第311話
時は、三十分程前に遡る。
開戦より二時間半が経過。時刻は、午前十一時半。雲の隙間より顔を覗かせる太陽が大地を照らし、酒井忠次が森軍を滅ぼさんと大詰めに入った同時刻。東の戦場にて、二匹の赤鬼が死闘を繰り広げていた。
『ウゥゥォオォォオオオオッッッ!!!!! 』
空気を震わせる凄まじい雄叫びが響き渡ると同時に、二匹の赤鬼は眼前の敵を討ち滅ぼさんと突撃する。一歩足を踏み締める度に大地は陥没し、二本の朱槍が両者の間で交差すれば、周囲一帯へ凄まじい衝撃波が吹き荒れる。
森 長可、二十七歳。井伊直政、二十四歳。それぞれ織田家と徳川家を代表とする若武者は、二時間以上も激戦を繰り広げているのにも関わらず、その動きに一切の陰りを感じさせない。……いや、寧ろ開戦直後より動きのキレが増している。二度、三度と槍を打ち合う中で相手の動きやクセを見抜き、互いにより効率的な動きへ進化していっているのだ。
それでも、やはり歳の差が出ているのだろうか。二年前に元服を果たし、徳川軍の一翼を任されるまでに力を付けた直政は、更なる手柄を求めんと言わんばかりに果敢に攻めかかった。
「シャッ……オラァァァアアアッッ!! 」
繰り出されるたのは、大振りの横薙ぎ。普通に考えれば、そのような隙の大きい攻撃は相手の体勢を崩してから行うモノであり、無造作に初撃として採用するモノではない。ソレを躱されてしまえば、みすみす自分の方から隙を晒すようなものだからだ。
血の気の多い若者特有の、無謀極まりない力任せな攻撃。若さ故の過ち。直政の行動は、そんな風に馬鹿にされてもおかしくはないモノであった。
しかし、その一撃に込められた常軌を逸した力が、そのような常識など些事に過ぎないと切り捨てる。
唸りを上げながら迫る豪槍。勝蔵に、それを避ける選択肢はない。何故か。それは、槍の軌道と直政の柔らかな手首によるものが大きかった。
先ず一つ。特殊な槍の軌道だ。
直政の攻撃は、勝蔵の胴体を真っ二つに切り裂くかのように真横から滑るような軌道をしている。これを避けようとすれば、勝蔵は後ろへ下がるしかない。勝蔵程の武人であれば、必要最低限の動きで穂先を躱し、一気に相手の懐へ入って切り捨てることは可能である。
当然、初めは勝蔵もそのように直政の攻撃を躱そうとした。その結果が、勝蔵が身に付けている手甲に刻まれた鋭い傷跡だ。
「――チッ、またこれか……っ」
勝蔵は、あの奇っ怪な斬撃を思い出すかのように舌打ち混じりに槍を構えた。
手甲に刻まれた傷跡の正体。それは、直政の大振りの横薙ぎを避けた際に付けられたモノであった。
これこそが、勝蔵がむざむざ直政の攻撃を真正面から受け止めなければならなくなった理由。あの時、勝蔵は確かに紙一重で穂先を躱した。だが、直政の槍はまるで勝蔵の後を追うように直前になって軌道を変え、その勢いのままに勝蔵の喉輪を切り裂こうとしたのだ。
その摩訶不思議な槍の軌道は、まさに蛇の如し。直政の、人よりも遥かに可動域が広い柔らかな手首がなければ出来ぬ特殊な技術。初見殺しと言っても過言では無いそれを、ギリギリ手甲で防御した勝蔵が異常なのであり、普通であればそのまま喉輪を切り裂かれていたのは間違いない。
そして、槍を躱せば自然と直政に主導権を握られ、ここぞとばかりに連撃へと繋げていくことは明白。一度、ソレで痛い目にあっている以上、勝蔵には直政の攻撃を受け止めるしか選択肢はなかった。
「――っ!! 」
攻撃を受け止めた瞬間、勝蔵の表情が酷く歪む。その威力の程は、勝蔵の大きくヒビ割れた足下を見れば明白であろう。槍を掴む両手を伝って、痺れるような衝撃が全身を駆け巡っているのだ。たまったもんじゃない。
(……ヌゥウウ!! なんと力任せな一撃か。豪槍と謳われるだけはある――っ。これが、特に力の入れていない初手だと言うのだからふざけた話しよ! )
心の中で悪態をつく勝蔵。
だが、そんな勝蔵だって負けてはいない。
「――フッ」
直政の一撃は、相手にまるで鈍器で殴られたかのような重い衝撃を与える。そんなモノをまともに食らえば、然しもの勝蔵も持ち堪えるのがやっとであろう。槍と槍がかち合った刹那、直政はこのまま連撃に繋げんと勝蔵の槍を振り払うべく全身全霊の力を込めた。
――しかし、槍から、全く手応えが伝ってこない。本当に、槍が当たっているのかと疑いたくなる程に。
「なぁ!? 」
驚愕の眼差し。なんと、勝蔵は槍を受けた瞬間に全身の筋肉と視神経を連動させ、コンマ数秒のズレも許されない絶妙なタイミングで膝関節を通してエネルギーを足下へ移し、そのまま地面へと衝撃を受け流していたのだ。
それは、正しく武術の真髄。相撲、合気道、拳法と、ありとあらゆる国々の武術家達が目指してきた神の領域。
『!? 』
あの強烈な一撃をまともに受けて、微動だにせず。その凄まじい絶技に、一騎打ちの様子を遠目で見ていた兵士達は、信じられないとだらしなく口を開きながら呆然とし、目の前で見ていた直政も思わず目を見開いた。
(よもや、これ程とは――っ)
……もし、ここが戦場でなければ、直政は手放しで勝蔵を褒め称えるだろう。それ程までの御業であった。
それ故に、直政の調子は最高潮へと達する。
目の前に立ち塞がる敵は、今まで戦ってきたどの強者達よりも強い。この日ノ本の中でも五指に入るだろう。そう思うだけで、自然と笑みが溢れた。獲物を見付けた肉食獣のような、見る者を震え上がらせる獰猛な笑みを。
「ハッハッハー!! 素晴らしい! 素晴らしいぞ、森 長可!! 流石は、音に聞こえし織田の赤鬼! 相手にとって不足なしっ!!! 」
「――ッッ!! 」
筋肉が躍動する。刹那、大地が爆ぜたと思えば、既に直政は槍を振りかざしていた。
「ウラャァァァアアアアアアアアアッ!!! 」
獣のような血走った瞳が勝蔵を貫く。二連、三連、四連と攻撃が繋がっていく毎に、どんどん攻撃が熾烈になっていく。底知れぬ体力。桁外れの腕力。並外れた身のこなし。心の底から戦いを楽しんでいる戦闘狂は、もう二時間以上戦っているのにも関わらず、その戦意と闘気は衰える兆しを一向に見せない。いや、寧ろ高まり続けている。
直政に赤鬼の異名が付いたのは、彼が率いる部隊が赤備えだからではない。おびただしい量の返り血を浴びようとも、その身に数え切れない傷跡が刻まれようとも、嬉々として敵陣へ突っ込んでいくその姿に、敵は恐れをなして【赤鬼】と名付けたのだ。
(……この化け物めっ)
得体の知れない怪物を前に、勝蔵の頬が僅かに引き攣る。死を恐れぬ敵は、何よりも厄介な敵だと嫌になる程に知っている。それが、凄まじい馬力と無尽蔵の体力を備えているのだ。その脅威は計り知れない。
(……死ぬとすれば、此処であろうな)
勝蔵は、数多に分岐する未来の中に、己の敗北という結末があることを悟る。それも、僅かな可能性ではない。多くの分岐の中で、直政に切り捨てられる己の姿を幻視した。
それだけの力が、目の前の化け物にはあった。
――だが、それでも。
「俺が、勝つ」
朱槍を構える。勝負に絶対はない。ましてや、それが己と同等の技量であれば尚更。
それでも……それでも、勝蔵は己の勝利を口にした。敬愛せし主君へ勝利を捧げる為に、天下泰平の世を築く為に、この鬼を殺す。そんな決意を示す為に。
――刹那、勝蔵の身体から黄金色の闘気が溢れた。雷神の寵愛。光輝く未来を乞い願う者達の証。それを目の当たりにした直政は、口が張り裂ける程の獰猛な笑みを浮かべた。
「良い……良いぞぉぉぉおおおおおおっ!! 」
溢れ出す紅蓮の闘気。争いをこよなく愛し、命懸けの死闘の中でのみ生を謳歌せし者の証。平和な世の中では生きられぬ獣。悪意なき絶対正義。果てなき闘争心を、忠義という名の薪で燃え上がらせる。
「あぁ! 全ては、我が君の為にぃいっ!!! 」
寡黙? 厳格? 否、断じて否である。それは、直政の素顔を悟られぬ為の仮面。井伊直政。その本性は、敵対する者達全てを己諸共焼き尽くす地獄の業火。
「往くぞ、井伊直政ぁああっ!! 」
「来い、森 長可ぃいいいっ!! 」
『ウゥゥォオォォオオオオッッッ!!!!! 』
戦場中に響き渡る雄叫び。大地は爆ぜ、衝撃波が吹き荒れ、空間が悲鳴を上げるように軋む。
全ては、この時の為に。
絶対に負けられない戦いが、そこにはあった。
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