第155話
天正十一年 五月 安土城
雨音が梅雨の兆しを伝えてくる今日この頃。いつものように政務に励んでいた俺の元へ、思いもよらぬ一報が入った。
「…………それは、確かな情報かい? 」
上座にて、深々と平伏する藤へ視線を向ける。虚偽の報告をするとは思えなかったが、それでも確認せざるを得なかった。
しかし、起きた過去を覆す事など、神にしか出来ない。藤は、普段通りの落ち着いた様子で、淡々と続きを語った。
「はっ! 先日、上杉家へ遣わされていた武田家家老長坂釣閑斎率いる三十名の者達が、上杉家によりその命を奪われました。こちらが、その者達から回収出来た文にございます」
藤から差し出された文を受け取り、ゆっくりと広げて読み解いていく。そこには、上杉景勝に嫁いでいた菊姫の死と、それを隠蔽する上杉家の対応が書かれていた。
内容を全て読み終わると、丁寧に折り畳み手前に置く。評定の間には、重く冷たい空気が流れていた。
正直、信じたくなかった。幾ら敵対関係にあるとはいえ、『義』を尊ぶ上杉家が、こんなにも惨い仕打ちをするなんて考えられなかった。
だけど、この文にこびり付いた血の跡が、全てを物語っていたんだ。
「…………である……か」
縛り出すように呟くと、扇を握る手に力を込める。俺の胸の内は、上杉家に対する怒りよりも悲しみが多くを占めていた。非業の死を遂げた彼等の事を思うと、胸が締め付けられるような痛みに襲われる。
彼等の死が、俺と無関係だなんて口が裂けても言えない。菊姫の引き渡しを願ったのは武田家だが、それを許可したのは俺なんだから。
「……武田家には、此度の一件を知っているのかな? 」
尋ねると、藤は小さく首を振る。
「いえ、この情報が入ったのも昨夜の事でして、先ずは三法師様に知らせるべきと愚考した次第にございます。儂が、この情報を知る事が出来たのも偶然が組み合わさった結果。おそらく、武田家は、未だに長坂殿一行の帰還を待ち侘びておるやもしれませぬ」
『……………………』
藤の発言は、帰りを待ち侘びる武田家の姿を想像するに充分な重みがあった。俺も五郎左も、ただただ押し黙るのみ。それ程までに、嘆かわしい現実だった。
しかし、このまま黙っている訳にはいかない。俺は、五郎左へ視線を向けた。
「五郎左。直ぐに、武田家へ使者を遣わせよう。彼等には、真実を知る権利がある」
「……良いのですか? 」
五郎左の気遣うような眼差しを受け止めながら、しっかりと頷く。
「うん。構わないよ。余の詫び状を添えて、この文も武田家へ届けて欲しい。きっと、この文もそれを望んでいると思うから」
俺の考えを聞いた五郎左は、手を組みながら二度三度頷くと、深々と頭を下げて賛同を示す。
「…………ははっ! 承知致しました。直ぐに、手配致します」
五郎左が手を叩くと、一人の小姓が駆け寄ってくる。その者に、一言二言耳打ちすると、小姓は足早に退室した。おそらく、右筆等の準備に取り掛かってくれているのだろう。
その様子を後目に、手前にある文の表面を、そっと撫でる。
きっと、これで良いのだ。
ここで、織田家も彼等の死を隠蔽してしまっては、無念のままに死んで行った彼等が、あまりにも救われない。
それに、藤の言葉から察するに、彼等の遺体を引き取る事も出来ないんだろう。であれば、この文こそが、彼等の遺品と呼べる。死んで行った彼等にだって、家族や友人がいるのだ。その人達の事を思えば、この文は、武田家にあるべきモノだろう。
――願わくば、少しでも彼等の無念が晴れる事を。
そんな祈りを込めながら、黙祷を捧げた。
***
黙祷を終えると、ゆっくり瞳を開ける。そんな俺に続くように、藤も五郎左も瞳を開いた。二人も、思うところがあったのだろう。その表情には、少し後悔の色が伺えた。
「よもや、上杉家が斯様な強硬手段を取るとはっ! 奴らの考えを読み切っておれば、斯様な悲劇が起こる事は無かった! …………不甲斐ないっ! 」
ドンッ! と、握り拳を叩きつける五郎左。冷静沈着な彼らしくない姿だが、人一倍正義感の強い五郎左だからこそ、長坂一行の悲劇に対して責任を感じているのだろう。
だが、その後悔は誰もが抱える痛みだ。
「それは、余も同じだよ。五郎左だけが、背負う重荷では無い」
「三法師様……」
顔を伏せる五郎左を後目に、そっと顔を上げる。そして、ゆっくりと瞳を閉じた。
胸の内から込み上げてくるのは、多くの人々の泣き顔。二度と帰って来ない大切な人を、待ち続ける家族の顔。
これは、想像だ。見たわけでは無い。ただの妄想に過ぎないのかも知れない。だが、その涙を無視する事は、俺には出来なかった。
たった一雫の涙でも、決して見て見ぬふりはしない。それこそが、俺が進むと決めた道だから。
……瞳を開いた時、胸の内から歯車が噛み合う音が聞こえた気がした。
そして、答えを紡ぐ。
「人は、他人の大切なモノを、こうも容易く踏み潰してしまうんだね。その者が、自分の命より大切なモノでも、関係無く壊してしまえるんだ。それは、とても悲しい事であり…………」
――決して、許してはならない事だよ。
俺の言葉に、二人はハッとしたように顔を上げる。そんな二人に視線を向けると、ゆっくりと頷いて口を開く。
「余がすべき事は、彼等の死を嘆く事では無く、彼等の死を無駄にしないこと。余が、心得なくてはならなかった事は、犠牲を許容する逃げでは無く、理想の為に敵を討ち倒す覚悟だったのかも知れない」
「三法師様……」
堪らず声を上げる藤を、右手で制する。藤には、色々キツい言い方をされたけど、本当は逃げ道を用意していてくれたんだと、ようやく気付く事が出来た。
俺が、武田家を北条家を選んだとか、関東・奥州勢の取り込みとか、天下統一の為に必要な犠牲とか、手を変え品を変え、俺が許容出来るように工夫してくれていたんだ。まだ幼い主君の心が壊れないように、自分自身が泥を被ろうとしてくれていたんだ。
そんな藤の曇り無き献身に、ただただ頭が下がる。そして、無意識にでも甘えてしまった己の弱い心に、情けなくて涙が溢れる。
故に、これはターニングポイントだ。俺が、織田家として、天下人として、この日ノ本を背負えるか否か、その覚悟を決める時が来たのだ。
「藤。余は、まだまだ未熟故に、皆の力を借りねば満足に立つことも出来ない。だけどね。その為に、藤が犠牲になる必要は無いんだ。藤が、これ以上泥を被る必要は無いんだよ」
「……っ! し、しかし……それでは、御身は誰が守るのですか!? 儂はっ……儂は、良いのです! このような穢れた身の上で、三法師様の心を守る事が出来るのであれば、本望でございます! 」
叫ぶように身を乗り出す藤に、そっと言葉を被せる。
「それでは、藤は誰が守るんだい? 」
「そ、それは…………」
俺の問いかけに、藤は言葉に詰まる。
「藤が、余を守りたいと願うように、余も藤を守りたいと願っているんだよ。どうか、その事を忘れないでおくれ」
「……っ! 」
俺の言葉に、藤は目元を隠すように深々と平伏する。五郎左も、それに続くように平伏した。
「もう二度と、こんな悲劇を起こさせてはいけない。一刻も早く天下統一をする為に、余は上杉家を討つ。各軍団長へ伝令を走らせよ。…………総攻撃を仕掛ける」
『御意っ!!! 』
対上杉戦線。
戦況は、佳境へと入る。
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