第328話
戦とは、時にほんの些細な出来事で天秤がコロりと傾くことがある。過程は関係ない。乾坤一擲。圧倒的劣勢に追い込まれていた者が、己の全てを懸けた一世一代の大勝負に打って出て、見事に勝利を掴んだ者はいる。
織田信長、毛利元就、北条氏康、浅井長政……。その名を歴史に刻んだ綺羅星は、運命に導かれるように劣勢を跳ね除けてみせるものだ。まるで、最初から決まっていたかのように。
……そして、徳川軍にも彼らに負けず劣らずの綺羅星がいた。名を、本多忠勝。神が讃えし最強の武人である。彼をどうするのか。それが、この先の行く末を大きく変化させることになるであろう。
***
本多の登場により、戦況は徐々に変わり始めていた。特に、両軍の士気に著しく影響が現れた。劣勢だった徳川軍の兵士達の瞳に希望が生まれ、優勢だった織田軍の兵士達の瞳に焦りが生まれる。
あと少し耐えれば、早く決めなければ。誰も、口にはしていない。目の前の脅威を退けるのに必死だ。
……しかし、戦況が拮抗し僅かでも意識にゆとりが生まれた場合、そんな些細な気の持ちようで戦況は容易くひっくり返る。
それが戦の厳しさであり、難しさ。それを父の昌幸から教えられてきたからこそ、源二郎は弥五郎達の同胞の仇を討ちたいという懇願を退けた。
「……ダメだ。本多忠勝は、私ひとりで抑えてみせる。弥五郎達は、ここからは別行動だ。皆を率いて、榊原軍の側面を叩いて欲しい」
「なっ!? バカを言うな! ここまで来て、我らに退けと言うのか!? 」
強い口調。僅かに込められた怒気は、今までずっと堪えてきた反動によるものか。周りの者達も、同様に不満気にしていた。
弥五郎は、第六軍団の副隊長だ。源二郎より年上。元は、第一軍団の三席。源二郎を補佐する為にいる。経験も信頼も弥五郎の方が上。普段から、源二郎に軍の編成を教えている。言わば、源二郎にとって先生のような存在。強くは出れない。
しかし、今回は違った。源二郎は、一歩も引かずに背後を振り向いて叫んだ。
「本多忠勝の登場は、敵味方関係なく軍の士気に多大な影響を及ぼします! 今、榊原軍が息を吹き返せば、突出した慶次殿が敵軍に包まれることになる。もし、そこで討ち取られでもすれば、前線が崩壊する最悪の展開になってしまう! 」
その口から語られるのは、最悪の結末。
「……そうなれば、本多忠勝と榊原軍の両方が殿の首を求めて殺到する。その時、織田軍にその二つを対処出来る余裕は無い。殿は、徳川軍によって討ち取られてしまうでしょう……っ」
『――っ』
弥五郎達の顔が強ばる。
そんな……、まさか……。だが、無いとは言いきれない。今、織田軍が押しているのは勢いに乗っているから。兵力差は、依然として二倍以上広いているのだから。
だからこそ、源二郎は弥五郎達へ榊原軍の横っ腹を叩くように頼んだ。本多忠勝の怖さは、類稀なる武力だけではない。その凄まじい戦果に裏付けられた絶対的な信頼こそが、最も警戒せねばならぬのだと分かっていたから。
「それを防ぐ為にも、弥五郎殿達に側面を叩いて欲しいのです! この戦いに勝ち、死んでいった同胞達の忠義に報いる為にもっ! 皆で、本多忠勝と戦わねばならないのですっ!! 」
『――っ!! 』
その瞬間、弥五郎達の表情から不満が打ち消され、凛々しくも闘気に満ちた戦士の顔付きへと変わった。
そうだ。【本多忠勝】に勝つには、誰かが一騎打ちで忠勝を引き付けている間に、敵軍を叩いて勢いを完全に殺さなくてはならない。彼は、武将だ。上杉謙信と同じ、軍勢を率いている時が一番怖いのだから。
「……分かった。本多忠勝は、源二郎に任せる」
『あぁ』
弥五郎の言葉に、一同頷いて賛同を示す。
皆が、納得した。本多忠勝は源二郎に任せ、自分達は榊原軍を叩く。それが、最善手であると。だから、せめてこの想いだけでも源二郎へ託すことを決めた。
