第2話 ザルム伯領立魔法図書館
朝目が覚めると、部屋の様子がなにか違う、という経験をお持ちの方はいるだろうか。家具の位置がずれている、締め切ったはずの窓が少し開いているとか。
こういうのは十中八九、妖精の仕業であるが、妖精の訪れる人の下には幸運が舞い降りる、というのが常である。
これは、村はずれの占い師の卜占のような怪しげであやふやなものではなく、れっきとした予兆――すなわち、近い未来の暗示であるから、その人にはきっと小さな幸福がやってくる。
さて、僕の寝起きするこの場所では、よく似たことが大変よく起きる。日常茶飯事である。具体的に言うと、枕元に本が危ういバランスで積み上げられていたり、机の上に雑多にばらまかれていたり、ひどいときには、掛布団の毛布の上に乗っかっていることもある。
眠っている間に気付かない僕の図太さも大概のものだが、それはさておき、この図書館は、夜な夜な本が増えていく、不思議な図書館なのだ。
その名も、ザルム伯領立魔法図書館。ザルム記念図書館とも呼ばれたりもするが、僕や関係者たちはここを漂流図書館と呼びならわしている。
というのも、それは夜ごとに本が増えるのを、本が漂着している、と認識してのネーミングだ。ちなみに名付け親は僕。
その仕組みはいたって簡単。空間転移魔法と次元跳躍魔法を複合的に空間に定着させ、その出力先座標をこの図書館内部に固定。あとは、大地から少しずつ吸い上げる魔力だけを動力源に起動し続け、どこからともなく本が仕入れられてくる。
……まぁ、理屈としてはこんなものだ。が、これがいかに高等な複合魔法かはお分かりいただけようと思う。空間転移魔法こそ、カロンヌ公の尽力によりある程度理論立てがなされたものの、自在に行使できるものはついぞ現れず、次元超越魔法に至っては実在を疑われている。
しかし、それらは、ここにおいて、まごうことなく、繰り返し再現されているのだ!
これは奇跡というほかない。魔法に携わる者にとって、この図書館はまさしく神秘そのものなのに違いない。
そんな事情のこの図書館が――本来ならば、今頃大勢の魔法の徒に囲まれて、連日連夜研究の対象になってしかるべきこの図書館が、今日も今日とて平穏無事に過ごせているその訳は、ひとえに故ザルム伯の威光によるものだ。
この図書館の名前にも冠している故ザルム伯は、歩く魔法辞典、大魔法使いなどの呼び声高く、この世の魔法を究めこの世ならざる魔法にも精通しているとも。彼は、四十半ばにして、魔法の秘奥に到達し、その絶技を以てこの図書館を建設したと言われている。
彼とは、その頃からの、まさしく図書館建設当時からの付き合いであるが、というのも、どこから聞きつけたのか、世俗を離れて隠匿していた僕の棲み処を暴き、ぜひ新しく建設する図書館の管理人になってくれ、と頼みに来たのだ。
頼みに来た、という言葉の通り、彼は貴族にあるまじき態度で僕に頭を下げるものだから、当時は僕も彼を貴族とはつゆも思わず、どうせ街の官吏が自分の見栄のために建てた図書館なんだろう、なんて考えて、二度断った。
仮に彼が自身を貴族と紹介したとしても、僕は二度とも断っただろうが、僕が心打たれたのは、三度目の、凍えんばかりの雪の日、僕が眠りこけている間、かじかむ手をこすり合わせながら、僕の目が覚めるのを待っていてくれたことだった。
三度も辺鄙な棲み処におとないを受け、その上、手を真っ赤に腫らしながら僕の起きるのを待ってくれたのだから、いったいどうやって彼の頼みを無下にできようか。
そして言われるがままついていき、四頭立ての馬車を見て驚いた。
あるいは、僕が森の奥に隠居している五十年の間に、馬車というものの価値が下がったのかしら、とも考えた。が、真実は、彼が帝国の一大領邦を預かる領主であり、そして、どこまでもあくなき魔法の徒、ということだった。
僕の個人的な感想としては、彼はとても世間一般に言われるような、書物に書き記されるような大した人物ではない。ただただ子供のように魔法が好きで、それに没頭し、時には寝食すら忘れ体調を崩し、従者の諫言にバツの悪そうな顔をして、スープも喉に通らないような体で、再び研究室にこもる、そんな男だった。
彼に招かれ、図書館に腰を落ち着けたのが二十三年前。その五年後にひとり娘が生まれた。そしてその十年後に死没した。七十三歳であった。
彼の死に特別の感慨を抱くことはなかった。ただ、友達がひとりまたいなくなった、というだけの話だ。……
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