第316話
勝蔵の機転により、想定よりも格段に早く進軍が可能になった信長達。そんな彼らの下へ、徳川家重臣 石川数正が三千を率いて徳川軍本陣より出陣したとの一報が入った。
これにより、徳川軍本陣の残兵数は千。四千の兵士達で固めていた家康の守りは、かなり薄くなっていた。
対して、信長達の兵力は東・西・北の軍勢全て合わせて五千七百である。千に対して五千七百。兵力差は五倍。それが、二十分もあれば狼煙を合図に一斉攻撃を仕掛けることが可能。千程度の兵力では防ぐことは出来まい。
そして、一度進軍が始まってしまえば最後。例え、石川数正が信長達の動きを途中で察知し、急いで本陣へと戻ったとしても、三方向からの攻撃を完璧に対処することは困難。急な方向転換に、混乱する兵士の方が多いだろう。
まさに、千載一遇の機会が訪れていた。
無論、罠の可能性もある。寧ろ、あからさまと言っても過言ではない。姿を見せない本多忠勝にも注意が必要だが……何よりも、あの警戒心の強い家康が自ら隙を晒すなど考えられないからだ。
信長を誘い出すのが狙いか。自身へ兵を集中させることが重要なのか。まさか、既に石川軍に紛れて本陣から脱出しているのか。
様々な疑念が脳裏を過ぎる。
事の重要性を考えれば、普通の人間であれば慎重になってしまう。不安に駆られる。怖気付く。当たり前だ。失敗は許されない。織田家の敗北は、日ノ本の終焉を意味するのだから。
――だが、この男は普通ではない。
「力丸、軍を編成せよ。狼煙の準備もな」
「――っ、は、ははっ! 」
堂々と言い切るその悠然とした姿に、兵士達の心に巣食っていた不安が取り払われる。光り輝く強烈なカリスマに魅力される。この人がいれば大丈夫だと思わせる。
そんな兵士達の心境の変化を察した信長は、大きく右手を振るって兵士達を鼓舞するように声を張り上げる。
「兵士達よ、聞け!! 何を恐れる必要がある。不安に駆られる必要がある。苦難のない道があるか? 己が命が懸かっているのに、罠を張らない者がいるか? ……あぁ、そうだ。敵に対して対策を取る。それは、当たり前のことであり、我らが今までも当然のように乗り越えてきた障害である!! 」
『!! 』
「余を信じよ! 過去の経験を信じよ! 培ってきた、己が力を信じよ! 我が織田家の勇敢なる戦士達は、この程度の苦難に膝を屈するような軟弱者では断じて無い!! 我らの宝を、我らが目指してきた夢を、あのような下賎な狸にくれてやるものか!! ……そうだろう、お前達っ!!! 」
『ぉ、ぉぉぉおおおおおおおおおっ!!! 』
誰もが、拳を天に掲げて声を張り上げる。死ぬのは怖い。敵将の見えざる悪意の手が怖い。……だが、それ以上に我らの宝を奪われる方が怖かった。
ならば、立ち上がるしかない。戦うしかない。怖くても、怖くても、怖くても、己が命よりも大切なモノを守る為には戦うしかないのだから。
もう、そこには徳川軍の動きに怯えていた姿はなく、この千載一遇の好機に己が全てを懸ける覚悟を決めた戦士の顔があった。
策は練った。士気も上々。流れも掴んだ。
……しかし、それでもこの策が成功するかは五分五分。何故か。それは、この策は如何に徳川軍を動揺させられるかどうかで成功率が大きく変動する為だ。
ただ、突撃するだけでは駄目なのだ。例え、家康にこちらの策を看破されようとも、その上で逃げ場を塞ぐようでなければならない。石川軍と榊原軍の合流を許したとしても、このまま攻めるのか、それとも本陣へ戻るのか。その二択を突き付けて混乱させねばならない。
この条件を、制限時間内に満たさねば詰み。正直、かなり厳しいと言わざるを得ない。
故に、信長は更なる一手を打つ為に思考を張り巡らせていた。否が応でも敵の視線をこちらへ引き付け、その思考に僅かでも動揺を与える策を編み出すべく。
……そんな時だ。戦場に鐘の音が鳴り響いた。
――カンカンカンカンカンッッ!!!
けたたましく鳴り響く鐘の音。誰もが、動きを止めて天を仰ぎ見る。……その先にあったモノは――岐阜城。
皆が皆、突然の事態に何が起きているのかと動揺する中、ただ一人だけが不敵に笑ってみせた。
「……時は、満ちましたな」
その男の名は、真田昌幸。天下に轟く策略家は、既に徳川家康殺しの鬼札を切っていた。
「いやはや、どうにか間に合いましたな」
「昌幸。これは、一体……」
「ご安心を、上様。…………援軍にございます」
『!? 』
一同、目を見開いて驚愕する。まさか、この状況で更なる救援が来るとは思っていなかったのだ。それも、この口振りから昌幸が用意したのだと推測出来る。
《援軍?一体、誰が……? 》
そんな疑問が一同脳裏過ぎる中、昌幸はその疑問は想定内だと焦ることなく説明を始める。
「此度の無謀。三法師様は、尾張守様の挙兵までは読んでおられました。その場合、最悪の事態は徳川家康までも裏切ること。三法師様だけで対処出来るか分からぬからです。動くとすれば、大友征伐に軍の大半が出払った時でしょうからな。三法師様の許可を貰い、二通の文を事前に出しておきました。……木曾殿と北条殿に」
「――っ! では、あの鐘の音はっ!? 」
「えぇ、あの方角からであれば木曾殿に間違いないでしょう。白百合隊の案内があれば、迷うことなく山道を進むことが出来る。おそらく、物見が木曾殿の軍勢を見付けて鐘を鳴らしたのでしょうな。三法師様の署名が記された文を持っておりますので、攻撃されることはありますまい」
「……信用、出来るのか? 」
「えぇ、問題ございませぬ。木曾殿は、二年前の武田征伐の折り、三法師様に新府城にて人質になっていた母と側室、嫡男・千太郎に長女・岩姫を救われております。その恩義を返す時が来たのだと、二つ返事で引き受けて下さりました。……北条殿は、言うまでもないでしょう。彼らが、三法師様を裏切る理由がなく、利点もありませんから。織田家の繁栄なくして北条の繁栄はない。織田家の敵は、北条にとっても怨敵でございます。……今頃、三河を火の海に変えているやもしれませぬな」
「……で、あるかっ」
昌幸の考えに、信長は肯定するように力強く頷き、勢いよく床几から立ち上がった。
「……これならば、間に合うぞっ!! 」
『――っ』
拳を震わせながら握り締める。全身から立ち昇る覇気。そんな、太陽のようなカリスマに引き寄せられるように、兵士達は顔を上げて視線を信長へと向けた。
「往くぞ、お前達っ! 今こそ、あのクソ狸の首を討ち取る時が来た! 敵は、今一度この日ノ本を戦乱の世へ巻き戻そうとする天下の大罪人! 今、ここで奴を止めねば、あの地獄のような光景が再び顕現することになる。……それに巻き込まれるのは、己が命よりも大切な宝達だっ!! 」
『――っ』
「総員、己が命を懸けて進軍せよ!! 決して立ち止まるな! 振り返るな! 引き返すな! 戦え! 戦うのだ! 大切なモノを守りたいと願うのであれば、己の手で守り通してみよ!! 」
『ぉぉぉおおおおおおおおおおおッッ!!! 』
雄叫びが響き渡る。内に秘めた熱が溢れ出すかのように。
その後、各々速やかに支度を整えていった。新五郎達も、馬に跨って全速力で駆け出した。少しでも、時間に余裕を作る為に。
今、全ての条件をクリアした。活路が開かれる。追い込まれていた盤面に、勝利へ続く光の道が現れた。
「いやはや、無謀を起こすとは思っていたが、ここまで大規模な包囲網を作るとは。彼の足利尊氏公を彷彿とさせる見事な計略よ。恐怖と欲望を同時に刺激することで、多くの者達の心を縛り上げたのだからな。……故に、こちらは三法師様がその人徳によって築かれた包囲網で対抗してやろう」
昌幸の指が地図の上を走る。
現在、徳川軍本陣を中心に、四方に分かれた織田軍が包囲網を張っている。その更に北と東より、援軍を呼び寄せることで二重の包囲網……徳川殲滅陣を築いた。
「さて、徳川家康よ。防げるものなら防いでみよ。凌げるものなら凌いでみよ。……だが、少しでも立ち止まればそれまで。こちらは、一切手加減はせぬ。腹が立っているのが、貴様だけだと思わぬことだな――っ」
【詰めろ】
既に、軍師の目には詰み筋が見えていた。
***
憎悪に満ちた瞳。破滅への誘い。絡みつく亡者の手。玉座に漂う悪意。死の宣告。
盤面は、既に完成されている。
枝分かれした選択肢。その先に待ち受ける、幾重にも張り巡らされた罠。そのまま進むも良し。戻るのも良し。別の道を進むのも良し。
されど、過程は違えど辿る結末は全て同じ。幼き王の首筋には、死神の大鎌が添えられていた。
定められた結末。閉ざされた未来。悪意の結晶。
そんな、一人の男が己が全てを懸けて編み出した集大成を前にして、とある男は得意気に笑ってみせた。
鐘が鳴る。鐘が鳴る。
闇を払い、善なる者達へ祝福を届けん。
例え、辿る世界は違えども、仕えし主君は違えども、胸に抱きし夢は違えども、その男は常に葵の前に立ち塞がる。
それもまた、宿命。
今、稀代の軍師が動き出す。
あぁ、全てはこの時の為に――
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