第318話



 木曾義昌が北の戦場へ辿り着いた同時刻。三法師率いる織田本軍は、最大の窮地に陥っていた。信長が想定していた最悪の事態。三千を率いて出陣した石川数正が、兵を小出しに榊原軍へ合流させていたのだ。


 刻一刻と開いていく戦力差。ここまで、ずっと戦い続けてきた織田軍の兵士達の疲労が限界に達する。


 昌幸の忍びが時間を稼げる時間は三十分。信長達の準備に二十分。そこから、戦場の中心に位置する徳川軍本陣へ向かうとなれば……。


 一手が、戦況を大きく左右する終盤戦。


 果たして、勝利の女神が微笑むのはどちらの陣営か。






 ***






 天正十二年五月二十一日 岐阜 南の戦場






 開戦から四時間が経過。


 戦場は、より一層過激さを増している。


「数は、こちらの方が優っておるのだ! 何故、未だにあのような薄い防壁を破れん!? 」


「攻めろ、攻めろー!! 押し込めー!! 」


『ウオオオオオオアアアアアアアアッ!! 』


 大地を揺らす雄叫び。軍勢が、津波のように押し寄せる。どうやら、あの岐阜城から聞こえてきた鐘の音を皮切りに、家康が本格的にこちらを潰しにかかっているようだ。白百合隊の報告曰く、石川数正が三千を率いて徳川軍本陣より出陣したらしい。


(……道理で敵軍の勢いが収まらない筈だよ)


 眉間に皺を寄せる。いやらしいくらいに上手いやり方だ。よく見てみれば、後詰めから小隊単位で次から次へと前線部隊に合流させ、その分負傷兵を後方部隊へ下がらせているのが分かる。こちらには、そんな余裕ないから兵士達は連戦続きだと言うのに。


 こうなると、兵力差で劣るこちらは後手に回るしかない。下手に迎撃しようと突出すれば、陣形が崩れて相手に付け入る隙を与えるだけだから。


「今だ! 押せ、押せぇええっ!! 」


『おおおおおおおおっ!!! 』


『――っ!? 』


 榊原康政の号令と共に、更に勢いが増す徳川軍。こちらも必死に抵抗しているが、敵軍が前衛を交代する毎に、一歩、また一歩と前線が押されていく。こちらに、息を入れる暇も与えんとばかりに。






 次第に、兵士達の表情に焦りが見え始めた。無理もない。状況は、悪化の一途を辿っている。


 五郎左達も頑張っているが、やはり人ひとりが対処出来る数には限りがある。多勢に無勢。その場その場の対処に追われるうちに、遂には隊列に隙間が生まれてしまった。


 その隙を見逃す程、徳川軍の兵士達は甘くない。すかさず、一人の若武者が隊列の縫い目を抜けるように駆け出し、本陣深くにまで切り込んできた。


「死ぃぃぃぃねぇええぇえええええっ!!! 」


『殿っ!! 』


 刀を片手に迫り来る刺客。悲鳴。絶叫。


 ……だが、慌てる必要はない。彼らがいる限り、正面からの暗殺は先ず成功しないのだから。


 若武者の前に、一つの影が立ち塞がる。一刀斎だ。


「ぬんっ!! 」


「ガァ――ッ!? 」


 剛剣一閃。一刀斎が放った袈裟斬りによって、若武者の身体は斜めに斬り裂かれ、そのまま前方へ転がるように崩れ落ちた。


「殿! ご無事か!? 」


「うん、怪我一つないよ。ありがとう、一刀斎」


「おう! 」


 剣豪 伊藤一刀斎。その鬼神の如き業前に、兵士達の間に活気が戻っていく。自分の後ろには、一騎当千の剣豪がいる。その事実を、今一度思い出させた。それが、兵士達から焦りを取り除かせたんだ。これ以上、頼もしい存在はいないのだから。






 ただ、それでも雪の顔は晴れない。当然だ。こんなところにまで、敵兵が入り込んでしまっているのだから。


「――っ、……殿、ここは危のうございます。どうか、もう少しお下がり下さいませ」


「うん。分かっ……た……」


 雪の提案を頷いて了承し、一刀斎へと声をかけねばと前方を向いた――瞬間、不意にあの若武者の遺体に視線を引き寄せられた。瞳孔が開いた眼。泥と血反吐に塗れた顔。死んでいる。確かに死んでいる筈なのに、彼からは強い怨みの念がハッキリと伝わってきた。


(俺は、こんなにも怨まれて……)


 ソレを認識してしまった瞬間、身体が金縛りを受けたかのように強ばった。


 唇が震える。返事を返せない。……これは、駄目だ。早く目を逸らさなければ。そう思っていても、俺は、地面に横たわる若武者の遺体から目を離せずにいた。




 《オマエノセイデ》




 《ヨケイナコトヲ》




 《オマエガ始メタ》




 《オマエガ命ジタ》




 《オマエガ殺シタ》




「――っ」


 心が揺れる。


 漂う瘴気。隙間から覗くおびただしい数の視線。重なり、共鳴し合う呪いの歌。霧の中から伸びる無数の白い手が、俺の四肢と首元を掴んで自由を奪う。


 抵抗すら許されない。かろうじて視線を上げてみれば、そこには幾千、幾万もの亡者達が群れを成しながら呪詛を垂れ流す、地獄のような光景が広がっていた。




 《オマエヲ、許サナイッッ!!! 》




(あぁ、そうか。お前達は、俺が殺した者達の怨念か。……であれば、俺に彼らを拒絶する権利はない)


 迫る瘴気。それを、瞳を閉じて受け入れる。


「――殿っ!! 」


 闇に飲まれる直前、遠くの方で雪の叫ぶ声が聞こえた気がした。












 ***










 気が付けば、俺は真っ白な世界に佇んでいた。


 目の前には、黒く淀んだ泥のような塊が浮かんでいる。ソレは、人の頭よりひと回り大きく、中心には老若男女の嘆き悲しむ顔が浮かび上がっており、次から次へと顔が切り替わっては俺に向けて呪詛を吐いていた。憎しみに満ちた真っ赤な瞳をしながら。


 陰陽師か。いや、呪師だろうか。聞いたことはあったけれど、どうやら本当に実在したらしい。俺自身、転生なんて非科学的な体験をしているのだ。呪いの類が実在していても不思議ではないか。


「……いや、そんなことはどうでもいいか。確かなことは、自分がこれ程までに多くの人達から恨まれている事実」




 《ソウダ》




 幾人もの声が重なり合ったような声音。異様な不快感に襲われ反射的に後退ると、足下からナニかを踏み砕いたような感触を得た。


「――これ……は……」


 息を呑む。足下には、幾万もの人骨が無造作に転がっていた。この空間にある足場は、全て人間の亡骸によって作られているんだ。




 《ソレガ、オマエガ殺シタ者達ノ末路ダ》




 《何故、運命ニ抗ウ。オマエ二ハ、関係ノナイ事ダッタダロウ。オマエハ、元々コノ時代ニ生キル者デハナイノダカラ》




 《本来、織田ハアノ時二終ワッテイタ。オマエガ余計ナ事ヲシナケレバ、コノ戦イモ起コッテイナカッタ》




 《オマエガ、戦ヲ起コシタセイダッ!!! 》




 《何ガ平和ダ! 何ガ未来ノ為ダ! オマエノヤッテイル事ハ、弱者ヲ虐ゲテ私腹ヲ肥ヤス大名達トナンラ変ワラナイ! 》




 《オマエノセイデ、私ハ腹ヲ斬リ裂カレテ死ンダ。頭ヲ射抜カレタ。首ヲ斬ラレタ。四肢ヲ失ッタ。片目ヲ失ッタ。娘ヲ犯サレタ。息子ヲ晒シ首二サレタ。母ヲ、父ヲ、叔父ヲ、叔母ヲ、祖父ヲ、祖母ヲ殺サレタッ!! 》




 《ワレラハ、オマエヲ許サナイ! 死ンデ償エ!!! 》




「……っ」


 血の涙を流しながら叫ぶその姿に、俺は言葉に詰まってしまった。


 そんなつもりはなかった。殺すのは戦場に出て来た兵士だけで、村や町への略奪行為を許した覚えはない。犠牲は、常に必要最低限を心掛けてきたつもりだった。


 それでも、俺が起こした戦によって何万もの人々が死んでいったのも事実で、彼らのその戦いによって全てを失った者達だったんだ。


「……その、通りだ。俺は、お前達を殺したも同然。その怒りは、その復讐は、正当なものだ」


 弱者の代弁者足るソレの言葉を、否定出来る筈がなかった。




 《ナラバ、コノ怒リヲ受ケ入レヨ!! 》




 真っ黒に爛れた両手が伸びる。狙いは、俺の首元。ゴポリゴポリと煮立つように膨らんでいく塊。その度に模様が人の顔へと変わっていき、うめき声と共に両目が見開かれる。正しく、その姿は怨霊。身の毛のよだつ怨念の集合体。


 ソレに、掴まれてはならない。


 本能的にそれを察しながらも、俺はその手首を横から掴んだ。


「……ごめんね。それでも、俺は未だ死ぬ訳にはいかないんだ」


 彼らの復讐を拒絶するように。





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