第159話
天正十一年 六月 新潟城 新発田重家
重々しい空気が漂う中、重臣を引き連れて兵の集合場所へと向かう。兵糧の類いは既に準備が整っており、皆が皆、出陣の時を待ち望んでいた。
そして、俺もまた、上杉家との戦いを待ち望んでいた者の一人。それ故に、胸の奥から込み上げて来た想いが、思わず溢れ落ちてしまった。
「…………兄上……安田殿っ」
唇を噛み締め、強く握り締めた右手からは血が滴り落ちる。無念の中、死んでいった二人の顔が脳裏を過ぎる。
楽しみも、悲しみも共に分かち合った。嬉しい時も、辛い時も共に支え合った優しい兄の死に際。上杉家による不当な評価に怒る俺と、一度決めた沙汰を覆したくない主家との板挟みになり、最終的に責任を負い自刃し果てた安田殿。
あの時、俺は何も出来なかった。布団に横たわり、涙を流す兄をただ黙って見送る事しか出来なかった。
安田殿の家臣から渡された遺言状を、俺は呆然と眺める事しか出来なかった。……今でも、その文を肌身離さずに懐へ入れている。
『新発田殿を仲間に引き入れたのは、他でも無い私。故に、新発田殿が不当に評価されてしまった責任を取らねばなりませぬ』
そんな言葉を遺し、果てた安田殿。
その無念を、その苦しみを、その嘆きを、その怒りを、決して忘れぬ為に!
――腑甲斐無い己への怒り。死んでいった二人への誓い。そして、上杉景勝への憎しみを原動力に、今まで血を吐く想いで足掻いて来たのだ!
込み上げてくる怒りに視界が染まりかける中、不意に誰かに右肩を掴まれた。
「義兄上…………」
「……勘五郎」
視線の先に居たのは、義弟である勘五郎であった。勘五郎もまた、上杉景勝に人生を狂わされた一人。俺が、上杉家へ反旗を翻した時、黙って着いてきてくれた信頼出来る戦友である。
その勘五郎が、静かに首を横に振り、優しげな微笑みを浮かべながら口を開いた。
「義兄上の抱える思いは、我等も同様に胸に秘めしモノ。どうか、おひとりで抱え込まないで下さいませ。共に、復讐を果たそうと誓った同士なのですから」
「勘五郎っ……」
そんな勘五郎の言葉に胸を打たれていると、周りの重臣達も続くように声を上げる。
「そうですぞ! 殿おひとりで、戦う訳ではございませぬ! 」
「左様。怨敵上杉景勝と矛を交えるこの機会を、殿おひとりに独占される訳にはいきませぬよ! 」
「我等、殿の盾となり、矛となりて、必ずや殿を上杉景勝の元まで送って見せます! 」
『共に戦いましょう! 殿っ!!! 』
次から次へと掛けられる言葉に、思わず目頭が熱くなり、天井へ顔を向ける。
「お…………お前たち……っ」
滴る雫が頬を伝い、ゆっくりと床に染みを作る。
俺は、本当に愚か者だ。込み上げる怒りに身を任せ、皆を率いる将でありながら私怨を優先しようとした。
それは、将に相応しき姿にあらず。兄上に、いつも『将たる者、常に冷静であれ』と、教えられていたと言うのに。
…………情けない!
だが、俺は本当に恵まれている。
兄上や勘五郎、安田殿や皆が俺を支えてくれている。情けない俺の背を押し、共に駆けてくれる。
これを恵まれていると言わずに、なんと言うのか。
俺は、目元を乱暴に拭うと、勘五郎達から背を向けて一歩踏み出す。
「共に駆けよう。あの日の誓いを果たす為に」
『…………っ! はいっ! 駆けましょう! あの日の誓いを果たす為にっ!!! 』
背後から聞こえる声が、また一歩俺の足を進めてくれる。これからは、怒りを力に変えるのでは無く、皆の想いを、願いを、そして己に誓った決意を原動力に進む。
誇り高き新発田家の頭領として、上杉家に戦いを挑む。この因縁に、俺が終止符を打つのだ!
真田様は、既に動いている。
後は、それに続くのみ!
「いざ出陣っ!!! 」
『おぉぉぉおおぉぉおぉぉぉっ!!! 』
***
天正十一年 六月 新潟 上杉景勝
湿った空気が漂う中、我等上杉軍は新発田重家討伐を掲げながら新潟城を目指していた。二年前に奪われた新潟津。そこは、先代が越後国発展の重要拠点と示した場所。それ故に、我は先代の正統継承者として奪い返さねばならなかった。
……だが、軍の士気は著しく無かった。
「殿。新潟城まで、およそ三里。敵影は、発見しておりませぬ」
「……………………」
放った物見が陣に帰還し、報告を上げる。彼は、我の言葉を賜りたそうにしていたが、それを遮るように甘粕景持が口を開いた。
「うむ。警戒は、怠るなよ。直ぐに、持ち場へ戻りたまえ。……殿、宜しいですね? 」
「…………うむ」
景持の視線に、小さく頷く。
「……では、某は持ち場へ戻ります故。これにて、失礼致しまする」
重臣が主君の言葉を遮る。そんな横暴な態度を咎めもせぬ我の姿を見て、物見の青年は不承不承ながら奥へと下がった。
その後、新発田との決戦を控えた我が軍は、この場に陣を敷き、軍議を重ねる事が正式に決まった。今も、我の目の前で景持がその場を仕切って意見を纏めている。
我は、それをただ黙って見ているだけだ。
そして、気が付くと軍議が終わっていた。
「殿っ! 明日、陽が昇ると同時に、新潟城へ向けて進軍するものと決定致しました。それで、宜しいですね? 」
こちらを見詰める景持の顔が、有無を言わせぬ迫力を秘めており、特に反論する内容でも無いので、頷いて肯定を示した。
「…………任せる」
「ははっ! 承知致しました!!! 」
深々と平伏する景持を後目に、陣を抜け出し空を仰ぐ。そこには、快晴には程遠い、雨が今にも降り出しそうな曇天が広がっていた。
いつから、こうなってしまったのだろう。
愛する妻を失い、唯一無二の友を失った。
妻は殺され、友は何も言わずに旅立った。
何故、妻が殺されねばならなかった。我は、例え菊に恨まれようとも、武田家に帰すつもりだった。
何故、友は何も言ってくれなかったんだ。我は、武田家に情報を流した事を責めるつもりは無かった。例え重臣達に止められようとも、武士として、上杉家当主として、武田家に正式に謝罪するつもりだった。
与六が、責任を負い自害する必要は無かったのに。
二人の死は、我の心を砕くには充分過ぎた。景持が提案した新発田征伐によって、包囲網を破る策を却下する気にもならなかった。
もう……全てが…………どうでも良い。
湿った風が頬を濡らし、空へと駆ける。
この湿気が、季節故なのか、はたまた我の心を写しているのか、それは誰にも分からない。
***
天正十一年六月二日。遂に、新潟城を射程圏内に捉えた上杉軍は、進軍を開始する。決戦は、六月三日。新発田軍との兵力差は五倍以上。上杉軍の勝ちは、揺るぎないものと思われた。
しかし、彼等は知らなかった。上杉軍が新発田征伐へ向かった数日後に、春日山城からほど近い二本木に陣を敷いて、滝川一益軍の進軍を食い止めていた上条景春が裏切り、滝川軍と合流して春日山城へ進軍を開始していた事を。
そして、越中国より柴田軍が海岸線沿いを通り、越後国へ突入。蘆名家と伊達家が、三千を率いて進軍を開始した。
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