B.
二人は「ドミール緑が丘」から徒歩で数分のところにある、「びっくりドンキー」で夕食を取った。雅也が肉を食べたいと言った為だ。
「北海道に行くんですもの、肉くらい好きなだけ食べられるでしょ」
由美子は言ったのだが、雅也は肩を
「どうだか」と言った。「何だか、
そうして、チーズのかかったハンバーグ・ステーキにナイフを入れ、グレイヴィの
「切符、早めに手配した方が良くないの?」
「なんの。今日は月曜だろ、そんなに混んでなんかいやしないさ」
「でも、
「その場合は、最終の新青森行きの新幹線に乗るよ。青森で一泊して、一番列車で道内に入る。――
「もし会ったら、何て言うつもりなの?」
「そうだね。先ず、逃げ出した
「頼む、って…、竹生健があんたの
「ううん。まあ、その辺は良く
「判ってる。
「それからさ」と人参を口へ運び、「さっききみが言っていたことだけど」
「なあに?」
「向こうへ行って、幸福にはならない、って話だけど。あれ、どういう意味?」
「ああ、あれ? あれはね、要するに、ほらよく聞く話じゃない、某さんと某さんとはハワイで――、ハワイじゃなくても良いわ、マダガスカルでも何処でも、
「へええ」雅也は眼を丸くした。「別に、恋愛規制条例みたいのがある訳でもないんだろ?」
「勿論。…その代わり、不幸な目を見るひともいないみたいね」
「ええっ?」思わず雅也は肉片を刺したフォークを皿に置いた。「それ、ど、どういうこと?」
「
「一体どうして?」
「うん、その辺は未だよく解明されてはいないらしいんだけど、人間のホルモンや神経伝達物質に作用する、未解明の化学物質がその辺に
「ふうん。未知の化学物質ね。化学ならぼくの専門だ。特に生化学辺りはね。面白そうだな」
「それで、そういう詳しいことはあたしには判らないけど、
「へええ。じゃあ天国みたいな所じゃないか」
言ってから雅也は、小説家の癖に月並みな表現をしたものだ、と自分を情けなく思ったが、そうだ、小説家だったのは竹生健の方なのだ、と思い直した。
――併しそうなると、ぼくという存在は一体何になるんだろう?
「そろそろ出ましょう。遅れるわ」
由美子が言った。雅也も同意して、残ったベイクト・ポテトを口に運んだ。
八王子駅からは、折良く特急「かいじ」がつかまった。新宿駅からは山手線に乗り換え、上野駅に着いたのは午後六時半、「北斗星」号出発時刻の半時間前である。
二人は直ぐさま「みどりの窓口」に向かった。予想通り混んでいたが、列に並んで五分ほど経つと順番が回って来たので、脇のデスクで由美子が埋めておいて渡してくれた予約希望票を手に、雅也はカウンターに向かった。票には、第一希望として「北斗星」号のB寝台一人用個室が挙げてある。それが駄目ならば、普通のB寝台、次にA寝台、列車自体に空きがなければ最終の新青森行き新幹線、とした。
雅也の第一希望は叶った。B寝台の個室――九号車下三番だった。
係員は金を数えて釣り銭と一緒に乗車券、特急券などを
「発車まであと十分くらいだから急いで。十三番線だから、すぐそこ」
と
由美子は入場券を買い、三つのバッグに詰まった荷物を抱えてふらつき気味に歩く雅也の後からプラットフォームに入った。無論、列車は既に入線している。
由美子は車室の中まで
「この列車で、竹生健と出会える可能性は低そうね」
由美子は言った。重い荷物を下ろして額に
「ああ。まず、ないだろうね。先行している
と答える。
「何時間くらい遅れているの?」
雅也は時刻表を取り出した。
「札幌着の時点で、一時間四十五分の遅れだ。――でも、『サロベツ』の時間があるから、追い付けると思うんだ」
「一緒の特急に乗れる、っていう意味?」
「まあ、そんな所だ。――そう簡単に行くとは思えないんだけど」
雅也は、そろそろ出発だ、と言ってデッキに出た。由美子も車外に出てプラットフォームに立った。
「じゃあ」と雅也は
由美子も平静な表情で、
「気を付けてね」
と出勤するサラリーマンに
「途中、無理だったら別に連絡してくれなくても良いから」
「便りがないのが元気な証拠、という訳か」
雅也は思わず苦笑した。発車ベルが鳴り、由美子は
列車が動き出すと、由美子の姿は遠ざかって行ったので、雅也もデッキを離れて個室に戻った。
取り敢えずアーム・レストを出して寝台の片隅、窓辺に座る恰好を取った。エイフェックス・ツインを聴いてみたが、気乗りがせずイヤープラグは直ぐに外した。
果たしてこんな行動を取って正しかったのだろうか、
――竹生健が包へ向かった、と云う確証はない。ただ、そう示唆しただけだ。
全く以てその通り。
――それに、今も書き下ろしの作品を書き掛けではないか。
理屈としては、通っている。
――自分の筆名が逃げたからと云って、書けなくなるようなことが起こり得るだろうか?
それに関しては何とも云えない。が、自分が何を
――ここ二た月ほどの間で、月旦に上るような作品が一つ出ているから今は良いものの、これから旅が長期化したら、お前や由美子の生活はどうなる?
それに
併しねえあんた、と雅也は自答する。竹生健が包へ向かったというのはほぼ間違いのないことなんだよ。あの、
雅也は懐からウヰスキーのポケット瓶を出して少しずつ呑んだ。少し胃の
と、雅也は夢を見た。
雅也は洞窟の中にいた。鍾乳洞のような岩穴――雅也の周囲だけ
雅也はそこ、
「いやあ、これはどうも…」
といったような挨拶をどもどもと口の中で呟いた。が、少女は超然たる態度でおり、雅也の存在なぞ
「聖ウルスラ学院の女の子に手紙を書いて下さい」
と雅也には丸で
雅也は、思わず立ち上がって中腰になり、宙で手を泳がせ、
「ああ、あのう、
と言葉にならぬ文句をその背に向かって発するのだが、少女は迷いのない足取りで水に入る。そして、頭髪が水没した、と思ったら、途端に少女は姿を変じた――少女だとばかり思っていたものは、
巨魚は、水面に
――雅也がそんな夢から醒めると、列車は静かに何処かの駅に停まっていた。
寝台の上に起き直った雅也は、手始めに空腹を感じた。そうだ、駅に停まっているなら駅弁でも買って来よう、と思い付き、財布を探ろうとしてコートのポケットに手を突っ込んだ所で鋭く汽笛が鳴り、列車は動き出してしまった。
困ったな、車内販売もないみたいだし、と思うと急に空腹が気になりだした。
この列車には食堂車が連結されていることに
――
食堂車は予約制ではなかったか? と思いつつ、未だ眠気を帯びた眼をして自分のコンパートメントを出た。
と、通路に出ようとしたところで、歩いて来た別の乗客と鉢合わせした。
「しっ、失礼」
雅也は
「あらっ」
と声を
雅也にはこれ
が、その考えは間違っていた。
女は最初の「あらっ」の後、声を発さずに通路に立ち止まったのだが、雅也が自分の顔を知ろうが知らなかろうが
「済みません、食堂車は何号車でしたっけ?」
と問うと、静かな口調で、
「食堂車は七号車ですよ」
とのみ答えたのだった。
「
「いいえ、午後九時からは予約無しで食事できるみたいですよ」
「ああ、そう」雅也はほっとした。「
すると、女は、
「あのう」と云った。「あたしも、これから何か軽く食べようと思っているんですけど、
雅也は、これは矢張り読者かも知れないな、と思って暫し
「――ええ、ぼくの方では、別に構いませんが。…と、申し遅れましたが、ぼくは佐竹と申します」
と自己紹介した。女は――雅也の見た所では三十代半ばといった所だった――にっこりして、
「あたしは石原と申します。占いの仕事をしています」
と答えた。
二人は穏やかに揺れる列車の中を移動した。八号車はA寝台の二人用個室が並ぶ。その二十メートルを歩いて次の車輌が食堂車だった。
席は半ば埋まっていたが、都合良く北側の四人席を取ることが叶った。二人はチーズの盛り合わせにピッツァ・マルガリータ、フィッシュ・アンド・チップスを
「あたしは、フル・ネームは石原はるゑと申しまして、最前も申しました通り占いで
「へえ。占い師ですか。じゃあ、水晶玉でも使うんですか?」
半ば
「使うひともいますけど、あたしはしません。西洋占星術――例のホロスコープを作ったりするのと、後は霊視もできます。…本当のところを云うと、あたしは生まれ付き霊媒体質で、霊視の方からこの稼業に入って来たんですけどね。……佐竹さんは、どういうお仕事をなさっておいでですか?」
と問い返して来た。雅也は返答に
「――その…、し、小説を、書いて、いました」
と答えたのだが、はるゑはその答えに、我が意を得たり、と云う表情で
「今、お仕事の方で、何か良くないことが起こっている様ですね?」
雅也は眼を丸くした。
「ええ。どうしてお判りになるんです?」
はるゑは仕方なさそうに苦笑いして、
「だって、顔に書いてあるんですもの。と言うと、何だか
「ははあ」雅也は脇の下に
はるゑの方は涼しい顔でピッツァを一切れ取ると頬張った。雅也は、
「――ぼくは、昨日までは小説家だった、らしいのですが、今はどうやら違うらしい」
「具体的には、どんな問題が起こったのですか?」
雅也は二杯目のブランデーを
「実はですね、ぼくのペン・ネームが、いなくなってしまったのです」
と言った。するとはるゑは眼を
「今はそれを…ペン・ネームを追い掛けていらっしゃる」
「そうなんです。何でも
「へえ。
「はい。
「ペン・ネームがなければ、佐竹さんはお困りですね?」
「はあ、それはもう。――今の所、定期連載は抱えていないのですが、PCに残されているファイルを開いても、
「ああ」はるゑは同情の
「ええ。…一体どうして
はるゑは再び眼を開け、酒を少し含み、
「あたしに言えるのは、あなたが何か――、あなたのペン・ネームが
「いいえ。そんなことはしていませんけれども」
「何か、あなたの最近書いたもので、ペン・ネーム――失礼ですが、何というお名前ですか?」
「ああ、申し遅れました、
「
そう言うと、はるゑはハンドバッグからトランプ大のカードを一と組出した。かなり使い古されたもので、端が
「ライダー・カードです。一寸、タロットで占ってみましょう」
そう言うと、
「好きな回数だけ、カードを切って下さい」
と指示した。雅也がそうすると、重ねたカードを
「これの
と問うた。雅也は南側になった端を示した。はるゑはカードの山を取り、数枚取って裏側に伏せて卓上に置き、
はるゑはそれを見て、
「…そうね、転機が来ている。再会か別れ、か」と
と訊いた。
「ふうん。最近、ねえ」
「兎に角、そういう作品がなかったかどうか、一旦ご自分のお心の中をご覧になって、整理なさって見るといいと思いますよ」
「はあ。では、そうして見ます」
「それから」とはるゑは右手の
雅也は
「…と、云うことは、ぼくのペン・ネームには、賞味期限、と云うか…、寿命がある、と云うことですか?」
はるゑは
「そ、それは、何年くらいでしょう?」
と問うた。はるゑは真顔で、
「そうですね、長くても三ヶ月、といった所ではないでしょうか」
「そんなに短いっ?」
「ええ」
「…それで、
すると、はるゑは
「それは、ご想像なさるしかありませんわ」
と答えた。雅也は、即座に口に
「例えば、
と問うた。はるゑは、
「まあ、ご想像になられれば
とだけ、
雅也が更に
「あのう、ラスト・オーダーのお時間なのですが」
と
「会計お願いします。…ここはぼくが持ちますよ。今夜はどうも
と言った。すると、はるゑはバッグから
「これは?」
「パワー・ストーンです。灰色のはラブラドライト、黒いのはオニキスと云います。お守りにお使い下さい」
「ふうん、パワー・ストーンねえ。…
そう言って、ハンカチで額に
二人は九号車の雅也のコンパートメントの前で別れた。
「今夜はどうも
雅也は
「どうもご
と静かに言い置いて、石原はるゑは去って行った。
雅也は個室のベッドに横になったが、神経が
――ぼくも、ぼくのペン・ネームも死に
まさか、と云う気もあったが、こういう受動的なシチュエーションで
――ぼくのペン・ネームが
雅也は
その頭の中で、雅也は幾つか
すると、「近未来型小説」という文芸誌に頼まれて書いた、四百字詰原稿用紙にして七枚ほどの
タイトルは「さいごの授業」、著者はむろん竹生健名義である。それはこんな小説だった。
鐘が鳴った。五時限目の授業は、三十五人の中学二年生にとっては本日最後の授業であり、また二年生の三学期の終了を告げるものでもあった。
そして、音楽科担当のヤマダ先生にとっても特別な意味のあるものだった。
教壇の先生は、静かに本を閉じてから言った。
「さて、みなさん」
教室内にしじまが拡がる。
「みなさんは、今日を以て中学二年の課程を終えられるわけですが、ご
「お別れは確かに辛いものですが、しかし一方では、
ヤマダ先生の
「…最後に、来学期からみなさんがお世話になる先生がおいでになっていますから、ひと言ご
すると、
「みなさん初めまして。ぼくはナカヤマと申します。現在、国分寺音楽大学の大学院に、博士前期課程の二年生として…」
ナカヤマ先生の話を横で聞き
(まったく、こんなやくざ者が音楽教師になるなど、世も末とはこの
しかしナカヤマ先生は、
ヤマダ先生は
「ナカヤマ先生、ありがとう。ご
「みなさん。私から、最後に一つだけ述べさせて下さい。
「音楽というものは、私たちの体内を流れる、温かい
ヤマダ先生は
「元気で。どうもありがとう」
生徒らは去った。
ヤマダ先生は、ナカヤマ先生を連れて音楽科教員室へ
「ナカヤマ君。私はね、もう三十五年も教師をしてきた」
老教師は、二つのカップに
「
ヤマダ先生は首を少し
ナカヤマ先生は外見に
「こんな時代に音楽教師の道を
だが、そんな言葉も口から出ると、
ヤマダ先生が
「先生、今日のニュースは、ご覧になりましたか?」
「どのニュースだね?」
「近年、子供たちの脳の
「うむ」
老教師は、
「私などは
ナカヤマ青年は
「ぼくの指導教授に
「感情か。
と、先生は
「一体どうして、こんな事になってしまったのかね?」
「さあ…。機械文明の発達に
生徒たちの学業成績をみる限りでは、
「ナカヤマ君や、きみは今回の
青年は無言で首を振った。
「ぼく、実は時どき、バンドでライヴ・ハウスに出るんです。でも、近頃は、
ただ一点を除いては…。
巻き毛のバッハも、例の恐い顔のベートーヴェンも、古い
視線を右へ転じると、キッスのジーン・シモンズが長い舌を
連中は油絵になっても、元気いっぱいのようだ。
ヤマダ先生は思わず眉を
それから
雅也は全文を読み終えると、小首を
この作品は、元々予定していた作家が急病だか急用だかで書けなくなり、その「代打」として急いで書き上げたものだった。と、そこ
だが、これは他の作品と比べて、明らかに
――一体、
雅也は煙草を吸わぬ。
――何かが違った。
それは
その時、雅也は自分の
そうそう、由美子に
腕時計はそろそろ午前に変わろうとしている。が、
雅也は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます