第92話
天正十年 六月 京 織田信忠
襖越しに日差しが部屋を照らし、子鳥のさえずりが朝の訪れを知らせる。安土城を出発してから三日が経過、織田軍は京に到着した。
兵を休ませる必要もあるが、それ以上に本能寺と二条城で散っていった忠臣達へ、感謝と決意を誓いに行きたかったのだ。
……安土に住む兵達の多くが、そこに大切な人が眠っておるから……な。
少し目を開きながら考え込んでいると、不意に襖越しに声をかけられた。
「失礼致します。岐阜中将様、翠竹庵にございます。もう、お目覚めでしょうか? 」
「うむ……入って良いぞ」
「……失礼致します」
許可を出すと、翠竹庵が静かに襖を開けて入って来た。そして、いつものように側まで来て脈を測る。
「…………安定はしております。ですが、岐阜中将様。どうか、御無理は為さら無いよう…………」
「分かっておる。未だ、やるべき事が残っておる」
翠竹庵の心配そうな横顔を後目に、俺は立ち上がって部屋を出る。暫く歩いていると、曲がり角から愛する我が子の姿が見えた。
「あっ! ちちうえっ!!! 」
「おっと! ははっ! おはよう、三法師! 」
思いっきり抱き着いてくる三法師を、見事に受け止める。日に日に重くなっていく我が子の成長に、自然と頬が緩む。
「さぁ、朝餉の準備が出来ておる。一緒に参ろう」
「はいっ! 」
そう言うと、手を繋ぎながら部屋へと向かう。
……本当ならば、三法師を安土城へ置いて行くつもりだった。だが、この子は聡い子だ。きっと、今回の経験を自らの糧に出来る。
それ故に、三法師の同行を決めたのだ。無論、戦場には出さないが、おそらく攻城戦になるから心配は無いだろう。
それに、三法師の傍には一刀斎や宮本兄妹の剣士を初め、忍びも多く近辺を固めている。下手な大名よりも、強固な守りだ。心配はいらない。
それに…………。
――少しでも、この子に何かを残したい。
朝餉を済ませた後、本能寺と二条城へ向かった。あの日から二十日が過ぎ、その場に残っているのは焼け落ちた木材ばかり。
明智光秀謀反の一件で、動乱の京ではこれらを片付ける暇も無かったのだろう。
多くの忠臣が、ここで最後の忠誠を尽くした。そう思うだけで、胸が張り裂けそうになる。
一同、黙祷を捧げると妙覚寺へ向かった。
妙覚寺の片隅、そこに忠臣達が眠っておる。時間も無く、簡易的な墓であったが、どこか涼やかな風が吹く場所であった。
この墓を用意したのは、三法師の忍び達だ。明智軍が京を支配する最中、近隣住民に扮した彼女等が手分けしてつくったそうだ。
大きな墓には、一般兵が安置されており、周りには彼等の名前が刻まれている。
そして、その前に建てられた六つの小さな墓。それぞれ、右から蒲生賢秀・村井貞勝・村井貞成・蜂屋頼隆・森蘭丸・弥助の墓だ。
質素ではあるが、毎日清掃しているのか綺麗な墓だった。短期間に、これほどの心のこもった墓を用意してくれた彼女達に感謝を述べつつ、花を墓前に添える。
今、俺がこの場に居れるのも、全ては彼等の献身無くば成り立たぬ。
そんな彼等に、謝罪の言葉は不要であろう。寧ろ、彼等の忠義を侮辱することになる。
――であれば………。
「そなた等の忠義は、決して無駄にはせぬ。織田右近衛中将信忠の名にかけて誓う。必ずや、逆賊明智光秀を討ち、後世にそなた等の忠義を残してみせよう。天下泰平の世を築く礎となった。偉大な英雄として…………」
誓いの言葉が響き渡ると同時に、その場に居る家臣達も、それぞれの誓いを宣言する。
これは、一つの儀式だ。過去への決別では無い。未来を勝ち取る為に、大切な人へ誓うのだ。彼等が、輪廻を巡り現世に転生した時、慈しみ溢れる素晴らしき世で幸せに暮らして欲しいから。
その後、家臣一人一人が墓前に花を添えて行った。奥の方では、三法師達が小さな墓に花を添えている。
あれは、三法師の忍び達が眠っている墓だな。一人の女が、三法師に支えられながら泣き崩れている。……簪を、握り締めながら。
確か…………鈴蘭と言ったか。彼女もまた、大切な人を亡くした一人なのだろう。
…………名の知らぬ忍びよ。どうか、安らかに。
墓参りを済ませた後、思いもよらぬ客人が訪れた。妙覚寺のとある一室、正装に着替えた俺は朝廷からの客人を迎えていた。
「吉田殿、ご無沙汰しております。中々、顔を出せず申し訳ござらん」
「ほほほほほ。いやはや、一年ぶりでおじゃるのぅ。織田家は、年中戦続きでおじゃるしのぅ。致し方無いことでおじゃる」
「……忝ない」
吉田兼和…………公家及び神官であるこの御仁は、明智光秀と親交があった筈。そんな御仁が、正装を纏いて訪れるとは……。
それも、正式な朝廷からの使者として……だ。一体何が狙いだ?
「本日は、どういった御要件で? 」
「……うむ。明智殿の謀反について……のぅ」
吉田殿は、言い淀むように扇で口元を隠す。やはり、その件か……。これほどの騒ぎ、朝廷が認識していない訳が無い。
吉田殿は、少々周りを気にしながら、小さな声で話し始めた。
「此度の一件、帝も強い関心を持たれておじゃる。特に、織田様が重症と聞き、深い悲しみを感じておられた」
「なんと! 帝がっ! 」
思わず身を乗り出してしまうと、吉田殿は神妙な顔つきで頷かれた。
「そこで、何とか事態を収拾させようと、九条様や近衛様が動いてのぅ。しかし、数日前より両者共に消息を絶たれた。朝廷は、明智殿が深く関わっておると見ておる」
「前関白様と、前太政大臣様がっ!? 」
「うむ。主君を害するだけにとどまらず、公卿を害そうとは捨て置けぬ事態でおじゃる。よって、本日は帝からの御言葉を御持ち致した」
姿勢を正す吉田殿に合わせて、深々と頭を下げて帝からの御言葉を賜わる。
「天下を乱す明智光秀を討ち、囚われた公卿を助けよ。これは、勅命でおじゃる」
「ははっ!!! 」
帝の御言葉を噛み締めながら、身を奮い立たせる。必ずや、逆賊……朝敵明智光秀を討つ!
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