E.
電話が鳴った。
電話機の直ぐ傍にいた赤坂泰彦は手にしていた新聞を置くと、迷わず受話器に手を伸ばした。
「はい、グローバル・リサーチですが」
電話を架けて来た相手は、
「わたくし、ビジネス・プレスの野崎と申しますが、城島様はお出でになりますでしょうか?」
「あ、城島ですね。はい、少々お待ち下さい」
泰彦は電話機の「保留」ボタンを押すと、受話器を一旦置き、
「城島さん」
と呼んだ。城島は奥でPCに向かっていたが、間もなく、
「はい。どうした?」
とディスプレイを
「野崎さまからお電話です」
「あ。そう。
城島は電話に出、赤坂は
赤坂が今いるのは、世界的な経済の動向を見る、一寸した
「社会経験を積む様に」
とマリャベッキ博士に云われて、
手術――。
手術を受ける前は、もうぎりぎりの、
赤坂は
最後に明峰大に足を運んだのは、確か十二月の中旬だった。
そうそう、里山と逢ったんだったっけ。
赤坂が明峰大七号館ピロティのベンチに所在なげに腰掛け、ユニマットのヴェンダーで買ったコーヒーを飲み
「ようよう、どうしたい赤坂くん」
里山は、卓子の上にエフェクター・ボードを置くと、コカ・コーラを買い、無遠慮に赤坂の隣に腰を下ろした。
「どう、赤坂くん、就職戦線の方は
里山が問うと、赤坂は
「ダメッす」
と一言だけ答えた。
「そうかい」里山の声には僅か
「いや、辞退者が出たところは、
「してるんだけど?」
そこで赤坂は身体からダーッと力が抜け、コーヒーを一口啜り、
「何かさぁ、ぼく、大学名を云った所でもう拒絶されている様な気になるんだよね」
「大学名を云っただけで? そんなことないよ。現にあたしだって、こうしてちゃんと就職を決めているんだし」
「いや、それは結構だけどさ。
すると里山は、右手で拳銃の形を作り、人差し指の銃身を赤坂のこめかみに突き付けた。
「何だねチミは、本学学生及教職員一万五千人を敵に回す積もりなのかね?」
と云って、中指を引き金に掛けた。
「待った待った」赤坂は苦笑して、樹脂製のベンチの上で体勢を整えた。「冗談だってば」
里山は、拳銃を突き付けるのは止め、氷の入っていないコーラを一口飲み、
「まあねぇ」と言った。「そう言いたくなる気は判るけどさ。偏差値は全学部学科で四〇に届くか届かないか、つうレヴェルだし、有名なのは箱根駅伝に毎年出る陸上競技部くらいなものだしね…」
「でも、きみはちゃんと就職決めたじゃないか」
「うん」
「しかも、日本ウィアードなんて云ったら、一流の楽器メーカーだしさ」
「それはさ、あれよ。あたしのバンドでのキャリアがあってのことよ」
「そうかね」
「そうともさ。――所で、一つニュースをあげようか」
「ニュース? うん」
「――あでも、おいそれと聞かせるときみが
「何だよ。何でも良いよ。言ってみな」
「あたしのバンド、どうやら春頃メジャーからデビューできそうなんだ」
「エッ!?」赤坂は
「うん、ホント、ホント」
「凄いじゃないか。お
里山は、この大学の軽音楽部の学生を中心にして組んだ、エレクトリック・キャラヴァンなる六人編成のバンドで主にリード・ギターとヴォーカルを担当していた。
「あんがと。ここまで来るの、しんどかったわぁ」
「その、バンド活動の話も、会社の面接担当者に話した訳?」
「もっちろん。もう持ち時間二〇分、ほぼ一人で独占して、立て板に水、って云うのかな、
「そうか」赤坂は自分と比較して、
「そんなことないよ。どうしてトミーとか、応募しなかったのよ」
「鉄道模型のメーカーはコストの関係で少人数でやっている所が多いんだよ。PCパーツのメーカーだってそうだし…。ぼくは主に数理関係の教科書とかを発行している出版社に入りたかったんだけど、
赤坂の趣味は鉄道模型とDOS/VのPC組み立てである。現に、里山が使っているマシンも赤坂が昨年組んでやったものだった。鉄道模型の
件のレイアウトは
泰彦はそのレイアウトを、正に手塩に掛けて造り上げた。完成には実に丸八年と云う
赤坂電気鉄道、略称AERには、現在以下のような
