B.

 二人は「ドミール緑が丘」から徒歩で数分のところにある、「びっくりドンキー」で夕食を取った。雅也が肉を食べたいと言った為だ。

「北海道に行くんですもの、肉くらい好きなだけ食べられるでしょ」

 由美子は言ったのだが、雅也は肩をすくめて、

「どうだか」と言った。「何だか、理知的りちてきに予想できるような旅にはならない気がするんでね」

 そうして、チーズのかかったハンバーグ・ステーキにナイフを入れ、グレイヴィのしたたる肉片を口へ運んだ。由美子は余り食慾しょくよくかないのだと言って、メロン・クリーム・ソーダをすすっていた。

「切符、早めに手配した方が良くないの?」

「なんの。今日は月曜だろ、そんなに混んでなんかいやしないさ」

「でも、しも、ってこともあるでしょ。万一乗り損ねたら、どうするの?」

「その場合は、最終の新青森行きの新幹線に乗るよ。青森で一泊して、一番列車で道内に入る。――いや、それならいっそのこと、明日羽田を発つ便で稚内空港まで行った方が早いかもな」

「もし会ったら、何て言うつもりなの?」

「そうだね。先ず、逃げ出した訳合わけあいをよく聞いてさ。たけなら、包には行かないでくれ、と頼むしかないな」

「頼む、って…、竹生健があんたのもとを離れたのは、屹度きっと何か不平不満があったからに違いないわよ。そうでなきゃ、あんなメールを残しておく訳がないでしょ?」

「ううん。まあ、その辺は良くただしてみるさ。――エディタさんや篇輯へんしゅうさんには、うまく何とか言っておいてくれよ」

「判ってる。まかしておいて。そういうことは、あたし上手いんだから」

「それからさ」と人参を口へ運び、「さっききみが言っていたことだけど」

「なあに?」

「向こうへ行って、幸福にはならない、って話だけど。あれ、どういう意味?」

「ああ、あれ? あれはね、要するに、ほらよく聞く話じゃない、某さんと某さんとはハワイで――、ハワイじゃなくても良いわ、マダガスカルでも何処でも、かく旅行先で出逢であって、ロマンスを経験して、結ばれました、って云うお伽噺とぎばなしみたいなもの。そういうことは、包では起きない、ってこと」

「へええ」雅也は眼を丸くした。「別に、恋愛規制条例みたいのがある訳でもないんだろ?」

「勿論。…その代わり、不幸な目を見るひともいないみたいね」

「ええっ?」思わず雅也は肉片を刺したフォークを皿に置いた。「それ、ど、どういうこと?」

まり、強盗にったり、置き引きに遭ったり、そういうことが発生する件数が非常に少ない、皆無かいむに等しい、ってことなんだけど。――いえね、あたしもひとから聞いた話だから、聞きかじりなんだけどね」

「一体どうして?」

「うん、その辺は未だよく解明されてはいないらしいんだけど、人間のホルモンや神経伝達物質に作用する、未解明の化学物質がその辺に瀰漫びまんしているからだ、ってことらしいの」

「ふうん。未知の化学物質ね。化学ならぼくの専門だ。特に生化学辺りはね。面白そうだな」

「それで、そういう詳しいことはあたしには判らないけど、かく包のある地域で特産される植物の所為せいだろう、って言われているみたいよ。その為に、全ての人間が持っている、他人や他人の金品を自分の意志のままにどうこうしたい、という慾望よくぼうが薄れるらしいんですって。あと、強い性慾せいよくもね」

「へええ。じゃあ天国みたいな所じゃないか」

 言ってから雅也は、小説家の癖に月並みな表現をしたものだ、と自分を情けなく思ったが、そうだ、小説家だったのは竹生健の方なのだ、と思い直した。

 ――併しそうなると、ぼくという存在は一体何になるんだろう?

「そろそろ出ましょう。遅れるわ」

 由美子が言った。雅也も同意して、残ったベイクト・ポテトを口に運んだ。

 八王子駅からは、折良く特急「かいじ」がつかまった。新宿駅からは山手線に乗り換え、上野駅に着いたのは午後六時半、「北斗星」号出発時刻の半時間前である。

 二人は直ぐさま「みどりの窓口」に向かった。予想通り混んでいたが、列に並んで五分ほど経つと順番が回って来たので、脇のデスクで由美子が埋めておいて渡してくれた予約希望票を手に、雅也はカウンターに向かった。票には、第一希望として「北斗星」号のB寝台一人用個室が挙げてある。それが駄目ならば、普通のB寝台、次にA寝台、列車自体に空きがなければ最終の新青森行き新幹線、とした。

 雅也の第一希望は叶った。B寝台の個室――九号車下三番だった。

 係員は金を数えて釣り銭と一緒に乗車券、特急券などを寄越よこすと、

「発車まであと十分くらいだから急いで。十三番線だから、すぐそこ」

 と打切棒ぶっきらぼうに言った。

 由美子は入場券を買い、三つのバッグに詰まった荷物を抱えてふらつき気味に歩く雅也の後からプラットフォームに入った。無論、列車は既に入線している。

 由美子は車室の中まで這入はいって来て、雅也がこれから一夜を過ごす個室の中を分別くさくじろじろと見廻した。個室の中は、雅也の荷物を並べれば、後は寝台の上で横になるスペースが残る程度の広さだった。

「この列車で、竹生健と出会える可能性は低そうね」

 由美子は言った。重い荷物を下ろして額ににじんだ汗をぬぐった雅也は、やや息を荒くして、

「ああ。まず、ないだろうね。先行しているはずだよ」

 と答える。

「何時間くらい遅れているの?」

 雅也は時刻表を取り出した。

「札幌着の時点で、一時間四十五分の遅れだ。――でも、『サロベツ』の時間があるから、追い付けると思うんだ」

「一緒の特急に乗れる、っていう意味?」

「まあ、そんな所だ。――そう簡単に行くとは思えないんだけど」

 雅也は、そろそろ出発だ、と言ってデッキに出た。由美子も車外に出てプラットフォームに立った。

「じゃあ」と雅也は曖昧あいまいな微笑をうかべて、「元気で。行って来ます」

 由美子も平静な表情で、

「気を付けてね」

 と出勤するサラリーマンに挨拶あいさつする妻のような言葉を掛けた。

「途中、無理だったら別に連絡してくれなくても良いから」

「便りがないのが元気な証拠、という訳か」

 雅也は思わず苦笑した。発車ベルが鳴り、由美子はわずかに車輌から離れ、無言で手を振った。雅也も苦笑いをうかべたままの表情で手を振り返した。空気の漏れる音がして、ドアが閉まった。

 列車が動き出すと、由美子の姿は遠ざかって行ったので、雅也もデッキを離れて個室に戻った。

 取り敢えずアーム・レストを出して寝台の片隅、窓辺に座る恰好を取った。エイフェックス・ツインを聴いてみたが、気乗りがせずイヤープラグは直ぐに外した。

 果たしてこんな行動を取って正しかったのだろうか、早計そうけいに過ぎたのではあるまいか、という考えが萌したのは、列車がポイントを幾つかゆったりしたペースで通過して、愈々いよいよ本格的に速度を上げて行くころのことだった。

 ――竹生健が包へ向かった、と云う確証はない。ただ、そう示唆しただけだ。

 全く以てその通り。

 ――それに、今も書き下ろしの作品を書き掛けではないか。いやしくもぼくは小説家――であるらしい。書き継ぐべきだったのではないか?

 理屈としては、通っている。

 ――自分の筆名が逃げたからと云って、書けなくなるようなことが起こり得るだろうか?

 それに関しては何とも云えない。が、自分が何を方便たずきとして生きている人間なのか、ほんの一時にせよ判らなくなっていたのは確かだ。

 ――ここ二た月ほどの間で、月旦に上るような作品が一つ出ているから今は良いものの、これから旅が長期化したら、お前や由美子の生活はどうなる? 屹度きっと一頓挫いちとんざきたすぞ。

 それにいては何とも云えない。

 併しねえあんた、と雅也は自答する。竹生健が包へ向かったというのはほぼ間違いのないことなんだよ。あの、玉青丹ぎょくせいたんとか云う香がどんな作用をもたらすのかはかくとして、竹生健が傍にいなければ一行だって書けやしないのも自明のことだ。今は闇雲になっても仕方がないから、手探りででもあの「男」の行方を探る他なかろうに。あんたは岡目八目おかめはちもくと云うのかも知れないが、それを見て、正しい答えもくれずにかたわらからやいのやいの言うのはどうかと思うぞ。

 雅也は懐からウヰスキーのポケット瓶を出して少しずつ呑んだ。少し胃のが温かくなると、昼間の疲れもあって眠気を催した。丁度良く車掌が検札に来たので、それをしおにアーム・レストを戻し、しばらくの積もりでベッドに横臥おうがした。

 と、雅也は夢を見た。


 雅也は洞窟の中にいた。鍾乳洞のような岩穴――雅也の周囲だけ茫乎ぼうことした光に包まれているのだが、太く長い石筍せきじゅんが何本も見えた。そこは洞穴のようになっていて、広々とした闇の空間が感じ取れた。地底湖でもあるのか、断続的に水の流れる音がする。

 雅也はそこ、みぎわに腰掛けていた。丁度石級せっきゅうのような段々が岩の上に彫り刻まれており、その上に腰掛けていたのだった。――そして、雅也は独りではなかった。ふと見ると、雅也の右隣には、二十歳くらいの年恰好の若い女性がいたのだ。雅也はその少女の存在に気付くと、年甲斐もなくどぎまぎして、

「いやあ、これはどうも…」

 といったような挨拶をどもどもと口の中で呟いた。が、少女は超然たる態度でおり、雅也の存在なぞはなから意に介せず、といった感じですっくりと立ち上がると、初めて雅也の方を向き、透徹とうてつせる視線を向けたかと思うと、

「聖ウルスラ学院の女の子に手紙を書いて下さい」

 と雅也には丸で風馬牛ふうばぎゅうなことを切り口上で述べると、その儘石段を下りて水に入ってしまった。

 雅也は、思わず立ち上がって中腰になり、宙で手を泳がせ、

「ああ、あのう、一寸ちょっと…」

 と言葉にならぬ文句をその背に向かって発するのだが、少女は迷いのない足取りで水に入る。そして、頭髪が水没した、と思ったら、途端に少女は姿を変じた――少女だとばかり思っていたものは、鯤身こんしんたる体躯たいくの魚であった。

 巨魚は、水面に背鰭せびれを出して二回、三回と廻遊かいゆうしていたが、やがて深みに入って行ってしまった。

 

 ――雅也がそんな夢から醒めると、列車は静かに何処かの駅に停まっていた。よだれを拭いながら駅名票を見ると、郡山だった。腕時計は午後十時前である。頭痛はない。

 寝台の上に起き直った雅也は、手始めに空腹を感じた。そうだ、駅に停まっているなら駅弁でも買って来よう、と思い付き、財布を探ろうとしてコートのポケットに手を突っ込んだ所で鋭く汽笛が鳴り、列車は動き出してしまった。

 困ったな、車内販売もないみたいだし、と思うと急に空腹が気になりだした。

 この列車には食堂車が連結されていることにようやく思い当たったのはその時である。

 たしか、発車時の車掌のアナウンスで言っていたが、七号車だか八号車だかに食堂があるはずだった。

 ――いや、待てよ。

 食堂車は予約制ではなかったか? と思いつつ、未だ眠気を帯びた眼をして自分のコンパートメントを出た。

 と、通路に出ようとしたところで、歩いて来た別の乗客と鉢合わせした。

「しっ、失礼」

 雅也は咄嗟とっさに未知の相手に対する挨拶あいさつを口にしていたが、その人物――女性だった――は、一目見るなり、

「あらっ」

 と声をげた。

 雅也にはこれまで小説家という恒産こうさんがあった――らしい――のだが、マスコミは嫌って、TVやラジオへの出演はかたくなに拒み、雑誌や新聞へ寄稿きこうすることさえ滅多になかった。私的な繋がりのある記者に頼み込まれて、詮方無せんかたなしに一度か二度新聞にコラムを書いたことがある程度だ。著書へも、顔写真の掲載はたけ控えるように、との方針を貫いて来た積もりだった。これまで公共の交通機関を利用しても、滅多に「佐竹雅也=竹生健」と同定されることがなく、マスク無しで済んで来たのはそのお陰である。実際、過去に電車の中で自著にサインを求められたことは一度しかなかった。

 しかながら、雅也――と云うよりは竹生健――は今日、そのきんおかして真っ昼間に全国放送のラジオとTVに出てしまった。雅也がその瞬息しゅんそく真っ先に考えたことは、これは「めんれて」しまったかな、と云う危懼きくの念であった。

 が、その考えは間違っていた。

 女は最初の「あらっ」の後、声を発さずに通路に立ち止まったのだが、雅也が自分の顔を知ろうが知らなかろうが孰方どちらでも構わないや、と開き直って、

「済みません、食堂車は何号車でしたっけ?」

 と問うと、静かな口調で、

「食堂車は七号車ですよ」

 とのみ答えたのだった。

たしか…、予約が必要でしたね?」

「いいえ、午後九時からは予約無しで食事できるみたいですよ」

「ああ、そう」雅也はほっとした。「有難ありがとうございます」

 すると、女は、

「あのう」と云った。「あたしも、これから何か軽く食べようと思っているんですけど、しお邪魔でなければご一緒しませんか?」

 雅也は、これは矢張り読者かも知れないな、と思って暫し逡巡しゅんじゅんしたが、

「――ええ、ぼくの方では、別に構いませんが。…と、申し遅れましたが、ぼくは佐竹と申します」

 と自己紹介した。女は――雅也の見た所では三十代半ばといった所だった――にっこりして、

「あたしは石原と申します。占いの仕事をしています」

 と答えた。

 二人は穏やかに揺れる列車の中を移動した。八号車はA寝台の二人用個室が並ぶ。その二十メートルを歩いて次の車輌が食堂車だった。

 席は半ば埋まっていたが、都合良く北側の四人席を取ることが叶った。二人はチーズの盛り合わせにピッツァ・マルガリータ、フィッシュ・アンド・チップスを註文ちゅうもんした。雅也はブランデー、石原と云う女性はジン・トニックを呑むことにした。

 あつらえたものが運ばれて来るまでの間をどのように埋めようか、雅也はいささか悩んだのだけど、それは石原が解決してくれた。

「あたしは、フル・ネームは石原はるゑと申しまして、最前も申しました通り占いで活計かっけいを立てています。実のところ、今回も北海道の方から仕事の依頼を受けたので、今夜は其方へ向かう途中なのです」

「へえ。占い師ですか。じゃあ、水晶玉でも使うんですか?」

 半ば調戯からかい気味に雅也が問うと、はるゑは真顔で、

「使うひともいますけど、あたしはしません。西洋占星術――例のホロスコープを作ったりするのと、後は霊視もできます。…本当のところを云うと、あたしは生まれ付き霊媒体質で、霊視の方からこの稼業に入って来たんですけどね。……佐竹さんは、どういうお仕事をなさっておいでですか?」

 と問い返して来た。雅也は返答にきゅうし、

「――その…、し、小説を、書いて、いました」

 と答えたのだが、はるゑはその答えに、我が意を得たり、と云う表情で点頭てんとうした。

「今、お仕事の方で、何か良くないことが起こっている様ですね?」

 雅也は眼を丸くした。一驚いっきょうきっしたのであるが、それより好奇こうきねんの方がまさった。

「ええ。どうしてお判りになるんです?」

 はるゑは仕方なさそうに苦笑いして、

「だって、顔に書いてあるんですもの。と言うと、何だか調戯からかわれたように思うひとが多いみたいですけど、一目見れば判ります」

「ははあ」雅也は脇の下にあせく思いだった。「そういうものですか」

 はるゑの方は涼しい顔でピッツァを一切れ取ると頬張った。雅也は、

「――ぼくは、昨日までは小説家だった、らしいのですが、今はどうやら違うらしい」

 やや俯伏ふふくして卓子テーブルに向かって呟くように言った。

「具体的には、どんな問題が起こったのですか?」

 雅也は二杯目のブランデーを註文ちゅうもんしてから、

「実はですね、ぼくのペン・ネームが、いなくなってしまったのです」

 と言った。するとはるゑは眼をつむって、

「今はそれを…ペン・ネームを追い掛けていらっしゃる」

「そうなんです。何でも彼奴あいつは、中国の南のパオへ向かっているらしくて」

「へえ。パオへ。何か特別な用事でも?」

「はい。玉青丹ぎょくせいたんというお香を求めに行く、とのこしてありました」

「ペン・ネームがなければ、佐竹さんはお困りですね?」

「はあ、それはもう。――今の所、定期連載は抱えていないのですが、PCに残されているファイルを開いても、詞藻しそうが湧かない、というか、一体ぼくはどうしてこんなものを此処ここまで書いて、これから一体どうする積もりだったのか、どうして展開していくものだったのか、さっぱりわからないのです」

「ああ」はるゑは同情のこもった声を出した。「それは重症ですね」

「ええ。…一体どうして彼奴あいつは急にいなくなっちまったのか、理由がわからないんですよ」

 はるゑは再び眼を開け、酒を少し含み、やや時間を置いてから、

「あたしに言えるのは、あなたが何か――、あなたのペン・ネームがいやがるようなことをなさったとか」

「いいえ。そんなことはしていませんけれども」

「何か、あなたの最近書いたもので、ペン・ネーム――失礼ですが、何というお名前ですか?」

「ああ、申し遅れました、竹生健たけふけん、と申します」

竹生たけふさんですか」

そう言うと、はるゑはハンドバッグからトランプ大のカードを一と組出した。かなり使い古されたもので、端がれている。

「ライダー・カードです。一寸、タロットで占ってみましょう」

 そう言うと、卓子たくしの上の空いたスペースにカードを拡げて混ぜるとた一組にまとめ、手練てなれた仕草しぐさでシャッフルした。それから、雅也にカードを渡して、

「好きな回数だけ、カードを切って下さい」

 と指示した。雅也がそうすると、重ねたカードを卓子テーブルに置き、

「これの孰方どちらが上ですか?」

 と問うた。雅也は南側になった端を示した。はるゑはカードの山を取り、数枚取って裏側に伏せて卓上に置き、た数枚取って今度は表を出した。どのカードにも、何かよくわからぬ絵が描かれてある。

 はるゑはそれを見て、

「…そうね、転機が来ている。再会か別れ、か」とつぶやくと、「最近書かれたもので、その竹生たけふさんの良心りょうしんもとるようなものがあったとか」

 と訊いた。

「ふうん。最近、ねえ」

「兎に角、そういう作品がなかったかどうか、一旦ご自分のお心の中をご覧になって、整理なさって見るといいと思いますよ」

「はあ。では、そうして見ます」

「それから」とはるゑは右手の食指しょくしを一本立てた。「ことは急を要します。うかうか手をこまぬいていると、取り返しのつかないことになるようですから、重々ご注意なさい」

 雅也はた背筋に冷たいものを感じた。

「…と、云うことは、ぼくのペン・ネームには、賞味期限、と云うか…、寿命がある、と云うことですか?」

 はるゑはもだしたまま無言でうなずいた。雅也は、

「そ、それは、何年くらいでしょう?」

 と問うた。はるゑは真顔で、

「そうですね、長くても三ヶ月、といった所ではないでしょうか」

「そんなに短いっ?」

「ええ」

「…それで、し、それまでに彼奴あいつ出逢であえなかったり、喧嘩けんかわかれしたような場合には、どうなります?」

 すると、はるゑは口辺こうへんごくかすかなみをうかべて、

「それは、ご想像なさるしかありませんわ」

 と答えた。雅也は、即座に口にのぼった通り、

「例えば、癈人はいじんになるとかっ!?」

 と問うた。はるゑは、

「まあ、ご想像になられればわかるでしょう」

 とだけ、相変あいかわらず曖昧あいまいな語調で答える。

 雅也が更につのろうとしたその時、ウェイトレスが来て、

「あのう、ラスト・オーダーのお時間なのですが」

 とずと話し掛けて来た。雅也が石原はるゑを見ると、はるゑは嫣然えんぜんとした表情を保ち、もだして首を振った。雅也は上着のかくしからハンカチを出すついでに尻ポケットから財布を出し、

「会計お願いします。…ここはぼくが持ちますよ。今夜はどうも有難ありがとうございました」

 と言った。すると、はるゑはバッグから紺青ぐんじょうの名刺と共にてのひらるほどの石塊せっかいを二つ出して卓子たくしの上に並べた。一方は漆黒しっこくつやがあり、他方たほう無愛想ぶあいそうな灰色だった。

「これは?」

「パワー・ストーンです。灰色のはラブラドライト、黒いのはオニキスと云います。お守りにお使い下さい」

「ふうん、パワー・ストーンねえ。…いや有難ありがたく頂いておきます」

 そう言って、ハンカチで額ににじんだ脂汗あぶらあせぬぐい、それと一緒に石塊せっかいふところに入れた。ずしりとおもりがした。

 二人は九号車の雅也のコンパートメントの前で別れた。

「今夜はどうも有難ありがとうございました」

 雅也は衷心ちゅうしんから礼を述べた。もっともそれは、占いの内容に対して、と云うよりは、むしろ見ず知らずの人間に対してここまで親切にしてくれたことにいての礼であったが。

「どうもご馳走様ちそうさまでした。お休みなさい」

 と静かに言い置いて、石原はるゑは去って行った。

 雅也は個室のベッドに横になったが、神経が昂奮こうふんして奈何どうにも寝付けなかった。

 ――ぼくも、ぼくのペン・ネームも死にひんしている、と云うのか。

 まさか、と云う気もあったが、こういう受動的なシチュエーションで遭遇そうぐうした占い師の言うことを、雅也は疑う気にはなれなかった――もっとも、そもそも雅也も妻の由美子も占いは決して嫌いな方ではなく、平生へいぜい狎昵こうじつしている知己ちきの中にもその分野の仕事で仕事をしているじんが幾人かいたのだが。

 ――ぼくのペン・ネームがいやがるような仕事を、ぼくはしただろうか?

 雅也は輾転てんてんとして寝返りを打った。酔いの回った頭は妙に冴えて、眠れない。

 その頭の中で、雅也は幾つか近什きんじゅう列挙れっきょした。ここ三ヶ月程の間に仕上げた仕事を、脳裡のうりに思い浮かべてみたのである。

 すると、「近未来型小説」という文芸誌に頼まれて書いた、四百字詰原稿用紙にして七枚ほどの掌篇しょうへんが思い当たった。

 道中どうちゅう徒然つれづれに読もう、と思って雑誌はたし持参じさんしたはずだ。雅也はがば、と寝台の上で起き直り、荷物のポケットを探った。五、六分ほどあちこちまわした後、くだんの雑誌はっと見付かった。

 タイトルは「さいごの授業」、著者はむろん竹生健名義である。それはこんな小説だった。


 鐘が鳴った。五時限目の授業は、三十五人の中学二年生にとっては本日最後の授業であり、また二年生の三学期の終了を告げるものでもあった。

 そして、音楽科担当のヤマダ先生にとっても特別な意味のあるものだった。

 教壇の先生は、静かに本を閉じてから言った。

「さて、みなさん」

 教室内にしじまが拡がる。

「みなさんは、今日を以て中学二年の課程を終えられるわけですが、ご存知ぞんじの通り、私はこの授業を最後に学校を去ります。

「お別れは確かに辛いものですが、しかし一方では、丁度教育課程きょういくかていの大変革に当たるこの時期に停年ていねんを迎えるのもかえって運がいものなのかも知れません…」

