包へ

深町桂介

A.

 それは、巨大な魚だった。

 幾星霜いくせいそうこうてここまでの巨躯きょくに成長したのだが、普段は人類の容易に到達することのできぬ深いふかい水の中に身を潜めているため、人類は未だその存在を知らなかった。

 併し、巨魚のほうでは人類を知悉ちしつしていた。人類が地上を歩き始めたのは、巨魚がこの世に生をけて暫く後のことだった。巨魚は人類の生業を具に見てきた。生きるためばかりではなく、娯楽の一つとしても共喰いをし合う性質をよく知っていた。

 けれども、巨魚は決して人類を拒んでいるのではなかった。憎しみも持っていなかったし、その愚昧ぐまいさを嘲笑あざわらう気持ちもなかった。いや、巨魚には確かに人類に対するある種の感情はあった。その感情は、古刹こさつの石にす苔さながらに厚く水渋みしぶに覆われた鱗同様、外から一見しただけではわかにくかったが、脈々と巨魚の中に息づいていた。その感情は、一種の母性的とも云える温みを以て人類を眺めていた。その態度には自信が満ち溢れていたが、それは別に人類が巨魚に到達し得る距離には入っていない為ではなかった。若し仮に――その体躯たいくの大きさからすると現実的には不可能だったが――人類が巨魚の存在に気付き、すなどりを試みたとしても、巨魚が人類に対して抱いている感情には何ら変わりはなかっただろう。

 巨魚は人類を畏れてはいなかった。加之しかのみならず、人類の生活の現場に再三接近しさえした。見捨てられた公園の古池、廃ホテル地下の大プール、山の頂の静かな湖水……。巨魚は鮮烈な光と新鮮な酸素に触れたくなると、何時でも臆せずに明るみに出て行った。併し、巨魚はこれまで、人類と鉢合わせしたことはなかった。巨魚が来るから人間がいないのか、或いは人間がいないから巨魚が現れるのか、そこ迄は誰にも――巨魚自身にも――判らない。ただ、巨魚が厳存するということ、そして人類は未来永劫みらいえいごうその存在に気付かない可能性が高いということ、それだけは確かだった。

 巨魚は賢かった。人類など軽くしのぐ知性を持っていた。が、慎み深い謙虚さをも併せ持っていたので、自らを人類の永遠の傍観者とさえ任じてはいなかった。巨魚に取っては、自分が生かされており、人類も又生きている、そのことだけで充分だったのである。

 巨魚は水のあるところなら何処へでもそのくろい身体を現した。淡水、海水、汽水、その別は問わない。

 巨魚はこの地球の地理を知り尽くしていた。何処をどう泳げばアラスカへ行けるのか、どの水路を辿ればエジプトか、何処を行けば南極なのか…。巨魚は暗闇を苦としなかったので、光の射さない深海の底であっても易々と泳ぎ切った。その巨大な鰭をはためかせて――。

 そして今、巨魚はた浮上しようとして、尾鰭で力強く水を蹴った……。


 その朝、佐竹雅也は、鵞鳥がちょうの夢を見てから眼を醒ました。後顧こうこしてみても、丸々と肥った、如何にも旨そうな鵞鳥だった。よく脂が乗っていることは一目瞭然だ。その気になれば、生でも食べられそうな程で、雅也は一瞬、夢の中ながら、「銀河鉄道の夜」の鳥とりを思い出したのだった。だがその鵞鳥は中々素直に捕まらず、巧みに右往左往して雅也の指先を擦り抜けた。

「こらァ、待てえ」雅也は声を張り上げた。「きさまなど、蒸し焼きにして喰ってやる。そら、早く素直に捕まりなさい」

 併し鵞鳥は雅也の云うことに聞く耳を持たなかった。

いやだよう」と鵞鳥は何故か人語で反駁する。「あんたなんかに捕まったら、わし、天国に行けんもんね。断固拒否します」

「そうらあ」雅也はっとの思いで鵞鳥の左羽根を捕まえ、続いて首根っこに手を伸ばした。「喰っちゃうぞ~」

 雅也は今にも鵞鳥を締めようと手指に力を籠めた。すると、豈図あにはからんや鵞鳥は後ろを振り向いて、

「あたいを喰ったら、動物愛護団体に言い付けてやるからなぁ」

 と切り返して来たのである。鵞鳥に動物愛護団体の知識があった、と云うこと自体、雅也にとっては驚きだったが、ひるむことなく手加減せずにぐいぐいと首を絞めた。鵞鳥は苦しい息で更に逃げ惑う。雅也は一層手に力を籠めた。

 と、その時、

「あなた」

 と云う声が天から聞こえた。その声にはどことなく聞き覚えがあるような気がして、雅也は思わず周囲を見回した。

「朝だから」

「ええっ!?」

 と訊き返した時、手がお留守になって鵞鳥はするりと擦り抜けてしまった。そして更に腹立たしいことに、五メートルほど走ったところで立ち止まり、振り返ってあかんべーをすると、

「あんたみたいな末生うらなりの茄子なすなんかに喰われてたまるもんかいっ」

 と捨て台詞ぜりふを残してヒョコヒョコと飛び去ってしまったのである。雅也はそれを見上げて、

「あー、おれの夕食だったのにぃ…」

 と未練がましく口惜くやしそうに云ったのだが、その時身体が揺すぶられるのを感じた。

「寝惚けてないで。夕食じゃないでしょ、朝食でしょ」

 と雅也に話し掛けるのは妻の由美子である。ああ、ツマだなんて所帯染みた言葉が出て来ちゃったよ全く、と思った途端に、佐竹雅也は午前七時半の日本で眼を醒ました。

「…んあ? ――ああ、きみか。七面鳥…じゃなかった、あの鵞鳥はどうした?」

 口辺に垂れたよだれぬぐながら、夢現の頭で雅也が問うと、由美子は、

「鵞鳥だか画帳だか知りませんけど、あんたの朝食はもう用意出来てるの。片付かないから、早く食べちゃってよ」

 と言いつのった。その言葉で雅也はっと現実に戻り、ベッドの上で思い切り欠伸あくびをした。由美子は言うだけいうと寝室を後にした。

 雅也は身動みじろぎし、ベッドから這い出て起き出した。パジャマを脱ぎ、ワイシャツにトレーナー、下はチノパンツ、という恰好で寝室を出て、た欠伸をしながらダイニングに入ると、由美子が言った通り、テーブルの上には朝食の準備が着々と整えられつつあった。

 食卓に着くと間もなくトースターがチンと鳴って按配あんばいよく焼けた二枚が飛び出て来た。それを掴まえると、雅也はバター及び片方には苺ジャム、もう片方にはマーマレードを塗り、食べ始めた。間もなく由美子がキッチンから珈琲のマグと、ソーセージにハム・エッグの乗った皿を給仕した。それを見た雅也は、

