D.

 佐竹雅也が目覚めたのは爽暁そうぎょうのことだった。気が付くと列車のリズムが自然と身体に伝わって来て、そのまま自然に眼が醒めた。時刻は午前七時だった。何の気もなしに時刻表を見ると、七時半前に森に到着するようだった。と見ると、途端に空腹感に襲われ、名代なだいの「いかめし」が無性むしょうに食べたくなり、ポケットの中で五百円玉を握って確かめると、直ぐに自分の個室を出た。デッキで雪景色を茫乎ぼうことして眺めていると、背後から、

「あら」

 と石原はるゑ占い師の声がした。振り向くと、厚手のコートに毛皮のマフラーという出で立ちで、どうやら次の駅で降りるらしい。

昨夜ゆうべはご馳走様」

 と石原はた礼を言った。

いや、大層重要なことをお聞きできましたし、それに何より、石原さんの商売道具で占って頂いたんですから、あれくらいは当然です」

「でも、一寸気にかっていたことがあるんですが…」

「何でしょう?」

「あれから、良くお休みになれました?」

「ええ。――実を云うと、初手しょては昂奮して寝付けなかったのですが、家内と話をしましてね。それで、すっきり落ち着きました。ぼくには、どうも大いに反省すべき点があるようですね」

 雅也がそう云うと、いしはらはるゑは莞爾かんじとして、

「それなら良かったわ。――あら、もう着くわね。あたし、此処で降りますので。――あ、佐竹さん、ひょっとして〝いかめし〟狙いですか?」

「え? ええ」

「森は三十秒停車ですけど、車販しゃはんが入ると思いますから、焦らなくて大丈夫ですよ」

「あ、そうですか」雅也は掻頭そうとうした。「それはどうも。石原さんは此方でお降りに?」

「ええ。一寸除霊じょれいを依頼されていまして。それからUFOの件でも…」

 列車は停まり、いしはらはるゑはプラットフォームに降り立った。

「良いご旅行を」

「パワー・ストーンを有難ありがとうございました」

 二人はたもとを分かった。雅也ははるゑに教えられた通り車内販売でいかめしと温かいお茶をもとめ、個室に戻って喰った。と、たとえようのない寂寥感せきりょうかんが雅也を襲って来た。

 ――あああ、ぼくは独りになっちまったよ。

 独り、と云う状態は、平生へいぜいの雅也であれば特段苦にはしなかった。むしろ、創作活動を行う面においては、ある意味絶対的な孤独が必要なのだった。しかし、今の孤独感はそれとは質が異なっていた。自分の実人生で最も緊要きんようなものの一つを失い、先行きも見えぬままそれを追い求める旅を踽々涼々くくりょうりょうと行かねばならないのだ。これから先、有益な助言を与えてくれるひとは誰もいないだろう。実のところ、雅也は自分自身から逃げ出したくて仕方がなかった。いっそのこと、行き先を変更して神威岬かむいみさきから身投げでもしてしまえれば、どれ程気楽なものか。

 併し、自分をこのような死地に追い込んだのは他でもない、自分自身の云為うんいの結果なのだ。

 そして、此処で自己逃避してしまえば、後に残される由美子は一体奈何どうすれば良いのか。

 雅也はウヰスキーの残りを呑み干した。

 頭の中はほぼ完全にホワイト・アウトしていた。

 パオに行って、果たして竹生健と出逢えるのか。会って和解できるのか。

 旅は未だ始まったばかりだと云うのに、雅也はもう逃げ帰りたくなっていた。

 それから雅也は寝台の上に腰掛けた姿勢で少しねむった。眼を醒ますと、大都市郊外の風景が見えた。終点が近いらしいことに感付かんづき、雅也は下車する準備をした。

 そして午前十一時十五分、雅也は吹雪の中、札幌駅のプラットフォームに立っていた。

 暗澹あんたんとした思いは変わらなかったが、「サロベツ」に乗り換えねばならなかった。

 昨夕は上野駅で慌てていたため、乗車券は稚内わっかないまで買っていたが、「サロベツ」の特急券は持っていない。雅也はえずプラットフォームから降り、「みどりの窓口」へ行って、およそ一時間後に出発する特急の指定席特急券をもとめた。

 しかし係員は、雅也が提出した購入申込書を見てデータを端末に打ち込むと、

「稚内までは、行けないね」

 とすげなく宣告した。雅也は吃驚びっくりして、

「でも、この特急、稚内行きでしょう?」

「うん、確かにこの汽車は稚内まで行くけど、指定席なら音威子府おといねっぷまでしか行けないよ」

「どっ、どうしてですかっ!?」

 つのる雅也をなだめるように、係員は、

「悪いけどね、音威子府からは、団体客が乗ることになってるんでね」

「グリーン車は?」

「グリーン車はないよ」

「そうですか…」

 雅也は右手拇指おやゆびの爪を噛んだ。久しく出なかった癖だった。

「どうする? この汽車、止す? それとも乗る?」

 係員はやや苛々いらいらした声で問うた。

「次の列車は、何時になります?」

「この次の『スーパー宗谷3号』は、午後五時四十八分だね」

 お話にならない。詮方せんかたなしに、雅也は、

「じゃあ、その列車で音威子府まで行きます」

 と答えた。係員は手際よく端末にデータを打ち込み、切符を出した。雅也は金を払った。

「発車は八番線だから」

 雅也はその言葉を背に、すごすごと「みどりの窓口」を後にした。待合所に入って、モス・グリーンのコートを着ているはずの竹生健の姿を探したが、見当たらなかった。その辺へ食事に出ているのかも知れない、と思い、そうだぼくも腹が減っているんだった、と気が付いて、雅也は昼食を取ることに決めた。併し、雪深い三月の札幌の街中を歩き回る気にはなれず、雅也は駅弁を買った。大体、パオへは、三月では酷寒こっかんの稚内空港からの飛行機しか交通の便がないとは云うものの、包がある地域は一年中温暖で、コートなどらない、という話だった。足元も重装備じゅうそうびのブーツなどかず、スニーカーで来ているのだ。うかうかと北国の街を彷徨うろつく訳には行かない。風邪を引いてしまう。

 やがて、特急「サロベツ」号入線のコールがあった。寝台車で取る睡眠は矢張やはり中途半端なもので、待合室のベンチでうつらうつらとしていた雅也ははっと眼をまし、八番線へ階段を上った。

 キハ183系気動車による三輌編成の特急「サロベツ」に雅也が乗り込むと、指定席は八割方埋まっていた。

 ――何だあの駅員は、音威子府から団体客が来る、なんて。あんな田舎の小駅から団体なんて乗って来るはずないじゃないか。〝はんかくさい〟とは正にこの事だよ、まったく。

 雅也は心裡しんり毒突どくづいた。どうやらこの列車に竹生健は乗車していないらしい、と云う観測も、雅也の機嫌を損ねる一因であった。

 列車――北海道人のいにると汽車――は定時に出発した。車掌の検札が済むのを待って、雅也は三輌全てを一々回って竹生健を探したが、徒労とろうに終わった。

 雅也は自席に戻ると吐息といきらした。

 ――この列車にはいない、ということは、だな。

 雅也は石狩平野を疾走する列車の中で只管ひたすら考える。

 ――どれか他のルートを取った、ということは考えられないか? 例えば、丘珠おかだまから空路で、とか。

 雅也はた眠気を催したが、その中でぼんやりと考え続ける。

 ――そもそも、玉青丹ぎょくせいたんを入手しにパオへ渡る、と云う話自体、狂言だったのではあるまいか?

