第153話

 天正十一年 五月 越後国 春日山城 長坂光堅






 菊姫様の引き渡し拒否。更には、面会すら許されぬ始末。幾ら敵対関係にあると言えども、あまりにも礼節に欠くその対応に愕然とする。


『義』を重んじていた上杉家の姿は、既にそこには無かったのだ。






 じゃが、儂等とて、そう簡単に引き下がる訳にはいかん。その思いは、後ろに控える与八郎も同じだったのじゃろう。無言で立ち去る直江殿の背中へ、声を荒らげながら怒りをぶつけた。


「お待ち下さいませ直江殿! 斯様な仕打ちが、許されるとお思いですか!? 直江殿っ!! 」


「……………………」


 しかし、与八郎の言葉は、直江殿に届く事は無かった。直江殿は、終始こちらを振り向く事は無く、部屋を出て行ってしまった。


 静かに閉じられた襖。力無く座り込む与八郎。畳に拳を叩き落とす音。悔しげに啜り泣く声。






 皆が皆、行き場の無い怒りに身を震わせている中、儂は手元にある布切れを見詰めていた。






 少し膨らみのあるソレを、そっと指先で触れる。あの直江殿が、儂以外の者達に見えないように渡してきたのだ。であれば、それには隠された意図がある筈。


 誰にも見えないように、そっと布を解き中身を確認する。そこには、衝撃的な品が収められていた。


「こ、これは……っ」


 儂の想定とは掛け離れた品に、思わず目を見開き固唾を呑む。持ち手が小刻みに震え、背中を冷たい汗が流れる。


 そこにあった物は、『白い帯が巻かれた、一房の黒髪』じゃった。


 震えながらソレに触れる。この時点で、既に嫌な予感はしていた。


 艶のある輝き。しっとりとした肌触り。『髪は、女の命』と言えども、これ程までに質の良い手入れを日常的に行える者は、限りなく少ない。


 即ち、この黒髪はやんごとなき御方の物。直江殿の周囲に、その条件に該当する女性はただ一人。もし、この白い帯が白装束を表しているのだとすれば…………っ!






 点と点が結ばれるように、事の真相が浮かび上がる。上杉家の対応。菊姫様の安否。直江殿の真意。その全てが一つに繋がっていたのじゃ!






 ――この髪は、菊姫様のモノ。






 直江殿は、上杉家重臣としての立場をおして、儂に……武田家に真実を伝えたのじゃ。危険を顧みず、己の『義』に従ったのじゃろう。


 それを意味する事は、ただ一つ。菊姫様は、既に亡くなられたということ。


 死因は、分からん。他殺なのか病死なのかも、定かでは無い。ただ、もう二度とあの笑顔を見ることが出来ない事だけは…………確かじゃ。






 溢れる涙が、畳に大きな染みをつくる。唇を強く噛み締め、必死に嗚咽を堪える。


 直江殿が、わざと何も言わずに立ち去ったのじゃ。先ず間違いなく、儂等を監視する眼がある。何処で聞き耳を立てているかも分からぬ今、泣き声を上げるのは、決してやってはならぬ悪手。


 本当ならば、涙を流す事も我慢せねばならぬ。






 されど…………されど、この涙だけは、隠す事は出来なかった。






 ***






 突然、唇を噛み締めながら泣き崩れる儂に、与八郎達は、"どうしたものか"と、焦っていた。人間、自分よりも感情を顕にしている者を目の当たりにすると、一周まわって冷静になるものである。


「あの…………釣閑斎様? 如何…………」


 恐る恐る手を伸ばす与八郎。しかし、その言葉は最後まで発せられる事は無かった。儂が、与八郎の眼前に左手を広げて制したからじゃ。


「…………話がある。ちこう寄れ」


 そう小さく呟くと、与八郎達は首を傾げながら傍へ寄ってくる。皆が皆、儂を囲うように固まった事を確認すると、もう一度指を口元へ添えると"他言無用"だと、念押しをしてから口を開いた。


「菊姫様が、お亡くなりになられた」


『………………っ!!? 』


 最初は、何を言っているのか理解出来なかった与八郎達だが、次第に事態の深刻さを悟ると、顔を青ざめて口を両手で塞いだ。悲鳴を出さない為じゃ。


 皆が皆、様々な感情を混ぜ合わせた視線を向けてくる中。儂は、先程の黒髪を皆に見せた。


「先程、直江殿が、儂に渡した物じゃ。おそらく菊姫様の形見じゃろう」


「そ、それは…………誠で? 」


 縋るように見詰めてくる男に、儂は小さく頷いた。


「確証は無い。もしかしたら、この黒髪は菊姫様の物では無いかもしれん。じゃが、今の儂等にそれを確かめる余裕は無い。直ちに、若様へ報告せねばならぬ」


 一呼吸置いてから、皆を見渡す。


「今晩、春日山城を発つ。各々、準備せよ」


 その言葉には、決意が込められていた。






 ***






 数刻後、陽はとうに落ち、闇が世界を支配する頃合い。その闇の中に紛れるように、三十名の男達が息を潜めていた。


 各々、軽装ながら旅支度が整っており、その表情には覚悟の色が伺える。


 それもその筈。儂等は、上杉家に無断で出発しようとしているのだ。もし見つかれば、すぐ様拘束されて真偽を問われるじゃろう。






 ……否、直江殿の態度から、最悪の場合殺される可能性が高い……か。






 自嘲気味に呟くと、与八郎達へ視線を向けた。


「これより、部隊を三班に分ける。四郎率いる十名は、これより上野国を目指せ。与八郎率いる十名は、これより信濃国を目指せ。儂は、十名を率いて甲斐国を目指す」


『はっ! 』


「一度走り始めたならば、例え仲間が目の前で殺されようとも決して足を止めるな。横を向くな。後ろを振り返るな。ただただ、前へ進み続けよ。己が懐に持つ文を、必ずや味方に届けるのじゃ! 」


『御意! 』


 懐に手を添えながら語ると、一同涙を堪えながら返事をする。皆が皆、この任務の過酷さを理解しているのじゃ。そして、死ぬとすれば、誰が真っ先に死ぬのか…………ものぅ。






 そして、月が雲に隠れ、より一層闇が深くなったその時。示し合わせたように、一斉に走り始めた。


「生きてまた会おうぞ! 」


 返事は、無かった。


 ただただ、懸命に足を動かし続けた。それだけが、彼等なりの誠意じゃった。








 そして、一里程走り抜けたその先に、おびただしい量の松明が儂を待ち構えておった。


「…………やはり、待ち伏せされておったかっ! 」


 悔しげに唇を噛み締めると、前方より一人の男が歩み寄ってくる。影で顔を見えなんだが、その佇まいから只者では無い事は明白じゃった。


「武田家重臣長坂釣閑斎殿と、お見受け致す。某の名は、山浦蔵人景国である。残念ながら、貴公等を通す訳にはいかない。ここで、その命を頂戴致す。神妙になされよ!!! 」


 その咆哮は、刃のように身体に突き刺さり、思わず膝を着きかねん重圧を与える。この時点で、儂は己が人生の結末を悟った。


「…………行け」


 小さく呟くと、儂が率いていた九名が一斉に走り始めた。それぞれ向かう方角が異なり、至る所で騒動が起こっているのが声で伝わってくる。






 眼前にて、山浦何某の顔が歪むのが分かった。


「無様な。何故、潔く諦めんのだ? 何故、斯様な生き恥を晒す? 俺には、とんと理解出来ぬ。何とも醜い姿だ。彼の信玄公も、草葉の陰で泣いていよう」


 そんな明らかな挑発に、刀を抜いて応える。


「醜態? 生き恥? 何とでも言うが良い。貴様等とて、謙信公の想いに背く愚か者よ。義理も人情も無いその有様に、彼の謙信公も嘆いていようぞ」


「なっ!? 」


 山浦何某の顔が、怒りで顔が歪む。磨き抜かれた銀色の輝きが、闇夜に浮かび上がる。


「泥臭く、粘り強く、最期の時まで己の正道を歩く。それこそが、武田武士の生き様じゃぁあぁあぁぁっ!!! 」


 腹から声を上げながら、刀を振りかざして突っ込む。己が人生の殆どを連れ添った愛刀が、今一度主人の道を切り開かんと輝きを放った。






 ***






 長坂光堅。別名釣閑斎は、甲斐国武田氏の譜代家老衆として、その人生を捧げた。


 享年七十一歳。


 春日山城を出発した三十名の男達は、そのことごとくが、上杉家の包囲網により殺される事となる。


 だが、神の気まぐれか、悪魔の悪戯か、その中の一人が持っていた文が、とある男の手に渡る事となる。


 その男に、名前は無い。ただ草の者と呼ばれる。出自は定かでは無く、過去を切り捨てた者。


 その男は、現在とある男に仕えている。




 


 その主人とは、織田家大老羽柴秀吉である。










 そして、釣閑斎達を襲った凶刃は、あの男へも迫っていた。




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