第321話


 


 あれから十数分後。


 戦場から少し離れた物陰にて、先程まで徳川軍本陣へ忍び込んでいた男が着替えていた。男の名は景吉。白百合隊に属する忍びである。


 そんな景吉が手に持っているのは、この近くで戦死していた徳川軍の兵士が着ていた物。これに、徳川軍の旗を背負い、仕上げに深々と陣笠を被れば、先ず織田方の間者だとバレることはない。戦の規模が大きくなればなるほど、武士は旗印でしか敵味方を判断しなくなるからだ。


「……良し、こんなところだろう」


 その一連の動きに一切の迷いはない。やましいとも思わない。敵の旗を持って敵軍に紛れることは、景吉にとって常套手段であり、決して死者を冒涜するものではない。正義は我らにありと、己が行為を正当化しているからこそ、その歩みは力強く自信に溢れている。違和感を感じないのだ。故に、偽装がバレることはない。


「……あぁ、そうだ。三河少将も尾張守も正義に非ず。泰平を願い、民を憂い、卑賎の生まれでも差別せず、誰もを平等に慈しむことの出来る。生来の気質では無いにも関わらず、国を統べる大名として清濁併せ呑むことが出来る。……そんな殿だからこそ、身命を賭してお仕えするのだ」


 瞳を閉じ、胸元を握り締めながら呟く景吉。その背後には、崩れかかった一軒の家屋。入口から覗かせる二本の足の先には、首筋から血を流して事切れている一人の男の骸があった。


 この遺体の正体は、織田軍の兵士達の中に紛れていた伊賀者であり、これが最後の一人だ。もう、この戦場に伊賀者は存在しない。全て刈り取った。情報戦は、織田軍の勝利であった。


 その意味は、大きい。


「……では、始めるぞ」


『――はっ』


 景吉の号令を合図に、八つの影が戦場を縦横無尽に駆け回る。遂に、仕込んでいた手札を切ったのだ。


 その速さ、まさに雷の如し。塞き止めていたダムの水を放出するかのように、怒涛の勢いで今まで隠してきた真実を徳川の兵士達に流し始めた。徳川軍へ、情報戦の真髄を思い知らせるべく。


 常に栄光の裏に隠されていた日陰者達が、この日ノ本の行く末を左右する大戦の流れを急激に加速させたのであった。






 ***






 情報戦。


 それは、太古の時代より日常生活の影に隠れて行われてきた。そこに、光が差すことはない。どんなに功績を挙げても讃えられることはない。記録にも記憶にも残らず、権力者の栄光を影で支える者達がいた。


 彼らは、ただの世間話から敵の本拠地や戦場の風土を探り、味方に有益な情報を持ち帰る。敵兵に紛れ、人の心に付け込んで疑念を抱かせる。民衆の不安を煽る。暴動を誘発させる。機密を盗み出す。要人を暗殺する。


 そんな存在がいるからこそ、戦の勝敗が戦場で決まるとは限らない。始まる前から終わっていることもある。始まることすら無かったこともある。


 それ故に、彼らは武士達から忌み嫌われる。穢れた存在だの、卑怯者だの言葉を濁しているが、本当の所は彼らを恐れているから遠ざけているのだ。情報をコントロールされる。自分達が知らないことを相手が知っている。その恐ろしさを、誰よりも理解させられているから。






 そしてまた、彼らに惑わされた武士達が現れた。


 景吉達が一斉に動き出した数分後、石川数正と榊原康政の耳に驚愕の一報が入る。


「な、なん――だと? 尾張守殿が討ち取られたぁ!? 」


「ば、馬鹿な……。酒井のみならず、井伊までもが討ち取られたとは――っ」


 石川達が知らされたのは、織田信雄・酒井忠次・井伊直政の戦死を告げる一報。


 そう、石川達は今の今まで信雄達が死んでいたことを知らなかった。徳川軍全体へ情報を共有させる役目を負っていた家康子飼いの伊賀者達は、戦の序盤にて行われた金華山の戦いにて服部半蔵諸共白百合隊に殲滅された。織田軍に紛れていた間者も、伝令に出された若武者も人知れず闇に葬られた。


 その結果、徳川軍の情報網に致命的な穴が生まれた。折角四方に軍を分けたというのに、一切連携が出来なくなってしまったのだ。唯一出来たことは、徳川軍本陣から後詰を南の戦場へと派遣したことのみであった。


 これでは、軍を分けた意味がない。大方の予想通り、徳川軍は各個撃破され、連絡を取り合うことの出来る織田軍は、信長が主導になって三方から同時攻撃を仕掛けようとしている。


