第322話


 


 それは、災厄の始まり。


 戦場に法螺貝笛の音が鳴り響き、それと同時に天高く三本の狼煙が上がる。


「往くぞ、お前達ぃいい!! 狙うは、徳川家康ただ一人! すわ、懸かれぇぇええええええええーっ!!! 」


『おおおおおおおおおおおおおおーっ!!! 』


 大地を震わす雄叫び。覇王の号令を合図に、東西北の三方から喊声を上がり、一斉に徳川軍本陣目掛けて進軍を開始する。


 東には、織田信長軍二千。西には、森 勝蔵軍千五百。そして、北には斎藤新五郎・木曾義昌連合軍三千七百。総勢、七千二百の軍勢が徳川家康の首を狙う。


 それに対して、現在徳川軍本陣にはたった千騎しか残されていない。先程、榊原軍の後詰めに石川数正に三千の兵士を預けてしまった為だ。決着を焦り、攻め時を間違えたのだ。






 そして、ここまで織田軍が大胆に動いたのだ。当然のことながら、石川数正も己が失策を悟った。


「――っ!? い、いかん! このままでは、殿がっ! 」


 慌てて馬の手綱を引く。直ぐにでも引き返さねば手遅れになると。


 しかし、白百合隊がそこに待ったをかける。


「北条が動いた! 謀反に気付いたのだ!! 」


「東海には、奴らの進軍を阻む者はいない! 」


「寧ろ、武田も援軍に駆け付けるぞ! 近江守は、武田の縁続きだからな!! 」


「北条の軍勢は、一万を超えるそうだぞ! 」


「三河が、俺達の故郷が危ないっ!! 遠江は、既に北条にやられて火の海だ!! 」


『――っ!!? 』


 その瞬間、動揺が最大に達した。兵士達の中には、虚ろな目をしながら槍を落とす者まで現れている。その音が、虚しい程に耳の奥深くへと響くのだ。もう、楽になってしまえと。


(故郷が襲われている。頼みのお殿様は、今、岐阜に居る。それも、多くの軍勢を率いて)


 三河国は、徳川家の本領だ。遠江国よりも防衛に力を入れていることは間違いない。……だが、それでも千人いるかどうか。多勢に無勢。そんな最小限に抑えた守りで、一万を超す大軍に対して抵抗出来るかと言われたら……正直、不可能だと言わざるを得ない。


 徳川家は、遠江国と三河国を奪われる。それは、両国から遠く離れた戦場に居る彼らでは、最早どうすることも出来ない定められた結末。


 彼らは、帰る場所と家族を同時に失ったのだ。


「……ぁ」


 その瞬間、兵士達にかけられていた洗脳は解かれ、思考能力が正常値へと急速に戻されてしまったが故に、現実という耐え難い悪夢と直面させられた。


「あ、あぁ……」


 東と西を任された重臣は敗れ、徳川軍は織田軍に完全に包囲された。曲がりなりにも謀反を起こす大義名分でもあった織田信雄は、敵前逃亡の末に信長に討ち取られた。そして、遂には故郷すらも……。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ーッッ!!? 」


 彼らは、戦う理由を完全に失った。






 絶叫。


 絶望が、徳川軍全体を覆う。


「――っ、流言に惑わされるなっ!! 北条は動かん! 織田に援軍は来ない! 敵が、苦し紛れに戯言をほざいているのだ! 気をしっかり持て!! 」


『…………』


 叱責が飛ぶ。


 だが、兵士達の表情は晴れない。


「戦況は、我が軍が圧倒的に優勢なのだ! このまま数で押せば、必ず勝てる戦なのだ!! 目の前の敵に集中しろ! そのまま呆けておれば、敵兵の槍に貫かれて骸になるだけぞ! 貴様ら、死にたいのかっ!? 」


『…………っ』


 そこで、ようやく兵士達が動き始める。目の前にまで迫った脅威に対し、反射的に武器を構えたのだ。


 しかし、それはあまりにも遅過ぎた。織田軍は、虎視眈々と徳川軍の動きが乱れる瞬間を待っていたのだ。この瞬間を。ずっと、ずっと。


 故に、その一瞬の隙を見逃す筈がない。


「今だっ!! 懸かれぇぇぇぇえええっ!!! 」


『はぁあああああああああーっ!! 』


 全兵士が五郎左の号令に瞬時に反応し、ひと息で呼吸を合わせて力強く一歩足を踏み込む。


『――っ』


 刹那、鈍い音と痺れるような衝撃が全身を襲う。骨が軋む。筋肉が悲鳴を上げる。もう、余力なんてこれっぽっちも残ってやいない。一歩動き出せば最後、力尽きた瞬間に前のめりに崩れ落ちる末路しか残されていないだろう。


(……これだけ己が両手を血に染めて来たのだ。極楽浄土に行ける訳がない。そんな俺には、地獄で己が犯した罪をひとり償う姿がお似合いだ。足掻いて足掻いて足掻きまくって、最後に手元に残ったのは地獄へ続く片道切符だけだなぁ)






 ――だが、それで構わなかった。






 この先に、皆が思い描いた理想があるならば、命を賭して叶えたいと願った世界があるのであれば、限界なんていくらでも越えてみせる。皆が、そうやって後進へ灯火を繋いできたのだから。


