第25話 林間学校二日目深夜(夜と朝の隙間で)
林間学校二日目のイベントはこれで終了なので、本来ならばもうこれ以上特筆すべきことはない。しおりのスケジュールを見ても、キャンプファイヤーの後、就寝までの流れがページの終わりに数行で記されているだけで、次のページを捲るともう三日目だ。
だが、この何もない夜と朝の隙間で、俺にとって忘れられない出来事があった。
そしてそれこそが、今まで誰にも明かしたことのない、俺だけが知っている新島未翔の姿だ。
話は生徒たちが皆、それぞれのバンガローへと引き上げ、就寝時刻になったところから始めようと思う。
その頃にはもうやるべきことはなくなっていたが、まだ眠ってしまうのはもったいない気がして、俺は二日目の夜も一日目と変わらず同部屋の会澤、紺野、染谷と一緒にくだらない話で盛り上がった。一日中歩いたり、歌ったり、踊ったりと休みもなかったので体は疲れていたが、当時の俺たちにとってそんなことはお構いなしだった。
とはいえ、それだけはしゃげば自然と眠くもなる。午前0時を過ぎた頃には、話し声の代わりに寝息が聞こえるようになった。
そんな皆が寝静まった深夜、俺は一人布団から這い出した。
理由はただ一つ、トイレに行きたくなったのだ。
――バンガローにはトイレがない。
その事実は林間学校に来る前から知っていた。しおりにも注意事項としてちゃんと記載されている。共用のトイレが少し離れたところにあるからそこを使うようにと、詳細な場所を示した地図まである。
キャンプ場に来てから、当然俺も何度かトイレを利用する機会があった。
だが、それらは建ち並ぶ木造のバンガローを見渡せて、各施設が遠くからでも把握できる明るい時間帯の話だった。すっかり陽が落ちて夜も更け、バンガローの灯りも消えた深い夜の光景をそのときまでまだ見たことがなかった。
バンガローからの外出が認められているのは午後十時までだったが、例外としてトイレの使用は許可されていた。けれども、その際には懐中電灯を使って足元に充分気をつけるようにとしおりにも太字で注意書きがある。夜の外はそれほど暗いということだ。
だから部屋を出る前、俺はちょっとだけ誰かを誘おうか迷った。
でも「暗い。怖い。連れション」のロジックは恥ずかしくて提案する勇気はなく、そんな勇気があるんだったら一人で行こうと決断した。
バンガローのドアを開けると、外は真っ暗闇の世界だった。会澤たちを起こさないようにそっと扉を締め、手に持った懐中電灯の灯りを点けた。
だが、その光は巨大な闇にすぐさま吸い込まれた。地元にいるときとは「暗い」のレベルが全然違った。
何も見えない。まるでこの世に存在するすべての生命が寝静まってしまったかのような、どこまでも深遠な夜だった。
それでも懐中電灯の小さな灯り頼りになんとか歩いていくと、その先でぼやっとした光源が見えてきた。
トイレがある小屋の灯りだった。バンガローに泊まる人がいつでも利用できるように、そこの照明だけは二十四時間点いているようだった。
俺は安心感を得つつ、目的地であるトイレまで駆け寄った。
中には誰もいなかった。誰かいたらいたでビビっただろうが、夜のトイレに一人というのも言うまでもなくホラーな気分になり、用を足すときは早く脱出したい気持ちでいっぱいだった。手を洗うとき、鏡は見れなかった。
だから、帰りも自然と早足になっていた。
早くみんなのいるバンガローまで戻って自分の布団に包まりたい、と足元をライトで照らしながら暗い夜道をできるだけ急いだ。
その途中で、俺は自分のものではない懐中電灯の光を見つけた。ふと、バンガローへと向かっていた足が止まった。
その光の始まりはサーチライトのようにゆらゆらと暗闇を照らしながら、ゆっくりと場所を移動しているのがわかった。
そこに誰かがいる。それは明らかだった。
でも、疑問はそれだけではなかった。
俺が不思議に思ったのはその光が進む先だ。バンガローがある方角ともトイレがある方角とも違う。いったい誰がどこへ向かおうとしているのか。
俺は恐る恐る光の発信源へ近づいてみた。怖かったが、なぜだかとても気になったのだ。最悪ダッシュで逃げられるように警戒しながら、そろりと後ろから接近した。
その最中、こちらの存在に気がついたのか、前の黒い人影が突然バッと振り返った。
いきなり光を向けられたせいで何も見えなくなり、思わず俺は目をつぶってしまった。