 ヤマダ先生の別辞べつじ寂然せきぜんとした室内に静かに響き、平生へいぜいかまびすしいことこの上ない生徒らも、水を打ったように黙然もくねんとして傾聴けいちょうしている。

「…最後に、来学期からみなさんがお世話になる先生がおいでになっていますから、ひと言ご挨拶あいさつをいただきましょう」

 すると、最前さいぜんから教壇きょうだんわき腰掛こしかけていた若い男がすっくり立ち上がった。

「みなさん初めまして。ぼくはナカヤマと申します。現在、国分寺音楽大学の大学院に、博士前期課程の二年生として…」

 ナカヤマ先生の話を横で聞きながら、ヤマダ先生は内心で苦々しい思いであった。ナカヤマ先生は、短軀たんくのヤマダ先生が教壇きょうだんに立ってようやく肩を並べられるほどスマートだったが、染めこそ入ってはいないけれども肩まで届く長髪は、横に並ぶと一層いっそう目障めざわりなのだった。しかもその下からは、耳朶じだからぶら下げているらしい金色こんじきのピアスらしきものすらのぞいている。今日はさすがにスーツを身に着けてはいるが、普段は革のジャンパーでも着付きつけていそうな雰囲気なのである。

(まったく、こんなやくざ者が音楽教師になるなど、世も末とはこのことだ。情けない)

 しかしナカヤマ先生は、気難きむずかしい老先生も拍子抜ひょうしぬけする程の手堅てがたさで挨拶あいさつを終えた。

 ヤマダ先生は咳一咳がいいちがいした。

「ナカヤマ先生、ありがとう。ご着席ちゃくせきください。

「みなさん。私から、最後に一つだけ述べさせて下さい。

「音楽というものは、私たちの体内を流れる、温かい血潮ちしお息吹いぶきのようなものなのです。また、言葉を必要としない言語でもあるのです。私は、これまで二年間、それを伝えようと思って尽力じんりょくしてきたつもりです。どうか、このことは心のすみめておいて下さい。――では、新しい世代にバトン・タッチすべき時が来たようです」

 ヤマダ先生はやや汪然おうぜんとして教場を見廻みまわして、

「元気で。どうもありがとう」

 生徒らは去った。

 ヤマダ先生は、ナカヤマ先生を連れて音楽科教員室へげた。

「ナカヤマ君。私はね、もう三十五年も教師をしてきた」

 老教師は、二つのカップに珈琲コーヒーながら言った。

勿論もちろん色々いろいろな事があったよ。不良に殴られた事もあったし、若輩じゃくはいの同僚から老頭児ロートル呼ばわりされて、派手につかいを演じた事もある。――だがね、きみ。一番得心とくしんが行かないのは、特にここ数年来すうねんらいなのだが、私はまるで雲をつかむようにしか、自分の受け持つ生徒を理解する事ができないことなのだよ。これこそ世代の違いというものかもしれないが…」

 ヤマダ先生は首を少しかしげ、珈琲コーヒーすすった。この男には一体何を言ってやったら良いのだろうな、と考えた。判らなかった。

 ナカヤマ先生は外見に相違そういして、品位ひんいある落ち着いた青年であることがわかり、ヤマダ先生は自らを少しじた。

「こんな時代に音楽教師の道をえらぶのは感心だ。気を落とさずに、頑張がんばってくれたまえよ。きみたち若者に必要なのは、まず理想だ。現実を見るのも大切だが、まず理想をかかげなさいよ…」

 だが、そんな言葉も口から出ると、白々しらじらしくくう霧消むしょうするだけだった。

 ヤマダ先生がもだすと、うつむき加減だったナカヤマ先生が代わって口を開いた。

「先生、今日のニュースは、ご覧になりましたか?」

「どのニュースだね?」

「近年、子供たちの脳の前頭葉ぜんとうようが、年を追うごとに小さくなってきているという…」

「うむ」

 老教師は、暗然あんぜんとしてうなずいた。

「私などは解剖学かいぼうがくには全くの門外もんがいだもので、詳しくは聞かなかったが、なんでも医学界だけでなく、教育界にも波紋はもんが広がっているそうな…」

 ナカヤマ青年は一口珈琲コーヒーすすった。

「ぼくの指導教授にれば、ヒトの脳で最も大切なのが前頭葉ぜんとうよう白質はくしつだと云います。高度な精神活動せいしんかつどうのほとんどをつかさどるのだそうです。知的な活動のほか、感情や…」