 いやいや、と雅也は思う。

 ――竹生健は、少なくともこれまでは非常に誠実な態度を取っていたのだ。急に手の平を返して違背いはいするような真似まねはしないだろう。

 列車はその内、旭川を過ぎて宗谷本線に入り、有名な塩狩峠しおかりとうげを通過して和寒わっさむに停車し、続いて士別しべつ、と過ぎて行く。

 雅也は名寄なよろようや再度覚醒かくせいした。その後、列車は美深びふかを経由する。午後三時半を回ると、北海道のこの地では最早辺りが薄暗くなっている。雅也は棚から荷物を下ろして下車に備えた。

 音威子府おといねっぷには定時の午後四時七分に到着した。と同時に、雅也はデッキの窓から音威子府駅のプラットフォーム上に蝟集いしゅうしているものを見て仰天ぎょうてんした。

 音威子府駅では、何羽ものペンギン鳥が列車を待っていたのだった。大きさと色合いからみるに、奈何どうやらフンボルトペンギンの様だったが、それらはフォーム上に整然と並んで乗車の順番を待っていた。

 雅也は唖然あぜんとして口がふさがらなかったが、それでも何とか理性は保って下車した。途端とたんにこれからの前途ぜんとを暗示するかの如き強い寒風かんぷうが吹き付けて来て、雅也の眠気は瞬時しゅんじに去った。

 雅也が見ていると、ペンギン鳥は数十羽いるようだった。が、先を争うこともなく、一羽ずつ安詳あんしょうな態度で乗り込んで行く。雅也は佇立ちょりつしてその一部始終を眺めていた。ペンギン鳥が全羽ぜんわ乗り込むのに、数分間も掛かったろうか。ある者は指定席へ行き、又ある者は自由席車輛しゃりょうへ向かう。見る見るうちに指定席も自由席もペンギンで一杯になった。

 ペンギン鳥を満載まんさいした特急「サロベツ」号は音威子府駅を三分の遅れで出発した。

 さて、音威子府駅のプラットフォームには、稚内わっかない行きの普通列車も停まっていた。これはキハ54系気動車の編成だったが、時刻表を見ると、雅也が「サロベツ」で着く一時間も前の十五時十分に音威子府に到着し、十六時三十一分に発車する、との実に牧歌的ぼっかてきなダイヤグラムが組まれていた。出発迄までだ間がある。

 雅也は、この駅の立ち食い蕎麦そばが名物であることを知っていた。以前この近辺を訪れた時も、食べた記憶がある。が、その時はたしかプラットフォーム上に店舗てんぽがあったのだけれど、今は新規に改築された駅舎の中に入っている。

 天麩羅蕎麦てんぷらそばあつらえ、出来上がりを待ちながら、店のおばさんに、

「今、ペンギンが特急に乗って行きましたよ」

 言うと、おばさんは、

「うん。元々は旭山あさひやま動物園のペンギンらしいんだけどね。待遇たいぐうが悪い、って園長に抗議したらしいのさ」

団交だんこう、ですか」

「そ。したっけ、園長さんが怒って、もうみんな解雇かいこする、って言い出してさ、収まりが付かなくなった、って云う話だよ。ここまでは貸し切りのバスで来て、特急で稚内に向かって、飛行機で南極に帰るところらしいのさ」

 そう言うとおばさんは、はい天蕎麦てんそば一丁、とカウンターに丼を置いた。

 雅也は蕎麦そばを食べ終えると、た改札口を入って、出発待ちの気動車に乗った。運良くボックス席の窓際がいていた。腹がくちくなると、た眠気が襲って来る。改めて時刻表で確かめると、この列車が終着駅の稚内に到着するのは、定時だと十八時四十九分になるらしい。彼方あちらに着いたら、宿の算段さんだんもしなければならない。ま、何とかなることだろう。雅也は思い切り欠伸あくびをした。

 やがて列車は静かにドアを閉じると動き出したが、その時には既に雅也は華胥かしょくにに遊んでいた。


 うららかな春の季節ほど、学校での一日が長く退屈に感じられるものはない。赤城一平あかぎいっぺいは、っと学校が退けたので、同級の亀井敏和かめいとしかずと一緒に下校のいた。

 二人の手には、帰り際に五年二組級の担任である松尾先生の手から返されたばかりなのだが、理科のテストの答案用紙があった。が、それが仮令たとい百点であっても零点であっても、こんな好日こうじつにはテストの結果の話などするだけ野暮やぼだ、というのが子供たちの間の暗黙あんもくのルールだ。

 一平は右手には通学鞄つうがくかばんげ、暑いので脱いだ上着を左手に抱えていた。敏和は鞄を背中に背負しょっていたので手ぶらだが、左手には返されたばかりの答案を握っていた。赤い大きな字で92、と書かれているのが一平にも見て取れた。ちぇ、と一平は内心ないしん舌打ちした。屹度きっと得意なんだろうな。一平の答案は、他の教科書や筆記帳ひっきちょうと一緒になってかばんの底の方にぐしゃぐしゃに押し込まれているが、其方そちらには矢張やはり赤文字で、58、と書かれていた。

 二人は住宅地を抜ける通学路を歩いていた。丁度ちょうど下校時刻のことで、二人の周りには、同じ様な鞄を持った小学生や、制服を着た近くの中学校の生徒らが三々五々さんさんごご歩いていた。

「今日さ、何する?」

 敏和がいた。それで一平はテストのことを頭から追い出すことができた。そうだった、今日一緒に遊ぶ相談をしていたのだ。一平は、

たお前んでゲームしようぜ」

 と言ったが、敏和が、

「ええっ、たあれやるのかよ。春休みからあればっかりじゃん。たまには違うことやろうぜ」

 と言ったので話は白紙はくしに戻った。

 二人はしばらもだして歩いた。

 と、けに敏和が、

「あ、あれ、森山もりやまじゃん!」

 と叫んだ。一平が見ると、確かに森山静男もりやましずおの姿があった。静男は、他の子供たちに混じって、「おもてや商店」の店先たなさきにおかれたメダル・ゲームにきょうじていた。この商店は文房具の他に駄菓子もあきなうので、放課後には子供たちのまりになっている。

「よう、森山っち」

 敏和は、鞄をひざの上に抱えてピンボール・ゲームに熱中している静男の背に、巫山戯ふざけ撓垂しなだかった。

「何だよォ」静男は迷惑そうな声をげたが、「――なァんだ、亀井ちゃんか」

 静男は背で五月蠅うるさそうに敏和をなすと、画面上で燦然さんぜんと輝く電子のボールを、た一つはじいた。派手はでな電子音が鳴って、ボールはゲートをくぐってゆく。

「森山っち、今日塾あるの?」

 っと静男は姿勢を変えてかえった。

「今日ォ? ううん、今日は塾ないよ」

「それじゃあさ、おれたちと一緒に遊ばない?」

「いいよ。何して遊ぶの?」

だ相談してる途中なんだけどさ」そこで敏和は眼を輝かせた。「――そうだ、お前、あれ持ってるじゃん。今日はあれで遊ぼうぜ」

 静男はかばんを取り上げて、ボタンを押し、最後のボールを弾くと、名残惜なごりおしそうに電子ピンボール・マシンを見遣みやってから、立ち上がった。

「あれって何だよ?」

 敏和はれったそうに足踏あしぶみをして答えた。

「決まってるじゃん。あれって、あれのことだよ。電車の模型」

 静男の家にはNゲージ鉄道模型の大きなジオラマが――もっとも静男に言わせると、鉄道模型では箱庭はこにわを「レイアウト」と呼ぶそうだが――あって、畳一畳たたみいちじょう分以上は優にあるその敷地しきちの上を、新幹線やら寝台列車やらの精密せいみつな模型が所狭ところせましと走り回っているのだ。

「ああ、あれか」静男の家の鉄道模型は近所の子供たちの間で人気が高く、しょっちゅうあれで遊ばせてくれろとせがむ子供も多かったので、わざとなのか、そうでもないのか、静男は何時いつも気のない口調で返辞へんじをする。「あれなら今日はだめ。今日はお兄ちゃんがいないから…」