「しょ、翔くん?」
聞き覚えのある声がした。ゆっくりと目を開け、手に持っていた懐中電灯を相手のほうへ向ける。
「び、びっくりしたぁ。やっぱり翔くんだ」
そこには安堵する未翔の顔があった。よほど驚いたのか涙目になり、跳ねた心臓の鼓動を抑えるように胸に手を当てていた。
「ごめん。未翔だったか」
状況も摑めぬまま、反射的に俺は謝っていた。
「ううん、いいの。先生だったらどうしようって思っただけ」
取り乱したのを誤魔化すように未翔は小さく舌を出した。
「それより、どこに行こうとしてたんだ?」
「特には決めてない」
ようやく尋ねたいことを思い出して単刀直入に訊いたら、あっさりとした答えが返ってきた。
「決めてないなら何してたんだよ?」
「探検中」
未翔は片手でピースサインをし、屈託のない得意げな顔をした。
「探検って……。こんな暗い中女子一人で出歩くのは危険だぞ」
あまりの無防備さに呆れて俺がため息をついていると、目を合わせるようにこちらを覗き込んで未翔は言った。
「じゃあ、一緒に来てくれる?」
それは冗談っぽい言い方だった。俺の発言に対しての思いつきの提案。断ってもいいよ、という意味を込めた軽いノリのオファー。浮かべる笑顔も戯れの表情。
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃないんだが」
「だよね。ごめん、本気にしないで」
わかっていたというふうに、未翔は手を横に振って優しく笑った。
それを見てふいに胸が騒いだ。その優しい笑顔こそが偽りに思えた。
「一緒に……」
口を開いたが一度目は最後まで言えなかった。それでも、未翔の表情から笑顔を消すことには成功した。
あと一歩。俺はごくりと唾を飲み込んでからもう一度言葉にした。
「一緒に行く、俺も」
緊張のあまり声は震え、台詞も変な倒置法になってしまった。恥ずかしくて顔も赤くなっていたと思う。
けれど、ちゃんと伝えることはできた。
「本当に来てくれるの?」
恐る恐るというか探るようにというか、先ほど提案したときとはまるで違う雰囲気で未翔は尋ねてきた。
「ああ、行くよ。どうせ一人でも探検続ける気なんだろ? だったら余計このまま別れるわけにはいかない。だいいち危険だしな。見つけちゃったからには未翔の気が済むまで付き合うよ」
恥ずかしさを悟られないようにつらつらと理由を述べた。もちろんそれらも嘘というわけではなかった。でも、もっと他に別の想いもあったのだ。
一緒にいたい、という純粋な気持ちが。
「ありがとう。嬉しい」
返事をする未翔の目線はやや下を向いていたが、口角は上がって八重歯を覗かせる笑顔になったのが見て取れた。
引き込まれて見つめていると、未翔は思い出したように顔を上げた。
「さあ、翔くん、どこへ行こうか?」
そうと決まれば早速とばかりに楽しげにお伺いを立てられた。
「えっ、いや、あっ、そうか行き先か」
すっかり油断していた俺は不意をつかれ、すぐに答えられずにしどろもどろになった。
どこへ行けばいいのかなんてまったく考えていなかった。それは完全に二の次だった。慌てて状況を整理しながら条件を言葉にしてまとめていった。
「とにかくここにいるのはまずいな。懐中電灯の灯りは目立つし、近くを見回りに来た先生にすぐに見つかる。バンガローからは少し離れるべきかもな。もちろん、戻れなくならない程度にだが」
言いながらあらゆる展開を想定する。先生に見つかってはいけない。迷子になってはいけない。そもそもの掟を破るのだからいけないことばかりだ。
「同部屋の女子たちには探検のこと言ったか?」
未翔は小さく首を横に振った。そうなんだろうとなんとなく察してはいたが深くは触れず、代わりに質問の意図を説明した。
「さすがに先生たちもこの時間から一軒一軒部屋の中まで見たりはしないだろうけど、同部屋の人たちが騒ぎ出したら話は別だ。もし俺たちが布団にいないことに気づいて、それでトイレにもいないってことがバレたら大騒ぎになる」
「そうだよね。ごめん」
巻き込んじゃって、とでも続けたかったのだろう。
だが、それは違う。一緒に行くと決めたのは俺の意志だ。
「いや、気にするな。とにかくあんまり遠くなくて、それで見つかりにくい場所に行けばいいってことだ。最悪騒ぎになってもすぐ戻れば、トイレに行く途中で道に迷ったとか言って言い訳もできるだろう」
実際はそんなことで済むはずがない。俺の嫌いなものすごく適当な理論を口にしていた。でも、全然嫌じゃなかった。
納得したかどうかは知らないが、未翔も否定せずに「そうだね」と頷いてくれた。
二人だけの探検はそんな感じで始まった。
目的地も定めないで、ただあるはずだと思い込んだ到着地点へ向けて暗闇の中を彷徨う。二人分の光を合わせても世界はほんの少ししか照らせなくて、一歩一歩は小さかった。
けれど、焦れったいなんてまったく感じなくて、怖いともあまり思わなかった。
不思議な気分だった。未翔に会うまでは暗さに怯えて歩いていたのに、彼女といるとこれから先に待ち構えていることが楽しみで仕方なかった。
少し歩いて、俺たちは河原まで辿り着いた。一日目の昼に魚が泳いでいないか見に行ったあの川だ。二日目の昼にはウォークラリーの途中で橋の上から見下ろした。この河川はキャンプ場のずっと外まで続いていた。
流れる川に足を踏み入れないように慎重に辺りを照らしながら、腰掛けるのにちょうどいいサイズの大きな石を見つけて未翔に座らせた。
その近くにもう一つ、形が歪ではあったが座れないこともない石があったので、そこに俺が座った。
「さすがに先生たちもここまでは来ないだろう」
「うん、いい場所が見つかった。翔くんのおかげだね」
「いや、たまたまだけどな」
別に川に向かって歩こうとしていたわけではない。途中の道は暗すぎてどこを歩いているのかよく把握できず、最低限バンガローのある方角だけは見失わないようにしていたら偶然行き着いただけだ。
それなのに、未翔ははっきりと否定した。
「わたし思うんだけど、きっとここに来れたのは偶然じゃないよ」
「どういうことだよ?」
またわけのわからんことを、と未翔のほうを振り返ったら、明後日の方角にライトを向けていたせいでほとんど見えなくなっていた彼女の顔がそっと空を向いた。
「わたしはここに来たかった」
そのとき未翔がどんな表情をしていたのかはわからない。どんな気持ちでその言葉を言ったのかも理解できなかった。
水辺特有の冷たい風が吹いて、暗闇の中の木々が揺れた。
「星、綺麗だね」
石の椅子に両手をついて体を支えながら、未翔が天を仰ぐ姿勢になっていた。
「気づかなかったよ。こんなにたくさん星が輝いていたこと」
「まあ、いろいろとあったからな」
俺もつられて夜空を見やる。澄み渡った夜の大気が見たこともないような満天の星空を作り出していた。
林間学校の間は分単位で決められたスケジュールに追われ、ゆっくりと空を見上げる機会がそれまでなかったことに初めて気がついた。
「わたしの告白、どうだった?」
星に尋ねるように、未翔は小声でぽつりと言った。
「よかった……と思う」
なんと答えたらいいかわからず、一つだけ出てきた感想を素直に述べた。
「そっか。それならいいんだ。うまくできたかどうか不安だったから」
未翔は暗がりの中で微笑んでそのまま粛々と話を続けた。
「外に出てきたのも、実はちょっと寝つけなかったからなんだよ。思ったより緊張してたのかな? まだ少し気持ちが張りつめた感じというか」
告白大会での発言がなかったら驚いていただろう。普段の学校生活では未翔のそういった性格は窺い知ることができなかった。
でも、キャンプファイヤーでの告白を聞いてしまったから、この未翔こそが正しい姿なのではないかと感じられた。
「名前の話、覚えてる? ほら、わたしと翔くんが初めて一緒に帰ったときの」
「名前? ああ、あのときか」
突然話を切り替えられたので焦ったが、すぐに思い出すことができた。
俺と未翔が初めて一緒に帰った日。ちゃんと会話をしたのも、多分その日が初めてだったと思う。
それは帰り道の途中にある横断歩道でのこと。
帰る方向が同じだった俺たちは、ちょうどそこで鉢合わせたのだ。
俺は信号待ちをしていた。そこに当時転校してきたばかりの未翔がやってきて、後ろからそっと話しかけてきた。
「石狩くん……だよね」
好奇心で満ちた瞳で、だけど少し不安げに、未翔は俺の顔を覗き込んできた。
俺が小さく頷きを返すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「正解? やった! 名前に同じ漢字使ってる人がいるって覚えてたんだよね」
言われた直後はピンとこなかったが、フルネームを思い出して『翔』と『未翔』のことを言っているのだと理解した。