『やってやれ! 源二郎っ!! 』
皆が皆、源二郎の背に声をかけてから離れていく。
そして、弥五郎も。
「源二郎。……後は、任せたぞ」
ドンッと、強く背を叩かれる。手のひらから伝わってくる熱が、源二郎の瞳を僅かに震わせた。
「――っ、はいっ! 」
頷き、鞭を入れる。絶対に勝つ。そんな主人の想いに応えるように、馬は力強く嘶いて大地を蹴り砕いた。
***
弥五郎達と別れてから数分後、源二郎は焼け落ちた城下町の中を縦横無尽に駆け回っていた。時に左に曲がり、時に地面に転がる残骸を踏み砕き、時には大きく飛び上がって避けながら突き進む。
一見無駄にも見える行為ではあるが、これは全て白百合隊の指示によるもの。彼らは、屋根に登って上から本多の姿を確認することで、源二郎に最短距離を随時教えているのだ。
「目標、更に左へ旋回! 真田殿、次の角を右に曲がって下されっ! 」
「了……解っ」
手綱を引いて馬に指示を出すと、小刻みにステップを刻みながら減速せずに右へと曲がろうとする。普通の馬であれば、そんな無茶をすれば脚が潰れてしまう。しかし、そこは流石は奥州から三法師へ献上された名馬。見事な弧線を描きながら曲がりきった。
「ぐぅ……ぅぅ――っ」
そして、騎乗する源二郎にも凄まじい重圧がかかり、思わず振り落とされそうになるも、源二郎は歯を食いしばりながら懸命に堪えてみせた。
「――っ、なぁ! どんどん本陣から遠のいているが、本当にこの道であっているのかっ!? 」
確かに、源二郎が疑念を抱くのも無理はない。
本来、奇襲とは短期決戦でなければならない。相手に逃げられたらおしまいだからだ。
それなのに、白百合隊の指示を信じるなら、本多はわざわざ遠回りして織田軍本陣を目指している。それが、源二郎には理解出来なかった。
しかし、それでも白百合隊は源二郎へ進めと言う。険しい眼差しを前方へと向けながら。
「……えぇ、問題ありません。真田殿、このまま直進して下され! 」
「……分かった! 」
その真剣な態度に、源二郎は脳裏に浮かんだ疑念を振り払い、今は考えても仕方ないと白百合隊の指示に身を委ねる。彼らが、裏切る訳がないのだから。
そして、その疑念は直ぐに晴らされることになる。暫く進路を大きく迂回しながら進んでいると、突如として屋根の上から白百合隊が叫んだ。
「目標接近! 目標接近っ!! 」
遂に、その時が訪れたのだ。
「――っ! 後、どのくらい!? 」
「凡そ、二町っ!! 次の曲がり角を右折し、そのまま大通りを直進! 本多忠勝は、その道を真っ直ぐに進んでおります!! 」
「了解っ!! 」
頷き、鞭を入れる。駆ける。駆ける。駆ける。風のように加速していく馬体に揺られながら、源二郎は徐々に近付いてくる敵の気配に気が付く。濃厚な血の臭いにも。
「…………これは」
嫌な予感。自然と手綱を握る手に力が入る。
そして、白百合隊の指示通りに大通りに出た源二郎を待っていたのは、地獄のような光景であった。
全身を返り血で染めた鎧武者。穂先から滴り落ちる鮮血。地面に転がる無数の骸。砕けた短刀。無造作に捨てられた針。周辺には、いたるところに激しい戦闘の跡が残されていた。
この時になって、源二郎はようやく気付いた。白百合隊が、今の今まで命懸けで足止めを行ってくれていたから、本多の進路が大きく迂回することになったのだと。
気が付いた時には、もう全てが遅過ぎた。
「――ッッ!! 」
視界が真っ赤に染まる。
腹の底から湧き上がる怒り。それは、命懸けで戦っていた彼らを、僅かでも疑った愚かな自分自身への怒り。そして、この惨劇を生み出した悪魔に対する怒りであった。
「貴様ッッ! 絶対に、許さぬぞ!! 」
また一匹、戦場に赤い鬼が出現した。
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