第1章 成人式
第1話 久しぶりの再会
――成人式、行きたくない。
何日も、何週間も、いやもっとずっと前から、俺は憂鬱だった。
昔、友達がいなかったというわけではない。地元の小学校からそのまま受験をせず近くの公立中学校へ上がった俺は、嬉しいこと嫌なこといろいろ経験しながらもそれなりには楽しい日々を送っていたし、今となってはほとんど会うことがなくなってしまった級友たちとも、会えば一応は話せるだろうと思っていた。
ならば、なぜ成人式に行くのが嫌だったのか。
世の中には「なんとなく」という言葉がある。
例えば、何か行動を起こすとき、いったいどれくらいの人がその起因を論理的に述べられるだろうか。多少の感情論が入ったって構わない。その感情の道筋をしっかりと言葉にできるのならば、そこにはある種の論理性がある。
そういったことがない、自分でもどうしてそのような状態になったのか判断ができないとき、人は「なんとなく」という台詞を吐く。
俺はその言葉が嫌いだ。そうやって曖昧な言語に頼るようになると、世の中の出来事について深く考えなくなって、しまいには何でもかんでも誤魔化して生きていくことになる。二十歳をとっくに過ぎた大人たちが、皆同じように何も考えていない顔をして生きているのを見て、自分だけは絶対にそうはならないようにと心に決めていた。
それなのにこの現状はなんだ?
周りを見渡すと、能天気に顔を赤くした同級生たちが、思うがままに酒を飲んで大騒ぎしていた。
午前中に成人式が終わった後、午後の時間を挟んで、夜から同窓会が始まった。
場所は地元で長年続いている居酒屋だ。毎年俺たちの中学の成人式後の同窓会はここを使っているらしく、一学年が集まって入るにはちょうどいいくらいの座敷の大部屋を貸し切って、どんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。
無論、最初は参加するつもりなどなかった。前もって訊かれた同窓会の出欠の確認には不参加と返事をしたし、実際に今日の朝家を出るまでは式が終わったら速攻で帰宅するつもりだったのだ。
しかし、成人式で再会した幹事役の男に「今日キャンセル数人出ちゃったから同窓会代わりに来てくれない?」と頼まれ、俺は勢いに乗せられて「いいよ」と答えてしまった。
すぐにしまったと思ったがもう遅い。幹事の男は営業で契約にこぎつけたサラリーマンのような笑みですぐに去っていき、今度は晴れの舞台に似つかわしい華やかな振袖姿の女子の集団に俺のときよりも数倍高いテンションで声を掛けに行っていた。俺は小口の契約かよ、と心の中で突っ込んだ。
けれど、そのときにはどうしても行きたくないという感情は薄れていた。
久しぶりに同級生と会って、少なくとも表面上は楽しい会話ができていたし、たった一度の飲み会くらいならどうにか乗り切れそうだという気になっていた。
そうして、結局俺は「なんとなく」同窓会にまで参加していた。
「しかしさぁ、
隣で胡座をかく
「そうだったか?」
「だって最後に会ったのいつよ? 高校生になってからはほとんど会ってないでしょ」
酔った頭で少し考えてから、俺は頷いた。
「まあ、そうだな。高校別になると全然遭遇しないしな」
「それよそれ。違うフィールドに行っちゃうとエンカウントしなくなるんだよね。昔やってたロールプレイングゲームみたいなもんで。ていうか、人生ってゲームだよね。最近それを痛感してるわ」
会澤は参ったなというように短髪の頭を掻いた。
俺と会澤は中学生のとき仲が良かった。二年生のときに同じクラスになって、その一年間は特によく話した覚えがある。
中学生のとき、とあえて限定したのは今も話題に出たように高校に入ってからはほぼ交流がなかったためであるが、そのブランクを感じさせないくらいに彼とは自然と会話ができていた。小柄だった身体が少し大きくなっただけで、中身はあまり変わっていないようだった。俺はそのことに多少なりとも安心感を得ていた。
「そういや、会澤は確か今工場で働いてるんだよな? どうなんだ、職場は?」
「どうもこうも、つまんない仕事だよ。単調な流れ作業っていうか、あんなの誰でもちょっと教えればできる。おまけに工場長もおっかねえし。まっ、給料がもらえるのはありがたいけどね」
手でお金を表すサインを作り、会澤は悪巧みを思いついた少年のようににやっと笑った。
居酒屋の店内では、そこかしこで笑い声が上がり、奇声が飛び交い、酒とタバコの臭いが充満していた。地獄絵図だ。いや、あるいは騒いでいる当人たちからしてみればこれが天国なのかもしれない。俺たちだって相当大きな声で会話をしているが、それがおとなしく思えてしまうくらい、意味をなさない言葉を発する連中の声は大きかった。
「それはそうと」
会澤が止まっていた会話を再開させる。
「石狩は大学に入ったんだったよね?」
「ああ、まあな」
「っていうことは、今二年生だよね?」
「……そうだな」
「しかも、数学科だっけ? マジで何やってるわけ? 高校のときからもうすでに全然わかんなかったけど、あれよりもハイレベルなことやってんでしょ? 俺にはついていけんわ。やっぱり石狩は俺とは頭の出来が違うな」
「そんなことねぇよ!」
適当な発言に苛立って、俺はつい声を荒げてしまった。
「いや、ごめんごめん。でも、誤解しないでくれよ。俺は中学のときからそう思ってたんだぜ。なんつうか、顔つきから違うんだよね、頭が良い人は。石狩と、それからもう一人そう感じた奴がいたんだよな」
会澤は一瞬驚いた顔をしたが、それほど気にすることなく宥めるようにこちらに笑いかけると、人が入り乱れる店内をキョロキョロと見回した。
「あっ、いたわ。ていうか、彼女一人で飲んでるのか。昔から変わらないなぁ」
乱れた気持ちを整えてから会澤の視線の先を追うと、片手で頬杖をついた女子が退屈そうに手に持ったグラスの中を見つめていた。
「ああ、
「そうそう。氷川さん。彼女、中学のときもあまり誰かとつるんだりしてなかったよね」
「そうだったかもな」
「やっぱり友達いないのかな?」
「……かもな」
俺が小さく頷くと、会澤は手荷物とテーブルの上に置いてあった自分のグラスを持ってひょいと立ち上がった。
「じゃあ、せっかくだし行きましょうよ」
「はっ、どこへ?」
と、答えたが、流れからして向かうところは一つしかない。
会澤が移動し始めてから数歩遅れて、俺も彼女のもとへ歩き出した。
「やあ、お疲れさん」
先に着いた会澤が軽い口調で声をかけつつ、
「何か用?」
「久しぶりに会って第一声がそれっ⁉」
会澤が大げさにずっこけて突っ込む。俺も同感だった。大げさにずっこけるなんて無駄なことはしなかったが。
「だって、何もなかったらわざわざ近づいてきたりしないでしょ?」
氷川は躊躇いもなくそう言ってのけ、グラスに入った氷入りの梅酒を一口飲んだ。
この感じ、だんだん思い出してきた。そうだ。氷川咲という人間は昔からこうだった。合理的というかなんというか、とにかく中学生の頃から今のような調子で周りの子たちを冷たくあしらっていた。友達がいなくて当然だ。俺が言うのもなんだが。
「そんな冷たいこと言わないでくれよ。あっ、別に下心とかあるわけじゃないからね。少なくとも俺のほうは。石狩はどうか知らないけど」
「いや、俺もねえよ。というか、行こうって言い出したの会澤のほうだろ」
「あれ、そうだったけ?」
会澤はわざとらしく首を捻り、からかいの笑みを浮かべた。
「どうでもいいけど、結局用はあるの? ないの?」
口紅のついたグラスの縁を指でなぞりながら、氷川が痺れを切らして尋ねてくる。
「あるっちゃあるって感じ? まあまあ、細かいことは気にせずに」
会澤がそう言うと、氷川は諦めたようにため息をついた。
氷川咲は現在、京都の大学で法律を学んでいる。昔からずば抜けて成績が良かった彼女のことは生徒だけでなく先生や親の間でも噂になり、たとえ彼女本人とそれほど親しくなかったとしても進学先くらいは誰もが耳にしていた。
俺が中学で初めて氷川という人間を認識したときのことは、今でも鮮明に覚えている。
――生徒手帳、読んでる⁉
毎年配られてはすぐに鞄の中か制服の胸の内ポケットにしまわれて、ほとんど表舞台に出てくることのない悲しい定めを背負った手のひらサイズの手帳。そこにびっしりと書かれた文字を熟読する女子の存在は、当時の俺に大きな衝撃を与えた。
「なんで生徒手帳読んでるんだ?」
異様に感じた俺は、そのとき思わず尋ねた。
返ってきた答えは次のようなものだった。
「ここに学校を支配するルールがあるから」
今思えば、氷川は当時から世の中に定められた「法律」というものに興味を持っていた。人を殺しちゃいけないとか、物を盗んじゃいけないとか、そういったことは誰でも知っているけれど、どこまでがセーフでどこからがアウトなのか、アウトだった場合その罪の大きさはどのくらいか、ということは案外知らない。学校での行動にも規則があり、生徒手帳はそれが記されたルールブックなのだ。映画を学割で見るときくらいにしか使わなかった俺には、まったく思いもよらないことだった。
見方を変えれば、それだけ大人びていたとも言えるだろう。中学生のときからもうすでに背も高くて、髪も長くて、美人で、精神年齢も周りの子より高かった。荒れた野に咲いた一輪の薔薇のようだった。それが今大人に近づいて、ルックスも中身もより洗練されてきたような印象を受ける。……棘も増えているが。
「それより、京都での大学生活ってどうなんよ? 俺大学行ってないし、京都にも修学旅行で行ったきりだからまったく想像つかんわ」
「別に普通。朝起きて、大学行って、帰ってきて、寝る。それだけ」
氷川の簡潔な回答に会澤は不満げな顔をした。
「それだけって、そんなわけないでしょうよ。なあ、石狩はどうなんだ? 勉強とかあるのはわかるけど、二人とも大学二年生なんだし、なんか楽しいこといろいろ経験してるんじゃないの?」
「わたしはさっき言った通り。それと補足だけど、関西の大学だと二年生って言わずに二回生って言うの」
「細かっ! そういえばなんか聞いたことはあるけどさぁ。ていうか、俺が訊きたいのはそういうことじゃなくて……」
「もういいだろ、会澤」
俺は努めて平静を装って話を打ち切り、代わりの話題を提供した。
「それよりも、氷川は今日よく同窓会にまで来たな。こういうの絶対に参加しないタイプだと思ってたが」
「親がどうしてもって言うから」
氷川は一瞬だけ視線をこちらに向けてから、面倒くさそうにため息をつく。
「京都からわざわざ帰ってくるのも億劫だし、わたしは成人式自体パスしようかって考えてたんだけど。うちの親、案外心配症なの。それでしょうがなく」
「氷川さんのご両親、大変そうだなぁ……」
会澤は親御さんのほうに同情し、乾いた笑みを浮かべていた。
時間は刻々と過ぎていった。腕時計を確認する。現在、八時半。同窓会は九時までと聞いているから、残り三十分だ。
あと三十分乗り切れれば、憂鬱だった今日が終わる。
明日からは……。
突然、自分が今どこにいるのかわからないような感覚に陥った。もちろん、楽しそうにお喋りをする同級生たちの語らう声はちゃんと耳に届いてくる。だが、遥か遠くから聞こえてくるような気がするのだ。水の中で聞いているみたいに、世界の音が薄れていく。
「あのさ、俺ちょっとみんなに相談があるんだよね」
会澤の声がした。彼は手をついてテーブルから身を乗り出していた。居酒屋の喧騒が徐々に戻ってくる。
「法で解決できる問題なら聞いてあげるけど」
「えっと……それはどうだろう。俺、法律とか詳しくないし」
逡巡した会澤は、困ったように俺のほうを縋るような目で見てきた。
「まあ、とりあえず話してみろよ。どうするかはそれからだ」
仕方なく助け舟を出すと、会澤はパンっと手を合わせた。
「ありがたい! でも、この話をするにはさっきからこっちを見ている彼女の参加が必要なんだよね」
会澤が離れたテーブルを指差す。
「時間もないし、適当に割り入って笹本さんここに連れてくるわ。だからちょっと待ってて」
「はっ? それってどういう……」
返事をする間も与えず、会澤は彼女のいるテーブルへ駆け出してしまった。
――俺と会澤、氷川に笹本。
この四人であることに何か意味があるとしたら、それはあと一人、欠けてしまった『彼女』に関する話なのではないか。
心臓がドクンと大きく波打った。これはどういった種類の動悸だろう。わからない。
ただ、今から何かが始まるのだと、長い間閉ざされていた何かが開かれるのだと、そんな予感だけがした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます