包へ
深町桂介
A.
それは、巨大な魚だった。
併し、巨魚のほうでは人類を
けれども、巨魚は決して人類を拒んでいるのではなかった。憎しみも持っていなかったし、その
巨魚は人類を畏れてはいなかった。
巨魚は賢かった。人類など軽く
巨魚は水のあるところなら何処へでもその
巨魚はこの地球の地理を知り尽くしていた。何処をどう泳げばアラスカへ行けるのか、どの水路を辿ればエジプトか、何処を行けば南極なのか…。巨魚は暗闇を苦としなかったので、光の射さない深海の底であっても易々と泳ぎ切った。その巨大な鰭をはためかせて――。
そして今、巨魚は
その朝、佐竹雅也は、
「こらァ、待てえ」雅也は声を張り上げた。「きさまなど、蒸し焼きにして喰ってやる。そら、早く素直に捕まりなさい」
併し鵞鳥は雅也の云うことに聞く耳を持たなかった。
「
「そうらあ」雅也は
雅也は今にも鵞鳥を締めようと手指に力を籠めた。すると、
「あたいを喰ったら、動物愛護団体に言い付けてやるからなぁ」
と切り返して来たのである。鵞鳥に動物愛護団体の知識があった、と云うこと自体、雅也にとっては驚きだったが、
と、その時、
「あなた」
と云う声が天から聞こえた。その声にはどことなく聞き覚えがあるような気がして、雅也は思わず周囲を見回した。
「朝だから」
「ええっ!?」
と訊き返した時、手がお留守になって鵞鳥はするりと擦り抜けてしまった。そして更に腹立たしいことに、五メートルほど走ったところで立ち止まり、振り返ってあかんべーをすると、
「あんたみたいな
と捨て
「あー、おれの夕食だったのにぃ…」
と未練がましく
「寝惚けてないで。夕食じゃないでしょ、朝食でしょ」
と雅也に話し掛けるのは妻の由美子である。ああ、ツマだなんて所帯染みた言葉が出て来ちゃったよ全く、と思った途端に、佐竹雅也は午前七時半の日本で眼を醒ました。
「…んあ? ――ああ、きみか。七面鳥…じゃなかった、あの鵞鳥はどうした?」
口辺に垂れた
「鵞鳥だか画帳だか知りませんけど、あんたの朝食はもう用意出来てるの。片付かないから、早く食べちゃってよ」
と言い
雅也は
食卓に着くと間もなくトースターがチンと鳴って
「あれっ」と云った。「ぼく、朝はスクランブルド・エッグにしてくれ、って言ったじゃないか」
由美子は、
「何よ」と云う。「朝は忙しいのにスクランブルになんかしてられないわよ。それに、昨日訊いた時は、ハム・エッグの方がいい、って言ってた癖に」
「そうだったかなあ」
「早く食べちゃってね。片付けなきゃならないんだから」
と言い残すと、洗濯物でも取りに行くのであろう、足早に洗面所の方へ向かった。
雅也は食べ
「円安でデフレ脱却なるか」
「
「小説家の平均年収は千五百万円」
「黄色い潜水艦に住むのはアカだけ」
食事を終えて、食器をキッチンのシンクに持って行くと、雅也は書斎へ向かった。
「外で仕事するの?」
由美子の声が浴室の方から聞こえて来た。
「ああ」
雅也は気のない返辞をした。
「お昼には帰ってね」
「判った」
言い
「何だったか、何十年か前に、そういう恰好で、『渋谷系』とか云われて、あの
と
ジャケットの上に、雅也はコートを着た。何と云っても今は未だ三月なのだ。
雅也は書斎を出ると、洗面所を
「じゃ、行って来るから」
「うん。
「あ~い」
靴を履くと、外に出た。午前九時半の「ドミール緑が丘」八階廊下にはたれの姿もなかった。雅也はエレヴェーターを呼んで、一階に下りた。オート・ロックのドアから外に出ると、冷たい北風が吹いて来て、雅也は思わず首を
雅也が由美子に「外で仕事する」と云う時には、ほぼ十中八、九、「ぐり書房」か「ぐら書房」の
そういう訳で、雅也はその朝、てくてく歩いて自宅マンションから十五分ほどのところに位置する「ぐり書房」へ向かったのだった。時刻は午前十時の少し前である。店の前に行くと、既にシャッターは上がり、
「店長さんいます?」
と声を掛けると、
「お早うございます、佐竹さん」
と店主は眼鏡を布で拭い
「お早う」と雅也は上方を指し示し、「そろそろ、良いですか? 未だ一寸早かったかな?」
と問うた。すると店長は笑顔を見せて、
「ええ、どうぞどうぞ、お入り下さい。歓迎です」
と云って、雅也を
これは実験のあるひとにしか判らないことだが、開店間際の書店内には、独特の雰囲気があるものだ。一種の美的な緊張感のようなものが
雅也は未だ動いていないエスカレーターを踏んで三階に上がり、フロアの片隅にある読書用スペースに向かった。店内の照明は落とされているが、江川が気を利かせてくれたものと見えて、その
雅也は早速一番奥の「何時もの席」に陣取り、鞄の中身をそこで拡げた。
「そのこと」に気が付いたのは、レノボのタブレットを取り出した時のことである。
――あれれーっ?
雅也は思った。「何か」がおかしいのだ。口に出して言うことはできないが、矢張り「何か」がおかしい。欠けているのか? それとも、逆に何かが多いのか。雅也には、確信を込めて
併し、それは一体何なのか。
一先ずそれはそれとしておいて、雅也はタブレットを起動し、モバイルギアもコンセントにプラグを差し込んでから電源を入れた。
違和感が
先ず眼に留まった一件目のファイル、「赤夢の中」を開けて見ると、内容はこうだった。
「 レオンが一番上の
『おれは先に行っている。午前十時半におれは合図として銃を一発撃つので、それを聞いてから出て来い。
と走り書きをすると、足早に寝室を後にした。木の床を歩く時、大げさな
――何だいこりゃ?
これこそが偽らざる雅也の得た第一印象だった。
ううむ、と雅也は
その感覚は、その次のファイル、「
「武がそう報告すると、父親は、だからそう言ったろう、といった切りだった。母親も
これでは一体何なのか、さっぱり埒が明かない。
えええい。段々混乱して来た雅也は頭を
その時、江川が姿を現した。右手に珈琲のカップとミルクを乗せた盆を持っている。江川はにこやかに、
「どうです、今朝の調子は?」
と問うた。雅也は一体どう返辞をして良いものか困じ果てたが、遂に、
「あのねぇ」と言った。「一寸、訊きたいことがあるんだけど…」
江川は笑みを絶やさずに、
「何です?」
と言った。雅也は、こんなことを口にすると自分は
「ぼく、確か昨日もここに来た筈ですけど…」
江川は
「ええ。昨日もいらっしゃいましたよね」
そこで、雅也は一番訊きたい核心に触れた。触れざるを得なかった。
「昨日はぼく、ここで一体何をしていました?」
すると江川の顔からは笑みが消え、
「何、って、お仕事をなさっていたじゃありませんか」
雅也は机上に出したモバイルギアやレノボのタブレットを
「これで?」
「ええ」と江川は打てば響くように答えた。「それを、お使いでしたなあ」
「ぼくは…若しかして、文筆家か何か?」
「そうですよ。あなたが一番良くご存知じゃありませんか。
「
雅也がそう云うと、江川は
「佐竹さん、あなた何か悪いものでも食べたんじゃありませんか? それとも健忘症とか何かに
「いま、竹生…健、とか言ったね?」
江川は眼を伏せて首をゆっくり横に振った。
「――ご自分のペン・ネームをお忘れになるとは、こりゃ重症だ」
「ペン・ネームだって? ぼくの?」
すると、江川は、一寸お待ちを、と言い置いて未だに作動していないエスカレーターをばたばたと駆け下り、文芸書のコーナーから数冊の単行本を手に戻って来た。そして、それを雅也に見せた。雅也は何冊かの本の表紙だけ見た。
「我が名はヨカンベー・サイデッカー」
「三年間地球を迷い歩いた男と、二年間シベリアに
「フィレンツェの図書館長」
「事実より
出版社はばらばらだが、どれも著者は同一――即ち竹生健だ。
「こんなのもありますが」江川は言うと、雑誌のコーナーから「鉄道インフォメーション」なる趣味の雑誌を見せ、「そら、ここに寄稿なさってお出でですよ」
とコラムを示す。
「1956(昭和31年)11月に東海道本線が全線電化され、それまで
「思い出せません?」
と江川。
「ふうむ。ちっともだ」雅也は気のない仕草で本を机上に戻すと、珈琲を
江川は、
「もう良いから、今日はお帰りになって、一日ゆっくりお休みになられて下さい。一寸頭を冷やした方が宜しいようですよ。さ、お支度なさい」
と言って、雅也が卓上に広げた辞書やモバイル・コンピュータの類を片付ける手伝いまでしてくれた。
雅也は開店五分後に店から追い出された。江川は、
「大分お疲れのご様子ですし、ごゆっくり休まれてから
と言って店の入り口まで見送ってくれた。雅也は
だが、本当に妙なことはそれから後に起こった。雅也は「ドミール緑が丘」に三台設置されたエレヴェーターのうち、一番左端にあるものを使って八階まで昇った。エレヴェーターは側面もガラス張りになっており、隣の機械に乗っているひとの姿も
雅也が
――あれっ。
と思った。降りて来る
――あれ、一体誰だったんだろうなあ?
ああ云うのをdéjà vuと云うんだろうな、等と考えて済ませたのだが、降りて来る箱に乗っていたのは他でもない、雅也本人であった、と云うことに気付いた時には、もう手遅れだったのである。
今日は何もかもが微妙にズレているな、と云う釈然としない思いを抱えて雅也が自分の住居に帰ると、由美子が浮かない顔で出迎えた。
「何よあんた、
雅也はそれに対しどう返辞をして良いのか判らずに、
「うん、まあ」
と言った。由美子は、
「何か忘れ物でもしたの?」
と言って、雅也の全身を上から下まで
「何だ、どうしたんだよ?」
と問うた。
「どうしたんだよも何もあるもんですか。仕事に行ったと思ったら、
「一寸、待った」雅也は
「ええ。帰って来たじゃない」
「
「何時も何もないでしょう。あんたが一番良く知っているでしょ」
そこで雅也はふと思い付いて、
「
「そうよ。判ってるじゃない。あれ、
「あああ」雅也は
そこに至って、由美子は
「ねえ、おかしなことばかり、って、一体どういうこと?」
「きみもおかしいと思うかい?」
「ええ。今日のあんたは丸で隠しごとがあるみたいで、
「ひょっとして、それとこれと、関係あるのかも知れない」
そこで雅也は、「ぐり書房」での一部始終を話した。竹生健、と云う名も知らぬ男の名前を口にすると、由美子は
「あなた、本当に竹生健って誰のことだか、記憶にないの?」
と問うた。ない、と答えると、
「あんた、
と言うのである。
「ぼくのペン・ネームだって? ――ああ、そう云や、江川さんもそんなこと言ってたっけ」
「そうよ。あなたのペン・ネームでしょ。忘れたの?」
雅也は頭を抱えた。そして
「ううむ。思い出せない。誰か別人の名前じゃないの?」
すると、由美子は
「自分のペン・ネームを忘れるひとが
と、
「だって、思い出せないものは、思い出せないんだもの」
「じゃあ、
「――ええと、町屋さんと大飯さん…。他にもいたかなあ?
「今は何の雑誌に何を連載している?」
そう問われると頭の中は真っ白になる。
「……思い出せないな」
「じゃあ、どんな仕事をしていたかは?」
「…何か書く仕事をしていた、ような、気はする」
「去年貰った賞は?」
「――賞なんか取ったっけ?」
「ダメだこりゃ。――そうだ、あなた、メールをチェックしてみなさいよ」
雅也はぽかんとして、
「メール? 何で?」
と問うた。
「だって、エディタさんから連絡があったら困るでしょ。早くなさいよ」
「はい、はい」
「佐竹様
次号より十回分の原稿、本日拝受いたしました。ざっと拝読いたしましたが、
「どう?
