第326話


 


 戦いは、遂に終盤戦へと突入する。


 織田信長の復活。織田信雄の討死。木曾義昌の参戦。北条・武田連合軍による徳川領侵攻。そして、何よりも東・西・北の戦いに徳川家の重臣達が敗れたことにより、戦況は最終局面へと一気に加速した。諸悪の根源。此度の謀反を引き起こした黒幕。徳川軍総大将 徳川家康の首が見えたからだ。


 家康の首を討ち取れば、この戦いに幕を引くことが出来る。得るものもない。犠牲ばかり積み重なる。そんな、救いようのない戦いに。


(もう、終わらせねばならぬ。乱世が終わる時が、ようやくこの日ノ本に訪れようとしておるのだからな)


「…………両翼を展開し、徳川軍を中央へと押し固めよ! 囲めぇい! ネズミ一匹取り逃すな!! 」


『おおっ!!! 』


 そして、信長がこの千載一遇の機会を見逃す筈が無く、手薄になった徳川軍本陣へ三方向からの一斉攻撃を仕掛けた。逃げ道を塞ぎ、確実に家康の首を討ち取る為に。


 途中、白百合隊の妨害を掻い潜った石川軍が徳川軍本陣へ合流する事態が発生した。包囲網を食い破られた。逃げ道が出来てしまったのだ。


 しかし、石川軍は家康を連れて脱出することをせず、何故か中央へ留まったが為に、結果として徳川軍を織田軍が完全に包囲することに成功。家康の腹心である石川数正の死亡も確認されていた故、最前線で指揮を執る武将達には特に計画に支障は無いと思われていた。






 しかし、その様子を後方で見ていた信長と昌幸は、一連の石川軍の動きに妙な違和感を感じていた。他の者達より、一歩後ろで俯瞰することが出来たら気付けた。石川軍の動きは、あまりにも不可解だった。


 最早、徳川軍に開戦当初の数の利は無い。寧ろ、今はそれがひっくり返っている。なにせ、徳川軍は石川軍と合流したとしても二千五百。それに対し、包囲している織田軍の総数は七千二百。三倍近い兵力差が出来ている。


 つまり、石川軍が本当に家康を助けたいならば、自ら肉壁となって殿を引き受けるべきだった。道は作られていたのだ。奇襲、即離脱。この状況を瓦解出来るとすれば、それしかない筈だった。中央に固まるなど自殺行為に他ならない。


 けれど、石川軍はそれを選んだ。その結果が、家康を中心に二千五百の兵士達が幾重にも渦巻いている。前にも進まず、後ろにも退かず。兵士という壁が剥がれ落ちるまで、ただひたすら耐え続けるしかない陣形。


 確かに、これならば三倍の兵力差にもある程度耐えることが出来るだろう。


 しかし、こんなことをして一体何になるのか。援軍は無い。時間を稼いだところで、状況が好転するとは思えない。徳川の将兵たちとて、それくらい分かっている筈だ。もう、勝ち目など万に一つも無いことを。






 にも関わらず、誰も離反する者が現れない。その一点が、信長と昌幸に薄気味悪さを与えていた。


 それもその筈。幾ら主従関係を結んでいると言えど、全員が全員死ぬまで主君に忠義を尽くす訳ではない。史実の武田家のように、このままでは家を残せないと思えば、親や子であろうとも平気で裏切る。それが、乱世の処世術なのだから。


 しかし、徳川軍の兵士達は誰一人とて諦めていない。……まるで、未だ勝機が残されていると言わんばかりに。


『…………』


 異様な空気が漂う。


(……未だ、何かあるのか? わざわざ耐久戦を選ぶ程の切り札が――)


 信長の首筋に冷たい汗が流れる。


 そして、その予感は最悪の形で的中することになる。


「伝令っ! 伝令ーっ!! 」


 南の戦場に、本多忠勝の出現したという凶報と共に。






 ***






 崩れかかった家屋の影から、ソレは織田軍にとって最悪のタイミングで現れた。まるで、影が二つに分かれるように、皆の意識の狭間を突くように戦場へ躍り出た。


 ソレに、誰よりも早く気が付いたのは五郎左であった。偶然ではない。指揮官として、戦場中に視線を張り巡らせていたからこそ気付けた。


「――なっ!? 」


 声が溢れる。五郎左は、突如として現れた騎馬の姿に思わず目を見開いて驚愕した。何故なら、その風貌は過去に見たあの男のソレと瓜二つだったから。最も警戒しなくてはならない、徳川軍の最大戦力と。


「――クソッ! 何故、奴が此処にいるっ!? 何故、誰も気が付かなかった!? 」


 五郎左は、この予想だにしない事態に、軍配を握る右手が僅かに震えていることを自覚する。


 さもありなん。戦場一帯には、白百合隊が配置されている。榊原軍の撹乱。石川軍への妨害。織田軍全体への情報伝達。それら全てを完璧にこなす為に、蜘蛛の巣のように戦場中に張り巡らせているのだ。誰にも見付からず、此処まで辿り着くことなど不可能だ。






 ……そう、不可能なのだ。誰にも見付からないなんて。では、何故本多が此処まで辿り着くことが出来たのか。その答えは、本多が握る槍の穂先に滴る血潮が如実に物語っている。


