第162話

 さて、本編に入る前に一つ授業をしよう。


 諸君は、繁殖期の鹿の群れを見た事はあるだろうか。普段であれば、オスとメスで分かれて生息しているのだが、繁殖期になるとオスとメスの群れが合流する。


 弱肉強食が常の野生の世界だ。一頭の強いオスを囲うように、十数頭のメスが傍を寄り添うのは必然と言えるだろう。これは、オスとメスの寿命の差が要因の一つとも言われているが…………今は、少し置いておこう。






 かくして、一頭のオスが率いている鹿の群れだが、この群れ全体を獲物とする狩猟方法がある。『巻狩り』だ。


 これは、多くのハンターが、鹿を追う者と狩る者で分かれ、一度で大量の鹿をハントするのだが……一つ注意点がある。


 それは、群れのボス。オスを狙わないことだ。


 ボスが殺られれば、群れがバラけて無茶苦茶になってしまう。わざと逃がす事で、後続の鹿を狙い撃ちするのだ。






 さて、前置きはここまでだ。


 本題に入るとしよう。


 諸君には、本編に入る前に一つ頭に入れて置いて貰いたい。何も、ボスを殺られて群れがバラけてしまうのは、動物に限った事では無いのだ……とね。






 ***






 天正十一年 六月 新潟 新発田重家






 並み居る敵兵を薙ぎ払い、ただただ上杉景勝の首目掛けて突き進む。最早、俺の瞳には上杉景勝しか写っていなかった。


 逃げ惑うばかりの上杉兵。されど、中には果敢に進路を塞ぐ勇敢な者もいた。


「某は、上杉家かし……「邪魔だ!!! 」


 しかし、この程度の障害など鎧袖一触。確かに、その気概は賞賛に値いするが、最高速度にまで加速した馬を簡単に止められはしない。


 俺の愛馬は、黒丸なのだ。馬本来の気質は臆病な性格とは言え、数多の戦場を駆けた黒丸は、武士が前を塞いだ程度で動揺したりはしない。






 しかし、些か黒丸に疲労の色が伺える。


 首筋には大量の汗を流しており、段々と息が上がってきた。


「もう少しだ。もう少しだけ耐えてくれっ」


 縋るように首を撫でると、それに応えるように力強く鳴く。その健気な姿に、俺は唇を噛み締めた。


 幾ら、この時の為に幾つかの足場を固めていたとしても、元々の地質があまりにも悪過ぎる。正直、馬が駆けられる場所では無いのだ。新潟は。


 どれ程の距離を駆けたか分からない。どれ程の敵を薙ぎ払ったか分からない。


 分かっている事は、二つだけ。確実に、上杉景勝の首へ近付いていること。そして、既に黒丸は限界に達していることだ。


 後少し、後少しなのだ。もう少しで、上杉軍の本陣に斬り込める場所まで来たのだ。


「だから、だから! 頑張ってくれ! 黒丸!! 」


 手綱を強く握り締め、前を見詰める。上杉軍の本陣までの距離。そして、到達するまでの時間を計算する為に。


 




 だが、無情にも俺の視界には、『竹に二羽飛び雀』が描かれた家紋が、ゆっくりと遠ざかっていくのが見えてしまった。


 そして、俺達の進路を塞ぐように並ぶ上杉軍も。


 流石に、ここまで判断材料が揃えば察してしまう。


 彼等は、殿軍だ。その命が尽きるまで、時間稼ぎを続けるだろう。その見えてしまった未来の光景に、思わず空を仰いだ。






 ――あぁ……最早ここまで…………か。






 俺は、悔しくて仕方が無かった。頭を黒丸の首筋に付け、血が出る程に唇を噛み締める。直感的に分かっているのだ。この機会を逃せば、最早この手で仇を討つ事は出来ない……と。


 作戦は、これ以上無いほどに完璧だった。寝る間も惜しんで、何度も何度も試行錯誤を繰り返し、多くの家臣達がこの日の為に必死で取り組んできた。


 だが、だがっ! 兵力という物理的な壁を突破するには、後一歩足りなかった。これ以上進めば、もう自陣に戻れなくなる。勘五郎達まで、地獄に付き合わせる訳にはいかない。引き際を、誤る訳にはいかないのだ。






 手綱を引いて、ゆっくりと減速する。


 そして、充分に体勢が変えられる状態になると、黒丸に指示を出して勘五郎達と向き合う。勘五郎達も、俺の動きを察知して減速していた。


「これより、新潟城へ帰還する! 全軍撤退っ! 」


 叫ぶように命令を下すと、一目散に新潟城へ向けて駆ける。それに続くように、誰一人文句を言うこと無く俺の後を追う。


 突然撤退を始めた俺達に呆気にとられた上杉軍は、誰一人動く事は出来ない。俺達は、そんな上杉軍に構うこと無く駆け続けた。






 そして、充分に距離を取った時、横に勘五郎が並び、寂しげな表情を浮かべながら呟く。


「義兄上…………」


「言うな」


 勘五郎が話す前に、小さく制する。


「何も…………言うなっ」


「義兄上……っ」


 視界が滲む。後一歩届かなかった現実に、胸が苦しくて仕方がない。だが、進まねばならぬのだ。進まねば…………ならぬのだっ。


「人生とは、ままならぬモノよなっ」


 決して後ろを振り返らんと、歯を食いしばって駆ける俺達の後には、太陽に照らされて、淡く輝く雫だけが残された。










 努力すれば必ず報われる訳では無い。


 願えば必ず叶うとは限らない。


 それでも、人は夢へ手を伸ばすのだ。






 ***






 上杉景勝の首には、残念ながら手が届かなかった。しかし、上杉軍に大打撃を与える快挙を成し遂げた。


 …………それで終わっていたのなら、どれ程良かっただろうか。もう少しで、新潟城へ帰還出来ると思ったその時、前方に人影が見えた。年若い青年。確か、東側へ物見に出していた筈。


 その青年が発した言葉は、俺達に衝撃を与えた。


「報告っ! 東より、千を超える軍勢が向かって来ております! その背には、『丸に三引両』が刻まれた旗。蘆名家のモノと思われますっ!!! 」


 零れ落ちた竹筒が、嫌な音を立てながら砕け散った。














 ***






 血の海に沈む男を、じっくりと眺める青年。


 その青年は、見る者を魅了させるその美しい顔を真っ赤な血に染めながら、恍惚とした微笑みを浮かべていた。


「あぁ……あぁ……本当だ。こうすれば、もう殿の視線が誰かに向けられる事は無い。もう二度と、女狐共に向けられる事は無い。私が、私が、永遠に独占出来る」


 鮮血で濡れた刀を見詰めながら、何とも愛おしげに呟く青年。その肌蹴た胸元には、一通の文が見えた。






 ――感謝致します。…………官兵衛様ぁ。






 その青年の名は、大庭三左衛門




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