第6話 罪

「田崎先生……」


 聡太はいよいよ惨めな気持ちになった。明子どころか田崎にも自らの恥を晒し、彼らの落胆を招くことを考えると胸の奥に重たいものを感じる。


「……聞いていらっしゃたのですか」


 精一杯の質問だった。聡太の頭にはなぜ田崎がこの列車にいるのかなどさしたる関心ではない。

 重要なのは、かの恩師が目の前の教え子の醜態を知っているかどうかだった。

 田崎はその薄い頭をゆっくりと動かす。


「ええ、勿論」


 何たる羞恥、何たる不孝行!

 あれほど手塩にかけ、学問とは何か、研究者とはどうあるべきかを教え抜いた愛弟子が、都落ち、それも己の正義すら貫ぬこうとせずおめおめと帰郷した事実がこうも明らかに露呈したのだ。

 聡太はついぞ逃げ出したい気持ちに駆られた。ここから逃げ出し、近場の山に籠って残りの半生を過ごした方が幾分かましだった。


「逃げてはいけませんよ」


 穏やかだが、鋭い声だった。


 聡太は声の主をじっと見つめる。大学時代、何度も遭遇した感覚だった。

 自らの浅知恵をさも見透かされ、その度に聡太は肌が硬化し、血の引きを感じながら観念するのである。聡太は親の叱りを待つ子のように頭を下げた体勢で田崎の言葉を待つ。


 田崎は銀縁の丸眼鏡をくいっと上げ、微笑み、諭すように放つ。


「私から逃げることは一向に構いませんが、ここで逃げると君は君の正義から逃げることになる、違いますか」


 聡太は下げた顔を動かさず、細々と応答する。


「———一切違いません、私は自らの師と自らの正義、その二つから逃避しようとしました。羞恥の限り、この上ありません……しかし」


 孤独な青年は、涙にれた両目を向ける。


「しかし、私はこの罪を、正義からの逃走を、これまで何度も犯してきました。先生もお聞きになったでしょう。私はとっくの昔に罪人なのです。

———今更罪人が罪を重ねようが、変わらぬことではありませんか」


 罪を赦して欲しい、しかし、罪が赦されぬなら、せめて罪を重ねることを赦して欲しい、そういう懇願だった。

 

 聡太の心は困憊こんぱいしていた。己を罰するとも赦すともしないこの無限の苦しみに霹靂へきれきし、もういっそ、罪人としての道を歩みたかった。

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