第347話


 


 強者故の傲慢が、彼女の根源に触れる。


「貴様は、強かった。最初に述べたことは撤回しよう。貴様は、守られるだけの弱者ではない。逃げ惑うだけの愚者ではない。誇りを胸に敵へ立ち向かう、紛うことなき伊東一刀斎の弟子であった」


 悪気はなかった。ただ、疑問だったのだ。人間という生き物の醜さを充分理解していたから。


「何故、己の為だけに力を振るわない。何故、己の命を懸けてまで忠義を尽くす。何故、そこまで分厚い仮面で本心を隠す。……一度、刀を合わせれば分かる。貴様のチカラの根源にあるのは、忠義などという綺麗なモノではなかろう」


「……ぅ……ぁ――っ」


「その力があれば、並大抵の敵では太刀打ち出来なかろう。貴様は、力を手に入れたのだ。最早、蔑まれる存在ではない」


 忠勝の瞳に憐憫の情が映る。忠勝は、差別主義者ではない。女子供でも、誇りを胸に立ち向かうのであれば、素直に非礼を詫びることの出来る男だ。ただ、無闇矢鱈に斬り捨てたくないだけ。人を憐れむ心はある。


「……その容姿だ、みなまで言われずとも分かる。今まで、さぞ苦労してきただろうに。一度でも、復讐をしたいと思わなかったのか? 無理をしてはいないか? 」


「――っ!? 」


 瞳が揺れる。


 それは、きっと雪という少女が初めて抱いた負の側面だ。偽らざる本音。心の奥底に隠していたモノ。






 ただ、それが全てではない。それと同時に、雪はあの日師から送られた言葉を思い出した。






 ***






 その日は、雲一つない青空が広がる暑い一日だった。


 カラリとした涼し気な風が草木を揺らし、広々とした屋敷の庭先では、灼熱の太陽に照らされながら一刀流門下生の活気溢れる掛け声が響き渡たる。そんな、いつもの平和な日常が広がっていた。


 その横を、どんよりとした空気を漂わせながら歩く影が一つ。そう、雪だ。


(……兄さんは呼び出されず、私だけ)


 冷たい汗が背中を伝う。いつものように朝稽古を終えた雪は、一刀斎に呼び出されて指定された一室へ向かっていた。それも、一人で来るように言明されて。


 それによって、雪はあのことがバレてしまったのではないかと思ってしまう。


(や、やっぱり……あのことよね。二日前、先生が大事に少しずつ飲んでいたお酒を全部零しちゃって、慌てて近くにあった別のお酒を酒瓶へ入れたこと)


 雪の脳裏に、ささやかな日々の楽しみを味わっていた一刀斎の横顔を過ぎる。悪気はなかった。だが、バレたら確実に怒られることは雪も充分自覚していた。その時が、遂に来てしまったのだ。


 僅かに覚えた疑念が、雪の足取りを重くする。自分が全面的に悪いとはいえ、これからの説教を考えれば自然と憂鬱な気持ちになってしまう。






 しかし、雪の不安は杞憂だった。部屋に入った雪は、一刀斎の姿を見た瞬間に先程までの考えを全て消し去る。一刀斎は、上座にて正装に身を包みながら雪を待っていたのだ。


「せん……せい? 」


「……雪、か。座りなさい。」


「は、はいっ」


 普段の姿とはかけ離れたその様子に、雪は思わず動揺してしまう。しかし、一刀斎が机の上に置いたソレを見た瞬間、雪の表情が一気に引き締まる。それは、雪が修理に出していた刀。事、刀に関しては一刀斎が冗談を言うことはない。それは、重々承知していた。


 そして、その予想は正しかった。


「雪。最早、お前に教えることはない。今まで、良く頑張ったな」


「――っ、ありがとう、ござい……ますっ! 」


 雪は、涙を堪えるように唇を噛み締めながら頭を垂れる。一刀斎は、己の剣に技を付けない。弟子達が、彼の動きから各々名を付けてはいるが、あくまで一刀斎の剣技は一心一刀を是とする精神を指す。即ち、幾ら剣の腕が立とうとも、剣を振るうに値せずと判断されれば一生認められることはない。それが、一刀斎の考えであった。


 それ故に、雪は嬉しかった。既に、皆伝を得た兄弟子達に並んだことではない。兄である高丸の先を越したことでもない。雪が掲げた、【主君へ捧げる剣】を一刀斎に認められた事が何よりも嬉しかったのだ。






 だが、話はそう簡単に終わらない。


「……だが、未だ皆伝はやれん。雪、お前には最後の試練を受けて貰う」


「最後の……試練、ですか? 」


「そうだ」


 困惑する雪を後目に、一刀斎は机の上に一枚の紙を置く。そこには、見知らぬ人の名前と所在地が数多く記されていた。


「先生、これは……」


「それは、お前の故郷に住んでいた者達。流行病で村自体は既に無くなっていたが、生き残りが近隣の村に移住していたことが分かった。……その中には、お前達兄妹を追放し、両親を殺した仇がいる」