「ううん」雅也は頭を抱えた。「…ううん、ダメだ。他のメールも読んでみる」
雅也はその他のメールも開いた。他の新着三件は知人からで、もう一件は件名も差出人も空欄になっている。雅也は大抵、このようなスパム
「佐竹くん
このようなメールを出すのは、ぼくとしては大変気が進まないのだけど、いろいろ思い合わせたその結果、こういう結論に至りました。ぼくとしては、もうきみと一緒に仕事をすることは望みません。ぼくは
竹生健拝」
「これは…」雅也は息を
「何ですって!? どれどれ…、あら、ほんとだ。――探さないでくれ、って書いてあるけどねえ」
「でも、探し出さないと明日から仕事はないぞ」
「玉青丹を探しに、ってあるけど、一体何なのかあんた知ってる?」
「知るわきゃないだろ」
「でも、昨日までは一緒に仕事してた仲でしょ」
「そうだけど…。それでも聞いたこともないや。仁丹みたいな薬かな? 漢方薬にありそうな名前だけど」
「調べて見なさいよ。そろそろお昼になるから、あたし、
雅也が検索エンジンで「
「玉青丹 レア度★★★★★
中国南西部、中越国境付近に広がる
一番詳細に取り扱っているサイトでも、精々この程度の記述なのである。
雅也は由美子を呼ぼうとした。その時、由美子が
「ちょっと! 大変!!」
「ど、どうしたの?」
「竹生健がラジオに出てるの!」
それには雅也も
すると、
「
女性アナウンサーの問いに対して、竹生健は、
「そうですね。先ず、ぼくはクラッシックは殆ど聴きません。ぼくの耳には、クラッシックは
「ジャズは一部だけ聴きます。一番気に入っているのはコルトレーンがジョニー・ハートマンと共演しているアルバムと、ジョン・マクラフリンがマイルス・デイヴィスと共演しているアルバム、それとニルス・ラングレンの『ゴートラント』アルバム、あとエリック・ドルフィーの『アウト・トゥ・ランチ』というの、それからMJQやローズマリー・クルーニーやらエラ・フィッツジェラルドやらセロニアス・モンクやらビリー・ホリディやらテレサ・ブルーワーやら、まあざっとそんな所が関の山です。
「――後はブルーズとロックになります。ブルーズでは、ロバート・ジョンソンやブラインド・レモン・ジェファーソン、それから俗に云う三大キング、詰まりB・B・キングにフレディ・キング、それとアルバート・キングを筆頭に、エルモア・ジェイムズやハウリン・ウルフ、マディ・ウォーターズにジョン・リー・フッカーなどなど、一杯いますね。
ロックの方だと、更に沢山います」
竹生健は
「アトミック・ルースター、イングランドにニュー・イングランド、スティーヴ・ミラー・バンド、アージェント、ナザレス、トリリオン、707、ZZトップ、スラップ・ハッピー、ゴング、マイク・オールドフィールド、スタックリッジ、ブルー・チアー、ビッグ・スター、ブラック・サバト、ブルー・オイスター・カルト、テッド・ニュージェント、コーギス、パイロット、バランス、アークエンジェル、ディクソン・ハウス・バンド、ジェネシス、ディーゼル、メガデス、ジ・オールマイティ、ケヴィン・エアーズ、ジェフ・ベック、ジェフリア、リック・デリンジャー、エドガー・ウインター、アル・クーパー、エンジェル、ヴァン・ダイク・パークス、モーターヘッド、ホークウインド、UFO、プラスティック・ペニー、ファストウェイ、MSG、ロビン・トロワー、イエス、ロリー・ギャラガー、デイヴ・メイスン、アイアン・メイデン、アイアン・モンキー、ティアマット、ピーター・フランプトン、デペッシュ・モード、ソフト・セル、ラッシュ、スティックス、カンサス、スパイ、ザ・カーズ、トム・ペティ・アンド・ザ・ハートブレイカーズ、ピンク・フロイド、タイガーズ・オヴ・パン・タン、ファウスト、プリンス、ラプソディ・オヴ・ファイアー、ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック、チッキン・シャック、ボストン、エマーソン・レイク・アンド・パーマー、トーヤ、トム・ウェイツ、ゲイリー・ムーア、ヴェノン、トレイル・オヴ・ティアーズ、マスターマインド、オール・スポーツ・バンド、セプティック・フレッシュ、クロウバー、ムーンスペル、アイヘイトゴッド、ウインガー、ルネッサンス、ヤードバーズ、クリーム、フェアポート・コンヴェンション、サンディ・デニー、ニック・ドレイク、セックス・ピストルズ、ピーター・ハミル、ブロードウィン・ピッグ、エイジア、キング・クリムゾン、ニュー・オーダー、U2、UK、アダム・アンド・ジ・アンツ、TOTO、スプリング、チューブス、ポコ、ダイアー・ストレイツ、キャラヴァン、キャメル、ソフト・マシーン、ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーター、レインボウ、シルヴァー・サン、ザ・シーズ、ヒューズ、ドライヴ・シー・セッド、オフスプリング、ニック・デカロ、GTR、ガーランド・ジェフリーズ、スティーヴ・ハケット、アンソニー・フィリップス、ニュー・トロルズ、ゴブリン、オザンナ、レ・オルメ、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ、アルティ・エ・メスティエリ、イル・バレット・ディ・ブロンゾ、デリリウム、クエラ・ヴェッキア・ロカンダ、アネクドテン、トッド・ラングレン、ユートピア、ジ・エニッド、バンコ・デル・ムトゥオ・ソッコルソ、スザンヌ・ヴェガ、サグラド・コラソン・ダ・テッラ、イエロー・マジック・オーケストラ、ワールズ・エンド・ガールフレンド、P-MODEL、マンドレイク、シャーデー、カン、ドリーム・シアター、クラスター、トリウムヴィラート、オライオン・ザ・ハンター、ペンドラゴン、マリリオン、イット・バイツ、ダーク・トランキュリティ、クローミング・ローズ、ハロウィン、タンジェリン・ドリーム、グル・グル、アシュ・ラ・テンペル、クラウス・シュルツェ、ガンマ・レイ、スコーピオンズ、カーカス、ヘルダーリン、ブラック・ウィドウ、ノヴァーリス、アモン・デュール、グリフォン、リチャード・ハーヴェイ、アレックス・ハーヴェイ・バンド、イースト、シュコルピオー、コラージュ、サテライト、アングラ、クルーシス、レイプマン、ケイト・ブッシュ、クレシダ、スティル・ライフ、クレイドル・オヴ・フィルス、エピデルミス、アヴァロン、ネットワーク、スパークス、セミラミス、ホワイト・ライオン、L・A・ガンズ、J・J・ケール、エメラルド・レイン、ヴェイダー、アンスラックス、アメリカン・ティアーズ、ユニヴェル・ゼロ、ジャニス・ジョプリン、クラトゥ、ザ・フロック、カーヴド・エア、イン・フレイムス、インスパイラル・カーペッツ、メロウ・キャンドル、ブロンズ、FM、シン・リジィ、ラビット、ブロンディ、プレイング・マンティス、フランク・ザッパ…」
雅也が
と、由美子が唐突に雅也の肩を強く揺すった。
「な、何だい?」
「何だいじゃないわよ。いま、あんたのペン・ネームは、NHKのスタジオにいるのよ。急いで追い掛ければ、捕まえることができるじゃないのよ!」
由美子はそう怒鳴り散らすと、それでは
「急いで、急ぐんだよっ!?」
と念を押した。雅也は一も二もなく
列車は定刻に入線した。雅也が適当に撰んだ空席に着くと同時に、動き出した。
八王子から新宿までの時間は、長かった。雅也は偶々バッグの中に入っていたiPodでナパーム・デスを聴き
漸くのことで列車が新宿駅のプラットフォームに滑り込み、更に時を経て空気の洩れる音と共にドアが開くと、雅也は一目散に走り出し、エスカレーターを
遂に目指す渋谷駅へ到着したのは、それから更に十三分後のことである。雅也は駅前のスクランブルを、信号は赤なのに構わず突入して走り抜け、一路センター街へ向かった。
NHKの局舎に着いた時、雅也はすっかり息を切らしていて、守衛の詰め所前で肩で息をして
「ふうん。忘れ物、ねえ」守衛は考え深げな顔で言った。「で、あなたが出演なさっていた、って云うのは、一体何と云う番組です?」
「午前十一時からの、『わたしの音楽人生』です。若しかしたら未だ続いているかも…」
「ええっ!? 未だ終わってないの? それじゃああんたは一体どうして此処にいる訳?」
問い詰める守衛に対して雅也はへどもどし、
「ああいや、もう終わってる、終わってる番組なんですけど、ス、スタジオに忘れ物をしてしまって…」
「ふうん。忘れ物をねえ」
「あの、松倉アナウンサーの番組なんですよ。スタジオは何処か忘れてしまったけれど…。それから、松倉さんに一寸お話し申し上げたいこともあって…」
「松倉潤子アナウンサー担当の、『わたしの音楽人生』ですね?
言うと、守衛は詰め所で電話を架けてたれかと会話をしていたが、
「松倉アナ、今から十五分間だけなら
「ああお願いしますおねがいします」
「それじゃあね、三階のスタジオA-303の控え室へ行かれて下さい」
そう云うと、守衛は
「困るなァ、勝手にスタジオに入って来られちゃあ。今、撮影の準備中なんだよ。さあ、直ぐ出て」
「ごっ、ご免なさい」と怪物に謝り、「控え室へ行け、と云われたものですから…」
と
「控え室なら、
「あ、有難うございます」
雅也は後頭部に手を当てて、
「はあい。今行きます」
との
雅也はドアを開けた。
「失礼します、松倉さん」
と、松倉アナは、クリップでボードに留めた書類に目を通していたが、雅也を認めると眼を丸くして、
「あら」と云った。「竹生さん。どうかなさいましたか?」
と問われて雅也は一寸迷った。けれども、
「…ええと、ですね。――ああそうそう、先程はお世話になりましてどうも有難うございました」
ぺこりと頭を下げると、事情を呑み込めず
「あの後なんですけど…、ぼくは一体次に
雅也が問うと、
「いえね、先程あなたとお話ししたのは、ぼくの双子の弟で本名は佐竹雅也と申しまして、小説家なんですけど、ぼくはその兄で、雅和と申しまして、彫刻家をやっているのです」
それを聞いて、松倉アナは
「ご兄弟なんでしたら、直接お訊きになられれば良いじゃありませんか?」
と、
「いえね、
と口から出任せが出る
併し、松倉アナウンサーにはかなりの印象を与えたらしい。松倉は、
「
「赤坂へ?」
「ええ」と松倉アナは云う。「何か、大変お急ぎのようでしたけど」
雅也は
「何があったんだろう」
が、アナウンサーは、
「あのう、あたし、これから
と言った。雅也は、
「そうでしたね。――いや、大変参考になりました。では、どうも有難うございました」
と言い残し、これからあの気色悪い
――赤坂、ねえ。
一体何の用向きがあって赤坂などへ行くのだろう?
雅也は考えかんがえNHKの
「しまったッ!!」
雅也は思わず口の中で
――チェーッ、絶好の機会だったのになぁ。
併し、何を言ってももう
雅也はこの際だから赤坂まで足を運ぶか、とも思ったが、竹生健がどういう行動を取るのか
丁度良い時刻の特急が見付からなかったので、雅也は中央線快速電車で帰途に就いた。
雅也の携帯電話が鳴ったのは、阿佐ヶ谷の辺りだった。自宅からだった。車内は空いていたので、雅也は
「あなたッ!! 大変! 今、TVに出てる!」
それを聞いた雅也も、周りの客が思わず顔を上げるほど
「ええッ!?」と叫んだ。「TVだって? 局は
「民放よ」
それで雅也も
「あの、赤坂にある?」
「そう。よく判ったわね。知ってたなら直行すれば良かったのに」
「いや、NHKでは赤坂に行くようなことを言っていた、とは聞かされたんだけど、具体的な行き先までは
「そう」由美子は考えるように数秒の沈黙を挟んでから、「あんた、今、
「帰りの電車だよ。中央線の中」
「あらそう。じゃあ、帰って来るのね」
「それしかないじゃないか」
「竹生健の行き先に
「
「あたしは一つある」
「
「
「
「そう。あれからウェブで調べたのよ。海外の、英文サイトにも行ったんだけど、どうやら竹生健の欲しがってる玉青丹という香は
「包、って…、あの、中国とヴェトナムの間にある……小都市国家の集合体」
「ええ。バックパッカーの天国、とか、ヒッピー
「ははあ。ぼくには余り見当も付かないんだけど、危険じゃないのかね?」
「そういう話は聞かないわね。――あたしのお友だちの中にも、包へ行って来た、ってひとが何人かいるけど、
「? どういう意味だろうね?」
「電車の中なんでしょ?
「その、TVの録画、頼めるかな?」
「もうとっくにやってるわよ。急いでね。寄り道しないで」
「
電話は切れた。雅也はその後の三十分間、ハットフィールド・アンド・ザ・ノースを聴き
疲れ切った身体を引きずって
「お腹減った」
「もう昼をとっくに過ぎてるもんね。用意してあるから、
昼食は親子丼だった。雅也は由美子が録画しておいた昼のヴァラエティ番組を
番組の中では、雅也――
「わたしは
とか、
「ブラック・フライデーが来たら、飼ってるカンガルー全員に餌をやって、それから穴を掘って逃げ込みます」
だのとほざいている。竹生が何か言う度にスタジオ中に笑いの渦が広がる。番組のホストたるタレントは腹を抱えて笑い転げている。
雅也は溜め息を
「ね。ひどいでしょ?」
「ああ。想像以上にひどい」雅也は
「でも、あんなことを言われちゃったら、この先周りからどう扱われるものか判ったもんじゃないわね」
「ああ。全くだよ」
雅也は頭を抱えた。
「ねえ、それよりさ、包のことだけど」
「ああ、そうだ。そのことがあった」
「あなたのペン・ネームは、今頃は飛行場にいるか、或いは向かっているんじゃないか、と思うんだけど」
「すると包へは、飛行機で行くのかい?」
問われた由美子は、
「まあ、
「へえ、そうなのかい。それはまた随分北にあるんだな」
「…
と言って、由美子はJTBの時刻表を出した。
「
「ええ。何冊か書いていたわよね」
「交通手段には何を使うことが多いかな? ほら、一口に北海道へ行くと云っても、飛行機の他、鉄道だの車だの船だの、幾つかルートがあるだろ。竹生健が使う可能性が一番高そうなのは、何だろう?」
「そうねえ」由美子は一寸上を向き、思案していたが、
「
「タイプだと思う、って、それあんたの分身じゃないのよ」
「いいや、違う」雅也は
「急にむつかしいことを言い出して。何でそう云えるのよ?」
「だって、ぼくのペン・ネームは、ぼく以外の他人に付けて貰ったものだからさ」
「他人? 誰よ?」
「きみは知らないかも知れないが、北大理学部にいた頃、研究室の指導教官としてお世話になっていた高田先生が付けて下さったものだ」
「そう」由美子は
「ダメだね」
「どうしてよ?」
「三年前に
「あーっ」由美子は
雅也は
「ぼくも、夜行列車でことこと行くしかないのさ」
「じゃあ、早く旅支度しないと」
言うが早いか、由美子はクローゼットを開けて大きなキャリー・バッグを出し、
その間に、雅也は時刻表を取って来て、それが去年の五月に由美子と
雅也がダイニングで時刻表をぱらぱら
「そうだ」と由美子が作業をしていた寝室から呼んだ。「あんた、旅行会社行かなくていいの?」
「ああ」雅也は未だ時刻表に気を取られた
「あら」由美子が云った。「あんた、知らないの? 包はパスポート、
「「ええ?」雅也は
「何でも、包の創設者が日本人で、何やら政治的な裏取引があったとかなかったとかで、要らないんですってよ」
「ふうん。道理でおかしいと思った。稚内空港から国際線が出ている、なんて話は聞いたことがなかったしな」
「それより、ねえ、列車の時刻が判ったら、
「
「どうして?」荒い息で由美子は問う。「新幹線は使わないで、夜行なんでしょ?」
「ああ。ところがそれが二本あるんだよ。一本目が、午後四時二十分発の『カシオペア』で、二本目が、午後七時三分発の『北斗星』なんだ」
「あらそう。――あんた、
雅也は時計を見た。既に午後四時前である。
「本当だ。チェッ、
「どうして判るの?」
「まあ、長い付き合いだからね。
「ふうん。そこまで判るくらいの仲なら、何も
「さあねえ、
「理由の当てはないの? 何か悪いことを言ったとか、やったとか」
雅也は時刻表を置くと、顎に手を当てて考えた。
「さあねえ。特にこれと云って記憶はないんだけど」
「そう。――それよりほら、何ぼさっとしてるの。荷造り手伝ってよ。大体あんた、自分の旅行でしょ」
パック・アップが済むと、荷物は大きなバッグ三つになった。
「うへえ。こんなに持って行くのか」
「だって、かなり広いみたいよ、包って」
「広い?」
「…と云うか、テントが多い、と言った方がより
「そうか。じゃ、
そう思うと、
「ねえ、新幹線じゃダメなの? 東北新幹線で行ける所まで行って、『カシオペア』が来るのを待ち構える、とか」
「駄目だね」雅也は
「まったく、ねえ」由美子は
「ぼくが決めたんじゃない。
由美子は、
「そろそろ、出ましょうよ。一緒に夕食取りましょう」
と言った。雅也は分厚いコートを
「最後の
と
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます