第87話

 天正十年 五月 安土城




「じいさまぁっ! …………ちちうえっ!!! 」


 薄暗い部屋の中で、微動だにせず床に伏せる二人を見て、俺は一目散に駆け寄った。


 胸の中では、最悪の想像が渦巻いていたが、近くへ行くと細く弱々しいがちゃんと息をしている事が分かり、ホッと安堵の息をつく。


「三法師様に、ございますね? 」


 不意にかけられた声に振り向くと、そこには白い着物を着た老人が座っていた。彼の佇まいから察するに、おそらく医者だろう。


「いかにも。そなたは、いしゃか? 」


「はっ! 左様にございます」


「じいさまと、ちちうえはどうなのだ? 」


「…………上様は、全身に軽い火傷を負っておりました。ですが、火傷そのものは大した事は無く、時間をかければ治るでしょう。問題は、その時に毒を吸ってしまったようで、意識を取り戻さないことでございます」


「……めざめるのか? 」


「…………最善を尽くしますが、如何せん厳しい状況でして、神仏の御加護次第かと」


「……………………」


 一酸化炭素中毒……そんな言葉が、脳裏を巡る。詳しい事は分からないが、火事の時一番多いのは一酸化炭素中毒での死亡だった筈だ。


 俺は、包帯に巻かれた手をそっと握る。


 温かい……この温もりこそが、じいさんの生きている証だ。きっと大丈夫。いつまでも、ずっとずっと待ち続けるよ。




「そして、岐阜中将様ですが、右肩に銃弾を受けてしまったようで、酷い熱に浮かされておりましたが、今は安定しており時期に目覚めることでしょう。弾丸が、後少しでも左に逸れていたなら御命は無かったことでしょう。蒲生様の槍に当たった事が、不幸中の幸いでございました。」


「そうか……ちゅうざぶろうのおかげか……」


「はっ! 代わりに、蒲生様の右肩が骨折してしまいましたが、安静にしていれば治るでしょう」


「いのちにべつじょうは、ないのだな?」


「はっ! 脈も安定しております故、問題無いかと存じます」


「そうか……ならばよい」


 俺は、そっと視線を下に向ける。静かに眠る親父は、苦しい表情を浮かべておらず、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせている。右肩の怪我は心配だが、この調子ならば大丈夫だろう。


「ちちうえ…………」


 早く目覚めて欲しい……そんな風に思っていると、不意に親父の瞼が開き、俺と目が合った。


「……案……ずる……な…………三……法師……」


「ちちうえっ! めがさめたのですか!? 」


「つい……先程……な」


「よかった……よかったぁぁ……」


 涙が溢れそうなのを、グッと堪える。せっかく目覚めてくれたのだ。俺の涙で心配させる訳にはいかない。


 親父の声が聞けた……優しい微笑みが見れた……ただそれだけで、心が軽くなっていくようだった。




 その後、先生の診断を終えた親父は、また静かに眠りについた。先生曰く、峠を越えたが未だ安静が必要みたいだ。


 ……明智光秀との戦いは、まだ終わっていない。むしろ、ここからが本番だろう。これから集まってくる家臣達の指揮は、俺がとらねばならぬ。


 俺は、決意を胸に秘め部屋を後にする。




 ――俺が、二人を守ってみせる。






 部屋を後にした俺は、次に負傷者達のところへ顔を出すことにした。安土城へ帰還した者は、じいさん達を入れて僅か十四名。内訳は勝蔵・忠三郎・久太郎・桜と、才蔵等赤鬼隊出身者だ。


 それ以外の者達は、どうなったのか分からない。


 俺の策が、どれだけ甘っちょろいモノだったのかを、思い知らされた気分だ。




 彼等は、襖を無理矢理取っぱらって作られた大広間に安置されていた。部屋の中では、多くの医者や女中が忙しなく動き回り、ことの緊迫さが伝わってくる。


 医者達の邪魔をしないように彼等の様子を見ると、勝蔵や忠三郎達は眠りについており、比較的安定しているようだ。


 そんな彼等の様子に安堵の息をつくと、一人の女中が申し訳無さそうに近付いてきた。


「……若様、申し訳ございませんが……」


「あぁ、すまないね。すぐにいくよ」


 これ以上此処に居ても、治療の邪魔になるだけだな。俺は、医者達に激励の言葉を送ってから退出しようとすると、不意に隣から声が聞こえてきた。


「ぅ…………ねぇ……さ…………ま」


「さくら……」


 声の主は桜だった。本能寺からじいさんを救い出し、見事安土城まで守り通してみせた彼女には、もう頭が上がらないな。


 ……彼女の過去の事は知っている。毎晩、うなされている事も……。亡くなった姉の願いを叶える為に、血反吐を吐く努力をしている事も。


 俺は、桜の前髪をそっと撫でて呟いた。


「おねえさんも、きっとよろこんでいるよ。よくがんばったね…………おやすみ……さくら」






 その後、夕餉を済ませた俺は、自室にて白百合隊の報告を受けていた。目の前には、簡単な日本地図が描かれており、碁石で敵と味方を表している。


「では、きないのだいみょうは、どちらにつくかきめかねている……と」


「はっ! 上様並びに岐阜中将様の御生存を、未だ真実か判断しかねているのかと」


「うむ……」


 細川藤孝・筒井順慶・高山右近・中川清秀。この四名の決断が、戦の勝敗を左右するな。


 左近・権六・藤の援軍さえ来れば、充分勝ちの目はある。それまで、この安土城を守らねばならない。


「きないのだいみょうたちへ、ふみをおくる。みな、よろしくたのむ」


『ははっ! 』




 彼女達の報告は続き、遂に戦死者の報告に入る。


「本能寺・二条城の戦いにおいて、およそ三千の犠牲が出ました。脱走兵の数も多く、特に徴兵された農民が殆どかと」


「名のある方々では、森蘭丸様、弥助様、蒲生賢秀様、村井貞勝様、村井貞成様、蜂屋頼隆様がお亡くなりになられました」


「そうか………………」


 脱走兵は致し方ない。彼等は、主君に忠誠を誓った武士では無いのだ。命を懸けて戦えと言っても、無理なことだろう。


 しかし、三千に蘭丸達も……か。


 これは、俺が殺した人達だ。殺してしまった人達だ。……すまないっ皆。俺が、俺が不甲斐ないばっかりに! 本能寺の変が史実通りに起きると! 光秀が謀反を起こす訳が無いとっ! そんな決めつけが招いた油断が、俺の責だ。


 俺は、強く強く裾を握り締めた。




「白百合隊にも、犠牲が出ております。亀山付近に配置していた十九名が死亡。京へと向かう道沿いに居た者を、集中的に狙われたことから情報が漏れていた可能性が高いです。……一重に、私の責任でございます。大変申し訳ございませんでしたっ」


 鈴蘭は、懐から血染めの簪を差し出し、深々と平伏した。しかし、鈴蘭を責めることは出来ない。明智包囲網は、かなり大掛かりな仕掛けだ。それだけのモノを、隠し通すことは極めて難しいと思う。


 俺の考えが浅はかだっただけだ。


「すずらん。おぬしはわるくない。むしろ、あたいせんきんのかつやくじゃ。おぬしらのけんしんなくば、わたしはここにおるまい」


「いえ、そのような事は……」


 俺は、鈴蘭の言葉を遮るように簪を手に取る。一目見て気付いていた。これは、海の物だ。海は鈴蘭の妹分であり、鈴蘭自身が選んで彼女へ送っていたものだ。


 明るく……活発な子だった…………。


「うみは……いってしまったのか……」


「と、殿……お名前をご存知だったのですね……」


「……かのじょたちの、いひんだけでもあつめてほしい。きちんと、まいそうしたい」


「……っ! ははっ! 」


 その場で、彼女へ黙祷を捧げる。


 口には、薄い血の味が広がった。






 報告が終わり皆が退出する中、梅だけがその場に残った。どうしたのかと、梅の元へ近付くと悲痛な表情を浮かべた彼女の姿があった。


「うめ、なにがあったのだ? 」


「……最後に、蜂屋様から殿へ遺言がございます。『約束を果たせず、申し訳ございません』っと、申しておりましたっ」


「やく……そく………………」


 その瞬間、脳裏にあの日の光景が広がった。




『若様が初陣をなさる時は、是非とも某に先陣をきらせてくだされ! 』




「あの……ばかものがっ! ほかに、ほかにもっというべきことがあるじゃろう! なぜっ! なぜっ! おぬしのような、ぜんりょうなものからしなねばならんのだ! ぅぅ……ぅぅぅ…………ぅわぁぁあああああああああぁぁぁっ!!! 」


 俺は、もう限界だった。溢れる涙を止める事が出来なかった。滴る涙もそのままに、崩れ落ち他無かった。


 蜂屋は、あの日の些細な事を律儀に覚えていた……。ずっとずっと、俺のことを思っていてくれたんだ。


 最後の言葉として、ソレを残すくらいに。




 ――その夜は、土砂降りの雨であった。




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