 ソレに遭遇した者は、全て斬り伏せられたのだ。


「……くっ」


 焦り、嫌な汗が背中を伝う。なんとかしなくては、皆に知らせねば。その二つが脳裏を過ぎり、五郎左は今一度本多の方へ顔を向ける。


 そして、五郎左と本多の視線がぶつかった。


「――っ」


 刹那、五郎左は息を呑んでしまった。その真っ黒な瞳の奥で、おぞましい笑みを浮かべる家康の姿を幻視したのだ。燃えるような憎悪と粘ついた執着心。その二つが合わさった黒い炎を。


 その瞬間、五郎左は反射的に叫んだ。皆に、あの怪物のことを知らせる為に。


「本多だぁ! 本多忠勝だぁぁああーっ!!! 」


『!? 』


 五郎左の叫びに、兵士達の視線が一斉に本多の下へと向けられた。この瞬間、織田軍全体へ本多の出現が周知された。速やかに、脅威を排除すべく動き出すだろう。


 しかし、それよりも早く本多は動いていた。五郎左が、声を上げるのと同時に鞭を入れて、馬に加速を促していたのだ。気付かれた以上、ここからは時間との勝負。先手必勝の心構えで。


「……いざ、参る」


 恐怖が、もう目の前にまで迫っていた。






 ひと息で加速する黒き影。瓦礫を蹴散らし、板を踏み砕き、棒を飛び越えて。障害を、妨害をものともせず、黒毛の馬体は一陣の風となりて戦場を駆け抜けた。


 その迷いのない姿を目の当たりにした五郎左は、完全にしてやられたことを悟った。先に述べた通り、あまりにも状況が悪過ぎたのだ。


 というのも、現在の織田軍の配置が逃げる榊原軍を追って大きく右側に傾いている為だ。


 現在、南の戦場にいる織田軍の総数は千三百と六十三。それぞれ、前線の慶次に千二百、中団の五郎左に百、後方の源二郎に五十。その更に後ろに、三法師が十三名の一刀流の使い手と共に控えている。


 それが、石川軍の前線から撤退した後、戦意を喪失した榊原軍を慶次率いる織田軍は凄まじい勢いで追い立てた。右斜め後方へと逃げる榊原軍、それを追いかける慶次達。それを繰り返した結果、このような大きく右側に旋回し、細く縦に伸びた歪んだ陣形になってしまったのだ。






 無論、五郎左とて進んでこの形に至った訳ではない。しかし、倍近い兵力差を覆すには手段が限られ、榊原軍を叩きのめすにはあの瞬間に前線へ兵力を集中するしかなかった。あの場に限り、五郎左は正しい選択をしていた。


 だが、本多の登場によって状況が一変した。本多が現れた場所は、織田軍から見て左側に位置する家屋の影。そこから、大きく旋回しながら最後尾にいる三法師の首を目指している。一切の減速なしで。


「……マズい、このままでは――っ」


 冷や汗が頬を伝う。相手の術中にハマっている。早く、この状況を瓦解しなくては手遅れになる。だが、最早五郎左に残された選択肢は数少ない。手元に残った手札を組み合わせる時間すら惜しい程に。


 そんな中でも、五郎左は冷静に本多の移動速度を目算し、この場における最適解を弾き出そうと思考を加速させた。考える。それこそが、五郎左の最大の武器だから。


 (今、手元には百騎の兵士がいる。しかし、彼らの多くは負傷兵だ。無理は出来ぬ。そもそも、敵はあの本多忠勝だ。下手な者では相手にならぬ。……慶次は無理だ。遠過ぎる。ならば、源二郎を呼ぶしかないだろう。源二郎へ、本多忠勝の下へ迎えと指示を出す。それを受けた源二郎が馬に鞭を入れて走り出す。五十の手勢を連れて。…………駄目だ、駄目だ、駄目だ! これでは、時間がかかりすぎる! 源二郎達が動き始める頃には、本多忠勝は更に本陣深くにまで入り込んでおるぞ! )


 残り時間は、刻一刻と失われていく。焦りを自覚しながらも、ぐるぐると思考が回ってしまう。あと一手が足りない。戯言を繰り返しながら脳みそをフル回転させる。


「どうする。どうする。どうする。どうする。どうする。どうする。どうする。どうする。どうす――っ」






 ――刹那、五郎左の横を赤い影が走り去った。






 栗毛の馬体。宙を裂く十文字槍。紅蓮の鎧。掲げる旗は六文銭。その背を追い、五十の戦士達が雄々しく猛びながら大地を駆ける。……源二郎達だ。五郎左が指示を出すよりも早く、彼らは駆け出していた。これにより、タイムロスは無くなった。


「源二郎!? 」


「丹羽様、殿をお頼み申す! 本多忠勝は、この私にお任せ下され。案ずることはございませぬ。既に、覚悟は出来ております故……。もとより、本多忠勝の相手は私にございますっ! 」


「……分かった! 頼んだぞ、源二郎!! 」


「ははっ!! 」


 五郎左に返事をしながら鞭を入れる。力強く嘶き、風のように加速していく馬体に揺られながら、源二郎は凄まじい闘気を本多へ向けて放つ。お前の相手は、この俺だと言わんばかりに。


「往くぞ、本多忠勝よっ!! 」


 史実において、日本一の兵と謳われた男が遂に動いた。その背に、夜空に輝く星々のような数多の願いを託されながら。








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