第327話
思えば、家康はずっとナニかを狙っていた。
四方に展開した軍団は敗れ、伊賀者は全滅し、力尽きた筈の信長が復活し、神輿に担いだ織田信雄は死に、織田軍に想定外の援軍が現れ、一万五千の連合軍は半ば壊滅した。開戦当初にあった数の優位は完全に覆された。
現在、家康を守る兵士は二千五百人。それも、四方八方を織田軍に包囲され、軍勢は前にも後ろにも行けない袋小路。そんな状態で、一体何が出来るだろうか。徳川家の諜報を担う伊賀者もいない為、家康は四肢のみならず耳と目をも失った達磨も同然だと言うのに。
最早、命運は尽きた……その筈だった。
「クックックッ……未だ、終わらぬよ。未だ、なぁ? 」
笑っている。七千の軍勢に囲まれようとも、兵士達がみるみるうちに削られていようとも、家康は常に余裕を保ち続けているように見えた。まるで、この展開を読んでいたかのように、家康の悠然と右手で盤面に新たな一手を指し示す。
……いや、それは違う。
「兵力差? 劣勢? 勝ち目が薄い? ……それがどうした。これは、一族の存亡を懸けた戦いなのだ。決着は、敵総大将の首を討ち取った時につく。それまでは、どう転ぶか分からぬのが戦よ。全滅か、勝利か。骸か、勝者か。正義か、悪か。それ等は全て、事が終わった後に自ずと分かる」
家康は、既に手を打っていた。三法師達が気付かぬうちに、その背後へ刃を仕込んでいたのだ。
「過程など、最早どうでも良い。兵士達が、幾ら死のうが構わない。例え、この身が窮地に追い込まれようとも、先に奴の首を落としてしまえばワシの勝ちなのだからなぁああっ!!! 」
――ならば、最後までみっともなく足掻こうではないか。見栄や常識を捨てねば掴めぬ勝利もあるものだぁ!
ケタケタと、タヌキは穴熊の中でひとり歪んだ笑みを浮かべる。見栄や人情で勝利を掴めぬことは、これまで滅んできた数多の名家が証明している。力だけが正義であり、弱ければ何も得られないことは、苦しく惨めだった人質時代が証明している。
「さぁ、踊れ! 信長よ! 三法師よ! ワシの策を、打ち破れるものならやってみるが良いっ!! 天下を統一したければ、圧倒的な力でワシを屈服させてみよ! 貴様らに、史上最強の武人 本多平八郎忠勝を倒せるのであればの話だがなぁ!? 」
嗤う、嗤う、嗤う。深く澱んだ深淵で、復讐を誓った鬼が骸を片手に踊り回る。
「足掻いてみせよ、三法師よ! 見事、平八郎を打ち倒したその時は、ワシは素直にこの首を差し出そうぞ。……クククッ、クハハハハハハハハーッ!!! 幾ら、貴様が綺麗事を並べようともこの世の真理は変えられぬ。所詮、この世は弱肉強食。勝者だけが正義であり、弱ければ全てを失うのが道理なのだからなぁ!!! 」
瞳から、黒く濁った血の涙が溢れる。弱く、惨めだった少年は、あの日味わった屈辱と怒りを憎悪に変えて鬼と化す。その歩みは、もう止まることはない。復讐を果たす、その時まで……。
***
そして、南の戦場に一人の騎兵が現れた。己が前に立ち塞がる敵兵を薙ぎ払い、己の周りを嗅ぎ回るネズミを踏み殺し、極限まで己の存在を敵に悟られぬように気配を消して、男は……本多は戦場へとその姿を現した。あと少し、あと少しで榊原軍を打ち破ることが出来ると、織田軍兵士達が前のめりになった最悪のタイミングで。
「本多だぁ! 本多忠勝だぁぁああーっ!!! 」
『――っ!? 』
五郎左の叫び声は、最前線にいる慶次の耳にも聞こえていた。勿論、周りの兵士達にも。
「チッ! 来るとは思ってはいたが、よりによってここでかよ! ……まぁ、一族の存亡を懸けてこの戦に挑んでんだ。このまま終わる訳がねぇわ――なぁ! 」
「ガァッ!? 」
慶次は、本多の登場に悪態をつきながらも槍を振るって敵兵を撫で斬った。助けに行きたい。だが、ここで前線を離れる訳にはいかない。慶次は、脳裏に僅かに過ぎった迷いを振り払い、果敢にも更に一歩深く敵陣へと切り込んだ。
『慶次殿っ!? 』
「――っ」
穂先が耳を掠める。しかし、慶次は一歩も引かない。隣りにも、自身と同じく迷いを見せる兵士の姿が見えたからだ。ここで慶次が迷いを見せれば、一気に軍全体へ動揺が広がってしまう。そこへ榊原軍の反撃を受けてしまえば、一気に前線が崩壊してもおかしくはないのだ。
だからこそ、慶次は不敵に笑う。
「本多忠勝は、源二郎に任せろ! 大丈夫だ、俺達の弟分はそう簡単にやられる程ヤワじゃなねぇ!! 兄貴分ならぁ、ドンと構えて信じてやれ!!! 」
『――っ! おおっ!! 』
「さぁ、行くぞお前等!! このまま一気に榊原軍がぶっ倒して、弟分にカッコイイところ見せてやろうぜ! 」
『ぉぉおおおおおーっ!!! 』
慶次が檄を飛ばすと、それに応えるように野太い雄叫びが響いた。最早、その瞳は眼前の敵兵しか捉えていない。迷いは晴れた。もう、大丈夫だ。前線が崩壊する未来は訪れない。
そして、皆の激励を一身に受けた若武者が、紅き疾風となりて大地を駆けていた。
「……えぇ、任せて下さい。本多忠勝は、私が討ち取ってみせます! 」
若武者は、全身から漲る活力を闘志に変えてひた走る。栗毛の馬体。宙を切り裂く十文字槍。紅蓮の鎧。掲げる旗は六文銭。名を、真田源二郎信繁。武田家の教えと誇りを一身に受けし者。
源二郎は、史実では日本一の兵と謳われた戦国最強の一角であり、その才はこの世界でも存分に発揮され、僅か十八歳にして赤鬼隊の第六部隊長にまで上り詰めた。
忖度は一切無い。そも、赤鬼隊は天下人の後継者足る三法師の親衛隊だ。名を覚えられただけで、どれ程の利が自身と家にもたらされるか分からない。それ故に、全国の諸大名から知恵と武力に長けた傑物が集った。
その中を、源二郎は実力で勝ち抜いて部隊長の座を掴み取ってみせたのだ。尋常ではない。十八歳にして、既にその馬術と槍術は前田慶次に勝るとも劣らない技前なのだから。
正しく、天才。だからこそ、あの本多忠勝と相手取るのに不足なしと判断された。皆が、源二郎に全てを託したのだ。彼ならば、やってくれると。
そして、その背を追いかける五十の戦士達が、雄々しく猛びながら大地を駆けていた。彼らは、源二郎が率いる赤鬼隊第六部隊。もとより、織田軍は本多忠勝に対して最大級の警戒を向けていた故、こうして迅速に行動することが出来ていた。
そんな彼らの心中には、燃え盛るような激しい昂りを宿していた。
「ようやくだ。ようやく、アイツらの仇を取れる! 」
『おおっ!! 』
手綱を握る手に力が入る。
彼らは、何時でも動けるように後方へ控えていた。仲間が戦っている所をずっと見てきた。例え、味方がどんなに窮地に追い込まれていようとも。例え、目の前で酒を飲み交わした友が討ち取られようとも。彼らは、決して動かなかった。それが、彼らの役割だったから。
あの時の光景を、感情を、彼らは生涯忘れることはないだろう。噛み締めた唇から流れた血の味を、生涯忘れることはないだろう。
そして、遂に己の使命を果たす時が来た。だからこそ、彼らは猛ぶ。ようやく、我らの出番が来た。今こそ、この怒りを思いっきりぶつけてやると。
しかし、そこへ源二郎が待ったをかける。
「待って下さい! 弥五郎殿は、このまま他の者達を率いて榊原軍を側面を叩いて欲しい! 本多忠勝は、私ひとりで相手をさせてもらう!! 」
『!? 』
一同、目を見開いて驚愕する。皆、思わず己の耳を疑った。何故なら、それは事実上の退却命令に等しかったから。
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