第317話
彼が助けを求めているのであれば、彼が窮地に立たされているのであれば、我らは迷うことなく立場を押して駆け付ける。
あの日の恩義を返す為に――
***
頭上で鳴り響く鐘の音を聞きながら、岐阜城付近の山道を一つの軍勢が進んでいた。その数、千五百。率いているのは、信濃国に十万石の領土を持つ木曾家の当主 木曾義昌であった。
無論、天下分け目の大戦の最中に、突如として木々の間から現れた軍勢を目の当たりにした岐阜城の兵士達は、すわ敵襲かと蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまった。
しかし、そんな彼らを白百合隊が先導していた事と、木曾義昌が三法師の署名入りの文を持っていた事でその誤解は解け、現在は援軍の到着を知らせる為に鐘を鳴らしている。念の為にと、三法師から署名を貰っていた昌幸の英断であったと言えよう。
そして、そんな義昌であったが――
「女。未だ、戦は終わっておらぬのだな? 」
「ははっ、左様にございます。斎藤様の活躍により、北側の敵勢は一掃されたようですが、まだまだ戦況がどう転ぶか分かりませぬ。……ですので、木曾様。どうか、一度足を止めて休憩なされませんか? このままでは、木曾様の方が先に倒れてしまいますっ」
「……」
その姿は、まるで戦に敗れた落ち武者のような酷い有り様であった。
荒く、乱れた呼吸。汗と泥で汚れた甲冑。痩せこけた頬。青白い顔。窪んだ瞳。おぼつかない足取り。最早、彼を動かしているのは気力のみ。体力なんて、とうの昔に底を尽きた。
それもそのはず。義昌は、三法師の窮地を真田昌幸より知らされるや否や、すぐさま戦支度を整えて木曾福島城を出発し、二日かけて此処まで救援に駆け付けたのだ。可能な限りの強行軍で。
その代償は大きく、彼らは極度の疲労状態に陥っていた。例え間に合ったとしても、こんな状態ではまともに戦えるはずがない。誰もが、落ち武者のような彼らを指して嘲笑うだろう。
最後に、彼らが休憩をとったのは何時だっただろうか。少しでも足を止めて休憩した方が良い。その方が効率的。そんなことは分かっている。
これは、理屈じゃあないんだ。
「……いや、駄目だ。もし、それで後一歩のところで間に合わなかった時、俺は死んでも死にきれ――っ」
『殿っ!? 』
「木曾様……っ!? 」
直後、根っこか石でも踏んでしまったのか、突如として義昌が大きくバランスを崩す。それを見た付き人達は、慌てて駆け寄ってその身体を支えた。
震える指が付き人の服を掴む。重心が傾き、体重を預ける。もう、彼らの支えなしでは立ち上がることすらままならない。そんな風にしか見えなかった。
(これは……もう、限界よね。無理やりにでも休憩を――)
――しかし、その瞳に込められた熱量は何一つとして失われてなどいなかった。
義昌は、半ば無意識に付き人から水の入った竹筒を引ったくると、そのまま勢いよく頭から水を被った。
「――っ」
「えっ!? 」
呆気に取られる。しかし、義昌はそんな彼女に目もくれず、ただ真っ直ぐに戦場の方角へ視線を向けた。
「……はぁ、……はぁ、……はぁ。近江守様……どうか、どうかご無事で――っ」
悲痛な表情を浮かべながら、胸元に仕舞ってある文を握り締める義昌。
義昌は、ただただ三法師を助けたいという純粋な想いから馳せ参じていた。打算的な考えなんて皆無。彼は、ひとえにあの日の恩義を返す為に、己が命を懸ける覚悟を決めていた。
***
木曾義昌は、元々は信濃国に領土を持つ武田家家臣であった。それも、武田信玄の三女 真理姫を娶り、武田家の親族衆として迎え入れられた程であり、木曾家は美濃国や飛騨国への侵攻へ向けた重要拠点としての役割を与えられていた。
しかし、その信玄が死んだことで歯車は狂い、信玄の跡を継いだ武田勝頼の政策に不満を抱き、隣接する織田家の武力と輝かしい栄誉に膝を屈することになる。……そう。二年前の武田征伐は、彼の裏切りによって火蓋が切られたのだ。
その時、義昌の母と側室、嫡男・千太郎に長女・岩姫は新府城にて人質になっていた。義昌が武田家を裏切らぬように。
だが、義昌は裏切った。そうなれば、新府城に捕らわれている人質の末路は斬首のみ。そんな当たり前のこと、義昌が知らないはずがない。全て承知の上で裏切った。沈みゆく泥舟に乗ったまま、一族郎党諸共道連れにする訳にはいかなかったからだ。
……その決断を責めることは出来ない。義昌は、戦国武将として正しい選択をした。事実、あの状況で武田家に勝ち目なんて最初からなかったのだから。
だが、義昌の心は強い罪悪感で押し潰されそうになっていた。勝手だと笑うだろうか。家族を切り捨てたのは、お前の方ではないかと。
それでも、家族を殺して平気な人なんて、この世にはただの一人もいやしないさ。そんな風に見えるのは、その人を最初から家族扱いしていない奴だけ。
……義昌は、前者だった。ただ、それだけの話。
「――っ、……ぅぅ……うぁ……ぁぁ……っ」
夜の帳が下りる頃。明かりもない評定の間に、一人の男から溢れた嗚咽が染み渡る。武田征伐から帰還したあの日から、義昌はたった一人こんな暗がりで涙を流してきた。誰にも、この醜態を見せぬように。
(…………織田家から、多くの恩賞を貰った。領土も増えた。十万石だ。旧武田家家臣の穴山梅雪や依田信蕃よりも多い。もう、一端の大名だと言っても過言ではないだろう。木曾家は、俺の代で最大の栄華を極めたのだ。――だが、それでも、それでも……この胸に空いた穴を埋めることは出来なかった……っ)
「すまない……っ、すまない、お前達……っ」
『…………殿っ』
そんな弱りきった義昌の姿を見つめる影。そう、家臣達は気付いていた。気付かぬはずがなかった。
ただ、なんと声をかければ良いのか分からなかったのだ。家を守る為に家族を切り捨てることを余儀なくされた主君に、ただ守られた身の分際で何が言えるのかと。
そんな彼らの苦悩は、ある日突然晴らされることになる。新五郎が、とある一団を連れて義昌の下を訪ねた日に。
そこには、信じられない光景が広がっていた。見殺しにした筈の義昌の家族が、目尻に涙を浮かばせながら新五郎の隣りに立っていたのだから。
その集団の中から、二つの影が義昌目掛けて飛び出す。
『父上っ!! 』
「――っ、ぇ……な、…………ぁ!!? 」
腹に伝わってくる確かな衝撃と温もりが、目の前で起きていることが夢や幻ではないと教えてくる。
「千、岩……。本当に、お前達……なのか? 」
『……はいっ! 』
「――っ、すまない……、すまない、お前達……っ」
失ったと思っていた家族が、今、こうして触れ合うことが出来る。その事実に、義昌は堪らず涙が込み上げてくる。抱き締め、抱き返される。その小さな幸せを噛み締めるように。
その後、二人の子供から手を離した義昌は、すかさず新五郎の下へと駆け寄ると崩れ落ちるように土下座をする。誰が、家族を救ってくれたのかは明白だったからだ。
「斎藤殿っ! なんと、なんとお礼を申し上げれば良いか……っ! 誠に……、忝ない――っ」
『殿……』
震える声音。溢れる涙。その姿からは、深い後悔と最大級の感謝が痛いほどに伝わってくる。
しかし、新五郎はその感謝の言葉を受け取らなかった。真に、それを送られるべき人は自分ではないと分かっていたからだ。
「木曾殿、私に礼は不要です。これは、全て三法師様のご指示なのですから」
「さ、三法師様……ですか? 」
「左様」
最初、義昌はその名を聞いても首を傾げるばかりであった。存在は知っている。織田家当主 織田信忠の嫡男であり、武田家の血を引く者。松姫の息子。
(……確か、三法師様は未だかなり幼かった筈。それが、斎藤殿を動かしてまでこのような指示を? 歳を間違えて覚えてたか? )
