第325話



 


 今、徳川家随一の忠臣がその人生に幕を閉じようとしていた。石川数正、五十一歳。三十年以上、徳川家に忠節を尽くしてきた男だ。


 後悔だらけの人生だった。死の間際になっても、未練が胸の中を掻き乱す。他に選択肢は無かったのかと。どうして、あの時最後のひと押しをしてしまったのだと。やり直したいと。


 それでも、その表情はどこか達観しているようにも見えた。僅かに聞こえてくる息子の雄叫びによってか、それとも最後の希望に主君の行き先を託したからか。


「…………頼み、ました……ぞ。………………本多――殿……っ」


 最後に、そう呟やいて石川の瞳から光が失われた。徳川家康の勝利を一心に願いながら。






 ***






 一方その頃。


 織田軍による三方向からの一斉攻撃は、徳川軍総大将 徳川家康の首へあと一歩の所まで迫ってみせた。大久保ら徳川家重臣達が死に物狂いで奮闘するも、両軍の兵力差は七倍以上。多勢に無勢。千騎居た徳川軍は、みるみるうちに織田軍によって斬り伏せられていった。


「……いけるっ! このまま押し切れるぞ!! 」


『おおっ!! 』


 新五郎が檄を飛ばすと、兵士達は威勢よくそれに応える。その表情は自信に満ちており、精神的に余裕があるのが後方にて軍を指揮する信長へも伝わってきた。


 その様子に、信長は満足気に頷く。


「……うむ。良い状態だな」


 精神的に余裕が出来れば視野が広くなる。視野が広くなれば仲間との連携も上手くなっていく。これは、油断ではない。その証拠に、兵士達の肩も顔も強ばっていない。敵を倒す。その一点に、集中しているのだ。


 だからこそ、織田軍は崩れない。例え、徳川軍が反撃に出ようとも冷静に対処出来ている。焦らない。一手一手、詰め将棋のように敵を追い詰めていく。


 こうなると、徳川軍はもう後手に回るしかない。流れは、完全に織田軍にあった。






 しかし、ここで徳川軍が意地をみせる。


「うぉぉおおおおおーっ!! 皆の者、我に続け!! 織田軍を蹴散らし、殿をお助けするのだっ!! 道中、我らの為に犠牲になっていった同胞の死を無駄にするなぁああああーっ!!! 」


『おおおおおおおおおっ!!! 』


『!? 』


 空へ轟く雄叫び。嘶き、疾走する黒き影。血の涙を流す一人の若武者。荒ぶる馬は大地を踏み砕き、自ら命を燃やし尽くすかの如き灼熱の焔が軍全体に伝搬する。


 その先陣を切るのは、石川康長。若干二十一歳の若武者が、千八百の軍勢を率いて織田軍が展開する包囲陣へ真っ向からぶつかった。


 背後からの攻撃。想定はしていたものの、運が悪いことに前衛が丁度攻勢に出るタイミングで仕掛けられた。後ろが何とか持ち堪えているが、勢いは完全に石川軍にある。


「――っ! やはり、ただでは終わらぬか! 」


 この状況に、堪らず信長の眉間に皺が寄る。


(三河武士は、泥臭く最後まで足掻き続ける質だ。今川に長らく押さえ付けられていた弊害であろう。……小癪な。まともに相手をすれば、こちらが余計な被害を受けるだけか)


 しかし、そこは流石に乗り越えてきた場数が違う。瞬時に現状を把握して最適解を弾き出す。


「慌てるな! 大方、南の戦場から戻って来た者達であろう。増援の数も多くはない。未だ、こちらの優勢に変わりはない! 案ずるな、想定通りであるっ! 」


『――っ! 』


 信長の檄に、兵士達はハッと落ち着きを取り戻した。そこへ、昌幸も立て続けに指示を飛ばす。


「各員、予定通り三人一組となって行動せよ! 焦らず、決して孤立しないように立ち回れ! 最悪、奴らを本陣へ通してしまっても構わん! 敵軍に挟まれることだけは、絶対に避けるのだ! 良いなっ!! 」


『ははっ!! 』


 兵士達の瞳から、完全に動揺が消し去っていく。これだ。これこそが、織田信長の真骨頂。己を一切疑わないその言動は、強烈な光となって味方の不安を覆い隠くす。


 その結果、石川軍の奇襲を受けて尚、織田軍の被害は最小限に抑えることに成功。兵士達は、敵の攻撃を捌きながらも、冷静に事前に取り決めていた者と合流するべく動き始めていった。






 その様子に、これならば総崩れはないだろうと判断した昌幸は、声を潜めて信長へ自身の考えを告げる。


「上様。どうやら、石川軍は多少の犠牲を覚悟の上で徳川本軍との合流を目指している模様。合流を許せば、その数は二千五百程になるかと」


「で、あろうな。あの瞳は、本陣しか映っておらぬわ」


「……追撃致しますか? 」


「良い。合流したければさせれば良い。……諸共すり潰すだけよ」


 信長の瞳が野獣のように見開かれる。まるで、獲物を目の前に息を潜める虎のように。焦りも、侮りも感じない。信長には、家康がどのような手を打ってきても対処出来る自信があった。


 しかし、昌幸の表情は晴れない。


「どうした。何か、気にかかることでもあるのか? 」


「……家康の救出を目的とするのであれば、多少なりとも織田軍を散らして退路を確保するのが上策。背後を突いていたのです。勢いもあった。まともに攻撃を受けていれば、こちらも立て直すのに時間を要したでしょう。あの一瞬は、網を食い破る絶好の機会だったのです。……しかし、石川らはそれを選ばずに自ら包囲陣の中へと入っていった。……これは――」


「不可解……か? 」


「……はっ、兵力差で劣っているのにも関わらず、自ら消耗戦を選ぶなど下策も下策にございましょう。通常であれば、このような策を選ぶことはございませぬ。……おそらく、現在石川軍を率いているのは息子の康長でしょう。確か、未だ二十そこそこの若輩者。先程、白百合の者から石川数正の死亡が伝えられました故、父の死に動揺したのかと思われましたが……」


「それは、誤りであろうな。誠に動揺しているのであれば、敵兵とぶつかり合う前に減速している。精神的に、一度逃げてしまっておるのだからな。そうなれば、時を置かずに戦場へ戻るなど不可能だ。……であれば、この絵を描いたのは石川数正であろう。流石は、徳川家の重臣といったところか。奴め、ただでは死なぬと吠えよったわ! 」


 カラカラと笑う、信長。その視線の先では、遂に織田軍の包囲陣を切り裂いた石川軍が徳川軍本陣へと辿り着いていた。


 これにより、戦いは泥沼の消耗戦へと移行するであろう。石川数正の狙い通りに。


「…………気に食わぬ。気に食わぬなぁ。薄気味悪いわ。狙いが読めぬ」


「えぇ、誠に」


 二人共、眉間に皺を寄せる。家康の首が目の前にある筈なのに、刈り取る寸前に霞のように消えてしまう。そして、霧の中に刃を隠しているように感じるのだ。武士としての直感が、このままでは終わらぬと告げていた。






 そして、その予感は的中することになる。


「伝令ーっ! 伝令ーっ!! 」


 兵士を掻き分けて信長の前に躍り出る男。白百合隊に所属している忍び。そう、奴の存在に誰よりも早く気付いたのは白百合隊であった。


「報告致します! 本多忠勝が現れました! 場所は、南の戦場。単騎にございます! ……我らが動き出すよりも早く、奴らは手を打っておりました! 申し訳ございませぬ。奴は、既にこの場から脱しております!! 」


「――っ、やはり……か! 」


 嫌な予感が当たったと、信長は顔をしかめた。先程から、本多忠勝の姿を確認することが出来ていなかったのだ。織田軍が包囲陣を形成するよりも早く、家康の命によって動いている可能性は十分に有り得た。


「……家康っ」


 視線の先に、ニヤリと笑う家康の顔を幻視する。


「クックック……未だ、終わらぬよ。未だ……なぁ? 」


 二千五百の壁の向こうで家康は笑う。


 織田軍が家康の首を討ち取るのが先か、それとも本多忠勝が三法師の首を討ち取るのが先か。最早、この戦いはその一点に焦点を絞られた。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る