第5章 中学校

第29話 登校

 日曜日の朝、俺は家を出た。


 向かう先はかつて自分が通っていた中学校。教科書やノートが入った鞄を背負ってもいなければ、当然制服姿でもない。そんなことを再確認してしまうくらいに、大人になってからの登校は不思議な心地がした。


 学校までの所要時間は徒歩で約三十分程度だったと記憶している。だが、それは中学生当時の話である。重い荷物もなくて歩幅も広くなった今の自分だったら、もう少し短い時間で着いてしまうだろう。


 だからこそ早く着かないように、足取りはとてもゆっくりにする。


 実際に歩いてみた通学路は意外にも昔とあまり変わっていなかった。


 使っていた道はほとんどそのまま残っており、こんなのあったなと懐かしくなるような家や細い路地や古いお店も発見することができた。


 ただ、そのうちのいくつかは空き地になったり、整備された道になったり、新しいお店に生まれ変わったりしていた。


 川沿いの道を少し進み、長い坂を上って、右へ曲がったらまた道なりに。記憶の中にある道と現実の道が重なって懐かしさは倍増する。


 やがて、母校の校舎が少しずつ見えてきた。


 敷地内に入れるわけではないが、せっかくなので外からでも全体を眺めたい。俺は裏手の通用門をくぐることなく、校舎や校庭が見渡せる表の正門のほうへぐるっと回った。


 正門に近づくと元気な掛け声が一斉に響いてきた。その声は校庭で練習していた陸上部の生徒たちのものだった。もうすでにグラウンドを何周もしているみたいだったが、体力はまだまだ有り余っているように見えた。


 高々と土煙が上がる校庭。窓ガラスの光る古びた校舎。奥のほうに見えるのは三年間ことあるごとに利用した体育館とプール。


 溢れんばかりの思い出が、限られた狭い視界の中いっぱいに存在していた。


 ずっとは居られないから、もうここに来ることはないかもしれないから、可能な限りのほんの少しの時間、俺は立ち止まった。


 そして、大きな名残惜しさを胸に踵を返す。


 校舎に背を向けて、振り返ったその先で……。


「おっ、その顔は石狩か?」


 見覚えのある人物が立っていた。特徴的なスキンヘッドの頭に大きく見開かれた目。


「上田……先生」


 かつては毎日のように会っていたが、卒業後は全然交流がなかった。成人式のときに顔をちらっと見ることができたものの、そのときは話す機会がなかったから、こうしてまともに対面するのは中学生のとき以来だ。


「やっぱりそうか。どうした? 学校に何か用か?」


「いや、たまたま通りかかったもんで……」


 ろくな理由も思いつかず、苦し紛れに言い訳をして目を逸らした。


「じゃあ、ちょっと寄ってくか?」


「えっ?」


 予想外の提案に驚き、視線を先生のほうへ戻した。


「今から剣道場に行くんだ。道場の外で待っててくれれば少し話せる」


 先生は気持ちのいい笑顔を浮かべ、促すように俺の後方を指差す。戻れという意味らしい。


「なら、少しだけ」


 突然の提案に迷ったが、受け入れて小さく頷いていた。


「よしっ! ついてこい!」


 元気よく声を出し、先生はさっさと校門のほうへ歩き始めた。遅れを取らないように、俺も慌てて後を追った。


 校門をくぐる。


 学校の敷地内に足を踏み入れるのは卒業して以来初めてだった。もはや神聖な場所のようにも感じる。卒業後にこんな気持ちになるなんて、自由に出入りしていた生徒のときには思いもしなかったことだ。


「久しぶりの学校はどうだ?」


「懐かしいですね」


 周りを窺いながら一言で答えた。まだそれ以外の感想は言葉にできなかった。


「せっかくだから校内にも入るか?」


「いいんですか?」


「というか、俺が剣道場の鍵を取りに行くためなんだけどな」


 先生は豪快に笑いながら、こっちこっちと手招きして校舎のほうへ曲がった。


 中学生のときはクラスごとに定められた昇降口があって、そこで自分の上履きに履き替えていた。でも、今は職員用の玄関口から入って靴を脱ぎ、上履きはないので来客用のスリッパを借りることにした。


 先を行く先生はずんずんと廊下を歩いていた。だが、階段を登って剣道場の鍵がある職員室の前に辿り着くと、申し訳なさそうにこちらを振り返った。


「すまん。ちょっと別の用事を思い出した。十分ほどで終わるから待っててくれ。校内を適当に散策しててもいいぞ」


 手刀を切って詫びられ、俺は首肯を返した。先生は礼を言いながら、人の声がする職員室内に姿を消した。


 せっかく機会を得たので、俺は言われた通りにちょっとだけ校内を回ってみることにした。


 長く真っすぐ伸びた廊下。並んだ教室。階段の踊り場。


 スリッパの音を立てて歩きながら、隅から隅までくまなく視線を動かす。数年しか経っていないので当たり前かもしれないが、あの頃と建物の構造は変わっていない。


 確かこの階だったはずだ。二年生のときの教室。


 一組は多分この辺りだ。


 思い出しながら教室を覗き込むと、均等に並べられた机が廊下の反対側の窓から差し込む陽の光に照らされていた。


 窓の外の風景。位置。角度。


 確信する。かつて、俺はここにいた。


 でも……。


 でも、もうここに自分の席はない。


 そう思ったら、なぜか急に目頭が熱くなった。

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