第158話
天正十一年 五月 浜松城 徳川家康
雲一つない快晴。
梅雨入り間も無い今日この頃、浜松の地には季節外れの青空が広がっていた。これが、世を照らす吉報の兆しなのか、はたまた嵐の前の静けさか。
そんな空模様を眺めていると、万千代が襖を開けて顔を見せる。
「殿、本多様がお見えになられました」
万千代の報告に、いつの間にか約束の時間になっていた事に気付く。ゆっくりと茶を口に含み、喉を潤したところで、許可を出す。
「うむ。通せ」
「ははっ! 」
素早く横にはける万千代と擦れ違うように、呼び寄せた弥八郎が部屋へと入る。
「本多弥八郎正信。只今、参上致しました」
深々と平伏する弥八郎。その後ろで、襖が静かに閉じられた。
***
平伏する弥八郎を後目に、茶を一口飲む。未だ、中身が半分近く残った湯呑みは、多少の重みを指に伝える。中を覗くと、水面に揺れるワシの顔が見えた。
「上杉征伐……弥八郎は、どう見る? 」
小さく問いかけると、弥八郎は即座に答えた。
「はっ。織田家優勢かと、愚考致します。越中国の戦いで見せた織田軍の兵力。大筒を使った新戦法。それを実用段階まで軽量化させた経済力。周到に張り巡らされた策略。主家を見限った国人衆。隙の無い包囲網。そのどれもが高い水準で計算されたモノであり、上杉家の勝利は万に一つも無いでしょう」
淡々と要所を述べる弥八郎。その考えを聞きながら幾度も頷くと、気になる点を指摘した。
「隙の無い包囲網と言ったが、ワシには北側が空いて見える。越中国・信濃国・上野国から迫る織田軍のどれもが大軍なのに対し、越後国新潟から南下する新発田軍は少数だ。これは、衰退した上杉軍でも破れるのでは無いか? 」
意味ありげな視線を向けると、弥八郎はワシの言葉に惑わされる事無く、ソレを否定した。
「殿の申す通り、この兵力差は上杉家に付け入る隙を与えかねませぬ。されど、これは毒饅頭。万が一食べれば、諸共滅びかねませぬ」
「して、その心は? 」
「伊達家・蘆名家の存在にございます。彼等は、親織田派の大名家。未だ奥州・関東勢の取り込みが終わっていない現在。その後の御家安泰を考えれば、武功を挙げられるこの機会を逃す道理がございませぬ。故に、新発田は毒饅頭。織田家が仕掛けた罠にございます」
そう断言する弥八郎に、ワシは笑顔で頷いた。
「うむ。弥八郎の見解は、実に的を射たものである。ワシも、弥八郎の意見に賛成だ。新発田は、織田家が仕掛けた罠。手足をもがれ、足場を崩された上杉家には、その罠が光り輝いて見えるのだろうな。………………うむ。良く気付いたものだ。良く調べてあるな。見事である」
「ははっ! 有り難き御言葉、恐悦至極にございます! 」
深々と頭を下げる弥八郎に、ワシは満足気に頷いた。武道一辺倒な家臣達が多い中、弥八郎や小平太のような知謀に長けた存在は、実に重宝すべき存在であり、同時に、より一層の精進をして欲しい存在であった。
それ故に、此度の上杉征伐の見解を語って貰ったのだが……いやはや、ワシの想定以上の答えが返って来た事に喜びを隠せない。
弥八郎は、今後の徳川家に欠かせぬ存在になる事を、たった今確信した。
先ず大前提として、状況を正確に把握するには、多方面から見た情報と、それを正確に読み解く力が必要だ。
無闇矢鱈に情報を集めるのでは無く、多くの視点から見た多彩な情報を入手し、それを正解の形へと組み立てる。そこには、情報を得る為の伝手や、金、読解力など様々な要因が絡み合っており、弥八郎の総合力の高さが伺える。
それを裏付けるように、弥八郎の言葉には、確かな重みが垣間見える。それは、当てずっぽうや、偶々情報を得ただけでは、決して身につかぬモノ。信用に値いする自信が、そこに込められているのだ。
特に、大筒の軽量化を評価した点は好感が持てる。普通ならば、大筒を大量に使った派手な戦法に目を向けてしまうが、真に注目すべきは実用段階まで軽量化させた経済力にある。
ワシも、一度大筒を所有した事が有ったが、重く、整備も大変で、維持費も馬鹿にならない等の問題点が多々あり、そのあまりの使いにくさに手放した。
それを、織田家は研究の末に軽量化に成功し、実際に城攻めで成果をあげた。その事実に、ワシは開いた口が塞がらない。
研究とは、金を湯水の如く使い尽くし、途方も無い年月を掛けて形にするものである。無論、失敗すればそれまで掛けた金や苦労は返って来ない。最悪、家が傾いてしまう。
それを、あの童は躊躇無く行った。失敗が怖くなかったのか、成功すると確信していたのかは分からん。だが、その常軌を逸した思考と、それを実現してしまった底知れぬ経済力に、ワシは背筋が凍りつくような恐怖を感じた。
***
寒気を誤魔化すように、茶を一口飲む。不意に、弥八郎へ視線を向けると、不思議そうに首を傾げている。
弥八郎の考察は、概ね正しい。だが、一つだけ欠けているモノがあった。
それは、直江兼続の死である。
懐にしまい込んだ文が、熱を帯びたように熱く感じてしまう。昨夜、半蔵より送られてきた報せ。上杉家重臣直江兼続の自刃は、眠気を一瞬で覚ます程の衝撃を与えた。
今、上杉家は大混乱の真っ只中だと聞く。それも当然だろう。この騒動には、いくつもの不可解な点がある。
情報漏洩の責任を負い、自害したものと処理されたそうだが、その手続きの速さがあまりにも手際が良すぎる。まるで、最初から準備していたかのようだ。
それに、切腹するならば何故屋敷を燃やす必要があったのか。主君に許しを乞うならば、その首を届けねばならない。それをせずに、ただ腹を切って屋敷に火をつける。普通ならば、考えられぬ暴挙。彼の智将直江兼続が、斯様な判断を下すとは思えぬ。
……裏がある。そう考えるのが普通だ。
誰の策略かは分からぬ。あの童が、どこまで読み切っておるのかも分からぬ。
だが、裏に居る者は直ぐにでも動く。自らが作り出した好機を逃す筈がない。
…………それだけは、確かだ。
ワシは、今回は何もせぬ。
ただただ、上杉家の行く末を見届けるのみ。
動くのは、未だ先の話だ。
***
家康の懸念は正しかった。
羽柴秀吉、黒田官兵衛、真田昌幸の三名が、それぞれ伊達家、蘆名家、新発田家へ文を出した。この上杉征伐に、終止符を打つ為に。
しかし、その中の一通が土砂崩れに巻き込まれ紛失。目的の人物まで届く事は無かった。
それが、あのような結末を招くなど。この時、誰も知らなかった。
そして、天正十一年六月三日。遂に、上杉軍と新発田軍が衝突。兵数は、上杉軍六千五百に対して、新発田軍千二百。
因縁の戦いが、始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます