第154話

 天正十一年 五月 春日山城城下 直江邸 直江兼続






 涼やかな風が居間を通り抜け、久方ぶりに心地よい夜となった今日この頃。皆が寝静まった時間帯にも関わらず、俺の自室には灯りがついている。


 普段であれば、油の無駄遣いだと夜更かしはしないのだが、今日は殿へ渡す文をしたためていた故に、気付けばこんな深夜になってしまった。






 ふと視線を向ければ、襖の隙間から月明かりが差し込んでいる。その光を追うように夜空を見上げれば、美しい月が顔を出した。


 先日までは、光り輝く満月が世を照らしていたが、今宵は右側が少し欠けているように見える。傍を漂う雲がゆらゆらと揺れ動き、時の流れと共に月の見え方が移りゆく。


 そんな風情溢れる光景に、心のしこりが消えていくのが分かった。






 長坂殿は、今頃甲斐国へ向かっているのだろうか。同僚達が、愚かな行為に先走る前に、出発している事を切に願う。


 そんな事を思いながら、胸を刺す痛みに耐える。


 武田家に、奥方様の死を教えた事は悔いていない。人として、武士として、人道に背く行いは出来なかった。


 だが、同時に上杉家を裏切ったと言われても否定出来ぬ行いをした自覚もあったのだ。あの密告は、間違いなく上杉家に不利となるモノ。責任を負い、腹を切る事になっても不思議では無い。


 無論。腹を切る覚悟は、とうの昔に済ませている。殿が、切腹を命じられれば、潔く腹を切りこの命をもって詫びる所存。


 されど、上杉家最大の危機と言っても過言では無い今、このまま無責任に死ぬ訳にはいかない。例え死ぬ事になったとしても、殿の傍に居ることが叶わなくても、少しでも上杉家の力添えになれるように、こうして文をしたためているのだ。






 生きて欲しい。


 その一心で――






 ***






 ぽつりと、垂れる雫が文字を滲ませ、溶けた墨が薄く広がる。それを見て、我に返った。


「……少し、感情的になり過ぎたか……」


 自嘲気味に、そう小さく呟く。滲んでしまった箇所を見返して、続きを書き続ける。どんなに不格好でも良い。少しでも、多くを遺す為に。










『上杉家の現状は、最悪の一言だ。何万もの大軍が越後国を包囲し、国境線付近に位置する国人衆は次々と寝返っている。同盟国も既に無く、援軍を期待するだけ無駄。


 更には、行商人も来ない故に物流は完全に止まっており、越後国内の農村は飢饉に近い状況にある。このままでは、上杉家が干上がるのも時間の問題だろう。






 ならば、どうするか。


 最早、上杉家に残された手段は一つ。この包囲網を突破する他無い。包囲網の弱点は、一点突破に弱い事。全軍を集中させ、その勢いをもって食い破る。


 であれば、狙いはただ一つ。


 最も兵力の低い北側、新発田重家だ。


 奴の兵力は、精々千二百程。それに対して、上杉家は七千五百は瞬時に動かせる。好機を見逃さず、神速をもってぶつかれば勝てぬ相手では無い。


 充分に、勝機はある。






 だが、これは――――』










 ………………そこで、一旦筆を置く。


 あれから、一切止まる事無く書き続けた故に、少々疲れてしまったようだ。殿への文以外に、遺言書や家臣達の今後の身の振りまで考えていたからだろう。


 溜まった疲労を解すように肩を回すと、いっそ気持ちが良い程に骨の鳴る音が響き渡る。右手で眉間の皺を伸ばすと、ようやく一息ついた気分になった。






 まだまだ半分程しか書けていないが、策自体は既に考え付いてある故に、あと半刻程で書き終わるだろう。


 包囲網を破る一点突破。


 それ自体は、ありふれた策。織田家の策謀を上回る奇策を打たねば、この状況を瓦解する事は出来ないだろう。






 一度、深呼吸をして息を整える。


 よもや、こんな言葉を、己の口から吐く日が来るとは思ってもいなかった。


「春日山城を捨てる。北へ北へ駆け抜け、織田軍の猛追から逃げ切る。奥州全土を巻き込み、数多の戦を各地で起こす。そして、織田家の眼が分散された頃合いを見て殿の行方を眩ませる。……それが、上杉家を残す最善手」