「翔くん、って呼んでいい? わたしのことは未翔でいいから」
その流れでお互いの呼び名まで決まってしまった。
強引に未翔に決められた形だったが、その日からずっと俺は彼女のことを未翔と呼んでいる。
「あの日わたしさ、翔くんのこと名前に同じ漢字使ってるから覚えてるって言ったよね? それって嘘ではないんだけど、実はちょっとだけ違うんだよね」
河原で星空を見上げていた未翔の顔がため息混じりに俯いた。
「羨ましかったんだ、本当は」
思いがけない感想に俺は相槌も打てず、静寂の空の下でただ次の言葉を待った。
未翔は一呼吸置いてから静かに説明を始めた。
「『翔』って『翔ぶ』って意味でしょ? 鳥が羽ばたいて大空を自由に翔び回るみたいなイメージでさ。でも、わたしの名前は『未翔』だから、『未』だに『翔』べないの。翔べないままの鳥みたいなのがわたしなんだ」
「いや、それは違うだろ」
とっさに反論しようとしたが、遮るようにはっきりと首を振られてしまった。
「ううん、わたしは翔べない。昔からずっと」
過去を思い返すように星々を眺めながら、彼女は自分の生い立ちを語り出した。
「わたしの家、小さい頃から引っ越してばっかだからさ、住む土地も環境も常に変わっちゃうの。保育園も小学校もすぐに変わるから、せっかく馴染んでもあまり意味がないんだよ。そうやって生きていくうちに変なふうにそれに慣れちゃった。その場をやり過ごすのだけはうまくなるというか……」
底抜けに悲しい微笑みというのがあるなら、多分このときの未翔はその表情だっただろう。
俺は何も言えなかったから、できるだけ受け止めようと真剣に耳を傾けていた。
「だから、ちゃんと翔んだことがなくて、翔び方も知らない。そのまま中二なって、今日まで来ちゃった」
彼女は薄っすらと笑い声を上げながら、小さく「でもね」と続けた。
「今日の告白大会は特別だった。今まであんなふうにみんなの前で自分の気持ちを言ったことってなかったから、今のわたしの中にあるこの感覚は初めてのものなんだ。それがとても新鮮で、ちょっぴり怖い」
告白大会に参加する前、未翔は独り言のように呟いた。
――わたしは告白大会で頑張るからさ、フォロー、よろしくね。
受け取ったとき、その言葉の意味を俺は完全に理解しきれていなかった。
自分は会澤を元気づけるために告白大会に参加するから、俺たちにはあとのフォロー、つまりは会澤のことを頼んだと、そういう意味なのではないかと勝手に思い込んでいた。
無論、それだって趣旨は間違ってはいなかっただろう。簡単に言葉だけなぞれば、その解釈でマルをもらえたはずだ。
でも、もしこの夜見せてくれた未翔の姿こそが本物だとするならば……。
救いの手を求めていたのは、言葉を述べた彼女自身だったのかもしれない。
「眠れないのはきっとそのせいだね。慣れないことはするものじゃないのかも。だけど、穂高くんも元気になったし、やっぱりこれでよかったのかな」
星を見つめる未翔の表情が少しだけ緩んだ気がした。俺は何も言えない代わりに、同じように少しだけ笑ってみせた。
すべてを肯定できるほど、俺も未翔も強くはなかった。
とにかく安心を得たいけれど、そうやって簡単に手に入る安心は紛い物だ。摑んだ瞬間に光らなくなってただの石ころに変わってしまう宝石みたいなものだ。
だが、ただの石ころだって磨けば光り輝くかもしれない。信じて手に入れた紛い物が価値のつけられない宝石に変わることだってある。
「あっ、今あの星光った」
未翔が声を上げて夜空を指差した。
「どれだよ?」
「ほら、あれ!」
未翔は興奮気味に腕を伸ばすが、星はたくさんありすぎてどれだかわからない。
けれど、その中で一つ、俺の目にも光って見えた星があった。
「……光った」
俺が呟くと、未翔は「でしょ?」と満足げだった。
それは未翔が指差した星だったのだろうか。それとも違う星だったのだろうか。
今となっては確認のしようもない。けれども、それはどちらでも構わなかった。確かに俺たちは同じ場所で光る星を見つけたのだ。
だから、もし仮に今日摑んだものがこれから訪れる日常の中で光らなくなったとしても、いつまでも失くさずに大切に持っておこうと、俺は心の中で密かに誓っていた。
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