100系9000番台新幹線車輌十六輌編成が一本。旧国鉄52系電車「流電」四輌編成が一本。JR北海道785系電車特急「スーパーホワイトアロー」号五輌編成が一本。JR東海383系電車特急「しなの」号十輌編成が一本。JR北海道キハ283系気動車特急「スーパー北斗」号九輌編成が一本。同じくJR北海道キハ400系気動車・14系寝台客車急行「利尻」五輌編成が一本。JR東日本215系電車快速「湘南ライナー」号十輌編成が一本。JR北海道キハ59系気動車臨時特急「アルファ・コンチネンタル・エクスプレス」号四輌編成が一本。京成電鉄AE100形電車特急「スカイライナー」号八輌編成が一本。近畿日本鉄道10000系電車特急七輌編成「ビスタカー」が一本。小田急電鉄8000形電車六輌編成が一本。同じく小田急電鉄3000形電車特急「ロマンスカー」八輌編成が一本。伊豆急行100系電車六輌編成「スコールカー」(含食堂車)が一本。EF16―27形電気機関車、EF58―136形電気機関車と貨車二輌並びに10系・43系客車による急行「鳥海」十五輌編成が一本。DD51―1140形ディーゼル機関車と14系座席客車・寝台客車による急行「まりも」号七輌編成が一本(以上、マイクロエース製)。
常磐線向けE231系通勤形電車十五輌編成が一本。JR東日本横須賀線向けE217系近郊形電車十五輌編成が一本。JR西日本223系2000番台電車「新快速」十二輌編成が一本。旧国鉄皇室用貴賓車157系電車五輌編成が一本。JR東日本185系電車特急「踊り子」号十五輌編成が一本。JR東日本253系電車特急「成田エクスプレス」号九輌編成が一本。JR九州787系電車特急「リレーつばめ」号七輌編成が一本。阪急電鉄6300系特急電車八輌編成が一本。旧国鉄C62―18形蒸気機関車と、食堂車マシ35形、並びに一等展望車マイテ39形を含む44系座席客車による特急列車「つばめ」号十四輌編成が一本。同じく旧国鉄EF65―535形直流電気機関車と、食堂車ナシ20形、個室式A寝台車ナロネ21形を含む20系客車による寝台特急「あさかぜ」号十六輌編成が一本。JR東日本EF81―89形交直流電気機関車と、二階建て寝台客車を含むE26系客車による寝台特急「カシオペア」号十三輌編成が一本(以上、関水金属製)。
JR東日本400系新幹線特急電車「つばさ」号七輌編成が一本。JR東海373系電車特急「ワイドビュー東海」号六輌編成が一本。JR西日本485系電車特急「雷鳥」号九輌編成が一本。旧国鉄583系寝台電車による、食堂車サシ581形を含む夜行電車特急「月光」号十二輌編成が一本。同じく旧国鉄165系急行形電車による、半室ビュッフェ車サハシ165形を含む電車急行「アルプス」号十二輌編成が一本。JR東日本211系近郊形電車による、二階建てグリーン車サロ212形を含む東海道本線向け十五輌編成普通電車が一本。JR東日本209系通勤型電車南武線向け六輌編成が一本。旧国鉄キハ181系特急形気動車による、グリーン車キロ180形、食堂車キサシ180形を含む特急「つばさ」号十一輌編成が一本。JR西日本キハ187系気動車特急「スーパーおき」号二輌編成が一本。旧国鉄キハ01形レールバスが一輌。JR九州キハ71系気動車特急「ゆふいんの森」号四輌編成が一本。JR北海道キハ84・83形気動車特急「フラノエクスプレス」号四輌編成が一本。近畿日本鉄道21000系電車特急「アーバンライナー」六輌編成が一本。東武鉄道100系電車特急「スペーシア」六輌編成が一本。小田急電鉄50000形VSE電車特急「ロマンスカー」十輌編成が一本。南部縦貫鉄道キハ10形レールバス二輌編成が一本。JR東海923形新幹線総合試験車「ドクターイエロー」七輌編成が一本(以上、トミーテック製)。
そして京浜急行電鉄2100形八輌編成が一本(グリーンマックス製)。
軽便鉄道線には、旧井笠鉄道気動車ホジ7形並びにホジ12形(以上、津川洋行製)。
更に、マイクロエース製品と関水金属製品混成で組んだ、旧国鉄10系客車とEF58形電気機関車による、A寝台車オロネ10形と食堂車オシ17形を含む、夜行急行列車「安芸」号十一輌編成が一本。
まあ、ざっとこんなものだ。
「趣味でNゲージ鉄道模型のレイアウトとPC製作をやっています、なんて言っても、何の薬にもならないしな」
「そうだねえ」里山も溜め息混じりに云った。「あと、卒研でレポートを書いた、渡邊さんも一寸酷かったね。ありゃあ、
「
「うん。渡邊さんはねえ」
「あの人、フィボナッチ数列に夢中みたいだけど、ありゃあもう病気の域だよ」
「そうね。何つうの、強迫神経症、とか云ったっけ?」
「さあ、よく知らないけどさ。全く、
「全くねえ」
「その点、きみは高田さんの研究内容で卒研書いたんだろ? その上ウィアード・ジャパンかあ。良いよなあ」
「まあまあ、
「良いよなあ、夢は広がるばかりだね。バンドと会社員の両立は可能なの?」
「さあ、
「頑張れよ」
「うん。あんがと」
腕時計を見て、あ、もうこんな時間だ、と言って里山は立ち上がった。
「じゃあ。もうリハーサル始まるんだ。朗報を祈ってるよ」
手を振って里山は去って行った。後に残された泰彦の首を、冷たい夕方の風が撫でて行く。
泰彦はその日、主任教授から
――ま、仕方ないや。
泰彦はコーヒーのカップを空にすると、ゴミ箱に放り込み、大学を後にした。
赤坂は東中野に住んでいる。大学からはドア・トゥー・ドアで三〇分そこそこの距離だった。大学生が一人で住むには贅沢過ぎる、と云って差し支えない程の、丸で箱入りの女子大生が住む様な、ワンルーム
泰彦が帰宅すると、固定電話の留守番電話のボタンが点滅している。受話器を取って内容を聞くと、静岡県の伊東市で暮らしている母親からだった。
「お元気ですかぁ」
の挨拶から始まる内容は、果然泰彦の就職活動の
そして、最後に、
「あのね、悪いんだけど、孝がパソコンがどっかおかしい、って言ってるの。話を聞いてやってくれない? お願いします」
で電話は切れた。今度高校三年生になる弟の孝は、沼津市にある全寮制の私立中高一貫校に通っており、
「ああ兄さん」
孝は泰彦を
「今、大丈夫か?」
孝は英語部に入っていた。二年生の夏にはオーストラリアへ留学し、大学は上智大の外語科を目指すらしい。
「うん。それは良いんだけど、一寸PCが具合悪くって…」
去年の誕生日に、泰彦が組んでやったマシンだった。
「どう、調子が悪いの?」
「あのね、スタート・ボタンを押して起動しようとしても、ピーピー音がするだけで、あとはウンともスンとも云わないんだ」
「ああ」泰彦は云った。「お前、最近そのPCを揺さぶるか何か、衝撃を与えたりしなかったか?」
「――うん、それなら、この間SDカードを間違ってコンパクト・フラッシュ・カードのスロットに入れちゃって、出て来ないから何十回か叩いたけど」
「それだ。恐らく、RAMが外れ掛かっているんだろ。
「ああ判った、どうも
皮肉とも取れる文句だったが、他意がないことは泰彦にも良く判っている。
電話を切ってから、ああそうだ、性能の良いコンパクト・フラッシュを
赤坂はそう思って、スーツの上に
電話が鳴ったのは、その時だった。
泰彦は
だが、違った。電話を取ると、向こうにいたのは若い女だった。
「赤坂様、のお宅で間違いないでしょうか?」
女の口調は事務的だった。
「あ、はい」
「わたくし、ドリームフィールド社の、高篠と申します。突然のお電話になりまして、誠に恐縮でございます。今、お時間の方は大丈夫でしょうか?」
「――ええ、大丈夫です」
「
「はあ…」こう云うのを確か、…思い出せないが、マクロ商法とか云ったのではなかったか。「それは
「はい。ですから、あなた様を
――はあ? 話が全く読めない。
「どう云うことでしょう?」
「
「はい、全くその通りです」
すると、高篠の声のトーンが上がり、
「だからこそ、わたくし共は赤坂様を撰ばせて頂いたのです」
泰彦は
「そうですか。それで、何のご用があるのでしょう」
「実は、あなた様には特別に、とある処置を受けて頂きます。そして、その後、当社指定の機関――
「あのう」泰彦は
すると、高篠と名乗る女は、
「そうでしたね。大変申し訳ございません。――これは、直接弊社の企業機密に触れることですので、電話口でのお話やご説明は控えさせて頂くことになっているのです。――
「だから、そのプロジェクト、って、何ですか、一体?」
「それは、面接を行ったその席でお話し申し上げること、と云う通達が出てございまして、電話ではご説明しかねるのですが」
「ううん」赤坂は唸った。「どう云う感じのものなのか、と云うことも知らせて頂けないのですか?」
「感じ…。と申しますと、弊社の技術の
「それは、――無料なのですか?」
「はい、勿論でございます。無料で処置を行わせて頂きます」
「只より高いものはない、と云いますが」
すると、高篠と云う女は電話口で笑った。
「判りますわ。赤坂様がご不安に感じられていること、よく存じ上げております。何かにのめり込み易く、
「
「それは、赤坂様は
「プロトタイプ?」
「はい。今後、赤坂様のような方が、日本を手始めに、恐らく世界中で無数に増えることになるかと思います。それ程の大規模なプロジェクトの、プロトタイプ。それが赤坂様なのです」
「…、はあ…。で、ぼくが断った場合には?」
「その場合は、誠に残念ですが、赤坂様の次に
そう言われると、何となく好奇心が
「――そうですか。話を聞いた上でお断りすることは、出来ますか?」
「その場合には、一旦弊社私設へご来社頂いて、記憶洗浄と云う
「記憶洗浄? そんなことが、可能なのですか?」
「ええ。弊社を
――ございますか、と云ったってね、不明な点ばかりだ。
「今夜は空いていますが、
「新宿のバーガー・キングでは、如何でしょう?」
「ああ、判ります。新宿アイランドタワー、ですね?」
「左様でございます。今夜七時では、如何でしょう?」
赤坂は時計を見た。今、午後五時を少し回った所だ。赤坂は溜め息を吐いた。
「――判りました。良いでしょう」
高篠は声のトーンを上げて、
「誠に有難う存じます」
と言った。
――
赤坂は思った。
電話を切ると、赤坂は直ぐに靴を履いて外に出た。孝にCFカードを
電車で新宿に行くと、先ず西口方面へ向かい、西新宿のPCパーツ・ショップ街でコンパクト・フラッシュ・カードを探し求めて、よく吟味し、購入した。
それから、明るい街区を出て、青梅街道沿いにある新宿アイランドタワーを目指した。
ハンバーガーやハンバーグの好きな泰彦は、タワー内のバーガー・キングにも何回か来たことがある。余り客の入らない店舗で、独りになりたい時に使うのだった。
――さて、相手の服装を聞きそびれて
取り敢えず泰彦は、フロアの真ん中にある噴水に近い席に腰を下ろした。約は七時だが、泰彦が席を取ったのは午後六時四十五分過ぎだった。
…と、いきなり背後から、
「赤坂様、お待たせ致しました」
と云う声が聞こえ、赤坂が振り向くと、最前の電話の声とは違う、若い女が立っていた。
「今回は、ご協力下さるとのこと、誠に有難う存じます。わたくし、ドリームフィールドの石田と申します」
と落ち着いた声で言った。
泰彦は、
「まあ、
と答えた。
石田は椅子に資料類が入っているらしいトート・バッグを置くと、店のカウンターへ向かい、ダブルワッパーチーズとオニオンフライ、それにハイネケンを買って来た。
――どうしてぼくの好物が判ったんだろう。
泰彦は
「
と言い、資料を出し、話し出した。
「あのう、お客さま」
雅也は肩を揺すられて起こされた。眼を
「お客さま」
もう一度呼び掛けられて、雅也は自分に語り掛けて来るウェイトレスに
「お客さま、
雅也は
「そろそろ、一階国際線ロビーで、
「ああ、そう」口から出た言葉は妙に
ウェイトレスは
「本日の特別料理は、ご
雅也は、
「うん、美味しかった。帰りにも
と答えたのだが、実の所、肝心の鵞鳥の味の方は、肉もソースもてんで味わった覚えがなかったのである。
雅也は金を払って――二五〇〇円だった――、レストランを出、階下に向かった。
すると、一階出国ロビーの一隅に
「あのう、これから誰が話をするんでしょうか?」
と問うた。すると、男は真っ直ぐ前を見た
「
と答えたので、雅也はその鄭さんとやらの
「どうも皆さん今日は」と女は稍訛りのある日本語で喋った。「わたくし、包日本支部長の鄭と申します。鄭に水、雲と書いてチョン・スウウンと云います。とぞよろしくお願いします」
鄭女史が一揖すると、今度は盛んな拍手が湧き起こった。鄭女史は話を続ける。
「習字、ありますてすね。あれてチョッと水を付けまして、スーと書いてウン、で止めるます。これでチョン・スーウン。わかりやすいてすね?」
ロビーの
「とぞよろしく、とぞよろしく」
とにこやかに挨拶してから、場内が静まるのを待って言を継いだ。
「わたくし、
「
「それ以外の健全なひとに対しては、
「
「以上、
「
と問うた。青年は雅也を見て、呆れたように肩を竦め、
「あんた、ひょっとして
雅也は、
「おたく、若しかして
と訊いたが、青年は首を振った。
「お香の一種かい? なら、おれに訊いても無駄だよ。門外漢だからな」
もうそろそろ出発ゲートが開くぞ、と言い残して、男はバックパックを背負い、行って
その言葉通り、
「
と云うアナウンスがあって、頭上の電光掲示板に表示が出た。
人びとはゲートの方に集まり始めた。雅也も荷物を抱えて搭乗口へ向かった。
手続きは滞りなく済んだ。パスポートもヴィザも要らない旅行だが、
雅也の席は窓際だった。翼が見える。双発のプロペラ機――まさか、と思ったが、丁度近くをアテンダントの女性が通り掛かったのを呼び止め、
「済みません、付かぬことを
と問うと、アテンダントはにっこりして、
「YS11になります」
との答えを返して来た。そして、雅也が呆然とする間もなく、エンジンが回転を始め、機内はその騒音に満たされた。
――本当に飛ぶの、これ?
