第95話
天正十年 六月 亀山城 明智光秀
仄かに立ち込める煙。燻るように燃える天守にて、私は静かに目を閉じていた。
纏う衣は白装束。己が業を断ち切る短刀が、面前にて輝いておる。
全てを終わらせる……その覚悟は、とうの昔に決まっておった。そう……あの始まりの日から。
天正十年 五月 坂本城 明智光秀
遡ること二ヶ月前、安土城にて行われる饗応役を任された私は、忙しい日々を送っていた。
徳川殿、北条殿は織田家の盟友。天下統一目前の今、東の支配を磐石にする為にも、生半可な饗応では織田家の名が廃る。
故に、私が出来る精一杯の持て成しをしよう。
その一心で、働き続けていた。
『天下統一』……本当に、乱世が終わろうとしているのだ。慈しみ溢れる長閑な世が……。私が、思い描いた世が……。
感無量……その一言に尽きる。私は、もう長くない。命尽きるその前に、天下泰平の世を見たい。
私の願いは、ただそれだけだった。
――背後に迫る絶望の足音にも、気付かぬままに。
ある日の夕暮れ、居城である坂本城に前関白九条兼孝様が参られた。
突然お越しになられた公卿様に、家中の者達は大慌てであったが、何とか一通りの持て成しをする事が出来たのは幸いであった。
「突然の訪問にも関わらず、これ程の持て成し。流石は、天下の織田家重臣惟任殿でおじゃるのぅ」
「ははっ! 有り難き御言葉、恐悦至極にございますっ!!! 」
「ほほほほほ。麿は満足ぞぇ〜」
扇で上品に口元を隠す姿に、やや眉が細まる。
九条様は、公卿様方の中でも上位に位置する御方。言わば、帝に最も近しい御方と言っても過言では無い。
そのような御方が、斯様な礼節を欠く言動は……。不敬にも、そのような考えが脳裏を過ぎる。
「して、本日はどのような御要件でしょうか」
「……本日は、朝廷の使者として参ってのぅ」
「…………左様ですか」
九条様が、小姓を一瞥した事を察すると、直ぐに人払いをすませる。他言無用、誰にも知られてはならぬ要件。
少々、嫌な予感を感じたが、朝廷からの使者を追い返す訳にもいくまい。私は、深々と平伏して九条様の御言葉を待った。
「織田信長を殺せ」
その一言が、全ての始まりだった。
「い、今……何と…………」
呂律が上手く回らない。全身に冷や汗が流れ、身体は意図せず震える。
今、九条様は何と仰ったのだ……。上様を殺せと言ったのか? まさかっ! そんな、聞き間違いでは無いのか……。
様々な憶測が脳裏を駆け巡り、無意識に現実から目を逸らそうとする。そんな浅ましい考えは、この直後に塗り替えられてしまう。
「織田信長を殺せ。これは、朝廷の総意でおじゃる。帝も、黙認しておる。帝を蔑ろにする信長を、これ以上捨て置く訳にはいかん」
「ば、馬鹿なっ! 上様は、誰よりも帝を敬っております! 今まで、上様がどれ程朝廷に尽くしてきたか! 九条様ならば、それはお分かりでしょう? 何故、そのような話しになるのですか!? 」
思わず立ち上がった私は、先程の言葉を撤回するように詰め寄った。きっと、誰かの策謀に違いないのだ! 上様のお気持ちを知っていただければ、きっと分かってくださる。……そう信じて。
だが、私の言葉は虚しくも九条様に届かなかった。
「織田信長を殺すことは、決定事項でおじゃる」
「そ、そんな……っ! 」
思わず涙ぐむ私に、九条様はニヤリと笑った。
「別に……惟任殿が殺さなくても、良いのでおじゃるよ? 」
「えっ……」
「その時は、上杉・毛利・徳川……筑前守にでも、この話しを持って行くとするでおじゃる。その折には、織田信長を朝敵に命じて……のぅ。朝敵となった信長に、どれ程の家臣が着いてくるか見物でおじゃるのぅ? 次は、誰が裏切るのか楽しみでおじゃる。ほほほ……ほっほっほっほっほっ! 」
「ま、待ってくださいませっ! どうか、どうか朝敵だけはお許しくださいませ! どうかご慈悲をっ! どうか、どうかっ!!! 」
必死に額を畳に擦り付ける。思いもよらぬ展開に、頭が追い付かない中。私には、もう九条様のご慈悲に縋る他無かったのだ。
しかし、返答の代わりに額に鋭い痛みが走る。流れる血で視界が染まる中、瞳には目の前に落ちた扇と、真っ黒な表情を浮かべた九条様だけが映った。
「ならば貴様が殺せっ!!! 織田信長を殺すのだっ!!! 貴様ならば、信長は警戒しない! 貴様がやれぇぇぇぇぇえええええええええっ!!! 」
「……ぅ……ぅぅぅ……どうか、考える時間を……くださいませっ」
ぽつりと呟いた嘆きは、部屋中に染み渡り九条様の耳に届いた。九条様は、扇を拾う形で私に近付くと、小さな声で呟いた。
「……明日、京へ帰るでおじゃる。それまでに、返答するように。……貴様に、選択肢等無いがのぅ。ほほほほほ」
「…………ははっ」
――私は、どうすれば良いのだ…………。
どれ程の時が、過ぎただろうか……九条様が退出した後、私は崩れ落ちた状態で動くことが出来なかった。
滴る涙もそのままに絶望感に浸っていると、そんな私を心配した左馬助が、部屋までやって来た。
「……失礼致します。殿? どうかなさいましたか? 顔色がよろしくありませんよ? もう御歳なのですから、無理は禁物でございますよ? 」
優しげな表情を浮かべて、身体を支えてくる左馬助。苦楽を共にした左馬助ならば……そう思った私は、九条様の件を全て語った。
最初は穏やかだった表情も、話しが進むにつれて変化していき、最後には顔面蒼白になっていた。
「ま、まさか……朝廷が…………」
口元に手を当てながら狼狽える。事の重要性を理解してしまった左馬助は、恐る恐る私に問いかけてきた。
「と、殿は……どう為さるおつもりでしょうか」
「…………朝廷のご指示に従うつもりだ……」
「な、何を言っておられるのですか!? 上様を殺すつもりなのですかっ! 御自身が、何を言っているのか、分かっておいでですか!? 」
「そんな事は、百も承知だっ!!!!! 」
詰め寄ってくる左馬助を突き飛ばし、涙混じりの絶叫を上げる。普段では、決して見せない姿に、左馬助は見るからに狼狽えていた。
「との…………」
「私だって、上様を殺したくないっ!!! だが、私が殺らねば上様は朝敵として討伐されてしまう! それだけは駄目だ! 朝敵だけは、駄目なのだ! 朝敵にされては、今までの苦労が全て水の泡になる。天下泰平の世は遠ざかる。それでは、あまりにも上様が報われぬ…………」
視界は涙で滲み、嗚咽混じりに全てを語る。上様の本来の姿を……。
「第六天魔王、冷酷非道……血も涙もない実力主義者だと、多くの者が思っているが、それは違う! 上様は、毎晩自らが殺した者達を思って泣いておられる! ただの一人も、忘れた事は無い! 」
「そんな上様は、戦の無い世を作りたいと本気で思っていた。『理不尽に命が奪われる事の無い泰平の世を作りたい』……と。そんな上様に、私は惹かれたのだ。同じ夢を抱く同士友として、上様の夢を共に追いかけたのだ」
「だから、私が殺さなくてはならないのだ! 朝敵にされる前に、私が上様を殺さねばならんのだ! それが……友としての責務……よ! 」
黙って聞いていた左馬助が、目を見開きながら詰め寄ってくる。あぁ……私の真意に、気付いてしまったのか……。
「ま、まさか殿は、死ぬおつもりですか…………」
「私が上様を殺した後に、奇妙様に討たれれば織田家の名誉は守られる。上様を失っても、奇妙様と三法師様がおられる。謀反人たる私を討ち、天下に織田家の磐石さを知らしめる。それこそが、最善の道なのだっ! 」
「そんなっ…………朝廷……そう! 朝廷を抑えましょう! 上様にこの事を知らせれば、共に兵を向けてくださる筈! 」
「無理だ……此度の一件、九条様の独断では無い。他にも協力者がおる筈だ。時間をかければ炙り出せるやも知れぬが、今は時間が無い。……それに、朝廷に兵を向ければ朝敵とされるのは明白。それでは、本末転倒。朝廷の……帝の信任無くば、天下を治める事は出来んのだ」
「ぅ……ぅぅぅ……それではっ……殿がっ」
万策尽きたように蹲る左馬助は、両手で顔を隠し涙を流す。
「殿は! 殿はっ! 逆賊の汚名を被るおつもりですか!? 天下の大罪人だと、民からも蔑みの目で見られる事になるのですよ!? そんなの、そんなの……あんまりでは……無いですかっ」
泣き崩れる左馬助の肩に、そっと手を置く。
「例え、上様と私の立場が逆であっても、上様は私と同じ選択を為さるだろう。志を共にした私達だから、通じ合う一つの信念。天下泰平の為に、人柱になる覚悟はとうの昔に決まっておった」
瞳を閉じれば、上様との輝かしい思い出が映し出される。あの日々は、もう戻って来ない。
一筋の涙と共に、決意を示す。
「私は、上様を殺す」
その後、九条様より五月二十八日。本能寺に、上様を呼び出す計画を知らされた。
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