 静男の兄は大学生で、鉄道マニアだった。模型だけでなく実際の鉄道にも深い関心を寄せていて、静男のことを何度か「ロケハン」に連れて行ってくれたりする。そして無論むろん、かかる「レイアウト」の制作者であり、所有者でもある。

「なあんだ。駄目なのか」敏和は残念そうに言うと、一平を振り返った。「一平ちゃん、今日は何する?」

「そうだね」一平は鼻の下をこすながら、ゆっくり答えた。「亀井ちゃんは、竿ざお持ってる?」

「うん。去年買ってもらったやつがある」

「じゃあさ、三人でりしない?」

 敏和は静男を見た。

「森山っち、魚釣さかなつりでいい?」

「うん、いいよ。いいけど、いい場所知ってんの?」

 敏和はかすかに顔をくもらせた。

「ううん、おれ判んないや。ぼり行ってもいいけどさ、マスは高いじゃん。いい場所はいつも大人おとなが取っちゃうし…。それにおれ、そんなにお金持ってないんだよね」

 一平はそこで、

「場所のことなら、大丈夫だよ」と言った。「おれ、この間お父さんに、いい場所教おしえてもらったんだ」

 敏和はややうたがわしげな表情で一平の顔を見た。

「本当か? また勝ヶ淵かつがふちなんて言うなよ。あそこ、油鮠あぶらはやしかいないじゃん。二群湖ふたむれこはブラック・バスしかいないしさ」

 しかし一平は、

「大丈夫だよ」と言い張った。「この間お父さんと行った時、ものすごいやつがいたんだ。おれ、本当に見たんだから。あんなでっかい奴、他で見たことないんだ。もう少しでれそうだったんだけど――」

 口早くちばやつのる一平に、静男がくちはさむ。

「でっかい、って、どのくらい?」

 一平は両腕りょううでを広げて見せた。

「こんくらい。いや、もっとあったかも」

「本当かよ?」

 静男は疑念ぎねんを口にした。敏和は、

「それ、何処どこで見たの?」

 と問うた。すると一平は、急に口数がすくなくなり、

「教えてもいいけどさ…」

 と口籠くちごもった。

「何だよ、教えてくれなきゃわかんないじゃないか」

「教えろよォ」

 一平は、声をひそめて、

「じゃあ、誰にも言うなよ」

 と念を押した。二人とも首をたてるのをきっちり見届けてから、相変あいかわらずひそめた声で、

「あのさ、甚平川じんぺいがわの上のほう。鳴笛橋なきふえばしよりももっと上流なんだ」

 と言った。

 実際じっさい一平は、春休みも終わりに近いある日曜日、父親に連れられて行ったその場所で、それを眼にしたのだった。

 父親がその存在に気付いていたのかどうかは判然はっきりしない。だが一平は、陽射ひざしのよく入るふちの底にうつったそいつの影をよく覚えていた。それを見ていると、何となく呼ばれているような、誘われているような気がして、何だかどきどきした……丁度ちょうど今、この胸の奥におさめた秘密を二人に話すのが快感でとてもわくわくして来るように。

「本当なんだな?」

 敏和が逆にねんを押した。

「うん。本当だよ」

 一平はった。

「じゃあさ、今日はそこに行って見ようぜ」

「決まりだな」

 三人は「おもてや商店」の前を離れ、歩き出した。

「それじゃあ、竿ざおを取って来て」

「集合時間は…三時半でいいか」

「自転車で」

 次の四ツよつつじで三人は別れることになる。

「この四ツ角で待ち合わせようぜ」

 話は一決いっけつした。辻で一平は左に、静男は右に折れ、敏和は真っ直ぐ歩いて行った。

 一平はふと、右手に提げた鞄の中に突っ込んである、最前さいぜん松尾先生から渡された、58点の答案用紙のことを思い出した。

 ――あんなもの、だれが気にするもんか。

 一平は足元の小石を蹴飛けとばした。


 雅也がかすかな頭痛と共に覚醒かくせいしたのは、午後六時半前だった。既にとっぷりと日は暮れている。音威子府おといねっぷで乗車した時には、地元の高校生とおぼしき、制服を着た一団が乗り込んでかまびすしかったのだが、今車室しゃしつ内にいるのは雅也を含めてほんの五、六名だけだった。

 頭痛ずつうは不快だったが、午後七時前に列車は稚内わっかないに着いてしまい、雅也は下車せざるを得なかった。

 外は軽く吹雪ふぶいており、プラットフォームに降りた雅也を、さびしい水銀灯すいぎんとうの列が出迎えた。

 改札口で、上野駅からふところに入れて来た乗車券を渡してしまうのが、何故なぜ無性むしょうしく思われてならなかった。

 駅員に観光案内所をたずねると、「そこを出て直ぐ右側」と云う打切棒ぶっきらぼう返辞へんじが返ってきた。

 言われた通りに案内所に向かうと、すでに半ばシャッターが降りていて、雅也をまごつかせた。

 何とかを開けて中に這入はいることはできたのだが、如何いかんせん、カウンターは無人だった。

 さらにまごついた雅也が辺りを見廻みまわすと、台の上に銀色のベルが見付かった。ボタンを押すと、静閑せいかんなこの事務所に似つかわしくない金属的な音響おんきょうひびき、雅也は思わず身をすくめた。

 が、ベルが聞こえたと見えて、カウンターの向こうのドアが開き、制服を身に着けた、せた若い事務員がやって来た。荷物を三つも足許あしもとに置いた雅也の顔を見るなり、

パオへ行かれる方ですか?」

 といきなり問うて来たので、雅也ははらの底を読まれた様な気がして居心地いごこちが悪くなった。加之しかのみならず、女事務員の息は煙草たばこ臭かった。

「――そうですが…」

 と答えると、事務員はせかせかした口調で、

パオへ行かれる方は、みな稚内空港わっかないくうこう経由けいゆで向かわれます。空港国際線ターミナル行きのバスは稚内グリーン・ホテルの前から毎朝午前九時半に出発します。今、このホテルに空きがあるかどうかお調べしますので、少々お待ち下さいね」

 と云って、かたわらの電話機から受話器を外し、短縮番号たんしゅくばんごうを押した。

何時いつもお世話様です、観光案内所の田口ですが…、はい、パオへ行かれる方です。――はい、はい。ああはい、そうですか、はい判りました、どうも有難ありがとうございます。失礼します」

 受話器を戻すと、

「グリーン・ホテル、一泊朝食付き八千五百円のシングルなら空きがあるそうです」

 と言った。雅也がうなずいて、

「じゃあ、それで予約の方おねがいできますか?」

 と言うと、

「予約の方はすでに済んでいます」と雅也の財布の中身まで見抜みぬいたようなことを言う。「グリーン・ホテルは、駅を出て左に行かれると、直ぐに見えますから。フロントで、『観光案内所で聞いて来た』と仰有おっしゃれば、一割引いてもらえます」

 と相変あいかわらず口早くちばやに言い置いて、そのままおくへ入ってしまった。

 ひとり取り残された雅也は、毒気どっきかれたとでも云えば良いのか、暫時ざんじその場に佇立ちょりつしていたが、やがて気を取り直し、観光案内所を出て雪が舞う稚内わっかない市内に出た。かさがないので、荷物を抱えた雅也の頭や肩には雪片せっぺんが残った。

 「稚内グリーン・ホテル」は、たしかに稚内わっかない駅のそばに見付かった。築後ちくご二〇年も経たか、と思われる鉄筋コンクリートづくりのわりと近代的な雰囲気ふんいきのシティ・ホテルだった。入ってみると、ロビーは奇妙なほど広々ひろびろとしており、観葉植物かんようしょくぶつを置いて仕切しきった応接おうせつセットが四組、十六名分も設けてある。大型の液晶えきしょうTVも置いてあった。が、それを除けば、普通のホテルと変わりはない。

 フロントに向かうと、清潔せいけつなシャツにきちんとネクタイをめた係員が待っていて、雅也の顔を見るなり、

「佐竹さまですね?」

 と問うて来た。雅也は、

「はい」

 とうなずいた。宿帳やどちょうを出したので、雅也はかじかんだ手で一項目いっこうもくずつ埋めて行った。「ご職業」と云うらんがあり、雅也はたして何と書けば良いのかわからず、逡巡しゅんじゅんした。一昨日までなら一応「著述業ちょじゅつぎょう」と大威張おおいばりに書けたのだが、今は「虚業きょぎょう」或いは「無職むしょく」と書くのが妥当だとうだろう。雅也は数秒考えをめぐらしたが、結句けっく「著述業」と書き込んだ。と云うのも、現時点ではだ過去に発表した作品の印税と原稿料で喰っている身分なので、さわりなかろう、と判断したのである。

 宿泊料金は前払いだった。フロント係は、

「ご夕食がだでしたら、七階のレストランが営業しておりますので」

 と、朝食券とプラスティックのキーを渡す時に教えてくれた。

 雅也の部屋は「403」号室だった。エレヴェーターで四階に上がり、自分の部屋に入るなり、どっと疲れが出て、雅也は荷物を絨毯じゅうたんの上にほうしたまま、ベッドに仰臥ぎょうがした。列車のれがだ身体に残っていた。

 部屋は機能的で快適だった。へやにはベッドの他、ライティング・デスクと、ソファが二脚ある低い丸テーブル、TV、電気スタンド、冷蔵庫などの設備があった。ベッドはセミダブル・サイズだ。風呂はユニット・バスだったが、清潔だった。部屋は静かで、かすかな空調機くうちょうきの音だけが聞こえる。外から見た限りでは上の客室迄まで部屋はまっているようだったが、上階じょうかいの物音は一切聞こえなかった。全体として見たところ、このホテルの居心地いごこちは、申し分ない。

 雅也は食慾しょくよくよりも眠気ねむけの方が強かったが、かく何か腹におさめなければこの先の旅路たびじさわる、と思ったので、雅也は部屋に用意されているガウンには着替えずに外へ出た。かと云って、ホテルの外へ出てはんする気にもなれなかったので、キーを持って七階にあるレストランに向かった。

 菜譜さいふを見ると、和洋中何でもできるようだった。値段も手頃だ。雅也は、通過点と云えども折角せっかく北海道へ来たと云うのに、旅情りょじょうが満足していなかったので、蟹を食べることにした。でたかにはなかったので、かに炒飯チャーハンにコーン・スープを誂えた。

 そうだ、と雅也は考えた。ぼくは大学は北大を出ていると云うのに、そんなことこれまでかまいもしなかった。只管ひたすら、竹生健に気を取られている様だな。何せ、特急が札幌駅をつ時の発車ベルは北大ほくだい寮歌りょうかで最も名代なだいな「みやこ弥生やよい」だったと云うのに、それにすら頓着とんちゃくしなかった。もっと年甲斐としがいもなく感傷かんしょうひたると云うのも気色悪きしょくわるいが。

 レストランの入りは七分方と云った所だった。皆包パオへ向かうのだろうか、と雅也はいぶかった。食事はぐにきょうされた。炒飯もスープも上出来だった。アルコールが欲しい気はしなかった。半時間はんじかん後、雅也は自室へ戻った。「Ich bin müde.」と大学時代に習った怪しげなドイツ語が出た。

 シャワーを浴びると、水気みずけが欲しくなったので、冷蔵庫から缶ビールを出した。

 そして何の気もなくTVのスウィッチを押した。

「次のニュースです」女のアナウンサーだった。「旭川あさひかわ市の旭山あさひやま動物園で飼育されていたフンボルトペンギン四十五羽がこのほど動物園当局とうきょくとの労使関係ろうしかんけいのトラブルを理由に解雇かいこされ、本日稚内わっかない空港から帰国しました」

 雅也は瞠目どうもくした。夕刻ゆうこくに見たペンギン鳥たちが、空港のカウンターに一糸いっしみだれず整列する光景が映し出されていたのだ。

 カメラはペンギンたちとリポーターを交互に映した。

 それから、空港の利用客にもコメントを求めていた。

 一人目は女客じょきゃくだった。ふとじしの中年女で、眼鏡を掛けており、厚地のコートを着てマフラーをしているところを見ると、稚内わっかない市に用向ようむきがあって来た者らしかった。マイクを向けられた女は、

「ええもう、稚内の実家に帰省するところなんですけど、まさかペンギンが見られるとは思いもしませんでした。はい。旭山動物園で飼育されていたんですか? そうなんですか。何だか得した気分」

 と照れ笑いをうかべ答えていた。

 そして、二人目が竹生健だった。モス・グリーンのコートを着た風体ふうていは見覚えのあるものだったが、

「あ、そうですか。ペンギンが故郷に帰省ね。いい話なんじゃないですか。あはははは」

 と雅也が目をおおいたくなる程の軽薄けいはくさで答え、加之しかのみならず投げキッスまで送って悠然ゆうぜんと歩み去ったのである。

 ――ああ。

 雅也は心中でうめいた。が、もう遅い。けだし竹生健は今日の飛行機でパオへ向かいやがったのだろう。

 ――えず、行き先がさだかにわかっただけでも良しとするか。

 だが、一日遅れの差を一体奈何どうして埋めるか。

 雅也は自棄やけ気味ぎみになり、ままでベッドに横になった。間もなく深い眠りがやって来た。


 市立八木やぎ小学校の職員室にいた教諭きょうゆ松尾聡まつおさとしは、自席の足元に置いてある、ミッキー・マウスが笑うブリキのゴミ箱から、小石でも投げ入れられたかのごと派手はでな音がしたので、吃驚びっくりして振り返った。だが、無論むろん背後にはたれもいない。松尾まつお先生は、自分の馬手めてに座っている、一組の担任である野副のぞえ美子よしこ先生と、弓手ゆんでにいる川嶋かわしま健一けんいち先生の挙動きょどうをも恐る恐るうかがって見たが、野副先生は書き物をしていて、川嶋先生は電話中だ。二人とも、いまがた聞こえた大きな音のことなどにはまるっきり無頓着むとんちゃく、まるで気付きづいてなどいないようだった。

 ――おかしいなァ。

 松尾先生は態々わざわざ席を立って、もう一度ミッキー・マウスのゴミ箱の中を確かめた。中身ははなをかんだティッシュ・ペーパーと、使い捨てた附箋ふせんと、小さくなって使えなくなった消しゴム、それに朝に飲んだオレンジ・ジュースの紙パック。それだけだった。

 松尾先生は眼鏡を直して立ち上がると、首をひねながら席にいた。松尾先生の机の上は綺麗きれいに片付けられている。いや几帳面きちょうめんに、あるいは神経質なほどに、と表現した方が精確せいかくかも知れない。五組の担任の佐野さの先生などは、折節おりふし立ち止まっては繁々しげしげ見比みくらべて笑うのだが、左隣の川嶋先生の机とは丁度ちょうど好対照こうたいしょうをなしている。川嶋先生の机の上は、黒い表紙の出席簿しゅっせきぼに色とりどりの教科書に体育で使うホイッスルに辞書類に採点途中のテストにしのお茶が入った湯呑ゆのみに…、とかくらかり放題ほうだいらかっている。それに対して、松尾先生が使っているコクヨ製の灰色の事務机の上は、普段ふだんはペン立てとクリップ幾つか、それにラップトップPCがっている位のものだ。

 今その松尾先生の机の上には、二組の生徒三十八名分の漢字のちょうっていた。先ほど今日の日直にっちょくが集めて届けてきたものだ。これは採点さいてんを済ませ、間違まちがいをただした上で明朝みょうちょうには返さなければならない。今日はこの後、今度この学校に来る予定の教育実習生きょういくじっしゅうせいに電話をする要件ようけんがあったので、余分よぶんな時間は余りなかった。

 だが、松尾先生の心は、中々なかなかちょうに集中することができなかった。

 ともすると、松尾先生の心は右手みぎて野副のぞえ先生の方へ向いてしまう。

 ――いや松尾まつお先生は野副のぞえ先生本人には格別かくべつ関心かんしんがあるわけではない。たしかに、野副のぞえ先生は美人だった。容貌かんばせ面長おもながで優しげな眼はなが鼻筋はなすじが通っていてまゆは美しいえがいている。口許くちもとつつましやかだ。化粧けしょうなどしなくとも、十分じゅうぶん綺麗きれいに見えたに相違そういない。それでも、正直しょうじきなところ、松尾まつお先生は野副のぞえ先生の容姿ようしかれたワケではなかった。

 松尾先生は、漢字かんじちょうページに顔をうずめるりをして、こっそり野副のぞえ先生の手元てもとうかがった。野副先生は先ほどから赤ペンをにぎって書き物に余念よねんがない。

 ――あと少しだ。

 そう無意識裡むいしきり心中しんちゅうつぶやいてから、松尾先生はあわてて眼をらせた。松尾先生は必死に、

 ――不可いけない、不可いけない。もうあんなことはめなくちゃならない。

 と自分に言い聞かせた。

 松尾まつお先生は別に野副のぞえ先生のことを好きだった訳ではない。松尾先生は今年で四十五歳になり、十四年前に結婚したさいとの間に十歳の男の子と六歳の女の子をもうけていた。一方野副のぞえ先生は大学を出たばかりの二十四歳だ。二人はプライヴェートなことまではなうようななかではなかったから、野副先生に恋人がいるのかどうかは知らなかったし、そもそもそれ以前いぜんにはっきり云ってそんなことには関心かんしんがなかったのだ。

 松尾先生が隣席りんせきの野副先生にいて関心があるのはただ一点だけ。それは日記だった。

 最初の機会きかい旬日じゅんじつほど前、偶然ぐうぜん訪れたものだった。

 松尾まつお先生が算数のテストの採点さいてんをしていると、それまでとなりの席にいた野副先生がふと立ち、職員室を出て行った。松尾先生が顔を上げると、野副のぞえ先生はジャージの上下じょうげを着てホイッスルを首にけていたので、クラブ活動かつどう指導しどうくのだ、と云うことがわかった。この小学校では毎週まいしゅう水曜日の放課後ほうかごがクラブ活動かつどうの時間に充当じゅうとうされている。強制きょうせいではないが、生徒せいとたちは好きなクラブ活動かつどう参加さんかすることができる。クラブはいろいろある――陸上競技りくじょうきょうぎ、バスケット・ボール、野球やきゅう、テニス、体操たいそう自然観察しぜんかんさつ合唱がっしょう模型作もけいづく等々などなど。松尾先生はどのクラブも担当たんとうしていないが、野副先生は学生時代がくせいじだい体育会たいいくかい器械体操部きかいたいそうぶ在籍ざいせきしていたとかで、体操たいそうのクラブの面倒めんどうを見ていた。

 そして松尾まつお先生がふと視線しせんうつすと、野副のぞえ先生のつくえの上には「何か」がうずたかがっていた。

 一々いちいちかんがえたりよく見直みなおしたりしなくともわかる。それは日記にっきだった。生徒せいとたちのつける日記にっきである。そしてそれを見た途端とたん松尾まつお先生はなにかそれに心惹こころひかれるものをかんじていた。松尾まつお先生自身じしんにも自分じぶんがよくわからなかった――何故なぜそんなものがまったのか。何故なぜそんなものがになるのか。

 松尾まつお先生は一旦いったんそれかららし、算数さんすうのテストの採点さいてんもどった。

 しかし、何故なぜだか矢張やはになる。

 ――なんだ、ただの日記にっきじゃないか、あんなもの。

 松尾まつお先生は強くそう自分に言い聞かせた。そしてたテストの方にあらためて意識いしき集中しゅうちゅうさせようとした。

 それで、その奇妙な誘惑ゆうわくは一旦去った。松尾先生はテストの採点を続けた。

 その儘十分ほどったころだろうか。二〇分経った頃だろうか。職員室しょくいんしつの中が急に騒がしくなった。松尾先生が顔を上げると、五年生の担任たんにん教師きょうしと向き合わせに机が並べられている四年生の担任教師たちが一斉いっせいに立ち上がり、そろって移動いどうして行くところだった。どうやら別室べっしつ職員会議しょくいんかいぎを持つものらしい。これで職員室の中は、松尾まつお先生の他には、喧嘩けんか仲裁ちゅうさいをして、きべそをいている男子児童だんしじどう二人をしかっている二年担当の教師、ほかに事務仕事じむしごとをしている二、三人の教師や、日誌にっしを置きに来た四年生くらいの女子児童じょしじどうを除くと、たれもいなくなってしまった。

 松尾先生は不意に動悸どうきを覚えた。

 ペンをにぎった手先てさきかすかにふるえて来る。

 ――なんだ、一体いったい何だと云うのだ。

 松尾先生はた自分に言い聞かせた。松尾先生自身にも、その光景の滑稽さがよく判っていた。四十路よそじ半ばの男性教師(妻子あり)が、二十四歳の美貌びぼうの女性教師(独身)がコメントを付けた生徒たちの日記帳にっきちょうのぞるとは!

 しかし、こうして監視かんしがなくなった今、松尾まつお先生は誘惑ゆうわくに対しあらがいきれなくなっている自分を感じていた。

 が、松尾先生にも教師きょうしとしての自覚じかく矜持きょうじがあったので、その誘惑は心の中で泳がせたまましばらくのあいだ採点さいてんを続けた。ここの分数ぶんすうざん間違まちがっている。ここはざんちがう。ここはっている。ええと、そう、ここの文章問題ぶんしょうもんだいとい趣旨しゅしちがえている――。

 そして松尾先生は自分の右手みぎてを見た。

 相変あいかわらず、野副のぞえ先生の机の上には日記用にっきようノート・ブックがかさなっている。

 なにかんがえず、松尾まつお先生はその日記にっきの山に手をばし、「ジャポニカ学習帳がくしゅうちょう」を一冊いっさつった。

 ってしまってから、松尾まつお先生はっと自分の行為こうい意味いみに気が付いた。しかし、こうなったらもうかったふねだ。松尾先生はこの一冊だけ、とめて日記帳にっきちょうひらいた。ノートのぬし女子児童じょしじどうだった。


今日きょうはスイミングスクールの昇級しょうきゅうしけんでした。わたしはじゆう形とブレストのしけんを受けました。……云々うんぬん


 とあり、それに対して野副のぞえ先生は、


「わたしもクロールより平泳ひらおよぎのほうが得意とくいです。手がいけなかった、って、どこがいけなかったのですか?」


 とのコメントをせていた。

 その前日ぜんじつ日記にっき


今日きょうわたしはおなじクラスの岡崎おかざきさんと江原えはらさんと一しょにあそびました。……云々うんぬん


 コメント。


「よくれた日でしたからそとあそぶと気持きもちよかったでしょう。縄跳なわとびでは、よく〝おっけした〟って云うけど、どうしてなんでしょうね?」


 松尾まつお先生はすっかりこの赤司由美子あかしゆみこと云う少女と野副先生のやり取りに引き込まれてしまい、もう夢中むちゅうページった。一体いったい教師きょうし児童じどうあいだ言葉ことばりのなかなにがそこまで松尾まつお先生を魅了みりょうしたのか? たしかなところは松尾まつお先生自身じしんにも皆目かいもくわからないのである。しかながら、児童じどう他愛たあいない日記とそれに対する女教師じょきょうしやさしげなコメントの応酬おうしゅうふけっている間、松尾まつお先生は、ここ数年来すうねんらい感じたことのない不可思議ふかしぎ幸福感こうふくかんひたることができたのだった。女児のつたな手蹟しゅせき野副のぞえ教諭きょうゆ丁寧ていねい返句へんくは、松尾まつお先生に、何故なぜ情愛じょうあいの美しさと有難ありがたみ、そして人生じんせいあじと云ったものを沁々しみじみと感じさせた。

 松尾まつお先生は何時いつにか、一冊いっさつをすっかりってしまった。そして、その手にはいつしか二冊目にさつめにぎられていた。松尾まつお先生は躊躇ためらわずに三冊め、四冊めとすすみ、一時間ほどのあいだすべての日記にっきノートをくしてしまった。んでいるときにはもう夢中むちゅうだった松尾まつお先生は、すべえてしまってから、はッとわれかえった。背筋せすじつめたいものがはしった。

 ――しまった。これは屹度きっとたれかにられたにちがいない。

 てっきりそうおもんだ松尾まつお先生はくびすくめ、ずと職員室しょくいんしつなか見廻みまわした。そう、ここは職員室しょくいんしつの中だったのだ。生徒せいと日記にっきんでいるうちに、松尾まつお先生はすっかりそれにまれ、あたかも自分も頑童がんどうの一人であるかのように感じていた――なに未熟みじゅくちいさく、乳臭ちちくさい息をして遊びに出掛でかけたり兄弟喧嘩きょうだいげんかをしたりゲームにきょうじたりする小学生の一人であるかのように。

 今、われかえった松尾まつお先生の両肩りょうかたには、「責任せきにん」と云うものが重苦おもくるしいほど大きくかっていた。そう、松尾先生は四十五歳の小学校教師しょうがっこうきょうしだ。最早もはや小学生しょうがくせいではない。松尾まつお先生のまえには五年二組級きゅう名簿めいぼがあった。松尾先生は今度こんど週末しゅうまつに開かれる予定の、PTA主催しゅさい親睦会しんぼくかいのことで生徒せいとたちの父兄ふけい連絡れんらくらなければならなかったのだ。たれが出席しゅっせきし、たれが欠席けっせきするのか。

 松尾まつお先生はもう一度ぐるりを見廻みまわした。が、職員室しょくいんしつの中は放課後ほうかご平生へいぜいのざわめきにちていた。松尾まつお先生に不審ふしんそうな眼差まなざしをけるものはたれもいなかった。

 松尾まつお先生はそれを確認かくにんすると、自分じぶん安心あんしんさせるために二、三度うなずき、何喰なにくわぬかおよそおってノートのやま野副のぞえ教諭きょうゆつくえもどし、受話器じゅわきった。


 翌朝よくあさ雅也まさや午前ごぜん七時しちじにセットした目覚めざまし時計どけいきた。まくらわると熟睡じゅくすいできぬ性質たちの雅也にしては、けの気分きぶんわるくなかった。ベッドからし、たて細長ほそながまどからひかりを見ては、あさが来たのだな、など月並つきなみなことをかんがえ、そういう自身じしん失笑しっしょうし、ホテルのガウンをいでシャツとスラックスを身に着けた。

 朝食券ちょうしょくけんると、モーニングは昨夜ゆうべ食事しょくじしたとおなじ、七階ななかいのレストランが会場かいじょうになっており、もう食事しょくじきょうされているらしいので、つめたい水道水すいどうすいかおあらって部屋へやた。二基にきあるエレヴェーターはいずれもすでさかんに昇降しょうこうしている。数分すうふんたされてっとのぼりにむと、ワイシャツにネクタイ姿のビジネス・マンらしきもの一名いちめい眼鏡めがねけてボタンダウン・シャツにジーンズと云うちの学生風がくせいふう一名いちめいっていた。雅也は乗り込んで、行き先が七階になっていることを確かめると、「►◄」のボタンを押した。

 やがてエレヴェーターは最上階さいじょうかいに着いた。急に空腹感くうふくかんおぼえた雅也は真先まっさきにレストランに入った。

 朝食はヴァイキング、とあったが、麺麭パン卵料理たまごりょうりもの豊富ほうふに準備されていて、雅也の食慾しょくよくけた。

 雅也は朝の卵料理と云えば断然だんぜんスクランブルド・エッグだった。たっぷりと皿に取り、ハムやソーセージもえる。麺麭パンは食パンもあればクロワッサンもあり、ペストリーまで用意よういされていた。雅也はトースターに二枚入れ、クロワッサンも取った。焼き立てらしいのがうれしい。それから珈琲コーヒーにミルク、オレンジ・ジュース。デザートに、缶詰かんづめのシロップけらしいがパイナップルも食べることにした。

 トレイを窓際まどぎわの空いた席に持って行ってすわると、オホーツクの海が見えた。時化しけのようだった。風がつよく、そらに浮かぶ千切ちぎぐもはあっとながれてく。

 ――こんな天候てんこうで、たして飛行機ひこうきぶのかな。

 本日ほんじつ欠航けっこう、と仕儀しぎになれば、竹生健たけふけんとの距離きょりが更にひろがることはるよりあきらかだ。

 しかし、雅也はかくった。麺麭パンかじり、ソーセージ・ハムえスクランブルド・エッグはおわりしてべ、珈琲コーヒーもブラックで三杯さんばいみ、クリーム・スープもべた。

 っと空腹感くうふくかんえたのは午前八時になんなんとするころで、すでに客の姿すがたまばらだった。バスは九時半の出発なので、だ時間はある、と判断はんだんし、雅也は鼻歌はなうたうたなが歯磨はみがきをし、ひげり、かみかした。

 そして、いたって陽気ようき荷造にづくりした。大体だいたい、雅也はこの荷造りが苦手にがてだ。これまでにも、ホテルに数日間「軟禁なんきん状態じょうたいかれて仕事しごとをしたことはあったが、一番いちばん困惑こんわくしたのはねむれぬベッドでも食事しょくじでもなく、この最後さいご荷造にづくりだ。態々わざわざ由美子ゆみこんでわりにやってもらったこともあるほどだ(このときは「荷造にづくだい」として大枚たいまい二万五千円也にまんごせんえんなり要求ようきゅうされた)。

 今朝けさ荷造にづくりは、昨夕さくゆうチェック・インしてから必要最低限ひつようさいていげんのものだけしかしていないので、極簡単ごくかんたんむだろうとたかをくくっていた。だが、なかそう上手うまくはことがはこばないもので、昨日きのう着替きがえた下着したぎはいらなくなってしまったのである。雅也まさやてる智恵ちえ体力たいりょくすべてを投入とうにゅうして、何とかタンク・トップとトランクスを入れようと苦戦くせん奮闘ふんとうしたのだけれど、中々なかなか上手うまかない。由美子ゆみこのやつ、どうやってこれをパック・アップしたんだろうなあ、と文句もんくつぶやきつつ、仕舞しまいにはあせだくになってこころみたのだけれど、つい上手うまかず、結句けっく一番いちばんおおきなキャリー・バッグのポケットのすみめた。

 このとき腕時計うでどけいは八時五〇分をしていた。

 すっかり草臥くたびれた雅也まさやあせぬぐいつつ部屋へやあとにした。だが、バスの発車迄はっしゃまでには半時間はんじかんのこっている。エレヴェーター・ホールに出たが、三基さんきとも一階で停止している。雅也はほっと息をいてエレヴェーターを呼んだ。この分なら、バスも余裕よゆうで座れるだろう。

 しかし、これは雅也の大きな見込みこちがいであった。

 雅也が三つの荷物にもつかかえて一階ロビーにりると、みょうにひとがいる。昨夕さくゆう見た応接おうせつセットは満席まんせきだ。今朝けさはTVもいていて、ニュース番組ばんぐみが流れている。ロビーの空間くうかんにも、すわれなかったのだろうか、ひとが十数名もたむろしている。

 雅也はチェック・アウトの手続てつづきをった。怪訝かいがねんおぼえたので、フロントがかりに、

「あのう、このひとたちは?」

 とうと、欠伸あくびでもころすように、

「ああ、パオかれるかたたちですよ」

 との返辞へんじが返って来た。

「え? みんなですか? パオへ?」

「そうです。バスは九時半に出ますので、みなさんおちになっているのです。――佐竹さたけさまもパオかれるとうかがいましたが」

 プライヴァシーの配慮はいりょけるホテルだ、とおもうよりさきに、

「え、ええ、ええ。それはそうなんですが…、そうですか、皆さんパオへ。ほどねえ」

 雅也はぽかんと口をけてまわりを見遣みやった。そうわれてあらためてると、みなバックパックを足許あしもといたり、なかには登山家とざんかのような重装備じゅうそうぎをしていたり、如何いかにも旅慣たびなれた様子ようすの人びとの姿すがた印象いんしょうに残る。雅也まさやのような中途半端ちゅうとはんぱにカジュアルな恰好かっこうをしている者は、いない。そのわり、何故なぜだか知らないがきちんと背広せびろ着込きこんだ者もいた。

「バスのチケットはこちらでございます。このチケットをおしになられますと、空港くうこうまで無料むりょうでご乗車になれます」

 とフロントがかりの男は物慣ものなれた仕種しぐさ紙切かみきれを一枚寄越よこして来た。見ると、

無料むりょうバスチケット 稚内わっかないグリーン・ホテル ― 稚内空港わっかないくうこう国際線こくさいせんターミナル」

 とあった。それを見て雅也はっとさとった。まり、このホテルはパオがあるからこそ、こうして営業えいぎょうしていられるのだ。パオがなければ、こんなかゆいところに手がとどくサーヴィスはのぞめないはずだ。

 ――なーるほどねぇ。

 雅也は感心かんしんしてしまったが、こんなにひとが多ければバスにはぐれることもあるのでは、とあわてて、

「座席は大丈夫なんですか?」

 と問うた。

「ええ、その日利用なさるお客様の数に合わせた大きさのバスを運行しておりますので、ご心配は無用むようです。皆さま空港まで座ってかれますよ」

 とすずしい顔である。道理どうりでロビーの中も殺伐さつばつとした雰囲気ふんいきが流れていないはずだ。皆座れるのであれば、たしかに心配は無用である。

 雅也はこのシステムにすっかり感心してしまって、ホテルのフロントに佇立ちょりつして腕組みをしていたが、やがてロビーの中に流れていたなごやかな空気が乱れ始めた。皆ロビーの一枚硝子いちまいガラスの窓から外を眺めて、にわかに手回りの荷物をまとめ出した。

 バスが来たのだ。

 大型のリムジン・バスだった。

 方向幕ほうこうまくには、「稚内空港・国際線ターミナル」と表示されている。

 ロビーにつどった人びとは入り口に向かい、ホテルの真正面ましょうめんに停車したバスに乗る。

 先をあらそう様子はない。一人、またひとり、と乗り込んで行く。

 雅也もおくれまじとあとしたがった。

 バスは観光バスをそのまま転用てんようしたような造りのもので、座席はリクライニング式、補助席ほじょせきはなし、窓は遮光しゃこう硝子ガラス、という内装ないそうだった。雅也が乗り込んだのは十二、三番目だったが、かろうじて窓際の席が取れた。

 雅也は内心ないしん、こんなバスに本当に皆乗り込めるのか、といぶかっていたが、心事しんじ相違あいたがい、空席を二つみっつ残して出発した。発車する際、運転手は型通かたどおりに、

「稚内グリーン・ホテル発、稚内空港国際線ターミナル行きリムジン・バス、間もなく発車いたします。空港までは約三十分で到着いたします。シート・ベルトをお使い下さい」

 としゃがれ声でアナウンスし、間もなくバスはドアを閉じて出発した。

 雅也の隣には、バックパッカーと思しき若者が座を占めていた。雅也が、試しに、

「失礼ですが、パオへ行かれたことはおありですか?」

 と問うと、青年は首を振り、

いや、ぼくはだ今回が初めてなんですよ。南米やヴェトナム、欧州ヨーロッパ近辺は彷徨うろついたことがあるんですが、パオ何故なぜかこれまで敬遠けいえんしていまして…。行けば良いのに、いい所だよ、と云う話は散々聞かされていたんですけど、これまで何故なぜか機会に恵まれませんでしてね。――あなたは?」

 雅也は苦笑いして、

「いえ、ぼくも初めてなんです」

 とのみ答えた。青年は、

「ぼく、もうワクワクですよ」

 と屈託くったくない調子で云ったが、雅也は、

「ぼくは一寸ちょっと…、生死せいしかった、退きならない事情がありましてね」

 と応じた。それで会話は途切とぎれた。

 バスは海沿いの荒涼こうりょうとした道を走った。「オロナミンC」の古ぼけたブリキ製広告看板が打ち付けてある黒々くろぐろとした廃屋はいおくや、漁労ぎょろうセンター、貧相ひんそうな小学校などが眼の前をぎって行く。そして、ものの二十五分も走った時、前方に空港ターミナルと思われる真四角な建造物が見えて来た。周りには何もないので、いやおうでも眼に付く。白皚々はくがいがいたる雪をかむった恢々かいかいたる鉄筋コンクリート三階建て、周囲に設けられた駐車場の車はミニカーのように見える。

 空港ターミナルの建築物が見えると共に、車内の空気が変わった。それまでは何だか刑場けいじょうに引かれる罪人ざいにんたちのごと大人おとなしくしていた乗客たちが、にわか身動みじろぎを始めたのである。それは単に自分たちの荷物を棚から引き下ろすと云う行為以外に、それ以上のもの、この場合で云えば何処どこか新しい土地へ出掛けるのだ、と云う清新せいしんな気分にうごかされての貧乏揺びんぼうゆすりじみた身動ぎであった。雅也が、パオの持つという「世界中の他のどの場所とも違った雰囲気」の残滓ざんしに触れた始めだった。

 公道から空港の敷地に入る際、バスはがたがた揺れた。見ると、小砂利こじゃりの多い道を走って行く。それから仮舗装かりほそうしたような私道に入り、ターミナル・ビルディングの傍でバスは停止した。

「空港ターミナルです」

 と運転手が云う前に、気の早い者は荷物を抱えて通路に足を踏み出していた。ドアが開けられると、牧羊犬に追われる羊の群れさながらに、理由の如何いかんを問わずパオへ向かおうとする者は一人、また一人とドアからこぼちて行く。雅也も遅ればせながらそれに加わり、何処どこをどう行けば何処どこに着くのか判らぬので、えずは前を行く者の背を見て歩く。

 雅也が見ていると、パオへ行く者は、国内線とは別に設けられている、国際線用ターミナルの自動ドアをくぐって中へ入って行くようだった。雅也も後に続く。

 中に這入はいると、東洋航空、Air Toyoなる航空会社のカウンターがあった。航空券を持つ者は搭乗者受付へ向かい、持たぬ者は発券カウンターに並ぶ。搭乗者受付へ向かう者が大多数だったが、発券カウンターにも数名の列ができている。雅也は最後尾に付こうとしたが、その前に空席の有無を確認しておこうと思い、表示板を見た。稚内空港にも小さいながら立派な表示ボードが天井から吊されている。

南寧なんねい行 For Nannin 14:30  空席有 Seats Available」

 午後二時半か、と雅也は考えた。大分だいぶ時間がある。これで、た竹生健との距離が拡がる訳だ。やれやれ。

 雅也は発券カウンターに向かい、列の後ろに並んだ。パオへ行く者は大多数が一人旅の様だ。男女ともいるが、男の割合の方が多い。ほぼ全員が一人旅で、尚且つ目的地が同じなので、間もなく雅也の順番になった。

 若い女の受付係は、雅也を見ると、

「お一人様ですね? 八五〇〇ペカーリになります」

 と云った。雅也はああ、と思った。両替を忘れていた。

「日本円での支払いは、受け付けて頂けませんか?」

「はい、大変恐縮ですがご遠慮願っています」

 とのことだったので、雅也は先ず両替しなくてはならなかった。

 と、腹の辺りに膨らんだバッグを提げ、あおいパーカにチノパンツを穿いた小柄の女が近付いて来た。

「オ兄サン、両替? 何ぺかーり? アタシ、三十万マデナラ用意アル」

 雅也は、えず手持ちの二〇万円の内、十五万円を両替することにした。女に金を渡すと、金を数え、ポーチに収めてから、ペカーリ札を数えて雅也に渡した。それ切り女はくるりと背を向けて行って了った。

 その姿を呆然ぼうぜんと見送る雅也の背に、

莫迦ばかだな。あんな両替屋を使うやつがいるかい」

 と声を掛けて来た者があった。振り返ると、眼鏡を掛けて長髪を真ん中で分けた男が立っていた。バックパッカーらしかった。雅也は、

「じゃあ、何処どこで両替できるんです?」

 と逆に問うた。すると男は、航空会社のカウンターの端を指差し、

「そら、あすこ。彼処が日中越にっちゅうえつ各国政府公認の両替所だ」

 と言うた。雅也は、しまった、かつがれた、と思ったが、女の姿はまぎれて何処どこにも見えない。

「基本、レートはどの位なんだ?」

 と雅也が問うと、男は、

「基本的に日本円一円に対し二ペカーリ。中国人民元なら、百元で一ペカーリ、と云うのが相場だよ」

 と教えてくれた。雅也は女に手渡された金を数えた。細かい額の札も混じっていて、数えるのに時間が掛かったが、二十五万ペカーリほどしかない。それを見た男は、

「やられたね」とにやりと笑った。「あの女は要注意人物なんだ。神出鬼没でね、思わぬ所に現れる。日中両政府からのおたずものなんだが、誰も捕まえた者がいないのさ」

「一体、パオって云うのは、どういう国なんだい?」

 雅也は問うた。すると、男は初め雅也の顔を諦視ていししていたが、やがて、

「あんた、パオのこと、何も知らずに来たのか?」

 と云った。雅也は首肯しゅこうした。男は、あきれた、と云う風に額をぴしゃりと叩いたが、疾言しつげんで、

パオ、って云うのは、厳密には国家とは違う。中国とヴェトナムの国境地帯に展開していて、夫々それぞれの国にまたがっているが、国ではないから首都はない。――いや、皆てんでんばらばらにやっているのかと云うとそれも違って、グランパオ、と云うパオ全体を統括とうかつする機構は存在するがね。パオ自体、出現したのはここ十五年ほどのことだ。最初は小さなテント村みたいなものだったが、パオと云う地域の特異とくいさに眼を付けられて、今では準国家と云える地帯として認められている。その〝特異さ〟にいてはいろいろあるがね…。かく、今どきガイド本も読まずにのこのこ来る人間がいるとは思わなかった。まあ、今回の両替屋は勉強代だと思うんだね。――後で、飛行機の出発前に、てい女史じょしの説明会があるから、それを聞いてから航空券を買っても遅くないぜ」

 雅也は男の煙草臭い口臭に閉口したが、

「そういう訳には行かないんだ」

 と答える。

「なぜ? 出直そうと思えば後から幾らでも出直せるじゃないか」

「だから、そういう訳には行かない、退きならない事情があるんだよ」

「一体どんな?」

「どんな、って、ひとを追っているからさ。昨日、包に向けて出国したらしい男を追い掛けているんだ」

 雅也がそう答えると、男は小さくいきいて、こりゃ付き合い切れないや、というように、

「そうかい。じゃあ、まあ健闘を祈っているよ」

 と言い残して行ってしまった。その背中が人混みの中に紛れて行くのを雅也はしばし見送っていたが、男が引き返して来て助け船を出してくれそうな気配もないので、詮方せんかたなく発券カウンターに向かった。カウンターでは女性係員が応対していた。

南寧なんねいまで、大人一名、片道、で宜しかったですか?」

「はい」

「では、八五〇〇ペカーリです」

 券を無事手にした雅也は笱安こうあんぬすむ思いで空港のなかをぶらついた。すると、

「国際線レストラン Pao」

 という招牌しょうはいが眼に入った。そう云えば、だ昼前だが、矢鱈やたらと空腹感を覚えていたので、雅也は早めに昼食を取ることにした。

 が、その前に、最前の男が云っていた、てい女史とやらのスピーチが気になり、発券カウンターの隣のインフォメーション・デスクに立ち寄った。

「あの、あのさ、鄭さんとか云うひとの説明会、って、何です?」

 受付の女は、にこやかに、

「ああ、それは、これから包へ向かわれる方のため、特に初めて行かれる方のために、注意事項などをお伝えするものです。午後一時過ぎから、このロビーで催される予定になっています」

 と答えた。

「ああそう、有難ありがとう」

 午後一時過ぎからならば、時間はたっぷりある。雅也は招牌しょうはいの示す通り、二階へ上がる階段をのぼってレストランに向かった。

 客の姿こそ未だ疎らだったものの、店舗は既に営業していた。ショウ・ケースの中にはサンプル品が並んでいるが、鮨や蕎麦そばからビーフ・シチューやら果てはタコスまで並んでいて、雅也は少々呆れた。

 が、「本日の特別メニュー」とプレートの付いたサンプルを見たら、俄然がぜん食慾しょくよくが湧いて来た。

 特別メニューは鵞鳥がちょうの蒸し焼きだった。

 雅也は迷うことなく、ずい、と店に入った。

 ウェイターがうやうやしく出迎え、空いた店内を案内して、窓際の席をすすめた。ウェイターは椅子を引き、雅也は腰掛けながら、

「と、特別料理を」

 と命じた。ウェイターはにっこりして、はい、かしこまりました、と答えた。

麺麭パンとライスをえらべますが、孰方どちらに致しますか?」

「ワインとビール、孰方どちらに致しましょう?」

「デザートは食後にお持ちしますか、それともご一緒で?」

 註文ちゅうもんを取ると、ウェイターは一旦下がり、それから直ぐ、食前酒だと云って小さなグラスを持って来た。

 何かのリキュールだろう、と思って口を付けると、シュナップスだった。

 ――此奴こいつは効きそうだぞ。

 雅也は愉快になって来た。

 やがて、前菜ぜんさいのハムを載せたメロンに続いて、メイン・ディッシュの鵞鳥がちょうも運ばれて来た。赤ワインのボトルと一緒だ。雅也は此処ここでひとつ大いに醺々くんくんとなっておくことにした。酔いを発すれば詩囊しのうも自ずと豊かになって来る、と云うものだ。

 雅也は麺麭パンも絶品の骨董ごったスープもお代わりし、満腹するまで食べた。その上に酒を呑んだので、雅也は我知らず寝入ってしまった。


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