(この一瞬に、己が全てを懸ける! それが、想いを託された者の責務だっ!! )


「行っくぜぇ、松風ぇぇぇぇえええっ!!! 」


 《ヒヒィーンッッ!!! 》


 先陣を切るのは、前田慶次。左手に手綱を、右手に槍を。愛馬 松風に己が半身を預ける。松風も、主の信に応えるかのように力強く嘶いた。一陣の風。人馬一体の極地。己が死を恐れぬ猛烈な突撃は、僅かに見えた隙を強引にこじ開ける。


 その慶次が開いた道へ織田軍の兵士達が雪崩込む。


『おおおおおおおおおおおおっ!!! 』


『う、うわああああっ!? 』


 鬼の形相。慌てて盾を構える足軽。接触……した直後、そのあまりの勢いに徳川軍の兵士達は堪らず吹き飛ばされる。一秒も持ち堪えることが出来ない。まさに、鎧袖一触。戦意を喪失した状態では、文字通り相手にならない。


 この事態に、榊原は慌てて檄を飛ばそうとする。


「――っ!! 皆のもぉ…………っ」


 しかし、言葉に詰まってしまった。悟ったからだ。このままでは、敵の突撃を止めることは出来ないと。


(防ぐ手段があるとすれば……)


「与七郎っ! 」


 更なる兵力の投入で物理的に押し留める。それしか選択肢は無いと判断した榊原は、後方に待機している石川数正の軍勢へと視線を向けた。未だ、そこには十分な兵力が存在する。こちらへ合流してくれたら、一気に戦況を覆すことが出来る筈だと。






 榊原の考えは、鋭い眼力によって石川に伝わった。元より、指揮官の立場からしてもこのままではマズいことは分かっていた。


 しかし、石川数正は迷っていた。身の危険が迫っているのは榊原だけではない。己が主君にも、織田の軍勢が迫っているのだ。主君を助けるのであれば、速やかに本陣へと帰還しなくてはならない。


 だが、家康の命令は榊原軍との合流。そして、三法師の首を討ち取ること。家康が、本陣の守りを薄くする危険性を把握していないとは思えない。


(この事態を含めての命令だとすれば、このまま榊原軍と合流するべきなのか。…………どうしたものかっ)


 絶対に守らねばならない主君の命令。三方から徳川軍本陣へ迫る織田の軍勢。目の前で苦戦を強いられている友の危機。この三つが複雑に入り乱れ、石川は手綱を強く握り締めたまま動けずにいた。最早、一刻の猶予も無いのだというのに……。


(そうだ。早く、決断せねば――っ)


 焦燥。心に隙間が生まれる。






 そして、石川はここに来て最悪手を指してしまった。縋ってしまったのだ。大将首が、手の届く場所にある。そんな、己の都合のいい展開が広がっていることを。


「――っ! そうだ! 近江守は何処に……」


 しかし、そのような願望が叶う筈がなかった。顔を強ばらせる。視線の先には、僅かな御供衆を連れて後方へ遠ざかっていく三法師の姿があった。彼らに、抜かりはなかった。


(これは、もう……)


 遠ざかっていく背中から、目を逸らすように俯く石川。そんな石川の耳は、徳川軍本陣へ迫る織田軍の雄叫びと足音を捉えた。


「――っ」


 脳裏を過ぎる、【諦め】の二文字。もう、この時点でどちらを選ぶか決まっていた。後は、己の決断を正当化させる言い訳だけ。


「……榊原軍二千五百に対し、織田軍千五百。そこへ、我が軍三千から千人は既に前線へ合流させている。開戦時から多少数の変動があったとしても、倍以上の兵力差があることには変わるまい」






 ――ならば、答えは一つ。






「与七郎っ!! 」


 今一度、石川を呼ぶ声が響く。


 だが――


「…………」


 石川は、沈黙したまま視線を逸らし、手綱を引いた。


「兵士達よ、今から本陣へと帰還する! 全軍反転! 全速力で我に続けぇい!! 」


『おおっ!! 』


 二千の兵士達を率いながら、一目散に最前線から離れていく石川。その背に、榊原は涙を流した。


「――っ!? な、何故だ……与七郎……っ」


 悲痛な叫び。そんな見捨てられたと絶望する榊原の下へ、慶次率いる織田軍が全速力で突き進む。


『おおおおおおおおおおおおっ!!! 』


「……ぁぁ」


 高々と掲げられていた軍配が、力無く垂れ下がる。抗うことを止めた榊原の運命は、今この時に定まった。






 ***






 二千の軍勢が大地を駆ける。


「許せ、小平太っ! だが、殿を失っては元も子もないのだっ!! 殿に仕えし武士として、此処で儂らと共に死んでくれぃ!! 」


 最早、この状況から逆転出来るとは、家康の腹心足る石川とて思っていない。直接大将首を狙うのは、自身の武力では到底叶わぬ夢だから。


 それ故に、家康の救出を最優先にした。二千もあれば、殿を務めるくらいは出来るだろうと。


「殿、どうかご無事で……っ」


 歯を食いしばりながら駆ける。先程、己が無駄にした時間を恥ながら、それでも間に合うことを願って馬に鞭を入れた。




 道中、一人の騎兵とすれ違いながら……。






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