第324話


 


 間に合ったと、石川は思いたかったのかもしれない。


 友を見殺しにして、数多の家臣達を捨て駒にして、石川数正はただひたすらに戦場を駆けた。窮地に陥っている主君を助け出す為だと、罪悪感で押し潰されそうになっている自分自身を誤魔化して。


 だからこそ、間に合わなければならない。彼らの死が、無駄ではなかったことを証明する為に。主君の命を守る為に、己が命を賭した誇り高き武士であったと遺族に伝える為に。……せめて、武士の誇りだけでも守らなければ、死んでいった彼らに顔向け出来ないから。


「……すまぬっ、お前達! 殿の為に、徳川家の為に此処で死んでくれっ!! 」


 唇を強く噛み締める。


 石川は、主君の為に修羅の道を選んだのだ。例え、後世で己の行いを非道だと蔑まれようとも、今やらねば全てを失うだけだと言い聞かせて。再び、泥水を啜った。






 ――しかし、そんな石川を待ち受けていたのは地獄のような光景だった。






 むせ返るような、濃い血の匂いが鼻を突く。


「…………ぇ? 」


 石川は、その光景を目の当たりにした瞬間、目を見開きながら蚊の鳴くような声を漏らした。


 そこに広がっていたのは、悍ましい量の返り血が付着した旗印が転がり、重なり合った死体から溢れた血で真っ赤に染まった大地と陣幕。見渡せば、辺り一帯に槍や刀で胴体を貫かれたまま息絶えた徳川軍の兵士達の姿が転がっている。


「まさか、……そんなっ」


 間に合わなかったのか。一瞬、絶望的な想像が脳裏を過ぎった。それ程までに、凄惨な光景だったのだ。


 しかし、その奥に僅かな希望が見えた。倒れ伏した骸の奥に、未だ戦っている徳川軍の兵士達の姿が見えたのだ。例え、自分が最後の一人になろうとも、絶対に主君の下へ敵兵を通してやるものかと。


 その中でも、果敢に織田軍へと斬りかかっているのは、徳川家随一の忠臣 大久保忠世。全身傷だらけになりながらも、ここで己が命を燃やし尽くすかの如く暴れ回っていた。少しでも時間を稼ぐ為に。必ず、石川数正は帰ってくると信じて。


 石川だけじゃない。皆、諦めていなかった。


「間に、合った……っ」


 涙が溢れる。やはり、自分の判断は間違っていなかった。皆、必死に戦って持ち堪えていた。兵士達の死は、無駄ではなかったのだと。






 ――だが、そんな幸福は一瞬にして崩れ去った。






「構えっ! 」


『はっ! 』


 突然の号令。奥ばかりに気を取られていた視線がゆっくりと下がっていき、石川はようやく己へ向けられた十三の銃口に気が付いた。


「――なっ! 」


 思わぬ事態に身体を強ばらせる。石川の進行方向には、隊列を組んだ一個小隊の織田軍の姿。その最前列には、膝を着いて石川の眉間に照準を合わせている兵士がいた。既に、射程圏内に入ってしまっていたのだ。


「――っ」


 息を呑む。


 待ち伏せされていた。道中の妨害は、この状況へ持ち込む為の布石だった。石川軍は、白百合隊によってここまで誘導されたのだ。でなければ、こんな都合良く石川軍の正面に兵を配置出来る筈がない。だから、白百合隊の妨害が止んだのだ。もう、その必要がなくなったから。


 それに気付いた時には、もう全てが遅過ぎた。


(しまっ――)


「今だ、撃てーっ!! 」


 指揮官が軍配を振るい檄を飛ばす。一瞬の空白。その直後、耳を狂わせるような轟音と共に凄まじい衝撃が石川を襲った。


「――ガァッ!? 」


 兜が吹き飛ばされ、鎧越しに伝わってくる衝撃で石川は馬体から宙へ投げ出された。頭に二発、胴体に五発。鎧は砕かれ、鉛玉が四肢を穿つ。


「ち、父上ぇえええええっ!! 」


 溢れる血潮。泣き叫ぶ声。暗明する視界。そして、音が次第に遠くなっていき、身体から熱が失われていった。


 致命傷だ。


 もう、助からない。


 その事実を死の間際に悟った石川は、全身を駆け巡る激痛を必死に堪えながら最後の力を振り絞って後ろにいる息子に向けて叫んだ。徳川家の家臣として、最後の勤めを果たす為に。


「が、まうなぁ! 行けぇええええええー!! 」


「――っ! は、はいっ!! ……これより、指揮はこの石川康長が執る!! 皆の者、我に続けぇ!! このまま、本陣まで突き抜けるのだ!! 勢いそのままに、織田軍の壁を突破するのだ!! 良いか! 決して減速するでないぞ! 臆するな! 躊躇うな! 恐怖に呑まれるな! 道中、我らの為に犠牲になっていった同胞の死を無駄にするなぁあああああっ!!! 」


『――っ!! おおおおおおおお っ!!! 』


 数正の叫びに応えるように、息子である康長が弾かれたように先陣へと躍り出て名乗りを上げる。ここまで駆け抜けてきた軍勢の勢いを途切れさせぬように。火を絶やさぬように。例え、父の死に際に立ち会えずとも。


 そんな若武者の燃え盛るような想いは、兵士達の動揺を一瞬にして消し飛ばし、康長に続くように兵士達も声を張り上げる。


(……そうだ。それで、……いい……っ)


 その背を見ながら、石川は満足そうに頷いた。これならば、きっと本陣へ辿り着ける。ずっと此処まで走り続けて来たのだ。軍は、最大限まで加速している。戦意が途絶えぬ限り、その勢いは一個小隊程度簡単に跳ね飛ばせるだろう。


 石川数正は、見事に最後の勤めを果たした。


(儂の、役目は……終わっ……た)


 そして、地面へと叩き付けられた。






 ***






 肉が潰されるような鈍い音が響く。


「――カハッ!!? 」


 織田軍による攻撃で致命傷を負った石川は、まともに受け身を取れずに地面へと衝突。そして、勢いそのままに血反吐を吐きながら地面を転がり続け、暫くしてようやく勢いが収まった石川の身体は、ゆっくりと仰向けの状態で静止した。


「…………コフッ」


 吐血。口の端から溢れたソレは、ゆっくりと首筋を伝わって地面へと落ちる。石川の身体を中心に広がる鮮血の海は、僅かに残されていた生命の灯火が零れ落ちるようであった。


(…………あぁ、これで……終わりか)


 泥と血に塗れながら、僅かに開いた瞳に空が映る。弱くなっていく鼓動。か細い呼吸。段々と視界が暗くなっていき、周囲から音が無くなっていくのを感じながら、石川は静かに己の最期を悟る。


「……ぅ、……あぁ……ぁ」


 言葉にならない声を繰り返す。妻や子供達、家臣の姿を思い浮かべながら……。走馬灯。石川の脳裏に、過ぎ去った思い出が次々と過ぎる。後悔はある。未練もある。もし、やり直せるなら石川は一も二もなく飛び付くだろう。






 それでも、やはり脳裏を過ぎるのは敬愛する主君の横顔であった。


「と……の……っ」


 指先が僅かに動く。


 石川数正。


 家康が、唯一心を許すことが出来る腹心。三十年以上、石川は家康の側を片時も離れず、幾多の苦難を共に乗り越え、地面に這いつくばりながら泥水を啜る日々を送ってきた。何度も不当な扱いを受けた。平伏すれば、嘲笑いながら頭を足蹴にされた。指の骨を折られたこともある。一切皆苦とは、まさに彼らの歩んできた人生そのものであろう。


 ……だからこそ、石川は苦難の道を進む主君がいつの日にか報われて欲しいと心から願った。家康の苦悩を誰よりも近くで見てきたからこそ、その本心から出た願いであれば必ずや叶えてみせると。石川は、幼き主君に誓ったのだ。少しでも、その傷付いた心の支えになることを祈って。


 そんな、十数年前にした口約束を果たす日が訪れるなんて、あの時の石川は露ほども思わなかっただろう。謀反の計画を知り、その狙いを聞き、家康が抱えていた闇を見た瞬間、石川はもう後戻りは出来ないことを悟ってしまった。


 それ故に、石川は最後のひと押しをしてしまったのだ。主君の願いを受け入れてしまった。その行く先は、地獄でしかないと知りながらも。


 だからこそ、石川は彼に望みを託した。例え、その願いが歪んだモノだとしても、ずっと堪えてきた主君が本心から望んだモノだったから。


「…………頼み、ました……ぞ。………………本多――殿……っ」


 そう、最後に呟き。石川の瞳から光が失われた。徳川家康の勝利を一心に願いながら。






 ***






 そして、その願いは確かに彼の下へ届いた。


「あぁ、あとは任せよ」


 大地を駆ける漆黒の馬体。黒染めの甲冑に、返り血で赤く染まった槍の穂先。口元を隠す漆塗りの仮面。天を貫く雄々しき鹿の角。その姿を見た者は、皆、口を揃えて叫んだ。


『ほ、本多忠勝だぁあああーっ!!! 』


「……いざ、参る」


 遂に、隠されていた手札が切られた。






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