第160話
天正十一年 六月 新潟 上杉景勝
この日は、朝から霧がかかっていた。
薄暗く、湿った大地は容赦無く我等の足を取り、無駄な体力を消費させられる。
それ故に、だろうか。……否、辛気臭い表情を浮かべている我のせい……か。
そう言えば、出陣する度に与六が横まで来て、『表情が硬すぎます! それでは、下の者は安心出来ませぬぞ! 大将たる者、自信に満ち溢れた態度をとって下さいませ! 』と、耳にタコが出来る程に言われていたな。
そんな昔の光景を思い浮かべながら、周りを見渡す。目の前に並ぶ部隊の士気は、贔屓目に見ても良いとは言えなかった。
「もし、こんな時に与六が居たら……」
そんな未練がましい言葉を呟きながら、我は馬に揺られながら新潟城を目指した。
***
それから数刻後、敵襲を警戒しながら足を進める我等の前に、薄らと物陰が遠目に見え始める。新潟城だ。
勢い良く軍配を振りかぶり、宙で一時停止する。それに合わせるように、全軍が足を止めて身構えた。
流石に、敵の本拠地の目の前まで来ると気が引き締まるのか、先程よりは幾らか士気が上がっているのを肌で感じる。
その様子を見ながら、我も覚悟を決めた。最早、我が上杉家に道は無し。敵を薙ぎ払い、道無き道を切り開く他有るまい。
「死中に活あり。敵兵を討ち取り、己が未来を掴み取れ。…………全軍突撃」
最後の言葉を発すると共に、軍配を新潟城の方角へ振り下ろした。
『おおぉぉおぉぉぉおおぉぉおぉぉぉっ!!! 』
先鋒足軽隊三千五百の兵が、雄叫びを上げながら新潟城へ突進する。数で勝る我等が取った戦法は、力攻め。迫り来る織田軍の存在によって時間の無い我等には、短期間で攻め落とす他道は無かったのだ。
槍を構えながら突進する兵士達。それに続くように、次鋒騎馬隊二百が準備に入る。先鋒隊だけでも、新潟城に籠る新発田軍の三倍近く。このまま勝負が付く事を期待しながら、馬上から全線を見詰めていた。
しかし、我の期待は裏切れる事になる。
いっそ狂気的な捨て身の突撃を仕掛けていた先鋒隊の凡そ半数が、その場で横転したのだ。事態は、我の想定を遥かに超える状況へと変化していく。
***
天正十一年 六月 新潟 新発田重家
霧の中で薄らと見えていた敵影が、一斉に体勢を崩していく。上杉軍の装備は、時代遅れの旧式。即ち、槍兵重視の旧式部隊だ。槍兵は、全軍の半数以上にも昇る。それ故に、体勢を崩したり転んだ兵士達が持つ槍が、地面や味方、そして自分の身体に突き刺さり、阿鼻叫喚の騒ぎとなっていた。
そんな戸惑う声や怒号が響き渡る中で、俺は計画通りに事が進んでいる事に、思わず笑みを浮かべていた。
そして、隣りに居る勘五郎もまた、俺達の作戦にまんまと嵌った上杉軍の様子に、歓喜の声を上げていた。
「義兄上! 見事作戦成功です! 上杉軍は、落とし穴に足を取られ、部隊の統率は全く取れておりません! 」
「うむ。計画通りだ! 」
そう、俺達が用意した策とは落とし穴。圧倒的に数で劣る俺達が、大軍である上杉軍と真正面からぶつかるなんて自殺行為はする筈が無い。
故に、俺達はこの土地の性質を利用した。
片膝を立ててしゃがみ、左手で土を握る。力を込めたり緩めたりする度に、変幻自在に形を変える土。否、これは最早泥だな。この湿地帯ならではの性質だ。
「新潟は、川が氾濫すればここら一帯は水に沈む。農業に適さぬ不毛の地。地元民は、忌み地とまで呼ぶ程住みにくい土地だ。だが――」
一気に力を込めて、手のひらの泥が弾け飛ぶ。
「防衛戦に持ち込めば、この場所は難攻不落の名城へと化けるっ! 」
『おぉおぉおぉおぉおぉおぉっ!!! 』
そう力強く握り拳を掲げると、周囲の重臣達も同様に拳を掲げながら声を上げた。まさに、軍の士気は最高潮。これ以上無い仕上がり。ここまで計画通りに事が進んでいる事に、皆が皆、興奮しながら喜びを分かち合っていた。
確かに、皆の気持ちは良く分かる。幾ら上杉家が落ちぶれようとも、その兵数は脅威であり、物見の者達も大勢いた。そんな上杉軍の監視の目が厳しい中、大掛かりな罠を仕掛ける事は難しい。俺達が、この落とし穴を仕掛けたのは昨晩のことだ。
だが、たった一夜でも、方足が取られるくらいの小さな落とし穴なら、幾らでも作れる。湿地帯ならではの、柔らかい土だから出来たことだ!