と雅也は
が、ふと
せめて空中分解だけはしないでくれよな、と雅也は
機内サーヴィスも始まっていたが、
「先生のおはなしがおわったので、帰ろう、とぼくはいいましたが、お母さんは、まだお話があるのよ、といいました」
松尾先生は日記の最後の
――
松尾先生は恨めしそうな目つきで日記の山を見遣った。心の中では
――ぼくはひょっとして、
いやいや、それは
――そうだ。ぼくは、たか子を裏切ったりしたことはないのだ。だから……、だから、もっと自信を持って胸を張っていなくてはならない。
松尾先生はそう考えた通りに自分を取り戻し、胸を張った。その
ほっとして松尾先生は気を取り直した。
――そうだそうだ、片付けてしまわなくてはならないことがあったのだ。
松尾先生はこれから国語科の授業で使う予定の副読本を
松尾先生は、その候補として〝さくら教材社〟から送られて来た副読本を一冊取り上げた。
その時、松尾先生は不意に
松尾先生は
そして
呼吸は松尾先生の
それに釣られてのことか、
松尾先生はだんだん気分が悪くなって来た。教材は机に置いて、試みに眼の上を揉んでみた。指先は脂汗でじっとりとして来た。
――な、何だろう、この気分の悪さは?
松尾先生は
松尾先生は
――呼ばれている。
そう、日記の山は確かに松尾先生を呼んでいた。読んでくれ、すっかり目を通してくれ、と盛んに呼び掛けて来るのだ。
――
そう、それは決して
――いかん、いかん。
松尾先生は苦労して眼を日記の山から
――早く野副先生、戻って来ないものかなあ。
松尾先生は、野副先生が日記をこんなところに放置した
――うう、ぼくは決して荒井や石川のようにはならないぞ。いや、なる
松尾先生は、修学旅行の積立金を使い込んだり、女子更衣室にヴィデオ・カメラをこっそり置いて教え子の着替えを撮影したりしたのが明るみに出て辞めさせられて行った、
――そうとも。さあ、もう日記のことなど忘れて、仕事に戻らないと。ああ、それにしても野副先生、早く戻って来てくれないかなあ。
松尾先生は気を取り直して机の上から副読本を取り上げ、拡げた。
何気なく開いたページには、短いお話が載っていた。それは「レコード」と云うタイトルだった。余り現代的な題じゃないなあ、と松尾先生は思う。だいたい、今の子供たちのうち、コンパクト・ディスクだけでなく、LPレコードやシングル盤のことも知っている子など、一体何割くらいいるだろう?
兎も角、松尾先生はお話を読み出した。
「水曜日の午後、タカヒロは自分の部屋で、ダン・フォーゲルバーグのLPレコードを聴いていた。そのレコードは、火曜の晩に近所の古レコード屋で買って来たもので、アルバムは『イノセント・エイジ』だった。タカヒロはダン・フォーゲルバーグのレコードを聴くのは初めてだった。アルバムは二枚組で、その一枚目のA面、三曲目か四曲目を聴いていた時だったが、ダン・フォーゲルバーグは突然演奏を中断してしまった。
フォーゲルバーグはじゃらんとギターをかき鳴らし、タカヒロに、
『ねえ、きみ』
と話し掛けて来た。タカヒロはびっくりした。演奏を途中で止めてしまったり、リスナーに話しかけて来るレコードなんて見たこともない。タカヒロが呆然としていると、ダン・フォーゲルバーグは、もう一度、
『ねえ、きみ。聞いているんだろう?』
と言った。タカヒロは思わず、
『は、はい』
と
『きみ、よく音楽は聴くのかい?』
と訊ねた。タカヒロは、
『そ、そうですね、比較的よく聴く方だと思います』
と答える。
『じゃあ、フォーク音楽は好きなのかな?』
『はい、ザ・バーズとかドノヴァンとか、ジョニ・ミッチェルあたりは好きです。あとは、フランク・ザッパとかヴァン・モリソンとか。ボブ・ディランは嫌いなんですが』
タカヒロがそう答えると、ダン・フォーゲルバーグは嬉しそうにギターでF6のコードをじゃらんじゃらんと鳴らして、
『そうかあ。そいつは趣味がいいな。じつはぼくもディランは苦手でね。大体、ディランはあの声が下品でよくないね。あの歌い方がどうにも気に入らないんだよなぁ』
と言うので、タカヒロも思わず、
『そうそう、そうなんですよね』
と同調してしまった。するとダン・フォーゲルバーグは、
『ねえ、きみ、きみのフォーク好きを見込んで一つお願いがあるんだよね』
と切り出してきた。タカヒロはまたびっくりして、
『お、お願い、って、一体どんなことでしょう?』
とたずねた。フォーゲルバーグはギターを鳴らすのを止め、
『簡単さ。ぼくをここから出してほしいんだよ』
と言う。
『ええっと…、ダン・フォーゲルバーグさんをそこから出せばいいんですか?』
『そうなんだ。――あ、誤解のないように云っておくが、ぼくは誰かれかまわずこんなお願いをするわけじゃない。きみだからこそ、お願いすることなんだよ』
『出て来たら、歌ってくれますか?』
タカヒロがそうたずねると、ダン・フォーゲルバーグは快活な笑い声を立てた。
『もちろんさ。きみの好きな時に、好きな曲を、好きなだけ歌ってあげる』
『本当ですか? ――でもぼく、本当はメタリカが一番好きで、〝エンター・サンドマン〟が気に入ってるんだけどな…』
タカヒロは気後れを感じながらそう言ったが、フォーゲルバーグは、
『もちろんメタリカだってかまわない。〝エンター・サンドマン〟でも〝バッテリー〟でも何でもやってあげる』
と気前良く約束してくれたので、タカヒロはすっかり乗り気になった。しかし、そこでタカヒロはとても大事な点に思い当たったのである。
『あのう…』
『何だい?』
『ぼく、やっぱりできません。ダン・フォーゲルバーグさんを出してあげたいのはやまやまなんですけど、無理ですよ。だって、やり方を知らないんですもの…』
すると、ダン・フォーゲルバーグは高らかに笑った。
『そんなことなら心配する必要はないよ。きみが、ぼくをレコードの中から出す方法を知らないことくらい、ぼくはとっくに分かっている。やり方なら、これからきみに手とり足とり教えてあげるから、安心してくれよ。判ったかい?』
『はい』タカヒロは元気に返辞をして見せた。『判りました』
『それじゃあ早速始めようか』
『ぼくのために唄ってくれるんですね?』
『いいとも。どんな曲でも、何曲でも、きみの好きなときに唄ってあげるよ』
『やったぁ、嬉しいな。じゃあ、やり方を教えて下さい』
『よし。じゃあまず、何か金属の入れ物を探してくれ。鍋じゃまずいんだが。何か大きめの缶みたいなものはないかな』
タカヒロは家の中を引っかき回して探したあげく、台所の戸棚の中にクッキーが入っていた空き缶を見つけた。〝モロゾフ〟と書かれている。
『これでいいですか?』
『ああ、いいとも。大きさも丁度いいな。ありがとう』
『それで、この次には何をしたらいいんでしょう?』
『よしよし』とダン・フォーゲルバーグは言った。『きみの家の裏庭には、椎の木が植わっているだろう。その木の根元に、黒く縮れたようなかっこうのキノコが生えている。それを三、四株取って来て欲しいんだ』
タカヒロは言われた通り、裏庭の椎の木を改めた。すると、フォーゲルバーグに言われたように、黒っぽく
『まずその缶を中性洗剤でよく洗って…』
『こんろの火にかけて、ゆっくり乾かしてくれ』
『その間に、キノコをよく水洗いして…』
『塩で
『缶が乾いたかい?』
『それじゃあ缶に水を張って…』
『また火にかける』
『水があたたまったら、キノコを薄切りにして入れてくれ』
『石突きはついたままでかまわない』
『そのままとろ火で三十分くらい煮込んでくれ』
『少し煮詰まってきたかな? キノコから汁が出て、黒っぽい粘液状のスープができているよね?』
タカヒロはいちいちダン・フォーゲルバーグの言う通りに作業したので、缶の中にはどろりとした汁が溜まっていた。
『できたかな?』
『できました』
タカヒロは答えた。フォーゲルバーグは、更に、
『じゃあ、そのスープをぼくのレコードの上にかけてくれ』
と命じた。
『ええ? ターンテーブルの上に、でしょうか?』
『そう。カヴァーは外してね。レコードの盤面にたっぷりやってくれ』
『――でも、そうしたらレコード・プレーヤーが痛みますが……』
『大丈夫だいじょうぶ。その点は保証するよ。絶対に大丈夫だから』
ダン・フォーゲルバーグがそう
その途端、レコードの盤面から黒い煙がもうもうと立ち上り、部屋の中に充満した。
そして、その煙の中から大男が一人出現した。しかし、それはダン・フォーゲルバーグなどではなかった。タカヒロは悲鳴を上げた」
松尾先生はお話を読み終え、本から眼を上げた。何とも云えない気分だった。
その時になって、松尾先生は
松尾先生は
これ迄は、松尾先生はこの「レコード」なる
併し、読み終わって
松尾先生は、野副先生のコメントが付いた日記を読みたかった。もう、自分では
――いや、いやいや、それは絶対にならない。
松尾先生の内なる声は今や弱々しいものになり
松尾先生はちらりと右手を見た。日記帳は
――いや、それはならん。この次には夢中になって読んでいる時に誰か通り掛かるかも知れないぞ。そうしたら、
読みたい。
――ならん。
少しだけ。
――少しでも、
松尾先生の胸中は、甘い誘惑と昂奮と期待と厳粛さと怒りと自己への失望感とで
さまざまな感情で一杯になってしまい、
それから何とか眼を
次の読み物には、「私設美術館」という題が付いていた。これまた小学生の児童にはあまりぴんと来そうにない題だ。が、今の松尾先生にはそんなことはもう
「ぼくは頼まれて美術館の管理をしている。ぼくに管理を依頼したのは資産家なのだが大変奇妙なひとで、どうも自分しか入れない美術館を造ろうとしたものらしい。
何億もの金をかけて地所を買い、洋風の建物を建築し、そこに自分で買い込んだ彫刻作品を運び込んで、私設の美術館を設けたのだ。