「あれっ」と云った。「ぼく、朝はスクランブルド・エッグにしてくれ、って言ったじゃないか」

 由美子は、

「何よ」と云う。「朝は忙しいのにスクランブルになんかしてられないわよ。それに、昨日訊いた時は、ハム・エッグの方がいい、って言ってた癖に」

「そうだったかなあ」

 掻頭そうとうし、後は文句を云わずに卵を突付つつく。由美子は、

「早く食べちゃってね。片付けなきゃならないんだから」

 と言い残すと、洗濯物でも取りに行くのであろう、足早に洗面所の方へ向かった。

 雅也は食べながら何という当てもなしに卓上の新聞を捲って拾い読みした。

「円安でデフレ脱却なるか」

名誉毀損めいよきそんで78歳主婦を逮捕・神奈川秦野はだの

「小説家の平均年収は千五百万円」

「黄色い潜水艦に住むのはアカだけ」

 云々うんぬん。取り立てて自分に関連した話題はなさそうだったので、雅也は新聞をそのままった。

 食事を終えて、食器をキッチンのシンクに持って行くと、雅也は書斎へ向かった。

「外で仕事するの?」

 由美子の声が浴室の方から聞こえて来た。

「ああ」

 雅也は気のない返辞をした。

「お昼には帰ってね」

「判った」

 言いながらいつもの習慣に従って、雅也はかばんに仕事で必要なものを詰めていった。iPad、レノボのタブレット、キーボード、モバイルギア、広辞苑、角川新字源。それだけ入れると、トレーナーの上にネイヴィ・ブルーのジャケットを着た。こういうものを身に着けると、由美子は、

「何だったか、何十年か前に、そういう恰好で、『渋谷系』とか云われて、あの界隈かいわいで得意顔して喃破ナンパとかしてたひと達がいたっけねえ」

 と調戯からかうのだったが、雅也はその度に「チェッ」と思うだけで、口答えしたことはない。弁の立つ由美子と口論しても不毛なことは過去の経験が心魂しんこんてっしている。

 ジャケットの上に、雅也はコートを着た。何と云っても今は未だ三月なのだ。

 雅也は書斎を出ると、洗面所をのぞいた。

「じゃ、行って来るから」

「うん。しっかりね」

「あ~い」

 靴を履くと、外に出た。午前九時半の「ドミール緑が丘」八階廊下にはたれの姿もなかった。雅也はエレヴェーターを呼んで、一階に下りた。オート・ロックのドアから外に出ると、冷たい北風が吹いて来て、雅也は思わず首をすくめた。

 雅也が由美子に「外で仕事する」と云う時には、ほぼ十中八、九、「ぐり書房」か「ぐら書房」の孰方どちらかを意味する。たまに徒歩で三十分ほどのところにある市立中央図書館まで足を延ばすこともあったが、大抵はこの兄弟きょうだい書肆しょし孰方どちらかで席を占めていた。市立図書館でも良かったが、コンピュータの使える席は数が限られていたし、読書と仕事用の席だと云うのに、ぐうぐう高鼾たかいびきで昼寝を決め込むやからもいたからだ。その点、「ぐり書房」は三階、「ぐら書房」は二階に設けてある読書用スペースは、無線LANも使えたし、長時間座を占めていても文句は言われなかった。時々、営業の途中で立ち寄ったと思しき背広姿のサラリーマン風が端末を前に携帯電話で話し込んでいたり、小さな子が泣いたりすることはあったけれども、矢張り雅也の気に入るのはこの本屋の方だった。雅也は極力マス・メディアから距離を置くようにしていたので、顔は知られておらず、従ってサインを求められるようなおそれはずなかった。

 そういう訳で、雅也はその朝、てくてく歩いて自宅マンションから十五分ほどのところに位置する「ぐり書房」へ向かったのだった。時刻は午前十時の少し前である。店の前に行くと、既にシャッターは上がり、招牌しょうはいも出ていたが、だ開店前のことで、店の前を新入りらしい女子大学生のアルバイトがほうきで掃いていた。学生は雅也の顔を見ると、やや怪訝かいがの色をうかべたが、

「店長さんいます?」

 と声を掛けると、ぐに中に引っ込んだ。やがて姿を見せた店長の江川は、四十年輩、せていて鼻が高く、神経質そうな顔立ちをした男である。この店長は「ぐり」と「ぐら」両方の店長を統括とうかつしており、午前中はより規模の大きい方の「ぐり書房」にいる、ということを、雅也は知っていた。「ぐら書房」でも顔が知られていない訳でもないので、別段そちらでも構わないのだが、「ぐり書房」の方が手近だったこともあり、また雅也はこの店長と言葉を交わすのがいやではなかったので、大概はこの「ぐり書房」に足が向くのだった。

「お早うございます、佐竹さん」

 と店主は眼鏡を布で拭いなが挨拶あいさつした。

「お早う」と雅也は上方を指し示し、「そろそろ、良いですか? 未だ一寸早かったかな?」

 と問うた。すると店長は笑顔を見せて、

「ええ、どうぞどうぞ、お入り下さい。歓迎です」

 と云って、雅也をしょうれた。

 これは実験のあるひとにしか判らないことだが、開店間際の書店内には、独特の雰囲気があるものだ。一種の美的な緊張感のようなものが瀰漫びまんし、一冊いっさつの本はそれぞれが重みのある存在感を放っている。雅也は、開館前の図書館に就いては知らないのだが、これも機会さえあれば是非覗いてみたいものだ、という非望ひぼうを秘かに抱いている。

 雅也は未だ動いていないエスカレーターを踏んで三階に上がり、フロアの片隅にある読書用スペースに向かった。店内の照明は落とされているが、江川が気を利かせてくれたものと見えて、その僻隅へきぐうだけは明るかった。空調も程良く効いている。

 雅也は早速一番奥の「何時もの席」に陣取り、鞄の中身をそこで拡げた。

 「そのこと」に気が付いたのは、レノボのタブレットを取り出した時のことである。

 ――あれれーっ?

 雅也は思った。「何か」がおかしいのだ。口に出して言うことはできないが、矢張り「何か」がおかしい。欠けているのか? それとも、逆に何かが多いのか。雅也には、確信を込めてしかと言うことはあたわなかったが、何時いつもとは何か違っている、違和感があるのは確かだった。

 併し、それは一体何なのか。

 一先ずそれはそれとしておいて、雅也はタブレットを起動し、モバイルギアもコンセントにプラグを差し込んでから電源を入れた。

 違和感が具現化ぐげんかしたのは、モバイルギアの画面を見た時だ。ディスプレイ上には仕掛かり中らしいファイルが四件ほど示されていたのだが、そのどれも雅也の身に覚えのないものばかりだったのだ。

 先ず眼に留まった一件目のファイル、「赤夢の中」を開けて見ると、内容はこうだった。


「 レオンが一番上の抽斗ひきだしを開けると、回転式の38口径が一丁見付かった。その中身を確認し、弾が装填そうてんされていることを知ると、銃を取って抽斗を元通りに閉め、机上に残っていたメモ用紙に、

『おれは先に行っている。午前十時半におれは合図として銃を一発撃つので、それを聞いてから出て来い。ただし、奴らはそこいら中にいる筈だから、十分に注意を払って来るように』

 と走り書きをすると、足早に寝室を後にした。木の床を歩く時、大げさな跫音あしおとが」


 ――何だいこりゃ?

 これこそが偽らざる雅也の得た第一印象だった。

 ううむ、と雅也ははらの中でうなる。一体、これは何なんだ? ぼくと関係のあるものなのかな?

 きつねままれたような気分だった。

 その感覚は、その次のファイル、「悲壮ひそう」を読むと更に強まった。


「武がそう報告すると、父親は、だからそう言ったろう、といった切りだった。母親も鰾醪にべもなく武の申し出を峻拒しゅんきょした。取り付く島のなくなった武は、いきおい姉に助け船を乞うしか道はなかった。武は」


 これでは一体何なのか、さっぱり埒が明かない。

 えええい。段々混乱して来た雅也は頭をむしった。こりゃあ、一体何だぁ?

 その時、江川が姿を現した。右手に珈琲のカップとミルクを乗せた盆を持っている。江川はにこやかに、

「どうです、今朝の調子は?」

 と問うた。雅也は一体どう返辞をして良いものか困じ果てたが、遂に、

「あのねぇ」と言った。「一寸、訊きたいことがあるんだけど…」

 江川は笑みを絶やさずに、

「何です?」

 と言った。雅也は、こんなことを口にすると自分は莫迦ばかに思われるかも知れぬ、と思いつつ、

「ぼく、確か昨日もここに来た筈ですけど…」

 江川はうなずき、

「ええ。昨日もいらっしゃいましたよね」

 そこで、雅也は一番訊きたい核心に触れた。触れざるを得なかった。

「昨日はぼく、ここで一体何をしていました?」

 すると江川の顔からは笑みが消え、

「何、って、お仕事をなさっていたじゃありませんか」

 雅也は机上に出したモバイルギアやレノボのタブレットをあごでしゃくって、

「これで?」

「ええ」と江川は打てば響くように答えた。「それを、お使いでしたなあ」

「ぼくは…若しかして、文筆家か何か?」

「そうですよ。あなたが一番良くご存知じゃありませんか。竹生健たけふけんと云えば、この界隈かいわいじゃ知らないひとはいないくらいですよ。――いやだなあ、調戯からかっているんですか?」

いやいや」雅也は必死で否定した。「調戯からかってなんかいませんよ。けれどもね、真面目な話、ぼくはこの機械の中に入っているファイルには、見た覚えが悉皆さっぱりないんですよ」

 雅也がそう云うと、江川は面色めんしょくを変えて雅也の向かいに座った。

「佐竹さん、あなた何か悪いものでも食べたんじゃありませんか? それとも健忘症とか何かにかかったとか。今日はお仕事、お止めになったら如何いかがです? さ、珈琲コーヒー、温かいうちに召し上がって下さい。それで、ゆっくり考えて、出直していらっしゃい。昨日もその席で八時間も夢中でキーを叩かれていましたから、よっぽどオーヴァー・ワークはお身体に毒だ、とお話ししようか、と思ったくらいなんですけどね」

「いま、竹生…健、とか言ったね?」

 江川は眼を伏せて首をゆっくり横に振った。

「――ご自分のペン・ネームをお忘れになるとは、こりゃ重症だ」

「ペン・ネームだって? ぼくの?」

 すると、江川は、一寸お待ちを、と言い置いて未だに作動していないエスカレーターをばたばたと駆け下り、文芸書のコーナーから数冊の単行本を手に戻って来た。そして、それを雅也に見せた。雅也は何冊かの本の表紙だけ見た。

「我が名はヨカンベー・サイデッカー」

「三年間地球を迷い歩いた男と、二年間シベリアにもっていた女との結婚」

「フィレンツェの図書館長」

「事実よりなり」

 出版社はばらばらだが、どれも著者は同一――即ち竹生健だ。

「こんなのもありますが」江川は言うと、雑誌のコーナーから「鉄道インフォメーション」なる趣味の雑誌を見せ、「そら、ここに寄稿なさってお出でですよ」

 とコラムを示す。


「1956(昭和31年)11月に東海道本線が全線電化され、それまで蒸機じょうき牽引けんいんしていた特急『つばめ』号や『はと』号もEF58型電機でんきが担当することになった。これは、展望客車マイテ58を含むスハ44系客車による、通称『青大将』編成で有名である。しかし、1958(昭和33)年にはその東海道本線に我が国初の電車特急である151系が登場した。この車輌による『こだま』号は東京―大阪間を7時間弱で結び、『ビジネス特急』と呼ばれた。この電車特急は好評を博し、翌年には『パーラーカー』と呼ばれたクロ151形も投入されて、『つばめ』号や『はと』号も電車特急として運行されることになった。……」


「思い出せません?」

 と江川。

「ふうむ。ちっともだ」雅也は気のない仕草で本を机上に戻すと、珈琲をすすった。「思い出せないなァ」

 江川は、た雅也の前に腰を下ろすと、

「もう良いから、今日はお帰りになって、一日ゆっくりお休みになられて下さい。一寸頭を冷やした方が宜しいようですよ。さ、お支度なさい」

 と言って、雅也が卓上に広げた辞書やモバイル・コンピュータの類を片付ける手伝いまでしてくれた。

 雅也は開店五分後に店から追い出された。江川は、

「大分お疲れのご様子ですし、ごゆっくり休まれてからたいらして下さい」

 と言って店の入り口まで見送ってくれた。雅也は釈然しゃくぜんとしない思いで帰途きといた。

 だが、本当に妙なことはそれから後に起こった。雅也は「ドミール緑が丘」に三台設置されたエレヴェーターのうち、一番左端にあるものを使って八階まで昇った。エレヴェーターは側面もガラス張りになっており、隣の機械に乗っているひとの姿もちがいざまに確認できるようになっている。

 雅也が惑乱わくらんした頭を抱えて四階まで来た時、丁度隣、即ち真ん中のエレヴェーターが下降して来るのと行き合った。それを見て、雅也は一瞬、

 ――あれっ。

 と思った。降りて来るはこには、グリーンのダッフル・コートを着て、やや顔をうつむけた男が乗っていた――或いはそのように見えたのだが、雅也の眼には、何処となく親近感のある姿だったのである。

 ――あれ、一体誰だったんだろうなあ?

 ああ云うのをdéjà vuと云うんだろうな、等と考えて済ませたのだが、降りて来る箱に乗っていたのは他でもない、雅也本人であった、と云うことに気付いた時には、もう手遅れだったのである。

 今日は何もかもが微妙にズレているな、と云う釈然としない思いを抱えて雅也が自分の住居に帰ると、由美子が浮かない顔で出迎えた。

「何よあんた、た帰って来たの?」

 雅也はそれに対しどう返辞をして良いのか判らずに、えず、

「うん、まあ」

 と言った。由美子は、

「何か忘れ物でもしたの?」

 と言って、雅也の全身を上から下まで隈無くまなくじろじろと改めた。その様子が少々妙だったので、雅也は、

「何だ、どうしたんだよ?」

 と問うた。

「どうしたんだよも何もあるもんですか。仕事に行ったと思ったら、矢鱈やたら急いで帰って来て、急用ができた、なんて言って上から下まですっかり冬服に着替えて飛び出て行って、そうしたらた帰って来て…」

「一寸、待った」雅也はさえぎった。「ぼくが、帰って来た、って?」

「ええ。帰って来たじゃない」

何時いつのこと?」

「何時も何もないでしょう。あんたが一番良く知っているでしょ」

 そこで雅也はふと思い付いて、

しかして、ぼくは、グリーンのダッフル・コートを着ていなかった?」

「そうよ。判ってるじゃない。あれ、何処どこてて来たのよ?」

「あああ」雅也はた頭の中が混線して、その場でうずくまった。「今日はおかしなことばかり起こる」

 そこに至って、由美子はっと真顔になった。

「ねえ、おかしなことばかり、って、一体どういうこと?」

「きみもおかしいと思うかい?」

「ええ。今日のあんたは丸で隠しごとがあるみたいで、挙動不審きょどうふしんだな、って思っているんだけど」

「ひょっとして、それとこれと、関係あるのかも知れない」

 そこで雅也は、「ぐり書房」での一部始終を話した。竹生健、と云う名も知らぬ男の名前を口にすると、由美子は怪訝けげんそうな顔をした。そして、噛んで含めるようにゆっくりした口調で、

「あなた、本当に竹生健って誰のことだか、記憶にないの?」

 と問うた。ない、と答えると、心底惘あきれた顔をして、

「あんた、しかしたら病院に行った方が良いかもしれないわ。竹生健、って云ったら、あんたのペン・ネームじゃないのよ。しっかりしてよ、もう」

 と言うのである。

「ぼくのペン・ネームだって? ――ああ、そう云や、江川さんもそんなこと言ってたっけ」

「そうよ。あなたのペン・ネームでしょ。忘れたの?」

 雅也は頭を抱えた。そしてうなった。

「ううむ。思い出せない。誰か別人の名前じゃないの?」

 すると、由美子はた呆れた顔をして、

「自分のペン・ネームを忘れるひとが何処どこにいますか」

 と、しっかりしてよ、を繰り返した。

「だって、思い出せないものは、思い出せないんだもの」

「じゃあ、篇輯者へんしゅうしゃの、エディタさんの名前は思い出せる?」

「――ええと、町屋さんと大飯さん…。他にもいたかなあ? えず二人だけ」

「今は何の雑誌に何を連載している?」

 そう問われると頭の中は真っ白になる。

「……思い出せないな」

「じゃあ、どんな仕事をしていたかは?」

「…何か書く仕事をしていた、ような、気はする」

「去年貰った賞は?」

「――賞なんか取ったっけ?」

「ダメだこりゃ。――そうだ、あなた、メールをチェックしてみなさいよ」

 雅也はぽかんとして、

「メール? 何で?」

 と問うた。

「だって、エディタさんから連絡があったら困るでしょ。早くなさいよ」

「はい、はい」

 かされるまま、雅也は書斎にあるデスクトップPCまで飛んで行った。メーラを起動して見ると、果たせるかな、町屋から一通入っていた。


「佐竹様

 次号より十回分の原稿、本日拝受いたしました。ざっと拝読いたしましたが、適宜てきぎ細かい部分で手を入れて頂く必要があるかも判りません。その折りは追ってご連絡差し上げます。ではお礼かたがた、ご連絡まで」


「どう? 昨日送稿そうこうしているのよ。何か思い出した?」

「ううん」雅也は頭を抱えた。「…ううん、ダメだ。他のメールも読んでみる」

 雅也はその他のメールも開いた。他の新着三件は知人からで、もう一件は件名も差出人も空欄になっている。雅也は大抵、このようなスパムまがいのメールは読まずに破棄はきしてしまうのだが、その朝は何心なく開いた。


「佐竹くん

 このようなメールを出すのは、ぼくとしては大変気が進まないのだけど、いろいろ思い合わせたその結果、こういう結論に至りました。ぼくとしては、もうきみと一緒に仕事をすることは望みません。ぼくはえず、玉青丹ぎょくせいたんを探しに出ます。ぼくのことは探さないで下さい。お元気で。

 竹生健拝」


「これは…」雅也は息をんだ。「竹生健からのメールだ」

「何ですって!? どれどれ…、あら、ほんとだ。――探さないでくれ、って書いてあるけどねえ」

「でも、探し出さないと明日から仕事はないぞ」

「玉青丹を探しに、ってあるけど、一体何なのかあんた知ってる?」

「知るわきゃないだろ」

「でも、昨日までは一緒に仕事してた仲でしょ」

「そうだけど…。それでも聞いたこともないや。仁丹みたいな薬かな? 漢方薬にありそうな名前だけど」

「調べて見なさいよ。そろそろお昼になるから、あたし、支度したくしなくちゃ」

 雅也が検索エンジンで「玉青丹ぎょくせいたん」に就いて調べてみた所、情報は僅々きんきん数件のウェブ・サイトで見付かった。


「玉青丹 レア度★★★★★

 中国南西部、中越国境付近に広がるパオでの特産物とされるお香だそうです。我が国へはごく少量のみの輸出しか認められていないようで、お香に目がないわたしでも、日本国内で売られているのを見たことは一度きりしかありません。然もわずか八ミリグラムに六桁の値段が付いていました。この玉青丹、『変化をもたらすお香』として一部では名代なだいらしいのですが、詳細は不明です」


 一番詳細に取り扱っているサイトでも、精々この程度の記述なのである。

 雅也は由美子を呼ぼうとした。その時、由美子が頓狂とんきょうな声を上げて書斎に駆け込んで来た。

「ちょっと! 大変!!」

「ど、どうしたの?」

「竹生健がラジオに出てるの!」

 それには雅也も度肝どぎもを抜かれた。ステレオは書斎にもあるのだが、由美子が此方こっち、こっち、と引っ張るので、雅也は引かれるままダイニングに這入はいった。

 すると、まぎれもなく自分の声で竹生が喋っている。NHKのFM放送だった。

さて、竹生さんの音楽趣味に就いては、もうつとによく知られている所ですが、具体的にはどういった方面をお聴きになるのですか?」

 女性アナウンサーの問いに対して、竹生健は、

「そうですね。先ず、ぼくはクラッシックは殆ど聴きません。ぼくの耳には、クラッシックは嘘吐うそつき音楽に聞こえるんですよ。ま、知っているのはベートーヴェンが怖い顔をしているのと、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが巻き毛のウィッグを着けて気取った顔で澄ましているのと、その程度ですかね。

「ジャズは一部だけ聴きます。一番気に入っているのはコルトレーンがジョニー・ハートマンと共演しているアルバムと、ジョン・マクラフリンがマイルス・デイヴィスと共演しているアルバム、それとニルス・ラングレンの『ゴートラント』アルバム、あとエリック・ドルフィーの『アウト・トゥ・ランチ』というの、それからMJQやローズマリー・クルーニーやらエラ・フィッツジェラルドやらセロニアス・モンクやらビリー・ホリディやらテレサ・ブルーワーやら、まあざっとそんな所が関の山です。

「――後はブルーズとロックになります。ブルーズでは、ロバート・ジョンソンやブラインド・レモン・ジェファーソン、それから俗に云う三大キング、詰まりB・B・キングにフレディ・キング、それとアルバート・キングを筆頭に、エルモア・ジェイムズやハウリン・ウルフ、マディ・ウォーターズにジョン・リー・フッカーなどなど、一杯いますね。

 ロックの方だと、更に沢山います」

 竹生健は愈々いよいよ以て立て板に水、此処ここ先途せんど滔々とうとうと喋り出した。

「アトミック・ルースター、イングランドにニュー・イングランド、スティーヴ・ミラー・バンド、アージェント、ナザレス、トリリオン、707、ZZトップ、スラップ・ハッピー、ゴング、マイク・オールドフィールド、スタックリッジ、ブルー・チアー、ビッグ・スター、ブラック・サバト、ブルー・オイスター・カルト、テッド・ニュージェント、コーギス、パイロット、バランス、アークエンジェル、ディクソン・ハウス・バンド、ジェネシス、ディーゼル、メガデス、ジ・オールマイティ、ケヴィン・エアーズ、ジェフ・ベック、ジェフリア、リック・デリンジャー、エドガー・ウインター、アル・クーパー、エンジェル、ヴァン・ダイク・パークス、モーターヘッド、ホークウインド、UFO、プラスティック・ペニー、ファストウェイ、MSG、ロビン・トロワー、イエス、ロリー・ギャラガー、デイヴ・メイスン、アイアン・メイデン、アイアン・モンキー、ティアマット、ピーター・フランプトン、デペッシュ・モード、ソフト・セル、ラッシュ、スティックス、カンサス、スパイ、ザ・カーズ、トム・ペティ・アンド・ザ・ハートブレイカーズ、ピンク・フロイド、タイガーズ・オヴ・パン・タン、ファウスト、プリンス、ラプソディ・オヴ・ファイアー、ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック、チッキン・シャック、ボストン、エマーソン・レイク・アンド・パーマー、トーヤ、トム・ウェイツ、ゲイリー・ムーア、ヴェノン、トレイル・オヴ・ティアーズ、マスターマインド、オール・スポーツ・バンド、セプティック・フレッシュ、クロウバー、ムーンスペル、アイヘイトゴッド、ウインガー、ルネッサンス、ヤードバーズ、クリーム、フェアポート・コンヴェンション、サンディ・デニー、ニック・ドレイク、セックス・ピストルズ、ピーター・ハミル、ブロードウィン・ピッグ、エイジア、キング・クリムゾン、ニュー・オーダー、U2、UK、アダム・アンド・ジ・アンツ、TOTO、スプリング、チューブス、ポコ、ダイアー・ストレイツ、キャラヴァン、キャメル、ソフト・マシーン、ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーター、レインボウ、シルヴァー・サン、ザ・シーズ、ヒューズ、ドライヴ・シー・セッド、オフスプリング、ニック・デカロ、GTR、ガーランド・ジェフリーズ、スティーヴ・ハケット、アンソニー・フィリップス、ニュー・トロルズ、ゴブリン、オザンナ、レ・オルメ、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ、アルティ・エ・メスティエリ、イル・バレット・ディ・ブロンゾ、デリリウム、クエラ・ヴェッキア・ロカンダ、アネクドテン、トッド・ラングレン、ユートピア、ジ・エニッド、バンコ・デル・ムトゥオ・ソッコルソ、スザンヌ・ヴェガ、サグラド・コラソン・ダ・テッラ、イエロー・マジック・オーケストラ、ワールズ・エンド・ガールフレンド、P-MODEL、マンドレイク、シャーデー、カン、ドリーム・シアター、クラスター、トリウムヴィラート、オライオン・ザ・ハンター、ペンドラゴン、マリリオン、イット・バイツ、ダーク・トランキュリティ、クローミング・ローズ、ハロウィン、タンジェリン・ドリーム、グル・グル、アシュ・ラ・テンペル、クラウス・シュルツェ、ガンマ・レイ、スコーピオンズ、カーカス、ヘルダーリン、ブラック・ウィドウ、ノヴァーリス、アモン・デュール、グリフォン、リチャード・ハーヴェイ、アレックス・ハーヴェイ・バンド、イースト、シュコルピオー、コラージュ、サテライト、アングラ、クルーシス、レイプマン、ケイト・ブッシュ、クレシダ、スティル・ライフ、クレイドル・オヴ・フィルス、エピデルミス、アヴァロン、ネットワーク、スパークス、セミラミス、ホワイト・ライオン、L・A・ガンズ、J・J・ケール、エメラルド・レイン、ヴェイダー、アンスラックス、アメリカン・ティアーズ、ユニヴェル・ゼロ、ジャニス・ジョプリン、クラトゥ、ザ・フロック、カーヴド・エア、イン・フレイムス、インスパイラル・カーペッツ、メロウ・キャンドル、ブロンズ、FM、シン・リジィ、ラビット、ブロンディ、プレイング・マンティス、フランク・ザッパ…」

 雅也がっと聞いていると、竹生健はバンド名を淀みなく羅列られつしていった。それは当然乍ながら、雅也のレコード・コレクションと完全に合致がっちしていた。

 と、由美子が唐突に雅也の肩を強く揺すった。

「な、何だい?」

「何だいじゃないわよ。いま、あんたのペン・ネームは、NHKのスタジオにいるのよ。急いで追い掛ければ、捕まえることができるじゃないのよ!」

 由美子はそう怒鳴り散らすと、それでは手緩てぬるいと思ったのか、雅也をててコートを着せ、財布と携帯電話をバッグに放り込むと雅也の手に押し付け、

「急いで、急ぐんだよっ!?」

 と念を押した。雅也は一も二もなくうべなって外に出た。八王子駅までは、急歩きゅうほで十三分の距離にある。雅也は「ドミール緑が丘」を後にすると、走った。走るのは実に五年ぶりのことではないか、と平生へいぜい慢性的に運動不足の雅也は思うのである。いずれにせよ、八王子駅に着いた時にはすっかり息が上がり、未だ三月だと云うのに汗塗あせまみれだった。が、次の快速電車は、と思いながら時刻表を見ると、幸いにも五分後に上りの「スーパーあずさ」が来ることが判り、迷わず券売機で自由席特急券をもとめた。この特急なら快速電車の半分、三十分で新宿に出られるのである。

 列車は定刻に入線した。雅也が適当に撰んだ空席に着くと同時に、動き出した。

 八王子から新宿までの時間は、長かった。雅也は偶々バッグの中に入っていたiPodでナパーム・デスを聴きながら、始終足を踏み鳴らし、落ち着かなげに窓外に眼をやったりしていたが、東中野を過ぎる辺りから腰が落ち着かなくなり、デッキに出て終着駅への到着を待った。

 漸くのことで列車が新宿駅のプラットフォームに滑り込み、更に時を経て空気の洩れる音と共にドアが開くと、雅也は一目散に走り出し、エスカレーターを一足飛いっそくとびに駆け上がり、山手線内回りのプラットフォームを目指した。

 遂に目指す渋谷駅へ到着したのは、それから更に十三分後のことである。雅也は駅前のスクランブルを、信号は赤なのに構わず突入して走り抜け、一路センター街へ向かった。

 NHKの局舎に着いた時、雅也はすっかり息を切らしていて、守衛の詰め所前で肩で息をしてあえぐ様なていだったので、余計に人目を惹く仕儀しぎになった。が、それを幸便こうびん、雅也は話が切り出しやすくなった。

「ふうん。忘れ物、ねえ」守衛は考え深げな顔で言った。「で、あなたが出演なさっていた、って云うのは、一体何と云う番組です?」

「午前十一時からの、『わたしの音楽人生』です。若しかしたら未だ続いているかも…」

「ええっ!? 未だ終わってないの? それじゃああんたは一体どうして此処にいる訳?」

 問い詰める守衛に対して雅也はへどもどし、

「ああいや、もう終わってる、終わってる番組なんですけど、ス、スタジオに忘れ物をしてしまって…」

「ふうん。忘れ物をねえ」

「あの、松倉アナウンサーの番組なんですよ。スタジオは何処か忘れてしまったけれど…。それから、松倉さんに一寸お話し申し上げたいこともあって…」

「松倉潤子アナウンサー担当の、『わたしの音楽人生』ですね? 今一寸ちょっと聞き合わせてみます」

 言うと、守衛は詰め所で電話を架けてたれかと会話をしていたが、やがて受話器を置き、やや横柄おうへいな態度で、

「松倉アナ、今から十五分間だけなら用談ようだんは可能だと云うんだけど。どうします?」

「ああお願いしますおねがいします」

「それじゃあね、三階のスタジオA-303の控え室へ行かれて下さい」

 そう云うと、守衛は稍胡乱うろんらしい眼を雅也に向けていたが、入口は解錠してくれた。中に這入はいった雅也は、未だかつて足を踏み入れたことのない放送局と云うものの発する名状めいじょうがたい雰囲気にすっかり気を取られていて、危うく要件ようけんを忘れるところだった。中で行き逢うたひとに問うてエレヴェーターを教えて貰い、三階に着くと右往左往している内に「A-303」とのプレートが眼に留まり、ノックもせずにドアを開けた。――中にいたものは人間ではなかった。いわ形容けいようがたい存在であった――頭の上には苔のような緑色のものをせ、皮膚の色も緑色がかっていた。

 其奴そいつに見つめられて、雅也は思わず後退あとずさりした。――と、「それ」は日本語標準語で言った。

「困るなァ、勝手にスタジオに入って来られちゃあ。今、撮影の準備中なんだよ。さあ、直ぐ出て」

 すくんだ雅也は、

「ごっ、ご免なさい」と怪物に謝り、「控え室へ行け、と云われたものですから…」

 と弁疏べんそした。その緑色の人間植物は、右腕を上げると――その両腕からも羊歯しだの葉に似たものが不気味に垂れ下がっていた――、スタジオの隅の一寸ちょっと奥まった所にあるドアを指差した。

「控え室なら、其処そこさ」

「あ、有難うございます」

 雅也は後頭部に手を当てて、声色共々窘蹙きんしゅくした態度を露わにし、人間植物に教えられたドアをノックした。と、打てば響くような按配あんばいで、

「はあい。今行きます」

 との返辞へんじがあった。間違いない、と雅也は思った。最前、番組の中で自分のペン・ネームと会話をしていた人物だ。

 雅也はドアを開けた。

「失礼します、松倉さん」


 と、松倉アナは、クリップでボードに留めた書類に目を通していたが、雅也を認めると眼を丸くして、

「あら」と云った。「竹生さん。どうかなさいましたか?」

 と問われて雅也は一寸迷った。けれども、直截ちょくせつに事情を話すと、どのように思われるのか薄々推測できたので、核心はかすことにした。

「…ええと、ですね。――ああそうそう、先程はお世話になりましてどうも有難うございました」

 ぺこりと頭を下げると、事情を呑み込めず曖昧あいまいな微笑を口辺に漂わせた松倉アナも釣られたようにお辞儀じぎした。

「あの後なんですけど…、ぼくは一体次に何処どこへ行く、と申していましたか?」

 雅也が問うと、果然かぜん松倉アナは微笑を消し、いささか値踏みするような目つきで雅也を見た。その刹那せつな、雅也は嘘を考え付いた。

「いえね、先程あなたとお話ししたのは、ぼくの双子の弟で本名は佐竹雅也と申しまして、小説家なんですけど、ぼくはその兄で、雅和と申しまして、彫刻家をやっているのです」

 それを聞いて、松倉アナはた余裕のある態度を幾らか恢復かいふくしたようだったが、

「ご兄弟なんでしたら、直接お訊きになられれば良いじゃありませんか?」

 と、もっと至極しごくなことを言う。そこで雅也は、

「いえね、彼奴あいつは神経に一寸おかしなところがありまして、兄のわたしでも手を焼いているのですが、気分が猫の眼のごとく変わるのです。全く扱いに困る弟で。弟とは今朝方けさがた一寸ちょっと電話で話したのですが、秋刀魚さんま、あの海で泳いでいるお魚の秋刀魚ですが、かくそれに関する見解で不一致を見ましてね、今ちょっと容易に話ができない情況じょうきょうなのですよ。――それで、今度母の三回忌なのですが、その法要ほうよういて早急そうきゅうに話し合いを持つ必要がありましてね。連れ合いから、このラジオに出ている、と聞いてすっ飛んで来た、と云う次第なのですよ」

 と口から出任せが出るまま滔々とうとうべんてた。実際には、雅也には兄などいないし、母親も未だ健在けんざいである。

 併し、松倉アナウンサーにはかなりの印象を与えたらしい。松倉は、

道理どうりで服装が違うと思いましたわ。…でも、髪型からお顔立ちまで、弟さんと瓜二うりふたつですのね。声色こわいろまでも。一目じゃ見分けが付きませんわ。――あ、弟さんは、これから赤坂の方に行かれる、とか仰有おっしゃっておいででした」

「赤坂へ?」

「ええ」と松倉アナは云う。「何か、大変お急ぎのようでしたけど」

 雅也はあごに手を当てて思案にれた。

「何があったんだろう」

 が、アナウンサーは、身動みじろぎして、

「あのう、あたし、これからた収録があるんですが…」

 と言った。雅也は、詮方無せんかたなしに、

「そうでしたね。――いや、大変参考になりました。では、どうも有難うございました」

 と言い残し、これからあの気色悪い人間植物マタンゴと仕事をするらしい松倉アナを残してスタジオを出た。

 ――赤坂、ねえ。

 一体何の用向きがあって赤坂などへ行くのだろう?

 雅也は考えかんがえNHKの局舎きょくしゃを後にした。自分の空腹に気付いたのは、その直後のことである。

「しまったッ!!」

 雅也は思わず口の中で毒突どくづいていた。NHKの局員食堂では悪くないメニューがきょうされるらしい、ということを聞かされていたので、うわさは本当かどうか、確かめたいとかねがね思っていたのである。日常、雅也は、TVやラジオはおろか、文芸誌の対談企画にすら出ることを渋っていた。雅也は敬慕けいぼする永井荷風ながいかふうおういましめを堅持けんじし、「文士の俗物ぞくぶつ化に抵抗する一文士」としての立場を取っていたからである。

 ――チェーッ、絶好の機会だったのになぁ。

 併し、何を言ってももうあとまつりだ。た同じ手を使って這入はいむ、と云う方法もあったが、強引に過ぎる。

 雅也はこの際だから赤坂まで足を運ぶか、とも思ったが、竹生健がどういう行動を取るのか不分明ふぶんめいな今、不用意に動くのもまずかろう、と思って一旦八王子へ引き返すことにした。

 丁度良い時刻の特急が見付からなかったので、雅也は中央線快速電車で帰途に就いた。

 雅也の携帯電話が鳴ったのは、阿佐ヶ谷の辺りだった。自宅からだった。車内は空いていたので、雅也は躊躇ためらわずに電話に出た。すると、由美子の昂奮こうふんした声があふてきた。

「あなたッ!! 大変! 今、TVに出てる!」

 それを聞いた雅也も、周りの客が思わず顔を上げるほど頓狂とんきょうな声で、

「ええッ!?」と叫んだ。「TVだって? 局は何処どこ?」

「民放よ」

 それで雅也もっとちた。

「あの、赤坂にある?」

「そう。よく判ったわね。知ってたなら直行すれば良かったのに」

「いや、NHKでは赤坂に行くようなことを言っていた、とは聞かされたんだけど、具体的な行き先まではわからなかった」

「そう」由美子は考えるように数秒の沈黙を挟んでから、「あんた、今、何処どこにいるの?」

「帰りの電車だよ。中央線の中」

「あらそう。じゃあ、帰って来るのね」

「それしかないじゃないか」

「竹生健の行き先にいては、何かてはある?」

いや此方こっち模糊もことして見当が付かない。きみは?」

「あたしは一つある」

何処どこだい?」

パオよ」

パオ?」

「そう。あれからウェブで調べたのよ。海外の、英文サイトにも行ったんだけど、どうやら竹生健の欲しがってる玉青丹という香は彼処あそこが世界最大の産出地らしいのよ」

「包、って…、あの、中国とヴェトナムの間にある……小都市国家の集合体」

「ええ。バックパッカーの天国、とか、ヒッピー幻想げんそう終焉しゅうえんの地、とか呼ばれているらしいけど」

「ははあ。ぼくには余り見当も付かないんだけど、危険じゃないのかね?」

「そういう話は聞かないわね。――あたしのお友だちの中にも、包へ行って来た、ってひとが何人かいるけど、彼処あそこでは不幸になるひとがいない代わり、幸福になって帰って来るひともいない、って評判だけど」

「? どういう意味だろうね?」

「電車の中なんでしょ? えず一旦帰って来なさいよ」

「その、TVの録画、頼めるかな?」

「もうとっくにやってるわよ。急いでね。寄り道しないで」

わかってる」

 電話は切れた。雅也はその後の三十分間、ハットフィールド・アンド・ザ・ノースを聴きながらじりじりして座っていなければならなかった。

 疲れ切った身体を引きずってようやくマンションまで帰り着くと、由美子は直ぐに出た。

「お腹減った」

「もう昼をとっくに過ぎてるもんね。用意してあるから、ぐ食べて」

 昼食は親子丼だった。雅也は由美子が録画しておいた昼のヴァラエティ番組を見乍ながら食べた。

 番組の中では、雅也――いや、竹生健は、予想通り出放題でほうだいなことをしゃべっていた。

「わたしはだナポレオン・ボナパルトとは会見したことがないんですが、その内時間を作るつもりです」

 とか、矢張やはりポーカー・フェイスのままで、

「ブラック・フライデーが来たら、飼ってるカンガルー全員に餌をやって、それから穴を掘って逃げ込みます」

 だのとほざいている。竹生が何か言う度にスタジオ中に笑いの渦が広がる。番組のホストたるタレントは腹を抱えて笑い転げている。

 雅也は溜め息をいて妻のれてくれた茶を啜った。

「ね。ひどいでしょ?」

「ああ。想像以上にひどい」雅也は渋面じゅうめんを作って答えた。「ぼくはナポレオンを飲むのは好きだが、別に会いたいと思ったことなどないぞ」

「でも、あんなことを言われちゃったら、この先周りからどう扱われるものか判ったもんじゃないわね」

「ああ。全くだよ」

 雅也は頭を抱えた。

「ねえ、それよりさ、包のことだけど」

「ああ、そうだ。そのことがあった」

「あなたのペン・ネームは、今頃は飛行場にいるか、或いは向かっているんじゃないか、と思うんだけど」

「すると包へは、飛行機で行くのかい?」

 問われた由美子は、

「まあ、あきれた。何も知らないのね」と言う。「包へは、目下、外国から入るには稚内空港からの便しか通じてないのよ」

「へえ、そうなのかい。それはまた随分北にあるんだな」

「…かく、竹生健は今頃、稚内空港行きの飛行機に乗ろうとしているはず

 と言って、由美子はJTBの時刻表を出した。

一寸ちょっと待てよ」雅也は由美子を制した。「朝方『ぐり書房』で見せられた本の中には、紀行文もあったようだ」

「ええ。何冊か書いていたわよね」

「交通手段には何を使うことが多いかな? ほら、一口に北海道へ行くと云っても、飛行機の他、鉄道だの車だの船だの、幾つかルートがあるだろ。竹生健が使う可能性が一番高そうなのは、何だろう?」

「そうねえ」由美子は一寸上を向き、思案していたが、やがて雅也の書斎に入った。数分して何冊か本を手にして戻って来た。「これは、『大井川鐵道で巡る、〝芋神様いもがみさま〟の旅』、これは、『行路病者ゆきだおれの夜』、それから、『我を捜しに』…、あたしに見付かった限りはこの辺ね。――どうも紀行をまとめた本では、鉄路てつろを使ったものが多いようだけど」

矢張やはりそうか。ぼくもそんな気がしていたんだ。――鉄道でも、新幹線みたいのは好まないだろうね。夜汽車にごとごと揺られて行くのを好むようなタイプだと思う」

「タイプだと思う、って、それあんたの分身じゃないのよ」

「いいや、違う」雅也は断乎だんことして言い張った。「ぼくの分身じゃない。別個の人間として、確固かっこたる人格を有している」

「急にむつかしいことを言い出して。何でそう云えるのよ?」

「だって、ぼくのペン・ネームは、ぼく以外の他人に付けて貰ったものだからさ」

「他人? 誰よ?」

「きみは知らないかも知れないが、北大理学部にいた頃、研究室の指導教官としてお世話になっていた高田先生が付けて下さったものだ」

「そう」由美子は暫時ざんじ考えていたが、やがはたと膝を打った。「名案めいあん。その高田教官に、もう一度別の筆名を付けて貰えば良いのよ」

 しかし、雅也はかぶりを振った。

「ダメだね」

「どうしてよ?」

「三年前に物故ぶっこなさったの、覚えてないかい?」

「あーっ」由美子は心底口惜くやしそうに膝を叩いた。「じゃあ、残る道は…」

 雅也は首肯しゅこうした。

「ぼくも、夜行列車でことこと行くしかないのさ」

「じゃあ、早く旅支度しないと」

 言うが早いか、由美子はクローゼットを開けて大きなキャリー・バッグを出し、ほこりを払った。雅也は着替えや非常用食料のスニッカーズなどを出した。こういう時に実際的にできているのは女の方で、由美子はてきぱきと洗面道具や下着を取って来て、バッグに整然と詰めて行った。

 その間に、雅也は時刻表を取って来て、それが去年の五月に由美子と伊勢参いせまいりをした時に買ったものだったことに気付き、あわてて外へ出て近所の本屋で最新版の時刻表を買い込み、ついでに銀行で金を下ろした。幸いまとまって原稿料が入った所だったので、旅費を出金しても由美子一人の当座の生活費は何とかなりそうだった。更に幸いなことに、雅也、否、竹生健は長い連載を先月終えたばかりの身で、他に続けて書かなければならないものは不定期連載が一本あるのみだったが、これは何とか誤魔化ごまかせそうだった。

 雅也がダイニングで時刻表をぱらぱらめくって見ていると、

「そうだ」と由美子が作業をしていた寝室から呼んだ。「あんた、旅行会社行かなくていいの?」

「ああ」雅也は未だ時刻表に気を取られたまま、半ばうわそら返辞へんじをした。「直接駅の『みどりの窓口』で買うしかないだろ。――それに、パスポートの期限も切れていないし」

「あら」由美子が云った。「あんた、知らないの? 包はパスポート、らないのよ」

「「ええ?」雅也はおのが耳を疑った。「パスポートが不要? まさか」

「何でも、包の創設者が日本人で、何やら政治的な裏取引があったとかなかったとかで、要らないんですってよ」

「ふうん。道理でおかしいと思った。稚内空港から国際線が出ている、なんて話は聞いたことがなかったしな」

「それより、ねえ、列車の時刻が判ったら、此方こっちに来て荷造り手伝って。長旅になるかも知れないし、とっても大変なんだから」

いや、その時刻表なんだが」雅也は時刻表を持ったまま、寝室へ向かった。「一寸ちょっと判らないね」

「どうして?」荒い息で由美子は問う。「新幹線は使わないで、夜行なんでしょ?」

「ああ。ところがそれが二本あるんだよ。一本目が、午後四時二十分発の『カシオペア』で、二本目が、午後七時三分発の『北斗星』なんだ」

「あらそう。――あんた、一寸ちょっと其方そっち持ってて。それじゃ、一本目は乗れないわね」

 雅也は時計を見た。既に午後四時前である。

「本当だ。チェッ、彼奴あいつのことだ、『カシオペア』に乗るに違いない」

「どうして判るの?」

「まあ、長い付き合いだからね。芸林げいりんでは、個室寝台と食堂車の好きな作家と云えば、彼奴《あいつのことになっている」

「ふうん。そこまで判るくらいの仲なら、何も態々わざわざ仲違いしなくても良かったんじゃないの?」

「さあねえ、そもそもぼくが言い出して分袂ぶんべいした訳じゃなし。向こうが勝手に出て行ったんだからさ」

「理由の当てはないの? 何か悪いことを言ったとか、やったとか」

 雅也は時刻表を置くと、顎に手を当てて考えた。

「さあねえ。特にこれと云って記憶はないんだけど」

「そう。――それよりほら、何ぼさっとしてるの。荷造り手伝ってよ。大体あんた、自分の旅行でしょ」

 パック・アップが済むと、荷物は大きなバッグ三つになった。

「うへえ。こんなに持って行くのか」

「だって、かなり広いみたいよ、包って」

「広い?」

「…と云うか、テントが多い、と言った方がより精確せいかくなのかも知れないけど」

「そうか。じゃ、一体何時いつ帰って来られるか判らないんだな」

 そう思うと、妻女さいじょともこの住居すまいとも当面お別れなのだな、とがらにもなく感傷的になって来た。

「ねえ、新幹線じゃダメなの? 東北新幹線で行ける所まで行って、『カシオペア』が来るのを待ち構える、とか」

「駄目だね」雅也は言下げんかに言った。「ご名案、と云いたい所だけど、そんなことをしたら彼奴あいつ屹度きっと勘付かんづいて、途中で下車しちまうぜ」

「まったく、ねえ」由美子は慨嘆がいたんした。「そこまで判り合っているなら、何だって一体態々わざわざ…」

「ぼくが決めたんじゃない。彼奴あいつが独り決めしたのさ」

 由美子は、

「そろそろ、出ましょうよ。一緒に夕食取りましょう」

 と言った。雅也は分厚いコートを着乍きながら、

「最後の晩餐ばんさんだね」

 とおどけた。

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