第30話 上田先生

 職員室に戻ると、一分もしないうちに先生が鍵を持って出てきた。


「待たせて悪いな。さあ、行くか」


 どうしていたのかと訊かれることもなく、再び外へと繰り出した。


「石狩は成人式来てたよな?」


 校舎から少し離れた体育館脇を歩いているところで、先生はおもむろに話しかけてきた。剣道場はさらにその奥のほうにある。


「そうですね。でも、てっきり気づいてないかと」


「あまり先生を見くびらないほうがいいぞ。普段から大勢を相手にしてるんだからな」


 自慢げな瞳がこちらを射抜く。その目はなんでもお見通しだと言うように。


「そういえば、今日は部活ですか?」


 話を切り替えて俺が質問すると、先生は前方へ向き直りながら答えた。


「午後からな。だから、午前中のうちに剣道場の用具を整理しておこうと思ってな。来年はもう俺もこの学校にいないし」


 驚いてどういうことかと見つめると、俺の動揺に気づいた先生は小さく笑った。


「知らんかったか? 異動になったんだ。なんたってこの学校も長いからな。時が来たんだよ」


 思えば、俺がこの中学を卒業してからもうすぐ五年が経つのだ。上田先生は俺たちが中学に入ったときからずっとこの学校にいるのだから、そろそろ離れる時期が来てもおかしくない。


「すみません。確認してませんでした」


「別に構わん。こうやって担任した生徒が立派な成人になるくらい長くやってるってことだしな」


 先生は笑い声を上げながら、こちらをゆっくりと見た。


「石狩は今大学生だろう?」


「……誰かに聞いたんですか?」


「勘だ。でも、石狩が入った高校は地元じゃ進学校だからな。当然のように大学まで進むだろうと周囲は思うわけだ。そして、大学に入ったら四年後に就職、あるいは大学院に進学する。今はそういう流れができてるからな」


 先生は恬淡とした態度で言い切って、近づいてきた剣道場の入り口のほうを指し示した。


「俺は一旦中に入るからちょっと外で待っててくれ。その辺にいてくれればいい。何度もすまんな。すぐに戻る」


 手刀を切り、立ち尽くす俺を置き去りにして剣道場に入っていった。


 先生が完全に中へ姿を消したのを見届けてから、俺は深いため息をついた。想像以上に精神力を使っていたのだろう。これは剣道も強いはずだと妙な感心を抱いてしまった。


 とぼとぼとした足取りでなんとか壁際まで行って寄りかかる。


 それにしても、と今いる位置から俺は辺りを見渡した。


 この場所は、俺たちが中学時代に『告白スポット』として利用していた空間だ。体育館の裏手にあって、人の多い校舎や校庭からは離れている。わざわざここを通るのは剣道部の部員くらいなもので、誰かに見られる心配が少ないから、多感な思春期の男女にとって告白するのに適した場所となっていた。


 当時、人気者だった未翔は一年間のうちに何度もここで告白をされたはずだ。情報網が広くない俺ですら有名ないくつかのケースは耳にしているから、噂になっていないものも含めれば相当な数の告白を未翔はこの場所で受けていたのだと思う。


 でも、逆に未翔が誰かに告白したという話は聞いたことがない。


 そして、誰々に告白されたという話を未翔の口から聞いたこともない。


 新島未翔はそういう話題を極力避けていたのだろう。


 だから伝わってくる噂は、すべて別の誰かからもたらされたものでしかなかった。


「待たせたな」


 上田先生が手を挙げて、駆け足気味でこちらに戻ってきた。


「大丈夫です。そんなに待ってませんから」


「そうか。よしっ、じゃあ続きを話すとするか。で、何話してたっけ?」


 演技なのか、それとも本当に忘れてしまったのか、先生はとぼけた顔をして毛のない頭に手をやった。


「俺たちがもう成人になった、みたいな話じゃありませんでしたか?」


 俺が適当に答えると、先生は「あぁ」と納得したような声を上げた。


「そうだそうだ。教え子たちがみんな立派になって、という話だったな。それはそうと、石狩は中学の同級生とは会ったりしてるか?」


 あけすけに質問され、俺は狼狽えながらも答えた。


「ついこの前、会澤と笹本に会いました。あっ、会澤と笹本というのは、二年のとき先生のクラスだった会澤穂高と笹本亜香里のことで……」


「そこまで言われんでもちゃんと覚えてるよ。名前も顔もはっきりな」


「すごい記憶力ですね。毎年生徒を送り出しているのに」


 純粋に驚いていると、前に立つ大人はにやりと笑った。


「種明かしをすれば、成人式の前にちょっと復習したおかげだ。いつでも全員覚えているわけではない。それに、関わりが少なかった生徒のことはやはり思い出せんこともある。部活とかで一緒にやってれば記憶にも残るんだがな」


 悔しがる先生に、俺は喜んでもらえそうな追加の情報を告げた。


「部活といえば、成人式終わってから氷川にも会いましたよ」


「おー、氷川か。元気だったか?」


「はい。おそらくですけど」


 考えてはみたが、そういう感情が表に出てくるタイプではないので、曖昧な答えになってしまった。


 だが、先生は大いに納得し、ぼやくように言った。


「あいつ、全然連絡よこさないからな。成人式で会ったときも、愛想なく少し挨拶をしただけですぐどこか行っちまった。けど、考え方によってはそれだけ今が充実しているってことかもしれん。頻繁に連絡してきたり学校に姿見せたりする奴のほうが、案外うまくいってなかったりするからな」


「……それは経験則ですか?」


 押し殺した声で尋ねると、先生は静かに俺の目を見つめた。


「いや、当てずっぽうの適当則だ」


 豪快な笑い声が午前の青く晴れた空の下に響いた。


 この人は鋭い。無頓着に見えて、実は全体をよく捉えている。相手の出方、癖、そういったものから状況を判断し、常に正確無比な対応をしてくる。敵にしたらこれほど手強い人間はいない。


 それならば、逆に訊いてみたいことがある。


 俺は一つ息を吸い、尋ねた。


「新島未翔のことは覚えていますか?」


 先生の目の色がまた変わった。どういうことか説明を求められている気がしたので、俺は言える範囲で述べた。


「会澤たちと会ったときに彼女の話になったんです。高校に入ってから失踪したって聞いてたんで、俺たちもいろいろと気になって……」


 さすがに『未来人』という言葉は出せなかった。


 だがそれでも、未翔という人間に対しての意見を聞き出すのには充分だった。


「失踪事件については、詳しいことを知らないから話せん。だが、新島のことは転校してきたときから俺も気にはしていた」


 先生は苦渋に満ちた顔をしながら、俺の隣に立って背中を壁に預けた。


「転校生ということでうまく学校に溶け込めるか様子を見ていたが、明るい子だったし、早い段階から友達も作っているようだった。たまに『調子はどうだ?』と声をかけたりしてみたが、その都度楽しそうな笑顔で返事をくれた」


「問題はなかったんですね」


 俺が独り言のように呟くと、先生は俯きながら小さく息を吐き、首を横に振った。


「それは違う。問題が見えないことが問題だった」


 俺は息を呑んだ。先生は構わずに続けた。


「剣道の試合で俺が相手と向かい合ったとき、どこを一番気にすると思う? それはな、相手の抱えている問題は何かということだ。すべての人間にそれはある。問題点がはっきりと見えてしまえば対策を考えることができる。生徒を相手にするときもほとんど同じだ」


 厳しい表情のまま、先生は虚空を睨みつけた。


「でも、それが見えないときというのがある。その状態こそ、最も危険なんだよ」


 誰にでも抱えている問題はある、というのはもはや使い古された言葉だ。子供の頃から何度も耳にしてきたから、当たり前の常識としてみんなが認識している。


 けれども、その問題が何かを完璧に見破ることはいつになったってできない。あるとわかっているのに気づかなくて、ひどいときはあるということすら忘れる。


「ああ見えて、新島は自分から誰かに悩みを相談するタイプじゃなかったからな。本音は言わないし、取り繕うのもうまい。そういう意味では困った生徒だったよ」


「すごいですね。そこまで見えてたなんて」


 驚きを通り越して、もはや感動すら覚えてしまった。


 星空の下、未翔と二人で話した、あの林間学校の夜。


 俺だけしか知らないはずの未翔の姿に近いものを、この先生は捉えているのかもしれないと思った。


 だが、先生は俺の称賛を素直に受け取らずに頭を振った。


「実際は認識も対応も不足していた。剣道でいえば、攻めていったが有効打突にならなかったみたいなもんだ。最後の最後まで新島のことはわからんかった。もっと何かできたんじゃないかという想いだけが残っている」


「もっと何かできた……」


 俺はそれ以上言葉が出なかった。それだけ先生の言ったことが、自分の中の後悔の感情と強く共鳴した。


「長く教師をやっていると何度もそんな場面に出くわすよ。会澤のときだってそうだった」


 急に出てきた名前に何のことかと思っていると、語気を強めて先生は言った。


「体育祭の組体操の練習で怪我をしただろ? 覚えてないか?」


「覚えてます」


 俺は一言で答えた。だが、先生の口からその話題が出たことに内心びっくりしていた。


 組体操での会澤の怪我は、俺たちが挑んでいる謎の一つに関わることだ。


「あの日の怪我もな、もしかしたら防げたかもしれないと思っている」


「どういうことですか?」


 心臓の鼓動がだんだんと早くなる。何かとんでもない事実が浮かび上がってくる予感がした。


「虫の知らせがあったからな」


 先生はそう切り出すと、静かに語り出した。


「練習にも慣れてくる頃だから、危ない時期だとは思ってたんだ。ちょうどあの日も、午後の体育の授業で競技の練習に集中せずに恋愛話をしていた女子たちがいた。だから、授業が終わった後にそいつらを集めて注意したんだ。恋にうつつを抜かしてると怪我するぞ、ってな。もちろん恋をしたって構わないのだが、気が散った状態で練習をしていては危険だからな。そうしたら、その日の放課後に会澤が大怪我をした」


 表情を歪ませる先生の横で話を聞きながら、俺は必死に時系列を整理していた。


 何かが、繋がりそうだ。


 そして、一つの道筋に気がついたとき、俺の口は無意識のうちに動いていた。


「その注意した女子の中に未翔は、新島未翔はいましたか?」


 慌てて質問する俺を見て先生は怪訝な顔をしたが、それが重要なことであるというのは伝わったのか、じっくりと思い出すのに時間を使ってから返答してきた。


「確か、新島もいたな。中心で盛り上がっていたのは別の女子だったが、同じグループにいたからまとめて注意した」


 予想通りの答えだった。繋がった道筋が頭の中で強く光る。


 第一の謎において、ずっと探していた『トリガー』が見つかってしまった。


 俺が呆然としていると、先生はため息を一つ吐いて言った。


「でも、もうこの学校で組体操での怪我をする奴はいなくなったからな」


「なぜですか?」


 理由がわからずに驚いて尋ねる。それに対し、先生は丁寧に解説してくれた。


「あぁ、今年度から組体操自体なくなったんだよ。体育祭でやる競技の大幅な見直しがあって、危険だと判断されたものは除外された。組体操は毎年一人は結構な怪我をする奴がいたし、小さい怪我も含めればかなりの人数になるからな。今の時代にはそぐわないと考えられたんだ」


 俺たちが卒業してから、そんなことになっていたとは知らなかった。


「なんか寂しいですね」


 思わず漏れ出た感想に、意外だというふうに先生は笑った。


「石狩がそんなこと言うとはな。中学のときは組体操の練習、嫌々やってただろ?」


 確かにその通りだった。痛いし、怖いし、やる意味もわからないし、当時はこの世の地獄とさえ思っていた。


「嫌でしたね。今やれって言われても嫌です」


 俺がそう答えると、先生はさらに笑った。


「そうかそうか。まあ、石狩は昔からそういうタイプだったからな」


「そうですよ。組体操がなくなったことには反対なんてしません」


 今言った言葉は本心だと自分でも思う。意見はいろいろあるだろうが、俺は組体操がまったく好きではなかったし、除外されたのならば本来喜ぶ側の人間だ。


 それが、今になって寂寥感に襲われるなんてありえない話だ。


 けれど、その寂しさも本当の気持ちだった。


「時代は変わるからな」


 遠く空を見上げながら、厳かな雰囲気で先生は語る。


「未来へ進むということは、過去にあった『何か』がなくなるということだ。でも、その『何か』の価値や正体はうまく説明できないものだからな。寂しさを感じるのはきっとそのせいだろう」


 俺は小さく頷いてから、雲がかかった青空を見た。白い雲が少しずつ遠くへ流されている。


「先生は寂しくないんですか?」


「そりゃ寂しいに決まってるだろう。組体操だって、俺はもっと長いこと生徒に教えてたんだぞ。それが時代にそぐわないなんて言われたら、今まで何のために頑張ってきたんだってなる」


 無念さを嘆きつつも、先生はすぐに言葉を続けた。


「でもな、一番大事なのは生徒たちが元気に過ごせることだ。どんな競技だってどんなスポーツだって構わない。それを守っていくことが俺の役目だ」


 この人は本当に大切なことを理解しているし、果たすべき使命もしっかりと持っている。


 素直にかっこいい大人だと思った。


 だけど、それがちょっと羨ましくて、つい減らず口を叩いてしまう。


「いいですね、そういうのあって。俺なんか全然ないですよ」


 すると、先生は怒ることなく優しい口調で告げてきた。


「これから見つけていけばいいじゃないか。時間がかかることなんだ。若いんだから焦る必要はない」


 誰もが言う。若さは武器だ、可能性の塊だと。


 年をとって振り返ったとき、そう思うのは必定なのかもしれない。理解はできる。そこを否定するつもりはない。


 ただ、それは未来を見つけられた人間の話だ。


 将来に期待して、今を生きる。そんな当たり前を当たり前にこなせた者の経験談だ。


「わかっています。納得はできないですけど」


 吐き捨てるように言うと、先生は力強く頷いた。


「それでいい。それこそが若さだ。疑うことを忘れるな」


 俺もこくっと首を縦に振っていた。受け入れたのかは自分でもわからない。重力に逆らえず、頭が下がっただけかもしれない。


 そんな俺の様子を見て、先生は柔らかな笑みを浮かべた。


「それにな、石狩は一つ見落としていることがあるぞ」


 子供に諭すような穏やかな表情で、目の前の大人は真っ直ぐこちらを見つめてきた。


「何ですか?」


「守るべきもの。石狩もすでに持ってるだろうが」


 本気でわからず困惑し続けていると、先生の大きな右手が俺の肩の上に乗った。


「仲間だ。大切にしろよ」


 伝わってくる確かな温もりが、冷たくなっていた俺の心に優しく触れた。

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