって来た。誰かが背後を通る、そのサンダルの音が妙に大きく聞こえて来る。

 松尾先生は其処そこに至ってちらりと右手を見た。野副先生の机の上にはうずたかく日記が山をなしている。松尾先生はそれを見てはッとなった。

 ――呼ばれている。

 そう、日記の山は確かに松尾先生を呼んでいた。読んでくれ、すっかり目を通してくれ、と盛んに呼び掛けて来るのだ。

 ――しかし、それは。

 そう、それは決してめられた行為ではなかった。らぬ誤解を惹起じゃっきする可能性が大いにある。

 ――いかん、いかん。

 松尾先生は苦労して眼を日記の山からがすと、ハンド・タオルを取って額の汗を拭った。

 ――早く野副先生、戻って来ないものかなあ。

 松尾先生は、野副先生が日記をこんなところに放置した所為せいで自分はこんな目に遭わなければならないのだ、と考え出していた。併し、肝心の野副先生は、クラブの指導でも長引いているのか、中々戻って来なかった。

 ――うう、ぼくは決して荒井や石川のようにはならないぞ。いや、なるはずがない。そうとも、ぼくはあんな風にはならない。決してならない。

 松尾先生は、修学旅行の積立金を使い込んだり、女子更衣室にヴィデオ・カメラをこっそり置いて教え子の着替えを撮影したりしたのが明るみに出て辞めさせられて行った、かつての同僚たちのことを思い浮かべた。

 ――そうとも。さあ、もう日記のことなど忘れて、仕事に戻らないと。ああ、それにしても野副先生、早く戻って来てくれないかなあ。

 松尾先生は気を取り直して机の上から副読本を取り上げ、拡げた。

 何気なく開いたページには、短いお話が載っていた。それは「レコード」と云うタイトルだった。余り現代的な題じゃないなあ、と松尾先生は思う。だいたい、今の子供たちのうち、コンパクト・ディスクだけでなく、LPレコードやシングル盤のことも知っている子など、一体何割くらいいるだろう?

 兎も角、松尾先生はお話を読み出した。

 

「水曜日の午後、タカヒロは自分の部屋で、ダン・フォーゲルバーグのLPレコードを聴いていた。そのレコードは、火曜の晩に近所の古レコード屋で買って来たもので、アルバムは『イノセント・エイジ』だった。タカヒロはダン・フォーゲルバーグのレコードを聴くのは初めてだった。アルバムは二枚組で、その一枚目のA面、三曲目か四曲目を聴いていた時だったが、ダン・フォーゲルバーグは突然演奏を中断してしまった。

 フォーゲルバーグはじゃらんとギターをかき鳴らし、タカヒロに、

『ねえ、きみ』

 と話し掛けて来た。タカヒロはびっくりした。演奏を途中で止めてしまったり、リスナーに話しかけて来るレコードなんて見たこともない。タカヒロが呆然としていると、ダン・フォーゲルバーグは、もう一度、