頭がこんがらがる。だが、このまま終わる訳にもいかず、義昌は岐阜城へ帰還する新五郎に同行し、直接三法師へ感謝の言葉を伝えることになった。
そして、数日後。
遂に、三法師との面会が叶う。
その時、三法師から送られた言葉を義昌は生涯忘れることはないだろう。
「……ごめんね。義昌には、とても辛い選択をさせてしまった。家族と郎党。どちらかを選ばなければならないなんて、これ以上に酷なものはないよ。…………それでも、義昌は木曾家の主として決断した。たった一人で、全てを呑み込んで前を向いて足を進めた。――貴方は、とても強い人だ」
それが、深々と平伏しながら感謝を伝える義昌にかけられたモノだった。
「――っ」
言葉が、出てこなかった。
何故、三法師の方が謝るのか。武田家を裏切ると決めたのは義昌だ。家族を切り捨てたのも義昌だ。その選択によってどのような不利益を被ろうとも、全ては義昌が背負わねばならないこと。三法師が謝る必要はない。人質だって助けてくれたのだから。
だが、それでも三法師は謝った。人質を助けた礼は受け取りつつも、義昌や家臣達を傷付けてしまったことに変わりはないと。そして、義昌の意思の強さと覚悟を褒め称えた。慈愛に満ちた眼差しで。
それは、誰も義昌へかけることが出来なかった許し。ただ、それだけで義昌は心から救われた思いだった。
「……それでも、それでも私に礼をしたいと言ってくれるのであれば、どうか義昌の力を貸して欲しい。これ以上、同じような苦しみを味わう人を無くす為に。この世に蔓延る理不尽を少しでも取り除く為に。この日ノ本に泰平の世を築く為に。……どうか、私を助けておくれ」
「――っ」
(……強い、瞳だ。この御方は、本気で日ノ本を変えようとしている。嘆き悲しむ民を救う為に)
虚言? 戯言? 口先だけ? ……少なくとも、義昌はそうは思わなかった。何故なら、彼自身が三法師の行動によって家族を救われているのだから。
「勿論で、ございます――っ! 」
今一度、三法師へ向けて頭を下げる。そこに込められた感情は、先程までの感謝の念ではない。三法師が理想に殉ずると決めたように、義昌もまた、この命の灯火が消えるその瞬間まで忠義を尽くすと誓った。
そんな世界が来たら、どれだけ良いだろうかと心の底から思えたから。
***
だからこそ――
「――そうだ! こんなところで、止まる訳にはいかないのだ……っ! 家族を救っていただいた恩義を、今返さずして何が武士かっ!! 」
『と、殿っ!? 』
(そうだ。たかが疲労如きで足を止めるな! )
「……戦場に、新たな援軍が現れる。その事実が、大事なのだ。例え、槍を振るう力が残されておらずとも、敵兵の耳に届くように雄叫びを上げれば良い。槍や足で大地を踏み鳴らせば良い。やれることなら幾らでもある! 我らの姿が、声が、武器が、少しでも三法師様の助けになるならば、この足がちぎれようとも一向に構わんっ!! 」
『――っ』
歯を食いしばりながら、義昌は力強く大地を踏み締める。隠せぬ疲労。されど、その瞳に込められた熱量に、家臣達は開きかけていた口を閉ざした。絶対に、我らの主君は引かない。そう、悟ってしまったから。
《ならば、やるべきことはただ一つ》
視線を合わせて頷き合う。
そして、各自一斉に動き出した。義昌の身体を支える者。ナタを持って先行する者。疲労を消し飛ばすように頬を張るもの。最後の水分補給をする者。少しでも装備を軽くしようとする者。皆、思いは一つであった。
「…………行くぞ、お前達!! 」
『おおっ!! 』
皆、同時に足を一歩踏み出す。その歩みを止めることの出来る者は、この世に一人だっていやしない。
***
そして、遂に彼らは山を抜けて戦場へ舞い降りた。戦場中に轟く雄叫びと共に。
ソレに、呼応するように天高く伸びる三つの狼煙。
……戦況は、遂に終盤戦へと突入した。
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