第7話 正義

 田崎がその眼鏡の裏の両眼でゆっくりと覗き込む。それは田崎が教え子を試すときの仕草だった。

 青年は身構える。不甲斐ない学徒にこの老いてなお桂林一枝けいりんいっしな教授先生が何を教え諭すのか、恐れながらも興味があった。


「時に、君は罪だ罪だと口にしてますが、その罪とは何ですか」


「はい、先生。私の罪は然るに自らの正義からの逃走です。そして、私の正義とは一重に名もなき弱者に寄り添い、彼ら彼女らに尽くすことです。故に私の罪はその姿勢を貫けぬことにあります。人に尽くすよりも己のエゴをとったことが私の罪です」


 聡太は、姿勢を正し、その濁った両目と田崎の眼鏡をまっすぐ直線で繋いだ。

 しんとした空気が全身に充満し、高官の質疑応答のように言葉がすらすると湧いて出る。


「なるほど、わかりました。では、その罪は誰が裁くのですか」


「それは、私と私の中の世間です。私の思考と倫理が私の罪を裁きます。そして、私の倫理を構成した多くの要素に先生のお言葉があります」


 聡太の言葉に偽りはなかった。聡太の田崎に対する尊敬は知性だけではなくその倫理、人間性によるものである。

 田崎は微笑み、そこに怒りの色は見当たらない。


「では、君はこれまでで何度その正義を全うし、罪を裁かずにすみましたか


 聡太は沈黙する。答える言葉が無かった。今思えば、自らの正義に添い、行動できたことなど一度もないかもしれない。微かな動揺が聡太の血液を巡る。

 田崎は続けた。


「思うに、正義とは葛藤ではないでしょうか。自ら立てた誓いによってその身を省み、裁くことに根幹がある。正義からの逃走は、葛藤の拒否か盲信です。

 聡太君、私はね、まだ君に心の灯火が残ってると思うのですよ。自らの過ちに苦しみ、悩み、傷つけるその姿には微量ながらほむらが見えます。貴方は、どうですか」


 田崎の言葉は、颯太の鼓膜と思考を揺らしたが、納得には至らなかった。


「やめてください、先生。私に炎なんぞ残っていません。あるのは燃え滓、真っ白な灰です。灰に期待しても仕方ありません……。

 先生、私は早く先生に失望して欲しいのです。失望して、見放されたいのです。私はとうの昔に失望しました、その後髪を引っ張るようなことはやめていただきたい」


 それから、聡太は一言挨拶を言ってそそくさと夢列車から出て行った。田崎の後ろ姿は何処か物寂しげで、颯太の心をちくりと刺した。

 

 

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