『ねえ、きみ。聞いているんだろう?』

 と言った。タカヒロは思わず、

『は、はい』

 と返辞へんじをしてしまった。するとフォーゲルバーグは、

『きみ、よく音楽は聴くのかい?』

 と訊ねた。タカヒロは、

『そ、そうですね、比較的よく聴く方だと思います』

 と答える。

『じゃあ、フォーク音楽は好きなのかな?』

『はい、ザ・バーズとかドノヴァンとか、ジョニ・ミッチェルあたりは好きです。あとは、フランク・ザッパとかヴァン・モリソンとか。ボブ・ディランは嫌いなんですが』

 タカヒロがそう答えると、ダン・フォーゲルバーグは嬉しそうにギターでF6のコードをじゃらんじゃらんと鳴らして、

『そうかあ。そいつは趣味がいいな。じつはぼくもディランは苦手でね。大体、ディランはあの声が下品でよくないね。あの歌い方がどうにも気に入らないんだよなぁ』

 と言うので、タカヒロも思わず、

『そうそう、そうなんですよね』

 と同調してしまった。するとダン・フォーゲルバーグは、

『ねえ、きみ、きみのフォーク好きを見込んで一つお願いがあるんだよね』

 と切り出してきた。タカヒロはまたびっくりして、

『お、お願い、って、一体どんなことでしょう?』

 とたずねた。フォーゲルバーグはギターを鳴らすのを止め、

『簡単さ。ぼくをここから出してほしいんだよ』

 と言う。

『ええっと…、ダン・フォーゲルバーグさんをそこから出せばいいんですか?』

『そうなんだ。――あ、誤解のないように云っておくが、ぼくは誰かれかまわずこんなお願いをするわけじゃない。きみだからこそ、お願いすることなんだよ』

『出て来たら、歌ってくれますか?』

 タカヒロがそうたずねると、ダン・フォーゲルバーグは快活な笑い声を立てた。

『もちろんさ。きみの好きな時に、好きな曲を、好きなだけ歌ってあげる』

『本当ですか? ――でもぼく、本当はメタリカが一番好きで、〝エンター・サンドマン〟が気に入ってるんだけどな…』

 タカヒロは気後れを感じながらそう言ったが、フォーゲルバーグは、

『もちろんメタリカだってかまわない。〝エンター・サンドマン〟でも〝バッテリー〟でも何でもやってあげる』

 と気前良く約束してくれたので、タカヒロはすっかり乗り気になった。しかし、そこでタカヒロはとても大事な点に思い当たったのである。

『あのう…』

『何だい?』

『ぼく、やっぱりできません。ダン・フォーゲルバーグさんを出してあげたいのはやまやまなんですけど、無理ですよ。だって、やり方を知らないんですもの…』

 すると、ダン・フォーゲルバーグは高らかに笑った。

『そんなことなら心配する必要はないよ。きみが、ぼくをレコードの中から出す方法を知らないことくらい、ぼくはとっくに分かっている。やり方なら、これからきみに手とり足とり教えてあげるから、安心してくれよ。判ったかい?』

『はい』タカヒロは元気に返辞をして見せた。『判りました』

『それじゃあ早速始めようか』

『ぼくのために唄ってくれるんですね?』

『いいとも。どんな曲でも、何曲でも、きみの好きなときに唄ってあげるよ』

『やったぁ、嬉しいな。じゃあ、やり方を教えて下さい』

『よし。じゃあまず、何か金属の入れ物を探してくれ。鍋じゃまずいんだが。何か大きめの缶みたいなものはないかな』

 タカヒロは家の中を引っかき回して探したあげく、台所の戸棚の中にクッキーが入っていた空き缶を見つけた。〝モロゾフ〟と書かれている。

『これでいいですか?』

『ああ、いいとも。大きさも丁度いいな。ありがとう』

『それで、この次には何をしたらいいんでしょう?』

『よしよし』とダン・フォーゲルバーグは言った。『きみの家の裏庭には、椎の木が植わっているだろう。その木の根元に、黒く縮れたようなかっこうのキノコが生えている。それを三、四株取って来て欲しいんだ』

 タカヒロは言われた通り、裏庭の椎の木を改めた。すると、フォーゲルバーグに言われたように、黒っぽくしなびたようなキノコが見付かった。

『まずその缶を中性洗剤でよく洗って…』

『こんろの火にかけて、ゆっくり乾かしてくれ』

『その間に、キノコをよく水洗いして…』

『塩でむんだ』

『缶が乾いたかい?』

『それじゃあ缶に水を張って…』

『また火にかける』

『水があたたまったら、キノコを薄切りにして入れてくれ』

『石突きはついたままでかまわない』

『そのままとろ火で三十分くらい煮込んでくれ』

『少し煮詰まってきたかな? キノコから汁が出て、黒っぽい粘液状のスープができているよね?』

 タカヒロはいちいちダン・フォーゲルバーグの言う通りに作業したので、缶の中にはどろりとした汁が溜まっていた。

『できたかな?』

『できました』

 タカヒロは答えた。フォーゲルバーグは、更に、

『じゃあ、そのスープをぼくのレコードの上にかけてくれ』

 と命じた。

『ええ? ターンテーブルの上に、でしょうか?』

『そう。カヴァーは外してね。レコードの盤面にたっぷりやってくれ』

『――でも、そうしたらレコード・プレーヤーが痛みますが……』

『大丈夫だいじょうぶ。その点は保証するよ。絶対に大丈夫だから』

 ダン・フォーゲルバーグがそううので、タカヒロは鍋づかみを取って熱い缶を居間に運び、ダン・フォーゲルバーグのレコードの上に満遍なく汁をかけた。

 その途端、レコードの盤面から黒い煙がもうもうと立ち上り、部屋の中に充満した。

 そして、その煙の中から大男が一人出現した。しかし、それはダン・フォーゲルバーグなどではなかった。タカヒロは悲鳴を上げた」


 松尾先生はお話を読み終え、本から眼を上げた。何とも云えない気分だった。

 一体奈何どういう経緯いきさつでこんな話が小学生向けの国語科の副読本などに収録されたのか。こんな安手のホラー小説紛まがいの「お話」を読まされた小学生はどんな影響を受けるのか。児童からこのお話に就いて質問を受けた時、教師としてどういう対応を取ればいいのか。いや……

 その時になって、松尾先生はっとそれに気が付いた。

 松尾先生は動悸どうきを感じていたのだ。

 これ迄は、松尾先生はこの「レコード」なる奇妙奇天烈きみょうきてれつな掌篇小説に気を取られていたので、それに眼を向けなくとも済んだ。

 併し、読み終わってしまった今、松尾先生の動悸は、先生に対し否応なしに、一つの厳然げんぜんたる事実、歴然れきぜんたる一箇の事実を突き付けて来たのである。

 松尾先生は、野副先生のコメントが付いた日記を読みたかった。もう、自分では如何いかんともしようがない程、ただもう無性むしょうにそれが読みたかった。ふけりたかった。むさぼり読みたかった。

 ――いや、いやいや、それは絶対にならない。

 松尾先生の内なる声は今や弱々しいものになりおおせていたが、先生はその声をもって悪魔の誘惑に対し必死に抗弁こうべんした。

 松尾先生はちらりと右手を見た。日記帳はだそこに積んである。

 矢張やはり、読みたい。

 ――いや、それはならん。この次には夢中になって読んでいる時に誰か通り掛かるかも知れないぞ。そうしたら、一体奈何どうして言い訳する積もりなのだ?

 読みたい。

 ――ならん。

 少しだけ。

 ――少しでも、駄目ダメだ!

 松尾先生の胸中は、甘い誘惑と昂奮と期待と厳粛さと怒りと自己への失望感とでぜになってしまった。今や全身は風呂でも浴びた後のごと火照ほてり、わきの下まで汗でじっとりしている。

 さまざまな感情で一杯になってしまい、惑乱わくらんした胸を抱えていると、松尾先生は何故なぜだか大声で叫び出したい衝動に捉われてしまった。

 それから何とか眼をらそうとして、松尾先生は何とか机上からた副読本を取り上げ、次のお話を眼で探した。

 次の読み物には、「私設美術館」という題が付いていた。これまた小学生の児童にはあまりぴんと来そうにない題だ。が、今の松尾先生にはそんなことはもう奈何どうでも良かった。日記帳から少しでも意識を他へ向けさせてくれるものなら何でも良かったのだ。松尾先生はむさぼるようにそれを読み始めた。


「ぼくは頼まれて美術館の管理をしている。ぼくに管理を依頼したのは資産家なのだが大変奇妙なひとで、どうも自分しか入れない美術館を造ろうとしたものらしい。

 何億もの金をかけて地所を買い、洋風の建物を建築し、そこに自分で買い込んだ彫刻作品を運び込んで、私設の美術館を設けたのだ。

 そして、時どき酒を呑む仲間で、その頃ちょうど仕事もせずにぶらぶらしていたぼくをそこの管理人にやとったというわけだ。どうやら、館主にとっては金をかけた趣味・道楽の一つだったらしい。

 ぼくの仕事は単調なもので、平日の毎朝九時に美術館の鍵を開けて中に入り、入り口の鍵も開けて掃除をし、それから彫刻作品の展示位置を変えたり、倉庫に入っている作品を外に出したりする。

 そんなこんなで昼になるので、昼食を取って休み、午後にはまた配置換えの続きをする。時には、館主がやって来て彫刻を眺めて行ったりするので、その相手もすることがある。暇な時間にはTVを見ていて構わない。ゆっくり珈琲コーヒーを飲んでいてもいい。

 ただし、この美術館には幾つか決まりがあって、中でも重要な規則として、

『館主と管理人以外の者は入れてはならない』

 ことが定められている。

 さて、美術館にその御仁がやって来たのは、ある冬の日のことだった。

 女は美術館の正面玄関のドアをギイ…、ときしませて開け、中に這入はいって来た。

 ぼくはその時、管理人室で、到来物とうらいものだが、と云って館主が差し入れてくれた舶来はくらいのビスケットをつまみながら珈琲を飲んでいたのだが、最初はひとが入って来たことには気が付かなかった。気が付いた後も、

(どうせ、時どき裏口に美術品を運び込んで来る運送業者が、間違って玄関から這入ってしまったのだろう)

 ぐらいに思ってごく暢気のんきにしていた。

 しかし、五分経っても何も言って来ないので、これはちょっとおかしいぞ、と思ってぼくは管理人室を出た。

 すると、〝風の精〟というタイトル・プレートの付いた大きな彫刻の前に、女が立っていた。これはちょっとした事件だ。

 ぼくはせかせかと女に近寄って、

『ちょっとすいませんが』

 と話しかけた。すると、女はぼくの方に向き直ったが、その眼の中には気後れや悪びれたような色は一切泛うかんでいなかった。

 面倒なことになるのはご免だった。ぼくは小さく溜め息を吐いて、

『すいませんが、直ぐにお引き取り願えませんか。ここは一般には開放されていないんです』

 と言った。女は相変わらずきょとんとした眼でぼくを見ている。そして、

『でも、こちらは美術館じゃありませんか。こんなに彫刻があって』

 と言い張る。

『それでも、ここは私用の施設なんです』

 ややあってから、

『ねえ』と女は頓狂とんきょうな声をげた。『ここには、聖母像がある、って聞いて来たのよ。あたしにその像を譲って欲しいの』

『だめですよ。お断りします』

『事情は説明するわ』

 ぼくはまた溜め息を吐いた。

『どんな事情です』

 女は滔々とうとうと話し始めた。

『あたしには妹がいたの。三歳下なんだけど…。その妹は、ちょっと事故が起こって、身体を失ってしまったのよ。それで今は、数時間から数日おきに他のひとの身体を借りて…つまりいて生活しているのだけど、その妹に新しい身体を与えてやりたいのよ。それにはここにある彫刻が打って付けだと聞いたので、適当な作品を一つ買い取りたいのよ。お願いよ』

『駄目ですね』ぼくは言下ごんかに断った。『ここは画廊ではないんです。他へ行って下さいませんか?』

『ここにある聖母像がいい、って聞い…』

『さあ、お引き取り下さい』

 ぼくが厳しく云うと、女は未練があるようだったが、帰って行った。それ以来数ヶ月になるが、女は二度と来ない。

 ぼくはたまに、管理人室でチョコレートをつまんでいる時など、たまに思い出しては、女の妹のことを少しだけ考える」


 ううん、と松尾先生は首をひねった。こういう話は小学生向けとは云えないのではあるまいか。どうも中学生や高校生に読ませた方が適当なように思えるのだがなあ。

 松尾先生はもう一度読み直してみようと思い、再度副読本を拡げた。

 しかしそれは副読本などではなかった。子供の日記帳だった。気が付くと、松尾先生の机の上には、野副先生の学級の児童の日記帳が山と積まれていた。

 ――わ。何時いつの間に。

 その時、背後で野副のぞえ先生の声がした。

「あら、うちのクラスの分の日記。奈何どうかしましたか、松尾先生?」

 ――しまった。奈何どうしよう。


 雅也は肩をられて眼を醒ました。美人のキャビン・アテンダントが微笑ほほえみをうかべていた。

南寧なんねいに到着ですよ、お客さま」

 ええっ、と思って雅也は周りを見廻した。筒形の空間の中にはほとんど人影がなかった。ただざわめきの余韻よいんが残るだけだ。

 ――ぼく、―ぼくは、あれっ?

 おかしいな。

 ――ぼくは、何かに追い立てられている様な気がしたんだが…。

 だが、何処どこからか入り込む弱い涼風りょうふうが雅也の首筋をかすめて通り過ぎ、それで雅也は覚醒した。

 ――そうか、ぼくはどうやら夢を見ていたらしいな。

 そう見当が付くと急激に周囲の情景が現実味を増し、雅也は口辺こうへんに流れたよだれあとこすった。首を廻すとぽきぽきと乾いた音がした。

「お客さま、奈何どうかなされましたか? ご気分は如何いかがです?」

 アテンダントは穏やかな口調で問うた。雅也は、

いや、大丈夫です」

 と寝惚ねぼけた声で返辞へんじをして、隣の座席に置いた上着を取った。

 通路を歩くのは雅也ただ一人である。短い通路は直ぐに終わり、空港ターミナル・ビルに入った。「手荷物受取所」と日本語、英語、ドイツ語、フランス語、イスパニア語、簡体字中国語で書かれた掲示板が付いた一郭いっかくへ向かうと、十数名の客がベルト・コンヴェアの傍で待っていた。

 眠い眼をこすりこすり雅也が待っていると、自分の荷物は間もなく流れて来た。

 雅也は荷物を取るには取ったが、その先が判らなかった。しまったなぁ、と雅也は胸裡きょうりでぼやいた。もっと早く来ていれば、此処ここからパオへ行く手筈てはずも見当が付いたのだが。

 雅也は詮方せんかたなしに、かたわらで所在なげに荷物を待っていると思しい青年に声を掛けた。

「済みません」

 すると、きちんと背広を着込んだ青年は、顔を上げて、

「は?」

 と言った。

「これから、パオへ行かれるんですか?」

「ええ」

 雅也は掻頭そうとうして、

「実は、ぼくもパオへ行きたいのですが、行き方が判らなくて…」

 と苦笑して見せた。青年はやや呆れたように、

「ガイド・ブックの類はお持ちでないんですか?」

 と問うた。雅也は正直に、

「はい。急な用事で来る羽目はめになりましてね。情報収集の時間がなかったのです」

 と答えた。青年は、

「それなら」と言った。「南寧なんねいから包へは、ルートは幾つかあります。まあメジャーなのは、乗合バスを使うか、かんでタクシーに乗って行くか、その孰方どちらかでしょうね。――ただ先日地盤崩落じばんほうらくの事故があって、バスの方は不通のままです。何時いつ運行が再開されるか、その見通しも立っていないらしい。タクシーは山道を行きますので、かなり揺れますよ。それから、運転手によっては、ぼられる可能性もある。――まあ、精確せいかくな運賃の相場を知っていれば問題ないのですがね」

 と丸で他人事ひとごとのように言う。雅也が、

「あなたはタクシーで?」

 と問うと青年は首肯しゅこうして、

「ええ、勿論もちろん」と言う。「わたしは会社の金で来ていますからね。ヘリコプター代なんて出ませんよ。――よろしければ、あなたも同道どうどうします?」

 渡りに船、これぞ幸便こうびん、と雅也は頭を下げて、

「宜しくお願いします」

 と答えた。すると青年は、

「じゃあ、先ず仲間を集めないと」

 雅也は四囲しい見廻みまわして、腕組みをして佇立ちょりつしているがっちりした体格の男に眼をけ、

「済みません、パオへ行かれるのなら、一緒にタクシーでどうです?」

 と声を掛けた。男は、打てば響く、と云った調子で、

「良いですよ。割り勘でタクシーね。丁度誰か探そうと思っていた所なんです」

 と答える。これで三人だ。雅也は、もう一人探した方が良いかな、と思い、背広の男に、

「これで三人になりました。もう一人要ります?」

 と問うたが、青年は、

いや。ここのタクシーは廃車寸前の車が多い――日本じゃうにつぶされてる、と云った程度の車ばかりですよ。それで以て、石塊いしころだらけの山道を六〇キロも七〇キロも出して突っ走るんだから、五人も乗せたにゃ、すくなくとも一人は必ずひどい車酔いになるんですよ。三人で充分」

 と断言したので、雅也らは三人でタクシーを探すことになった。

 雅也は何となく、

「大丈夫かな」

 と兇兆きょうちょうを口にしたが、青年は、

「大丈夫だいじょうぶ。ここは都会だし、その気になりゃ何時いつでも車はぐと見付かるんです」

と言い、二人をててビルディングを出た。

 青年の言葉は虚誕うそではなかった。ビルディングの前にはタクシーが列を成している。青年は中国語に堪能たんのうらしく、前から一台ずつタクシーを当たって交渉している。いきおい、雅也と男は青年の後に付いて歩く恰好かっこうとなった。

 と、青年は四台目のタクシーで顔を上げて、二人に、

「この車、包まで六〇ペカーリぽっきりで行く、って言っているんですけど、どうです?」

 と問うた。が、いですもいやですもない。大体、雅也は南寧なんねいからパオまでの相場すら知らないのだ。

「他の運転手は、何て言ってるんです?」

 雅也が問うと、青年は、

「一台目は百二〇、二台目は四十五と言ったけどどうもおかしな場所へ連れて行かれそうな雰囲気だった、三台目は二三〇でお話にならなかった」

 と答えた。運転手は話が一決いっけつすると同時に車を出て、トランクを開け、甲斐甲斐かいがいしく三人の荷物を詰め込んでいる。どうやら実直な運転手らしい。青年が、

「料金は前払いで、と云うので」

 と言い、雅也も男も十ペカーリ札を二枚ずつ財布から出した。何となく見覚えのある車だったので、雅也が見ると、車はトヨタ・カリーナだった。車体の横には、「サンエー住宅(株)釧路」と書かれている。

 運転手が何か言い、青年が、

「さあ、乗り込んでくれ、とのことです」

 三人は早速乗り込んだ。青年は助手席に座り、雅也と男は後部座席だ。雅也はアーム・レストを出し、頭をヘッド・レストに預けた。中々悪くない気分だ。車は出発した。

 しばらくは車は市街地を走る。ひと、車、自転車が往還おうかんを行き来している。なかなか近代的な都市のようだった。が、十分も走ると道は勾配に差し掛かり、路面も未舗装になった。周囲の風景も一変し、灌木かんぼくなどが生い茂っていた。車はすさまじく揺れる。カリーナのサスペンションは不平を訴えるかの如くぎいぎいときしんだ。

 青年は、不安がきざしている雅也の心を見透みすかしてか、

「あなた方は、どんなご用で来ているんですか? ――わたしは、製薬会社の者なんですが、ちょっと特殊な冬虫夏草とうちゅうかそうの取引で」

 と言った。雅也は何と言えば良いのか、瞬時しゅんじ逡巡しゅんじゅんしたが、

「小説を書くんですけど、まあ手っ取り早く言えばその取材に」

 と答えた。いま一人の男は、

「おれ、ボディ・ビルダーなんすけど、一週間ばかし一寸クール・ダウンにね。――ボディ・ビルディングの世界、って、何つうかこう――熱いんすよね、もの凄く。勿論もちろん皆な、〝ミスター・オリンピア〟を目指してワーク・アウトに励むんすけどね、こう上手うまく言えないんすけど、その熱さが鼻につく時があるんすよ。それで、自分の中で上手くバランスを取るために、年に二、三回の割合でパオに来るんすよ。パオって、気持ちのクール・ダウンには丁度良くて」

 とのことであった。

 車は山の中の道とも思えない道を突っ走る。雅也の身体はシートの上で弾むはずむ。それでも運転手はスピードをゆるめる気配なぞ全く見せず、アクセルを踏み込んで、カリーナは林の中を疾駆しっくする。雅也はた段々不安になって来た。

だですか?」

 と雅也が誰にともなく訊くと、薬屋が一寸振り向き、蒼ざめた雅也の顔を見て笑みを――嗤笑ししょうと云うよりは憫笑びんしょうに近いもの――をうかべ、

「もう、ぐ。直ぐですから」

 と答えた。しかし、雅也がちょいと首を伸ばして運転手の手元を見ると、時速は八〇キロ、詰まり五〇マイルを軽く振り切っている。雅也の不安は募る一方だ。

 併し、薬屋の言葉は嘘ではなかった。森林の中を、ものの二十五、六分も走った頃だろうか、視界が一気に開けた。

 カリーナは森の中から大河の土手のような所に出て、ダート・レースの出場車の如くスピードを更に上げた。揺れることは揺れるのだが、この辺りの泥道にはわだちができているらしく、一応走りは安定して来た。雅也は気分に少し余裕をおぼえたので、車窓を見る気になり、左手――即ち西側を見た。

 それは一つの大河だった。流れているのか、それとも淀んでいるのか、判然はっきりせぬ。中州なかすが幾つもあって、そこにも岸辺にも草が茂り、花が咲いているものもある。晴れた空には千切れ雲が浮かんでいる。そろそろ夕刻のはずだが、だ明るい。

「へぇ~」

 雅也は思わず頓狂とんきょうな声をげた。と、薬屋がバック・シートを振り返ってにんまりとして見せ、

「ね、悪かないでしょ?」

 と問うた。雅也は強く頷き、

「まったく絶景だね。向こう岸が見えないじゃないの」

 と言った。

「この辺はね、湿地帯になっているんですよ。ここいら一帯はトラマールと呼ばれる地帯で、世界自然遺産にも指定されているんですよ。――もう少し走ると、グランパオに着きますから」

 ボディ・ビルダーが、

「ううん」

 と伸びをした。雅也は注意していなかったが、どうやら寝ていたらしい。この車の中で居眠りできるとは、相当神経が太いか、それとも余程この辺りに来慣れているのか、その孰方どちらかだろう。

 車は今度は急坂を下り始めた。五分ほど下ると、た平地に出た。草っ原のような広場だ。そこへ来て運転手が急に速度を落としたと思ったら、車が停止した。

 ――あれっ、信号で?

 と雅也がいぶかしんだ時、薬屋がた振り向いた。

「着きました。グランパオですよ」

 はや、運転手は車を降り、トランクから三人分の荷物を出している。雅也はここに至って初めて旅疲たびづかれを覚えた。

「新規の入国者は、先ずこのグランパオで登録手続きを済ませなくてはならないんです。そこから中に入れますよ。じゃあ、ご無事をお祈りしています」

 そう言うと、薬屋は自分の荷物を背負った。背広姿にバックパックを背負ったというのは見物みものだな、と雅也が茫乎ぼうことして見守っていると、ボディ・ビルダーも、

「じゃあ」

 とのみ言い残して行ってしまった。

 雅也は独りになり、た不安感がぶり返すのを感じたが、えずグランパオで手続きを取るべく、薬屋に教えられた通りグランパオの扉をはいした。

 グランパオとは、その名の通り木造三層造りの大きな建物だった。上空から見ると円形をしているのだろうな、と雅也は考えた。三階には窓が三つ並び、二階には窓がなく、一階には窓の代わりにドアが二つある。片方のドアは赤く、他方は青く塗られている。左側の赤いドアの上に、「登録手続」と日本語、英語、中国語、ドイツ語、フランス語、イスパニア語で書かれたプレートが付いているので、ああ此処こっちだな、と雅也は中に這入はいった。

 中に入ると、銀行か郵便局のような構造になっており、若い女が待つカウンター窓口が三つあった。一番左のカウンターには黒髪のアジア系、真ん中は栗色の髪のケルト系、右端は黒人の女が座っていた。一番左のカウンターでは上背のある白人の男が何やら談判の最中、右側は日本人と思しき女が席に着いて何か書類に書き込んでいたので、雅也は空いている中央のカウンターに向かった。女は、カウンターの椅子に座った雅也を見て、開口一番、

「あなた、パオは初めてですね」

 と英語で言った。雅也は驚いたので口を半開きにし、

「ええ初めてですけど」と言った。「奈何どうして判ったんです?」

 すると、女は右手を伸ばして、手続所ドアの脇にあるテーブルを指した。

パオに入るひとは、皆な彼処あすこで申込用紙に記入することになっているの」

 と言った。雅也はそれで合点が行った。

「ははあ」だが、だ訊きたいことがあった。「一寸、おうかがいしますが」

「何でしょう?」

「昨日、ぼくにそっくりな男が入国したはずなのですが、しかして見覚えはないでしょうか?」

「あなたにそっくりな方?」女は怪訝かいがの表情をうかべた。「どういう意味ですか?」

「いえ、実はですね。ぼくの双子の…一卵性双生児の弟が、昨日此方こちらへ入ったはずなのです。一寸ちょっと事情があって、ぼくはそれを追い掛けているのですが…」

 すると、栗色の髪をした女は小首こくびかしげ、

「さあ、今は休暇中の大学もありますから、普段より入って来るひとも多いですし、えずあたしには見覚えないわね」

 と答えた。雅也はやや落胆したが、気を取り直して立ち上がり、申込用紙を取った。そこには、本名、国籍、パオへ入る目的、予定滞在日数、等々細々こまごまとした要件ようけんを記入するようになっていた。それを記入しながらふと思い付いて、カウンターに戻ると、

「その兄弟の名前は、竹生健、と云うのですけど、記録に残っていませんか?」

 しかし女は首を振って、

パオではプライヴァシーを重視しています。折角ですけど、お調べすることはできないの。ご免なさい」

 とにべもない。

 入国手続きは直ぐに済んだ。雅也は、「22960247」と云う整理番号を付けられた。

 ――さて、これから宿を探さないといけないのか。

 雅也は途方に暮れる思いで、たカウンターの女に訊いてみようか、と考えたが、その時、左のカウンターで何かの手続きをしていた、砂色の髪をした白人の男が、

「だからこれが学位証書だと言っているじゃないか!」

 と昂奮こうふんした声を揚げるのを耳にした。それに対してカウンターの女は、

「では、それを客観的に証明できる第三者の証言が必要ですね」

 と冷然れいぜんと言い放つ。男はそれを聞いて苛々いらいらかみむしった。

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