第320話



 迷いを振り切り、心身共に万全の状態に至った三法師。指揮官の精神状態は、軍の士気に大きな影響を及ぼす。


「僅かな隙を決して見逃すな! その一瞬に、今後数百年の日ノ本の行く末がかかっているのだと心得よ! 一気呵成に畳み掛けるのだっ!! 」


『おおっ!!! 』


 三法師の号令と共に、兵士達は力強く足を一歩先へと踏み込む。戦場に戦士の雄叫びが響き渡る中、不意に誰かが呟いた。


「……正直、諦めかけていた」


 突然の、感情の吐露。されど、その声音からは一切の怯えは感じない。寧ろ、清々しい思いに溢れていた。


 そんな呟きに、誰かが続く。


「体力も限界で、敵の増援は一向に止まる気配も無くて」


「最早、何時から戦い始めたのかも覚えていない。槍を握る手の感覚すら無くなってしまった」


 それでも、戦い続けられたのは、後ろに己が命に替えても護りたい人がいたから。






 そんな彼らだからこそ、勝利の女神は微笑んだ。


「そんな時、援軍が現れた。殿を助ける為に、昔受けた恩義を返す為に」


「……嬉しかった。若様がやってきたことは、その夢は、間違っていなかったのだ……っ」


 声が震える。


 己を省みぬ献身。途方もない理想。常識とかけ離れた価値観。最初は、当然戸惑った。だけど、次第に信じてみようと思えた。三法師が、一度も彼らを騙したりしなかったから。その瞳に宿る熱量から、三法師が本気で日ノ本を良くしようとしていると伝わったから。


「――なら、やるっきゃねぇよな!? 俺らが信じた御大将が、ここまでお膳立てしてくれたんだからよぉ!! 」


『ぉぉおおおぉぉおおおおおおおーっ!!! 』


 腹から声を張り上げて槍を振るう。穂先が頬を掠めようとも、銃弾が肩を撃ち抜こうとも関係ない。その瞳には、一切の迷いが見えない。


 全ては、天下泰平の世を築く為に。


 今、織田軍の兵士達と総大将の想いが一つになった。






 ***






 一方その頃、徳川軍本陣にて動きがあった。各地に散らばっていた伊賀者の一人が、命からがら情報を持って本陣へと帰還したのだ。木曾義昌の参戦と、北条家の徳川領侵攻という徳川家の存亡に関わる最重要機密を。


 これは、策謀に長けた徳川家康とて想定していなかった事態であり、その一報を聞かされるや否や、家康は激しく取り乱しながら立ち上がった。


「木曾に……北条だとぉ!? 」


「ははっ。木曾義昌、千五百を率いて木曾福島城を出陣。既に、岐阜へ到着しております。そして、北条家。殿が三河国を出立された同時刻、北条氏直が一万を率いて小田原城を出陣。駿河国にて、穴山梅雪と依田信蕃が北条軍に合流。更には、武田信勝率いる武田軍が北条軍との合流を目指して甲斐国を出陣。遠江国へ到着する頃には、総勢一万五千にまで膨れ上がっております。……おそらく、既に遠江国は北条軍に落とされたかと」


「――なぁっ!!? 」


 完璧だった筈の策略にヒビが入る。


(既に、到着していた織田方への援軍。更には、東より迫り来る一万を超える大軍。国には、僅かな兵士しか残されていない。多勢に無勢、結果は目に見えている。遠江国は、既に敵の手に渡っているだろう。……ともすれば、三河国までもが――)


 ぐらりと、家康の身体が傾く。けたましい音を立てながら地面へ倒れる床几。直後、痛い程の静寂が場を支配した。誰もが、顔を青ざめながら口を閉ざしていた。最悪の未来を垣間見てしまったから。






 そんな中、家康だけが恐怖に震えていなかった。


 真っ赤に染まる顔。憎悪を薪に、漆黒の炎が燃え上がる。そんな腹の奥から湧き上がる怒りに身を任せた結果、右手で握り締めていた扇がミシリと嫌な音を立てた。


「一体、何がどうなっておる!! 何故、北条が動けるのだ! 佐竹は……里見はどうした! 奴らには、此度の謀反に合わせて北条を牽制するように命じた筈だ!! 後方の憂いを断ち、全力で織田家を叩けるように! その為に、奴らの嫡男を人質に取ってまで脅したのだぞ!! 」


「……はっ、殿のお考えに間違いはございませぬ。されど、佐竹家と里見家は未だ動く様子を見せておりませぬ。どうやら、両家共に徳川と織田どちらが優勢かを見定め、勝ち馬に乗る算段かと」


「なん……だとぉ!? ……クソッ! あの口先だけの腑抜け共めが!! この戦いが終わったら、人質を即刻処刑して首を送り付けてやるわいっ!! 」


「……」


「それよりも、問題は木曾義昌だ! 何故、今更になって木曾が織田につく! 木曾が、織田家の傘下に入ったのは二年前。織田家家臣団の中では新参者であろう? 奴らには、そこまでの繋がりは無いはずだ!! 一族郎党の存亡を懸ける義理など――」


「……それが、木曾義昌は二年前の武田征伐にて近江守に大恩が出来たらしく、その御恩に報いる為に此度の戦いを聞いて援軍に駆け付けたとのこと。その勢いは凄まじく、今更懐柔することは不可能かと」


「大恩だと!? 何だ、それは? そのような因縁があったと、何故今まで分からなかった! ワシは、何一つ聞いておらぬぞ! 前もって聞いておれば、少しは手を打てたものを――っ!! 」


「……報告が遅れましたこと、誠に申し訳ございませぬ」


「〜〜っ!! 他の者達はどうした!! まだ、戻らぬのか!! 」


「……はっ、残念ながら無事に帰還出来たのは私のみ。織田家の厳重な包囲網を前に、多くの者達が闇に葬られました。……恐れながら申し上げます。織田家は、事前に此度の謀反を知っていた可能性が高く、身内に内通者がいるものと思われます」


「――っ!! ええい、使えぬ奴らじゃっ!!! もう、良い! 下がれっ!! 」


 家康は、感情の赴くままにへし折れた扇を男の顔目掛けて投げ付ける。鈍い音。額からは、一筋の血が流れる。その行為は、命からがら情報を持ち帰った仲間に対するものではない。


 だが、それでも男は何一つ文句を言わずに頭を垂れた。


「……御意」


 光の消えた瞳をしながら。






 静かに本陣を去っていった男を後目に、徳川家の重臣達が次々と家康の下へ詰め寄る。


「殿! 我らは、どうすれば……? 」


「故郷が……」


「北だけではない。西も、東も落ちてしまった。……っ、我らは完全に包囲されてしまった――っ! 」


「あぁ、もうおしまいだぁ……」


『殿、……殿、……殿っ!!! 』


 皆、絶望していた。歴戦の闘将を失ったのも然る事乍ら、東・西・北の三方向から包囲された状態で、わざわざこちらから守りを薄くしてしまったのだ。まさに、絶体絶命。必ず勝てると思っていた者程、その動揺は計り知れない。


 だが、そんな絶望的な状態であっても家康は不敵に笑ってみせる。


「案ずるな。策はある」


『!? 』


 一同、目を見開く。まさか、この窮地を乗り越える策があるのかと。これも、布石だったのかと。


 そんな視線を一身に受けながら、家康は己の背後で待機していた全身鎧に身を包んだ大男へ視線を向けた。


「……行け」


「承知致しました」


 力強く頷き、大男は威風堂々とした立ち振る舞いで本陣を出た。己に課された使命を果たす為に。


 その手元には、返り血で朱く染まった槍があった。






 ***






 その一方で、たった一人で戦場を歩く男がいた。先程、家康によって本陣を叩き出された伊賀者だ。


 戦場のど真ん中。それも、徳川軍本陣の近く。そんな所に、黒装束に身を包んだ怪しい男がいれば、即座に兵士達にとっ捕まるだろう。現に、何人かの兵士は男の姿を見て思わず足を止めた。


 しかし、誰も男を取り押さえる者はいない。寧ろ、同情するような眼差しを向けている。……皆、家康が男にした仕打ちを聞いていたのだ。仲間を全て失いながらも、命懸けで情報を持って帰ってきた者へ行った暴挙を。


 あれ程、大きな声であればそれも不思議ではないが、それ以上に生気を失ったズタボロな姿から察したのかもしれない。誰も、男を止めることはなかった。






 男は、そのまま重い足取りで徳川軍の陣地を抜けた――その瞬間、男は頭巾を脱いだ。


「やはり、全ての伊賀者の顔など覚えてやいないか、徳川家康よ。所詮、卑しい輩だと思っていたのだろうな」




 ――だが、我らが主君は皆の顔と名前を覚えているぞ。捨て駒としか見えぬ貴様と違ってな。




 そこに浮かんでいたのは、ゾッとするような冷たい笑み。そう、男は伊賀者なんかじゃない。男の正体は、白百合隊に属する忍びの一人。伊賀者は、既にこの戦場に存在していない。壊滅している。白百合隊の手によって。


 白百合隊は、幹部陣は全て女性ではあるが、別に組員全員が女性だけの部隊ではない。ありとあらゆる状況に入り込む為には、男女問わず人手がいるからだ。


 そんな男の見据える先には、石川数正の軍勢。


「……さて、もうひと仕事だ」


 そう呟くと、影に紛れるように低い姿勢で戦場を駆けていった。最後の仕込みをする為に。




 一陣の風が戦場を駆け抜ける。






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