第152話
天正十一年 五月 春日山城 直江兼続
「……大変申し訳無いが、現在奥方様は御多用故、暫しお待ち頂きたい」
深々と頭を下げて、眼前に座る長坂殿へ謝辞を述べる。その声音は、自分でも驚く程に冷たく平坦なモノであった。
そして、当然の事ながら、このような対応で長坂殿が納得する筈も無く、その表情には明らかに怒りの色が伺えた。
「…………菊姫様の引き渡しは、既に、使者を通して両家の合意は取れている筈。先日も、武田家から先触れを遣わせ、日程の段取りも終わっております。それを、突然引き渡しを拒否し、菊姫様にも会えない等、言語道断。この対応は、あまりにも礼節に欠くものではござらんか! 」
「…………申し訳無い」
長坂殿の怒りが、言葉節々に込められており、俺は、ただただ頭を下げる他無かった。
頭上より降り注ぐ圧に耐えていると、不意に昨日の事が脳裏を過ぎる。奥方様が、亡くなられた日の事を………………。
***
今でも鮮明に覚えている。
血相を変えて屋敷に飛び込んで来た小姓の顔。流れる冷や汗もそのままに、ひたすら駆け抜けた廊下。泣き崩れる侍女。鮮血に染まる着物。朝日に照らされた奥方様。…………そして、呆然と立ち尽くす殿の姿。
その全てを、俺は生涯忘れないだろう。
それ程までに、衝撃的な出来事であった。
奥方様の死因は、喉元を短刀で切り裂かれた事による出血死。何故、凶器が短刀だと分かったのか。それは、ご丁寧に、奥方様の枕元に添えられていたからだ。刀身が、黒く塗られたソレを見て、誰もが間者の仕業だと悟る。
夜、灯りも無い中で的確に奥方様の喉元を切り裂く手腕。使用した暗器を、わざと置いていく性根。奥方様の抵抗すら許さずに、犯人は颯爽と仕事を済ませて立ち去ったのだ。
その類稀な暗殺術に恐れを抱くと同時に、胸の内を激しい憎悪が掻き乱す。
此度の一件、犯人の裏に居るのが織田家なのか、はたまた上杉家内部の者なのかは分からない。
だが、何も罪を犯していない奥方様を殺し、殿の心に生涯消えぬ傷を付けた事を許す訳にはいかない。
――奥方様の仇は、必ずこの手で果たす。
決意を固めた俺の瞳には、鬼が宿っていた。
だが、俺達家臣団は、直ぐに窮地に追いやられる事となる。武田家の一行が、既に越後国へ入っており、二日後にはこの春日山城へ到着するのだ。
目的は、奥方様の引き渡し。
その事実に、家臣団は顔を青ざめて俯いた。
***
一同頭を抱えながら俯いていると、不意に誰かの呟きが聞こえてきた。
"であれば、一旦各々屋敷に戻り、頭を冷やす方が良いだろう"
……誰かが言ったその意見に、誰一人反論はしなかった。問題の先送りではあるが、それ以上の意見が出ない故に致し方無し。
結局、その日のうちに結論は出ず、結論は翌日に持ち越された。皆が皆、思いもよらぬ自体の急変に頭がついて来ないのだ。
早朝、登城して広間へ向かう。
すれ違う小姓や侍女達は、一様に顔を青ざめて俯いており、春日山城全体を重い空気が包み込んでいるかのようだった。
この状況を乗り越える策を練りながら歩き、小姓に促されるがままに広間へ入る。そこには、既に多くの重臣達が揃っており、皆が皆俺を真っ直ぐに見詰めていた。
俺は、その時になってようやく悟った。
昨日、決議を明日に延ばしたのは、俺を省く為だったのだと――
そして、俺の懸念は正しかった。
「奥方様の死を隠す……だと? 」
「左様。わざわざ敵に弱みを見せる道理は無い。武田家の一行には、奥方様は急病故に会えぬと申せば良い」
「……っ! 」
その身勝手極まりない言い分に、歯を食いしばりながら怒りを堪える。道理で俺を省いた訳だ。もし、その場に居たならば、間違いなく反対していたからな!
俺は、遂に我慢出来ずに立ち上がって周囲を睨み付けながら吼えた
「確かに、武田家とは敵同士だ。だが、奥方様の引き渡しは、正当な手続きをもって取り決められたモノ。それを、こちらの身勝手極まりない理由で反故にする等、人の道理に反する行いではござらんか!!! 」
『……………………』
その場にいる殆どの者達が目を逸らすが、一様に口を閉ざしており、その姿だけでも俺の言葉は届かないのだと悟るには充分過ぎた。
己の非力さに思わず項垂れると、周囲から漏れる失笑。そして、前方から小馬鹿にしたように声をかけられた。
「そもそも時間が欲しいと申したのは、直江殿でござろう? であれば、奥方様の死を偽装して時間を稼ぐ事は、まさに渡りに船ではござらんか? 」
「………………」
先日の己の発言を逆手に取られた発言に、俺は何も言えずに押し黙るのみ。俺に出来た事は、怒りを堪えながら身を震わせる事だけだった。
「それでは、奥方様の死を隠蔽し、亡骸は夜中に寺へ運ぶ。皆の衆、それで良いな? 」
『異論ございませぬ』
「………………」
重臣の言葉に、一同賛同を示す。
奥方様の死を隠す事は、既に決まってしまった。もう俺でも覆せない。頼みの綱である殿は、すっかり意気消沈してしまい部屋から出て来ない。
俺は、誰よりも早く広間を後にした。
***
屋敷に戻り、自室に籠る。
陽が落ちても灯りを点けず、ただただ瞑想していた。家中の者達は、そんな俺を心配そうに見詰めていたが、今の俺には彼らに構う余裕は無かった。
謙信様ならば、殿ならば、斯様な人の道理に反する行いを、決して許しはしないだろう。恥ずべき考えだと、叱責してくださるに違いない。
人の道を踏み外した者に、正道を歩く資格は無い。必ずや、その罪を償う時が来るだろう。
……であれば、俺のすべき事はただ一つ。
懐に手を伸ばして布切れを取り出す。少し膨らみをもったソレを、静かに胸に押し当てて呟く。
その声は、誰に聞かれる事も無く、宙へと溶けていった。
***
長坂殿の怒りを一身に受けながら、あの日の決意を思い出す。俺は、袖口に手を伸ばすと、何食わぬ顔でソレを長坂殿の前に出した。
「……これは? 」
「…………………………」
困惑気味に首を傾げる長坂殿を後目に、俺は何も言わずに立ち上がると、部屋を後にした。
背後からかけられる声に耳を貸さずに、ただただ廊下を無心で歩く。
既に、事は起こした。もう引き返せない。
だが、この決断に悔いは無い。
少し気分の晴れた俺は、行きよりも軽やかな足取りで屋敷へと戻った。
その後ろ姿を見詰める視線に、気付かぬままに。
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