そして、時どき酒を呑む仲間で、その頃ちょうど仕事もせずにぶらぶらしていたぼくをそこの管理人に
ぼくの仕事は単調なもので、平日の毎朝九時に美術館の鍵を開けて中に入り、入り口の鍵も開けて掃除をし、それから彫刻作品の展示位置を変えたり、倉庫に入っている作品を外に出したりする。
そんなこんなで昼になるので、昼食を取って休み、午後にはまた配置換えの続きをする。時には、館主がやって来て彫刻を眺めて行ったりするので、その相手もすることがある。暇な時間にはTVを見ていて構わない。ゆっくり
『館主と管理人以外の者は入れてはならない』
ことが定められている。
さて、美術館にその御仁がやって来たのは、ある冬の日のことだった。
女は美術館の正面玄関のドアをギイ…、と
ぼくはその時、管理人室で、
(どうせ、時どき裏口に美術品を運び込んで来る運送業者が、間違って玄関から這入ってしまったのだろう)
ぐらいに思ってごく
しかし、五分経っても何も言って来ないので、これはちょっとおかしいぞ、と思ってぼくは管理人室を出た。
すると、〝風の精〟というタイトル・プレートの付いた大きな彫刻の前に、女が立っていた。これはちょっとした事件だ。
ぼくはせかせかと女に近寄って、
『ちょっとすいませんが』
と話しかけた。すると、女はぼくの方に向き直ったが、その眼の中には気後れや悪びれたような色は
面倒なことになるのはご免だった。ぼくは小さく溜め息を吐いて、
『すいませんが、直ぐにお引き取り願えませんか。ここは一般には開放されていないんです』
と言った。女は相変わらずきょとんとした眼でぼくを見ている。そして、
『でも、こちらは美術館じゃありませんか。こんなに彫刻があって』
と言い張る。
『それでも、ここは私用の施設なんです』
『ねえ』と女は
『だめですよ。お断りします』
『事情は説明するわ』
ぼくはまた溜め息を吐いた。
『どんな事情です』
女は
『あたしには妹がいたの。三歳下なんだけど…。その妹は、ちょっと事故が起こって、身体を失ってしまったのよ。それで今は、数時間から数日おきに他のひとの身体を借りて…つまり
『駄目ですね』ぼくは
『ここにある聖母像がいい、って聞い…』
『さあ、お引き取り下さい』
ぼくが厳しく云うと、女は未練があるようだったが、帰って行った。それ以来数ヶ月になるが、女は二度と来ない。
ぼくは
ううん、と松尾先生は首を
松尾先生はもう一度読み直してみようと思い、再度副読本を拡げた。
――わ。
その時、背後で
「あら、うちのクラスの分の日記。
――しまった。
雅也は肩を
「
ええっ、と思って雅也は周りを見廻した。筒形の空間の中には
――ぼく、―ぼくは、あれっ?
おかしいな。
――ぼくは、何かに追い立てられている様な気がしたんだが…。
だが、
――そうか、ぼくはどうやら夢を見ていたらしいな。
そう見当が付くと急激に周囲の情景が現実味を増し、雅也は
「お客さま、
アテンダントは穏やかな口調で問うた。雅也は、
「
と
通路を歩くのは雅也ただ一人である。短い通路は直ぐに終わり、空港ターミナル・ビルに入った。「手荷物受取所」と日本語、英語、ドイツ語、フランス語、イスパニア語、簡体字中国語で書かれた掲示板が付いた
眠い眼を
雅也は荷物を取るには取ったが、その先が判らなかった。しまったなぁ、と雅也は
雅也は
「済みません」
すると、きちんと背広を着込んだ青年は、顔を上げて、
「は?」
と言った。
「これから、
「ええ」
雅也は
「実は、ぼくも
と苦笑して見せた。青年は
「ガイド・ブックの類はお持ちでないんですか?」
と問うた。雅也は正直に、
「はい。急な用事で来る
と答えた。青年は、
「それなら」と言った。「
と丸で
「あなたはタクシーで?」
と問うと青年は
「ええ、
渡りに船、これぞ
「宜しくお願いします」
と答えた。すると青年は、
「じゃあ、先ず仲間を集めないと」
雅也は
「済みません、
と声を掛けた。男は、打てば響く、と云った調子で、
「良いですよ。割り勘でタクシーね。丁度誰か探そうと思っていた所なんです」
と答える。これで三人だ。雅也は、もう一人探した方が良いかな、と思い、背広の男に、
「これで三人になりました。もう一人要ります?」
と問うたが、青年は、
「
と断言したので、雅也らは三人でタクシーを探すことになった。
雅也は何となく、
「大丈夫かな」
と
「大丈夫だいじょうぶ。ここは都会だし、その気になりゃ
と言い、二人を
青年の言葉は
と、青年は四台目のタクシーで顔を上げて、二人に、
「この車、包まで六〇ペカーリぽっきりで行く、って言っているんですけど、どうです?」
と問うた。が、
「他の運転手は、何て言ってるんです?」
雅也が問うと、青年は、
「一台目は百二〇、二台目は四十五と言ったけどどうもおかしな場所へ連れて行かれそうな雰囲気だった、三台目は二三〇でお話にならなかった」
と答えた。運転手は話が
「料金は前払いで、と云うので」
と言い、雅也も男も十ペカーリ札を二枚ずつ財布から出した。何となく見覚えのある車だったので、雅也が見ると、車はトヨタ・カリーナだった。車体の横には、「サンエー住宅(株)釧路」と書かれている。
運転手が何か言い、青年が、
「さあ、乗り込んでくれ、とのことです」
三人は早速乗り込んだ。青年は助手席に座り、雅也と男は後部座席だ。雅也はアーム・レストを出し、頭をヘッド・レストに預けた。中々悪くない気分だ。車は出発した。
青年は、不安が
「あなた方は、どんなご用で来ているんですか? ――わたしは、製薬会社の者なんですが、ちょっと特殊な
と言った。雅也は何と言えば良いのか、
「小説を書くんですけど、まあ手っ取り早く言えばその取材に」
と答えた。いま一人の男は、
「おれ、ボディ・ビルダーなんすけど、一週間ばかし一寸クール・ダウンにね。――ボディ・ビルディングの世界、って、何つうかこう――熱いんすよね、もの凄く。
とのことであった。
車は山の中の道とも思えない道を突っ走る。雅也の身体はシートの上で弾むはずむ。それでも運転手はスピードを
「
と雅也が誰にともなく訊くと、薬屋が一寸振り向き、蒼ざめた雅也の顔を見て笑みを――
「もう、
と答えた。
併し、薬屋の言葉は嘘ではなかった。森林の中を、ものの二十五、六分も走った頃だろうか、視界が一気に開けた。
カリーナは森の中から大河の土手のような所に出て、ダート・レースの出場車の如くスピードを更に上げた。揺れることは揺れるのだが、この辺りの泥道には
それは一つの大河だった。流れているのか、それとも淀んでいるのか、
「へぇ~」
雅也は思わず
「ね、悪かないでしょ?」
と問うた。雅也は強く頷き、
「まったく絶景だね。向こう岸が見えないじゃないの」
と言った。
「この辺はね、湿地帯になっているんですよ。ここいら一帯はトラマールと呼ばれる地帯で、世界自然遺産にも指定されているんですよ。――もう少し走ると、グランパオに着きますから」
ボディ・ビルダーが、
「ううん」
と伸びをした。雅也は注意していなかったが、どうやら寝ていたらしい。この車の中で居眠りできるとは、相当神経が太いか、それとも余程この辺りに来慣れているのか、その
車は今度は急坂を下り始めた。五分ほど下ると、
――あれっ、信号で?
と雅也が
「着きました。グランパオですよ」
はや、運転手は車を降り、トランクから三人分の荷物を出している。雅也はここに至って初めて
「新規の入国者は、先ずこのグランパオで登録手続きを済ませなくてはならないんです。そこから中に入れますよ。じゃあ、ご無事をお祈りしています」
そう言うと、薬屋は自分の荷物を背負った。背広姿にバックパックを背負ったというのは
「じゃあ」
とのみ言い残して行って
雅也は独りになり、
グランパオとは、その名の通り木造三層造りの大きな建物だった。上空から見ると円形をしているのだろうな、と雅也は考えた。三階には窓が三つ並び、二階には窓がなく、一階には窓の代わりにドアが二つある。片方のドアは赤く、他方は青く塗られている。左側の赤いドアの上に、「登録手続」と日本語、英語、中国語、ドイツ語、フランス語、イスパニア語で書かれたプレートが付いているので、ああ
中に入ると、銀行か郵便局のような構造になっており、若い女が待つカウンター窓口が三つあった。一番左のカウンターには黒髪のアジア系、真ん中は栗色の髪のケルト系、右端は黒人の女が座っていた。一番左のカウンターでは上背のある白人の男が何やら談判の最中、右側は日本人と思しき女が席に着いて何か書類に書き込んでいたので、雅也は空いている中央のカウンターに向かった。女は、カウンターの椅子に座った雅也を見て、開口一番、
「あなた、
と英語で言った。雅也は驚いたので口を半開きにし、
「ええ初めてですけど」と言った。「
すると、女は右手を伸ばして、手続所ドアの脇にあるテーブルを指した。
「
と言った。雅也はそれで合点が行った。
「ははあ」だが、
「何でしょう?」
「昨日、ぼくにそっくりな男が入国した
「あなたにそっくりな方?」女は
「いえ、実はですね。ぼくの双子の…一卵性双生児の弟が、
すると、栗色の髪をした女は
「さあ、今は休暇中の大学もありますから、普段より入って来るひとも多いですし、
と答えた。雅也は
「その兄弟の名前は、竹生健、と云うのですけど、記録に残っていませんか?」
「
とにべもない。
入国手続きは直ぐに済んだ。雅也は、「22960247」と云う整理番号を付けられた。
――さて、これから宿を探さないといけないのか。
雅也は途方に暮れる思いで、
「だからこれが学位証書だと言っているじゃないか!」
と
「では、それを客観的に証明できる第三者の証言が必要ですね」
と
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