第310話
この日を、どれ程待ちわびたことだろうか。
あの日見た憧憬を、私はただの一度も忘れたことはない。
私は、あの日初めて人から人へ意志が受け継がれる瞬間を見た。父が宛てた遺書を読み、己の無力感に打ちひしがれながらも、「託されたこの願いは決して無駄にはしない」と、決意の炎をその瞳に宿す誇り高き姿を、私は生涯忘れることはないだろう。
だからこそ、貴方が記憶を失って岐阜の山奥に隠居することになった時は、なんと言葉にすれば分からなかった。過去を忘れ、戦場から離れ、しがらみから解き放たれ、趣味に没頭するその姿に、私は手放しで喜べなかった。
願ってしまっていた。例え、それがもう一度貴方を修羅の道へ誘うことになってしまうとしても。それでも、それでも、私はもう一度貴方に――
***
声が震える。
血に濡れた頬。胸元に抱えられている、虚ろな瞳をした生首。そんな猟奇的とも言える光景にも関わらず、目の前の人物が放つ人間離れした存在感によって、ある種の神秘的な魅力を秘めた絵画のようにも思えた。
そんな人並み外れた存在を、新五郎はただの一人しか知らない。
「……っ、うえ……さま……っ」
「…………ん? 」
そんな突然声をかけられた信長は、胸元に抱き寄せていた信雄の首から視線を外し、声の方へと顔を向けた。すると、そこには呆然とした表情のまま立ち尽くした新五郎の姿が。
(何故、こんな所に新五郎が……)
思わぬ人物との遭遇に、信長は目を見開いて驚く。
信長の想定では、新五郎達は前日に家康・信雄連合軍の侵略を受け、岐阜城に籠って機を伺っているものと思われていた。流石に、万を超える大軍を相手に、単体で勝負を挑む程愚か者ではない……と。
しかし、だからといって新五郎が何もせずに降伏するなんてことは有り得ない。己の背後には、絶対に守り通すと誓った幼き主君の姿があるのだ。己が命にかえても、敵の侵略を阻もうとするだろう。
……ともすれば、三法師達が戦場に到着すると共に、新五郎達は無事な兵士達を率いて岐阜城から出撃したに違いないと、信長は出陣前にそこまで読み切っていた。北と南、二方面から挟み込めば、単体で攻めるよりは未だ勝機はあるから。
(であるならば、新五郎は今も最前線で戦っていなくてはおかしい。……まさか、もう決着がついたのか? 遠くから聞こえてくる激しい物音から、未だ戦は続いていると思うのだが……。それとも、家康の軍勢に迎撃されて逃げ出したのか? ……いや、それにしては表情に悲壮感は見当たらぬし、何よりも敗戦の将にしては身綺麗に過ぎる)
微妙に想定とは異なる状況に、然しもの信長も困惑気味に首を傾げてしまうのだった。
だが、それも一瞬のこと。微かに感じた困惑を即座に押し殺した信長は、ゆっくりと立ち上がり、信雄の首を傍に控えていた小姓へ預けると、新五郎の方へと歩み寄って行く。その瞳は、まるで太陽のような慈愛に満ちていた。
(あぁ、そうだ。あれこれ考えるよりも、先に伝えねばならぬことがあろう)
「うえ……さま? 」
「新五郎。良くぞ、ここまで持ち堪えてくれた。もう、大丈夫だ。後は、全て余に任せよ」
信長が、労るように新五郎の肩を抱く。再会を祝すように、互いの無事を喜ぶように、今まで迷惑をかけていたことを詫びるように、信長はありったけの感謝を込めて新五郎を抱き寄せた。
「――っ!? 」
その瞬間、新五郎の瞳からスッと一筋の滴が頬を伝う。揺れる瞳。小刻みに震える身体。新五郎は、信長の前で無様な姿を晒す訳にはいかないと必死に嗚咽を堪えようとする。
だが、その一瞬早く信長の口が開いた。
「すまない。余が、記憶を失ってしまったばかりに、新五郎には随分と心労をかけてしまった。……未だ、奇妙が死んでから一度も涙を流しておらぬのだろう? ……いや、流せておらぬと言うべきか。責任感の強い新五郎のことだ。悲しみに暮れるよりも、残された三法師と織田家を護る為に邁進している姿が目に浮かぶ」
新五郎の肩を掴む右手に力が入る。新五郎のことは、若かりし頃から知っている。誰よりも真面目で、誰よりも妻を愛し、誰よりも織田家に忠義を尽くしていた。斎藤道三の忘れ形見として信長に仕え、信忠の腹心としてその心に寄り添い、三法師の傅役としてずっと見守り続けてきた。
