第98話
天正十年 六月 亀岡
明智光秀との戦いは、織田家の勝利で幕を閉じた。天守が燃えた時は一同愕然としたが、予想に反し火は回っておらず、腹を切った状態で事切れていた明智光秀を発見した。
その傍には、首が切り飛ばされた遺体が転がっており、後に九条兼孝の遺体だと判明。
もう一人の囚われた公卿である近衛前久は、無事に保護され、今は館の一室にて療養中だ。
明智光秀の重臣達だが、殆どが討ち死にする中、池田勝三郎の活躍により斎藤利三・藤田伝吾を捕獲。武功一番の大手柄だ!
やはり、気合いの差だろうか。勝三郎は他の人とは、今回の戦いにかける意気込みが違っていた。じいさんが襲撃を受けた時、家臣達の誰よりも怒りに燃えていたのが勝三郎だ。
確か、勝三郎はじいさんの乳兄弟。言わば、幼なじみだ。誰よりも、じいさんに対して深い友情を感じていたのだろう。
想いの力……それを、感じた戦いだった。
皆が戦の後始末をする中、俺は親父と共に近衛前久の元へ向かっていた。
「失礼致します」
「おぉ……岐阜殿、天女殿、良くぞお越しくださいました。この度は、大変ご迷惑をおかけして……」
「いえ、帝より御勅命を賜わりましたし、何より父上の旧知の友をお救いする事に躊躇いはありませぬよ」
「……立派に、なられましたな……」
部屋の中は、いたって質素な造りではあるが、心が休まる良い雰囲気が漂っている。
その部屋にて、床に伏せている近衛前久は、どうかやつれた様子。おそらく、明智光秀に囚われた事で精神的に追い込まれたのだろう。
どうやら、無下には扱われなかったようだが、幽閉されていた事は事実。それだけでも、トラウマレベルの災難だ。
ゆっくり療養してほしい。
暫く三人で談笑した後、不意に近衛が顔を伏せながら呟いた。
「……十兵衛は、どうなりましたか? 」
消えるような小さな声だったが、確かにそう聞こえた。俺は、親父と顔を見合わせてしまったが、近衛を安心させようと笑顔で話しかけた。
「ごあんしんなさいませ。みごと、ぎゃくぞくあけちみつひでは、とうばついたしました」
「…………やはり、そう……ですかっ! ぅぅ……十兵衛ぇ……ぅぅぅ……」
近衛は、絞り出すように呟くと、蹲りながら泣き出してしまった。俺達の想像とはかけ離れた反応に、無様に狼狽える他無かった。
この時、近衛が光秀の死を嘆いていた等、俺は夢にも思わなかった。
「あの、近衛様? 」
「十兵衛はっ! 死んではならぬ者でおじゃった! 誰よりも、織田殿を敬愛しておられた! 」
「……っ! このえさま! なにを…………」
近衛の叫びは、到底理解出来るものでは無い。じいさんの右腕でありながら、突如として裏切り親父までも命を奪おうとした。
そんな男が、じいさんを敬愛していた等、信じたくなかったのだ。
しかし、親父は近衛の様子にただならぬ事情を察したのか、立ち上がる俺を手で制した。
「…………近衛様、詳しくお聞かせ願います」
親父が姿勢を正したのを見て、俺も慌てて正座する。近衛は、多少鼻声になりながらも全てを語り始めた。そう……全てを。
「十兵衛は、九条兼孝に脅されたのだ。『十兵衛が織田殿を討たねば、他の者に命令するだけだぞ! 』っと。その折には、織田殿を朝敵にするとまで言っておった」
「く、九条様……が? そんな……誠でございますか? 」
「左様。十兵衛は、一人悩み苦しんだ後に織田殿を殺す覚悟を決めた。朝敵にされれば、今までの織田殿の苦労が全て水の泡になる。故に、十兵衛は謀反を起こした大罪人として、自らが汚名を被る事を決めたのだ」
それは、衝撃的な事実であった。
裏切り者だと、そう思っていた光秀が、そんな葛藤を抱いていたなんて知らなかったっ。
「では、何故光秀は近衛様と九条様を攫ったので? 」
俺が一人真相に打ちのめされていると、親父が一つの疑問を問いかけた。
すると、近衛は泣きそうな顔で話し始めた。
「全ては、この麿の不手際が招いた事でおじゃる。今、朝廷は織田家に対する感情が複雑に入り乱れておる。麿は、何とか織田家と朝廷を取りなそうとしたが、九条兼孝達はそれを良く思っておらんかった」
「対立していた……と」
「……うむ。織田家は、良くも悪くも朝廷への影響が大きいであろう? 故に、それを良く思わぬ輩も多い。あの時、麿は九条兼孝の手下に囚われておったのだ。それを、十兵衛は助けて亀山城に匿ってくれた……それが、真相でおじゃる」
近衛は、そこで話しを区切ると、勢い良く頭を下げた。身体にかけられた着物を力の限り握り締め、身を震わせながら泣き続けた。
「……申し訳無いっ! 麿が、麿が九条達を抑えていれば斯様な事態にはならなかった! 十兵衛が、裏切る事もっ! 織田殿や岐阜殿が重症を負うことも無かったっ! すまぬっ! すまぬぅぅぅっ!!! 」
泣き崩れる近衛を、俺は呆然と眺める他出来なかった。ただ、胸にあるのは光秀への気持ちだけだ。
九条兼孝だけが殺された理由が、やっと腑に落ちた。光秀は、ケジメをつけたのだ。己の手で、ケジメをっ。
近衛は、一頻り泣き終わると、懐から一枚の文を取り出し、俺達の前に置いた。
「これは、十兵衛に託された文でおじゃる。全てが終わった後に、渡してほしい……と」
「……失礼致します」
親父が、文を手に取り広げると、俺も覗き込むように読み解いていく。『詫び状』そう書かれた文には、光秀の想いが込められていた。
『上様、奇妙様、三法師様。この文を読まれておられる時は、全てを近衛様から御聞きなされたのでしょう。
この度は、私の不手際で皆様に多大な被害をもたらしてしまいました事、誠に申し訳ございませぬ。斯様な文にて謝罪の言葉を送る無礼、平にご容赦を。
朝廷の思惑を看破出来ず、己が責務を全う出来なかった私は、皆様に合わす顔がございませぬ。
それ故に、私は腹を切り責任を取るつもりでございます。如何なる事情が有ろうとも、主君に刃を向けた事は許されざる事にございます。
心優しき皆様ならば、私の境遇に同情してしまい、許しを与えて下さるやも知れませぬ。されど、私は自分自身を許せませぬ。
生涯の忠誠を誓った主君を襲撃し、心通わせた友を殺した私が、許しを乞う等言語道断。恥ずべき事にございます。
上様、奇妙様、三法師様……誠に、申し訳ございませんでした。私は、恩を仇で返してしまった不忠義者にございます。
せめてもの償いとして、悪を絶ってから地獄へ行く所存にございます。どうか、皆様に顔を合わす事無く黄泉の国へ逃げる事を、御容赦くださいませ。
斯様な大罪人の身で有りながら、些か不躾とは存じます。ですが、最後に皆様に御願いの儀がございます。
どうか、天下泰平の世を御築きくださいませ。日ノ本の民が、笑顔で天寿をまっとう出来る世を。理不尽に命を脅かされる事の無い世を。戦乱と言う悲しみの連鎖を、どうか断ち切ってくださいませっ。
それだけが、私の願いにございます。
散りゆく運命にあった私を、上様が救ってくださった事は、忘れる事はございません。
私は…………幸せでございました』
「…………っ!!! 」
滴る涙が文字を滲ませる。
光秀は、最後の時まで織田家への忠義を忘れる事は無かったっ! 文の最後に綴った一言に、どれだけの想いを込めたのだろうかっ!
光秀が苦しんでいる事を、俺は気付いて上げる事が出来なかった。あまつさえ、逆賊として討伐してしまった。光秀は、こんなにも俺の事を想っていてくれたと言うのにっ!
「すまぬっ! じゅうべえっ!!! わたしは、わたしはっ! ぅぅ……ぅぅぅ……ぅわぁぁぁぁあああああああああっ!!! 」
懐にある短刀を、涙ながらに握り締める。
十兵衛から貰った……短刀を……。
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