第89話

 天正十年 六月 安土城




 五月三十一日の夜に、明智軍が坂本城へ入ったと報告が届いた。兵の補充か休息か、畿内への大名達や朝廷へ何かを働きかける狙いもあるやもしれん。


 されど、やはり狙いはこの安土城だろう。


 じいさんに親父、そして俺。織田家の旗印に相応しい格を持った三人が、この安土城に集結しているのだ。謀反人である光秀が、狙わぬ理由が思いつかない。


 坂本城は、この安土城の目と鼻の先にある。二日もあれば、大軍で安土城を囲む事も可能であろう。


 家臣達との会議の結果、決戦は六月三日と仮定。少ない時間の中で、明智軍を追い払う策を考えていた。






 しかし、六月二日の昼頃、俺達の思いもよらぬ者が安土城へやって来た。


 明智光秀からの使者だ。




「お初にお目にかかります。某、明智日向守が家臣、藤田伝五郎行政と申します。本日は、三法師様への謁見を御許しいただき、恐悦至極にございます」


 藤田と名乗るその男は、四十代半ばの中年の様であり、瞳に強い意志を感じさせる男であった。


 新五郎によると、藤田は光秀の古くからの重臣。つまり、此度の謀反を事前に知っていた可能性は、限りなく高い。


 そんな男が、のうのうと俺の前に顔を出した。それだけで、腸が煮えくり返りそうな激情が身体中を駆け巡る。本当ならば、この場で斬り殺したい程にっ!


 ただ、真田が『情報は一つでも有った方が良いでしょう。大局を見据えて、ここは辛抱してくだされ』と、申した故に此度の謁見が成立したのだ。




「ごたくはよい。ようけんを、のべよ」


 苦虫を噛み潰したような表情を悟られないように、扇で口元を隠しながら問いかける。


 周りを見渡せば、家臣達の多くが憤怒の顔を浮かべながら藤田を睨んでいる。そんな、四方八方敵に囲まれているにも関わらず、藤田は依然として佇まいを崩すこと無く言葉を紡いだ。


「殿から三法師様へ、御願いの儀がございます。それは、安土城と三法師様を差し渡すこと。無論、城内の者達の命は取りませぬし、三法師様を無下に扱うことは致しませぬ。どうか、お呑みいただきたく存じます」


「……みつひでの、ぐんもんにくだれ……と? 」


「はっ、既に信長様並びに信忠様亡き今、織田家は立ち行かなくなることは明白。これ以上の抵抗は、残党共に御身を利用されるだけに存じます。どうか、未来を見据えた選択をなさいますように……」




 藤田が話し終わると、痛いくらいの静けさが大広間を支配する。誰も彼もが耳を疑い、言葉の意味を理解し、そして怒り狂う。


「貴様ぁぁあっ!!! 三法師様を差し出せだとっ! 上様への忠義を忘れ、のうのうと顔を出したかと思えば、言うに事欠いてソレかぁっ!!! 恥を知れ恥をっ!!! 」


「然り! その首、今ここで叩き落としてくれるわ! 」


「逆賊明智光秀に、貴様の首を送り付けてくれる! その無礼者を取り押さえよぉっ!!! 」


 怒りに染まった家臣達が、荒々しく立ち上がる。今にも掴みかからんとする家臣達を一瞥すると、俺は静かに深呼吸し、声を張り上げた。


「やめよぉっ!!! 」


 俺の声に反応した家臣達は、一同ピタリと動きを止めて俺の方を向く。困惑気味の彼等を後目に、俺は藤田と目を合わせる。


「そのようきゅうは、だんじてきょひする。みつひでにつたえよ。われらは、けっしてきさまをゆるさぬ……と」


「………………ははっ」




「さなだ。ていちょうに、おみおくりせよ」


「はっ! 」


 家臣達の中で、比較的冷静だった真田に指示を出すと、家臣達は声を荒らげて問いただしてくる。


「な、何故ですか三法師様! こやつは、織田家の宿敵明智光秀の重臣ですぞ! 見せしめに、首を落としましょうぞ! 」


「その無礼極まりない物言い、命を持って償わさせましょうぞ! 」


『然り! 然り! 然り! 』


「…………まて」


 憤りを隠せぬ家臣達を、右手で制する。確かに、藤田は彼等の逆鱗に触れた。彼等からすれば、到底許すことの出来ない所業であろう。


 だが、あまりにも感情的になり過ぎている。これでは、冷静な判断を取ることが出来ない。


 ここで止めておかねば、取り返しのつかない失態を犯すやもしれん。


「どのようなあいてでも、れいをつくさねばなるまい。ししゃをきりころしたとなれば、おだけのなにどろをぬりかねん」


『し、しかし……』


「よいな」


『…………ははっ』


「さなだ」


「はっ! では、藤田殿こちらへ」


「忝ない。それでは、三法師様。失礼仕る」


 不承不承ながらも怒りを抑え込んだ家臣達の間を、藤田が悠々と通って行く。その様子を眺めながら、先程感じた不可解な言動に思いを馳せる。




 光秀からの要求は、決して呑めぬ条件であった。否、最初から俺が要求を呑み込むとは考えていない……そんな、薄気味悪さを感じる。


 憤る家臣達をじっと見詰める様子は、まるでそうなるように仕向けた様だった。


 光秀の狙いが、イマイチ分からん。だが、真田の言う通り収穫はあった。光秀は、じいさんと親父の生存を掴めていない。


 これは、俺達が持ち得る最大のアドバンテージだ。




 今尚、明智光秀に対する悪態をつく家臣達を眺めながら、新五郎を横に呼ぶ。


「若様、如何なさいましたか」


「あかおにたいをつれて、ふねをいっせきうごかせるか? 」


「はっ、可能かと」


「こよいは、つきあかりもすくないであろう。やみよにまぎれて、さかもとじょうをほうげきせよ」


「ははっ! お任せ下さいませ」


 使者は返したが、許す等一言も言っていない。油断慢心、幾らでもするが良い。その隙に、貴様の喉元に喰らい付いてやる。




 そんな俺達の会話を聞いた家臣達が、一同驚愕の表情を浮かべている。


「さ、三法師様。先程の慈悲は、明智光秀の油断を誘う為だったのですか? 」


「うむ。やつのねらいはわからぬが……のうのうとさかもとにおるのならば、いまがこうきぞ! しろもろとも、うちはたしてくれる! 」


「な、なんと! お見逸れ致しました……」


「よい。しんごろう、じゅんびせよ」


「ははっ! 」


 足早に大広間を後にする新五郎。未だ騒めきが収まらぬ家臣達。それらを眺めながら、不意に懐刀を握り締める。一年前に、光秀から貰った懐刀を…………。


 戦わねば何も守れない。大切な人も守れない。


 光秀……俺は、覚悟を決めたぞ。


 貴様を殺す覚悟を。






 しかし、その夜。衝撃的な報告が舞い込んで来る。『明智光秀、坂本城を出る』


 耳を疑うような報告。よもや、使者を遣わしたのは安土の様子を探る為か!


 今尚、城下町に流れる雷神の逸話。『雷轟』によって、破壊された大岩。それらから、大砲による奇襲を察知したのか!


 策謀と戦略の達人……よもや、これ程とは……。


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