そんな一途な性格だからこそ、新五郎はずっとずっと信忠を失った悲しみを胸の奥底へ押し殺した。誰にも弱音を吐かず、たった一人で戦い続けてきた。
弱音を吐ける立場ではなかったのもある。だが、それ以上に守りたかった。ただ、守りたかった。自分の全てを犠牲にしてでも守りたかった。皆から託された想いを。
でも、そんな孤独な戦いはもう終わりにしよう。もう、これ以上その身を犠牲にする必要はないのだから。
「今まで、本当に良く頑張ってくれた。一人で耐えてくれた。新五郎の献身がなければ、今日の織田家は存在せぬだろう。……大儀であった」
「――っ、……うっ……くっ……うぅ……うぅぅぅ…………っ」
その言葉に、堪らず嗚咽が溢れる。先程同様に何とか抑えようとするも、一度決壊した感情は胸の内を縦横無尽に暴れ回り、信長に優しく背を叩かれたことを皮切りに涙となって溢れ出した。
「っ、……ぅあ……ぁぁ……も、勿体なき……お言葉……っ」
止め処なく溢れる涙が大地に大きな染みを作る。誰も、その姿を茶化すことはない。寧ろ、日々激務に身を賭す新五郎の姿を知っている者達は一様に目元を拭っていた。尊敬出来る人だからこそ、報われて欲しいと誰もが願っていたのだ。
その純粋な願いが、遂に叶う時がきた。
「良く頑張ったな、新五郎。…………ありがとう」
「――っ、ぁ……はぃ……っ」
視界が涙で歪む。
その一言で、全てが報われる思いであった。
***
その後、ようやく落ち着いた新五郎から、信長は全ての経緯を聞いた。信雄と家康の宣戦布告。連合軍の侵攻。稲葉達が犠牲となった岐阜城城下の死闘。三法師軍の到着。開戦。白百合隊と伊賀者の乱戦。そして、信雄軍との戦い。
力丸から凡その経緯を聞いていたが、これによってより正確な現状を知ることが出来た。
「……その後、北の戦線を制圧することに成功した私達は、逃げた信雄の行方を探して西へと向かいました。北にも東にも逃げていない以上、敗走兵の心理から西へと向かうのではと推測したからです。…………そして――」
「此処へ辿り着いた……と」
「ははっ、こちらより強大な覇気を感じ取った故、もしやと思い馬を走らせました」
「……で、あるか」
信長は、眉を顰めながら信雄の首を見る。何故、あんな格好でこんな場所にいるのかと思ってはいたが、味方を置き去りにして逃げ出したとまでは考えていなかったのだろう。あまりにも情けない。その一言であった。
(……いや、もう茶筅は死んだのだ。であれば、何も言うまいて)
若干、溜め息を吐きながら不満を押し殺すと、新五郎は信雄の首と酒井の首を一瞥して口を開く。
「して、上様。そちらの首はいかがいたしましょうか? この者達の誰かに岐阜城まで持って走らせれば、速やかに塩漬けにすることも可能ですが? 」
新五郎が自身が連れてきた者達へ視線を向けると、信長はそれが良いだろうと頷いた。
「では、そうして貰おうか」
「ははっ」
小姓から信雄達の首を受け取った新五郎は、そのまま後ろを振り向いて太郎へと首を渡す。太郎は、布で包まれたそれ等を落とさないように身体に布で固定させると、早足で馬の下へと向かって行った。
その後ろ姿を見ながら、新五郎がようやく一段落つけると思った――刹那、そんな空気に割って入るように一人の兵士が陣地へと転がり込んできた。
「伝令ー!! 伝令ぇー!!! 」
『!? 』
その尋常ではない様子に、兵士たちは慌てて道を開ける。一応、何かあったら直ぐに動けるように警戒を解かない者達も多くいたが、その必死な姿と半ば潰されてしまった馬の様子に、これは敵ではないと信長は直ぐに見抜いてみせた。
「どうした! 何があった!! 」
「――っ、報告!! 東の戦線で動き有り! 両軍大将、井伊直政と森 勝蔵殿の一騎打ちが決着致しました! 」
『!! 』
場に緊張が走る。その勝負の行く末が、この戦の結果を大きく左右すると誰もが悟っていた。
「どちらだ! どちらが勝った!? 」
「勝者は、勝者は――」
二匹の赤鬼。その一騎打ちが遂に決着する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます