第88話
天正十年 六月 安土城
翌朝、目を覚ました俺は、顔を洗う為に井戸へと向かう。松に用意して貰った桶の水を使い、丁寧に身を清めていく。
その最中に、水面に映った己の顔を見て、思わず苦笑してしまった。
あぁ……なんて、酷い顔だろうか。こんな様子では、皆に心配をかけてしまう……。
こんな調子では、死んでいった彼等に申し訳が立たない。そんな気持ちを胸に、今一度水を掬った。
身を清め終わった俺は、とある一室へと向かう。今日の朝餉は、既に相手が決まっているのだ。
小姓に促され中へ入ると、中に居た人達とバッチリ目が合った。お市お姉様と、茶々・初・江の三姉妹達だ。
『三法師(様)っ!!! 』
「おはよう。しんぱいをかけて、すまな……」
「三法師っ! 」
俺が言い終わるより早く、お市お姉様が強く抱き締めてきた。小刻みに震えながら涙を流すその姿は、如何に俺を心配していたのかが伝わってきて、胸が熱くなる。
「ぅ……ぅぅ……無事で何よりじゃっ! 誠に……無事でっ……ぅぅ…………」
「おいちおねえさまこそ、ごぶじでなによりです。またあえて、ほんとうによかった……」
お市お姉様は、薙刀片手に皆を鼓舞したと言う。その姿は、まさに武家の女として勇ましいモノではあるが、この様子だと無理をしていたのだろう。
それは、当たり前のことだ。じいさんと親父の命が危ぶまれ、目と鼻の先にまで敵が迫ったのだ。恐怖を覚えても仕方が無い。
それでも、織田家一門衆として、幼い娘を持つ母として、気丈に振舞ってみせたのだ。
その勇気、人として尊敬する。
喜びを分かち合う俺達の間に、幼い少女達も飛び込んできた。
「三法師様ー怖かったですぅー」
「……心配だった」
「これこれ、そう焦るでない。焦らずとも、三法師はちゃんと此処に居るのじゃ」
「ちゃちゃ……はつ……ごう……」
瞳を濡らしながらしがみつく彼女達を、そっと引き寄せる。ただそれだけで、声を上げて泣き出してしまった初を皮切りに、一段と抱き締める力が強くなった。
つかの間の平穏を、確かめるかのように……。
その後、朝餉を終えた俺は、改めて彼女達と向かい合う。大切な話をする為に……。
「みなさまに、おねがいのぎがございます」
「……そのように改まって、一体何用かのぅ? 」
いつになく真剣な表情を浮かべる俺に、お市お姉様は自然と目を細める。きっと、これから話す内容を察しているのだろう。
茶々達は、そんな俺達の雰囲気に落ち着かない様子で見守っている。
これから話す事は、きっと彼女達を傷付ける。だけど、彼女達の事を思うならば言わねばならぬことなのだ。
「……いますぐにここをはなれ、ぎふじょうにむかってほしい。そこならば、ここよりはあんぜんじゃろう」
「三法師を、安土城に残して……か? 」
「…………そうじゃ」
すると、我慢出来ないとばかりに、茶々が俺達の話しに割り込んできた。
「戯けた事を申すなっ! やっと、やっと会えたのじゃぞ!? だと言うのに……何故……そのような事を言うのじゃ…………皆を置いて、妾達だけ逃げるなんて……誰が出来ようものかっ! 」
「……ここは、じきにせんじょうとなる。きけんなのじゃ。どうか、わかってほしい」
「嫌じゃ! 嫌じゃ! 嫌じゃぁああっ!!!」
「三法師様と、一緒が良いですぅー」
「……やだ 」
目尻に涙を浮かべながら叫ぶ姿に、俺は顔を伏せるしか無かった。手放したくない……もう二度と離さない……彼女達に抱くこの気持ちは、確かなモノだ。
だけど、それ以上に失いたくないのだ。皆、皆死んでしまった……弥助も、村井親子も、蘭丸も、蜂屋も……海も……皆死んでしまった……。
これ以上、大切な人達を失いたくない。故に、手放すのだ。……安全なところまで。
三姉妹のすすり泣きが部屋に響く中、今まで静かに目を瞑っていたお市お姉様が、不意に瞳を開くと俺に冷たい視線を向ける。
「言いたい事は、それだけかのぅ? 」
「………………はい」
俺は、思わず視線を逸らしてしまった。お市お姉様が、ブチ切れているからだ。
口元には薄い微笑みを浮かべているにも関わらず、その切れ長の瞳は一切笑っていない。凍てつくような覇気を纏いし姿は、まさに魔王の一族に相応しき風格である。
そんなお市お姉様は、俯く俺を一瞥すると容赦の無い言葉を発した。
「この愚か者がっ!!! 」
思わず背筋が伸びてしまう一喝に、身体を更に縮こませる。しかし、そんな俺の様子など知ったことかとばかりに、お市お姉様の説教は止まらない。
「戦場になる? 危険? そのような事、百も承知じゃ! 戯け者めっ!!! 籠城戦を経験した事も無いくせに、知った様な事を言うでない! 青二才めがっ!!! 」
「し、しかし……」
「口答えするでない! 」
「はい……」
何とか反論しようとするも、あえなく撃沈。お市お姉様の説教を甘んじて受ける。
「安土城を出て、岐阜城へ向かって欲しい……急にこのような事を言い出したのは、蜂屋達が死んだからでは無いのか? 違うか? 」
「………………」
図星だった……。蜂屋達の死は、俺には到底耐えられない事だった。
彼等の顔が脳裏に浮かぶ度に、胸を張り裂けるような痛みが襲う。いつまでも拭いきれない罪の意識……彼等を殺したのは…………俺だ。
「はちやたちは、わたしのせいでしんでしまったのだ。もう……これいじょう、わたしのためにたいせつなひとたちが、しんでほしくないのじゃ」
――だから、どうか分かって欲しい……
そんな俺の悲痛な叫びを、お市お姉様は鼻で笑って一蹴してしまった。
「蜂屋達が死んでいったのは、お主の為じゃと? 自惚れるなぁっ!!! 奴らが死んでいったのは、自らの意思で決めた事。その覚悟を、お主の勝手な妄想で汚す等、言語道断!!! 」
「確かに、奴らが敵と対峙したのは、お主の指示を受けたからであろう。だが、その事を奴らが恨むと思うか!? 『三法師のせいで死んだ』と、恨み言を言うような奴らか!? 答えてみよ! 三法師っ!!! 」
「……っ!!! 」
お市お姉様の一言一句に思いが募り、俺の心に直接響いていく。暗く重い霧が立ち込めていたその場所は、次第に晴れていき蜂屋達との思い出が映し出されていく。
「いいえ! あやつらは、そのようなことを、いうようなものたちではない! 」
あぁ……そうだった……あ奴らが、俺に恨み言等言うものか。寧ろ、『何を馬鹿な事を、言っているのだ』と、呆れた顔をしながら笑うだろう。
お市お姉様は、ようやく大切な事に気付いた俺に、苦笑混じりに微笑んだ。
「良いか、三法師。お主のすべき事は、過去を悔いる事では無い。奴らの意志を継ぐことじゃ。天下泰平を願って散った、奴らの意志を……のぅ」
「重いぞ、これは凄く重いモノじゃ。半端な覚悟では、到底背負えぬ。だがな、お主なら出来る。逃げるな! 戦え! 覚悟を決めよ! この安土に居る者は、皆……覚悟を済ませておる。さて……三法師、お主はどうするのじゃ? 」
俺は、閉じていた瞼をゆっくり開く。
答えは、既に決まっていた。
俺は、知らず知らずのうちに、蜂屋達の……お市お姉様達の覚悟を踏みにじってしまっていた。
……もう、覚悟は出来た。
「わたしとともに、たたかってほしい! 」
――未だ王の器は完成に至らず。
幾度の試練に身を委ね、時には停滞するであろう。されど、導き手により再び正道へと歩みを始める。
理想の王へと、至らん為に。
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