「感情か。道理どうりで生徒たちがクラッシックやジャズの醍醐味だいごみはなけないはずだわい」

 と、先生は惻隠そくいんの深いいきいた。

「一体どうして、こんな事になってしまったのかね?」

「さあ…。機械文明の発達に反比例はんぴれいして退化が始まったのだ、と言う学者もあれば、ては、これは遺伝子プログラミングのためで、我われはこれからだんだん原始げんしへと漸近ぜんきん回帰かいきして行くのだ、という学説まで出ていますが…」

 生徒たちの学業成績をみる限りでは、だこの影響は顕著けんちょなものではなかったが、国語科を含め所謂いわゆる芸術科では、生徒たちの無気力及び無関心や、授業の趣旨しゅしに対する無理解が軒並のきなみ問題になっていた。

「ナカヤマ君や、きみは今回の指導要領しどうようりょうの改訂にいては、どう思うね?」

 青年は無言で首を振った。

「ぼく、実は時どき、バンドでライヴ・ハウスに出るんです。でも、近頃は、年長者ねんちょうしゃのお客は来て下さるんですけど、高校生より下の年恰好としかっこうの子たちがぱったり姿を見せなくなって…」

 やがて青年は一揖いちゆうして去り、ひとりになった老教師は夕照ゆうしょうのさす机に向かってしば愀然しゅうぜんとした色を見せていたが、おしまいに一目音楽室を見ておこう、と重い腰を上げた。

 長年見慣みなれた教室に変わりはなかった。

 ただ一点を除いては…。

 巻き毛のバッハも、例の恐い顔のベートーヴェンも、古い肖像しょうぞうすでに貼り替えが済んでいた。

 最左翼さいさよくにビートルズ。そしてミック・ジャガー。ギターを抱えて陶酔とうすいの表情をうかべる厚化粧あつげしょうのマーク・ボラン。

 視線を右へ転じると、キッスのジーン・シモンズが長い舌をあらわにしている。アリス・クーパーは断頭台だんとうだいにいる。そして…オジー・オズボーンは蝙蝠こうもりの頭をみちぎっていた。

 連中は油絵になっても、元気いっぱいのようだ。

 ヤマダ先生は思わず眉をひそめ、眼をらした。

 それからきびすを返し、さびしい教室を後にした。

 

 雅也は全文を読み終えると、小首をかしげた。

 この作品は、元々予定していた作家が急病だか急用だかで書けなくなり、その「代打」として急いで書き上げたものだった。と、そこまでの記憶はさだかに残っている。

 だが、これは他の作品と比べて、明らかに異質いしつな部分があった、と感じた記憶もある。

 ――一体、何処どこがおかしかったんだろう?

 雅也は煙草を吸わぬ。しかし、今夜は、こんな時には一服いっぷくいたくなる者の気持ちがよく判るように思えた。

 ――何かが違った。

 それはたしかだった、と云う覚えは…頼りないが、あった。が、それは何なのか、その核心かくしんつかめないのだ。答えは喉元のどもとまで出掛でかかっているのだが、後一し足りない。

 その時、雅也は自分のひらめきに思わずぽんと両手を叩いていた。

 そうそう、由美子にけば良いのだ。由美子は雅也、いや、竹生健の著作なら粗方あらかた読んでいる。

 腕時計はそろそろ午前に変わろうとしている。が、だ起きている時刻のはずだ。由美子は雅也と違って人付き合いに積極的だったから、た友だちとあるいていることも考えられたが、こんな日には夜遊びをする女ではない。

 雅也は携帯電話スマートフォンを取り出し、自宅に電話をけた。

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