第157話

 天正十一年 五月 安土 羽柴邸 羽柴秀吉






 陽の光が鮮やかな夕焼け色に変わる頃、儂は安土城城下町に構える屋敷にて、今後の方針を固めていた。


 真田の躍進。上杉家の悪行。武田家の悲劇。


 当初の計画とは掛け離れた現状。儂が描いた筋書きは、以下の通りであった。


 強大な力を上杉家に持たせ、織田家に対抗する為に、奥州・関東勢との戦を起こす。


 その戦を織田家が鎮圧し、三法師様の御威光を高め、東を完全に支配下に置く。


 大雑把ではあるが、成功するだけの下地はあり、その為の種は仕込んでいた。奥州と関東は、諸大名の力を均衡にし統治する。北条家の領土は、最終的には半分に減らす。三法師様と藤姫様の子に武蔵国を継がせ、織田家の分家として関東管領に命じる。


 この計画を成す為にも、奴らには戦で疲弊して貰う必要があったのだ。織田家に対抗する気が無くなる程に、滅亡寸前まで追い詰める手筈は整っていた。






 だが、最早ソレは不可能に近い。


 それ程までに、上杉家は急激に弱体化した。魚津城攻略以降、足元から崩れ落ちるように没落していったのだ。


 今の上杉家には、謙信公存命時の半分にも満たぬ国人衆しか従っていない。殆どが、織田家に寝返ったのだ。


 このまま倒しても、一方的に蹂躙するのみ。これでは、奥州・関東勢の取り込みに多大な影響を及ぼす事は明白。


 力で押さえ込んでは、必ず後の統治に影響を及ぼす。天下を治めるとは、他の大名家からの信任を得る必要があるのだ。


『どうしたものか…………』


 そう、途方に暮れておった。


 アレが見つかるまでは。






 急ぎで用意した文を、眼前に平伏する男の手元へ置く。男は、素早く文を手に取ると、懐へ仕舞う。


「……では、出立致します」


 男は、いつも通りの様子で任務を受けた。その頼もしい姿に、儂は力強く頷く。


「うむ。任せたぞ」


「……はっ」


 男は、短く返事をする。


 すると、瞬きした時には、男の姿は消えていた。一切物音を立てぬその腕前は、まさに一流の忍びの姿であった。


 その姿に満足気に頷くと、深く息を吐く。


 隠密に特化した彼奴が、武田家の使者が最期に遺した文を手に入れたのは、まさに奇跡である。彼奴は、戦闘能力はからっきしだからな。


 それ故に、未だに儂の手にはツキが宿っておると言えよう。






 彼奴が立ち去った後、手持ち無沙汰になった儂は、手元に置かれた湯呑みへ手を伸ばす。すっかり温くなった白湯が、優しく喉を潤した。


 誰が暗躍したかは分からんが、当初の計画は白紙に戻った。だが、上杉家の悪行が記された悲痛な叫びが、幸か不幸か儂の元へと辿り着いた。


 いやはや、計画を最初から作り直す羽目になったが、結果として当初よりも格段に質が高まっている。


 あの文のおかげで、上杉家を滅ぼす正当な理由を手に入れたのだ。幾ら御託を述べようとも、今までの戦いは侵略に過ぎない。


 だが、今となっては、織田家は悪を滅ぼす正義の味方となったのだ。『武田家の無念を晴らすのは、織田家しかいない』と、民も、大名家も、朝廷も、皆が皆、織田家を期待しておる。


 この意味は大きい。今後の統治に、良い影響を与えるだろう。三法師様の性格を考えれば、最適な策と言えるかもしれん。


「上杉家は、自ら命綱を切り落とした。…………そうであろう? …………官兵衛ぇ? 」


 右手の襖に視線を向ける。すると、ゆっくりと戸が開き、官兵衛が静かに足を踏み入れた。






 ***






 天正十一年 五月 羽柴邸 黒田官兵衛






 襖を閉じると、乾いた音が静かに響く。視線の先には、全てを見通すような漆黒の瞳が、こちらを真っ直ぐに見詰めていた。


 気配を消していたにも関わらず、殿は瞬時に私の存在を見抜いた。その事実に、思わず笑いが溢れる。




 ――相も変わらず、畜生の如き嗅覚よな。




「いやはや、全くその通りにございます。上杉家が、あそこまで愚かだったとは…………この官兵衛、夢にも思いませんでした」


 肩を竦めながら、殿の対面に座る。その際にも、漆黒の瞳が私を貫く。その、私の一挙一動を見逃さぬ態度に、殿が何を問いたいのかを悟る。


 そして、その予感は正しかった。


「上杉征伐の裏で暗躍をしていたのは………………官兵衛、貴様だな? 」


 殿から放たれる覇気が、空気を震わせる。耳鳴りのような錯覚に陥る程に、両者の間合いには張り詰めた空気が流れている。


 そんな中、私は微笑みを崩す事無く、殿の仮説を肯定した。


「左様にございます」


 その瞬間、殿の瞳が澱んだ。


 座った状態から、瞬時に片膝を立てて抜刀。銀の煌めきが、真っ直ぐに私の首元へ走る。そして、薄皮一枚を切り裂いたところで、その刃は制止した。


「貴様、一体何を考えている………………」


 黒く澱んだ瞳の奥に宿る蒼き鬼火。私の発言次第で、この刃は簡単に私の命を狩るだろう。


 その事実に、私の口は三日月のように開いた。






「――――――――」














 ***






 流れる血を布で押さえながら、ゆっくりと帰路に着く。殿は、私の予想以上に真相に近付いていた。


「くっ……くく…………くくくっ…………くっはっはっはっはっはっはぁぁ!!! 」


 右手で顔を覆いながら、狂ったように笑い声を上げる。着々と成長を続ける主君の姿に、恍惚感に浸る。






 あぁ……やはり、貴方は王の器だ。






 貴方は、善では無い。如何に、幼き主君を支える忠臣になろうとしても、その身に宿る穢れを捨てる事は出来ない。






 いつか、貴方は己の闇に喰われるだろう。貴方は、織田家の家臣に収まる器では無い。今のままでは、貴方の器は決して満たされぬ。






 あぁ……早く、海を渡りましょう。






 貴方は、日ノ本程度で満足出来る器では無い。






 いつか、貴方は己の闇を抑える事が出来なくなるだろう。その衝動は、誰にも止められない。






 その時、私が待ち望んだ王が生まれるのだ。










 全てを喰らい尽くす暴食の魔王が――――




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