第161話
天正十一年 六月 新潟 新発田重家
手元の手網を引くと、愛馬がそれに応える。たてがみを優しい撫でれば、気持ち良さそうに震えた。
長年連れ添った愛馬。人目を引き付ける黒一色のこの馬は、一目見たときから運命を感じていた。
数多の戦場を共に駆け抜け、苦楽を共にした盟友。誰が何と言おうとも、俺の愛馬が天下一だと自負している。
「さぁ、共に駆け抜けよう黒丸。死ぬ時は、俺も同じだ」
そんな風に耳元で囁くと、黒丸は怒ったかのように首を振る。まるで、『死ぬ事を前提にするな! この愚か者めがっ! 』と、叱られているようで、苦笑しながら首を撫でる。
「すまん、すまん。許してくれ。…………今日は、今まで戦って来た戦場の中でも、屈指の過酷さを誇る。故に、少しだけ不安になっていたのかもな」
黒丸の首に顔を付け、ゆっくりと瞳を閉じる。
戦況は、こちらが優勢だ。今の所、俺達が講じた策通りの展開が続いている。
――だが、戦場に絶対は無い。
常勝無敗の名将が、ほんの少しの掛け違えで、命を落としたなんて話は幾らでもある。簡単な話だ。負ければ死ぬ。ただ……それだけ。
死にたくない。
だが、だが! それ以上に、この手で仇を討ちたい!
瞳を開けた時、全てを掛ける覚悟を決めた。
後ろを振り向くと、勘五郎を初めとした百名の騎馬隊が並んでいる。皆が皆、静かな闘志をその瞳に宿していた。
ふと投擲隊に視線を向ければ、部隊を任せた男が、力強く頷いて応える。それに頷いて返すと、もう一度勘五郎達へ向き直った。
「これより五拍後、一時的に投擲を止めさせる。その一瞬の隙を付いて、上杉軍本陣目掛け突撃を仕掛ける。雑兵に目を向けるな! 俺達が目指す首は、ただ一つ。上杉景勝である!!! 」
槍を敵陣へ向けて掲げると、一同拳を掲げながら雄叫びを上げる。
『おおぉっ!!! 』
練度は充分。士気は最高潮。後は、事前に打ち合わせていたように、罠を仕掛けていない道を突き進むのみ!
手綱を引き、黒丸の向きを変える。しっかりと前を向き、力強く上杉軍を見据える。
…………一拍。
槍を構えて手綱を力強く握り締める。
…………二拍。
周囲の音が小さくなっていくのを感じながら、瞳を閉じて深く息を吐く。
…………三拍。
高鳴る鼓動が、俺に進めと叫ぶ。
…………四拍。
ゆっくりと瞳を開けると、目の前の景色に、光り輝く一本の道が浮かび上がった。
…………五拍。
その瞬間、一気に手網を引き、俺の想いに応えるように黒丸が力強く戦場を駆けた。
「総員突撃ぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!! 」
『殿に続けぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!』
百名の騎馬隊が、一条の矢と化して戦場を突き進む。その流れは、激流の如く敵兵を飲み込んでいく。
「ひ、ひぃっ!? 」
「し、新発田……新発田じゃぁっ!!? 」
「あ、危ない! 避けろ避けろぉ! 」
霧の中から現れた騎馬隊に、前線で混乱に陥っていた上杉兵が阿鼻叫喚の騒ぎに陥る。逃げ惑う者。泣き叫ぶ者。戦意を喪失する者。進路に至る者は、当然のように羽根飛ばしながら、一切減速する事無く進み続ける。
今も尚写り続ける光輝くの道は、まるで神の導きのように真っ直ぐ奥へと続いている。
そして、遂にその時は来た。
視線の奥に見えたモノ。「竹に二羽飛び雀」の家紋が刻まれた旗が、風に吹かれて揺れていた。
その瞬間、身体の奥から熱いモノが込み上げてくるのを感じ、自然と槍を握る手に力が入る。
「かぁぁぁげぇぇぇかぁぁぁつぅぅぅっ!!! 」
今こそ、全ての因縁に終止符を打つ!!!
そんな主人の願いに応えるように、黒丸は、この日最速の走りで戦場を駆けた。
***
天正十一年 六月 新潟 上杉景勝
薄く戦場を覆う霧を、凄まじい速さで切り裂く石。手に当たり、足に当たり、顔に当たり、前線で戦う者達は、見るも無惨な姿に成り果てていく。
しかも、石を避けようにも、この霧のせいで敵影の姿が薄らとしか見えず、己の感覚に頼る他無い。
更に、ぬかるんだ足場は、重心を上手く取れない程に不安定であり、いたるところに落とし穴が仕掛けられている。このような最悪の環境で戦えるとすれば、日頃からこの土地に慣れている者だけだろう。
故に、その報告を直ぐに受け止める事が出来た。
「伝令! 百名程の敵兵が、真っ直ぐに本陣目掛けて向かって来ております。先頭を進むのは、黒き馬に乗る槍使いの武将。敵方総大将新発田重家と思われます!!! 」
全身を泥で汚し、主君へ危険を知らせる青年。その表情は、病的な迄に青ざめており、右手が大きく腫れている事から、前線で戦っていた事が伺えた。
おそらく、新発田重家の姿を見て、命懸けで我の元まで駆け付けてくれたのだろう。その忠義に礼を言おうとした時、重臣達から失笑が零れた。
「ふっ、何を馬鹿な。斯様な足場の悪い状況で馬が駆けられるものか」
「左様。何かと見間違えたのだろうな」
「寧ろ好都合。今直ぐに前線へ戻り、新発田の首を討ち取って来い。それが、貴様の仕事だ」
青年を小馬鹿にするような口調で吐き捨てる重臣達。そんな彼等に、青年は必死で状況を訴える。
「ま、誠です! 誠に、新発田重家が騎馬隊を率いて、戦場を駆けておるのです! その勢いは凄まじく、進路を塞ぐ兵士達を問答無用で薙ぎ払っております!!! 更には、戦場のいたるところに踏み固められた足場がございます。これは、間違いなく新発田の罠にございますっ! 」
身振り手振りに、その時の状況を伝える青年。それを疎ましく思ったのか、重臣の一人が声を上げようとする。
「貴様、いい加減に………………」
しかし、その言葉は続く事は無かった。我が、それを手で制したからだ。
重臣が黙った事を確認すると、視線を青年に向ける。
「して、何を言いたい」
すると、青年は額に泥が付くのも構わず、勢いよく頭を地面に擦り付けた。
「今直ぐに、春日山城へ御引き下さいませ! 新発田重家の勢いは凄まじく、最早本陣に到達するのは時間の問題。この戦いは、既に勝敗がついております。どうか、御引き下さいませ!!! 」
青年が言い終わると、陣中に静寂が訪れる。
そして、青年の剣幕に圧倒されていた重臣達が正気に戻ると、火を噴くような剣幕で怒号を撒き散らし始める。
「貴様! 無礼にも程があるぞ! 」
「我が軍が負けるだと、見誤るな!!! 新発田のような弱小国人領主に、大大名である上杉家が負ける訳が無いだろうが!!! 」
「左様。これは、到底許すことの出来ぬ狼藉。そこになおれ。その首、儂が叩き斬ってくれる! 」
一人は顔を真っ赤にしながら怒号を上げ、一人は唾を撒き散らしながら罵倒し、一人は刀に手を添えて今にも斬りかからんとしている。
そんな重臣達の剣幕を気にもとめず、青年は真っ直ぐに我を見詰める。その姿に、我は空を仰いだ。
――最早、ここまで…………か。
この時、我は撤退を決意した。
この青年の瞳には、信じるに値いする忠義を感じたからだ。
***
しかし、その判断はあまりにも遅過ぎた。
既に、景勝の首元には死神の鎌が添えられていたのだ。その事に気付くのは、もう間も無くのこと。
だが、予想外の状況に陥っていたのは、上杉軍だけでは無い。優勢である筈の新発田軍は、夢にも思っていなかっただろう。己の首元にも、死神の鎌が添えられていることに…………。
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