唯一の懸念としては、罠を無数に仕掛けた故に気付かれる可能性が増えたこと。だが、神は俺達に味方したのか、この一帯は朝から深い霧に包まれていた。まさに、今この時こそ、上杉景勝を討ち取る千載一遇の好機!!!
俺は、腰に差した軍配を掲げると、周囲に響き渡るような声量で叫ぶ。
「一同、投石用ぉ意ぃいっ!!! 」
『おぉっ!!! 』
俺の声に続くように、横一列に並んだ兵士達が雄叫びを上げる。前方の霧の中からは、上杉軍の焦ったような声が聞こえてきた。
「構えぇ……………………」
一拍、二拍と静寂が訪れ、そして――
「ってぇぇぇぇぇぇぇええええっ!!! 」
『ぅぅぅうぅううおおぉおぉぉぉぉぉぉおおぉぉおぉぉぉっ!!! 』
混乱に陥る上杉軍に向けて、五百もの拳大の石が風切り音を鳴り響かせながら投擲された。
投擲を開始した直後に鳴り響く上杉軍の悲鳴。それに一切同情する事無く、第二射の用意に取り掛かる。
「第一部隊下がれ、第二部隊前に出ろ! 」
『おぅ!!! 』
訓練通りに、一斉に前後の部隊が交代する。第二部隊の兵士達の手には、第一部隊同様に拳大の石が握られている。
「第二部隊、投石用ぉ意ぃいっ!!! 」
『おぅ!!! 』
一糸乱れぬ様子で、準備に入る。
「構えぇ……………………」
先程同様に、一拍、二拍と静寂が訪れ――
「ってぇぇぇぇぇぇぇええええっ!!! 」
『ぅぅぅうぅううおおぉおぉぉぉぉぉぉおおぉぉおぉぉぉっ!!! 』
雄叫びを上げながら、五百の石が上杉軍を襲う。そして、投げ終わった者は、直ぐに後ろの者と変わり、次の準備に取り掛かる。
絶え間無い投擲の嵐は、確実に上杉軍の出鼻をくじき、士気を下げていく。作戦は、見事に成功していた。
たかが石、されど肉に当たれば傷が付き、場合によっては骨が折れる。打ち所が悪ければ、最悪死に至る。
彼の織田様が考案したとされる鉄砲三段撃ち。それを真似したものが、この二段式投擲。一組五百の兵、合計千人が絶える事無く投擲を続ける。全軍の九割を使った一世一代の大博打。もし、失敗したら敗北は確定していた。
だが、博打を打たねばこの兵力差は覆らぬ。後手に回れば、大軍に押し潰されるだけだ。
確かに、俺の策は地味だ。
織田様のように、奇抜な策を捻り出す事も出来ないし、高価な鉄砲を大量に用意する事は出来ない。それに、鉄砲を手に入れたとしても、使いこなすだけの時間も無かった。
それ故に、俺達は石を取った。
俺の策は地味だ。
だが、負けない。負けられない。
軍配を振りかざし、馬の手綱を引いた。
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