 全て吐き出し終わった後、胸に込み上げる思いと共に溜息をついた。


 上杉家居城である春日山城を捨て去る等、上杉家家臣として口にしてはならぬ禁句。されど、最早これしか道は無いと確信していた。


 奥方様が存命時であれば、新発田重家を打ち破った後に、織田軍と交戦。ある程度、織田軍に損害を与えた後に、和睦交渉に入る手段もあった。


 織田家は、毛利家と停戦協定を結んだが、アレは一年間の限定的なモノであり、その期限も迫ってきておる。毛利家以外でも、紀州勢や関東・奥州勢など、未だに敵の多い織田家の現状ならば、ある程度の讓渡を勝ち取る隙もあったからだ。






 だが、最早その手は使えん。


 無意識に力を込めた右手が、裾に深い皺を作る。


 武田家は、比較的最近になって織田家の傘下に下った大名家。幾ら敵対関係にあったとは言え、織田家が天下を統べるならば、無下な扱いは出来ぬ。


 であれば、その武田家の姫君が殺された事を、織田家が許す筈が無い。武田家とて、その立場故に引く気は無いだろう。


 全面戦争。


 最早、ソレは避けられぬ運命であった。






 ***






 上杉家の未来を憂いて顔が歪む。悔しげに唇を噛み締めると、一筋の血が流れた。


「少し……気を落ちつかせるか」


 そう呟くと、立ち上がり襖を開ける。


「誰か、誰かおらぬか? 」


 白湯でも用意して貰おうと声を上げるも、一向に返事が無い。周囲を伺っても、控えている筈の小姓の姿が見えず、不気味な程に屋敷全体が静まり返っておる。


 何かがおかしい…………。


 そう思った俺は、灯りを片手に周囲を照らす。


「誰もおらぬのか!? 誰か返事をせよ! 二郎! 二郎はぁ………………」


 その瞬間、凄まじい風切り音と共に何かが俺の右手を貫き、耐え難い衝撃と共に灯りが落ちる。


「がぁっ!? 」


 舞う鮮血。器の割れる甲高い音。右手を貫く矢の痛みに耐えながら前方を睨み付けると、闇夜の中で揺らぐ箇所を感覚的に悟った。


「誰だ! そこに居るのは分かっておるぞ!! 」


 すると、ゆっくりと影が揺らぎ始め、こちらへ向かって来た。眼を細めて凝視すると、次第に眼が慣れたのか輪郭が浮かび上がってくる。


 そして、月明かりが影を照らした。


「なっ………………お、お主………………」


 限界まで目を見開く。鼓動が、痛いくらいに高鳴る。先程まで感じていた怒りが、いつしか涙に変わっていた。


 縋るように、左手を前へ伸ばす。


「なんで…………お前がぁ…………」


 されど、その言葉は最後まで紡がれる事は無かった。背後から胸を貫くように、太刀が鈍く輝きを放っていた。


「…………と………………の」


 込み上げる血の気配。膝から崩れ落ちる身体。立ち上がろうとも、一向に力が入らず血溜まりを作るのみ。






 そして、瞳を閉じた。










 ***






 目の前で死にゆく友を眺めながら、小さく呟く。


「……お主は、あまりにも正し過ぎた」


 与六が善ならば、儂は悪だろう。与六は、道を踏み外す事は無く正道を歩んだ。


 だが、いつの日も善が正しいとは限らぬのだ。






 与六の遺体を一瞥し、屋敷へと入る。最早、我等以外生きている者がいない屋敷は、気味が悪い程に静かだった。


 そして、先程まで与六が居た部屋へと入る。


 中には、幾つもの文が積み重なっており、宛名を見ると与六の家臣宛だったのだと悟る。


 机に眼を向けると、書き途中と思われる一枚の文があった。


「…………なるほどな。これは、良い案だ」


 そう呟くと、文を懐に仕舞う。最早、この場所には要件は無い。


「直ぐに出るぞ。屋敷を燃やせ」


『御意』


 儂の指示を受け、家臣達が一斉に散る。そして、時を待たずして煙が上がり、火が燃え広がっていく。


 その様子を後目に、儂は屋敷を後にした。






 ***






 直江兼続、享年二十四歳。


 その死は、武田家への情報漏洩の責任を負い、自害したものと処理される事となる。


 直江兼続は、上杉家壊滅の要因を作った戦犯として、その名誉を汚される事となる。彼の死の真相が解明された近代まで、直江兼続とは裏切り者の代名詞であった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る