「――っ!! 」


 息を呑む。頭が痛い。視界が歪む。仇が、父と母を殺した仇が生きている。その事実が、あの地獄のようだった日々を想起させる。


「これを、どう……しろとっ! 」


「既に、殿の許可は得ている。お前が望めば、暫しの暇を与えるとな。その時間と、この情報。どう使うかは、お前次第だ。……例え、復讐を選んだとしても、俺はソレを否定しない。お前には、それを選ぶだけの理由があるからな。好きにしろ」


「――っ」


 無意識に握り締めた右手から、一筋の血が畳の上に滴り落ちる。一刀斎の言っていることを理解出来ない。したくない。ずっと、その気持ちから目を逸らしてきた。心の奥底に隠してきた。


 だが、心が叫んでいる。殺せ、仇を取れ……と。






 ――その為に、おは力を望んだのだろう?






「――っ、あ……あぁ……」


 悪魔の囁き。されど、それは雪が心の奥底に封じていた本心だった。


(あぁ、そうだった。これが、この醜い本音が私の原点)


 思い出す、あの日の怒り。蔑まれ、罵倒され、石を投げられ、常に命の危機に晒されていたあの日々。


 雪は、兄と共に飢えに苦しみながら呪詛を吐き続けた。何故、こんな容姿に生まれてしまったのか。何故、両親は殺されなければいけなかったのか。何故、心優しい兄までもが犠牲にならなくてはいけないのか。


(……何故、私達をこんな目に遭わせた者達がのうのうと生きているのか)


 力が、欲しい。理不尽を跳ね除けることの出来る力を、家族を護ることの出来る力を、両親の仇を皆殺しに出来るだけの力を、雪は心から望んでいた。それは、覆しようがない事実だった。






 そして、遂にその機会が訪れた。力を手に入れた。仇の居場所を手に入れた。後ろ盾も手に入れた。後は、実行に移すだけ。それだけで積年の怨みを晴らせる。


 その筈だった。


 指先を震わせながら、雪は右手を机の上に置かれた紙へ伸ばす。一刀斎は、何も言わない。ただ、黙って雪の選択を見届けるのみ。後、少しで指先が紙に触れる――瞬間、雪の視界に彼女の刀が映り込んだ。


 《雪》


「…………ぁ」


 右手が止まる。【雪柱】三法師が、宮本姓と共に雪へ与えたモノ。強くなりたいと願った少女へ贈る献身。雪が、初めて他人から受け取った真心。


 あの日、雪は【愛】を知った。


(そうだ、私は――)


「――ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アッッ!!! 」


「むっ! 」


 雪は、勢いよく紙を手に取ったかと思えば、溜め込んでいたモノを吐き出すように思いっきり叫びながら紙を破り捨てた。宙を舞う紙吹雪。呆然とする一刀斎を後目に、雪は雪柱を手に取って叫んだ。


「確かに、私は力を望んだ! 今でも、アイツらのことを殺してやりたいくらいに恨んでいる! ……でも、でも! 刀を握ったのは――」


 そうだ。それこそが、雪の答え。それを聞き届けた一刀斎は、満足そうに頬を緩ませた。


「……合格だ」






 ***






 全てを思い出し、少女は完成に至る。


「礼を、言うわ。あんたの不躾な言葉のお陰で、大切なことを思い、出せたのだから――っ! 」


「…………ほう」


 刹那、金色の闘気が溢れ出す。地面に突き刺した刀を支えに、ゆっくりと立ち上がり敵を見据える。その瞳の輝きは、忠勝の足を止めるには充分過ぎた。


「確かに、私が力を求めたのは薄汚い復讐心からよ。それは、嘘偽りの無い事実。……でも、刀を握った理由は違う。綺麗だった。純粋に憧れた。斎藤様の舞うような剣技に魅入られた。そして、何よりも斎藤様のように刀を振るえれば、殿の力になれると思った。私達を救ってくれたあの人の力に――っ! 」


 大地を踏みしめる。最早、その瞳に復讐心など欠片もない。


「私は、三法師様の為に刀を振り続ける! 三法師様が、私達とって最後の希望なのよ! このクソみたいな世の中で、三法師様だけが光ある未来を見ている。照らし、示し、導いてくれる。だから、私はその歩みを誰にも邪魔はさせない! それが、私が命を懸ける理由! 刀を握る理由! あんたに立ち向かう理由! 同情? 復讐? 余計なお世話だ、バーカッッ!!! 」


 嘲笑う。こんな大事なことを忘れていた己も、わざわざ余計なことをした忠勝のことも。


「そうか。それは、すまなかったな。……だが、良い顔になった。迷いを、恐怖を捨てたな」


「お陰様で……ねっ!! 」


 刀を振りかぶり、一足飛びに斬り掛かる。


(もう、迷いはない。命果てるその瞬間まで、戦い続けるだけよ)


 この時、雪の理解した。自分は、本多忠勝を殺す為に生まれてきたのだと。










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