 この絵を描いたのは真田昌幸。活用したのは織田信長。実現するのは織田軍の兵士達。……されど、その裏で八面六臂の活躍を魅せた白百合隊の存在があったからこそ、白百合隊による徹底的な情報統制があったからこそ、この状況を作り出せた。






 三法師が、三年前に設立した隠密部隊 白百合隊。構成員は、女性だけでは無い。三法師が岐阜の山奥に用意した隠れ里を拠点に、老若男女様々な事情を抱えた者達が織田家の旗の下に集まっていた。


 戦で親を亡くした孤児。僧侶にハメられ、多額の借金のカタに売り飛ばされた女。同僚に裏切られて、自身以外の一族郎党を失った男。主君に捨てられた元忍び達。皆が皆、地獄を味わった。いっその事、殺してくれと懇願する程の。


 そんな全てを失い絶望に打ちひしがれている者達へ、三法師は手を伸ばした。男女問わず、出自も問わず、年齢も問わず。


 彼らは、その手を取った。裏があるかもしれないと思った。そんな都合のいい話がある訳ないと思った。だが、三法師は衣食住を提供する代わりに、忍びとして織田家に仕えよと言った。情では無く、利をもって取り引きを持ち掛けた。だからこそ、信じられたのだ。情で動かれるよりも、よっぽど納得がいったから。


 その結果、初めは十三人の少女達しかいなかった白百合隊は、三年という月日を経て、日ノ本中に情報網を張り巡らせる程の規模を誇る一大組織へと成長していた。


 そして、契約上の関係でしか無かった三法師にも、心から忠誠を誓うようになった。一度も裏切らなかったからだ。捨て駒にすることもなく、全てを失った彼らに未来という名の希望を与えた。


 ……それが、彼らにとってどれ程嬉しかったことか。






 故に、三法師に敵対する者には一切容赦しない。織田信雄と徳川家康が謀反を起こした時、彼らは腸が煮えくり返るような激情に襲われた。作戦の為だと徳川軍の中に紛れていたが、今すぐにでも飛び出してその首を切り裂いてやろうとも思った。


 それでも、必死に我慢した。今は、その時では無いと。


 だからこそ、徳川軍の中を駆け回る同胞の姿を見た瞬間、カッと腹の底に隠していた激情が溢れ出し、戦場中に響き渡るように大きく声を張り上げながら叫んだ。


「尾張守が死んだー!! 足軽達は、皆逃げ出したぞー!! もう、お終いだー!! 」


『!? 』


 兵士達の間に衝撃が走る。だが、未だ終わらない。先の声に続くように誰かが叫んだ。


「酒井様もやられた! 」


「井伊殿、討死ぃいい!! 」


「四方を囲われたぞ!! 」


 それは、災厄の始まり。東と西を任された重臣は敗れ、謀反を起こす大義名分でもあった信雄まで失った。尾張勢は総崩れだ。


「か、囲まれた!? 」


「さ、酒井様が……そんな――」


「おいおいおい! これ、マズいんじゃ……」


「お、落ちつけ! 流言に決まっておる!! 」


「そうだ! 耳を貸すな! 」


 不安。不信。恐怖。動揺が波のように広がっていく。慌てて侍大将達が混乱を収めようとするも、次に発せられた一言で全てを塗りつぶされた。


「北条が三河を襲っている!! 遠江は火の海だ!! 」


『――っ!!? 』


 動揺が最大に達する。槍を落とす者まで現れた。故郷を失う。憶測と言えどもその衝撃は凄まじく、多くの兵士の脳裏には故郷に残してきた家族の顔が過ぎった。


「あ、あああ……」


 その瞬間、家康が兵士達へかけていた洗脳が解かれた。植え付けられた憎しみよりも、全てを失う恐怖が勝ったのだ。


『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ーッッ!!? 』


 溢れる涙、散る慟哭。正気を取り戻した先に待っていた地獄。誰も、救えない。誰も、救われない。彼らに出来ることは、自らの運命をただ受け入れることのみ。






 そして、徳川軍全体の動きが鈍った瞬間を見計らい、戦場に法螺貝笛の音が鳴り響く。天高く昇る三本の狼煙。時は満ちた。突撃の合図だ。


「往くぞ、お前達ぃいい!! 狙うは、徳川家康ただ一人! この一瞬に、己が全てを賭せ! 己の手で、末代まで語り継がれる名誉を勝ち取るのだ!! ――すわ、懸かれぇぇぇぇええええええええええええーっ!!! 」


『おおおおおおおおおおおおおおーっ!!! 』


 三方から喊声を上がり、一斉に徳川軍本陣目掛けて動き始める。その背を押すように、一陣の風が吹き荒れた。




 信長が、動いた。






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